2013/07/08

宮澤賢治『オツベルと象』の魅力

はじめに ~『オツベルと象』は傑作か、駄作か~
 『オツベルと象』は宮澤賢治の童話の中でも数少ない、生前に発表された童話の一つである。教科書では昭和28年に取り上げられて以来、賢治作品の中でも、最も息が長く中学校の授業で学習されてきた作品である。
 しかし、『注文の多い料理店』や『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』などと比較して、賢治作品の中で必ずしも人気の高いものとは言いがたい。『オツベルと象』が賢治作品の中で一番好きだという人はあまり聞いたことはない。謎めいた設定、荒唐無稽な展開、そして感情移入しにくい登場人物などが原因であろうか、他の作品ほど魅力的で優れているとは言いにくい作品であるのかもしれない。
 私は、中学校現場で一〇年以上『オツベルと象』を国語科教材として読んできたが、この作品ほど、読み込めば読み込むほど味わいの増すものもないと感じている。そこで、私の感じる『オツベルと象』の魅力とはどこにあるのか、あらためて整理をしてみたい。

一、登場人物の魅力
 『オツベルと象』の,魅力の一つは、多彩な登場人物の存在にある。
主人公「白象」
 この象は「白」の色彩が象徴するように、純粋、無垢、素直という性格を想起させる。 また、この「白」は「白痴」の白でもあるだろう。白象は、白痴であり、愚直であり、「デクノボウ」である。オツベルに課せられた仕事に嬉々として取り組むものの、搾取されていることにはついぞ気づかない。苦しくても、仕事を拒否したり、オツベルに苦情を言おうともしない。もちろん、抵抗するという発想さえない。
 さらには白象の「白」は他の象の仲間たちとの差異を際立たせる、突然変異のアルビノ種としてのスティグマを暗示するものでもある。象の仲間たちから外れた存在である白象は、何らかの理由で「山」での生活から離脱し、人間のいる世界へと「降りて」くることになる。(ちなみにヒンズー教のガネーシャ神も白象である)
 このような白象の無垢・無知・愚直な性格が、後半のオツベル襲撃という悲劇を生むことになる。
悪徳資本家「オツベル」
 この「オツベル」という名前が、どこの土地のものなのかがわからない、謎めいたものであるが、この人物像は、労働者を搾取するありがちな悪徳資本家の姿として描かれている。ほとんど人格のない,ロボットのような「百姓ども」をこき使い、自分はろくに仕事もせずに、高価なパイプをくゆらせ、ビフテキを食べる毎日を送っている。白象や百姓を労働力として利用するだけ利用し、消耗品のような形で酷使する。百姓どもからは全く信望がなく、オツベルが象に襲撃された時は誰一人助けてくれるものはいない。これも、オツベルの性格が引き起こした自業自得の結末と言えるだろう。
語り手「牛飼い」の存在感
 白象やオツベルとともに欠かすことができない存在が「牛飼い」である。この牛飼いのは冒頭の一行「ある牛飼いが物語る」にのみ、その存在がおもてに示され、以後、物語世界内語り手の狂言回しとして、背後に回り、牛飼いの視点で世界が進められていく。三度反復される「オツベルと来たらたいしたもんだ」というセリフは、牛飼いの感情が突出する数少ない表現である。このセリフは、はじめは、オツベルの手腕に対する賞賛を示す。しかし、そのうち、あまりにオツベルの冷酷な手法にあきれ、アイロニーへと転化していく。牛飼いも、オツベルも、ともに動物をパートナーとして生業をおくる存在であるが、その牛飼いから見ても、オツベルの「動物虐待」や酷使は目に余るものであったことがここで示されることになる。
 なお、最後の一行である「おや、(一字不明)、川へはいっちゃいけないったら」は、常に問題になる部分であるが、牛飼いの語りとして素直に読めば、牛飼いが語りに没頭している間に、自分の飼っている牛が川に入ろうとしている〈逃げる?)ことを制した言葉とみるのが妥当であろう。(後述)

二、荒唐無稽な展開
 この作品の理解を難しくしているのが、物語のストーリーが一気に発展する荒唐無稽の展開や飛躍にある。
都合のいい救世主、月
 白象がオツベルに酷使されるものの、なすすべもなく立ち尽くすところに、問題を一気に解決する救世主が現れる。それが「月」である。
 白象は毎晩、月(サンタマリア)に向かって自分の気持ちをつぶやいているが、いよいよ白象が追い詰められた段階になってはじめてその月が返事をする。そして「仲間へ手紙を書いたらいいや」という解決策を提示する。その手紙のプレゼンターが赤衣の童子(菩薩の従者だという)である。
 白象は毎晩月に自分の状態を報告している。だから、月は白象の状況を逐一把握していたはずである。にもかかわらず、いよいよ切羽詰まったピンチにならないと手をさしのべようとしない月も、ある意味理不尽で都合のいい存在ではある。また、突然何の脈絡もなく登場する「赤衣の童子」の存在も、読者を混乱させる。

三、読者にゆだねられた謎
最後の一行の解釈
 結末にある「おや、(一字不明)、川へはいっちゃいけないったら」は、いったい誰が、誰に向かって言った言葉なのだろうか? (一字不明)はどんな言葉だったのだろうか。
 この問題はさまざまな解釈が存在し、解決を見ていない。
 たとえば、授業でこの一行を子どもに問いかけると次のような意見が出る。
 ○白象がよろよろとよろめいて川に落ちそうになったから。
 ○白象が三途の川を渡ろうとしている。
 ○話を聞いている子どもたちに向かって言った。
など。
 しかし、私は先述したように、このセリフが、他の象や白象のセリフのときに記述される「 」の表現としてではなく、地の文で表されていることから、牛飼いのセリフだと解釈している。

結末の「寂しく笑って」をどう解釈するか?
 白象がオツベルの手から救出されたときに、仲間の象に向かって「寂しく笑」い、礼を述べている。このアイロニカルな表現は、作品中最も重要な箇所として必ず授業に取り上げられている。
 なぜ白象は寂しく笑ったのか、一つの見解に絞り込むことはとうていできないだろう。さまざまな、矛盾した、複雑な思いが重層的に重なり合い、「淋しさ」と「笑い」を生んだのである。
 たとえば、白象は、このとき、以下の感情を抱いているとは考えられないか。
 ○大好きな仕事ができなくなって寂しい。
 ○自分を世話してくれたオツベルが死んでしまって寂しい。
 ○人間と共生できなくて寂しい。
 ○自分の不手際で、仲間の象に迷惑をかけてしまって申し訳ない。
 ○自分の手だけでは、解決することができなくて、自分の無力さがふがいない。
 ○仲間の象が、自分の意図(助けること)とずれた行動(オツベル殺害)をしてしまったから。
 ○楽しかった人間の世界での生活ができなくなることへの寂しさ。
 ○疲れていたので、さわやかに笑顔になれなかった〈寂しげな表情に見えた〉
 これらの白象の思いをオープンエンドに話し合い、感想を交流するのはとても楽しい学習活動になる。

四、宮澤賢治独特の表現を味わう
 賢治作品に共通するのが、風変わりな言葉の使い方である。
 とくに『オツベルと象』においても、比喩やオノマトペの使用が独特で、イメージを喚起される。
 ○のんのんのんのんのんのんのんのん……稲こき機械が稼働する音
 ○ぞうきんほどあるオムレツ
 ○グララアガア・グワア……象が咆吼する声
 ○ばしゃばしゃ暗くなり
 ○オツベルはもうくしゃくしゃにつぶれていた。
 これらの表現の効果を、イメージ豊かに味わうという楽しみ方もできるだろう。

五、『オツベルと象』を中学生と一緒にどのように味わうとよいか
 最後に、教材としてこの作品をどのように味わうべきか、私見を述べたい。
①疑問点や感想から出発する
 とにかく、謎だらけの作品である。いろいろな疑問点や気づきを指摘させつつ、そこから全体で共有して広げていくような学習が楽しいだろう。ユニークな表現、突飛な展開、不思議な登場人物など、本文中に気づいたことなどをどんどん書き込みをさせていき、叙述に即して解釈をさせていくことが有効だろう。

②語り手である「牛飼い」の視点を意識して表現の意図や効果を読む
 この作品は、語り手である牛飼いの存在がきわめて重要である。牛飼いがどのような視点で白象やオツベルを捉えていたか、それがどのような言葉使いからわかるか、表現の細部にわたって読みを深め、白象やオツベルの人物像に迫っていきたい。

③問いを焦点化し、感想の交流を通して多様な解釈を広げる
 ①で出された疑問点を焦点化し、感想交流をさせていきたい。
 たとえば、白象が「寂しく笑った」のはなぜかとか、最後の一行の解釈などについて、グループ、学級全体で多様な解釈を引き出し合う交流を設定していきたい。この活動を通して、言葉一つ取り上げても読み手によってさまざまな解釈が存在し、それを楽しむことが文学鑑賞の一つの方法であることを体験的に学ばせていきたいと思っている。

②賢治作品の描く世界観まで広げられるとよい
 せっかくの機会なので、時間があれば賢治作品をたくさん読む時間がとれるとよい。
 賢治作品は、童話が中心なので中学生にとって読むこと自体はさほど難しくはない。それでいて、大人でもうなるような深い思想性や独特の世界観が存在する。賢治作品を多読する機会として設定していきたい。