2015/07/18

他者の始まりは「蓼食う虫も好き好き」体験から

他者が他者として、自分とは相容れない理解不能な人として立ち現れる、その最も象徴的でわかりやすい例はなにか?
それは「好み」であると思う。
自分が嫌いなものを大好きな人がいる。自分が大好きなものを、他の人はちっとも分かってくれそうにない。
そういう「蓼食う虫も好き好き」体験が、他者の存在を認識することのできる格好の題材なのだろうと感じている。
だから、他者の愛する理解不能なものがあることを、理解する。
自分の愛するものを、それを理解しないかもしれない他者に伝える。そういう経験の両方が重要なのだろう。

他者の欲望に欲望する
と同時に、人は理解不能な他者の理解不能な欲望に、たまらなく欲望してしまうらしいのだ。
社会学の「欲望の三角形」は面白い概念だ。これは、人が好きなものにつられて自分も好きになってしまう、欲望を模倣したくなる心理らしい。
たしかに、親父がうまそうに飲んでいた酒は、子ども時代たまらなく美味しそうに感じたものだったし、友達が持っている新発売のゲームソフトは喉から手が出るほと欲しかった。
ある知り合いの女子は、友達の彼氏を略奪することを生きがい?に感じていたようだった!!
他者がたまらなく好きなものは、自分もつられて好きになったり欲しくなったりするのが人情というものらしい。
多分、教育を思いっきりシンプルに語ろうとすれば、他者の欲望を欲望する原理にあるのかもしれない。
大人や社会が理想とすること、欲望することを、子どもも模倣し内面化していく。
ようは、教師、大人、そしてクラスメートという準拠集団が、何を欲望しているかということに勝る作用は、なかなかないようなのだ。
教師、クラスメートたちが、力強く「好き」を語り合うことの価値はそこにあるのだろう。