2014/07/14

読書メモ 教師必読!『子どもと創る授業 学びを見取る目、深める技』(奈須正裕著)

奈須正裕著『子どもと創る授業 学びを見とる目、深める技』 
なんともわくわくする本の題名。

奈須さんは教育心理学を研究している研究者。大学での研究の他に、かつては国立教育研究所などで教育政策の現場(総合的な学習の立ち上げなど)でもご活躍されていたことがある。現在、全国さまざまな学校を視察し、また校内研究のアドバイザーとして多くの学校の研修をサポートしてきた。
その奈須さんが、教師に向けて、歯に衣着せぬ、渾身のメッセージをプレゼントしてくれたのがこの一冊だ。
研究者にありがちな、上から目線で最新の理論を紹介するという形ではなく、一つ一つが、子どもや学校の事実に立脚して確かにつかみ取ったものだけを語っているので、私のような現場人から見ても大いに腑に落ちる内容であった。直球勝負で辛辣。かつ、痛いところを突いてくる。自分のみみっちい教育観を大きく揺さぶられる、そんな一冊だった。
多くの先生に是非読んで欲しい、そしてその感想を語り合いたい!と強く思った本だった。
ざっくりとだが、内容のさわりを紹介する。

目次
1 子どもは自分に引きつけて学ぼうとしている
  未だ知られざる教育
  自分に引きつけて学ぶ
  中身がぎゅっと詰まった知識の創出
  転んでもただでは起きない心がけ
  教育は「地のもの」
  存在の底へと潜りこんでいく学び
  身体でわかる
2 こんなにも難しく、そしてステキな出来事である授業
  教師としての仕事と授業技術
  授業のラインは誰が生み出すのか
  子どもは常に新たな自分を生きている
  教材は二つある
  だまされたと思ってついてこい
  共有かすべき情報をきちんと共有する授業
3 おいしい授業づくりの厨房拝見
  授業が元気な学校はここが違う
  正面突破の潔さは素直でまっとうな教育原理の証
  リッパ過ぎる研究からの脱却
  先を急ぐ前に考えたいこと
  学校改革をめぐる五つのウソ
4 「習得」と「活用」について心理学者の意見を聴いてみよう
  活用は習得の基礎でもある
  幼児教育が培う学力の芽
  リアルな学習とバーチャルなテスト
5 点数競争なんかやめにして、子どもの育ちで勝負したい
  教育を論じる言葉にもっと鋭敏になろう
  権威によりかからず、目の前の事実をしっかりまなざそう
  「学力」という名の呪縛
  ていねいな「育ち」
6 やっぱり最後は現場の力なんだ
 教育と社会の関係
  未来への希望であり、現在の存在理由でもある
  気分はオーセンティック・アバンギャルド
  最後は現場の力
内容の紹介
1 子どもは自分に引きつけて学ぼうとしている
この章では、主として子どもの側から、どのように学んでいくかという「学びの本質」が述べられている。
子どもたちは、白紙の状態から学んでいくのではなく、それまでの人生を背負って、全存在をかけて学んでいくということ、そして目の前の現象を、自分なりに意味づけていくことから学びが生まれることを、さまざまな事例を元に描き出している。(こんな言い方だととても抽象的で小難しくきこえるが、授業の風景を紹介した事例がめちゃめちゃ面白い)
たとえば、次のような記述が印象に残った。 
教科の学習は生き方の学習
教科の学習として純然たる教科内容がしっかり習得されていると同時に、その学びが直ちに自分自身を見つめること、生き方の探求になっている。さらに、教科としての学びが深まれば深まるほど、生き方としての学びもそれにつれて深まっている。それどころか、むしろ教科の学習であることが、生き方の探求を自己存在の核心に迫る深い水準で始動する必須の要件にすらなっている。 
子どもは本来、どんな教材でも自分に引きつけ、「自分事」として対象に肉薄しながら学ぼうとするのではないか。さらに、わかる・できるといった教科的な学びと、自分自身を見つめる生き方を深めていく学びを、渾然一体のものとして同時的に推し進めようとしているのではないか。
自由闊達に学ぶことが許容されている教室では、子どもは教材を自分に引きつけ、経験や知恵を総動員し、実に創造的に学ぼうとします。
子どもたちの、特に生活実感をも持ち込んだ具体的で特殊的で個別的な思考の経路を通過することにより、中身の詰まった、豊かな文脈を伴う、カラフルな知識となります。シンプルな提案でも知識は獲得されますが、空っぽで文脈のない、無色透明な質に留まるでしょう。そんな知識はおよそ「活用」が効かないし、「とりつく島」がない分、「習得」だけを考えても実に不安定で、したがって忘却も早い。
もちろん、今日の目当てや指導事項は大切です。でも、それを通して僕らは「教科」を教えている。そのことを忘れてはいけません。……今日の指導事項にとらわれることなく、広く「国語科」の学力を見渡せたからこそ生まれたのです。
「私の考えは○○です。そのわけは○○だからです」に代表される定型的な語りの強要と訓練とが、いかにこの定型に収まりきらない思考や感情へのアクセスを子どもたちに断念させているかを想像するだけでも空恐ろしくなるのは僕だけでしょうか。教師はより明晰な思考や端的な表現を訓練しているつもりでしょうが、実際には容易に明晰になる浅さでしか思考や感情を持てない子どもにしてしまっているのです。 
特に危惧されるのは、思考や感情を内面へと深く掘り下げる働きを阻止しかねないという点でしょう。定型化した語りの訓練は語りをもっぱら上へ、外へと向かわせます。堀川の語りは逆で、下へ、内へと向かう。だからこそ、語りが進行する中で真の自分と向き合うのです。
2 こんなにも難しく、そしてステキな出来事である授業
この章では、そのような学びを生み出す授業の心構えや技のようなものを説明している。ここでの記述も、現場の先生が語るようなテクニックとは一風違って、教育観の根底まで揺さぶる洞察にあふれたものだった。
子どもたちの心理は象徴的に、黒板の向こうに権威的な空間を常に見ています。
(黒板を背にして子どもに向き合う教師の姿)権威的な知の集積をその奥に持ち、その一つ一つが時々に顕れる場である黒板の前に立ちはだかって、それを意地悪く隠し、自分たちを試しているように子どもたちには映るのです。
(子どもと一緒の向きで黒板を見る教師)教師は子どもたちと同じ学ぶ側にいます。教師は自分たちとともに、今まさに知の洞窟の扉を開けようと、そのために必要な秘密の呪文を見つけ出そうと、一所懸命がんばっている心強い存在なのです。 
子どもは常に新たな自分を生きている 
子どもは時々刻々変化していて、一時たりとも同じ状態ではいません。それこそが発達や学習の本体であり、より教育的に価値的な方向でその変化を実現すべく、僕たちは日々の仕事に邁進しています。ところが、当の僕たち自身は、時折それを忘れてしまっている。そして、子どもたちに何日も前の自分を生きるように求めたりする。それが伸びよう、より納得のいく自分へと自己更新しようとがんばっている子どもたちを困惑させる。 
もしかするとその奥には、いつまでも子どもであって欲しいという多分にノスタルジックな願望が悪さをしているんじゃないかと、僕は考えています。僕たちの子離れ、自律が、こういった事態を乗り越え、子どもたちが自力でぐんぐん成長していける学校や教室の実現には、不可欠な気がするのです。 
僕たちは昨日の子どもの見取りでしか授業を構想できない。この深いディレンマに、僕たちはどのように立ち向かえばいいのでしょうか。一つのヒントは、いかに変化しているとはいえ、子どもの感情や思考は連続しており、何らかの一貫性、全体としての調和を保っているということです。学びが子どものものになっていればなおのこと、子どもの今日と昨日との緻密で構造的な結びつきの中に存在しています。変化すると言っても思いつきでころころ変わるわけではありません。 
「新たな自分を生きる子どもの今日と出会える。」 
現状ではナンセンスとしか思えない相手の思考の拠点に実感を持って立つことができるようになれば、自分の思考のあり方を、それも自分が一番得意とはしなかった新たな方面へと、大きく拡充できるに違いないからです。他者とともに学びを深めることの大きな意義が、ここにあります。自分ではおよそ思いつかないことを、至極当たり前のこととして考えてしまう他者の存在。その存在にまずは驚き、次に理解しようとする。考え自体が理解できたなら、次にはそんな考えを必然として要請する思考の拠点とはどんなものであるかを知り、それを自分の内面に取り込む。そうすることで私のものの見方や考え方は格段に幅と深さを増し、対象により多角的に肉薄できるようになるのです。 
3 おいしい授業づくりの厨房拝見
第三章は、学校を活性化させるための秘訣のようなもを語っている。奈須さんが様々な学校を渡り歩いた実践的な知恵とひらめきが随所に感じられる。私も研究校に所属しているが、耳の痛い言葉がたくさんあった。
「かけがえのない私」による自由で闊達な授業作り、その質と教師としての力量の向上が校内研究の目的のすべてであり、理論や仮説はそれを下支えする手段、道具、材料であってしかるべきだ。 
授業が元気な学校に共通する特質は、一人一人の教師の個性的成長と授業の質の向上が校内研究の目的のすべてであるとの認識を全教職員が抱いていること。それを成就するためにはどのような理論を校内で共有すれば「一番都合が良いか」という、いかにも理論的でははなさそうな問いを理論研究の中心に添え、日々理論的に精進していること。 
十数年前に共同研究に誘われた時に僕がお願いしたのは、どうしても曖昧さがつきまとう図〔バームクーヘン状の学力構造図や、矢印が螺旋を描いて立ち上がる研究構造図のたぐい)を研修冊子から原則廃すること。独自な造語は極力避け、伝統的な教育学や法令上の用語で語ること、理論的説明は毎日の授業づくりでどうしても必要なものだけに限定することの三つ。………理論編を大幅にダイエットしたことで、授業づくりと研究推進のよりどころは、実質的に目の前の子どもの事実と教師の願いの二つだけになった。ここで、二つを結びつける原理が必要になるが、これもオーソドックスにしてその妥当性が長年の実践を通して証明済みの、問題解決学習を基本とするようにお願いした。 
(研究のよりどころとする理論は)むしろ原理的にしっかりしたものでないと危なくて使えない。自前の怪しい理論もどきに依拠して授業を創るなんて危険なことは即刻やめた方が身のため、子どものためである。 
学校研究の進展とは、一人一人の授業者の個性的成長の総体と等価である。こう考えるとき、学校をあげて個々の教師を目的として支えることが研究の主軸となる。
どうですか?ここまで紹介したら、読まないというわけにはいかなくなってきませんか?
3章以降の後半は、学習心理学の紹介とか、いわるゆ「学力低下」論争などについての奈須さんの見解などが述べられています。

全般的に、奈須さんは理屈抜きに「現場の力」を強く信じ、その可能性を訴えているところがあり、まずそこに私は共感できました。現場に生きる身として、背筋の引き締まる思いを感じ、勇気づけられました。
また、教育心理学者らしく、子どもの学びや育ちを丁寧に、かつ温かく描き出し、かつそこから本質的な深みをのぞかせようとしているところがとても勉強になりました。
私も毎日の教室の中で、そのような豊かな意味を感じ取れるだけの教師になりたいと強く思った次第です。
ぜひ読んでみてください。