2014/10/12

これからの「学習指導案」にむけて〜地図やナビがなくてもなぜ目的地にたどり着けるか〜

先日の学習指導案についての投稿が思わぬ反響を得たようだ。
ブログの管理者には閲覧数を知ることができるんだけど、この投稿は今までではあり得ないくらいの閲覧数。びっくりだ。
もうすこし「学習指導案」について考えてみたいと思う。しかも「地図」のアナロジーで。

唐突だが、私たちは地図やナビゲーションがなくてもある程度の範囲であれば目的地に到達することができる。たとえば、私が生まれ育つ県内であれば、わざわざカーナビなんかつかわなくても、だいたいの感覚で目的地に到達できる。
そのときに、何を、どう見ているのか。
・だいたいの方向を知っている。
・道よりも、景色や遠くのランドマークを見ている(山の見え方など)
・大きい幹線道路、細い道などを評価しながら進んでいる。(細い道は袋小路になりそうだから避けるとか)
・目的地の建物などを見たことがある、あるいは知っている。
・そして、もし袋小路だったり明らかに方向を間違えた場合は引き返し、目指す目的地や方向に軌道修正をしながら進んでいくことができる。
・もちろん、案内の看板や国道番号などは重要な情報源となるだろう。
↑これらの条件があることが「土地勘」の正体であろう。

いっぽう、最近はカーナビに頼り切っているので、なかなか道を覚えられなくなった。
カーナビでの走行は次のような特徴を持っている。
・方向感覚よりも、通る道路を優先する。(あきらかに反対の方向でも、カーナビが示す道路に進もうとする)
・幹線道路か、狭い路地かはあまり関係ない。
・目的地の建物よりも、住所を重視するため、到着しても建物に入れないことがある。
・常に最短距離を走ろうとする。
・明らかに間違えた道路を通った場合は、取りあえず180度引き返して正しいルートに戻る選択をとる。(性能のいいカーナビだったらその場で経路を検索してくれるものもあるだろう)

これは、何を言いたいかというと、「目的地」に到達するための、人間と機械(カーナビ)との思考の違いがどのような点にあるかと言うことだ。

人間が目的地に到達できるのは、道路すべてを知り尽くしていなくてもよい。ある程度の感覚で進むことができる。そしてほとんどの場合は、それで何とかなる。(むしろ、知っている道路しか進めないのであれば、地図やカーナビをひとときたりとも手放すことができない)
そのときに重要なのは、ゴールのイメージ、土地勘、そしていつでも方向転換できる柔軟性だ。
道路や地形をその場で解釈し、目的地から外れそうな気配を感じたら、そこで舵を切り替える。それこそが、機械にはない人間の「知性」であると言える。

多くの学習指導案という「地図」が、それだけでは実際にはほとんど役に立たないのは、できの悪い地図に気をとられて、道に迷っている旅行者のようなものであるからなのだだ。
「ゴールのイメージ」「土地勘(ランドマークとか、地形など)」「方向転換する指針」を明確にするための「学習指導案」の存在こそが、現場で力を発揮するのではないか。
ちょっと抽象的な議論になってしまったが、時間が無いのでとりあえずここまで。