2015/09/28

いわゆる通知表の「所見」についての私見

一体、通知表の所見はいくつまで増えるのか?

小学校教諭の妻は、いま学期末の評価のかき入れどきらしい。家まで仕事を持ち帰って、家事の合間に遅くまで通知表の仕事をしている。昨夜は一体何時までかかっていたんだろう。先に寝てしまったので分からないほどだ。
通知表の何がそんなに忙しいかといえば、最近やたらと文章で書く評価が増えてきたかららしい。
・総合所見
・総合的な学習の時間
・英語活動
などなど。
総合所見だけでも生徒数分考えるのが大変なのに、それに輪を掛けて、総合、そして英語と、3倍の文量を書かなければいけなくなってきている。今後はさらに道徳の評価も文章でということになってくるのだろうか、うんざりしてしまう。
新しい教育が入るたんびに、新しい評価項目が入ってくる。そしてそれに教員は忙殺されていく。(でも評定の数字ほど、文章評価は読まれるのだろうかという疑念も……)
一体、通知表の所見はいくつまで増えるのだろうか?

文章表記と細かい評価観点と、どちらがいいのか?
帰国生の関係で、海外の現地校の通知表?指導要録?(のようなもの)を拝見する機会がある。
だいたい分厚い冊子で、教科ごとに細かい観点がわけられ、それぞれA・B・C・D・E……のような評価が付けられている。
日本では、国語科で言えばその評価が、5段階の評定と、5つの観点別評価のABCだけれども、海外は、おおむねその5倍くらいの量で評価項目を立てて評価をしているものが多い。もちろん、文章表記のものも多い。しかし決して文章による評価だけではなく、むしろ驚かされるのは、具体的な評価観点の豊富さにある。日本のように5つの観点だけでなく、20個ぐらいの観点のABCがあり、その上で文章表記の評価があるというわけだ。
日本ではそれと同じようなような評価は望むべくはないけれども、なんとなく、日本の評価観というものは「文章で書く評価はエライ」「数字で切る評価は手抜き」みたいな感覚がないだろうか。だから、新しい教育内容が入るたびに、「エライ」文章表記が増えてくるというからくりになっているし、「数値で評価したい!」と、それを大きな声で主張もできにくい風潮がある。
文章だから愛がある、数字だから冷たいというのは、評価の一面的な見方に過ぎない。どんな数値で評価するか、BにするかCを付けるか、一晩悩むぐらいのことは、どんな先生だってしているではないか。むしろ、文章のように曖昧にできない数字だからこそ、悩みに悩み抜くものなのではないだろうか。
いっそのこと、英語活動も、総合的な学習の時間も、数値で評価するべし。AからB、BからCのギリギリの選択のなかに、教師の迷いがあるし、愛だってあるはずだからだ。
もしそのリスクが大きいなら、曖昧な文章表記の文章を増やすのではなく、評価項目、評価観点を増やすようにするべし。そのほうが、こども本人や親からしてみれば、よっぽど分かりやすい、具体的なフィードバックになるのではないだろうか。

2015/09/22

もう当分、この手の研究はやめたほうがいいです。

今から15〜20年くらい?前、ある日本でも有数の規模である国語教育の研究会でEメールの授業の実践提案があった。(Windows95だったかな)
で、その実践は、新卒ペーペーのわたしから見ても「なんじゃこりゃ」「こんなのでも提案になるの?」というような惨憺たるものだった。コンピュータ室に生徒を集めて、ひたすらメールを打つというものだったからだ。
事後の協議会では「これが国語教育か?」「なんでわざわざPCを?」「手書きのほうがずっと効率的だ」という集中砲火を浴びたことはいうまでもない。
で、締めの言葉で、指導助言者の偉いセンセイが「もう当分この手の(ICTの)研究はやめたほうがいい」とまで言い放たれたというオチが付く。以後、その研究団体ではICT活用系の国語教育の実践はほとんど出てきていない。
歴史に「もし」が可能なら、もしそのとき、国語教育の御大が「まだこの手の研究は未成熟だから、もう少しこの研究を進めていこう」と号令したなら、随分見通しが変わっただろうなあという思いを強くする。
国語教育の実践家たちにとって、Eメールとは手紙指導の一環であり、ワープロとは原稿用紙の代わりであるという認識から捨てきれなかったのだろう。Eメールで「しか」できないこと、ワープロだから「こそ」できる「何か」に着目して研究を進めていたら、日本の国語教育はもう少し風通しが良くなったのだろうと夢想している。どうせならそういう研究を私はしていきたい。

2015/09/21

紙の本はクリティカルな読みに適している?

今日の授業で、ちょっとびっくりした場面があった。
あるグループの生徒たちが、複数の万葉集の本を見合いながらああだこうだと話し合っている。
「この訳は意味分からない」
「この解説は書いている人の思い入れを言っているだけの気がする。いまいち納得できない」
などと、自然と比べ読みをして、複数の解説本の表現を吟味しあっているではないか。
これがネットの調べだったら、すぐにコピペしておしまいにしてしまいそうな気がする。これが教師の解説を聞くだけの授業なら、そもそもクリティカルに聞こうという構えさえもたないだろう。
やはり紙だから、本だからこそ、それも、硬軟取り混ぜた本が揃っているからこそ、クリティカルに読むことが自然とできたのではないか?
司書さんが、土日に、この授業のために、あらゆるところから資料をかき集めてくださったことの真価に、私自身が気づくことができてよかった。

分からないことがなくなってからが教師の出番

あるクラスの授業。
今日の授業ではちょっと考えさせられる場面があった。
資料集で現代語訳を確認したあるグループ。そうしたら「先生、もう全部分かっちゃったから、調べることがありません」と言ってきたのだ。
俄然燃える私。
「分かったって言っているけど、もっと深く掘り下げられることはあるんじゃない?
例えば、「防人」の言葉の意味だけじゃなくて、何年間赴任しているとか、どんな人がかり出されるとか、そういうところまで調べれば、もっと作品の世界がよくイメージできるようになるよ。もっと分からないことがないか探してごらん」と。
せっかく探究できる時間を確保しているのだから、表面的な理解で終わらせるのではなく、ぐいぐいとテキストに食い込んでいくような学びをさせていきたい。そのためには、「分からないことがない」と生徒が言った後の教師の出方が必要だと思う。
追伸
山上憶良さんは何歳のときに子供を授かったか?
そこまで疑問に思わなかった私に、衝撃の事実を生徒が教えてくれた。まだまだ私も探求が甘い!

おばあちゃんのテクニック

某女子大前の道路沿いには、とっても古くからやっている庶民的なおまんじゅう屋がある。
見た目からしてかなり気合いが入っている。昭和の香り漂うお店だ。
通りかかるたんびに、気になって中を覗いみるんだけど、見ると、老夫婦がいつも一緒にテレビを見ながら番をしている。
どうしても気になったので、今日は勇気を振り絞って声をかけてみた。
「すいませーん。どら焼きと豆大福、二個ずつくださーい」
「あいよ。500円。」
と、ゆっくりゆっくり、パックにどら焼きと、豆大福を詰め込んでいる。1個130円。
あれっ、なんか変だぞ、これは、ひょっとして、おばあちゃん……。
「値段が違ってませんか」と言い出す前に、
「はい」と、袋とおつりを渡されてしまった。
あれは、おまけだったのか、それともお年寄りで計算がうまくできなかったのか。一体どっちなんだ?
とにかく、もやもやが残ってしまった。
そして、ちゃんと聞けなかった後ろめたさで胸がいっぱいになってしまった。
今度通りがかったときは、再び、絶対に、どら焼きと豆大福を購入しよう。そして、真相を突き止めてみせる!
あれっ、ひょっとして、これが、あのおばあちゃんのテクニックなのか? まさか!

しゃべるのが得意か、書くのが得意か。

どちらも同じような力を持っている人の方が少ないだろう。
例えば作文を書かせてみるとそれがよくわかる。
とっても饒舌で、立て板に水のように調子よく話すことのできる生徒が、なぜか文章を書くと支離滅裂だったり、全然書けなかったりする。
書くことが得意で、文章にして表現すると、とても整っているし理路整然と丁寧に書ける人が、しゃべりだと、しどろもどろになったりすることがある。
実際に上手かどうかはともかく、書く方が好き、しゃべる方がいいと、結構どちらかに分かれるのではないか。
そして現在のペーパーテスト中心の評価システムでは、話すこと優位な生徒は、話し合いの授業では活躍することができても、ペーパーテストでは圧倒的に不利になる。
こういう認知や表現の個人差を意識せずに、なんでも話し合い、なんでもアクティブとか、なんでもペーパーテストとすると困る生徒はたくさん出てくるのではないだろうか?

人が書くというのは憤りから

昨日お話ししたK島さんの言葉。
確かにそういうものかもしれない。
人は不如意と出会ったときに、やり場のない思いをなんとか吐き出したいと思う。そして誰かに分かって欲しいと願う。
人が強く「書きたい」「書かずにはいられない」と思うのは、ある意味「憤り」という生命の力から生み出されるものなのだろう。
普段、平々凡々と生活しているように感じ、さしたる不満も、憤りも、問題意識も感じない生活からは「書く」というパワーを引き出すのは難しい。
反対に、憤らずにはいられないような事態があっても、それに生命のパワーが圧倒されている場合もまた、書くことができなくなってしまう。そういうものなのだろう。
で、書かずにはいられない私は、何に憤っているんだ?

複数の解釈が成り立つのが万葉集の面白さ


万葉集は謎めいている。「主題」とか、「定説」というものの成立が難しい。これは明らかに違うという読みはあるが、「これはアリなんじゃない」という読みも多数提出され、そのどれもが魅惑的なのだ。
例えばこんな和歌がある。
春の野にすみれ摘みにと来し我そ
野をなつかしみ一夜寝にける
現代語訳すると、
春の野原にスミレを摘みにきたのだが、野辺の美しさに心ひかれて、ここでつい一夜を明かしてしまった。
という意味になる。
当然、読み手は
なぜ男がすみれを摘みに?
一晩寝るって、野宿?
いったいなぜそんなことを?
という疑問が湧き上がってくる。
で、ここから先はご想像にお任せして、となるんだけど、文献を漁ると、諸説紛々なところがまた面白い。ある歌人は、この歌は恋の歌で、すみれを女性に見立てていると主張していたり。
こういう類の作品解釈は、きっと永遠に定説は生まれないだろうし、むしろあれやこれやと想像を逞しくして読んでいくような楽しみ方こそが醍醐味なのだろう。
授業では、ただ意味をとらせるだけでなく、その先を想像していく、そして色々な説を参照させ、比較させて、自分の読みや定説を考えるような読み方をすることができる、そんな学習が可能なのが万葉集というテキストだ。

それでも明日学校がある。

2001年の911テロの時、私は新卒3年目だった。夜が白めるまで、友達とメールをしながらテレビに釘付けになっていたことを昨日のことのように思い出す。あのときは、もう世界が滅びるんじゃないかと本気で思ったけど、その翌朝にはいつもと変わらない朝がやってきて、いつもの通りの時間割の授業をこなしていた。そのことが何とも奇妙に映った。外国が戦争になるくらいでは、中学校は休みにならないものらしいのだ。
ひるがえって2015年。今日も、そして明日も、学校はある。日本が大きく変わろうとするこの一日にも、それには動ぜずに、中学校は動いていく。それがとても頼もしいことにも思えるし、これでいいのかという漠然とした不安もある。社会とはかけ離れても教育ができたかつての学校は、時代は、幸福すぎたようだった。

その時々の完成がある。

今日から二日間の「生徒祭」。うちの学校は文化祭はなく、代わりに生徒祭が行われる。学級を解体して好きな生徒同士でグループを作り、思い思いのパフォーマンスを繰り広げる。そこに教師の手はほとんど(全く?)入らない。入りようがない。生徒同士で作る方がよっぽどクオリティーが高いからだ。
こういう子供たちの姿を目の当たりにしていると、人間とは、大人に向かって成長していく、完成に向かっていくというよりは、その時々が完成形であり、その時々にしか表すことのできない輝きを持っているのだという思いを強く感じる。三十代の大人が「文化祭」をやってもパロディーにしかならないだろう。中学生たちは十代のこの時期だからこそ、この時期にしか表せない輝きを表現しているのだ。大人のまねごとなんかでは決してない。
生徒祭はあと一日。私が普段関わる三年生たちにとって、中学校最後のイベントとなる。彼らのまぶしい姿を、あともう一日だけ見ることができそうだ。

これを好むものは、これを楽しむものにしかず。

今日の生徒祭で三年生の様子を見て感心したことは、「勝ち負け」にちっとも頓着していないということだ。
うちの生徒祭は、毎年、来場者から、どのグループが一番良かったか投票してもらうシステムになっている。その順位に一喜一憂している姿が見られるのが、恒例となっていた。
しかし今年は、その順位発表にほとんど反応がなかった。勝ち負けなんていうものよりも、純粋に楽しんでいたのだろう。
多くの実行委員も、生徒祭の期間中、「楽しんでやりましょう」と生徒たちに伝えていた。それは意図的なものではない。「勝ち負け」よりも「楽しむ」というのは、多くの生徒にとって共感できる価値観となっているのだろう。
かつて(何年前だ?〕勝ち負けが絡むような取り組みで「楽しもう」とおおっぴらにいうのは、やや憚られていた風潮もあった。しかし今は違う。相対的な位置付けや評価よりも、自分たちの充実感に価値が置かれるようになってきている。そういう「絶対評価」がすっかり定着してきたとも言えるのだろうか?
それに良し悪しはあろうが「これを楽しむものにしかず」という真理は、古来から、人生を豊かに生きるための知恵であることは間違いない。

2015/09/04

万葉集は偏愛の古典。


色々な意味で、日本人にとって奇跡の詩集だと思う。世界遺産にしたっていい。誇るべき遺産だ。
なにがいいって、古典のなかでも群を抜いて親しみやすさがあるからなのだ。
万葉仮名とか、古代日本語とか、内容理解までのハードルは高いのは仕方がない。けれども、一度意味が取れれば、思わずはっとさせられたり、ほっこりとしてしまう作品がとても多い。
それは万葉集が庶民の歌がたくさん、しかも天皇、貴族と同等に並べられているという点にある。その庶民の作品が抜群に愛らしい。
例えば、教科書にはこんな和歌が掲載されている。「東歌」という東国の庶民が歌った作品だ。

「信濃道は今の墾り道
刈りばねに足踏ましなむ
沓履けわが背」
(信濃道は新しく作られた道。切り株に足をくじかないでね。靴履いていってね。わが夫。)
こんな感じで、遠くへ旅立つ夫をもつ妻のつぶやきが歌われている。まるで、単身赴任するだんなに口うるさく??指図している妻の姿が目に浮かんでくる。 きっと夫のことが大好きで、そして心配なんだろう。ああ、愛らしい、そして可愛らしい。こんな作品を偶然見つけてしまうと、思わずほっこりしてしまうの だ。
万葉集は、私たちのような庶民の目線で、人生の哀感、喜怒哀楽を素朴に歌っている。千年もの時を隔てた古典のなかで、今も昔も変わらない人間の情感、あわれさを感じると、それがたまらない味わいとなる。
定年退職したら、毎日、万葉集をちびちび読む余生を送るのが夢だ。歌枕巡りもいいかな。

古文の訳文はなんとかならないか?

昨日同僚の先生と話題になったのは、古文解釈の、あの直訳体のいけてなさだ。
古文は(に限らず、どんな文章もそうだけど)文体によってえらく親しみやすさが変わってくる。同じ古典でも訳し方によって印象が一変する。
たとえば、徒然草だったら、橋本治さんのふてぶてしい文体が最高。あれで私は徒然草に開眼した。万葉集なら「song of Life〜コンテンポラリーレミックス、和歌〜」だ。
しかし、教科書の直訳体は、どう書けばこんなにつまらないんだろうと思うほど、いけてない。これでは古文嫌いが量産されるのも仕方がない。
最近、角川のビギナーズクラシックスシリーズなどの意欲的な訳文が出回りつつある。一般書でもだいぶ古典の訳本が増えてきた。
授業でも、いや、授業でこそ、古典作品の魅力を十二分に引き出す訳文が必要なのではないだろうか?

2015/09/03

中学生が中学生に授業する和歌の学習

和歌の学習は正直きつい。
何がきついって、いくつもの作品(教科書には20首程度採録されている)の解説を、ひたすらやらないといけないからだ。どうしても単調になる。
かといって、古典なので、生徒に任せっきりで活動させても、どこまで正確に理解させることができるかも不安だ。任せっきりでも不安、ひたすら説明し続けても寝てしまう。諸刃の剣だ。
そこで、苦肉の策だけれども、生徒に授業をさせてみることにした。
発表ではなく「授業」、「授業風プレゼン」といったほうがいいかな。

次の流れで行う予定。
1時間目
①和歌についての基本的な事項の確認。
 これは一斉授業で、私が効率的に教えてしまう。
②教科書に掲載されている和歌のうち、三首を選んで感想を書く。
 感想カードを用意し、それぞれの和歌ごとに感想を集める。

2・3時間目
①教科書に掲載されている和歌8首の疑問点をグループで出し合う。
脚注を読めば分かることではなく、しっかりと読み取ったり、イメージしないと分からないような疑問点を考えさせる。
グループで全ての和歌について疑問点を出し、疑問カードに記入する。

②8首をグループで分担し、授業案を考える。
1時間目で書いた感想カード、2時間目の①で書いた疑問カードを、和歌の作品ごとに分け、それぞれの和歌を分担したグループに渡す。
各グループでは、その感想や疑問を切り口に、授業プランを考える。
学校図書館の資料などを活用し「教材研究」をする。

②それぞれの作品ごとに「授業風プレゼン」を行う。
「授業風プレゼン」に必ず入れる内容
・和歌の音読(オプション:皆さんで音読をご一緒に!)
・クラスから出た感想の紹介
・疑問点とそれについての解説(オプション:抜き打ち指名も!)
・和歌の意味について
※なお、授業ではホワイトボードか電子黒板(iPadなどで撮った画面を拡大提示する)をつかえるように準備しておく。

こんな感じで「授業風プレゼン」をやらせてみようと思っている。
さて、どうなることだろうか。