2015/05/16

学力の汎用性と、学習の汎用性と〜「デジタル教科書」の目指すべき道は?〜

学力も、学習(学び方)もともに汎用性があるのが最上であるという信念を私は持っている。汎用性とは「社会に出てから様々な場面で使える」という意味でもある。
ある教科や領域にしか使えない学力では、社会に出てからは使い物にならない。
ある能力に特化した学習方法では、社会に出てから自分で学んでいく際に活用できない。
この二つ。「学力」については学力の領域固有性のデメリットとしてさんざん論じられ、ようやくそれを乗り越えようとする実践が生まれつつある。
しかし「学習」の汎用性についてはあまり論じられないのは昔から不思議でしょうがなかった。その教科、教材、指導目標に通用する、どんなに効果的な指導方法であっても、その教科、教材、指導目標に「だけ」通用するのであれば、それはあまり意味をもたないのではないか。
例えば、教科書の説明文を読むときに、教師が凝りにこったワークシートを作成するとする。(凝りにこった「発問」でもそれは同じ)
たしかにその凝りにこったワークシートを使うと、その文章を読むことはできるようになるかもしれない。
だけど、そのワークシートが、そしてそれで得られた「読む力」が、他の文章を読む際には全く使えないのだとしたら、その「学習」は意味があるのだろうか。
それよりも、どんな文章を読む際にも使うことのできる「学習法」をこそ、教えるべきなのではないか。「この教材の学習で使った読み方は、他の文章でも使えるね。こんどは自分で本を読んだときにも使ってみたら?」と。
「学校」を卒業し、教師がそばにいなくなっても、自力で読める能力を付けることを主眼とすれば、そうすることは自明のことだろう。
「教科書」もそれと同様の宿命を持つ。
「教科書」がその「教科」にだけ通用する学習材を目指すのだとするならば、その効果は限定的なものに止まらざるを得ない。
実際、多くの生徒が、「学校」を卒業すると,教科書を捨ててしまう。それが「社会では通用しない」ということの一番の証左だろう。
「教科書」をその教科に止まらず、他の教科・領域の学習でも活用することができる、社会でも活用することができる。それを目指すとするならば、はたして「教科書」はどこまで必要なのか。「デジタル教科書」が凝りに凝った教材のバケモノとなったら、ますます社会から取り残されないか?
webで簡単に知識や情報が得られる現在、「デジタル教科書」は何を目指すのか。その答えを知りたい。