2015/04/28

「謎俳句」はアリか、ナシか 〜「おくのほそ道」の翻作にチャレンジ〜

「おくのほそ道」の俳句は、前段に紀行文があるからこそ、なのではないか。セットで鑑賞するのが、本来の姿なのではないか。
俳句だけでも世界は完結するけれども、あの紀行文とセットになることで、相乗効果になって解釈が広がっていくものなのではないか。
という一つの仮説にたって、修学旅行帰りの授業で芭蕉にならって、「おくのほそ道」のような紀行文+俳句の文章を書く活動を設定してみることにした。
手順は次の通り
1、修学旅行を思い出す
2、「おくのほそ道」に書くテーマを絞り込む
3、俳句を作る
※この俳句は「謎俳句」として、俳句だけでは意味がよく分かりにくいものとする。前段の紀行文と併せて読むと、初めて腑に落ちる内容になるように工夫させる。
4、本文(紀行文)を書く
※「謎俳句」につながる伏線となるようにする。(多少話を盛っても良い)
なぜ「謎俳句」なのか?
修学旅行を俳句にしようという課題を出した場合、たいていの場合、一生懸命修学旅行の内容を盛り込んで伝えようとする意識が働く。
その結果、つぎのような説明的な俳句が量産されるだろう。
一 春の夜遠野で眺める大銀河
二 満開の桜の下の金色堂
もちろんこれでもいいんだけれども、ここで一ひねりさせたい。
こういう説明的な部分は前段の文章部分で書いてしまって、俳句はその雰囲気やイメージをぼやっと暗示させるようなものを作っていく。
説明を読まないと意味が分からないので「謎俳句」とネーミングした、(このネーミングが適切かどうかは迷っているところ)
つぎのようになろうか。
一 いつまでも眺めていたい大銀河
二 大屋根をひらりと滑る桜かな
ただ、一の「大銀河」の句もまだ説明的と言えば説明的かもしれない。「眺めていたい」という気持ちをそのまま言って種を明かしてしまっている。
じゃあ「眺めていたい」という部分を「謎」となるような表現にするためには、さらにどうひねっていけばいいのだろうか。
春の夜遠野で眺める大銀河

いつまでも眺めていたい大銀河

大銀河四人の影を映し出す
↓・・・さらに説明っぽさをなくすために「を」「に」を削る。
大銀河遠野の里に影四つ

↓ 

うーん、「遠野」ってあえて言わなくてもいいかな、いや「遠野」という言葉の響きが謎めいていていいのかな?

大銀河見上げて黙る影四つ (雅辺さん)
このような、一読しては意味が分かりにくい「謎俳句」となるようにひねっていく。
句会では俳句のみを読み合って、お互いのイメージを交流させていく。
種明かしは紀行文の部分で補完していく。
こうすることで、短詩系文学のもつイメージ喚起力や、多義的な解釈を可能にする表現について考えさせることができるかもしれない。

2015/04/27

デュアル型実習生指導の試み

今日は実習生の打ち合わせ。今年の教育実習もスタートする。
今年は、以前から取り組んでみたかった実習生指導の方法をやってみることにした。名付けてデュアル型実習生指導。
今回私は担当するのは2人だ。
2人で4クラスを受け持つことになるが、次のような工夫をした。
・2クラスずつを分担する。
・授業では2つの教材を扱うが、取り上げる指導事項は同じとする。
・2人の実習生が指導案を書くのは一つだけ。互いにシェアする。
・お互いの授業を参考にし、自分の授業に生かしていく。
つまりこういう感じ。

授業実習は6時間。
授業ではA教材と、B教材を教える。
AさんはA教材の授業プラン3時間分を考える。
BさんはB教材の授業プラン3時間分を考える。
AさんはA教材を授業したら、B教材を教える(授業プランはBさんが作成) Bさんはその逆の順番。
ちなみに、いざとなったら要望に応じて、いつでも自分が示範授業(という言葉はあまり好きではないけど)を実習生がお願いしてもいいよということにしている。
この指導法には次のような効果が考えられる。
・二つの学習材を同一の指導事項で授業を作っていく、そこから、学習材ありきではなく、指導事項に重点を置いた授業づくりができるようになる。(かも)
・同じ指導事項の内容を二度繰り返して授業ができ、練達していく。
・互いに助け合って実習する切実性が生まれる。
・それぞれの授業スタイルの違いが鮮明になる。
・同じ指導事項で、複数のアプローチを学ぶことができる。
などなど。
さて、当初の目論見道理にいくのか、ちょっと緊張&楽しみだ。

2015/04/24

「修学旅行で民泊」のメリット、デメリット

修学旅行で、現地の民家に泊まらせてもらうこと(民泊)が最近とても流行ってきているという。中学、高校はもとより、企業研修などでも民泊は取り入れられているそうだ。
民泊の受け入れ先にとっても、村おこしの観点で大変協力的に取り組んでいただいていることは間違いない。どのご家庭も、子どもたちを、「都会から訪れた孫」のように温かく、そして心を込めておもてなしをしてくれている。子どもたちの満足しきった表情からも、十分その成果を感じ取ることができた。(ついでに言うと、民泊先に子どもを預けてしまえば、日中は教員のやることはほとんどなくなる。)
そういうわけで、今後、様々な学校で、「修学旅行で民泊」のパターンは増えていくことだろうと推測する。
ただ、得るものと同時に失うものもあるのではないかと、ひねくれた私は考えてしまうのだ。
それは、子どもが完全に「お客さん」になってしまうのではないかということ。
受け入れ先のお家では「農作業の手伝い」や、紙すき、フラワーアレンジメント、お菓子作りのような体験プログラムを組んでくださってはいる。しかしそれとて(言葉は悪いけれども)中学生にできる範囲の「おままごと」をセッティングしてもらっているだけという見方もできる。
この、セッティングされたプログラムを選択する余地は、子どもたちにはない。受け入れ先の家に行くと、あれよあれよという間に、あてがわれた作業や体験を課せられ、それをやらせていただく。食べきれないほどのごちそうをいただき、そして満足して帰って行く。
それが悪いわけでも、成果がないとは決して思わないんだけれども、「修学旅行」の意義を考えたときに、本当にこれでいいのだろうかという思いが、私の硬い頭の片隅には浮かんできてしまう。

2015/04/11

「学力」は時代や社会によって変わっていく

ということを、つい忘れがちになってしまう。
日本の学校教育で定義する「学力」は、とりあえずは「九教科で分類される知」ということになっている。
しかし、たとえば大昔ではすべて文系も理系もすべてひっくるめて「哲学」として学ばれてきた歴史もあるし、海外には体育や美術、技家のない国なんていくらでもある。ダーウィンの進化論を教える学校もあれば、それを答案に書いたら不合格になる国もある。(多分……)
日本も、高等学校で工業科が減ってきているのも、情報科が必修科目として新設されたのも、そうした時代や社会の流れをうけてきたからだ。

教育は、とりあえずは、そうした社会の流れを反映するものであり、また、未来の社会のために、社会を発展させるためのものとして機能している。
だから「かつては通用していたけれども、いまでは学校でしか通用しない知」は、淘汰されるべき知となってしまうことも仕方が無い。 必然的な流れだ。
と同じように、社会で通用している知が、まだ学校では取り上げられていない知として存在するならば、そういう知のなかから、新たな教科が生まれてくるものと考えるべきだろう。

「司書力」はこれからの時代のリテラシーとなるか?


「編集者」のもつ専門的な能力のアナロジーから、誰もが必要とする能力として「編集力(エディターシップ)」が取り出された。(外山滋比古)
と同様に「司書」の専門的な能力は、誰もが必要な能力の一つとして取り出すことができるのだろうか。
情報を評価し、分類整理し、保存し、提供する一連のプロセスに働く力として「司書力」を位置づけることができるのだろうか。
(おそらく、編集者も、司書も、メディア専門職としてのキュレーションが機能しているのだろう)
そう考えてみると、また新たなカリキュラムが開発できるかもしれない。
「司書力」っていうネーミングがいまいちだなあ。ほかにあるのかなあ

ICTは学習を不自由にする??

経験的な教授・学習観は、教師の教え込みを排す。そして学習者の自由度を上げることで主体的な学習を促して、知をボトムアッブ的に構成させ、獲得されるという立場に立つ。
しかし、その時に与える環境やツールが作り込まれすぎ、ブラックボックスと化した便利すぎるモノ(ICT)だったら、かえって選択の幅が狭まり、ICTに使われている状態にならないか?
たとえば、「レゴブロック」は創造力を育てるとなんとなくは理解できるけど、精巧な「プラモデル」は創造力をより育てるとは思いづらい。
このように、作り込まれすぎ、精巧過ぎるICTの発展によって、かえって活動が不自由になることにはならないか?
そこには、ボトムアッブ的に獲得されるはずの知が、トップダウンに与えらているという矛盾が存在するのではないか?

私が「ICT活用教育」の楽観的過ぎる万能感には賛同できないのも、凝り過ぎたゲーミフィケーションによる教育にいまいちついていけないのも、そのへんのモヤモヤがあるかららしい、

「好きにしていいよ」こそが最大の教え込み。

子どもの主体的な学習を尊重するときの常套句「好きにしていいよ」。
漢字の字形は好きに書いてもいい。文章は好きに読んでもいい。確かに、個人で楽しむためにはそれでもいいだろう。
しかし、社会生活を送るためには、字形も許容されるラインというのはあるし、文章だって個人でバラバラに理解していたらコミュニケーションは成立しない。
やはり、どんな自由もある程度の幅や暗黙のルールというものが存在する。
その選択の幅を示さないで「好きにしていいよ」とだけ教師が示すならば、能力の高い生徒ほど教師の顔色やさじ加減に従っていく。
つまり、広いと思い込んでいてじつは狭い教師の価値観が刷り込まれ、教え込まれているということにはならないだろうか?

2015/04/04

科研費って知ってる?

科研費(科学研究費助成事業)って知ってますか?
研究に対して資金を援助してくれる制度。実は、教員もこの科研費を応募することができるんです。

正確には、教員が応募できるのは、科研費のなかでも「奨励研究」というカテゴリー。
「教育・研究機関の職員、企業の職員又はこれら以外の者で科学研究を行っている者が一人で行う研究」と但し書きが書かれている。→科研費についてはこちら

登録は、毎年、10月~11月にかけて募集がかかるので、そのときまでに所定の手続きをして所属先などに申し込むことになる。
必要な書類は、自己紹介カードのようなものと、研究計画書(研究内容とか、研究の流れとか、必要な資金の予算内訳など)だけ。たったこれだけで、最大100万円の助成を受けることができる。

どうですか? あなたも応募してみたくなりましたか?

前任校で、結構身近な人が科研費をゲットして、研究に必要な道具などをそろえていたので、私も、これは助かるなあと思って、5年前から応募をしているところです。
で、いままで科研費どれくらいとることできたの? って、さすがにそんなに簡単ではありません。
一説によると採択率は2割くらいということで、単純計算で5回に一回くらいは申請が通ることになるらしい。私もこのたび、5年間出し続けてやっと科研費を取ることができたのでした!

で、とったからこそ、やや偉そうに語ることが出来るんだけれども、やはり通りやすいテクニック的なものはあるらしい。眉唾もののものから、そうだよなあと納得するレベルのものも。私の身近で、やたらたくさん科研費を取りまくっている凄腕の方がいるので、今年はその先生にコツを聞いて、その通りにしたらようやく科研費をいただくことが出来たのでした。もちろん、そんなコツをここで書くわけにはいかないので、私と仲良くなった人にはこっそり教えてあげましょう……。

それはともかくとして、科研費の取得に向けて研究計画を立てるということは、やはり自分にとっての力になることは間違いない。研究計画が他人の評価にさらされるということは、自分のやろうとしていることが社会にとってプラスになるのかどうかということをみる試金石でもあるので、たとえ科研費が取れなくても得るものは大きいと思います。今年は小学校の先生をしている妻にも科研費の申請を勧めてみようと思っています。

国民の大切なお金なので、一銭たりとも無駄にすることなく、教育の発展のために研究を進めていきたいと誓う所存であります。

ケネス・グッドマン原著購読会〜ホール・ラングエッジ勉強会〜 その1

ケネス・グッドマンの「What's Whole In Whole Language」というホール・ラングエッジの入門書をテキストに、輪読形式で読書会を行っている。第二回目ということだが、私は初めての参加。


メンバーは、もと大学教授のS先生を囲む形で、小中学校教員、大学等の研究者など、今日集まったのは計8人。このくらいの人数がじっくりと話し合うのにはちょうど良い。

ケネス・グッドマンって誰? ホール・ラングエージって何?状態なんだけど、おそらくデューイをルーツとする経験的な学習観に立つ言語教育理論ということらしいので、その理論のよって来たるところを見ておきたいと思い、参加することにした。

読書会の進行は、輪番でワンセンテンスずつ読み上げ、それを基にS先生や英語に堪能な先生が解説しつつディスカッションする方式。私は英語は中学生レベルなので音読もおぼつかないくらいだけど、訳読を聞いてやっと理解できた。
「グッドマン教になる必要はない。この会はそういう会ではなくて、みんながテキストから触発されたことを語り合えばいい。しかし、大物とぶち当たったときに触発されるのであって、小物だと思い上がるから、このテキストを取り上げるんだ」とS先生。
ということで、大物相手にがっぷり四つの4時間あまり。しかし進んだのはたった2ページだった。たっぷり話し、たっぷり考えることができた。

今回取り上げたのは「言葉って何?」という章段。
どんなことを考えたかキーワードをメモしておく。

○言葉は経験を分かち合ったり、紐帯を結ぶ。
一人ではできないことを可能にしていく。
人間は言葉によってsymbolically(象徴的・抽象的)に置き換えてものを考えることができる。
言葉によって経験を振り返り、認識させていく。また、言葉による虚構で、経験を創造することもできる。

○言葉そのものに与えられた意味づけは恣意的なものであり、無意味な記号である。
言語のルール・システムは人為的なもの……人工的な文化である。
その言葉の背後には、膨大な情念の世界が広がっている。
言葉にならない未分化の世界から、話し言葉が生まれ、書き言葉が生まれて、身体性が記号に置き換えられていった。

○あるものをあるがままに受け取るのが「ホール」の発想。
「論理」は現象を捉えるためには粗雑すぎる。論理がセンチ単位だとしたら、言葉はミリ単位ぐらい。
「直観、論理に屈したるわざなり」賢治
「割り切れないものを割り切れないままにしよう」
答えが出ないものに向き合っていく姿勢。
Language makes it possible to link minds in an incredibly subtle ano complex manner.

○テクストの意味は一様ではない。→デュアルテキスト
例 万葉集「東の野にかぎろひの……」現代では違う解釈に。

○言葉には集団独特の文化が埋め込まれている。
言葉によって美意識や情感も共有していくことができる。

※言葉と政治性
カナダは移民が多い
移民の子に故郷の言葉を教えていく試み(ブラジル移民にポルトガル語)
インターナショナルラングエッジ エデュケーション
継承語教育(遺産言語)ヘリテージラングエッジ
言葉の絶滅危惧種

方言を守る運動……方言劇の取り組みもある。
方言と共通語をどう扱うかという問題→そもそも共通語(複数の人が話さない)でない言語はない。言語は政治的な力によって位置づけが変わるもの。英語が今後どうなるかは分からない。→エスペラントはポーランドの小国から生まれたから普及しなかった。

※間違いをその都度指摘するべきではない。
間違いはそれを指摘させるべきときがある。そのとき以外は指摘しない

※原著を読むことの良さ
・日本語に置き換えると分かったつもりになってしまう。原著のニュアンスが消えてしまう。
そのため、英語で理解することが大切。
mind 精神作用そのもの
intellect 知識 見識
simbolicaiiy…象徴的、抽象的に考えられる
熟考する……reflect 
など

・英語で読むとすらすらと読めない。これがじっくりと思考をしながら読むためには有効。


※流行を追うといつも遅れる。追わないといつも自分が最先端。

※分かち合うからこそ学べる。一人では学べない。
ネットの良さは、お高くとまっていないこと。どんな雑多な情報も同一平面上に並んでいる。