2014/10/26

なぜ人は書くのか~「書く意欲」と「書くきっかけ」とは違うということ~

小学生とは違う中学生の書く行為
新卒2年目。ある地域の研究会で作文指導の提案をした。
提案内容は今考えても稚拙なものだったんだけども、それが問題ではない。
そこで、いただいたご意見が、今でも忘れられない大切なご指摘だったのだ。
私がした提案は、中1で論理的な意見文を原稿用紙一枚で書くというもの。
その提案の協議の時に、小学校の先生から
「たった一枚? 小学生だったらもっと何枚だって書きますよ」
というご指摘をいただいたのだ。
いただいた意見は悔しかったが、全くもってその通りだったので返す言葉もない。
私の授業では、中学生は1時間で1枚を書くのがやっとだったのだ。(まあ、今だったら「長けりゃいいってもんじゃないでしょ」と反論するかもしれないけど……)
悔しかったけれども、この発言をきっかけに、私は「なぜ同じ子どもたちが、小学校のときは書けても中学生になると書けないんだろう」という疑問を持ち続けることになった。いまでもその問いは胸に抱いている。


中学生にとっての「書くこと」の断層
現時点でのその答えは、「書く意欲」は、必ずしも「書くきっかけ」にはならないということだ。
言い換えると、書く意欲、書きたいという思いを持っているからといって、それですぐに書きだせるようにはならないということだ。
「書く意欲がない」ことの内実を考える必要がある。
書きたいという思いと、実際の書く行為までの間には、小学校時代とは比較にならないくらいの断絶が存在するのではないか。とりわけその断絶は中学生になると大きくなるのではないか。

たとえば、思いっきり分かりやすい例で説明してみる。
男子がある女子を好きだとする。一刻も早くこの思いを伝えたい。しかし、小学生時代では言えた「好きだ!」という一言を、中学生の私はすんなりと言えるだろうか? 言えるわきゃない。
何度も何度も逡巡して、ようやく「好きだ!」の一言を伝えることができるようになる。中学生ってそういうものではないのか。
語彙があっても、伝えたい思いがあっても、中学生にとっては、それが伝えるきっかけにはならないとはこういうことだ。
作文も「伝える」というその本質は同じだ。書くのがめんどくさい場合は小学生だって中学生だって書かない。しかし、いくら書きたいと思っても、いや、むしろ書きたいという思いが、書くことを邪魔するということさえ中学生ではまま見られる。自我が表現行為にブレーキをかけてしまう。


茂呂雄二『なぜ人は書くのか』から考えたこと
難解な本で、何度読んでもほとんど理解はできていないけれども、断片的な理解をもとに、自分なりに考えたことを書こうと思う。




目次
序章 問題の発掘
1章 書くことの発生と前史
2章 書きことばと知の発達
3章 書かれたものの意味―シンボル・センス・対話
4章 生成的記号活動としての作文
5章 書くことを支えること、育てること
終章 なぜ書くのか
補稿 書くことと「やさしさ」(汐見稔幸)

最初に紹介めいたことを書くと、この本は認知心理学者の立場から「書くこと」の営為、本質を考究している一冊だ。ヴィゴツキーなどの状況主義的学習観に立って「書くこと」の始原の姿を追っている。しかし、理論が先行するのではなく、世界中の様々な文化的背景を持った人たち(主に子どもたち)の「書かれたことば」を取り上げつつ、それがどのような状況で書かれ、そこから「書くこと」において何が見えてくるかを論じている。
茂呂氏は、「書くことを」を状況や場の中で引き出され、生み出されていくものとしてとらえている。
読み手との関係の中で、また、書かれたものが共有されていく「場」の中で、「私」が関わっていく参加の姿として書かれていくものである。(これを「身ごなし」と表現している)

先ほどの告白する男子中学生の例で言うと、
1、「好きだ!」という言葉を気軽に言える関係性があり、
2、それを相手が受け入れてくれるという見通しが立てば、
誰だって「好きだ!」と言うことができる。
しかし、そう言えるだけの見通しも、自信も持ちにくいのが中学生なのだ。(もちろん、かつての中学生である私も、今だって、ほいほいと告白なんてできません!)

これを「書くこと」に敷衍して思いっきり図式化して言うと
「関係性」の認識、、「読み手」の認識、、そして「自己」への認識の3つの認識が、書き手の中で十分に確立されていると了解されない場合、人はおいそれと自己を表現することができない。(どれかに自信を持てなかったり、迷いがあると、伝えることはできない)
反対に、この三つが安定的に了解できると、どこまでも書くことができる。(Lineで一日にやりとりしている会話は原稿用紙だと一体何枚になるんだろう??)

茂呂氏はこう言う。「なぜ書くのか。われわれはわれわれ自身の声を作るために書くのだ」「なぜ書くのか。それは文化としてすでにある語り口から、固有の声を作るためだといえる。書くということはすでにそこにあった身ごなし・語り口から、あらたな身ごなし・語り口、すなわち声を組み上げることとして成り立っている。」と。
書くことは他ならぬ自分の声を聞き、自分の語り口をさぐることを意味する。
書くことで否応なしに自己の声と向き合うことになる。「書かれたもの」によって表現される「自己」を、書いている自己は見つめなおすことを余儀なくされる。それは、十分に自己を受容できない、自分の「声」が確立していない思春期の生徒にとっては、なかなかキツイものであろうことは容易に想像がつく。

『なぜ人は書くのか』の補論を汐見稔幸さんが書いている。汐見さんの文章はずいぶんわかりやすい。汐見さんは書くことの動機付けをこう述べている。

自分の書く行為と、作品を受け止めてくれる存在が、より抽象化された形で存在するのではないか。……これは、自分が属している集団の中で、自分がどう評価され処遇されているかということについての自己評価のことと言い換えてもよい。そういう自己評価がポジティブな形で存在しない限り、人は書こうとしないだろう。ところで、そうだとすると、この集団における他者の目、評価をいわば内面化したような自我の存在が、人間の書くという行為を励まし、動機づけているのではないかという仮設が成り立つ。……書くという行為をある段階以降支えているものの一つは、自我の中に、何かを行っている意識や思考の働きをいわばモニターする働きが育っていて、そのモニター部分が書くという行為を肯定的に受容するような構造ができあがってくる、ということになるだろう。
初任2年目以来考え続けてきた「中学生はなぜ書かないか」ということに対するヒントをこの本から得るできた。さて、では、ここからどうするかという話だ。