2014/10/05

「ポータブル宗教」をもたない辺境、日本

世界宗教といわれる宗教(キリスト教、イスラム教、仏教)は、どれも「テキスト」を持っている。聖書、コーラン、そして仏教経典。
「テキスト」があるということは、それをいつでもどこでも持ち歩くようになったということだ。(モーセは石に刻んだ十戒を持ち歩きながら約束の地を目指した。三蔵法師は中国から天竺へ、経典を運んで行った)
このように、世界宗教は「ポータブル宗教」でもある。

「ポータブル」なテキストによる教義は、世界じゅう、あまねくいきわたる「普遍性」を獲得する。この「普遍性(カトリックは「普遍」という意味らしい)」を志向する価値観を持った人々は、今度は世界中をそのテキストで満たそうとする。だから一神教の皆さんは、世界中どこでも一色に染めたがるらしいのだ。

かたや、極東の辺境、日本ではどうか?
日本だったら、いつでもどこでも存在する、普遍の神はいない。その代わりに、富士山とか御嶽山とか、巨木、巨石とか、トイレなど、場所やモノに、固有の神々が宿ると考える。そしてその神も、あちらこちらに移動してしまったりする。そういう発想の文化を持った人たちだから、中国だろうとヨーロッパだろうと、どんなものを借りてきても、和魂漢才、和洋折衷、どんなモノにも、日本の魂を注入してしまうのだ。パンにあんこやカレーを入れてしまうように。
日本の都市景観の猥雑さ、文化の無節操さこそ、日本固有の文化だともいえる。(ちなみに私が最も好きな都市は新宿だったりする)