2013/05/21

「おもしろい病」にご用心



つい言ってしまう「おもしろいね」
教師の評価言(生徒の感想や意見などに対する教師のコメント)の中で、気になる言葉がある。
「おもしろいね」という言葉だ。

また、ある授業で、
「これからみんなで話し合いたいと思います。この中で、一番おもしろいなと感じたものを一つ選んでください」
こんな指示もちょっと気になる。

「おもしろい」という言葉はよくよく注意して使わないといけないと思っている。
なぜなら、教師が「おもしろい」と感じることと、生徒が「おもしろい」と感じることは必ずしも一致しないからだ。
教師が「おもしろい」という言葉をついいってしまう気持ちは私にもよくわかる。
生徒にとって楽しい授業になってほしいという気持ちからだ。
「おもしろい、楽しい」授業を追求することは当たり前だし、そうなってほしいと思って私も授業をつくっている
しかし、繰り返すが、子供が感じる「おもしろさ」とか「楽しさ」と、教師が感じてほしい「おもしろさ」「楽しさ」とは同じではないのだ。
このずれを意識しないままに授業をしてしまい、子供が感じる「おもしろさ」に寄りかかった授業をしてしまうと、知的な楽しさとか、美しさとはほど遠い授業になってしまう失敗が私にはよくある。

おもしろさの中身
授業の「おもしろさ」の中身をこそ、教師は吟味すべきだ。
たとえば、「おもしろさ」を腑分けしてみよう。
色々な「おもしろさ」があることがわかってくる。
・おかしい
・笑っちゃう
・変だ
・意外だ
・変わっている
・インパクトがある

・興味深い
・気になる
・印象的だ

・美しい、整っている
・趣がある

・独特、ユニークだ
・~らしい

などなど。
どれも文脈によっては、これらを「おもしろい」といえなくもない。
さて、子供は「おもしろい」と言ったときに上記の中でどれを選ぶ傾向があるだろうか。言うまでもないことだろう。

「おもしろい」は「かわいい」とか「やばい」「すごい」と同じくらいの多義的な言葉だ。
教師が「おもしろい」という言葉を多用してしまうと、授業のねらいがぼやけ、評価の目が曇ってしまう。
「おもしろさ」を追求した授業では、こどもはおもしろがり、楽しそうに学習に取り組むだろう。
そこに落とし穴があるのだ。だから、余計に教師の評価の目が曇るのだ。
子供の目先のおもしろさ、楽しさに目がくらみ、本来目指すべき、学習のねらいがどこにあるかを見失ってしまうのだ。
否定すべきは「おもしろさ」ではない。「おもしろい」というぼんやりとした目でしか学習者を見れなくなってしまう教師の目だ。

おもしろきこともなき世をおもしろく
授業の醍醐味の一つは、子供が「おもしろくない」「つまらない」「意味がわからない」と感じている学習内容を「楽しい」「おもしろい」と感じさせることだろう。
皮相的な「おもしろさ」ではなく、学ぶことそのものの楽しさや、奥深さを感じさせることだろう。
だから、理想は「おもしろきこともなき世をおもしろく」だ。
目先の楽しさだけではなく、知的な関心、美的な感性、より高い知識や技能を得ることの喜びをこそ、味わってもらいたいと思っている。