2015/07/19

待つことと聞くこと

「待つ」という言葉は実に含蓄のある言葉だ。
「待つ」ときに人は何を「待って」いるのだろうか?
おそらく、自分の力の及ばぬこと、知り得ないこと、どうにもならない事態になったときに、唯一とり得る積極的な身振りが「待つ」ということなのだろう。
コミュニケーションを、他者との相互作用によって共に意味を作り上げていくプロセスと捉えるならば、自分の力の及ばぬ他者に対して、最終的にとり得る身振りは「待つ」ということなのだろう。他者という存在を待機し、招待し、待遇し、そして期待する。
人は「待つ」という身振りをどうやって獲得していくことができるのだろうか。
「待つ」ことの難しいこの時代に。

なぜ人の話を聞くことができないのだろう。
それは「待つ」ことができないからなのでは。
「待つ」とは、他者の、自分の力の及ばぬこと、どうにもできないこと、知り得ないことに対してとる身振りだ。他者を自分の思い通りに操作したいのならば待つ必要はない。他者が自分の想定内で、予想の範疇に入っていると思い込んでいるのであれば待たなくてもいい。そもそも他者を必要としないモノローグでよしとする構えであるならば、待つのは面倒なだけだ。
他者を待つことのもっともシンプルな身振りが「待つ」ということだ。
効果的な質問とか、頷きとか、アイコンタクトとか、そういうものも必要かもしれないけれども、より本質的には、他ならぬ他者の存在を「待って」「待ち続けて」いるかどうかなのだと思う。


待つ力というものはあるか?
待つ力、何かをじっと耳を澄まして、感性を研ぎ澄まして待つ姿勢や態度、これを能力と言えるだろうか。
待つことの力を、忍耐とか我慢とかそういう表現の他に言い表すことはできないだろうか。

待てない人と待てる人は何が違うのだろうか?
待てない人はなぜ待てないのか?
待てる人はなぜ待てるのか?
それらは生得的な性格なのか、後天的に獲得されうる能力なのか。