2013/05/26

教育研究団体が、胡散臭い宗教みたいな信者を生むステップ

1、今の教育は間違っている、とか、あなたの授業はなってない、教師の資質が問われる、などと現実の全否定を迫る。

2、「その原因は……だ」などと問題をおそろしく単純化する。

3、この理論(教祖)に帰依すれば絶対大丈夫!と、安易に「絶対」という言葉を使う。

4、批判が言いにくい空気の信奉者たちのコミュニティのなかで「ただ一つの救いの物語」がリピートされる。

5、「教義」と、現実とのギャップに気づいても、「ダメなのは修行が足りないから」とか、「おかしいのはこの現実」と、現実を繊細に内省することができなくなる。

6、自分は選ばれた人間だから、周りはみんなバカ、とか、こんな勉強してないちんけな同僚から学ぶものなど何もないと豪語し、周りから浮く。

7、ついにどうにもならなくなったらその教義をすて、あらたな「救いの物語」を探すために、他の団体を渡り歩く。

こういう言葉が飛び交いはじめたら、ちょっと怖いなあと感じる。
「……方式なんて最低。あんなの全然意味がない。それより○○先生の……」
「○○先生の言うとおりにやったら、こんなに変わりました!」
「とりあえず○○先生がこう言っているから……」
「○○先生は神様のようです」


誤解があるといけないので補足。
私は宗教そのもの、教育研究そのものが胡散臭いとは全然思っていない。
しかし、胡散臭くする何かが加わることで妖しいものとなってしまうのだと思う。
それは、一言で言えば、中途半端であやふやでどうしようもない現実を、解釈しようとする繊細さを捨て、一つの物語だけを信じ込む愚かさにあると思う。
豊かな意味を持った現実から学ぶことを拒否し、目をつぶる姿勢にあると思うのだ。

「真理はあなたたちを自由にする」という言葉がある。
私が信じている「真理」は、はたして私を「自由」にしているだろうか?

※この話はフィクションであり、現実の団体とは全く関係ありません。