2015/07/25

「儀礼的無関心」を学習する都市、教室

電車のイスに座ると、隣に見知らぬワカモノが座っていた。朝ごはんのサンドイッチを頬張っている。ときおり、サンドイッチを頬張るタイミングでワカモノの肘が私の脇腹を小突いている。
そのサンドイッチがどんなに美味しそうでも、「うまそうだね」とか、「一つだけちょうだい」なんてことを私が親しげに話しかけることはできない。変なオヤジだと思われて、無視されるのがオチだ。
電車のなかでは、肩を寄せ合い、肘を小突き合う他人は空気のようなものとして無視する、無関心を装うのがマナーとなっている。(これを社会学では「儀礼的無関心」と言っている)
でももしこれが電車の中でなく、学校の職員室では? 家のリビングでは? 田舎の田んぼ道のなかではどうだろう?
「儀礼的無関心」はひしめき合う都市特有の、学習される不自然な身振りだということは知っておいても良い。
ところで学校でも「儀礼的無関心」を学習しているということはないか?
教室というスペースのなかで、一人のオヤジ(職業は教員らしい)が一方的に話している。
それがどんなに面白くても、疑問に思っても、子ども(職業は生徒)が「面白いですね」とか「なぜ……なんですか?」と逐一質問して話しかけたら「授業」は成り立たない。
だから教室でのマナー、ルールとして「黙って聞く」という「儀礼的無関心」が学習されることとなる。
そこでの対話的関係は、実生活とかけ離れた、極めていびつで特殊なものであるということは、入学当初の小学生の様子を見ればよく分かる。
このようにして、学校、教室というシステムでは「話すこと、聞き合うこと、話すこと」という対話的な空間から、「話すこと、聞くこと」への独話空間にシフトしていくのだろう。