2015/07/31

研究授業に参観者向けの「学習発表会」はアリ? ナシ?

大勢の先生方を集めて授業を公開する。その研究授業をどのように「見せる」か、頭を悩ますものだろう。失敗して授業者が恥をかきたくない、かっこいいところを見せたいという「見栄」がない人はいないはずだ。
とくに一番大きく頭を悩ませるのが、何時間展開もの授業の、どこを切り取ってみせるかという点だ。
「研究授業」であれば、なにがしかの「研究」の一端を提案することが縛りとなる。だから、その「学習の成果」を伝えるのか、それとも「成果に至る学習のプロセス」を伝えるのかで、ジレンマが生じる。(本当はぐんぐん学び取っていくプロセスこそが「成果」なんだけどね)
つまり、6時間扱いの授業だったら、最後の6時間目の「まとめ」の授業を「成果」として見せるのか、3時間目くらいの途中経過を見せるのかという問題だ。
最後でも、途中経過でも、どちらの展開も一理あるので、一概には判断が難しいが、個人的に参観者として面白いのは、何ていっても途中経過だ。子どもたちがどんどん学んでいって、変わっていくさまが見て取れる授業だろう。
反対に、最後の「発表会」のような授業だとかなりがっかりしてしまう。(悪いと言っているわけではない)それでも、見せ方に多少なりとも子どもたちの工夫やアイディアがあればまだいいけれども、延々と、何グループも似たり寄ったりの発表を見させられるとうんざりしてしまう。(とわたしが思うくらいだから、子どもはもっとうんざりしているのだろう)
つまり、「授業の成果を共有するのは誰か?」っていう問いなのだ。
一番イヤなのは、研究授業のなかで、子ども同士がお互いに発表を楽しみあっている姿がちっともなくて、参観する教師のために、見せ物にされているような授業だ。(「観客」のために、俺たちの発表を見せつけてやろうというくらいの魂胆が子どもたちにあればまだいいけど)
そういう「見せ物授業」はちょっと観察すればすぐ分かる。
・子ども同士の学びのためではなく、教師(参観者)に向けて発表している
・お互いの発表を聞いていない、関心がない。
・表情から学びが感じられない。
そんな授業、一体誰のためにあるの? 何のためにあるの?
見せ物である前に「授業」でしょう?
「教師向けの発表会」に一体どんな学びがあるの? 
そんな「猿回し」のような「研究授業」が、もし日本のどこかで行われているのだとすれば、世の中から根絶されることを切に願う所存である。