2014/11/13

自分の実践を書くということの難しさ

自分の姿は自分で見えない
大学などの研究者ではなく、教師として自分のやっていることを研究的に記述するということはなかなか難しい。修士論文をかいていると、その難しさに常にぶち当たる。
・そもそも自然現象のような厳密さは無理だ
・主観や思いが多分に入っているので、客観性なんてない
・限られた狭い現場での実践のため、比較して検討することができない
そしてなにより、自己を対象化して方法的に語ることが難しいという本質がある。
当たり前だけど、自分の姿は自分で見えない。背中にほくろがあったって、おしりに蒙古斑があっても、それを自分では見ることができない。
見ることのできる自分の姿は、せいぜい手指や足先くらいだ。
その、その手指や足先のみをみて、だいたいをイメージして自分の姿を描かなくてはいけない。これはなかなか難儀なことだと言ってもよい。

学術論文の悩ましき「私」問題。
学術論文でどうしても使いづらい言葉がある。それは「私」だ。
学術論文は客観的な記述が建前なので、「私は」という言葉を使うことは避ける傾向にある。
だから、「私は」を別の表現に言い換えなければいけなくなる。
「筆者は」…なんか違うなあ
「稿者は」「論者は」…っていう言い方あるのか??しっくりこない。
「授業者は」…これじゃあ他人事みたいだし。
たとえば、「私は昨年異動したので、この授業実践は以前の勤務校で実践したものです」っていうひと言を記述するのにも、「授業者は移動したので……」なんて、背中がむずむずするような言い方をせざるを得ない。

これは、突き詰めると、自己を対象化して語ることの難しさだと思う。
自己と、その自己の分身のような授業実践とを、全体像が見えるところまで突き放して、ためつすがめつして観察する。そこまでしないと全てを書き表すことができない。(それが可能なのか?という話はあるけども)
ためしに、自分がした授業をそっくりそのまま他の人にやらせてみたらどうだろうか?
おそらくほとんど異なる授業展開になるはずだ。
それくらい授業実践ってその人の存在と切っても切れないものなのだ。
だから、自分の身体にこびりついたもろもろをこそぎ落とした抜け殻のような「授業展開」を記述し続けることは、かなり精神的にはきつい作業になることは間違いない。

実践家が自己の実践をどう語るか? 私の目下の関心はそこにある。
自分自身を語るときに、どのような文体が好ましいか。
いままで、私は実践家よりも、どちらかというと研究者の文章をたくさん読んできた。
実践家の文章は検証のプロセスが不十分だったり、独断的な言い切りが多かったりして、研究的には参考になりにくく、敬遠してきた面も正直言ってある。
これからは、実践家がどれくらい苦しんで自分の文体をあみだそうとしてきたのか、注意して読んでみようと思う。