2014/10/11

指導案検討中心の授業研究がなぜ機能しないか、そのささやかな代案。

多くの学校の校内研究、研究授業では必須のツールとなっているのが「学習指導案」だ。
結論から言うと、私は、学習指導案はほとんど不要だと思っている。
その理由は次の5個だ。

1 指導案の書式や内容が煩雑で、作成に膨大な手間がかかる。
2 指導案が単なるつじつま合わせの「アリバイ作り」となってリアルな授業で使えなくなる。
3 指導案にいろいろな人が「ご指導」していく中で、その人が本当にやりたいこと、できることとかけ離れてしまう。
4 むしろ指導案通りにやることで、授業が生気ないものになりがちだ。
5 大げさすぎて、普段の授業で使えるようなフォーマットとなっていない。活用できない。

「ほとんど不要」といったのは、ある程度は必要ということでもある。(教育実習生や新卒、若手の教師など、形だけでも、授業や教科の構造を勉強するためには有効だろう)
事前に、授業について自分の考えを書いて整理することは必要だし、有効なのは間違いない。
しかし、私は「最低限」ということであれば、次の3つでいいのではないかと思う。

1、なぜこの授業を取り上げるか
2、授業のねらいは何か
2、授業でやること、手順はどのように進めるか
しかも、曖昧にぼやかさずに、箇条書きで。

1の「なぜ取り上げるか」は、教師である自分の切実な関心や問題意識、子どもにとっての授業の価値が語られるだろう。「教科書に書いてあるから」「学習指導要領に書いてあるから」なんているのは論外だ。もし「教科書に書いてあるから」だとしても、それを掘り下げて、自分なりにとらえた学習の価値を語られるようになっていないと、自信を持って授業はできない。

2の「授業の狙い」は、授業の目指すゴールだ。
多くの授業は、ゴールが不明確だったり方針が定まっていないのでごちゃごちゃしてしまうことが多い。
ちなみに、授業によっては「教師の目標」と「子供の目標」が異なる場合も当然ありうる。

3の授業でやることは、全単元なり、50分・45分の授業をどういう流れや要素で展開するかという内容だ。
時系列的に書く場合もあるし、要素を書きだす場合もあるだろう。その粗密は扱う単元や授業の規模によって変わってくるだろう。

以上の3つをA41~2枚以内で書きだす。
そして、事前の指導案検討では最低限、この3つだけ押さえて、後は各授業者で好きに授業をやってもらうのだ。

実際の授業では、次の視点で授業をみるとよい。
A 子どもの学習する姿から「2 授業のねらい」は伝わってきたか。
B 教師が想定した以上の、学習の価値や学びの姿、課題は見えてきたか。

授業は、事前のプランやプログラム通りに進むわけない。むしろ、プログラムから逸脱した要素、はみ出したものにこそ価値があり、発見があるのだ。「授業者の見えてない世界を見る」のこそが「研究」なのだから。
「プログラム」中心のコンピュータの知と、状況的行為の知性をもった人間との関連についてはこの著書に詳しい
プランと状況的行為―人間‐機械コミュニケーションの可能性


そう考えると、事前に指導案を熟知している参観者と、むしろ指導案を事前に全く読まずに、その場で授業の価値や印象を述べる人と、様々な観点で授業後のディスカッションをしたほうが、面白い発見があるかもしれない。むしろ指導案を作ったり、事前に熟読することで、授業の見方が固定されてしまうこともありうるからだ。


関連して、以前こんなことを考えた。
→理想の「研究授業」論理・創造・批判・感性
→「学習指導案」をめぐるあれこれ