2015/05/14

話し合いで使ったホワイトボードは見せるものか?

今日は定例の研究授業。なかなか考えさせられる内容だった。
そこで話題になったのは、小グループの話し合いで使ったホワイトボードをどう活用するかという問題だ。
授業では小グループ(4人)で話し合った意見などをホワイトボードに書き出している。そして、各班からのシェアリングではそのホワイトボードを黒板に貼って全体に発表させていた。
面白いのは、各班ごとで、全体に見せることを意識してキレイに書いているグループがあれば、乱雑に意見を書いているグループもあるということだ。
グループで考えを交流させるツールとしてホワイトボードを使うには、どちらのグループも間違ってはいない。
しかし乱雑に書いてあれば、確かに発表でそれを用いるには不適切かもしれない、
一方、キレイにまとめているのが必ずしもいいとは限らない。交わされている話し合いそのものが整っているとは限らないからだ。むしろ脱線や逸脱のある話し合いのほうが価値ある場合も多い。その場合、キレイにまとめることが思考を邪魔することもありえる。
ホワイトボードを使った話し合いで、それをどう活用するか、とくに、話し合ったあとにそれをどう活用させるかはなかなか一筋縄ではいかない問題だ。

いいかえると、話し合いのプロセスをシェアするためであれは、キレイにするのは優先順位は高くない。
しかし、話し合いの「結果」を発表するのであれば、キレイであるほうが良いということになろうか。
数学の途中式か補助線と、答えの関係?
そのへんを整理する必要がありそうだ。
そう考えると、話し合いでホワイトボードに向かわせる前に告げることは、
話し合ったあとにするのが「話し合いのプロセスの報告」なのか、「話し合った結果の解答の発表」なのか示しておくことで、ホワイトボードの書き方も自ずと変わってくるかもしれない。
(もっとも、シェアリングでそもそもホワイトボードを他のグループに見せないという選択肢もあってもいい。つまり、どういう意図で教師がホワイトボードを活用させようとしているかという点が問われているのだろう)

線か、面か
ホワイトボードやシンキングツールなどにまとめるときに意外に盲点なのが、それらがまとまったときに「面」として認識されやすいという点だ。一枚の図や絵のように捉えられるという特性だ。
図や絵の特徴は位置付けや全体像を捉えたり、構造を把握するのが得意ということ。
面に対比するのは文章。
文章はかならず前からあとへ一方通行で進まなければならない。(言語の線状性ていったっけ?)
そのため、一度で全体像や構造を捉えるのは難しい。しかし、時系列で捉えたり、順序よくものごとを思考し、表現する際には、図よりもむしろ文章のほうが優位性があるのでは。
そういう両者の違いをどの程度生かそうとするかが、ホワイトボードなどのツールの活用にも関わってくると思う。