2015/05/19

「謎句」を探求する句会

以前お誘いがあって参加した句会では、ユニークな方法で作品を批評をしあっていた。
それは、句会の中で「一番いい句」を選ぶだけでなく「気になる句」「しゃべりたい句」についても選んで語ってもらうという方式だ。
「いい句」だけのチョイスだと、どうしても読み手の理解の範疇に入る「わかりやすい句」「きれいな句」が選ばれる傾向になってしまう。
しかし「気になる句」「しゃべりたい句」を選ぶ際は、よくわからないんだけど何か引っかかるんだよなあという句や、なぜこういう表現になるか理解のできない句に対しても鑑賞してみようという構えが生まれる。

この方式で語り合った句会が実に楽しかったので、早速、授業で行う句会でもこの方式を試してみることにした。
題して「謎句」部門。
 
句会ではグループごとに二つの部門から「天・地・人」を選出してもらう。
二つの部門とは「名句部門」と「謎句部門」である。
「謎句部門」とは前述の「よく意味が分からないんだけどなぜか気になる句」や「多分こうなんじゃないかなと予想した句」、「本人に聞いてみたくなる句」を選び出してもらう。

披講では、各グループから「名句」「謎句」の選を述べてもらうが、そのときに名句に対する鑑賞コメントか、謎句に対する疑問、多分こうなんじゃないかという予想コメントのどちらかを必ず述べてもらうことにした。

なんといっても面白いのは「謎句(なぞく)」に対する読みだ。
しばしば作者が想定したものと全く違う解釈を読者がしていて、その意外性に大爆笑をしてしまう。

たとえば、こういう句。
 
桜散り二つの視線が交差する
 
この俳句だけを読めば、散る桜を目で追っていた二人の目が偶然会ってしまった、という情景か。(しかも、ちょっと気がある二人なのかも??)
おおかた生徒はそういう予測をしていた。
しかしその結果は……
夜、民泊先でドライブに連れて行ってもらったときに偶然発見した鹿の二つの目が、ライトで照らされて光っていたことなのでした!


もうひとつ。

ごめんでも春のあなたは多すぎる

という句。
「春のあなたっていったいなんなんだ?」と読み手はいろいろと想像するけれども、いっこうに答えが出ない。まさに「謎句」だ。
しかしその答えは……なんと「つくし」だった。
春の野原を歩いていた時に、たくさんのつくしが生えていた。それをよけてあげようと思うんだけれどもあまりにも多くて踏んでしまった。
そのつくしにむけて「ごめん。多すぎて」と感じているのだ。
そういうエピソードを聞いて、この子はなんて優しい子なんだ、とクラスメートの誰もがそう感じたのは言うまでも無い。



今回の俳句は「謎俳句」として、地の文と響き合って始めて理解できるような俳句にするようにあらかじめ作らせたという経緯もある。
「謎俳句」についての記事はこちら

だから、どの俳句も、俳句だけを読んでもなかなかわかりにくいような作品に仕上がっている。
そういう「謎俳句」だからこそ、読み手にとって、想像力が喚起されていろいろな「誤読」が続出するという活動になった。

俳句だけを読んで意味が分からないようなものだダメだ、と思うかも知れない。
それには二つの反論がある。
一つ目。「おくのほそ道」のような文章では、地の文と句とが融合した表現になっている。
融合すればするほど、句単独では意味が取りにくいものになっているという事実だ。
たとえば、この句

「若葉して御目の雫ぬぐはばや」

の御目を、あなたはどう読みますか?

「むざんやな甲の下のきりぎりす」

のかぶとは誰にものか、分かりますか?
『おくのほそ道』のこの句の該当部分を知っている人は答えられるけれども、知らない人は永久に理解することはできないだろう。
そもそもそういうふうに地の文と融合して作られているのだ。

もう一つ。「誤読」をどう考えるかという問題だ。
作者は「ある世界」を描き出そうと思って俳句を表現している。
しかし、その「ある世界」に、読者は完全に到達することができるのだろうか。「誤読」をゼロにすることは可能なのだろうか?
むしろ誰でも多かれ少なかれ「誤読」をしながら、それでも楽しめるのが俳句の魅力なのではないか。
俳句のことばが、作者を離れて勝手に歩き出し、読み手に「誤読」の世界を生み出していくという楽しさだ。

桜散り二つの視線が交差する
の「二つ」を、ちょっと気のある二人と読んで楽しんだってそれが間違いとは言えないし、

ごめんでも春のあなたは多すぎる
に、いろいろな含意を感じ取る人がいたっていい。
むしろそういう「創造的な誤読」のできるような楽しみ方こそ、俳句の世界の醍醐味なのではないかとさえ思う。

「謎俳句」の創作&鑑賞は、このような「創造的な誤読」を誘発するなかなか楽しい学習になった。
少しだけ生徒の作品を紹介する。
芭蕉の『おくのほそ道』のように、地の文と俳句とが融合した表現に近づいているだろうか?