2013/05/15

子どもを「みる」とはどういうことか

実習生指導で、学生と話をしていると、「教師の熟達」についていろいろと考えさせられる場面が多い。

たとえば、先日はある実習生のこんな言葉を聞いて心底驚かされた。
「授業をしていると、手を挙げる生徒が決まってきちゃっているんです。全員が手を挙げてくれないんです」
……?? 全員が手を上げないことが「異常」で、「悪い」の?
この実習生の考える、あるべき授業の理想は「全員が手を挙げる授業」らしい。
実習生にとっては、全ての生徒が手をあげないことが許せないのだ。
そういう自分は大学、小〜高の授業で毎回必ず手をあげていたのだろうか?
手をあげていないからといって授業に参加していないわけではあるまい。

発問→挙手の一問一答型授業の工夫がないのがもちろん問題だろうけど、なぜ挙手をしないのか、その生徒の内面をもう少し考えてみることはできなかったのかなあと思う。

単に「生徒のやる気がない」と言いきらずに、その原因を十個以上挙げることができるようになれば、きっと研究的資質のある教師になれるような気がする。

もうひとつ、実習生が授業をした後のミーティングでの話。
まず実習生に振り返りをしてもらっている。こちらからの評価をさしはさまずに、感じたこと、考えたことを思う存分言ってもらうのだ。
その振り返りは、ほとんどの場合、こういうパターンになる。
……の手順を間違えてしまいました。
……の指示が悪かったです。
……をするとき、もうちょっと時間配分が……。
つまり、振り返る視点が「教師のしたこと」にのみフレームが当たってしまっているのだ。
私の経験上、ほぼ全員がこの状態になる。
そこで、私はこう切り返す。
「自分がしたことだけじゃなくて、子どもの姿で気になったこととか感じたことはないかな?」
この質問で、ぱっと答えられる人はまあまあセンスのある人だ。
大雑把な教室の印象ではなく、個人名を挙げて、「……君の……したことが」などとコメントできる実習生は、それだけでも及第点を上げてもいい気さえする。
少なくとも、自分が実習生時代や初任時代はそれができていなかったと思う。


つねに目がべったり生徒に張り付く。
私が見て、すごいと思うような力のある先生は、例外なく、べったりと眼差しが生徒についている。
「べったり見る」という言い方があるのかどうかわからないが、私にとっては「べったり」という形容がしっくりとくる。
常に生徒から目を離さないのだ。それも、一点を凝視するというのではなく、全体にまなざしを注ぎつつ、細部をも敏感に感受できる視線だ。


「視線」という言葉は、受容機関にもかかわらず、射たり、注いだりするという「与える」イメージがあるのが面白い。見るというのは間違いなく受動ではなく。能動的な行為なのだろう。
教師に必要な「視力」は、一個の記号を識別する能力ではない。教室内に、同時に生起する多数の予想外の事象を、能動的に、的確にキャッチする看取力ではないか。
「見る(観る・診る・看る)」ことこそ、「子供から学ぶ」という理念を最も具体的に表している身振りであると思う。

では、「子供が見られない」場合、その原因どこにあるのだろうか?


・授業の進行など、自分のことでいっぱいいっぱいだから
・独りよがり、独り相撲になってしまっているから
・子どもの見方を知らないから
・そもそも「子供をみる」重要性をあまり感じていないから
・どうせこうなるはず、という固定観念や思考のパターンから抜け出せないから
・細かい思念や配慮とかがなく、なんとなく流してしまっているから

「子どもをみる」場合、どこに着目すればいいのだろうか
・子供の表情、
・子どもの目線
・姿勢、息遣い
・発言、つぶやき、会話
・ノート、ワークシートなどに書いてある言葉
・人柄、性格、嗜好
・人間関係
・学びのスタイル、学習観
・学習への興味関心
・子供に直接聞く

子どもをみることは、単に現象を「冷静に」「客観的に」見ることだけではないだろう。
子どもをみることは、「ミロのヴィーナスの両手を描くこと」に似ている。
今生起している現象から、子どもが育っていく未来の姿を重ね合わせながら見るのだ。
ビーナスの手がないことを楽しみながら見るのだ。
ある意味、好意的に、教師の「欲目」をも加味して見ることが、この場合大切ではないかと思う。