2014/02/24

恐るべき子どもたち、恐るべきA幼稚園

研究室仲間のAさんが博士論文で取り上げた、あのA幼稚園に行ってきた。
写真や話では、そのすごさを聞いていた。
いつか見てみたいと思っていた。
が、行ってみたら、こんなにもすごい所だとは思わなかった。

教室ほどの広さの空間に、子どもたちが作った「街(つくしタウン)」ができている。
その「街」には、子どもたちが1年間かけて作った「お店」が広がっている。
子どもたちはグループを作り、木の板で屋台を組み、そこで本物そっくりの「お店」を作っていくのだ。いわば、壮大な「おみせやさんごっこ」の世界が広がっている。
この「つくしタウン」では通貨「ガバチョ」を持ち歩いて、お買い物を楽しむことができる。今日も、年少さんがたくさんこの街にやってきて大賑わいだった。

たとえば、今年の年長組の教室では、こんなお店が開かれている。
・つくし銀行(ATMなどあり。二階はミニ図書館)
・サーティーワンアイスクリーム(アイスやポップコーンを売る)
・マクドナルド(ドライブスルー完備!)
・着物やさん(着物はもちろん自作!)
・カメラのキタムラ(「スタジオマリオ」で実際に写真を撮って現像してくれる)
・映画館(子どもがiPadで撮影した映画「しゅりけんじゃーⅡ」が絶賛公開中)
・テレビ局(ゆるきゃら「つくっしー」ニュース、つくしZIP! スタジオパークの顔ハメ看板なども)
・つばめ研究所と鳥博物館(幼稚園中に、鳥のスタンプラリーコースがあり)
・広場には「ハッピーステージ」という舞台があり、「しゅりけんじゃーショー」や、きゃりーぱみゅぱみゅのような「プロジェクトマッピングショー」(子どもたちが着ている真っ白の服に、プロジェクターで画像を投影する)を公演している。もちろん、衣装を作るのも、プロジェクターや照明をやっているのも子どもたちだ)

どんな言葉を尽くしても、説明しきれない。
あの世界は実際に行って見て体験してみるしかない。
この「教育」をどう理解したらいいか、正直途方に暮れている。

園長先生は、こんな内容の話をしてくれた。
「うちの幼稚園では、積み木もレゴも置いていない。
ピアノで子どもの行動をコントロールをするようなこともほとんどしない。
教室の壁面に、模造紙や色紙で安っぽい飾り付けをしない。
クマやパンダのキャラクターで飾り付けるようなことはしない。
それよりも、テーブルに一輪の花を置いた方が、どれほど子どもの感性を育てるか。
「何して遊べばいいの?」と、大人に聞く、自分で遊べない子ども(人間)を作ってしまっている。そういう人間にしないために、この幼稚園が作られたのだ。」

※園長先生はとても気さくな方で、いつでも見学を受け入れているそうです。
興味がある方は、ご連絡ください。

ミサ・ソレムニスを歌う

今日は一年間取り組んできた合唱の本番でした。
ベートーヴェン「荘厳ミサ(ミサ・ソレムニス)」という作品、80分以上ぶっ通し、立ちっぱなしで歌い続ける大曲です。(第九のテンションで一時間以上歌い続けるイメージかな)
それを千葉のプロオーケストラ、ニューフィル千葉と、常任指揮者の大井さんとともに取り組みました。合唱はもちろんアマチュアです。
ベートーヴェン畢生の大作、合唱曲の「エベレスト」にも喩えられるような、技術的にも、体力的にもキビシイ難物です。本番では、途中で倒れる人も想定して、看護師待機のコンサートでした。年配の方も多いので……。
昨日、今日のゲネプロと三回通して歌ったのでぐったりです。が、今や、心地よい疲労と、やり切った充実感、そして、一年間挑んできたこの作品を、もう、みんなで歌うことができないんだなあという切なさで満たされています。

「荘厳ミサ」の結末は平和へ賛歌。楽譜には「内なる平和と外なる平和への願い」というベートーヴェンの書き込みがされています。
大曲の終結は、
「我らに平和を与えたまえ」
(Dona nobis pacem)という歌詞で消え入るように閉じられます。
これが、最後に半音上がる、非常に不安定で中途半端な、不思議な終わり方をしているのです。人びとに平和を問いかけるような、そしてその投げかけがいつまでも続くような、そんな結末のようにも聴こえます。

2014/02/19

「歴史的に見る」とはどういうことか~『西洋音楽史』の手法に脱帽する~

あの佐村河内事件をきっかけに読んでみようと思った一冊。
今年はいい本によく巡り会う。
この本も、近年まれに見るヒットだった。

『西洋音楽史』とは言っても、無味乾燥な通史ではない。それぞれの「芸術作品」が生まれた潮流をダイナミックに捉えようとしているところが面白い。
そしてなにより、この一冊で、クラシック音楽の歴史だけでなく、「ものを観る目」のようなものも、鍛えることができた。
(そういう意味では、クラシック音楽にあまり興味がない人も、機会があればぜひ読んでみて欲しい)
以下の私の駄文を読むよりも、Amazonのレビューの方が参考になる。そして原著を読んだ方が圧倒的に面白い。

1、歴史的に見るとは?
この一冊は「歴史的に見る」ということの意義を感じさせる好著だ。
クラシック音楽(に限らず,どんな芸術も)は、その土地と、そして時代、そしてそれを享受する人々に強く規定される。術には、それを生み出す装置があり、時代の制度に縛られ、それらの,システムの中で生み出されていくのである。

歴史的に見るとは、次のような問いをもつこどである。
「このような音楽はどこから生まれてきたのか」
「それは一体どんな問題を提起していたのか」
「こういう音楽を生み出した時代は、歴史のどの地点にあるのか」
「そこから何が生じてきたのか」

どんな芸術作品も、作家が好き勝手に書き散らかしたものではあり得ない。その芸術が生まれるためには、時代背景や社会の状況などと分かちがたく結びついているものなのだ。

2、芸術とは「書かれたもの」である。
筆者は芸術作品としての音楽を実に明瞭に定義している。
それは、「書かれたもの」であるということだ。
「書かれたもの(ここでは楽譜)」があるからこそ、
1、世界中で演奏されるという普遍性を手に入れることができた。
2、時代を超えて継承していくことができた。
3、書くことで、格段に大規模で複雑な芸術へと発展させることができた。

ここで、最も注意して欲しいのは、音楽の本質と、「書くこと」は、それだけではほとんど関連がないと言うことだ。
音楽を楽しむために、即興で歌ったり、楽器を演奏したりする人もいるだろう。
そのなかには、きっと優れた演奏をする「芸術家」がいたはずである。
しかし、「書かなかった」からこそ、それは芸術として認められることはなかったのである。
優れた芸術は、すべて書かれているわけではない。
しかし芸術は書かれないと芸術にはならない。
この発見は、ものすごく示唆的である。
パフォーミングアートと「書くこと」との関連。
優れたパフォーマンスだけでは、「芸術」へと昇華していかないというジレンマ。
しかし、「書かれていない」もののなかにも、きっと優れた芸術はあったはずだ。
それは「書かれなかった」ことにより、消えていってしまったのだ。

3、西洋音楽史とは何だったのか?
とてもざっくりと言ってしまうと,次のようになる。
神のための音楽(グレゴリオ聖歌など)
  ↓
バロック……王様のための音楽(モンテベルディのオペラなど)
  ↓
古典派……ブルジョアのための音楽(ベートーヴェンなど)
  ↓
ロマン派……市民、大衆のための音楽(ワーグナーなど)

このように、芸術を享受する層によって、求められる音楽は異なってくる。
かつてのグレゴリオ聖歌の時代は、誰が作ったかという「作家性」はほとんど求められなかった。
しかし、王様やブルジョアに向けて音楽を作るためには「作家性」のプレミアムがより必要とされるようになった。作曲だけで生計を立てることが可能になった時代ならではだ。
さらには、ベートーヴェンの時代になると、作家としての「自意識」がさらに強くなっていくことになる。自己表現の手段として作曲をすることが可能になったのだ。
ベートーベン以降から新たに生まれたのは「感動のための音楽」という思潮である。
市民たちは、日常からの解放、夢とファンタジー、魂を揺さぶる何かを「音楽」のなかに求めるようになったのである。
「どんどん無味乾燥な時代になったからこそ生まれたロマンティックな音楽」が量産されていくのである。筆者はそれを「疑似宗教体験」としての音楽と呼んでいる。

ロマン派以降の音楽は、ひたすら「感動」を否定する方向に向かっていくようになった。
調性を破壊し、楽音を破壊し、拍節を破壊する。そして「作曲家」さえも解体されていくようになる。

現代音楽はもはや「公衆が不在」な、アングラ音楽である。
クラシックは「公式文化」から「サブカルチャー」へと転落しているのである。
アーノンクールはこう言っている
「18世紀までの人々は現代音楽しか聴かなかった。19世紀になると現代音楽と並んで、過去の音楽が聴かれるようになった。そして20世紀の人々は、過去の音楽しか聴かなくなった」
人々の関心は「誰が何を作るか」から、「誰が何を演奏するか」へと決定的に移行していったのである。(楽譜の問題とか、複製芸術の問題とかも関連することだろう)

4、西洋音楽史の末裔としてのポップス
ポピュラー音楽の大半は、19世紀のロマン派音楽をほとんどそのまま踏襲している。
「市民に夢と感動を与える音楽」がそのコンセプトにある。
クラシック音楽の作曲家と、演奏家、そしてポピュラー音楽の三つは、いまや後戻りできない「分裂」を生んでいる。
前衛音楽家の場合は「公衆を置き去りにした独りよがり」
クラシック演奏家は「過去にしがみつくだけの聖遺物崇拝」
ポピュラー音楽家は「公衆との妥協」「商品としての音楽」のように。
しかし、これはとりもなおさず、西洋音楽(ポップスも含めた)における、音楽を作る人と演奏する人の断絶、音楽家と聴衆との断絶を物語っている証左なのだとも言える。

5、社会が生み出す芸術
作者は現代の音楽状況をこう結んでいる。
「宗教を喪失した社会が生み出す感動中毒、神なき時代の宗教的カタルシスの代用品としての音楽の洪水。ここには現代人が抱えるさまざまな精神的危機の兆候が見え隠れしている」

2014/02/18

朗読CDの作成は驚くほど簡単

同僚の先生が、まもなく卒業していく3年生へのはなむけに、いま、授業で朗読した「おくのほそ道」の朗読CDを作成している。

CDを作るのも、いまは本当にびっくりするくらいに簡単になっている。
1、各グループにiPadを持たせ、その録音アプリ(recorder(有料))で、グループごとに録音する。
2、それを、クラウド上にアップする。(このアプリはDropBoxとか、skydriveなどに共有する機能がある。)
3、通し番号を音声データにふっておけば、一気に並び替え!
4、それをメディアプレーヤーなどでCDRに焼き付け。
5、完成

録音とDropBoxへのアップロードがやや手間がかかるが、それさえできればあとは一気にCDが作成できてしまう。便利な時代になったものだ。
(が、もはやCDは使わないで、youtubeやポッドキャストにアップロードしてしまうようになるかもしれない)


2014/02/11

『魔女狩り』森島恒夫著(岩波新書)を読んだ

中世ヨーロッパで猛威をふるった「魔女狩り」。
なぜ行われたのか? それがどのように行われたのか?
以前より興味があったが詳しく知るきっかけがなかなかなかった。
今回この一冊を読んで「魔女狩り」についてイメージしていたこととえらく違っていることが多く驚かされた。

一番驚いたのは、魔女狩りが、「合理主義とヒューマニズムの旗色鮮やかなルネサンスの最盛期」に起こり、しかも宗教改革の機運とほとんど時を同じくして流行したということだ。
さらには、当時の一流の知識人や、ルネサンスの科学者たちも率先して魔女狩りに賛成している。魔女狩りを行ったのはカトリックだけでなく、プロテスタントも率先して行っている。
このように、最も「不合理」な蛮行が、滑稽なほどに「理性的」に進められたという事実には驚きしかない。(ナチスによるホロコーストもこれと似た構造なのだろう) 魔女が「合理的」に、神学的に定義され、そして裁判にかけられる。もちろんそれには現在の裁判と同じく弁護士もいる。(当時の拷問や裁判の記録が詳細に残っているのは、そういう「理性」のおかげでもある)
この本では、魔女狩りの拷問の様子や、凄惨な処刑の描写などを、冷静な筆致でこれでもかというほどに表現されている。(そういう「魔女狩り」についての好奇心を満足させる意味では、期待以上の一冊だった) 一次資料や貴重な文献からの引用も多く、資料性に優れている。日本において「魔女狩り」をしるためには最重要な文献の一つであるだろう。

筆者はこう述べている。

魔女裁判の後を振り返ってみて、しみじみ感ずることは、魔女裁判(いや、それを含めて宗教裁判一般)を一貫している「モラルの倒錯」である。そこでは、残虐、違法、偽善、欺瞞、貪欲、不倫、軽信、迷信、歪曲、衒学、……およそ思い浮かべられる限りのあらゆる不義、悪徳が、むしろ正義、美徳として、何のためらいもなく、確信に満ちて堂々と行われているのである。この確信が、あらゆる不義と悪徳を正当化している。
科学は宗教の敵ではなくむしろ宗教を高めるものであり、科学の敵は宗教ではなく神学的ドグマである。
「人間は宗教的信念をもってするときほど、喜び勇んで、徹底的に悪を行うことはない。」(『パンセ』)
そして、この一言で本を閉じている。
しかし、「新しい魔女」はこれからも創作され、新しい『魔女の槌』の神学が書かれるかもしれない。

以下メモ

  • 魔女裁判は異端審問の一つとして発展した。異端審問が過激化する以前は、魔女は民衆の中で存在していると考えられていた。(日本の妖怪のようなもの?)そして、それはそれほど問題とはされなかった。しかし、「異端」に対する風当たりが厳しくなり、カトリック教会が絶対的な権力を握るようになってからは、魔女も異端の一つとして裁かれるようになった。
  • 魔女が悪さをしたから法律で罰せられる、というレベルから、そもそも魔女だから死刑、というように過激化していった。
  • 魔女の立証は困難。魔女は体に悪魔の噛み傷がつけられているということから、それを針で刺してチェックする職業の人もいた。(悪魔の刻印は無痛らしい)
  • 魔女の逮捕は密告による。そして魔女かどうかの決め手は本人の自白。その自白はほとんど過酷な拷問によって「白状」させられた。そして自白のあげく、関係者の密告も推奨したため芋づる式に魔女がしょっ引かれていった。(拷問を慣習的に行っていなかったイングランドでは、諸外国と比べて魔女狩りの被害が極端に少なかった)
  • 魔女狩りというが、処刑されたのは男性も多い。
  • 魔女狩りで処刑された人の遺産は、教会や異端審問官などの役人が没収した。金持ちを魔女として処刑すると遺産を総取りできるので、魔女狩りを「新しい錬金術」とうそぶく僧侶もいた。じじつ、魔女の処刑による財産没収を禁じたら魔女狩りが激減している。
  • 魔女狩りが最も盛んだったのは、実はルネサンスの時代である。ケプラーの母も魔女狩りの被害者であり、ガリレオも異端審問(宗教裁判)にかけられている。
  • 魔女狩りはカトリック(旧教)が率先して行ったようなイメージがあるが、プロテスタント(新教)も猛烈な魔女狩りを行っている。
  • 近代的なルネサンス運動と、宗教改革運動とは、その開始から消滅に至るまで中性的な魔女裁判とその時期を同じくした。
  • 魔女狩りの背景にはペストの流行や教会の堕落など社会的な不安があった。
  • 「世界国家」としてのキリスト教的ヨーロッパの聖俗両界の権力的支配者が力を失い、異端審問などを必要としなくなった結果、魔女狩りも終息していった。

2014/02/09

授業計画で学習スタイルを考慮して実施することにより,どのような効果が期待できるか

欧米では「学習スタイル」についてさまざまな研究がなされている。

最も有名なものがコルブの学習スタイル論である。
コルブは学習を,「学習とは経験の変換によって知識が形成される過程である」,と定義している。彼によると,経験学習は以下の6 つの特徴を持っているという。
1. 学習はプロセスであり結果ではない。
2.学習は経験に基づく絶え間ないプロセスである。
3.学習は社会に適応する過程で,下の図に示されるように,弁証法的に相反するモードを融
 合することによって生まれるものである。

4.学習は社会に適応するための全体論的なプロセスである。
5.学習は個人と環境との取引を含む。
6.学習は知識を創造するプロセスである。

コルブの学習スタイル理論によると,学習は,相反する外界との接触の仕方(能動的―熟考的,具体的―抽象的)の格闘の過程であり,学習スタイルとは,この外界との接触法の好みであるが,それは,時と状況に応じて変化するものであるとしている。

コルブは,学習スタイルとして,収束型 (converging style) ・発散型 (diverging style) ・同化型 (assimilating style)・適応型 (accommodating style),の4 つの学習スタイルを挙げた。こ
 の4 つの学習スタイルの特徴を以下に簡単にまとめてみる。
•タイプ1:収束型 (converging style)
主に抽象的概念,及び能動的実験により学ぶ傾向にある。問題解決,意思決定,アイデアの実践に優れ,感情表現は少なく,対人的問題よりも技術的問題に取り組むことを好む。
•タイプ2:発散型 (diverging style)
具体的経験と熟考的観察から学ぶ傾向にあり,想像力旺盛で,価値や意義について考えることが多い。状況を様々な角度から見,行動よりも観察により適応する。人との関わりを好み,感情を重視する。
•タイプ3:同化型 (assimilating style)
抽象的概念と熟考的観察を好み,帰納的に考え,理論的モデルを構築する傾向にある。人より抽象概念や理論に興味があり,実践的よりも理論的な考えを重視する。
•タイプ4:適応型 (accommodating style)
具体的経験と能動的実験により学ぶ傾向にあり,計画を実行したり,新しいことに着手することが好きである。環境に対する適応力が強く,直感的な試行錯誤によって問題解決をする場合が多い。気楽に人と付き合うが,忍耐に欠け,でしゃばりと思われがちである。

さて、このような学習スタイルを各人が持っているとして、授業計画で学習スタイルを考慮して実施することにより,どのような効果が期待できるか考えてみたい。

 まず、「学習スタイルを考慮した授業」にはどのようなものがあるか整理したい。学習スタイルについてはさまざまな理論があるが、その共通した要素として、
 ・それぞれの学習者にとって最も効果的な学習スタイルというものが存在する。
 ・その学習法は特定の教科などに限定せず、あらゆる学習に共通している。
 ・しかも、その学習スタイルは一時的なものではなくある程度の期間、維持し続ける。
の三点の仮説が考えられる。
 そのような要素を持つ学習スタイルが存在するものとして、それを考慮した授業として次のような方法がある。
 1、各人に適した学習スタイルで学ぶ方法。
 2、各人に適した学習スタイルを複数のグループで協同で学ぶ方法。
 3、お互いに異なる学習スタイルの学習者を集めてグループになり、協同で学ぶ方法。
 以下、1~3の授業方法についてのメリットとか大について論じる。
1と2の各人に適した学習スタイルで学ぶ方法は、課題に到達する最短距離であり、学習の能率がもっともはかどることだろう。各人の興味や関心に沿ったものであれば、意欲を持って課題に取り組むことができる。特に難易度が高い課題の場合は同じような学習の方略をとっている生徒同士で学び合うことで、お互いにアドバイスし合ったり教えあったりすることが可能になるものと思われる。しかしデメリットもある。それは、自分の持っている学習スタイル以外の学習方法に触れる機会が少なくなるという点である。生涯において学び続けていくことを考えれば、いつでも、どんな状況でも、自分の適した学習スタイルで学べるとは限らない。どんな方法でもそれなりに学んでいくことができるためには、一つの方法に固定するのではなく、さまざまな学習スタイルで学習できる状態にしておいた方がよい。コルブの学習スタイル論もそのような視点で学習スタイルの拡張と統合について論じている。
 そのような自分の学習スタイルを広げていくためには、さまざまな学習スタイルを持つ学習者と協同で学習に取り組むことで、他の学習者の学習スタイルの方法や有効性を学ぶ機会が得られる。また、他と比較して自らの学習スタイルについても振り返ったりすることができるであろう。自分とは異なる、他の学習者の取り組みに触れることで、自らの課題への取り組みや、自らの学習方略についてメタ認知することが得られる。そのような意図からも、1や2の方法よりは迂遠ではあるが、さまざまな学習スタイルを持ってる学習者同士で協同で学習に取り組んでいくことは意義のあることだと思う。そのときに教師は、学習者が自らの学習スタイルに自覚的になるように、メタ認知を促す働きかけが必要となるだろう。そうすることで、さまざまな学習スタイルを身につけ、そのときの課題に最も適した学習方略を選択する高度な思考能力の育成をすることができるであろう。

助け合わなくていいと助けない

 千葉でも週末30年ぶりとかの大雪が降った。
大雪が降った次の日、新鮮な驚きがあった。
ご近所さんが総出で道の雪かきをしているのだ。
私が外に出た11時くらいにはもうすっかり地面の舗装が見えるくらいまでキレイに雪が無くなっていた。もちろん、私の家の前以外は。
そして我が家以外はみんな外に出て、ワイワイとスコップで雪かきの作業をして居るではないか。
私が夫婦で住むようになったのは五年前。普段は共働きで、夫婦とも帰ってくるのは夜だから、ご近所さんとのつきあいは皆無だ。恥ずかしながら、5年たって初めてご近所さんの顔を見た人も居るくらいだ。

しかし、ご近所さんがこんなに徹底的に雪かきをしているので、私も重い腰を上げて雪かきをすることにした。初めは玄関と車の前くらいでいいかなと思ったけど、結局ご近所さんと同じクオリティーまで雪かきをせざるを得なくなってしまった。
私にとっては、ほとんど生まれて初めての雪かき。(30年ぶりの雪だから当然だ)想像以上に重労働だなと思った。すぐにへこたれてしまって、投げ出したくなったけどご近所の手前、結局最後までやりきってしまった。

普段は、地域のコミュニティーというものの意識をほとんど持っていない。しかし、こういう非常時になると、コミュニティーというものを意識せざるを得なくなる。
しかし、もし、ご近所が雪かきを全くしない人たちだったら、自分もこれほどまではやらなかっただろう。ご近所に助けてもらい、自分でも他の人に悪いから、ある意味仕方なく体を動かしたのだ。
コミュニティーのつながりというのは、「してくれたからしてあげる」「してあげるから、あなたもして」というような互助の関係が基本だということにあらためて気づかされた。
普段は助け合わなくても日常生活には全く支障が無い。そうなると、コミュニティーなんて煩わしいだけで必要なくなる。しかし、それが必要となった時に、生まれてくるものなのだ。
こういうコミュニティーは、県や市の自治体が推進する「公共サービス」だけでは決して生まれては来ないだろう。公共サービスの充実は、一方では自治体以外からは「頼らなくても生きていける」状態を生んでしまう。(今の私のように)お客様意識ではコミュニティーは生まれてこないのだ。かといって、自治体が何もしないというのも困る。

公共サービスが不足している地方や過疎地のようなところの方が、コミュニティーのつながりという点では強いのかも知れない。皮肉なことだが。

2014/02/08

タブレットもいいけど、エデュテイメント教材などのソフトが大事でしょ。

日本では反転授業とかタブレット端末とかの議論は活発だが、「ミミ号の冒険」のような愉しいソフトとかコンテンツの開発はいまいちだ。

「ミミ号の航海」とは、メディア教材の古典的なものとして大学院で紹介されたもの。



子どもが航海に参加する冒険ドラマ「ミミ号の冒険」を教室で見ながら、ドラマ中で毎回必ず出される課題(実験みたいなもの)に取り組む学習。
学習者が、冒険に一緒に参加している気分になって学習に参加できる。
実験キットなども映像とセットで販売しているのがアメリカらしい。
エデュテイメント教材。日本の学校教育もこういう柔軟性がほしい。

「エデュテイメント(教育×エンターテインメント)」として、マンガやアニメで物理を教えたり、ドラマで社会を教えたら楽しめるのに。ゲームだって日本のお家芸でしょ。
やはり、教科書とか学習指導要領の制約が強いからなのだろうか、それと、頭の硬い大人たちの、サブカルチャーに対する抵抗感があるかもしれない。

あと、メディア教育的に言うと、日本の学校教育では「講義」か「実習(直接経験)」かという二者択一しかないという点も問題だそうだ。
それの中間項として、間接体験というのもある。たとえば、映像でシュミレーションや仮想体験をしたり、動作化するなど体を動かして学ぶような要素がほとんどないもの問題だそうだ。
(たとえば、欧米だと、元素になって教室を動き回ってごらーん、というような「動作化」で学ぶという手法もよく行われるという)

2014/02/07

学習ゲーム 品詞合体カードバトル(仮

まだ書き途中です。

「言葉のいろいろ」(品詞分類)を学ぶカードゲーム。

あそびかた

1、クラスで、品詞ごとに分担してカードを十枚作る。

(今回は自立語のみとした)
動詞・形容詞・形容動詞・名詞・副詞・連体詞・接続詞・感動詞の8つ。
たとえば、動詞担当だったら、動詞を10コ、名刺大のカードに書き出すのだ。

2、クラス内で、「名刺交換」のように、自分のカードと他の人のカードを交換し合う。
そのときに、なるべくいろいろな種類のカードを集めるようにする。

3、4~5人班になり、交換したカードを集めて、それらを用いて、合体して単文を作る。
・付属語をつけることは可。
・用言の活用も可。
・なるべく一文にする。
・話の筋が通っているようになっているとよい。

4、作った単文を次の基準で採点する。
・何種類のカードを使うことができたか。
コンプリートは百点。以下、
・一文で書くことができたか。
・日本語として意味が通っているか。

5、最高点の班を発表する。

6、その単語カードの単語を使って、マメ本で「品詞辞典」を作る。

2014/02/06

ファンタジーの「世界観」と「虚実皮膜」

ファンタジーはファンタジー特有の枠組みとか、お約束があってこそ、虚構たり得る。

文学作品の初発の感想を書かせると必ず出てくるのが、
「どうして白象(登場人物の)がしゃべっているのだろう」
「主人公の作者は、なぜ……をしたんだろう」(話者と作者を混同している)

小説は虚構であり、「小説のお約束」という枠組みの中から解釈をすべきなんだけど、その「小説のお約束、枠組み」が理解できていないから、とんちんかんな疑問を持ってしまう。
小説や物語の、文学的文章の枠組みやお約束、表現様式を理解することは、解釈をする上で必須だ。
「小説や物語が高尚だ」といっているわけではない。マンガはマンガの文法があるし、映画だって、短歌や俳句だって「お約束」はある。
小説らしさやマンガらしさ、短歌や俳句らしさを形づくる、そのジャンル固有の世界の特徴はあるだろう。

だから、文学作品を「道徳」的に読む読み方なんてちゃんちゃらおかしいわいっ!て思ってしまうのだ。ファンタジーをリアリティーの視点で読んで、それでなんなの?って。
(あまたある読み方の中で、そういう「道徳的」読み方を自覚的に採用するというのならいい。
しかし、何でもかんでも「道徳的」に読むようなことほど、ありがた迷惑なことはない。もっと文学を面白く味わう方法はいくらでもあるのに!)

最近は、ファンタジーの「世界観」ということばがあるらしい。「世界観」にもリアリティーのあるものとそうでないものがあるようだ。
ファンタジーとリアリティーは対立概念ではなく。「虚実皮膜」なものだ。その、薄くてあちらが透けて見える「膜」の存在が決定的に重要なのだ。

2014/02/03

道徳を理詰めで教えるのは、なぜ抵抗感があるのか?

たとえば、道徳に「ゲーム理論」の知見を援用することはできないだろうか?
我が身に置かれている現状を分析し、複雑な状況をさまざまな価値のせめぎ合いととらえ、それらを大局的な観点から判断を下す。
倫理学のアプローチから道徳を捉えなおす。

人間の判断は感情と論理がかけ合わさったものだ。
感情だけではダメ。理性だけでは冷たすぎる。
どちらが先に来るかはさておき、両方をともに成長させていくことが必要なのだろう。

それにしても、道徳を理詰めで教えるのは、なんとなく抵抗感がある。これはどうしてなんだろう?

「便利さ」は子どもや教師の成長を助けるか?

大学院の授業「学級経営研究」
今日は最終回。小グループで今まで学んできた内容を本に、フリーディスカッションをした。
小学校、幼稚園の現職の先生、スクールカウンセラー、そしてストレートマスター2名とさまざまな立場の人が集まってとても有意義だった。
そこで話題に出たことは三つ。

一つ目。遊べない子どもが増えてきたということ。
放課後などに近所の子どもたちが集まっても、一人一台ゲーム機をもって、黙ってゲームをしている。外で走り回って遊ぶ機会が少なくなっていて、声をかけたり、体を使って関わり合うことがなくなっている。
学校の休み時間になっても、ゲーム以外の遊び方を知らないので、じっとつまらなそうに座っている。
そしてそんな子ども時代を送った人が教師になりつつある。

二つ目、マニュアルが通用しないと気づくことから、教師の成長がはじまるということ。
ある学生は、研究室で若手教師向けのマニュアル本についてプロジェクト研究をしている。調べてみると、本屋には教科教育だけでなく、学級経営や親との接し方など、ありとあらゆるマニュアルがあることに驚かされたという。
で、、学生さんが、現職の先生方に「マニュアルって読んだんですか??」という素朴な質問。
もちろん、みな、若手時代はいろんな本を読んで勉強をした。
が、マニュアルでは通用しないことにいやというほど直面をし、失敗を繰り返す。
そこから、マニュアルを脱し、自分の足で立ち、覚悟を決め、勇気を出して、試行錯誤の実践を繰り返していくことになる。
若手のうちは、マニュアルなりハウツー本をいっぱい読んで、得意技や持ちネタを増やしていくことは必要だろう。しかし、それが金科玉条となり、教育に対する考え方や、子どもを見る視野が狭くなってしまうのなら本末転倒だ。
マニュアルの限界を知り、それを脱することから教師の成長が始まる。
試行錯誤をしながら、そばにいる先生方のやり方をまねてみたり、悩んでいることを質問し、アドバイスを得ることで、より、目の前の子どもの実態に即したリアルな学びが得られる。自分の身の丈に合った成長ができるのだと思う。そうやって自分の教師としてのスタイルを磨いていくのだ。

三つめ、若い先生は職場で弱音を吐けないということ。
ある学生の同級生は、新採一年目で教員を辞めてしまったという。そのような事例は本当に多いという。
若手の先生が行き詰まってしまう原因はさまざまだが、ある先生曰く、最近の若い先生は「相談をしない」「弱音を吐けない」という傾向があるのだという。先輩の先生が心配して「大丈夫?」と話しかけても「大丈夫です!」といって自分の弱みを見せようとしない。そして、にっちもさっちもいかなくなって、問題が大きくなってしまうってから泣きつくことがよくあるのだと言うことだ。
これは、若者の気質だけの責任ではないだろう。
先輩の態度だって問題があるかも知れない。
そもそも、多忙でじっくり話せない職場の問題とかもあるだろう。そうなってしまうお互いのコミュニケーションが不足しているのだ。

しかし、先ほどの「遊べない子ども」や「マニュアルに頼る教師」の例とも、実は根は同じかもしれない。
子どもたちが遊ぶゲームも、教師が参考にするハウツー本も、やりたいことを手助けする「ツール」であることは間違いない。ゲームがあったり、マニュアル本があることで、世の中はどんどん便利になっていく。しかし、その「ツール」が介在することで、人が育つ最も基本的な要素である、コミュニケーションとか、伸びあう環境が痩せてきてしまっているということは言えないだろうか?
教師が(あるいは子どもが)伸びあう環境を、学校でどのように作っていけばいいのか。
便利な「環境」が整えば整うほど、痩せていく「環境」
このことの難しさに直面させられる話だった。

2014/02/02

マルチメディアを活用した授業研究の方策

1、マルチメディアを活用した授業記録

ICTを使えば、簡単に文字&動画を画像上に配置、記録することができる。
だから、授業の記録も映像を取り込んでできると良い。

ネット上に、授業の流れ(学習活動や教師の意図など)を記述したものと、そのダイジェスト画面を動画で見られるようにするのだ。または、生徒の作品のようなものを画像で提示するのだ。
個人情報の絡みがあり、ネットで画像や動画を公開というわけにはなかなかいかないかもしれないが、校内研究であればそれは可能だろう。
そういうマルチメディアを活用した授業記録が、iPadなどで簡単にできるアプリがあると良い.(あ、ロイロノートとか使えるかも!!)


2、マルチメディアを活用した授業研究会
授業研の事後検討会に、授業のダイジェスト写真を活用するのは??

「学びの共同体」のある学校の公開研を参観したときに、事後の講話で、講師の先生が当日の授業場面の写真を提示しながら授業の具体の解説をしていた。あれはなかなか良かった。
当日の事後研であれば、動画でなくても、写真でも十分想起でき、授業の状況が共有できる。それによって議論が焦点化され、深まるのであれば有効だ。(動画は見るのも編集するのも手間がかかる)

いろいろな授業場面に目が向くように、授業が終わった後、事後検討会が始まる前の休憩時間の間に、当日の授業場面のダイジェスト写真を30枚くらい掲示しておき、コメントを考えてもらうのもいいかもしれない。プリントアウトするのがめんどくさければそのまま電子黒板に映し出しておけば良い。