2015/10/18

「よく分からないけど、なんかいい」っていう嗅覚を大切にしたい

先日の、学術出版の編集者の方々とお話をして印象に残ったこと。
編集者の方は、自分が売り出そうとする本の内容を必ずしも理解をしているわけではないそうだ。(本の中身を理解できなくても売ろうとするというのが驚きだ。)でも、「何かこれは良さそう」という嗅覚は働くのだという。
この嗅覚通りに出版されて高い評価を得られれば、それは無上の喜びとなるし、そうでなければ商売としては失敗ということになってしまう。学術書の場合は、必ずしも大衆受けして「売れる」ことは念頭に置いていない、だから、他の出版よりも、かなり繊細な嗅覚が必要となるのだろう。むしろその嗅覚を楽しんでいるともいえる。
「大御所に執筆を依頼してそこそこ売れる本を作ること」や、「はじめから内容が分かっているような本を作るのは面白くない」ともいう。自分の嗅覚で「何かいい」という感覚をかぎつけることが重要であり、それに編集者の矜恃があるようだ。
 
実践も、研究も、本来はそういうものなのだろう。一番大切なのは「何かこれはいい!」とか、「お宝が埋まっているんじゃないか?」いう嗅覚を大切にすること。
それが言葉でうまく説明できるとか、ましては評価できるかどうかということは置いておいて、その「何か」に向けてじりじりと迫っていく。トリュフをかぎつける犬のように? くんくんと迫っていくようなものが、本来は一番わくわくするのだ。

「答えは人を分け隔てるが、問いは人を結びつける」

「答えは人を分け隔てるが、問いは人を結びつける」
何度でも引用したい言葉だ。(引用元は何だっけ??忘れちゃった。)

どうも話がかみ合わないなあと感じるとき、だいだい、この「問いのレベル」が違いすぎる、つまり共有できていないところに問題があるようだ。
こちらは大きな問題を考えようとしているのに、実に卑近な例で突っかかってくる、また、自分は具体を取り上げているんだけど、世の中を動かすような大きすぎる問いで構えてくる。そうすると、話がかみ合わなくなってしまう。
また、こちらは「問い」を問題にしようとているのに、相手は「答え」で応戦してくる場合もある。「私はこうしています」「ここではこうなっています」と。この場合も話がかみ合わない。「それで?」「だから?」といいたくなる。「自分のフィールド」を引っ張ってきて、「自分」を開陳する。それが「各自の勝手な都合」にすぎない場合、「問い」を深めることはできない。

合意形成とは、実は「答え」を他の人と一致させることではなく、「問い」のレベルをそろえることなのだ。「問い」のレベルさえ共有できれば、その時点でたいていの「答え」についても許容できるようになってくる。
合意形成とは「誰もが同じ考え(答え)を持つこと」ではなく、「誰もが同じレベルの問いに向かうこと」である。
とすれば、「市民の日本語」として重要なのは、他者の問いのレベルをつかまえようとすること、共有しようとする身振りにあるのではないか。解決策は、問いが共有できてから、それぞれが考えればよい。

2015/10/17

誰にでも通用する「幸せ」はないと気づくということ〜コミュニケーション・デザイン科のキモとは何か?〜

昨日の授業で印象的なことをがあったので忘れないうちに書いておく。
それは今、うちのコミュニケーション・デザイン科(総合みたいな学習活動)で取り組んでいる「QOL向上大作戦」の中のひとこまだった。
この授業では各グループが、自分たちのQOL(Quality of  Life・生活の質)を向上するための様々な取り組みをすすめている。活動の最終的なゴールは「学年内でQOLを向上させるためのミニワークショップをグループで運営する」というものだ。
各グループがどんなワークショップを開催するか、活動内容についての限定はしなかったため、テーマには中学生のさまざなな願望が投影されていて面白い。

・勉強で集中するためには?
・エナジードリンクを作る
・短くても効率的に睡眠する方法
・食べてもやせる方法
・1000円を幸せに使う方法?
など。

昨日の授業では、それぞれのテーマについて、各グループで調べてきたことを更に深めるために、ゲストティーチャーをお呼びし、その人たちに自分たちの探求内容について相談をするという学習を行った。お呼びしたのは、ベンチャー企業を応援する会社を起業した経営者の方、医師(栄養学の研究も)、心理学の研究者の三人だ。
ゲストティーチャーへの相談を通して何を一番学んだのか、それは、自分たちの活動内容についての意味や価値についての気づきだ。この活動が「どんなQOLを向上しているのか、ということについての思考の深まりだ。
たとえば「1000円を幸せに使う方法」をワークショップで参加者に伝えたいという活動をするグループがある。中学生の彼らが考えた当初のアイディアは、「1000円で効率的に、安くてお得に買い物をする方法」のようなものだった。しかし、それを経営者をしているゲストティーチャーはこう突っ込みを入れる。「1000円をどう使えばその人にとってのQOLが上がるのかというのを考えないとね、」と。
たとえば、「お金が増えるのが幸せだ」と考える人にとっては、その1000円を利殖に回すだろう。「1000円は人のために使いたい」と考える人は、1000円を募金に使うとその人のQOLは向上する。「効率的に使いたい」という人は、安くていい品物を手に入れることで生活が豊かになると感じる。つまり、お金の使い道ひとつとっても、その人の価値観や生活が反映されていく。

他のグループ「食べてもやせるための方法」についてワークショップをしようとしているグループでは、医師のゲストティー-チャートのやりとりでこんな場面があった。医師が「やせることがどうして必要なの?」と突っ込むと、ある生徒は、「いやあ、私みたいな人は、やっぱりちょっとやせないといけないなと思っているんですけど……○○ちゃんだったら必要ないとは思うけど……(と、同じグループのスリムな子を見ながら笑って)」と。そこでゲストティーチャーが、「やせるということよりは、その人にとって必要な最低限の栄養素はとるということを考えないといけないよね。」と。
この例は、「QOL向上ワークショップ」の一番の本質に迫る場面であったと思う。つまり、「QOLを向上させる」と考える前提には、「人それぞれの幸せがある」ということを想像しなければいけないということだ。こうして言葉に出してみると実に当たり前のことなんだけど、「幸せが人それぞれである」ことを理解してはいても、それを行動として、実践に移すことができるかは、大きな隔たりがあるようだ。

概して、中学生の発想は「自分が幸せになると感じることは、他の人も幸せになるはず」という単純なものが多い。いや、ひょっとしたら「他の人も」という発想さえなく「自分がやりたいこと」をやろうとしているのが素朴なモチベーションになっているのかもれない。しかし、そのような独りよがりではなく、その「自分にとっての幸せ」を、他の人と共有できるようにするためには、他の人の多様な考えや生活や生き方のようなものへの想像力を持つことが必要となる。その多様な生き方への省察が「QOL向上」のキモでもあり、いま、学校で取り組もうとしている「コミュニケーション・デザイン」のキモであるということは間違いないだろう。
「自分にとっていいこと」が「他のひとにとってもいいこと」とは限らない。他の人にとっての「いいこと」を想像すること、想像しようとすること。または、「自分にとってよいこと」を他の人とも共有し、分かち合っていくこと。そのプロセスこそ「分かち合い」としての「コミュニケ―ション」なのだ。

2015/10/07

授業の「かたさ」を考える

ここ最近、授業の様子を形容する言葉「かたい」「やわらかい」が気になっている。
実習生の、あまり上手くいっていない授業を見ると例外なく「かたい」という印象をえる。
そう考えると、一面においては、教師の熟達とは「かたい」授業から「やわらかさ」を獲得していくプロセスと言えなくも無い。
「かたい授業」とは、一体何がどう「かたい」のか。

・表情がかたい
→能面のように感情を表に出さない。生徒の反応を受け止め、それに対して教師が反応できない。

・授業の展開がかたい
→決まり切ったことしかせずに、授業の流れに変化が乏しい。臨機応変な脱線などが無い。

・表現がかたい
→言葉遣いや所作に、子ども相手にはふさわしくないようなフォーマルさがあり、他人行儀に感じられる。

・扱う内容がかたい
→取り上げる内容やエピソードなどが、生徒の実感などとかけ離れた「教科書的」なものとなっている。(いわゆるサブカル的なものへの目配せが皆無である)

など。もっとあるかな。
こう考えると、「かたさ」にもさまざまな要素があり、そのなかでも「やわらかく」していく方がいい場合と「かたい」からこそいいものがあるのかもしれない。クラスによる雰囲気の違い、教師の身体性やキャラクターの差違などとも密接に関わるものであるはずだ。

2015/10/06

教師も学習の輪に加わる

最近の流行に過ぎないのかもしれないけど、どうも、教師は子どもに勝手にやらせておくのが良い、教師が介入しなければしないほどよいという極端な物言いがあって、(もしそれを言葉通りに受け止めるとすれば) 何か物足りないなあという気がしていている。
かくいう私も、ひょっとしたら日本の平均的な授業スタイルよりもずっと「勝手にやらせている」ほうなのかもしれないけど、「介入しなければしないほどよい」なんていうことは、全く、これっぽっちも思っていない。
その理由はとてもシンプルだ。
私も一緒にその学習に参加したいから。
私も、学習者となって、学習の輪の一つとして加わっていたいという思いがあるから、子どもと同じように、話し合いに加わってつい発言をしてしまうし、ちょっかいも出してしまう。(それに多少の後ろめたさがないわけではないけど。)
「教師は手出しをしない方が良い」というのは、まあ、理屈としては理解ができなくもないけど、「学習ってそんな不自由なものなんですかね? 加わりたくなったら大人だって、教師だって学習に参加したっていいでしょ」と言いたくなってしまう。
だいたい、大人(教師)がちょっと発言したぐらいで、自分の考えを捨ててコントロールされてしまうような子どもを育てている方がずっと問題でしょ。
「アクティブラーニング」っていうくらいなら、どうして、教師自身がアクティブに学んでる姿を子どもたちに見せないんだろう。

2015/10/01

頻出度順の、慣用句、ことわざ、名言などの本が欲しい

現在、「論語」について本で調べ、それをアンソロジーとして編宇する学習に取り組んでいる。この学習の成否を大きく左右するのが、学習者がどんな資料に触れていくかという資料の選択にある。
「子どもに自由にアクセスさせ、その中から選ばせれば良い」ということもあるけど、それは理想論、というか、限られた時間で、効率的に、価値ある言葉と出会わせることが授業のねらいであるとするならば、それに見合った資料の選択がとても重要な要素となってくる。
私は次のような要素を加味して資料をそろえている。
①解説が平易でどの生徒にとっても抵抗感なく理解できる、分かりやすい資料。(3学年くらいレベルを下げ、学習者が簡単すぎると感じるくらいのものでちょうど良い)
②収録されているテキストが厳選されているもの。
③そのほか、装丁や見た目などの要素も考慮。文字がぎっしりと2段組とか、紙が焼けて茶色いような紙面のものでは読む気をなくしてしまう。
この①〜③のうち、意外に盲点なのが②だ。
ことわざや慣用句、名言などが必要以上に多すぎるものも困ってしまう。
たとえば、「ことわざ1万語収録の辞典」なんて、ことざわが何でも載っていて頼りがいがありそうだけれども、ほとんどの人が知らないようなことわざを覚えても、実生活でそんなマニアックなことわざを使っても相手にきょとんとされるのがオチだ。
必要最低限の、教養として知っておくと良い程度のボリュームの資料がちょうど良いのだ。そう考えると、概して、大人向けのことわざ、慣用句辞典のようなものは量が多すぎて使いにくい。マニアックすぎることわざに埋もれてしまうリスクがある。
頻出度順のことわざ、慣用句辞典のようなものがあれば、教材として願ったりかなったりなんだけど、探せばそういう本はあるのだろうか。