2015/05/19

「仮説の自己成就」を超えて

「仮説実験授業」に傾倒していたことがある。といっても「仮説実験授業」はほとんどが理科の実践だから、自分の実践にはあまり影響を与えられていないとは思う。
しかし、「何をするにも仮説実験」のあの発想の面白さには、何度も膝を打ったものだ。


よく校内研究などの実践研究で、仮説が必要かどうかが議論になる。仮説のない研究はよくないのか? むしろ仮説かあるほうが悪いのか?
私の結論をいうと、仮説はあってもいいと思う。仮説を明示することの効果も確かにあるだろう。
しかし最大の問題は、一度立てた仮説に実践が縛られすぎることと、縛られるようなチンケな仮説をそもそも立てていることにあるのではないか?
 (それは実は仮説を明示しているかどうかは関係が無い。明示していなくても無意識の前提や思い込みが隠されていることだってあるのだ)

「予言の自己成就」という言葉がある。仮説がお粗末だと、なんとか研究を形にしようと、そのお粗末な「仮説」という予言に実践を従わせる結果になる。
そうならないための、とっておきの方法がある。それは、仮説を100パターン立てることだ??
まあ、そんなにオーバーでなくても。正反対の可能性や、別の角度からの検討も、等しく「仮説」として念頭においておくのが有効だ。
そして途中の路線変更や撤回も柔軟に行っていく。そうすればはじめに立てた仮説に縛られずに、常に前向きに、貪欲に実践を捉えようという気になる。


「こんなのアクティブラーニングじゃない」「これぞアクティブラーニングだ」とか、「この指導法は誰々先生がおっしゃってたものといっしょだ」「ちがっている」とかいう、お粗末な「仮説の自己成就」のさまを見聞きするたびに、なんてつまらない研究してるんだろうなあ、なんと勿体無いと、残念な気持ちになってしまう。
彼らの頭の中には「あるべきアクティブラーニング」や、「望ましいカリスマ実践家の理論」という「仮説」が鎮座ましましているからだ。