2014/01/04

「治安維持法」の教訓~『治安維持法 なぜ政党政治は「悪法」を生んだか』レビュー~

『治安維持法 なぜ政党政治は「悪法」を生んだか』を2日かけて読了
関連する用語などをWikipediaなどでたどりながらちびちびと読んで行った。


本書は著者の博論をもとにした一冊。
治安維持法の成立過程、そして暴走していった過程などを、かなり客観的に、史実を綿密に押さえて記述している。文章は生硬で教科書的な記述だが、バランスのとれた堅実な論述には好感が持てる。
わかりにくいところはネットで調べながら読むことで、当時の時代状況をより立体的に、リアルにとらえることができた。
高校の日本史で習った言葉が、さまざまな歴史の因果関係で結ばれていくのは快感でもあった。

以下メモ
・ロシア革命、シベリア出兵とそれに伴う米の暴騰、米騒動へ
・日ソ国交樹立と、ロシア革命の輸出、共産主義の脅威
・普通選挙運動と治安維持法の「アメとムチ」法案成立
・京都学連事件(最初の治安維持法適用は京大生)
・3・15事件と4・16事件(共産党員の一斉検挙、共産党員の「スパイM」の暗躍)
・日本共産党の崩壊による、一斉検挙から日常検挙へ、大量検挙による転向政策へ
・天皇機関説事件(学説に対する封殺)
・大本事件(宗教団体に対する弾圧)
・人民戦線事件(合法左派組織への弾圧)
・横浜事件(でっち上げ、小林多喜二への見せしめ)
・予防拘禁制度による拘束
・築地小劇場などのプロレタリア演劇への弾圧、京都大学俳句の会の弾圧!
・極右団体の暗躍(血盟団事件、5.15事件) 大川周明、


大正デモクラシーを経て、昭和前期のテロリズム全盛へ、そして軍部の台頭へと、日本が戦争に突入していったプロセスは空恐ろしい。
そもそも治安維持法は、ロシア革命の余波による日本の共産主義化を防ぐために、内務省及び司法省が協働で作成した法律だった。

大正14年(1925)4月21日に治安維持法が公布された。
この法律は、第1条第1項に「国体ヲ変革シ又は私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」とあるとおり、「国体」の変革と私有財産制度の否認を目的とする結社を組織することと参加したりすることを取り締まるものであった。つまり、当初は、国体を変革する「結社」を取り締まることを前提としたものであった。もちろん、その結社とは共産主義的な組織(共産党)を指していた。
成立したのは大正デモクラシー全盛、護憲三派内閣といわれる加藤高明内閣である。
若干の反対運動はあったものの、成立した当初はさしたる問題は取り上げられなかった。
成立時点では「反社会的な結社」を取り締まる法律が、個人の思想信条に立ち入るとは思えなかったからだ。
しかし、その後、治安維持法は、なし崩し的に拡大解釈、改悪をされていく。
「結社」への取り締まりから、「結社の目的に協力するもの(目的遂行罪)」も罪に問われることに。つまり、党の目的に寄与すると見なされるあらゆる行為に拡大解釈されて取り締まれるようになった。また、「国体」の定義が極めて曖昧で融通無碍に解釈可能であったがために、共産党だけでなく、マルクス主義の研究や極右団体への適用、国家を批判する学説への適用(天皇機関説)、宗教への適用(大本教などの新興宗教)など、あらゆる領域に渡って思想統制の道具として猛威を振るうようになる。

治安維持法は大正デモクラシーの「政党政治」、民主主義の中で生まれた。そして皮肉にも「政党政治」が弱体化していくなかで膨張、暴走し、そして「政党政治」の滅亡(大政翼賛会)を導くことになる。
治安維持法が生まれた当初、少なくともある程度の言論の自由は守られていた。
明治憲法下でさえ、自由民権運動、普通選挙運動、そして政党政治の中で、自由な言論の場は確保されていた。
治安維持法への反対意見を論じることはできた。共産主義などの研究も可能でさえあった。それを論じる自由な空気もある程度はあった。
しかし、政党政治が崩壊し、5.15事件、2,26事件などのテロリズムを経て、軍部が台頭していく中で、政党政治が守っていた自由な言論さえ圧殺されていくようになった。

読みながら一番感じたのは、暗黒時代といわれる戦前でも、それなりに政党政治が機能し、「言論の自由」を主張する余地があったということだ。
この映像は、日中戦争の拡大を憂慮した斉藤隆夫の「反軍演説」。
斉藤はこの演説をした後、圧倒的多数の賛成によって衆議院議員を除名させられた。

そして昭和17年の「翼賛選挙」において、軍部を始めとする選挙妨害をはねのけ、翼賛選挙で非推薦ながら兵庫県5区(但馬選挙区)から最高点で、2位と7000票以上の大差で再当選を果たし、見事衆議院議員に返り咲く。しかし、大政翼賛の挙国一致内閣、国家総動員体制になり、言論は死に絶えたのだ。
斉藤の他にも、尾崎行雄や浜口雄幸、幣原喜重郎など戦前の気骨ある政治家を知ったのも、この本のおかげだ。戦争に向かう日本にも、こんな真の「愛国者」がいたのだ。これから、尾崎らの本を読んでさらに知りたいと思った。

筆者は、結びに「治安維持法」の教訓を次のように述べている。

治安維持法は、暴力や革命の発生源となる結社を取り締まろうとした。しかし、本来は暴力から保護されるべき言論へと手を広げ、あまたの悲劇を招いた。
政党は言論の自由を守るために、共産主義思想よりも、まず不法な暴力(いわれのない誹謗中傷も含まれる)を排除することを目指すべきだった。
………
「国体」の定義は、日本の命運を背負わせるには漠然としすぎていた。政党は何を守るかを明確にするために、もっと真摯に言葉を選ぶべきだった。
現代社会においてまず尊重されるべきは、個人の言論であり、そのためには思想、出版、結社の自由は皆大切である。そして個人の言論を不当に抑圧することは方法を問わず許されない。そのような結社はやはり規制されるべきである。
治安維持法の「悪法」としての歴史は、戦前の政党政治の全盛、衰退、消滅の歴史とも重なる。そして、自由と民主主義を守る上で何が必要かを、我々に遺してくれた。