2013/05/13

言葉が軽すぎないか

久しぶりに腹が立った。

とあるSNSで、ある情報が「シェア」されてきた。
ある前途が有望な若者が末期がんに冒されたという。
彼の望みは、がんのおかげで絶たれそうになっている。
末期がんと闘う彼に応援のエールを!
さらには、彼の苦境を多くの人にシェアしてほしい!
というもの。

私は、得体の知れない感情に襲われた。
このもやもやはいったい何なのだ?

結局、私は、その情報を「シェア」することはなかったし、励ましのメッセージも書き込まなかった。

いろいろなもやもやが、私の中で渦巻いている。
・「末期がんと闘う」彼が、この{シェア」のおかげで何千、何万もの人から「励ましの言葉」をもらうとする。それは彼にとって本当に望んでいることなのだろうか?
・私にとって全く面識のない、彼からも全く関係のない「私」が発するメッセージに、いったいどんな価値があるのだろうか?
・クリック一つで拡散する「善意」が、彼が引き受けようとする状況と引き比べて、あまりにもアンバランスではないか? 
・もしかしたら、そのサイトを見た多くの人は、瞬間、「あっかわいそう」と感じ、その後、一瞬にしてすばらしい善意が芽生え、「がんばって」とコメントし、そのコメントを打った直後には、彼のことなんて忘れてしまっているのではないか?
・がんで亡くなる人なんてこの世界にごまんといる(ちなみに私の母もがんで亡くなっている)。なぜ彼だけに、無関係の私が、メッセージを送らなければいけないのか?
・もし、自分の友人なり家族が同じような状況になったときに、ネットに書き込んだような言葉を、果たして本人に言うことができるのか?
・もし私ががんに冒されても、こんなかたちでさらし者には絶対になりたくない。何万人の得体の知れない人から励ましのコメントをもらっても、全然うれしくない。むしろ、ひっそりと、静かに自分の人生を全うしていきたいとさえ思う。
・しかし、なぜか、この情報が「シェア」されたとき、そしてそれを私が「無視」して何も書き込まなかったとき、一抹の後ろめたさを感じた。見ず知らずの彼にちらっと「同情」さえもした。書き込まないことは「悪」ではないかとも感じた。
・この情報を「シェア」している人は、いったいどういうつもりで拡散しているのだろうか。私には全く理解できない。

つまりは、言葉が軽すぎないか、ということなのだ。
言葉は、たった一人の固有名を持った「私」と、同じように、たった一人の「私」との間に成立する、目に見えない「何か」が形を持ったものに他ならない。
固有名を失った記号だけが、からっぽの「善意」に乗っかって浮遊している。
私には耐えられない。


近ごろ都に流行るもの。涙の投げ売り、善意の押し売り、感動のたたき売り。
涙も、善意も、感動も、一人称で語られるものなのではないか。