2013/07/08

文学作品の「わからなさ」を楽しむための方法

意外に多い「賢治嫌い」
今日の大学院の授業では宮沢賢治の作品についてディスカッションをした。
が、そのゼミにいる学生&先生全員が賢治作品は苦手という事実が発覚!
賢治作品があまり好きでない人って、結構多いんだなあと言うことに驚かされた。
特に、国語の授業で賢治作品を取り上げたときのつまらなさは尋常でなかったらしい。
ただでさえわかりにくい賢治作品を、教師の一方的な解釈で教え込まれた経験に辟易とさせられたからだそうだ。いかにもありそうなことだ。
この、ゼミでのディスカッションを通して学んだことは、「賢治嫌い」の人にとっては、「賢治作品ってわからなくっていいんだ、わからないところがおもしろいんだ」ということに気づいてもらうことが、まず何よりも大切なのだと言うこと。
「賢治嫌い」の人は(私の主観だけど)、素直で、まじめな人が多いような気がする。「どこかに正解があるはず」と思って一生懸命読もうとすると、ますますわけがわからなくなる。とてももやもやとした、おさまりの悪い読書体験になる。「正解」を求めるような読みは、賢治作品ではきっと不向きなのだ。

「わからなさ」を楽しむ方法
賢治作品でも村上春樹でもカフカでも何でもいいけど、わかりにくい文学作品を授業で扱うときは、むしろこの「わからなさを楽しむ」ことを大切にすべきかもしれない。
文学作品のなかの「わからなさ」や「違和感」をどう楽しむか、という、「わからなさ」を楽しむための方法を学ぶことことは、文学の学習の中で、もっともっと取り上げてもいいかもしれない。
ポイントは、自分がわからないとか違和感を感じた、その根源を探ること。
「きっとこうなるはずだと思っていた(けど、賢治の表現で違う)」とか
「普通はこう展開するはず(だけど、賢治の作品ではこうなった)」など。
自分の無意識の前提とか、常識とか、パターン、文学観を、賢治とか春樹とかカフカの「鏡」を当てることで、明らかにしていく作業だ。
「ぞうきんほどあるオムレツ」って僕だったらそんな言い方しないよなあ。とか、
「グララアガアっていうオノマトペ、なんかあり得ないんだけど、印象に残るんだよなあ」とか
「白象って、自分がイメージしていたよりも、意外に、本当に何にもできない、だめな登場人物なんだな」などのように、自分の中の、暗黙の期待、前提やこだわりを発見していく作業。
そう考えると、「わけわからない」作品を読むことの中にこそ、自分が何にこだわって読んできているのか、暗黙の「読み」を浮かび上がらせ、気づかせるきっかけとさせることができるかもしれない。