2013/05/30

教育実践をみる視点としての「ふつう」と「自然」のせめぎ合い

教育実践は「ふつう」と「自然」のせめぎ合いの中に立っていると思う。

たとえば、体育で「跳び箱」とか「鉄棒」がある。
これを学ぶことはとっても「ふつう」のことだ。
しかし、実社会、実生活で、あのような奇妙な形をした箱を飛ぶ経験はまずありえない。
あのように鉄の棒が水平に置かれている状況も想像しにくい。
そう考えると、「跳び箱」も「鉄棒」も、とっても「不自然」なものであるともいえる。

実社会、実生活から見て、あり得ないくらい不自然なものではあるが、教育上有効であるのであのような教具が開発されたのだろう。
ちなみに、跳び箱や鉄棒は海外の多くの学校には存在しない。日本にとって「ふつう」のことが、海外でもそうとは言い切れないということも考えておくべきことである。

国語教育にも「不自然」はいくらでもある。
誰が読むのかわからないのに書かされている、読み手不在の作文。
何のために読んでいるのかわからない、文学の「主題」さがしという名の言語ゲーム。
相手の目を見て、はっきりと、大きな口を開けて話しましょう、という、話し手の気持ちとか相手との関係性を無視した話し言葉の指示。
などなど。

もちろん、学校教育そのものにも「不自然」はいくらでもある。
同年齢で集められる学年学級集団。
時間で細切りにされた学習時間。
挙手や一斉テストなどと言った学習ルール
「いつも笑顔で、元気いっぱいのクラス」という学級目標
これらはどれも、ごく「ふつう」の学校教育の一断面だ。
しかし、学校から出た、実社会、実生活の姿とはおよそかけ離れた「不自然」なものではないか。

それらが良い、悪いと言っているのではない。
きっと良い面もあるからこそ受け継がれてきたのだろう。
しかし、人間の学びにとって、それらが自然なものであるかを問い直したいのだ。

私は授業を「ふつう」軸と「自然」軸とでいつも見ている。
「ふつう」の授業として成立しているかどうか、という視点と、
人の思考や行動などにとって「自然」かどうか、という視点だ。

この場合の自然とは、ルソーのように、生まれたままの野生の姿に手を加えず、自然に戻れと言うことではない。鍛え抜かれた職人の腕前が美しく見えるように、思考や身体の流れが理にかなっているというイメージだ。
……この場合の「自然」は「自然体」という言葉で表されるイメージだ。

それに加えて「自然」を、実生活、実社会で使われる能力や活動と、教室での活動がそれほどちぐはぐにかけ離れていないものをイメージしている。
……この場合の「自然」はnatureではなくrealなものといった方が感覚的には近い。

さらに言えば、この「自然」には学ぶ主体である子どもたちと、それに介入する教師である自分自身にとって「自然」なものであるかどうかも不可欠な視点だ。
……この場合の「自然」は「無理がない」というイメージだろうか。


「ふつう」軸と「自然」軸とで授業をとらえると,次のように分けられる。
1、「ふつう」であり、なおかつ「自然」な授業
……王道系の授業。学校教育に適合し、多くの人が目指す、妥当な実践だろう。

2、「ふつう」じゃないんだけど「自然」に立脚した授業
……天才系の授業。学校の枠から外れるかもしれないけど、少数の創造的な天才教育者によってつくられることもある理想的な授業だろう。

3、「ふつう」なんだけど「自然」じゃない授業
……無理矢理な授業。学びをコントロールしすぎて不自然な授業に陥っている失敗な授業。
または、「あたりまえ」を疑うこともせずに盲目的に実践して失敗しているパターン。
熟練した教師がえてして陥りがちな独断的な授業にこれが散見される(ような気がしないでもない)

「ふつう」でもないし「自然」でもない授業
……支離滅裂な授業。チャレンジングな取り組みをやり過ぎて失敗しているパターン。
実習生の授業とか、奇をてらう私の授業のほとんど……

こうして考えてみると、私にとっての理想の授業は「ふつう」よりも、「自然」であることだと気づく。
普段、人と話している生活、本を読む生活、ものを書く生活。はっと驚き、感動したり、じっと悩み、考えたり、目を開かされたりする、人の自然な学ぶ姿。
それらが教室の中で「自然」につながっている学習をこそ、私が目指している理想なのだということに帰着する。

自然から発想する。
生活・社会から発想する。
当たり前から発想する。
そして「ふつう」を疑う。

「自然は従うことによってしか支配できない」という言葉がある。
創造的な教育実践は、「自然」から発想し、「ふつう」のなかで、あるいは「ふつう」を乗り越える実践であるとも言える。

2013/05/29

質問しかしない話し合いが、なぜ「書くこと」の学習に有効なのか

現在勤務している学校では5年間実習生を指導してきている。
毎年たくさんの実習生の授業を参観したり指導してきていると、いろいろな授業の手法を学ぶことができるので大変有益だ。
特に、精錬授業ではほとんどの場合、生徒同士の交流(話し合い)が中心となる活動なので、話し合い活動の様々なパターンを学ぶことができる。
私と同年齢、同校種の教師で、私ほど色々なパターンの交流の授業を見てきた教師はそういないだろう。
そのなかでも、うまくいった交流とうまくいかなかった交流はもちろんある。
比較的うまくいくことが多いのが、下記に紹介する「質問し合う交流」だ。

今日の精錬授業は島崎藤村の「初恋」を扱った授業だった。
「初恋」の詩を、連ごとに日記形式に書き換えて読みを深めるという趣旨の授業だ。
本時の展開では、「構想メモを交流し合い、詩の内容を生かした『日記』を書こう」という課題。
作品の構想について作者が提案し、それについていろいろと質問し合って交流するというのが中心的な学習活動となる。

交流は、よく、完成した作品を読み合う相互批評というものが多いように感じる。
それでも確かにいいと思うけど、交流が作品に反映されにくいというデメリットがある。
できあがった作品について感想を述べ合うといっても、特に対立する意見を言うことなどありえないので、和やかに一言ずつ言って終わりというのがおきまりのパターンだ。

その点、交流を、作品の完成前に位置づけるといろいろと効果的だ。
たとえば、書く前の、構想段階で交流を設定するのだ。
構想段階で、作者は自分の完成作のイメージを他の人に語る。
他のメンバーは、それに対して質問をしたり助言をしたりする活動を行う。
これは、本を作るときの「編集者」と「作者」のやりとりと似ている。
「編集者」は「作者」が書きたい思うものを引き出し、完成作の具体的な見通しが立つように支援をする。「編集者」と「作者」とで共同的に作品を作り上げていく。
「書くこと」の学習においても、編集者と作者の共同的な関係性を、生徒同士の話し合いの中で実現させていくのだ。

この「編集会議」の手法は、ライティングワークショップ(作文ワークショップ)に取り組まれている、筑波大附属駒場中高の澤田教諭の実践によって提案されたものである。
澤田教諭は『質問会議』(清宮 2008)から「質問を通して内省を深める」という作文カンファレンスの手法を提案した。それがこの「編集会議」だ。
「編集会議」では、作者は自分の作文の構想を述べる。それに対してグループのメンバーは意見を一切差し挟まず、ひたすらそれに対して質問をしていく。
作者は質問に答えていくうちに、自分の構想のあやふやな部分や、読者が注目している部分に気づかされていく。それが作文の記述にも生かされていくというのだ。

この「編集会議」の手法は非常に強力で、私もエッセイの作文指導の際に澤田実践をアレンジして「作者と読者の交流会」を実践した。
そのときの学習活動は次のようなものだ。

「単元 『私もエッセイスト』 作者と読者の交流で作品を高め合う」の授業から


○今日の交流のねらい
 エッセイの書き方を検討し合い、エッセイの書き方を学ぶ。

○ポイント
 交流では、とにかく、作者にたくさん話してもらうことが大切。
 質問を通して作者の考えを明確にさせたり発想を広げたりさせる。
 作者の立場に立って、制作で悩んでることとか課題をともに解決する。
 本人も気づいていないおもしろさを引き出す。(といいな)

交流の流れ


①作者から内容の説明
「これから●●さんのエッセイについて検討していきます。
 まずエッセイの内容について作者から説明をしてもらいます。」


②感想の交流
「つぎに、順にこのエッセイについての感想を言ってください。」



③質問・アドバイスの交流
「ではこのエッセイをよりよくしていくために読者から作者へ質問やアドバイスをしていきます。
 ○○さんどうですか。」

質問の例
 (1)理由や意図を尋ねる

 「なんでこれについて書こうと思ったの?」
 「ほかに書こうと思ったのはないの? これに決めた理由は?」
 「どうしてこういう話の順番にしたの?」
 「この順番がベストだと思う理由は?」
(2)よくわからないところについて、もう一度聞く
 「●●って言葉の意味がわからないんだけど、どういうこと?」
 「いま言っていた●●●について、もう少し詳しく話してくれる?」
 「この体験談(エピソード)はエッセイの中でどういう役割を果たすの?」
(3)書き手の表現したい内容や構成について確認する
 「このエッセイを通して一番伝えたいことはどんなこと?」
 「これを表現するために、どんな体験談を取り上げるつもり?」
 「この伝えたいことと体験談はどういう言葉でつなげるつもり?」
(4)相手の返答を、要約して、確認する。別の言葉に言いかえる
 「それってつまり、こういうこと?」
 「たとえば、言い換えると、それは○○っていうこと?」
 「じゃあ、ここでの君の狙いはこういうことにあったわけ?それでいい?」
 
(5)別の可能性について考えてもらう
 「●●君だったら●●の経験とかを書けばいいんじゃない」
 「●●以外の体験談とかはないの?入れたら文章の印象が変わらない?」
 「●●を体験談で取り上げるなら、自分の考えは●●●にしたらどう?」
 「この体験談の逆の体験はある? それを入れてみたらどう変わるかな?」
 「この作品って、実は●●を中心にして書くとおもしろくならない?」
 「ここでエッセイの流れをこんなふうに変えたらどうなる?」 
(6)今後の予定や計画について尋ねる
 「実際に書く時は、どの場面をとくに詳しく書くつもり?」
 「この体験談の中には、どんな会話とかが入るの?」
エッセーは、作者の個性的な考えや発想を、具体的なエピソードなどを通して語る文体である。
そこで、エッセー中のエピソードの位置づけや、そこでの作者の意図などを質問によって浮かび上がらせようとしたのだ。

注意すべきなのは、この質問項目は、エッセーの創作だからこそ通用する質問だ。
意見文や物語であれば、文種の特性に応じて、他の質問内容にアレンジしないといけないだろう。

省察とは自己破壊、自己更新。

実習生の指導のために、3年前に自分の実践をまとめた原稿をコピーして渡した。
それをしげしげと読みながら、
「こうして読むと、俺っていいこと言ってるじゃん!」
「我ながらすごい!」などと、一人で、ひとしきりご満悦だった。
けれど、よく考えれば、3年前の実践に感心しているようじゃあ、こりゃあ3年前よりも進歩していないってことなのか!?
カップヌードルも謎肉からコロチャーに変わったというのに、自分は何一つ成長していない。
大ショック!!
小さくまとまらないで、もうちょっと攻めていかないといけないなあ。アグレッシブに。

私にとっての省察とは、エンドレスな自己否定、自己破壊、自己更新だ。
今日の自分を明日の自分ががだめ出しできるかだ。
まだ30代なのに、50代のような円熟した仕事をしようとしてどうする。

2013/05/28

文学の感想交流の話し合いは難しい

今日の実習生の文学の授業はとても感銘を受けた。
重松清「タオル」を、4つのキーワードで読み解く実践だった。

まず、次のキーワードに関する課題の中から一つ選ぶ。
・「涙」…流せなかった涙が流せたのはなぜだろう?
・「居場所」…少年がついに見つけた居場所とはどこだろう?
・「タオル」…少年にとってタオルとはどんな役割を果たしているだろう?
・「磯のにおい」…磯のにおいが少年に気づかせてくれたこととは何だろう?

そして、その課題に沿ってカギとなる描写を探す。

最後に、3つ以上、根拠となる描写を取り上げつつ、自分の考えを文章で表現する。

そういう学習であった。
本時の展開は、今まで個人でまとめていた考えを話し合って交流するという位置づけだった。

この授業では、設定した課題の切り口がなかなか鋭いのがよかった。さらには、引用をさせつつ考えを主張させるという手堅い方法で、どの生徒も叙述を根拠に読みを深める学習になっていた。
惜しい点が、「本時の展開」の感想交流だ。
事前の入念な指導でどの生徒もA4でびっしりと自分の考えを文章化している。
それを持ち寄って、次のように「話し合い」をしようという展開だった。

感想交流の方法
・同じキーワードを選択した生徒4人でグループとなる。
・他の人の課題を黙読しする。
・なるほどと思ったところ、自分と異なる解釈をした人に聞いてみたいことを話題にして話し合う。
という流れだった。

しかし、せっかくいい考えを文章にまとめていたんだけど、いざ「話し合いましょう」といっても、ほとんどの生徒が何を話したらいいかとまどってしまい、黙ってしまったのだ。

なぜ話し合いが停滞したのだろうか?
この原因として考えられるものは、
・何のために「話し合い」をしているのか明確ではなかった。「ふーん。それで?」という感じだった。
・情報量が多いので、読み合うだけで精一杯。どこから発言していいかわからなかった。
のようだった。

どうすれば良かったのだろうか?
まず、話し合いのねらいを絞り、ゴールを明確にすべきだったと思う。
たとえば、
・気になった表現とその理由をどんどん紹介し合う、とか
・自分と解釈が分かれる(共通する)描写を指摘し合おう。や、
・他の人と解釈が分かれたものが、どんな理由から起きているのか吟味しあおう。
などと、ねらいを焦点化させるべきだっただろう。

そして、話し言葉による交流のあり方にも問題があったと思う。
話し言葉は、あくまで話し言葉によって勝負すべきだ。
今回の授業では、話し言葉による交流と言うよりは、どちらかと言えば「読み合う」タイプの交流であった。ワークシートに書き出された情報量がかなり多かったので、それを黙って読むだけで終始していた。
でも、黙って読み合うのが悪いわけではない。書き言葉による交流であれば、他の人が書いた文章に、直接自分の感想や意見などを書き込み交流をする「書き合う交流」だってある。
話し言葉による交流(話し合い)をするのであれば、いっそのこと、今まで書いていた文章を一切見させずに、ノーガードで話し合いをさせたってよい。
教科書の本文を指さしながら、あるいは引用した本文をカードに書いたり、キーワードを提示しながら、語らせるという方法だってある。それだけの思いや考えは事前に十分練られていたはずであるからだ。

さらには、話し合う「切り口」を提示できれば良かったかもしれない。
質問の話形や感想の話形などを例示するのだ。
・「そうそう、僕もそこを考えていました」
・「お言葉ですが、そこについての考えは、ちょっと違います」
・「その言葉以外に、○ページの○行目には……」
・「○ページの言葉には気づきませんでした」
などなど、話し合いを絡めていく切り口を例示するのだ。
そうすれば、「どうやって話し合っていけばわからない」という生徒に対してヒントとなるかもしれない。

もっとも、文学の感想交流の話し合いそのものは難しい。
感想は「個」で持つもの。その「個」の読みを壊さずに、なおかつ引き出しあう交流はとても難しいと実感している。
たとえば、文学の感想交流の話し合いで「班で意見をまとめましょう」という指示がある。
私は、グループで感想をまとめるという話し合いにはかなり違和感を持っている。不快感と言っても良い。
感じることも、気づくことも、考えることも、つまり、学ぶことは、結局はたった一人で行われることだと思う。そのプロセスで多くの人が関わっていたとしても。
他の人と意見を「まとめる」必要が、個人にとってそれほど必要でないとするならば、「まとめる」ことにどのような意味があるのだろうかとさえ思う。

私は、話し合いを行うとき「班で意見をまとめよう」という指示は、文化祭の出し物や校外学習の行き先を決定することなどの必要に迫られるもの以外は、ほとんどしていない。
他人と意見をそう簡単に合わせたり、まとめられるものではないと思っているからだ。
「まとめる」ことをしたとたんに、少数意見や他と変わったユニークな意見が封殺されるということはないだろうか? 
そして文学の読み取りなどでは何より「少数意見や他と変わったユニークな意見」があるからこそ、鑑賞が深まるという面もあるのだ。

「個の読み」を広げたり深めたりして強化するための「交流」という位置づけが、私には一番しっくりとくる。
そのために、感想交流の学習では、まず「個」で自分の感想や意見を「書いて」まとめておき、それから「交流」を通して読みを広げたり深めたりし、最後にふたたび「個」に戻り、交流を通して得たものをふりかえらせるようにしている。

2013/05/26

教育研究団体が、胡散臭い宗教みたいな信者を生むステップ

1、今の教育は間違っている、とか、あなたの授業はなってない、教師の資質が問われる、などと現実の全否定を迫る。

2、「その原因は……だ」などと問題をおそろしく単純化する。

3、この理論(教祖)に帰依すれば絶対大丈夫!と、安易に「絶対」という言葉を使う。

4、批判が言いにくい空気の信奉者たちのコミュニティのなかで「ただ一つの救いの物語」がリピートされる。

5、「教義」と、現実とのギャップに気づいても、「ダメなのは修行が足りないから」とか、「おかしいのはこの現実」と、現実を繊細に内省することができなくなる。

6、自分は選ばれた人間だから、周りはみんなバカ、とか、こんな勉強してないちんけな同僚から学ぶものなど何もないと豪語し、周りから浮く。

7、ついにどうにもならなくなったらその教義をすて、あらたな「救いの物語」を探すために、他の団体を渡り歩く。

こういう言葉が飛び交いはじめたら、ちょっと怖いなあと感じる。
「……方式なんて最低。あんなの全然意味がない。それより○○先生の……」
「○○先生の言うとおりにやったら、こんなに変わりました!」
「とりあえず○○先生がこう言っているから……」
「○○先生は神様のようです」


誤解があるといけないので補足。
私は宗教そのもの、教育研究そのものが胡散臭いとは全然思っていない。
しかし、胡散臭くする何かが加わることで妖しいものとなってしまうのだと思う。
それは、一言で言えば、中途半端であやふやでどうしようもない現実を、解釈しようとする繊細さを捨て、一つの物語だけを信じ込む愚かさにあると思う。
豊かな意味を持った現実から学ぶことを拒否し、目をつぶる姿勢にあると思うのだ。

「真理はあなたたちを自由にする」という言葉がある。
私が信じている「真理」は、はたして私を「自由」にしているだろうか?

※この話はフィクションであり、現実の団体とは全く関係ありません。

「かため」「こいめ」「うすめ」、または、私の嫌いなもの

私は基本的には「かため」「こいめ」「うすめ」な人間だと思う。
ちなみに、家系のラーメンのオーダーも「(麺)かため」「(味)こいめ」「(油)うすめ」がデフォルトだ。

操は硬く、味は濃く、そして、他人にはあまりしつこくなく。

しかし、大人の生き方の好き嫌いは結構はっきりしている方かもしれない。
たとえば、こういう生き方は好きではない。

・レストランの店員さんなどを、上から目線で思いっきり文句をつける偉そうな奴。
→なんでそんなに他人に対して高圧的になれるのだろうか?

・コンプレックスが強すぎて、つねに人と比較してうらやんでばかりいるうじうじした奴。
→コンプレックスのない人なんていないはず。それを表に出すかどうかの違いでしょう。

・「自分はばかでーす」とバカさ加減を自慢する軽薄な奴。
→「ばか」かどうかということよりも、知的なものを軽視する姿勢がいただけない。

・雑談といえば「……さんって知ってる?」とかいう、自分のコネクション自慢しかしない無内容な奴。
→これは私もよくやってしまう……教員特有の狭いコミュニティーで通用する会話で、新採時代すっごくいやだった。けど今は麻痺してしまっているかも。

・「趣味は昼寝」とかいう低燃費な奴。
→もうちょっとがんばろうよ、というか人生つまんなくない?

・人間の見方を十把一絡げに見て、おおざっぱすぎる奴。
→これも自分にも当てはまっているかも。一人一人を見つめることなく、「日本人は」とか「みんなは」とか言っちゃうもんな。

・右翼、左翼などの思想に寄りかかって自分で考えようとしない奴。
→思想なんて、使いこなしてなんぼでしょう。思想に使われてどうする。

・最後に、人のことを簡単に好きとか嫌いとか言っちゃう奴。
→あ、私のことか! でも、やっぱり、人の印象なんてつきあっていくうちに変わっていくものだから、こうはいってみたものの、そんなに切って捨てるというわけではないと思うよ。

結論、つまりは「生きよ堕ちよ」ということなのだ。(詳しくは坂口安吾を参照)

しかし、こうしてみてみると、むむ、いくつかは自分にも当てはまっているではないか!


「下手の考え休むに似たり」と「省察」(仮)


「省察」が教師の力量を向上させるカギだという。確かにそうだと思う。
しかし、不勉強な私は、なんとなく「省察」という言葉を悪意を持って解釈すると「下手の考え休むに似たり」という言葉を連想してしまう。

私は、自分の力量が伸びたと思ったのは
1、魅力的な先行者へのあこがれと模倣
2、当事者意識を持った実践
3、千のアドバイスより一つの失敗
などが大きいと実感的に感じている。
身近にいる先行者(職場の先輩など)のよいところをまねしてみたり、自分なりの手応えを持った実践(まねではなく、そこから自分なりの何かを付け加えた実践)を積み重ねたり、身にしみる失敗を積み重ねて、今こうしてやってきていると思っている。
「省察」がどういうものか、よく理解していないだけかもしれないけど、「省察」を重視する風潮の中で、ややもすると「あこがれとか模倣」の要素が否定されないか、勝手に危惧している。

と書いたけれども、どうやら「省察」はそういうものではないようなので、(仮)とさせていただき、続きはまた今度勉強してから書きます。

「職場の先輩からは何も学べないんです」という人のための、効果絶大の研修方法


こう言ってしまえば身もふたもないけど……
どんなすごい教育書を読むことよりも、同じ学校で働くちょっと憧れる先輩の姿の方が、実際にはずっと参考になる。
そのわけは、
同じ生徒の実態を共有しているから。
ちょっと背伸びすれば自分にもできそうだから
なぜ? どうして?という質問をしようと思えばすぐにできるから
そして、実践している姿を目の当たりに見ることができるから
だろう。
料理で言うと、レシピなんかを一生懸命眺めるよりも、料理人のそばに行ってそれを見ている方がよっぽど勉強になる、ということなのだ。

だから、とても熱心に勉強会などに参加している若い先生方から「職場の先輩からは何も学べない」というような言葉を聞くと、とても残念な気持ちになる。
その人以外のみんながこう言うだろう。
「職場の先輩からは何も学べないんです」という人の、本当の問題は「いい先輩がいない」のではなく、「先輩のいいところがわからない」のだ。と。

見る力・感じる力
授業でも生徒指導でも、なんでも、教師の力量を上げるために不可欠な要素は「見る力、感じる力」だと思う。
「見る力、感じる力」を持たない人が、いくら優れた教育実践を見ても、何もわからない。
たとえば、料理が全くできない人が、コックさんの料理姿を見てもほとんど何も感じないだろう。
しかし、料理をしている人が見れば、コックさんの一挙手一投足に、どのような意味や意図があるのかを「見たり、感じたり」できるだろう。
火力はどのくらい?
どのタイミングで鍋に食材を入れるのか?
食材を鍋に入れる瞬間に、鍋をふりふりしたのはどのような意図があるのか?
調味料を入れる順番には規則性がないのか?
料理の飾り付けにはどんな配慮があるのか?
(コックでもスポーツ選手でも何でも同じだけど)
ただ、料理もそうなんだけど、やってみないことにはなかなかわからない(見えてこない)世界というのは確かにある。

ある実習生のエピソードから
本校の実習は4週間だ。最初の2週間は授業観察、その後2週間が授業実習となる。
2週間の授業実習が終わると、ちょうど実習期間も終わりで「さよならー」となってしまう。
しかし、時折授業実習が早めに終了し、残りの期間、先生方の授業を参観できるようになることがある。
そんなとき、実習生が、皆、口を揃えて言うのが「授業を見る目が全く変わった」と言うのだ。
当たり前のことだが、やってみてはじめてわかることがある。やってみないでいくら「観察」をしても、どこを見たらよいかわからないので、とりあえずただぼんやりと眺めることになる。
つまり、一度授業をやってみた実習生には「授業を見る力」が付いたのだ。
問題意識、当事者意識を持って授業を見るようになると、スポンジが水を吸い込むようにぐんぐんと吸収していくようになる。
(こういう風に授業を見たらよいよ、というアドバイスなんかよりも、実際に自分で授業をやってみてから、指導教官の授業を見させた方がずっとずっと授業を見る目が鋭敏になるようだ)

ジプシー法のすすめ
……余談になるが、そう考えると、初任者層の研修で最も必要なのが「当事者意識を持って、モデルとなる授業を見る」経験ではないか。おっかなびっくり、自分で少しずつ授業をやってみながらも、そのモデルとなる先輩の先生の授業実践を観察させるのだ。
(授業でなくても、生徒指導でも学級づくりでもなんでも。
例えば、ジプシーのように、初任者がいろいろな先生のクラスや授業に飛び入り参加し、授業をしてみるなんてどうだろう)
「少しずつの授業」は、ここでは「授業を見る力」を高めるための噛ませ犬のようなものだ。……子どもには全く失礼な話だと思うかもしれないけど、実際には授業をろくに見せもしないで、素人同然の初任者に、無手勝流に授業をやらせている。どっちが失礼なんだろう?

……さらに余談。初任者指導員が熟練しすぎたおじいちゃん先生ばかりなのも気になる。
初任者自身と、指導教員があまりにもかけ離れすぎてもモデルにはならないと思うし、その指導教員と相性が合わなかったら悲劇だ。だから、ジプシーのように、色々な先生について、授業や生徒との関わり方などのスタイルを盗むことがいいのではと思うのだ。

さて、「授業を見る目」を高めることの必要性、これは実習生に限った話だろうか? といいたいのだ。
実際に体験をして課題や気づきなどの課題意識を持ち、その上で、先輩の授業を見る。
そうやって「授業を見る目」を向上させていくことが、あまたある授業技術などを学ぶことと同じか、それ以上に必要なことなのではないかと思う。

たとえば、もし、私が授業の力量を伸ばす研修を受けられるとしたら、ある単元の授業を自分でやってみて、その後で、他の先生が同じ授業をしているのをじっくりと観察したいと思う。
そして、さまざまな先生が、この授業からどんなことを学んだかという「授業を見る目」を交流させるような研修をしてみたい。
きっとかなり多くのことを学ぶことができると思う。
そういう研修だったら、いくらでも喜んで参加したいと思う。
このような「授業を見る目」を強化するトレーニングを受けてみたい。


2013/05/21

共創の交流を活かした授業作りの視点~論考「交流」その2~


「話し合いましょう」と教師が指示をしても、目的や進め方が明確でないと散漫な活動になる。
何のために話し合いをするのか、話し合いをすることで、何が、どう変わるのかを教師も生徒も意識することが必要である。さらに言えば、交流(話し合いなど)のさまざまな機能を明確に意識し、学習プロセスに即した交流を展開していくことが必要だ。
※「交流」とは必ずしも話し合いに限定されるわけではない。書き合う、読み合う交流もあるだろう。


交流のパターンと機能

A 共感的交流
・目的
良いところを認め合う交流。
相互に認め合う・わかりあう。学び合うコミュニティーを形成する交流。
・機能
他者を受容し理解する。
良いところを認め合う。
・交流例
作文の交流
文学作品の感想交流

B 累積的交流
・目的
互いに多様な意見を出し合い、ものの見方や考え方を広げる。
・機能
発想を自由に広げる。
拡散的に思考を広げる。
・交流例
ブレインストーミング
バズセッション

C 連鎖的交流
・目的
他と発想を関連させつつ発展させていく。
・機能
発想を関連づけて広がる。
連想する、関連づけをする。
・交流例
マッピング、連句、連詩

D 探索的交流
・目的
一つのテーマに沿って考えを深めたり、まとめたりしていく収束的な交流。
・機能
認識を深化する。
意見を合意形成する。
・交流例
助言を述べる、質問する。
考えをまとめる話し合い。

E 批判的交流
・目的
観点を持って相互に評価(批評)しあう。
・機能
観点に沿って評価する。
批判的思考をする。
・交流例
ディベート・相互評価

なぜこのように交流のパターンを整理する必要があるのだろうか。
交流の中には上記のさまざまな機能が混在しているのが一般的だろう。
しかし、学習(課題解決)に最も適した交流のパターンを見極め、その交流の機能を授業に生かすことができれば、学習の中に交流を有効に位置づけることができるものと思われる。

交流の機能を課題解決のプロセスにあてはめる
交流は課題解決のそれぞれのプロセスにおいて活かすことができる。
それぞれのプロセスにあった交流の機能を選び、展開させていくことが重要である。

グループで新聞を作る活動を例に挙げて考えてみよう。
はじめに、どんな記事を書くか意見を出し合う段階で話し合いをするとする。この場合、とにかくアイデアを数多く出し合う、累積的な機能を活かしたブレーンストーミングが有効である。まず、この段階では意見を否定したり絞り込むまとめることは必要ない。
十分に意見を出し尽くした後で、たくさん出たアイディアの中でよりふさわしい記事は何かを話し合い、まとめていく。この段階で、探索的な交流を意識させるようにする。
 記事が仕上がったあとは、お互いの記事を厳しい目で読み合って推敲や相互批評をする。不適切な内容や表記はここで正される。この段階では批判的な交流が活きる場である。
 最後に、完成した新聞を出版し、他のグループと交換して読み合いをする。この段階では批判は禁物である。お互いに楽しく読むことが何よりも大切にされないといけない。共感的な交流をして、、お互いのよいところを積極的に評価しあえると、この単元の学習の達成感をより一層高めることができる。
 このように、学習活動を効果的に遂行するためには、課題解決のプロセスにあわせて交流を設定し、交流がより共創的なものとなるように配慮することが大切である。

参考 学習指導要領に記載された「交流」の指導事項一覧
小学校低学年
書いたものを読み合い、よいところを見つけて感想を伝え合うこと。
小学校中学年
書いたものを発表し合い、書き手の考えの明確さなどについて意見を述べ合うこと。
小学校高学年
書いたものを発表し合い、表現の仕方に着目して助言し合うこと。

小学校では「よいところを見つける」という共感的な交流からスタートし、中学年で、それぞれが意見を述べ合うという形に発展し、さらに高学年では相手の立場に立って助言をし合う交流が想定されている。
中学1年
書いた文章を互いに読み合い, 題材のとらえ方や材料の用い方,根拠の明確さなどについて意見を述べたり自分の表現の参考にしたりすること。
中学2年
書いた文章を互いに読み合い, 文章の構成や材料の活用の仕方などについて意見を述べたり助言をしたりして, 自分の考えを広げること。
中学3年
書いた文章を互いに読み合い, 論理の展開の仕方や表現の仕方などについて評価して自分の表現に役立てるとともに, ものの見方や考え方を深めること。

中学校では「意見を述べる」→「助言する」という流れは小学校と同じだが、「評価する」というようなクリティカルな視点が交流に入ってくる。

高校国語総合
優れた表現に接してその条件を考えたり,書いた文章について自己評価や相互評価を行ったりして,自分の表現に役立てるとともに,ものの見方,感じ方,考え方を豊かにすること。
高校国語表現
様々な表現についてその効果を吟味したり,書いた文章を互いに読み合って批評したりして,自分の表現や推敲に役立てるとともに,ものの見方,感じ方,考え方を豊かにすること

高校では「相互評価」→「批評」というようにクリティカルな交流が中心となっている。


これからの時代に求められる「共創の交流」~論考「交流」その1~

学習指導要領に「交流」が設定された経緯
 新学習指導要領の改訂に大きな影響を与えたのが、OECDの提示した学力観であるキー・コンピテンシーであるとされる。
キー・コンピテンシーについてはこちらなどを参照。

これは知識基盤社会ともいわれる今後の社会を生き抜いていくための「鍵となる能力」としてOECDが提案してい三つの力のことである。
 この三つの力の一つに「異質な集団で交流する力」が設定されている。

 学習指導要領国語科の指導事項の中に「交流」が新設された経緯のひとつとして、このキー・コンピテンシーの交流の記述が契機となっているのは間違いない。
 新学習指導要領国語科改善の基本方針の中に次のように書かれている。
 自ら課題を設定し・基礎的・基本的な知識・技能を活用し、他者と相互に思考を深めたりまとめたりしながら解決していく能力の育成を重視する。 
「他者と相互に思考を深めたりまとめたりしながら解決していくこと」が国語科における「交流」の本質である。
これからの国語の学習では、個の学びだけでなく交流を通してお互いに学び合うことが、今まで以上に求められることになるだろう。

共創の交流
 それでは、国語科の学習活動の中で、どのような交流が求められるのだろうか。
交流の望ましい姿とはどのようなものなのだろうか。
 国語科の学習の中で求められる交流の姿として、「共創の交流」というコンセプトを提案したい。

 寺井正憲はキー・コンピテンシーで「交流」が取り上げられている意義を明らかにし、これからの時代に求められるコミュニケーションについて次のように述べている。
 相互作用的に道具を用いることはPISA型読解力が含まれ、異質な集団で交流することにはコミュニケーション能力、自立的に行動することは課題解決に関わる能力といえる。PISA型読解力と言えば、解釈や熟考、評価という言葉からもわかるように、考えや意見を確かに持つ個を育てようとしている。自立的に活動するのも個を強化することだろう。しかし、個を強化すればするほど個と個の異質性、他者性は高まり、それが摩擦や軋轢、対立となって顕在化する。そのような状況において、自分を失わず、他者も尊重し、互いが協力して新たな意味を構築するようなコミュニケーションがこれからは必要となるに違いない。(寺井正憲(2010)「交流活動を促す学習形態の工夫」『月刊国語教育研究』No458) 
寺井正憲は「交流」のあるべき姿として、「自分を失わず、他者も尊重し、互いが協力して新たな意味を構築するようなコミュニケーション」を提示している。
 このようなコミュニケーションについて寺井と問題意識を共有しているのが山元悦子である。
 山元はコミュニケーションのあるべき姿として「共創的コミュニケーション」というモデルを提示している。
自分の思いをわかりやすく筋道立てて伝える情報伝達コミュニケーションも大切である。また、異なる考えの接点や統合をはかりながら問題解決的・合意形成をしていくコミュニケーションも大切である。しかしそれらのコミュニケーション行為を進める上で土台となっているのは、共創的なコミュニケーションを営もうとする資質や技能の育成ではないだろうか。具体的にいうならば、それは他者と意見を交わし合う中で自分の漠然とした考えが確かになり、新しい発想を得、お互いの力がプラスの方向に補完しあう共創のディスカッションを進めていく能力である。 
(山元悦子(2008)「共創的コミュニケーションの育成を目指して ―教室コミュニケーションの構造―」『月刊国語教育研究』No.434)  
寺井、山元の両者に共通しているのは、コミュニケーションを伝え手、受け手のただの言葉のやりとり(情報伝達コミュニケーション)としてとらえるのではなく、伝え手・受け手が相互にコミュニケーションをすることによって新たな意味を創造する点(共創的なコミュニケーション)を重視しているところである。
 単なる情報の伝達を超え、相互に意見を交わし合う中で新たな意味を生み出すコミュニケーション。これこそが、これからの時代に求められるコミュニケーションの姿である。「共創の交流」とは、このような交流のことととらえている。

「メタ・ディスカッション法」試案


話し合いの授業がなかなかうまくいかない理由を実習生と話していました。
話し合いが盛り上がらないんです。
自分の意見を言い合ってといっても、固まってしまうんです。
何を言ったらいいか途方にくれるみたいです。
人間関係とかを気にして発言しづらいようです。
こんな悩みを出し合っている中で、「これはいけるかも」と思いついた画期的??な話し合いの方法が「メタディスカッション法」です。(一応ネーミングは思いっきりかっこよくしてみました)

手順はこんな感じです。
1、自分の意見を付箋に書く。(匿名で)
2、その意見をグループごとにまとめてミニホワイトボードに貼る。
3、ホワイトボードに貼った意見を、となりの班と交換する。
4、他の班の意見に対して、どれが最もよい意見か話し合う。
5、班で話し合った結果を発表する。

どうですか?
イメージができましたか?

このディスカッションは「句会方式の話し合い」とも「岡目八目ディスカッション」とも言います。
まず、俳句の「句会」のように匿名にして「誰が言ったか」というよりも「何を言っているか」に目を向けさせているのが工夫の一つです。
積極的に話すことが苦手な生徒も、書くことで自分を表現できる生徒もいます。キャラに合わない、まっとうな意見を書いている生徒がいたりという驚きもあったりします。
自分の意見を他の人がどのように感じているかを知るのはちょっとドキドキします。

また、自分の意見について意見し合うのではなく、他の人の意見について意見し合うのも工夫の一つです。
日本人の話し合いで最も苦手なのは、面と向かって相手の意見を否定しにくいということではないでしょうか。他人の意見だったら、あーだこーだ好き勝手に意見することができます。また、同じくらいの力を持った人の、さまざまな角度からの意見に触れることで、自分の思考が活性化するというメリットがあります。
さらには、「この人はなぜこんなふうに考えたんだろう」というメタレベルの話し合いができる可能性もあります。
(いうまでもなく、この「なぜこんなふうに考えたんだろう」という思考が、このメタディスカッションでは重要なポイントとなると思います。そしてグループで話し合った匿名の意見の根拠なり理由を、後で本人に確認するというのもよい学習になるのではと思います)
誤答も、正解も、適切な意見もそうでない意見も俎上に上がり、かつ、面と向かって批判的な意見を言い合うことで、お互いが傷つくことなく検討し合えるというメリットがあります。
「岡目八目」という言葉があるように、人の意見について意見する方が言いやすいという心理を利用しています。

今回は付箋で取り組んでいますが、とてもシンプルな方法なので、タブレットなどのICTの活用で、いくらでもこの話し合いの方法が応用可能だと思います。
なかなかいいとは思いませんか?
もう少しこの方法を練り上げていきたいと思っています。よろしければご意見を!
っていうか、先行実践とかはないのでしょうか?

「おもしろい病」にご用心



つい言ってしまう「おもしろいね」
教師の評価言(生徒の感想や意見などに対する教師のコメント)の中で、気になる言葉がある。
「おもしろいね」という言葉だ。

また、ある授業で、
「これからみんなで話し合いたいと思います。この中で、一番おもしろいなと感じたものを一つ選んでください」
こんな指示もちょっと気になる。

「おもしろい」という言葉はよくよく注意して使わないといけないと思っている。
なぜなら、教師が「おもしろい」と感じることと、生徒が「おもしろい」と感じることは必ずしも一致しないからだ。
教師が「おもしろい」という言葉をついいってしまう気持ちは私にもよくわかる。
生徒にとって楽しい授業になってほしいという気持ちからだ。
「おもしろい、楽しい」授業を追求することは当たり前だし、そうなってほしいと思って私も授業をつくっている
しかし、繰り返すが、子供が感じる「おもしろさ」とか「楽しさ」と、教師が感じてほしい「おもしろさ」「楽しさ」とは同じではないのだ。
このずれを意識しないままに授業をしてしまい、子供が感じる「おもしろさ」に寄りかかった授業をしてしまうと、知的な楽しさとか、美しさとはほど遠い授業になってしまう失敗が私にはよくある。

おもしろさの中身
授業の「おもしろさ」の中身をこそ、教師は吟味すべきだ。
たとえば、「おもしろさ」を腑分けしてみよう。
色々な「おもしろさ」があることがわかってくる。
・おかしい
・笑っちゃう
・変だ
・意外だ
・変わっている
・インパクトがある

・興味深い
・気になる
・印象的だ

・美しい、整っている
・趣がある

・独特、ユニークだ
・~らしい

などなど。
どれも文脈によっては、これらを「おもしろい」といえなくもない。
さて、子供は「おもしろい」と言ったときに上記の中でどれを選ぶ傾向があるだろうか。言うまでもないことだろう。

「おもしろい」は「かわいい」とか「やばい」「すごい」と同じくらいの多義的な言葉だ。
教師が「おもしろい」という言葉を多用してしまうと、授業のねらいがぼやけ、評価の目が曇ってしまう。
「おもしろさ」を追求した授業では、こどもはおもしろがり、楽しそうに学習に取り組むだろう。
そこに落とし穴があるのだ。だから、余計に教師の評価の目が曇るのだ。
子供の目先のおもしろさ、楽しさに目がくらみ、本来目指すべき、学習のねらいがどこにあるかを見失ってしまうのだ。
否定すべきは「おもしろさ」ではない。「おもしろい」というぼんやりとした目でしか学習者を見れなくなってしまう教師の目だ。

おもしろきこともなき世をおもしろく
授業の醍醐味の一つは、子供が「おもしろくない」「つまらない」「意味がわからない」と感じている学習内容を「楽しい」「おもしろい」と感じさせることだろう。
皮相的な「おもしろさ」ではなく、学ぶことそのものの楽しさや、奥深さを感じさせることだろう。
だから、理想は「おもしろきこともなき世をおもしろく」だ。
目先の楽しさだけではなく、知的な関心、美的な感性、より高い知識や技能を得ることの喜びをこそ、味わってもらいたいと思っている。

2013/05/20

プライドと自信


自己形成にとってプライドや自信は結構大きな影響を及ぼすものだと思う。
プライドが高すぎるあまりに、肝心なところで力を出し切れなかったり、チャンスを逃してしまうことがよくある。
「根拠のない自信」があることで、毎日をのびのびと生活し、素直に成長する人もいる。

どちらも、自己に向けられた意識だろうけど、このプライドと自信は別のものだ。
プライドが高くても(高いから)自信がない人がある。
自信があるからといって、プライドが低いというわけではない。
しかし、両者がうまくかみ合うと実力を発揮させることができると思う。
両者をうまくかみ合わせる方程式が何処かにあるような予感がするのだ。


プライドも自信も、どちらも成長にとって欠かすことのできないものであると感じる。
このプライドと自信との関係を、どのように理解すればいいのだろうか?
たとえば、次のようなメタファーだったら関係を捉えられるだろうか?
【車モデル】……プライドは「ギア」、自信は「アクセル」
ギアがきつすぎると、アクセルを踏み込んでも空ぶかししてしまう。ギアを身の丈に合わせて段階的に上げていき、かみ合わせることが重要。

【樹木モデル】……プライドは「枝」、自信は「根っこ」
根っこが豊かに張られている状態でこそ、思う存分枝を伸ばすこどができる。自身(根っこ)がみなぎっている場合であれば、枝も伸びていく。根っこが張っていないことには枝が張っていても不安定になってしまう。

プライドは未来に根ざし、自信は過去に根拠を持つもののような気がする。
プライドは「私はこうあるべきだ、こうするべきだ」という未来形で語られる。
自信は「こうしてきたから大丈夫」という過去に根拠を置くものである。
以上、全くの素人談義、私感です。


追伸

ちなみに、心理学の用語に直せば、
プライドは自尊感情(self-esteem)、自信は自己効力感(self-efficacy)、に近いということです。

以下、wiki情報ですが、
自尊心(じそんしん self-esteem)とは、自己に対して一般化された肯定的な態度


自尊心=成功(success)/願望(pretensions)
プライド(≒自尊心)は、願望と成功の関数という説があるそうです。

自己効力感 (じここうりょくかん)(self-efficacy) とは、外界の事柄に対し、自分が何らかの働きかけをすることが可能であるという感覚を指すそうです。

研究授業における「提案性」とは何か?

私の勤務する学校では,毎年、公開研究会が行われる。
私はすでに公開研究会で何回か提案授業をやってきたが、この提案授業のあり方について、毎年考えさせられることが多い。
一番本質的な疑問は、「提案授業で何を提案しているのか?」ということだ。


フツーの授業と提案授業の違いとは?
提案授業では「新しいこと、変わったこと」をやらなければいけない。
どんなに優れたよい授業でも、どこでもフツーにやられているようなありきたりの授業では「提案性がある」とは認められない。
ここが、日常の授業実践とは本質的に異なる部分なのだ。
日常的な授業実践であっても、研究授業であっても、目の前の子どもに対して質の高い授業を目指すことは当たり前のことだ。
日常的な授業実践では、提案性とかオリジナリティーは問題にならない。教科書通りにやった方が最善だと思えばそれをするし、どこかで学んだ授業法が最も適していると思えば、それを取り入れた授業をすればいいだけだ。
しかし、研究授業ではそうはいかない。従来の授業ではなしえなかった何かを問題提起し、それへの解決策を打ち出さなくてはいけないのだ。従来型の授業にはない、より「新しいく、変わったこと」をやらなければいけない。
「新しいこと、変わったこと」をやろうとするならば、フツーの授業よりもどこがいいのかを証明できなければいけない。でなければ、せっかくこちらが骨を折って準備しても、参観された方には「フツーの授業のほうがいいや」と思われてしまう。
フツーの授業には、やはり大勢の先生方が取り組んでみたくなるインセンティブ(動機付け)がある。(積極的にせよ、消極的にせよ)
それらをすべて受け止めた上で、それでもあえて一歩踏み出せると確信できた実践こそ「提案性がある」と呼ぶにふさわしい実践だろう。

研究授業の「提案性」とは何か?
たとえば、次のような要素があれば「提案性がある」と言っても良いのではと思う。
(これらがすべて含まれるわけではない、いくつか含まれていたり、いくつかは関連性を持ってつながっていたりするだろう)

A、問題・理念レベル
「何を問題にするか、なぜこれを問題にするか?」という問題そのものに対する提案
①いままでほとんど問題にされなかった点を提起している
②いままで気づかなかったメリットや欠点、構造を提起している
③時代の変化に伴って新たに生まれた問題を取り上げている
④従来の指導の常識を疑い、それを超えるための課題を提起している
⑤今まで無関係と思われてきた領域の知見を越境したり、関連づけたりしている

B、能力・学習内容レベル
「何を学ぶ/教えるか?」という教材や学習内容の提案
⑥学習指導要領や教科書には出ていない、新しい能力や学習内容、教材についての提案
⑦学習指導要領の趣旨に沿い、より適切、効果的な学習内容や教材の提案
⑧従来の学習内容や教材を、新たな枠組みや組み合わせ、順序づけをした提案

C、学習方法・ノウハウレベル
「どのように学ぶ/教えるか?」という学習(教授)方法の提案
⑨従来の学習方法を超える、より学力を効果的に向上させる学習方法の提案
⑩  同  、より簡便、効率的な学習方法の提案
⑪学習の質を高める、新たなテクノロジーや教育方法の開発

提案授業の一般性と特殊性の問題
提案授業を「だれでも参考にできるもの」にするべきか、それとも「誰にもできないような前人未踏のもの」にするべきかは難しい問題だ。
私が、研究授業を見に行く立場だったら「自分の教室で取り入れてみたい」と思えるような授業が良いに決まっているし、そうでない授業は無意味だとさえ思っただろう。
しかし、いざ研究授業を創る立場に立つと、それはなかなか難しい問題を秘めていることに気づかされるのだ。
まず、受け持っている子どもたちの実態が異なる(全国の学校の子どもの実態が一緒などということはそもそもあり得ない)
そして、教える先生のスタイルも千差万別だ。(たとえ同じ学校の同僚であっても、その人とそっくり同じ授業ができるだろうか?)
だから、これらの要因をすべて克服したうえでの「誰でもできる優れた授業」を提案することは、まるで両手を縛られた上で授業をするようなもので、なかなか簡単なことではないのだ。
「誰にもできる&提案性のある授業」を提案することは、私のようなフツーの教師にはほとんど絶望的な試みであるとも言える。
だから、これに関しては、私はかなり開き直っている。「自分にしかできない授業をやろう」と。その時の、自分の持てる力を精一杯出しきった実践を通して、メッセージを提案できればいいのだと。授業を見た方が「できるかどうか」は別として、問題意識やメッセージを共有し、「やってみようかな」と思っていただける程度の反響が得られれば万々歳だと思っている。

2013/05/15

子どもを「みる」とはどういうことか

実習生指導で、学生と話をしていると、「教師の熟達」についていろいろと考えさせられる場面が多い。

たとえば、先日はある実習生のこんな言葉を聞いて心底驚かされた。
「授業をしていると、手を挙げる生徒が決まってきちゃっているんです。全員が手を挙げてくれないんです」
……?? 全員が手を上げないことが「異常」で、「悪い」の?
この実習生の考える、あるべき授業の理想は「全員が手を挙げる授業」らしい。
実習生にとっては、全ての生徒が手をあげないことが許せないのだ。
そういう自分は大学、小〜高の授業で毎回必ず手をあげていたのだろうか?
手をあげていないからといって授業に参加していないわけではあるまい。

発問→挙手の一問一答型授業の工夫がないのがもちろん問題だろうけど、なぜ挙手をしないのか、その生徒の内面をもう少し考えてみることはできなかったのかなあと思う。

単に「生徒のやる気がない」と言いきらずに、その原因を十個以上挙げることができるようになれば、きっと研究的資質のある教師になれるような気がする。

もうひとつ、実習生が授業をした後のミーティングでの話。
まず実習生に振り返りをしてもらっている。こちらからの評価をさしはさまずに、感じたこと、考えたことを思う存分言ってもらうのだ。
その振り返りは、ほとんどの場合、こういうパターンになる。
……の手順を間違えてしまいました。
……の指示が悪かったです。
……をするとき、もうちょっと時間配分が……。
つまり、振り返る視点が「教師のしたこと」にのみフレームが当たってしまっているのだ。
私の経験上、ほぼ全員がこの状態になる。
そこで、私はこう切り返す。
「自分がしたことだけじゃなくて、子どもの姿で気になったこととか感じたことはないかな?」
この質問で、ぱっと答えられる人はまあまあセンスのある人だ。
大雑把な教室の印象ではなく、個人名を挙げて、「……君の……したことが」などとコメントできる実習生は、それだけでも及第点を上げてもいい気さえする。
少なくとも、自分が実習生時代や初任時代はそれができていなかったと思う。


つねに目がべったり生徒に張り付く。
私が見て、すごいと思うような力のある先生は、例外なく、べったりと眼差しが生徒についている。
「べったり見る」という言い方があるのかどうかわからないが、私にとっては「べったり」という形容がしっくりとくる。
常に生徒から目を離さないのだ。それも、一点を凝視するというのではなく、全体にまなざしを注ぎつつ、細部をも敏感に感受できる視線だ。


「視線」という言葉は、受容機関にもかかわらず、射たり、注いだりするという「与える」イメージがあるのが面白い。見るというのは間違いなく受動ではなく。能動的な行為なのだろう。
教師に必要な「視力」は、一個の記号を識別する能力ではない。教室内に、同時に生起する多数の予想外の事象を、能動的に、的確にキャッチする看取力ではないか。
「見る(観る・診る・看る)」ことこそ、「子供から学ぶ」という理念を最も具体的に表している身振りであると思う。

では、「子供が見られない」場合、その原因どこにあるのだろうか?


・授業の進行など、自分のことでいっぱいいっぱいだから
・独りよがり、独り相撲になってしまっているから
・子どもの見方を知らないから
・そもそも「子供をみる」重要性をあまり感じていないから
・どうせこうなるはず、という固定観念や思考のパターンから抜け出せないから
・細かい思念や配慮とかがなく、なんとなく流してしまっているから

「子どもをみる」場合、どこに着目すればいいのだろうか
・子供の表情、
・子どもの目線
・姿勢、息遣い
・発言、つぶやき、会話
・ノート、ワークシートなどに書いてある言葉
・人柄、性格、嗜好
・人間関係
・学びのスタイル、学習観
・学習への興味関心
・子供に直接聞く

子どもをみることは、単に現象を「冷静に」「客観的に」見ることだけではないだろう。
子どもをみることは、「ミロのヴィーナスの両手を描くこと」に似ている。
今生起している現象から、子どもが育っていく未来の姿を重ね合わせながら見るのだ。
ビーナスの手がないことを楽しみながら見るのだ。
ある意味、好意的に、教師の「欲目」をも加味して見ることが、この場合大切ではないかと思う。





2013/05/13

言葉が軽すぎないか

久しぶりに腹が立った。

とあるSNSで、ある情報が「シェア」されてきた。
ある前途が有望な若者が末期がんに冒されたという。
彼の望みは、がんのおかげで絶たれそうになっている。
末期がんと闘う彼に応援のエールを!
さらには、彼の苦境を多くの人にシェアしてほしい!
というもの。

私は、得体の知れない感情に襲われた。
このもやもやはいったい何なのだ?

結局、私は、その情報を「シェア」することはなかったし、励ましのメッセージも書き込まなかった。

いろいろなもやもやが、私の中で渦巻いている。
・「末期がんと闘う」彼が、この{シェア」のおかげで何千、何万もの人から「励ましの言葉」をもらうとする。それは彼にとって本当に望んでいることなのだろうか?
・私にとって全く面識のない、彼からも全く関係のない「私」が発するメッセージに、いったいどんな価値があるのだろうか?
・クリック一つで拡散する「善意」が、彼が引き受けようとする状況と引き比べて、あまりにもアンバランスではないか? 
・もしかしたら、そのサイトを見た多くの人は、瞬間、「あっかわいそう」と感じ、その後、一瞬にしてすばらしい善意が芽生え、「がんばって」とコメントし、そのコメントを打った直後には、彼のことなんて忘れてしまっているのではないか?
・がんで亡くなる人なんてこの世界にごまんといる(ちなみに私の母もがんで亡くなっている)。なぜ彼だけに、無関係の私が、メッセージを送らなければいけないのか?
・もし、自分の友人なり家族が同じような状況になったときに、ネットに書き込んだような言葉を、果たして本人に言うことができるのか?
・もし私ががんに冒されても、こんなかたちでさらし者には絶対になりたくない。何万人の得体の知れない人から励ましのコメントをもらっても、全然うれしくない。むしろ、ひっそりと、静かに自分の人生を全うしていきたいとさえ思う。
・しかし、なぜか、この情報が「シェア」されたとき、そしてそれを私が「無視」して何も書き込まなかったとき、一抹の後ろめたさを感じた。見ず知らずの彼にちらっと「同情」さえもした。書き込まないことは「悪」ではないかとも感じた。
・この情報を「シェア」している人は、いったいどういうつもりで拡散しているのだろうか。私には全く理解できない。

つまりは、言葉が軽すぎないか、ということなのだ。
言葉は、たった一人の固有名を持った「私」と、同じように、たった一人の「私」との間に成立する、目に見えない「何か」が形を持ったものに他ならない。
固有名を失った記号だけが、からっぽの「善意」に乗っかって浮遊している。
私には耐えられない。


近ごろ都に流行るもの。涙の投げ売り、善意の押し売り、感動のたたき売り。
涙も、善意も、感動も、一人称で語られるものなのではないか。

2013/05/10

メモ)短歌が読めるとはどういうことか

同僚が短歌の授業を行った。

岡目八目、というが、人の授業を参観しているときが最も自分の思考が活性化する。
一人で引きこもっていては出てこないようなアイデアが次から出てくる。
自分だったらこうする。こんな一手間を加えたら……。
短歌の授業を参観しながら「短歌が読めるとはどういうことか」について次のようなメモを書いた。

・短歌がわかるということと、面白いということは別次元だ。
短歌を読んだときに感じる「わかる/わからない」と「おもしろい/つまらない」は区別するべきだ。
A。よくわかり、面白い短歌
B、よくわからないけど、面白い短歌
C、よくわかるけど、面白くない短歌
D、よくわからなくて、面白くない短歌

このうち、授業で取り上げるべきなのは言うまでもなく
B、よくわからないけど、面白い短歌
である。
次に取り上げるべきは
D、よくわからなくて、面白くない短歌
だろう。
さらに高等テクニックとして
一見わかりやすいと感じていた短歌が、読めば読むほどわからなくなってくる(けど面白い)というものがあるがこれはひとまず置いておく。

たとえば、寺山の
「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」
なんて、わからないところだらけだ。だけど、なぜか私は心惹かれる。何とかしてわかってやろうと思う。この、心惹かれるというところに、すでに学習の契機が潜んでいるのだ。


・短歌が読めるということにもレベルがある。
短歌を読む、という行為にはいくつものステップがある。
どのステップでつまずいているのか、どのステップがとりわけハードルが高いのか、授業者は見極めることが必要だろう。
究極的な目標は「書いていることをもとにして、書いていないことを読み取る」ことである。

短歌の理解レベル(言葉として書かれていることを理解する)
1、短歌の意味の区切りを意識して音読できる
2、言葉の意味がわかる
3、文脈がとらえられる
4、短歌の言葉の韻律が味わえる
5、短歌の修辞の効果や約束事がわかる
6、その短歌が踏まえている歴史や伝統がわかる

短歌の想像レベル(言葉で書かれていない短歌の世界を想像する)
7、短歌がえがいている世界が理解できる
8、短歌がえがいている世界がイメージでき、さらにそれから発展してストーリーが想像できる

短歌の批評レベル(短歌の美醜などを判断できる)
9、(他の短歌などと比較して)この歌の価値を説明できる



・短歌の解釈の切り口を生徒自身が選択できるようにしたい
短歌を読むとき、さまざまな解釈の切り口がある。
熟練した読み手は、そのいくつかある解釈の切り口を、短歌の表現にそって選択して読み込んでいく。解釈の切り口は固定的なものではない、その場その場で、その短歌の表現に最も適した切り口が存在する。それを的確に選択できるようにするのが、短歌鑑賞指導の一つのポイントだろう。

短歌解釈の切り口例
・疑問、違和感はどこにあるか?
・気になる表現/印象的な言葉は?
・どんな世界が立ち上げっているか?
・何が書かれれていて、何が隠されているか(明らかでないか)
・設定(時間・場所・人物)は?
・5W1H
・何が見えているか?
・五感でどのように感じるか?
・何を象徴しているか?
・作者(話者)はどこにいるか?
・言葉のリズム、響き、韻律は?
・感動の中心はどこにあるか?
・映像化する(動画・静止画)とどうなるか?
・助詞から言葉を解釈するとどんなことがわかるか?
・人物の心情は?
・情景描写が暗示していることは?
・本歌との関係は?
・作者の作歌の傾向は?
など。