2014/11/02

教師教育における教えることと育つことのジレンマ〜突き放すからこそ浮かぶ瀬もあれ〜

教師教育ほど「教えることと育つことのジレンマ」を痛感する分野は無いと思う。

二つの例を挙げる。
一つ目は私の実体験。
教職7年目を迎えたあるとき、市内のいわゆる官製研究会で研究授業を行うことになった。
テーマは「図書館を活用した読書指導」
といっても、それまで私にとって「読書指導って何?」な状態だったので、全くのノーアイディア。
そこですがりついたのが中学時代の恩師の先生だった。
その先生は図書館教育を専門にしていた。そこで、わらをもつかむ思いで電話をかけた。
「先生、今度私が市の研究会で授業をすることになったんですが、何をすればいいでしょうか? なにかいい読書指導の授業のアイディアはありませんか?」

先生は、最後まで私の言葉を聞いた後に、こうお話された。
「それは自分で考えることです」
「子どもの姿を見て、その実態から、何を授業で取り上げたらいいか、それを自分で考えるのです。そんなことを他人から聞いて教えられるものではありません」
「けんもほろろ」とはこういうことを言うのだろうか、私は最後の頼みの綱を失って、途方に暮れて電話を切ったのだった。
しかし、そこから、私自身の勉強が始まった。
今まで読書指導として何が行われてきたのか? 図書館にいって本を片っ端から読み……よく調べると、国語科において図書館を活用した読書指導には次のパターンがあることが分かった。……ここからは余談になるので「読書活動における三類型とその課題~給食型活動とお弁当型活動、そして立食パーティー型活動」を参照。
結果、中一で「大造じいさんとガン」の読書会の授業を提案することにした。(その当時、一時だけ「大造じいさん……」が教科書から消えていた時期があり、中一の生徒はその教えられていない世代だったのだ)
ノーアイディアの状態から授業を作るためには、ともかく無い頭をしぼり、調べられるものは自力で調べ、子どもの実態や関心とうまく切り結べるように腐心をして、何とか授業の形にすることしかできない。結果、その授業は、私の力の全てを出し切った授業だ!といってもよいくらいにのめり込んで作ったものになった。
そんな授業だって、子どもにぶつけてみたらもちろん課題はたくさん出てくる。事後の協議会では鋭い突っ込みをうけてうろたえてしまう場面もあり……と、ともあれ、失敗も成功もひっくるめて、いま考えてみても、この授業は私にとって忘れられない学びのある授業となったと思う。(が、オチを言うと、あまりにもひどい授業だったので『あなたの実践史からは抹殺した方がいい』とまでご助言いただいたのだった……)

二つ目は、近所の小学校でのお話。
毎年初任者が採用されるとある小学校では、初任者指導員がついて指導をしている。
初任者は年間二回の授業研究をすることになっているので、その時期になると初任者は授業のネタ探しに苦労をすることになる。もちろん、毎年それを指導する初任者指導教員も大変だ。
しかし、その学校の指導教員はとても優秀で勉強熱心な先生らしく、そんな初任者の困っている姿を見て「これをやってみるといいよ!」と、以前自分がやったことのある、成功した授業のプランをその初任者にアドバイスした。
初任者にとっては、これ以上無いくらいの絶妙なタイミングでのアドバイスだ。すぐに飛びついて授業をしたのは言うまでも無い。

さて、その結果どうなったか……。
かなり残念な授業に終わってしまったということだ。
一番残念だったのが、その授業について、初任者の「思い入れ」が皆無だったと言うことだ。
なぜこの題材を選んだのかという理由とか、この題材はこうやって授業をしたい!という思いが全くその初任者にはないから、指導員から教えられた授業プランの上っ面だけをなぞって、形だけの授業ごっこをしてみせただけなのだ。
当然、そんな借り物の授業だから、児童に柔軟な支援をしたり、教材への自分の思いを授業を通して伝えたり、実態に合わせたアレンジしたりなんてできるわけ無い。もともと「やりたい」というものがないんだから。

この手の「研修」は三重にやっかいな面を持つ。
・一つには、初任者指導員はそれを教えていることのデメリットに全く気がつかない。
・二つには、実習生はそもそも「こうしたい」という思い入れが無いので、失敗したり、課題を指摘されても、それの何が悪いのか気がつかない。指摘されても入っていかない。
・さらには、こんなにいい授業でもついてこれないうちの子どもたちは、能力が不十分な児童たちなんだな、とうまくいかなかった原因を子どもたちに帰属してしまうことさえある。

教師教育において「教えること」はどこまで有効なのだろうか?
「育つ」ためには何が必要なのだろうか?
これは大いに考えさせられる事例だと思う。

最初の例では、私の恩師は何も「教えて」はくれなかった。
それは言い過ぎだ。「子どもの実態を見て、自分で考えろ」という、授業を作るためのマインドやプロセス、核となるものを教えてくださった。
次の例では、指導教員は確かに「教えて」はいたんだろう。その実習生にとってベストと思える授業案をプレゼントする形で。
しかし、「思い入れ」のない授業をいくら形だけ再生しても、子どもたちは決して動かない。さらには授業者は「動かない」ことにさえ気づかない。「どうしたいか」というイメージをもつことなく借り物の授業をしているのだから。

この二つの例はかなり極端な例かもしれない。実際の教師教育においては、もっとバランス良く「教えること」と「育つこと」がミックスされている例がほとんどなのだろう。
しかし、ともすれば熱心な教師によって行われる教師教育のデメリットや影の部分は大いに考えなくてはいけない問題を提起していると思う。

この続編もあわせてお読みください。