2014/11/03

ことはそんなに単純ではない

昨日、あんなことを書いて、やはり十分に考えていることを書けていないなという思いがでてきた。
昨日のブログとはこれ→教師教育における教えることと育つことのジレンマ〜突き放すからこそ浮かぶ瀬もあれ〜
ことはそんなに単純ではないようだ。

こんな思い出話もある。
新採2年目、初めて学級担任となった。当時は新採がほとんど入ってこない時代だったので、色々な意味で周りの先生がよく世話を焼いてくれた。
とくに私なんか見るからに「たよりないなあ」という雰囲気を醸し出していたので、学年の先生はさぞ心配してくださったのだろう。
そんな私が、市内の道徳の先生方が集まる研修会で研究授業をすることになった。テーマは「人権教育」。道徳の授業だ。
で、やはり早速周りの先生が気を利かせて、「この指導案があるから、これでやりなさい!」とある授業プランを勧めてくれたのだ。それは、いじめについての傍観者の態度を問うディベートの授業だった。もちろん、それを私がそれを断る理由はない。

どんなことが起こったか?
とても丁寧に教えてくださった。
前日、教室で模擬授業をしてくださった。
学年の先生が集まって、実際に発問を言ってみせて、板書をしてみせて、討論をやってみせてくれた。そのうち、授業について先生方で熱く話し合いをしはじめた。
しかし、それを見ていた私は上の空だ。ぽかんとして、交わされているやりとりがほとんど理解できていない。教材について議論をしている内容にほとんどついていけてない。
「あなたは何か考えはないの??」
なんて言われても、議論のあまりのスピードと質に「はい……」と口ごもるだけだ。
ものすごい置いてけぼり感。
それでいて、学年の先生方は私のために一生懸命模擬授業を見せてくださっている。それに応えられない気持ち、話し合いに参加できない気持ち、ひとことも発することのできない悔しさで一杯だった。

しかし、それにさらに追い打ちがかかる。私の気のない反応をみかねた、女性の先生がついに業を煮やしてこう言ったのだ。
「あんたね、あんたのためにこうして授業やって見せてるんでしょ! もうちょっと自分で授業やるつもりになって話を聞きなさいよ!」
……もちろん私はそれに何も言葉を発することはできない。うつむくだけだ。
学年の先生は、そんな私を半ばあきれた顔で眺めたようだった。放課後、夜の教室で行われた模擬授業の検討会は何となく尻すぼみで終わってしまったのだった。

授業当日、市内の大勢の先生の前で道徳の授業が始まった。
私は、完璧なシナリオと、きれいに整った掲示物と、計算され尽くした机の配置とで、完璧な授業を演じてみせた。(つもりだった)
動きはぎこちなく、どこなくロボットのようだった。……これはほとんど比喩でもない。実際に、ちょっとでも授業の進行が滞っていたら、すぐに学年主任の先生がこっそりメモを渡してくれた。そこには「ここではこうしなさい」という指示が書かれていた。まるで遠隔操作のように。
それでも、それだから、授業は人様に見せられるくらいのものにはなった。大成功だったのだ。協議会ではうれしいような、さびしいような、複雑な気持ちで一杯だった。

まあ、私にも、そんなせつない経験があるから「授業に思い入れがなければだめだ、借り物の授業じゃダメだ」となんて偉そうなことが言えるわけなのだ。
しかし、ことはそんなに単純では無いというのは、そんな借り物の授業でも、それで勉強になった面は大きいのだ。
・授業には教具などどんな準備が必要かということが分かった
・授業ではどんなタイミングで、どういう言葉がけをすればよいのか分かった
・道徳の授業ではどんなことがポイントで、何が問題になるのかが分かった
・ディベートの授業はどのように進めていいかが分かった
そして
・借り物の授業では、それで自分らしい授業にはならない。しかし、授業の進め方など勉強になる面も多い
ということも。

だから「教えることと育つことのジレンマ」とは、そういう複雑さの中に存在すると言うことなのだ。
教えないことも、教えすぎることも、どちらも良いとは言えない。
授業者本人の問題とも言えるし、それを周りで支える指導者の問題とも言える。どちらの責任とも言えない。
もし、新卒時代の私に「自分で考えなさい」と丸投げされても、何をしたらいいか分からないし、それでやってみても、この道徳の授業ほどは大きな学びにならなかったような気がする。
ことはそんなに単純ではない。安易に結論を出すことはできない。
そしてそのジレンマは、教師教育にも限らず、あらゆる対象への研修、教育にも普遍的に存在する問題でもある。
そこ複雑さ、ジレンマを、日々感じているわけなのだ。