2015/02/21

理論が先行する解釈は常に退屈だ 〜理論の発見か、理論の確認か〜

宮澤賢治の作品は一読して意味が分からない。難しい。けれども何か惹かれるものがたしかにある。
『やまなし』『風の又三郎』なんかも、読んでいてさっぱり。何が言いたいのかよく分からない。そこで、ネットなどでいろいろ調べてみるわけだ。調べると、「これは法華経の世界だ」とか「菩薩行だ」とか、高説をのたまう解説がある。そういう理論先行の解釈は、「どうせ始めっからこれを言いたかっただけでしょ」とも思わせる、退屈したものが多い。
「賢治の世界からの理論の発見」ではなくて、「賢治の世界による理論の確認」になってしまっている。
そういう子供だまし??の高説は、一度読むとまあ興味深いし、勉強にはなるが、そう何度も聞かされるとうんざりしてしまう。