2014/06/29

プロリサーチャー喜多あおいさんの百発百中の情報収集術

「リサーチャー」というお仕事
この世の中に「リサーチャー」という職業があるのを初めて知った。
リサーチャーとは、テレビ番組などで出てくる情報をとにかく「調べる」のがお仕事。
「行列のできる法律相談所」に登場する弁護士や相談事例を探し出したり、
「タイムショック」のクイズ問題が正しいかどうかを「裏取り」したり、(問題を作るのは「クイズ作家」さん、裏取りをするのは「リサーチャー」の仕事)
「ハケンの品格」のドラマをつくるためにひたすら派遣社員さんにインタビューしたりネット掲示板などでリサーチしたり、
報道番組などのコーナーでおもしろおかしいネタを提供したり、コンプライアンス的に大丈夫かどうか様々な角度から検証をしたり……
などなど、情報・バラエティー番組、クイズ、ドキュメンタリーなどあらゆる領域で「リサーチャー」の方々が活躍しているそうだ。
昨日はその「リサーチャー」喜多あおいさん(株式会社ズノー ジーワン調査部 チーフリサーチャー)のお話を、池袋教育同人社で行われた「メディアリテラシー研究会」でたっぷりと伺うことができた。
喜多さんの本。すぐに本屋に走ってこれをゲットしたのはいうまでもない。


情報を扱うプロと素人は何が違うのか?
端的に言うと、情報を調べる「前」にどれだけ入念に戦略を立てられているかによるという。
素人は、取りあえずGoogle、取りあえずWikipedia、と場当たり的に調べるがそれでは決して効率的に求めたい情報にたどり着くことはできない。
①クライアントがほしい情報とはどのようなものなのか、クライアントと入念に打ち合わせをし
②こちらが提供する情報を具体的にイメージし
③その情報が得られるためのありとあらゆる情報収集手段を検討する。
④時間とコストに見合い、効率よく確実に情報を収集していく。
⑤収集した情報をクライアントの満足のいく方法で提供、プレゼンテーションする。
ざっと考えてプロリサーチャーはこのくらいの綿密さ、周到さで「情報を調べて、提供する」という仕事を行っている。

①のクライアントが求める情報(「お題」)をイメージできたら、「まずアホになって」(喜多さん談)頭の中を真っ白にして、求める情報が得られるキーワードをひたすら列挙していく。
いきなり調べるのではなく、お題に関して考えられるすべてのキーワードをピックアップし、それらを手がかりにソースを当たり、あらゆる情報を集めていく。
これが「網羅」とよばれるプロセスだ。
この「網羅」がなしに、ピンポイントで情報を調べようとするから失敗をする。
どんな情報が価値ある情報なのか比較をしないと見えてこないし、ピンポイントで情報を得ようとすると必ず「取りこぼし」という致命的な失敗をしてしまうからだ。
まずアホになって、必要な情報はどんな知識の網(ネットワーク)でつながっているか「情報地図」を作り、ひたすら熟考することからリサーチはスタートする。
(情報収集の初心者は、まずクライアントが欲しそうな「理想の情報」を、架空に二、三行程度自分で書いてみて、そのような理想の情報にたどり着くためにはどのようなキーワードや情報収集手段が考えられるか逆算してみるトレーニングを行うといいという)

プロが提供する情報はもちろん、確実に「裏取り」ができているものでなければいけない。
「……らしいですよ」「……かもしれません」などということはプロは言ってはいけない。必ず「出典」を明記し、「原典」に当たるということは当然の作法だ。
また、一つの情報源だけではなく、さまざまなバリエーションを持ったソースを用意しなければ説得力がない。
ゲットした情報をドヤ顔でクライアントに提供するのではなく、情報がどのように活用されていくのか「アフターイメージ」をもって提供することもとても大切なことだ。情報は物知りのマメ知識自慢ではなく、活用される知識となるべきだからだ。(発信した情報が曲解され、思わぬトラブルを発生するということもテレビ業界ではよく起こることだそうだ。コンプライアンス的な検討もとても大切)

短期間で効率よく、確実に情報をゲットするためには、以下の五つのソースを順番に当たることが重要だ。
①書籍
②新聞
③雑誌
④インターネット
⑤対人取材

プロは間違っても最初からWikipediaに飛びついてはいけない。はじめにウィキの情報を見てしまうと、それに影響を受けてしまうからだ。
まずは①書籍、書籍もAmazonだけでなく、あるサイトと抱き合わせで検索をする。
②新聞、雑誌もそれぞれのメディアの特性に合わせたリサーチ法を取る。
……

うーん、これ以上具体的なテクニックに踏み込んだ発信をここでするわけにはいけない。
上記の『プロフェッショナルの情報術』を読めば、目からウロコのテクニックが掲載されているので読んでみてほしい。喜多さんがどんな本やサイトで情報に当たっていくのか、検索ワードをどのように工夫すれば情報にヒットするのか。得た情報をどう発信するのか、その自家薬籠中のワザが満載!

【目次】(「BOOK」データベースより)
プロローグ テレビ番組リサーチャーの仕事とは?
1章 脳内に「情報地図」を描くー集める前に「居場所」を作り、戦略を練る
2章 プロのネタ取りは五つのソースで!-書籍、新聞、雑誌、インターネット、対人取材で「網羅」→「分類」
3章 集めた資料を「情報」に変えるー相手に伝わる「報告書」と、必勝「プレゼン」術
4章 仕事の質を上げる!情報に強くなる習慣術ーあなたの情報力はたった一分の会話でわかる
エピローグ 情報は生きている

プロのリサーチャーの言語生活
プロのリサーチャーは、普段どのような心がけで生活をしているのだろうか。
そういう日常的な生活習慣のお話もとても興味深かった。
ひとつには「固有名詞を使って話せ」という心構えだ。
たとえば、「好きな料理は?」と聞かれて「焼き肉!」と答えるのではなく、「叙々苑の骨付きカルビ!」のように固有名詞で答えた方がよい、ということだ。
固有名詞の方が情報の含有量が格段に豊かになる。「情報のフック」が多いのだ。
だから、その固有名詞を切り口にさまざまに受け手がイメージすることができるし、そこから会話も発展しやすくなる。固有名詞を使うほうが記憶にも印象にも残りやすいのだ。
これはなるほどと思う知見だった。作文でもスピーチでも「なるべく具体的な固有名詞を使って話そう」と次から言ってみることにしよう。

もう一つは「読み込まなくてもとにかく全部に目を通す」という心構えだ。
たとえば、新聞や雑誌などの定期刊行物は出版されたその日のうちに、どんなに忙しくてもページを全めくりして「見て」おくという。忙しいから後でゆっくり読もうと思っていても、そんな余裕は永遠に現れない。そして雑誌がどんどんたまっていく。
だから、見出しを目に入れておくだけでも、必要になったときに読んでおこうという気になるのだ。
同様に、本屋や百貨店では買う必要がなくても全フロアを歩き、目を通すのだそうだ。
こうしてフックとなる情報を普段からいかに無意識にため込んでいくかが後々の情報検索に威力を発揮するのだという。
ここで必要なのは「全部に」という要素だ。
好きな情報だけを得ようとすると情報が偏ってしまう。
とくにインターネットはAmazonのおすすめ機能のように、売りたい人に都合良く「編集」されていることがとても多い。
たとえばTwitterやフェイスブックなどのSNSは、自分が選択した情報だけが自動的に入る仕組みになっている。そしてそれが世の中のすべてだと錯覚してしまいがちだ。
だから喜多さんはたとえば「AKB」の情報を得たかったら、「モー娘。」の情報が得られるように、必ず両方、対極のTwitterアカウントをフォローするようにしているそうだ。
こうやって情報がバランス良く得ることができているか常に目配りをわすれないのだそうだ。

こうやって得られる情報は、無味乾燥な意味の塊では決してあり得ない。情報をそのときの感情とともにインプットしておくこともとても大切な心構えだそうだ。
ちらっと見かけた見出し、偶然立ち寄ったレストランでの料理、そういう種々雑多な情報を「おもしろいな」「おしゃれだったな」とそのときの「気持ち」も一緒に乗っけて印象にとどめておく。こうすることで、あとで情報を取り出そうとするときに引き出しやすくなるのだという。
こういうインプット方法も、今日からすぐに生かすことのできるテクニックだ。Twitterやフェイスブックなどはそのような「気分」を書き留めていくためには効果的なツールだろう。
このように、情報収集術は、単なるテクニックの集積でなく、それを支える膨大な「知識の引き出し」から生まれる。ただ、その「知識の引き出し」は、机に向かったり、難しい顔をして本を読むことだけでなく、ちょっと町中を意識して見回してみるとか、気になったらケータイで調べてみるといった日頃の心構えから積み重なっていくもののようだ。
そういう、自分を豊かにしていく情報に囲まれる生活を送っている喜多さんの姿は、わたしにはとってもまぶしく見えた。



2014/06/27

秘境で料理に挑む職人さんの姿から「コンピテンシー」について考えた

普段はほとんどテレビを見ない私だが、たまたま見かけた「世界の秘境で日本料理」という番組はとても興味深かった。
日本料理の職人さんがタイやパプアニューギニアに行き、現地の食材で、自らの職人技を惜しみなく使って調理をしていく。
それでもはじめは現地の食材の扱いに迷い、現地の方々にも味が受け入れられずに苦心するが、現地の方にも愛される料理を作るために試行錯誤、奮闘していく。
日本料理の繊細さってやっぱりすごいなあ。まさに、食は国境を越える!

そういえば、この間奈須正裕先生がおっしゃっていた、「造形遊び」は「料理」と同じ、というメタファーがこの番組を見て改めてよく分かった。
「造形遊び」も「料理」も、はじめから「これを作ろう!」と決めてかかって作るよりも、できあいの材料を組み合わせ、いじくり回しているうちにできあがってしまうことが多い。素材との対話、相互作用によってできあがっていくものなのだ。
秘境で格闘する日本料理の職人さんの、尽きせぬ食材へのアプローチ、対話がとても興味深い。「課題解決をする人間」ってまさにこの姿でしょう。

秘境で料理にいどむ職人さんの事例から、「学力の転移性」について考えさせられた。
職人さんが培ってきた技能が、どんなところに行っても通用する基礎基本、普遍的な価値をもった力(これがコンピテンシー?)であったからこそ、見事に料理を仕上げることができた。(課題解決=現地の人たちの舌を満足させることができる)
良質な学力は、どんな状況においても課題解決のために力を発揮することができるのだ。
時代や文化を超えても通用する能力をこそ育てたいものだ。

文科省では、次の学習指導要領に向けて「育成すべき資質・能力を踏まえた教育目標・内容と評価の在り方に関する検討会」を進めている。
次の学習指導要領は「何を知っているか」から「何ができるようになったか」へ。
課題解決ができる人を育てる教育へとシフトしていくようだ。そんなときに、この職人の姿から学ぶべきことは多い。






子どもたちが本を探せない原因〜「本を探し出す勘」を鍛える調べ学習のテーマとは?〜

実習生の授業で「発酵食品」についての調べ学習を進めている。
各グループで「食の世界遺産」と呼べる発酵食品を一つ選び、それを6枚のスライドで表現していく。
中学生たちが選んだ発酵食品は、
味噌・醤油・塩麹・日本酒・くさや・ピクルス・ナタデココ・メンマ・ヨーグルト・パン・チーズ・シュールストレミングなど。
これらの食品について①製法、②すごいところ、③みんなに伝えたいこと、についてプレゼンテーションをする。

資料はその場でiPadのカメラアプリで保存!
今日は早速図書室で必要な資料を探し出す活動を行った。
使えそうな資料はその場でiPadで写真をパチリ。出典も忘れないように奥付をパチリ。
調べ学習では、必要な情報は「情報カード」に書き留めておくのがセオリーだ。
しかし、今回は資料となる本がそれほど多くはないのと、一つの本(例『発酵食品のすべて』)で複数の食材(例 くさや 味噌など)が載せられている場合が多く、資料を使いたいグループがかぶる危険性があったので、長時間同じ本を閲覧することを避けたかった。そこで、iPadでページの写真を撮ったら、すぐにブックトラックに返すようにさせた。
以前だったら、情報カードに書いたり、コピーしたりしていたのだが、iPadの写真アプリの活用とても便利で、これからの情報活用行動を変えてしまうかもしれない。
(図書館的にはどうなのだろうか? 資料の複写については留意させなければいけないが)


本を探せない中学生
こうした活動をしてみて気づいたのは、中学生たちが意外に本を探せないということだ。
たとえば「塩麹」を調べているグループでは、料理系の本を一生懸命調べているのだが、なかなか資料が集まらない。実は「カビ」の本に「塩麹」が取り上げられていることには気がつかない。
「日本酒」や「味噌」について調べているグループは、それらの食材に関する情報が、料理の棚にあることは分かっても、自然科学の棚や、社会(地域の文化)の棚にあることには思いが至らない。
「ヨーグルト」を調べている班は、「ヨーグルト」という言葉が使われている本を探そうとしているが、それほど見つからない。しかし、「乳酸菌」をテーマにした本にいくらでも「ヨーグルト」が載っているのに本を手に取らない、それで「ない、ない」と困っているのだ。
これはなかなかゆゆしき自体だと感じた。
(実習生談、大学生でもこういう本を探し出すスキルがないらしい)

必要な本を嗅ぎつける「勘」とは?
本を探すのには、必要な本を嗅ぎつける「勘」というものが必要だ。
「この本には載っていそうだな」という当たりをつけて、目次や索引を確認し、ぱらぱらページを開いてみて情報を探す。
しかし、最近の調べ学習では、ほとんどインターネットのキーワード検索で情報にたどり着いてしまうので、このような「勘」を鍛えることはなかなかできないのかもしれない。

「勘」というと謎めいたワザのようなものをイメージしてしまうかもしれないが、もっと単純に言えば、関連するキーワードや領域をぱっと思い浮かべる力、こういう情報なら、こんな本として出版されていそうだ、こんな出版社ならこの系統の本を出していそう、などと予測できる力をいう。同一の筆者をたどってリサーチするのも一つの方法だ。
「本を探す」ということはこのように無数の探索行動の暗黙知が働いている。
「インターネットで情報にたどり着く」のとは、おそらく異質の力が働いていて(共通する部分は多いだろうが)、インターネットをいじっているだけでは、なかなか身につけることのできない力があるらしいということに気がついた。

「本を探し出す勘」を鍛える調べ学習のテーマとは?
ここから逆算すると、調べ学習に適したテーマは、「本を探し出す勘」を鍛えるものという条件が一つ考えられる。
今回の「発酵食品を一つ取り上げて調べる」というテーマは、「本を探し出す勘」を鍛えるためのテーマとして最適だった。

なぜなら、
・一つのテーマが様々な領域にまたがっていて探しにくい。
(調理の「家庭科」、食文化としての「地理、歴史」、そして発酵現象の「自然科学」)
・一つの食材だけを取り上げた本は少なく、書名に出にくい。
(別の書名のものから当たりをつけて探さなければならない)

こういうテーマを繰り返し取り上げてトレーニングすれば、かなり「本を探す勘」は鍛えられていくことだろう。
他にどんなテーマが考えられるだろうか?

2014/06/26

「子ども同士の話し合い」で失われるものもある

今日TTで入った授業はおもしろかった。
1年説明文「ダイコンは大きな根」の授業。
一通り学んだ後、「書きやすさはわかりやすかったか」で点数をつけ、どこが分かりやすいか、理由を発表し合う学習を行った。
「知っていることから、知らないことへとつなげている」
「『ダイコン』とわざとカタカナで書いている」
「『……のように』みたいに、参考例を出して説明している」
これらの発言がどんどん飛び出し、それを板書に書き留めていく。
なかなか大人が気づかないようなおもしろい指摘もあったりして、とてもびっくりした。

授業後、授業者の先生に聞いてみた。
「1年生であれだけ読めるものなんですか、すごいですねえ」
「他のクラスでやったときは、グループで話し合わせたんだ。
グループで話し合わせると、どうしても、他と変わっているユニークな意見とか、伝わりにくい意見は、全体で発表する前の段階で消えていっちゃうんだよね。今回は直接発表させたから、子どものちょっと変わっている発言でも拾って、意見の形に整えることができるんだ」
これは、子ども同士の話し合い活動にはない、一斉授業の良さかもしれない。
教師の的確な「翻訳作業」によって、子どもの断片的な発想や、ユニークな言葉がつぶされずに「意見」の形として学習内容としてまとめられていく。教師に的確な「受け」の技術があれば、子どもたちだけの話し合いでは得られない共同での学び合いが可能になる。
こういう授業を、毎回目の当たりにできるのはとても幸せだ。

2014/06/22

「図表の活用」のカリキュラム化を構想する〜国語科と数学科の役割分担から考える〜

人間はコミュニケーションをするためにさまざまなシンボル(記号)を用いている。

言語(言葉、数字、マーク、絵文字など含む)はもちろん、絵画や音楽などのアート的表現、表情や身振りなど身体的なメッセージも用いられる。

言語と絵画的表現の中間にあるのが「図表」である。
地図や図解に用いられる「図」(マップ)、
座席表、時刻表などの表(チャート)、
そしてテストの成績などの変化を表す(グラフ)など。
このように、私たちは図や表に囲まれて毎日生活している。
図や表を読み解いたり表現したりする力は言うまでもなく重要な能力である。

悪いおともだちの中には、図表を自分に都合良く使って読み手を扇動しようという輩がいるかもしれない。(ダイエットの広告はほとんどこれだ!)
図や表を上手に使いこなせないから、相手に自分のメッセージを十分に届けることができないことがあるかも知れない。
図表を使って理解し、図表を的確に読み解き、効果的に表現する力は、言葉で上手に表現する力と同じくらい必須な力であることは間違いない。

さて、その図表を活用する力とはいったいどのような力であり、それを学校教育で学ぶ場合、どのようなカリキュラム構成が考えられるだろうか。

図表は、第三の言語ともいえるくらいにあらゆる知的活動に渡って利用されている。
言葉による表現はもとより、数学的な表現においても幅広く図表が活用されている。
カリキュラムを構成する場合、国語科、数学科という縦割りの教科構造では明確に区別できない部分はあるだろう。
だったら、むしろきっちり縦割りに考えるのではなく、ある程度はクロスオーバーさせて、相互に補完し合うようにカリキュラムを構成すれば良いのではないか。

話は変わるが、国語科に「鑑賞」という言語活動がある。
「鑑賞」とは、絵画や音楽などの芸術作品について、根拠を元に自分の感じたことを伝える言語活動だ。
この「鑑賞」は、言うまでもなく、美術や音楽でも学ぶべき内容となっている。
「鑑賞」する力は言葉の力だけでなく、美術的(音楽的)な力も必要とされるからだ。
だから、芸術作品を「鑑賞」するための学習で、美術(音楽)的なアプローチから攻める場合は、美術科や音楽科の出番となる。
一方、芸術作品から感じ取ったことを、自分の言葉で効果的に伝えるという言語能力に着眼した場合は国語科の出番となる。
「鑑賞」がこのように学ばれる場合、国語科と美術・音楽科は相互に補完し合うことが可能になる。

図表の活用も「鑑賞」の学習と同じロジックで取り上げることができるのではないだろうか。
自分の考えを伝えたり、考えを深めたりする手段として図表が用いられる場合は国語科で、それ以外の、教科の専門的な力を高めることをメインとして学ばれる場合はその教科で。
そのように発想して「図表の活用」の教科構造を次のように考えてみた。

そもそも図表とは?(定義)
・点・線・面で表現された図形
・記号、マーク、キーワードなどの言語(記号)的表現
・イラストなどの非言語的、絵画的表現
を組み合わせるなどして表現された可視化ツールの総称。
シンキングツール、ファシリテーショングラフィック、マインドマップ、フレームワーク、マンダラートなどの思考ツールとして、
棒グラフ、折れ線グラフ、円グラフなどのグラフとして
座標軸やペンタゴンチャートなどのチャートとして
フローチャート、年表、時刻表などの表として
地図や模式図、構造図、解剖図などの図解として
※このへんのくくりはいい加減です。あまり気にしないでください。
などなど。

図表を活用する力とは?
A、【言語→図表】化 情報を整理して理解するために図表を活用する力
(たとえば)
・調べ学習などで得られた多様な情報を、図表を使って整理する。
・話し合いの内容を、図表を描きながら整理する。
・事物の構造、順序、位置、変化などを図解して理解しやすくする。

B、【図表→言語】化 図表を読み解いて情報を掴む力
・図表から分かる情報を読み取る
(いわゆる「非連続テキストの読解」PISA)
・図表を用いた筆者のメッセージ、意図を理解する
(メディアリテラシー的要素を含む)

C、【図表×言語】化 図表を活用しながら表現する力
・断片的な発想を、図表を使って表出する(マンダラート、マインドマップなど)
・伝えたいメッセージを図表を使って相手に伝える。


教科ごとの役割分担をどのように考えたら良いのだろうか?
・数学科
数学的なものの見方、考え方を表現・理解する手段として図表を活用することを学ぶ。
数量的な変化とか関数的な関係とか、集合関係とか。
(この辺、しろうとだから全然自信がありません)

・国語科
図表を用いた他者の意図や、その図表のメッセージを読み取ったり、
自分の考えを他者に主張するために図表を効果的に活用するすべを学ぶ。

たとえば、グラフをこういった形で活用できれば国語科の学習になってくるだろう。

統計データを活用した意見文を書く学習ゲーム

「我が国と諸外国の若者の意識に関する調査」データを用いて、正反対の主張を導く二つの意見文を書きなさい。

「日本人の若者はネガティブだ」
「日本人の若者はポジティブだ」の意見文。

「日本人は将来をしっかり考えている」←→「考えていない」
「日本人は外向きだ」←→「内向きだ」
「日本人は家族思い」←→「個人主義」
のように。
すべてのデータを用いる必要は無い。
意見に合わせて適宜データを選択し、組み合わせること。
ただし、最も多くのデータを使用して関連づけられた人をチャンピオンとする。

データは下記




・美術科
情報デザイン的な視点で、情報の伝わりやすさ、わかりやすさを感じ取って分析したり、効果的に表現するスキルを学ぶ。

・技術科
情報活用の実践力としての、様々な技術、ツールを使用して図表を効果的に活用する技術を学ぶ。(分析したり表現するためにコンピュータを利用するなど)

・理科・社会、そのほかの教科
教科内容を効果的に表現、理解するための手段として、図表の利活用を学ぶ。

2014/06/21

大抵の説明文教材がイマイチないくつかの理由

1、誰に向けて、何のため、どんな媒体で書かれたかわからない、ナゾの文章。(書き下ろしの文章)
2、子供が必要があったり、読みたくて手に取るのではなく、教科書に載っているから仕方なく読まされる文章。
3、名文過ぎ、もしくは整い過ぎていて、社会にでてから悪文をなんとか読みこなすタフネスは鍛えられない。
4、内容が月並み、もしくは穏当すぎて、読んでいて退屈。
5、社会にでてから読む文章に比べて、圧倒的に文量が少ない。

この反対の条件を兼ね備えることができれば理想的な説明文教材になるだろう。

図表にすると見えてくる

算数の文章題では、難問であればあるほど図表にすると分かりやすくなる。
国語の説明文も同じ。説明内容が分かりにくい場合は図表に整理すると要旨や構造が見えてくる。
話し合いも同じ。錯綜する対話の展開も図表を描きながらディスカッションすれば、流れがくっきりと見えてくる。
しかし、この図表に描き表す力はいつ、どこで学ぶのだろうか?
どの教科で教えているのだろうか?
どの教科も取り組まれていないのだとしたら、国語科でそれを担えないか?
あるいは、数学や理科と国語科が図表の技術をコラボして学ぶカリキュラムを作ることは可能だろうか?
私見だが、数学的な関係や理科的内容の構造を図表で表したり、読み解くのは該当教科で、それ以外の事柄を図表化するのは国語科。
さらに、他教科で学習した図表を利用して、自分が説明したり、説得する文章を書く場合は国語科、
また、誰かが図表を説明で使っている場合、それをクリティカルに読み解くのは国語科の役割、と分けるのが妥当かなあと思う、
それにしてもある程度はかぶるか?

2014/06/20

説明文を図解するとはどういうことか? 〜授業「食の世界遺産ー鰹節」を図解してみよう〜

実習生の授業で、鰹節についての説明文(「食の世界遺産ー鰹節」)を図解する学習に取り組む。
プレゼンのスライドとして、鰹節が菌によってうまみが出てくる仕組みを一枚の図で表現する。
とりあえず実習生と一緒に図を描いてみた。
授業では、型や書き方を例示せずに、はじめはフリーで子どもたちに取り組ませてみようという話になった。そして適宜、ヒントを出して支援をしていく。子どもたちからどんな図が飛び出してくるのか楽しみだ。

図解することは、説明内容をかなり的確に理解していないと表現できない。そして図化の巧拙も大きく左右すると思う。位置や配置、順序、構造、包含関係、因果関係などの把握が必要だ。図化のパターンや図化の文化のようなものもある程度あるのだろう。(地図は北を上にする、両外側の矢印は対立関係を表す、など)
図解をして理解する(伝達する)力は、「情報デザイン」の力として社会に出てから間違いなく重要になるとは思うのだが、その学習をどう筋道立てて組み立てていけばいいのか全く見当がつかない。だからいろいろと試行してみるのがおもしろい。

授業の流れは次のようにしようということになった。
授業の流れ
①まず、図とはどんなものか確認した。
理科の教科書を開いてみると、次のような特徴があることがわかった。
図とは、
・矢印や吹き出し、×や△などの記号表現
・線、図や絵などの絵画表現
・ものの名前、現象の名前などの言語表現
を組み合わせて表現するもの。

②次に、次の文章を図に表すときに、どんな要素を最低限入れなければいけないか、キーワードとなるものを確認する。

【教材文 抜粋】 
さて、鰹節には、他にも食べ物として大変優れていることがあります。
カビ付けをした鰹節は、うまみ成分をきわめて多く含みます。
ですから、鰹節を削ってだしを取ると、料理はたちどころに美味になります。
このうまみの主な成分はアミノ酸とイノシン酸です。
鰹節菌は鰹節の水分を吸って繁殖する一方で、タンパク質分解酵素を生産して、鰹のタンパク質をアミノ酸に分解しているのです。
こうして、鰹節にはアミノ酸が蓄積されます。
また、鰹節にはイノシン酸も蓄積されています。
このアミノ酸とイノシン酸の相乗効果で鰹節はがぜんおいしくなるのです。

この文章を理解するためには、最低限次のキーワードが必要となる。
【ものの名前】鰹節・アミノ酸・イノシン酸・タンパク質・鰹節菌・タンパク質分解酵素
【成分】水分・うまみ成分
【現象】増殖・分解・相乗効果・生産・蓄積・おいしくなる

さらに、上記の説明文内容を図解するためには、次のことを表すことが必要となる。
A 鰹節菌は鰹節から水分を吸収し、タンパク質分解酵素を生産する。
B タンパク質分解酵素は、鰹節のタンパク質をアミノ酸に分解する。
C 鰹節にはもともとイノシン酸を含んでいる。
D イノシン酸とアミノ酸がうまみ成分として相乗効果をあげておいしくなる。

つまり、図に表すとはA〜Dを記号表現、絵画表現、言語表現を組み合わせて表すということになる。

③まず、各自にノートで図を描いてみる。その後、グループで図を一枚仕上げる活動に取り組んだ。
とても短い時間だったので、誤りなく表現することはかなり難しかったようだ。
細かく図を見てみるとところどころ理解が不徹底なところが見てとれる。
図表に表す前に、文章内容でわかりにくいところを確実に理解し、解決しておくことが必要となるのだろう。

・鰹節菌がタンパク質分解酵素を生産?
・タンパク質の位置づけが不明。
・図の青と赤の色分けの意図が不明。



・鰹節を鰹の絵で表現している。
・水が蒸発?菌が水分を吸収しているところがうまく表現されていない。
・イノシン酸がどこから出てきたかがよくわからない。



・鰹節の全体像と、拡大像をうまく組み合わせている。
・鰹節や鰹節菌などを擬人化して表現している。
・相乗効果=「愛がおいしさを生む」??
・水分を得て繁殖するところがやや分かりづらい。

【実践をふりかえって】
・文章のどんな内容を図に表すかを確実に確認する。
・共同で図に表す活動をする際は、あらかじめ図にする方針をよく検討する。
・図や記号などをどのように表現すれば伝わりやすくなるか話し合う。
・図にしてみてわかりにくい場合は文章に戻ってどのような意味であったか確認する。

2014/06/18

授業での些細な言葉が気になる

実習生の授業の一こま。
「この文章の内容、わかりましたか?」という問いかけに、子供たちが声を揃えて元気な返事「はいっ!」と応える。

こういう一見些細なやりとりが、私には、ものすごく気になる。
なぜ、そこで問い、返事をさせる必要があるのか?
つられて返事をしちゃった子はいないか?
この投げかけで、「わからない子」が「わからない」と意見表明できるのか?そこに同調圧力は働いていないか?
そもそも分かっていないのに、分かったかどうかを判断することができるのか?
分かりましたか?と聞かないと、分かっているかどうかを教師がキャッチできないのか?

たとえば、説明的文章の見出しを考える学習で、指名した生徒に「答えを言ってください」と投げかけるのと、「考えを紹介してください」と言うのの違い。
「先生の答えを言います」という発言。
そんなことが気になってしかたがない。
重箱をつつくようなんだけど、そういう細部は私には単なる技術の問題とは言えないのだ。
はたからみたらなんとマニアックな、些細なことにかかずらわっているのかと感じられるかもしれない。
しかし、そういう些細な言葉にこそ、全てが現れる気がしてならないのだ。





2014/06/16

実習生指導「CAVScene」を使った映像リフレクション

今日から実習生の授業がスタートした。
今年から毎時間、iPadの授業観察用アプリ「CAVSene」を使ってビデオ記録をとり、それをストップモーション方式でリフレクションすることにした。
このビデオアプリは、動画を撮りながら、付箋や書き込みをその場でできたり、キャプション分けをできたりという機能があり、授業観察に特化したアプリだ。
事前の準備として、撮影をしながら気になった場所に付箋を貼ったりキャプション分けをして、後で見返しやすくしておく。
放課後、リフレクションを行った。
まず、ビデオを見ながら、授業の様子をひたすら思い出し、そのときの教師の心理状況(こうしたかった、こうなってほしかった、こうなる/するつもりじゃなかった)をひたすら語ってもらう。
その語りを聞きながら、実習生の、ぼんやりとした発想、つぶやきを拾い、それをより具体的でしっくりとくる表現になるように「指導教官」が言い換えるなどしてサポートしていく。
たとえば、今日のリフレクションで問題になったのはこんな場面だ。
子どもたちに、グループで分からない言葉の意味調べをさせた。
しかし、「わからない言葉はない」といって、意味調べの活動になかなか取り組もうとしない生徒がいた。
そこで、本心としては、「分からない言葉を自分から見つけて調べる」ことをさせたかったが、活動に取り組ませるために、思わず無意識に「他の○○班は20個も調べてすごい」と言ってしまった。
実習生は自分の本心とはズレているにもかかわらず、子どもを動かすために「数」にこだわって指示をしてしまった。しかし、それに気づいたときはもう遅かった。子どもたちは「ともかくたくさん調べればいいんだ」という気持ちになり、無理矢理機械的に調べる作業になってしまっていた。
活動の趣旨や目的を明確に示して伝えること、目的に対応した言葉がけ(評価)の大切さをこの授業で痛感した。
それと、教師の気持ちと行動にずれがあるときは、端から見ても、動きがロボットのようにぎこちなく、子どもへの指示も、自信を持ってできなくなるということを、この事例から実感することができた。

映像リフレクションの良いところは、授業を文節や要素に区切るのではなく、全体の雰囲気とか空気感まで振り返ることができると言うとこだ。
「ここではすっごく盛り上がって楽しそうだね。どんなことを感じていたの?」
「ここでは笑顔が消えて、声もだんだん小さくなっていったね。どんなきっかけで?」
「Aくんのほうを見ていたのは、どんなことが気になったの?」
「Aくんはなぜ作業を止めてしまったんだと思った?」
映像は言葉よりも膨大な情報量があるため、リフレクションするときに、そのときの雰囲気や空気感まで想起させることができる。なによりも、要素ではなく、全体的な文脈でとらえることができやすくなるようなメリットがあると思う。

2014/06/15

「何がわからないか」がわかれば一人前

「子どもの論理に気付く」という「省察」はありか?

「省察」≒「自らを振り返ること」、はとても広い概念なので、いかようにも解釈できてしまう危うさがあると思う。
やはり具体的な観点(見方、視点)をもっと打ち出していかないと、効果的ではないのではないかと思う。
その観点として欠かすことのできないものの一つが、「子供の論理に気付く」ということ。「子どもがどのように考えているか、何がわからないかに気付く、考え続ける」ということではないか。

ある小学校での実習生指導での話。
小2の算数の授業を実習生がすることになった。
事前に指導教官は、子どもたちは筆算をしたときに、たとえば「5」と書くべき答えを「05」のように、あたまにゼロをつけてしまうからそこを気をつけてね、と実習生に伝えていた。
しかし実習生は「まさか、そんなことしないですよ、はは」と聞く耳を持たない。
で、授業。
案の定、子どもたちは「05」を連発。
実習生もそこを丁寧に教えなかったので見過ごしてしまった。
事後の反省会でも「なんでゼロをつけちゃうんでしょうねえ」と実習生はあきれていた様子だった。

この事例から、未熟な教師は、以下のような思考をしがちだということが推察できる。

・子どもがどこが間違うのかがわからない
(まさか「05」と書く児童がこんなにいるなんて!)

・子どもがなぜそうするのかがわからない
(子どもなりの論理や筋道で「05」という解を導き出しているのだけれども、子どもの論理にまで思いが至らずに「間違ってる」と思考停止している)

・そもそもなぜ「05」と書いてはいけないのかがわからない。
(算数の表記のルール、原理や法則性を理解していないので、「05」と書かないことが普通で当たり前だと思いこんでしまっている)

だから、効果的な教え方うんぬんを論じることはもちろん重要だけれども、子どもがどのように思考するのか、どんな論理を持っているのかをとことん考え続ける「省察」こそ必要なのではないかと思う。

2014/06/11

学習指導案には「目標」や「目的」を書いてはいけない?

学習指導案をなぜ書くか?
学習指導案は必要か?
毎時間の授業には必要ない、しかし書く経験は無駄ではないと思う。
学習指導案を書くことで見えてくるものは確かにある。
教材研究のプロセスを掴むという意味では、あの決まり切った形に書く意義というのもあると思う。(フォーマットの善し悪しはあるけれど)

最近、あるところで、学習指導案などに「目標」とか「目的」はあえて明示しない(書かない)方がいいという意見を聞いて衝撃を受けた。
学習の目的よりも学習の「価値」を書くべきだというのだ。
目的を設定すると焦点は絞られるが、その目的にしか教師の評価の視点が向かない恐れがあるからだ。「価値」なら豊かに広がる可能性がある気がする。

「目的」には従属する「手段」が付随する。「価値」には、「手段」は付随しない。
学習することは何かを得るための手段ではなく、学習することそのもののなかに豊かな価値が内包されるものなのだ、という主張だ。
たとえば、「読み聞かせ」を教室で取り上げるとして、「目的」は? 「目標」は?という発想はあまりなじまないと思う。
しかし、「読み聞かせ」を授業で取り上げることには確かな「価値」がある気がする。
何かのためというあざとい「手段」ではなく、「読み聞かせ」そのものにはかけがえのない価値があるのではないか、その直観的につかんだ「価値」をこそ、教師が具体的に言語化し、明示する方が、ずっと子どもたちの学習を豊かにとらえることができるのではないかということなのだ。

なぜこれを学ぶのか、そこにどんな意味や意義があるのか、という「価値」。これを意識していないと省察のサイクルが回らない。
目的ー手段だったら、その目的に対して、うまくいったかいかなかったかということしか授業者には関心が向かない。
授業(学習)の「価値」ととらえれば、それぞれの学習者にとってどんな価値(意味)が生まれたかという視点に授業者の思考が向く。

置き換えられるものと、置き換えられないものと〜身体が欲しているか?〜



子ども時代読んだSF小説で、21世紀では食べ物が錠剤に置き換えられているという設定があった。星新一だっけ?
未来では、煩わしい調理から解放!効率的に栄養を!というわけだ。
今の技術を持ってすれば、三食を錠剤で置き換えられることは可能かもしれない。一部では実現している?
しかし、決して人間は三食を錠剤に置き換えようとはしないだろう。
なぜならそれを身体が望まないから。

技術的には、ツールで代替でき、効率化されるが、果たしてそれを身体が欲しているかどうかという問いは必要だろう。

学ぶこては、食べることと同じくらい圧倒的に日常生活に根ざしている身体的ないとなみだ。
学校教育が始まるはるか昔から、学ぶことは存在している。そしてこれからも学ぶことの存在意義は変わることはないだろう。(何言ってるんだろう?)

効率だけでなく、身体が欲しているかどうか?
置き換えられるものと、置き換えられないものの精査が必要だ。

2014/06/08

学びと変奏

ムソルグスキー「展覧会の絵」(ピアノ版)が好きだ。
なんと言っても「プロムナード」と称される、展覧会の中を歩き回る、五回変奏されるあのテーマ曲が好きだ。
五回変奏されるあの「プロムナード」を聴くために存在する作品であるといってもよい。

展覧会の絵を見る、感情が動かされる、そして再び歩き出す。
絵を見た後に再び歩き出すと、気分も、景色も変わって見える。

人が学び成長していく様を表しているようだ。
体験をする。感情が動き、そして再び歩き出す。
学んだあとに再び歩き出すと、気分も、世界も変わって見える。
そんな「変奏」をあの作品は表現していると思う。

2014/06/01

古文を読む力の核心は、隠されたコードを解読するということ。

今日は、大学で古典教育について研究している先生とお話する機会があった。
早速、今教えている「徒然草」について質問。
「『仁和寺にある法師』って、当時の人にとって、どの辺が面白かったんでしょう?」
「あの章段は『ただ一人、徒歩にて』っていうところで、当時の人はどっと笑ったと思うんだよね。昔の高僧は舟で移動していたから」
なるほど!
あえて「徒歩にて」と書いた、その意図を切り口に中学生に考えさせても良いかも。
古文はそのバックグラウンドがわかると、暗号を解読しているようで楽しい。

古典を原文で読み味わうことの楽しさは、暗号を読み解くことにも通じている。
そこでは断片的な言葉や情報をつなぎ合わせ、自分の生活体験や学んだ知識を活用し、直観的に仮説をたててテキストと往還し、解釈を構築していく。
「暗号の解読」というスタンスで、楽しみながら古文に食らいついていく学習活動を作ってみたい。「『仁和寺にある法師』を読み解く『五つの鍵』を指摘せよ!」のように。

さて古文という「暗号」を解読するには、何が一番大切なのだろうか?
古典文法? 古語の意味? 古文を読み味わう力の核心は何か???

今年の全国学力•学習状況調査では、落語「目黒のさんま」が出題された。そのなかで、落語のオチを読み取る問題が出ていた。きっと落語に馴染みのない中学生にとっては苦戦したことだと推測する。(とてもユニークな問題なので是非読んでみてほしい)
外国のコメディ番組をみても、笑いのツボが違うのか、どこが面白いのか全く理解できないことがある。
落語や狂言の笑いもこれに似ていて、解釈のコードとか、お約束をある程度共有しないと笑うに笑えない。
いくら言葉の意味を調べても、古典文法を理解しても、現代語訳を読んでもそのフレームがないと「何が言いたいかわからない」ということになる。
目黒のさんまも、仁和寺にある法師も、「世間知らずな殿様、高僧の勘違い」というフレームを知っていて、あらためて笑える話になるのではないか?
(ちょっと前に麻生元総理が「ホッケの煮付けがうまかった」とか言って失笑されたこともあったっけ……。この麻生さんのエピソードを知っている人は、「目黒のさんま」も理解できるかもしれない。)
このように、コード(解釈体系)には、時代や文化固有のコードもあるし、現代にも共通するコードもある。メディアやジャンルも内容を規定するコードの一つだろう。「狂言」と「能」とでは、そもそも表現しようとしている主題が異なる。それを理解していないと「能よりも狂言の方が笑える!」という見当違いの評価をすることになる。)
そういう隠されたコード、フレーム、パターンやお約束に気づけることが、ひょっとしたら古文を理解する力の中核にあるのではないか。