2014/11/30

「いよいよ」と「ついに」の文章論

ありきたりの言葉ベスト5に入るのが「いよいよ」と「ついに」だ。
学校行事には「いよいよ」とか「ついに」と言いたくなるイベントが、年間に数えきれないくらいに訪れる。
そのたびに「いよいよ」と「ついに」を使ってしまうんだけれども、いつも、その言葉を使いながら、「ありきたりだ、もっとほかの表現はないかなあ」と悩みつつも、結局仕方なく使ってしまっている。
ついに使わなくなる日は来るのだろうか?

2014/11/29

「ふつう」が意味があるわけではない。

授業の実践研究をするために、サンプリングをどうするかというのは難しい問題だ。
量的にせよ、質的にせよ、見ることのできる母体(授業研究の場合は学習者)は限られている。日本中の生徒全員を対象にするのなんて、個人ではとうていできない。だから、ある規準により抽出をして、そこでのあらわれを検討することになる。

ここで考えたいのが「ふつう」という規準。「ふつう」とか「平均」とは、まあ、それはそれで価値があるのかもしれないけれども、「ふつうじゃなきゃいけない」というのはおかしい。「ふつう」だったり「平均」でないものでも、そこから得られる知見というものは確かにある。

おおよそ、以下の規準でサンプリングの選択は考えられる。
1 平均的な事例(「ふつう」の生徒)
2 極端な事例(極端に学力が高いとか低いとか)
3 理想的な事例(こういうデータがあらわれるのが良いという事例)
4 典型的事例(いくつかの表れを最もよく代表している事例)
5 希少事例(レアケースを検討することで、見えてこなかった問題の発見につながる価値がある)
もちろん、これらを組み合わせることで、さまざまな知見が得られることになる。
研究の対象は「ふつう」じゃなきゃ意味が無いとか、「ふつう」を対象とすべきだというのは、偏った認識だということだ。

2014/11/26

給食を通して学校が見えてくる

給食・制服・そして教室は学校教育システムの象徴でもある。
それらは、子どもたちの衣食住を公的に提供し、保障する機能をもつ。
しかし、給食を例に取ると、学校で提供する料理は、子どもたちが普段家庭で食べるものとに大きなギャップが存在する。そこに問題の本質がある。
問題の解決の方向性は、ギャップを緩和することか、それともギャップに意味を持たせるかということの二択。
給食は最近、栄養教諭によって、健全な食習慣を養うという「食育」という意義を持たせるようになった。これも一つの方向性。一方、ふりかけや弁当を持たせてギャップを減らそうという試みもある。これも問題への対応と考えられる。
学校生活と私生活、そして社会のギャップをどのように考えるかという問題が、最も鮮明にあらわれているのが「給食」であると思う。
そしてそれは、学校という場で行われるあらゆる教育活動に通底する問題でもある。

2014/11/24

「アクティブラーニング」の実践研究が進んでいることを見る指標

また新しい言葉が出てきた。「アクティブラーニング」だ。
※アクティブラーニングとは?
教員による一方向的な講義形式の教育とは異なり、学修者の能動的な学修への参加を取り入れた教授・学習法の総称。学修者が能動的に学修することによって、認知的、倫理的、社会的能力、教養、知識、経験を含めた汎用的能力の育成を図る。発見学習、問題解決学習、体験学習、調査学習等が含まれるが、教室内でのグループ・ディスカッション、ディベート、グループ・ワーク等も有効なアクティブ・ラーニングの方法である。(文科省HPより)
ひねくれ者の私は、こういう言葉になるべく引きずられないようにとは思っているんだけれども、「アクティブラーニング」という言葉を使うかどうかはさておき、こうした学習者の活動を中心に置いた学習そのものは大賛成。昔から「畳の上の水練」という言葉だってある。
問題解決学習のような一つの単元レベルの授業から、ディスカッションやディベートなどの一時間の授業レベルの学習方法まで、「アクティブラーニング」という形で「学習方法(授業方法)」をお国から学習指導要領の形で具体的に指示をしてきたのは、実はあまり例がないのではないかという軽い驚きを感じている。


「アクティブラーニング」の実践上の問題は教師のみとりの精度
ただ、本当の問題は、子どもが活発に活動に取り組んだかどうか、そのものではなくて、それをどう教師がみとるかという問題であると思う。
子どもの自由度が高い活動中心の学習は、目的が明確であり、やる内容がはっきりとし、見通しが立つものであれば、子どもはわいわいと活発に活動に取り組んでいく。
そのときに、子どもたちの様子を表面上だけでなく、どう活動の内実をみとっていくかという問題が本当に難しいし、大切な問題であると感じている。(自分もしようとはしているがそれが十分にできてるわけでない)
だから、「アクティブラーニング」の実践が深まっているかどうかは、実はそれをどう実践者(教師)が見とり、語っているかということで。ある程度は判断できるのかもしれない。


「アクティブラーニング」をどう語るかという指標
たとえば、次のような表層的な部分だけを取り上げているレベルがある。
・とても話し合いが盛り上がっている/盛り上がっていない
・子ども同士が助け合っているね/助け合えていない
・学習が意欲的だ/意欲的でない
・子どもが活動している/活動していない
・子どもが参加している/参加していない
・子どもが集中している/集中していない
・子どもが楽しそうだ/楽しそうでない

私の場合、子どもたちの活動を見ても、最初は、このようにざっくりとした印象でしか語れない。
なかなかその奥にある学びを語ることができない。
しかし、話合いや活動の様子などの子どもの姿を丹念に見つめ、学んでいる内実を理解しようとすると、話し合いのバックヤードに目が向くようになる。
(研究授業などで、人の授業を見る場合、私がそのくらいのレベルまで見とれるのはせいぜい2グループ、8人くらいだ。全員の姿を一時間で見とるのは到底無理。)

話し合いや活動の裏で、どのように頭を使っているか、どのようにテキスト(学習材)と対話しているか、沈黙や独りでいることにどのような意味があるか。それらを、たとえば、次のような観点で見るようになってくる。
・話し合い(以後、活動と言い換えてもよい)を通して、それぞれがどんな関わり方をしているのだろうか?それらに傾向はないか。(教える/教えられる、リードする/支えるなど)
・話し合いがどのように学習内容に貢献しているか、それとも話し合うことで学びが阻害されていることはないか
・話し合う前や後の沈黙、「間」にはどのような意味があるか?
・話し合いに参加していないように見える子どもには、この授業がどんな意味を持つのか、どんな学びが成立しているか。
・個人の学びのペースと、グループやクラスの学びのペースは調和しているか。ギャップはないか。
・それぞれの話されることばが、どうつながり、溶け合い、発展していっているか。一人では思いつかない発見や気づきが生まれているか。いわゆる創発や止揚が生まれているか。
・↑それらが子どもの姿勢や目つきなどの身体性に現れているか。(フロー状態になると身を乗り出したり、目が輝いたりする)

「アクティブラーニング」をみる目を鍛えるためには
子どもを見る目が鋭く、センスもある天才的な先生がいる。そういう人には憧れてしまう。が、しかし自分はどちらかというと、そういうのはあまり得意ではない。(実は子どもの名前を覚えるのも苦手。油断するとすぐ忘れてしまうほどだ)
だから、子どもの学びをみる目を意図的に鍛えないと力は付いてこない。
たとえば、話合いを例にとると、グループごとにそれを録音し、談話研究をすると本当にさまざまな学びが生まれていることが分かってくる。面倒だけど一度でもやるとその勘所がつかめてくるかも。(談話研究の例はこちら)
また、他の先生の授業をみるときも、今ではクラス全体をざっと把握することはあきらめて、一グループ、一人に注目して一時間の学びを観察している。
一人の学びが見とれるようになると、それが二人、三人と増えていく。
このように観察する生徒、グループを限定して授業研究をするのは、今の学校の校内研究のスタイル。1時間で観察する子どもの活動グループ(4人編成)があらかじめ複数の先生に割り当てられる。そして事後の協議会では同じグループを観察した先生方でそれぞれの見え方を交流していく。
これまでは、ざっとクラス40人全体を見回し、目立つ子、気になる生徒の、気になった瞬間だけをつまみ食い的に観察をしていた。そして気にならない生徒はスルーしてしまっていた。
しかし、一時間で4人だけを観察し続けることを課されると、気にならなかった平凡な生徒や、何でもない時間の意味を考えなけれない。そこに気づきが生まれる。
生徒たちが変わったきっかけや、それに至るまでの「助走」の準備状態まで、時系列でとらえることができるようになる。これは私にとって大きな発見だった。

2014/11/23

楽しく煽るその友情

大学時代、恩師から「大学生なんだから『いまどんな本を読んでるの?』というセリフを会ったときの挨拶にしろ、と言われた。
いま風に言えば、そうやってお互いに情報をシェアしつつ、煽り、刺激し合うのがクリエィティブな関係性なのだということなのだろう。

現在、いろいろな関係でご一緒する方がいるが、やはり私の周りには「今どんな授業してるんですか?」と聞いたり、聞かれたりすることが多い。
いや、むしろそういう、自分のしていることを楽しそうに語れる人が自然と集まってくるということが真相のようだ。
そうやって煽られて、私もなんとか背伸びしてついていこうとしている。発達の最近接領域。

2014/11/22

「なになに流」を名乗り出すと胡散臭くなる

 「奥義に極意はない」という言葉がある。これは、極意はどこまでいっても突き止められないということと、極意は一つではないということを表している。
だから、その時は最適だと思っているやり方も、「極意」化してしまうと、そのやり方が一人歩きしてしまい、やり方に縛られるようになる。それは本末転倒だ。
そういえば、私の憧れる方々は、自分で自分のやり方に決して縛られなかった。いわんや「なになに流」などとラベリングしなかった。ラベリングした途端に、そのやり方や考え方に縛られ、思考が硬直してしまうことを知っていたからだ。

2014/11/17

計画性よりも「でっち上げ」性の方はよっぽど生きる力につながってくる

と、つくづく思うのだ。
計画をいくら完璧に立てたって、いや、完璧に立てれば立てるほど、その計画は間違いなく破綻することになっているのだ。人間の計画性ほど「完璧」でないものはないのだから。
だから、計画性なんかよりも「でっちあげ」性をこそ、鍛えるべきだと思うのだ。その場その場で、「場当たり」的に状況にアタックし、柔軟にことを進めてていく。そしてなんとかあり合わせのもので形にしていく。
その時々で「野生の勘」で判断し、その場その場で判断していく。そういうしたたかな知性こそ、ちんけでこざかしい計画性なんかよりも、よっぽど役に立つんじゃないかと思ってしまう。