2014/05/30

競争しないと子どもは動かないのか?

これは難しい問だ。

前任校の教育方針で私が気づかされ、考えさせられたのは、学校行事のあらゆるところで「競争」が慎重に取り除かれているということについての洞察だ。
表だって「競争」するのは運動会くらいだ。
クラスごとに合唱を歌いあう機会(「三年生を送る会」)はあるけど「合唱コンクール」はない。
(……正確に言うと、一度だけあった。学年のスキー合宿の時に、ある先生が「合唱コンクール」をやりたいと提案し、特別に行われたのだ。私は合唱が誰よりも好きなので、もちろん反対したけれども)
漢字、計算コンクールや、掃除コンクールのようなものもない。
もちろん、挨拶コンクール、挙手コンクールや風紀コンクールのようなものない。

運動会のときには、各軍ごとに巨大なパネルを制作する。しかし、それに点数をつけて評価し、コンクールのような形で競わせることはしない。
そのことを長く在籍している先生に聞いたことがある。
「この運動会のパネルって点数つけて表彰したりしないんですか?」
「前はそうしてたんだけど、ある年から、そういう競争をしなくても子どもたちは一生懸命やるんだった、あえて教師が点数をつけて子どもに競争させる必要はないということになったんだよ」
(勘違いをしないでほしいのは「おててつないで仲良くゴール」のように差をつけないのではなくて、第三者による評価そのものが存在しないと言うことだ)
この先生の話を聞くうちに、すべて合点がいった。
競争をしなくても子どもが生き生きと取り組めるのであれば、あえて競わせる必要はないのだ。と。
パネルコンクール、合唱コンクールや××コンクールがないのは、「競争」ではない教育方針で子どもを育てようとしているのだと。

事実、運動会のパネルは、教師が点数をつけなくても、子どもたち巨大なパネルいっぱいに自分たちを表現するために全力で制作をする。競争をしようがしまいが、モチベーションが下がると言うことは決してない。
合唱もそうだ。子どもたちの間では「他のクラスに負けたくない」という競争意識が全くないかと言ったら嘘になるけれども、そんなあおり方をしなくても、クラスの仲間と一生懸命歌声を響かせようとする。
競争がないので、「勝負をしている」というようなある種の切り詰めた緊張感がないのは確かだ。しかし、そういうインセンティブは、真のモチベーションといえるのだろうか?
子どもを育てるためのベストな方法なのだろうか?

これはとても難しい問題だ。
いままで「競争」に頼り、あおってきた教師が、いまさら「競争」というインセンティブを教育手段として捨てるのは相当覚悟のいることだろう。
しかし「競争」しないのならやりたくない、と子どもに思わせてしまうような教育が、もしそこになされているというのであれば、それはそれで大きな問題だとはいえないだろうか。
「競争」以外にどのような手段を、教師は、学校は持ち得るのだろうか?

2014/05/29

教師が教えたつもりになっていても、中学生が古文を読めない理由

古文が読める国語教師は、ささいな言葉の意味を教えることを見落としてしまうようだ

中学生に古文の解釈をさせてみると、国語教師からみれば、全く取るに足らないような些細な部分の逐語訳ができずに、読みが止まってしまうことが意外と多い。

たとえば、
「……などいふやうなる者の」
(というような者が)

「年久しくなりぬ」
(年が何年かたった)

「(いと危く見えしほど)は言ふ事もなくて」
「(  )は言うこともなくて=言わないで」

「……に候」「……侍る」(……でございます)
など。
本文には、ほかにもっと難しい言葉がたくさんあるため、そういう難しい言葉にかかずらわされて、国語教師にとって簡単だと思っている言葉にはなかなか注意が向かない。そしてそういう些細な言葉をわざわざ手取り足取り教える気にはなかなかなれない。
学ぶ生徒の方も、些細な言葉の意味を軽視して、それらを注意して読み取ろうという気にならない。(さらには、当たり前すぎて調べても古語辞典に載っていない場合も多い)だから誤読が誘発される。
※ノーヒントで現代語訳をさせてみるとその躓きがすぐに発見できる。
けっこうそういうところが、古文を教える際の盲点かもしれない。

単元「兼好法師に学ぶ」〜ICT×ジグソー学習で古典を読む〜

徒然草を三時間で読むという欲張りな単元。
短時間で凝縮して徒然草の魅力に迫るためにジグソー学習を活用した。

1時間目 「徒然草」について知る
・既習の古文学習をふりかえる
・「徒然草」について知る
  →10min boxの「徒然草」の映像を見て、必要なことをメモする。
・「序段」を暗唱する
・「仁和寺にある法師」を音読する。
・「仁和寺にある法師」の歴史的仮名遣い、言葉の意味を確認する。

2時間目 兼好法師の教訓を読み取る
・前時の内容を振り返る
・橋本治の「絵本徒然草」の序段を紹介する。
ちなみに橋本訳の序段は次の通り。
「退屈で退屈でしょーがないから、心に浮かんでくるどーでもいいことをタラタラ書きつけていると、ワケ分かんない内にアブナクなってくんのなっ」  
ツイッターの吉田兼好Botを紹介!


・「仁和寺にある法師」の内容を確認する。
 結局法師は石清水八幡宮にたどり着いたか?
 石清水八幡宮と、極楽寺、高良の位置関係は?
→石清水八幡宮と、仁和寺のサイトや、Googleマップを提示する。
Googleマップ「石清水八幡宮」
Googleアップ「仁和寺」
公式サイト「石清水八幡宮」
公式サイト「仁和寺」
これらを通して、石清水八幡宮が小高い山の上にあることや、仁和寺がかなり格式の高い総本山であること(にもかかわらず、その僧侶がへまをしてしまったこと)などが確認できる。
このの文章が「エピソード」→「結末(落ち)」→「教訓」の流れで書かれていることを確認する。

・「徒然草」をジグソー学習で分担して読む。
(ジグソー学習は共同学習の手法です。ご存じない方は調べてみてください)
A、次の3つの文章を、グループ(3・4人)でどれか一つ選択して解読、共同で現代語訳を作成する。

  1. 第六十八段「筑紫に、なにがしかの押領使などといふやうなる者のありけるが……」
  2. 第百九段「高名の木登りといひし男……」
  3. 第九十二段「ある人、弓射ることを習ふに……」

・資料は岩波文庫『徒然草』と、新潮日本古典集成『徒然草』の該当箇所(脚注付き)を使用。
ただし、後半の兼好法師の述懐(教訓)が書かれている部分は空欄に。
・資料以外に、グループに一冊古語辞典を貸し出した。

3時間目 学んだ内容を共有する・兼好法師の教訓を予想する
B、グループのメンバーは、他の章段を選択したグループに出張して、自分たちのグループで読み取った内容を教えに行く。

C、出張したグループで、最後に、空欄となっている兼好法師の述懐(教訓)がどれかを話し合って予想する。

提示した選択肢は次の通り。
 
  あやしき下臈なれども、聖人の戒めにかなへり。鞠も、難き所を蹴出して後、安く思へば必ず落つと侍るやらん。

   改めて益なき事は、改めぬをよしとするなり。
 ウ
  深く信を致しぬれば、かかる徳もありけるにこそ。
 エ
  道を学する人、夕には朝あらむことを思ひ、朝には夕あらむことを思ひて、重ねてねんごろに修せむことを期す。いはむや、一刹那のうちにおいて、懈怠の心あることを知らむや。なんぞ、た だ今の一念において、ただちにすることのはなはだ難き。
 オ
  よき細工は、少し鈍き刀を使ふと言ふ。妙観が刀はいたく立たず。
・「兼好法師の教訓から学ぶ」というテーマで自分の考えを書く

おそらく、国語科でICTと一番連携できそうな領域は古典かもしれない。
テキスト、画像、動画などいくらでも教材や資料が手に入る。
そしてICTを使えば使うほど古典が身近なものとなり、親しむ効果が期待できる。
何よりも、ICTで古典というミスマッチが楽しい。生徒たちがどんな反応を見せるか、授業をするのが楽しみだ。

2014/05/22

電子教科書について要望したいこと

◆電子教科書は教材をばら売りできるようにすべし!

いまいちわけがわからないのが電子教科書。
なぜ電子「教科書」なのだろう? なぜ教科書を電子化する必要があるんだろう。
マルチメディアを教材として活用できる意義はよくわかる。しかし、電子データ、メディアは副教材として扱うからこそ色々いじれて遊べるのではないか、教科書にしたとたん身動きがとれなくなる。カスタマイズこそキモなのに。→以前書いた記事「教科書をカスタマイズ!」
電子教科書も、学習指導要領に準拠した教材群として、バラ売りにして教師が自由に編集できればいいと思う。作文はA社、古文はB社、C領域の指導事項のエはD社、「ごんぎつね」は苦手だから文学は「大造じいさんとがん」でみたいに……、生徒の実態、教師の教えやすさに応じてチョイスし、組み合わせることができるようにすればいいのだ。
教材のすべて文科省の検定済みであれば、ばら売りすることに何の問題があるだろうか?


◆教員が電子教科書を発行できるようにすべし!
普通の人が簡単に出版できる世の中になった。
そのうち、教師が自分たちで教科書を作ってしまうことだってできるだろう。全国の教師の力を結集すればあっという間にできてしまう?
(かつて昭和30年台に奈良女子大附属中は検定国語教科書を編集していた〕
奈良女子大附属中が編集した教科書

全部と言わずとも、言語事項だけ、説明文だけでも自由に差し替え、編集をできるようにする。そのうち何割かは子どもたちが持ち寄った本や資料だっていい。
自分たちが学ぶもの、教えたいものを自分たちで編集する。それができたとき、果たして教科書そのものの存在意義ってなんだろうと思う。
技術的には全く不可能な話ではない。

いわゆる「電子黒板」についての素朴な疑問

「電子黒板」というネーミングは適切なんだろうか?
以前から気になっていたんだけど、電子黒板ってどんなツールなんだろう?
拡大投影機としてはスクリーン&プロジェクターの迫力に劣るし、黒板としては小さすぎてとてもその代わりにはならない。インタラクティブ性はタブレットでも十分低コストで実現できる。
電子黒板って何を目指すツールなんだろうか?
詳しい人、教えてください。

2014/05/15

本当の「デジタルデバイド」とは、教師の中にある。

ICTなどの最新のテクノロジーを教育の中で活用しようとしたとき、「デジタルデバイド」というボトルネックを避けて通ることはできない。
デジタルデバイドとは、一般には、パソコンを持つものと持たざるものの「差別」である。パソコンなどの情報活用知識やスキル、環境の差によって生まれる差別や障害のことを指す。ざっくりと説明してしまえば、パソコンに日常的に触れ、使いこなすのが得意な子は、パソコンを使った授業も非常に効率的に進めることができる。その反対に、パソコンにほとんど触れたことない子は、パソコンを使った学習を効率的に進めることができない。

この「デジタルデバイド」を、ちょっと別の角度から考えてみたい。
教師の発想の中にある「持つものと持たざるもの」という「デジタルデバイド」である。

現在、ICTを活用した説明文の学習に取り組んでいる。
説明文を比べ読みしたり書き換えたりする学習に、ノートパソコンやiPadというデバイス、ワードなどのソフト、そしてインターネットによる情報活用の活動を関連させている。
で、私にとっての一番の問題は、ツールを使うことそのものではなくて、デジタルツールを使うことで、学習の質がどのように変容するかという点だ。
たとえば、今回の授業をデジタルツールを使わずにすべてプリントなどの紙メディアや、鉛筆などのアナログツールで行ったとする。
甘く見積もっても、教科書教材の20〜30倍くらいは情報処理量が増大している。膨大な量の情報に触れ、それを処理している。しかし、取り組む授業時間は増えていない。
だから、単純計算で、授業時間は1/20時間に短縮して取り組ませようとしているということになる。
もっとも、教科書教材をじっくりと読ませるような授業ではないから、学習の「密度」は異なるだろう。流し読みや、ポイントだけをつまみ食いにして読むような読み方、学習になるはずだ。
しかし、ICTを使うことでこれらの作業が、マウスをクリックし、キーボードをたたく行為だけで完結することができる。便利な世の中になったものだ。
しかし、ここにこそ大きな意識の断絶、落とし穴はないだろうか?

何が言いたいかというと、「ICTを活用した学習は、それを使わない授業とは比較にならないほどの情報処理量であるにもかかわらず、教師の意識の上では、それが子供にとってはとても簡単な作業であるように見えてしまう」という危険性があるということだ。
子供にとって加重な負担をかけているにもかかわらず、教師からみたら、ICTを使うことで子供の負担(負荷)が軽減されたと勘違いをしてしまう危険性があるということだ。

ICTの活用により、学習の質は明らかに変容するだろう。そしてそれ以上に、扱う情報の量は天文学的にふくれあがるはずだ。しかし、その変容は、ICTというきらびやかなツールの陰に隠れて見えにくくなっている。

「デジタルデバイド」とは、子供たちがツールを使いこなせるか、こなせないかという「差別」ではなくて、ツールによって学習がどのように変容するか、教師が理解し、意図し、配慮できているか、できていないかという「差別」にその本質があるかもしれない。
そして、その「差別」は、パソコンを使いこなし、ICT教育を推進していきたいという「意識の高い」教師ほど、無意識に持ってしまうものかもしれない。

2014/05/14

辞書よりもコーパスを活用させたい

説明文の学習と平行して「言葉の小劇場」という課題に取り組んでいる。これは説明文で登場した言葉を使って文章を創作するという学習。これがやらせてみるとなかなか難しい。言葉は辞書で調べたくらいでは使えるようにはならない。
たとえば今日の課題は「自明」であった。
これを、次のような文章を作ってくる。
「……僕が間抜けだということは、現在の状況から見て自明していた。………}(抜粋)
「自明していた」という言い方は普通しない。
しかし自明という言葉を調べてもわからない。自明という言葉をどのように使うかを説明するのは難しい。
そこで登場するのがコーパスだ。
最近は日本語のコーパスも様々なものが登場している。
コーパスは、言葉を入力すれば、前後の文脈とともにどのような文脈でその言葉が使われているかを知ることができる。言葉はある程度のパターンや言い回しで使われることが多いものだ。それの言葉遣いの癖のようなものを知ることができる。
英語学習ではすっかりおなじみとなったコーパスだが、国語教育、とくに語彙指導でどんどん使われてもいいはずだ。

コーパスのサイトはこちら→ http://www.kotonoha.gr.jp/shonagon/search_form

2014/05/07

説明文の書き込みにも習熟が必要?

今日は説明文の授業の第一回目。教師が範読をし、その後、教材文を拡大したプリントに各自が書き込みをしていく活動を行った。

書き込みに取り組む際に次のような視点を示した。
・筆者の言いたいこと
・構成や表現についての気づき
・構成や表現の特徴・工夫
・語句の意味
・読者反応(つっこみ)
・わかりにくい箇所・疑問

しかし、視点を示すだけでは、自分からがんがんと本文に書き込むことが難しかったらしい。
取り組む時間もそれほど多くとれなかったのが問題かもしれない。

日常の読書では線を引くことはほとんどないし、そういう読み方は不自然でもあるだろう。しかし、文章表現や文章構造をなんとなく読み取っていくのではなく、しっかりと書き込み、可視化をして読んだ足跡を示せるようになって欲しい。書き込みによって文章表現や構造に意識的になって欲しい。
「接続詞にはマーク」などのように、読解問題のテクニック的に機械的にマークさせる方法はあまりとりたくないが、ある程度のガイドラインを具体的に示した方が取り組みやすいのではと反省した。

俯瞰的、大局的な読み取り
・段落構成(段落の役割)
・話題の変わり目、転換

微細な表現の読み取り
・キーワード
・指示語が指し示している内容
・言い換え表現、同じことを言っているつながり
・対比と類比(良い意味、悪い意味)
・まとめているところ
・事実と意見
・筆者の主張
・文体から伝わる雰囲気、息づかい(偉そうとか、謙虚とか)
・わかりやすい表現、わかりにくい表現

読者反応
・共感・反感
・疑問
・突っ込み
・よくわかる・わからない
・想像したこと
・脱線して考えたこと


2014/05/06

iPadを活用した説明文の授業(中二 教出「アオスジアゲハとトカゲの卵」)

単元 理科系の文章を攻略

趣旨
 教科書教材「アオスジアゲハとトカゲの卵」を扱う読むことの単元。
 この文章は説明文。しかも理科的な内容を取り上げている。
 理科的な文章を味わうためには、ある程度の理科知識が必要とされる。
 しかし、知識を深く学ぶのは理科の授業で扱うとして、国語科の授業の中では、理科的な事項でわからないことがあったら、辞書やネットで調べるなどして、文意がとれる程度の解決がきればよい。(日常生活の中でも、大人はそのようにググって、わからない文章と出会った時に解決している)
 国語科の学習としては、そのような未知の説明文を読むポイントをつかむこと、文章内容を的確に読み取ること、そして説明文の文章の特徴、表現の工夫を読みとること、さらには、文章で使われている新出の語彙を使用語彙として使いこなせるようになることが目当てとなる。
 学習を通して、今後の人生の中で、初めて読む説明文でも、自分からアタックして読みこなせる力を身につけさせていきたい。また、理科系の本に出会い、親しむきっかけとして欲しいとも思う。そこで次のように5時間の単元をデザインする。

単元の目標
 ◆説明的な文章を自力で読みこなす方法を学ぶ。
 ◆説明文の文章構成や展開、表現の仕方について自分の考えを持つ。
 ◆理科系の本にたくさん触れ、親しむ。

学習の流れ(予定)
一、「アオスジアゲハ」を読む(個読)
  ・題名読み
  ・通読
  ・書き込み……感じたこと、疑問点を書き込む。わからない語句を調べるなど
  (教室にiPadを用意し、必要があればその場で調べられる環境にする)
 
 ※宿題 教材で出てきた語句の例文を作る
   「あろうことか」「息を潜める」「なすすべはない」「自明」
  (日本語コーパスを紹介する)

二、「アオスジアゲハ」を読む(グループで)
    次の観点で意見を出し合う
  ・構成で工夫されているところ
    ・表現で工夫されているところ
    ・わかりにくい構成や文章表現、疑問点

三、「アオスジアゲハ」を極める(グループで)
 A、Bグループに分かれて取り組む

 A、改善プラングループ
 ・わかりにくい表現の原因を突き止め、わかりやすい表現に書き替える。
 (iPadで書き替え文章案を記入)

 B、比べ読みグループ
 ・原作である『生物と無生物のあいだ』のエピローグと比べ読みして、どのような意図で書き替えら  れたか考察する。もっとも作者の意図が表れているところを指摘する。
 (iPad上でテキスト比較ツール「diff(デュフフ)」を使って比較読み)

四、「アオスジアゲハ」の魅力とは?
 前時の内容を各グループごとに発表。
 「アオスジアゲハ」の作品の魅力を紹介文の形で200字程度の文章にまとめる。

五、理科系の本に親しむ(学校図書館で)
 各自、理科系の本を一冊選び、読んで味わう。
 (課外で紹介文を書いて提出。後日、それをもとにビブリオバトルを行う)


補遺 なぜアイパッドを使うか??

この授業ではアイパッドは4回登場しています。国語科の専門以外の方からは、何をしようとしているのか、その意図が十分に伝わらなかったかもしれません。

次のような学習支援の機能を活かそうとしています。
1つ目、国語科の学習ではあまり触れられない理科的な知識を伝えるためのデータベースとして。(たとえば、必要に応じて、文章中に出てくる語句から発展して、さらに知りたくなったという欲求にこたえるための)
……これが、「自力で読みこなすための力」につながってくる。

2つ目 大量のテキストを効率よく処理し、より本質的な言葉の学習の時間を確保するためのツールとして。
(たとえば、比べ読みのツール「diff」を使えば、2つの文章のどこがどう違うか色分けされてすぐにわかる。それをもとにして比較読みにたっぷりと時間をとることができる。
書き換えも同じく、手書きよりも、もとのテキストのデータをいじくるほうが書く労力は少なくなり、より、どのような文章を書こうかという思考に時間を割くことができる。
コーパスを活用することで、実際に語句がどのように使われているか、生の用例に触れられ、自分たちが書いた文章と比較することができる)



テキスト比較ツール「diff(デュフフ)」を活用した比べ読みの授業

テキスト比較ツール「diff(デュフフ)」はなかなか面白い。

Oさんのコピペ論文騒動で話題になったこのテキスト比較ツール[diff」を国語の授業でも使ってみようと思う。
学習の概要
新書『生物と無生物のあいだ』のエピローグの部分と、そこからリライトした教科書教材「アオスジアゲハとトカゲの卵」の教材文を、diffを使って比較。

このツールを使えば、書き替えた部分が一目瞭然だ。
なぜ書き替えたか、そこに作者のどんな意図がうかがえるかを読み取っていく。
ごそっと削除しているエピソードもあるので、このエピソードは文章中でどのような役割を持っているのかなど気づいたことをどんどん話し合わせていきたい。
このdIffというツールはなかなか面白い。

そこで問題になるのが、教科書と、講談社現代新書というメディアの違いだ。
 中学校国語教科書というメディアは、もちろん中学生を対象とし、説明文としての文章構造や新出漢字、語句を学ぶために編集されている。
一方、新書というメディアは、一般向けに、科学的な知見を素人でも読みやすく,わかりやすく表現している啓蒙書という特徴がある。同じ講談社でもブルーバックスと講談社現代新書では、ターゲットとする読者は異なる。講談社の新書と岩波新書でも微妙にトーンは異なる。
『生物と無生物のあいだ」と『アオスジアゲハとトカゲの卵」の表現を比較してその編集意図を理解するためには、教科書や「講談社現代新書」というメディアの特徴もある程度念頭に置く必要があるかもしれない。ある程度は予想させることがぐらいはできるか?(が、そこまでマニアックな議論は中学の国語授業ではほとんど不可能だろう)

2014/05/03

世の中には二種類の教員がいる。

それは、実践を書いたり発信したりする教師と、書いたり発信したりしない教師だ。
そしてどちらが成長できるか?自明のことだろう。
だから、力をつけたければ、どんなに拙くても、「学んだ!」「成長した!」と「感想」をつぶやくのではなく、その、具体的に自分の得た気づきや考えを書いて蓄積しておき、できれば発信しておくことだろう。

私は、このブログの記事に賛成する。→優秀なエンジニアになりたければブログを書け!

これはエンジニアの関する文章だが、たとえば次の記述は教師でも当てはまるだろう。

「自らがコミュニティの一員となり、発信してゆくことで、人のつながりが生まれ、情報もそのつながりを通して手に入れる時代なんです。」
「ロードマップ志向からエコシステム志向へと変わっていかなければトレンドを見極めることなどできません。」

「人脈とはどれだけ人を知っているかではなく、どれだけ人に知られているかだ。」

ブログを書く、SNSで発信する、イベントを立ち上げて人を集める。そういう積極的な人と人とのつながりを仕掛けることは、すぐにできる時代です。結果、情報が流れる新たな筋道が生まれ、様々な化学反応を誘発して新たな知恵を産み出す切っ掛けが生まれます。トレンドは、こんなエコシステムに関わることから生まれてくるのであり、自らがその主体とならなければその情報をいち早く手に入れることができない時代なのだと言うことなのでしょう。

本を読むこと、ネットの情報を調べること、これらもまた情報を手に入れる方法であることに変わりはありません。しかし、活きた情報は、こちらから積極的に発信し、その反応を知ることで手に入れることができます。そして、その反応に自らも反応することで、知識は膨らみ、情報を手に入れることの感性が磨かれるのでしょう。

『ブログを書く』とは、そんな考え方のひとつの象徴です。いずれの手段を使うにしろ、エコシステム志向を持ち、自らが発信することで情報を手に入れる。今はそんな時代なのだろうと思います。

どんなにつたない情報でもいい、書いてみることから、発見が生まれる。気づきが得られる。そして発信をすることで、さまざまに広げていくことができる。
わが恩師斎藤孝先生は「教師の資質あるいは力は何か?」としてこう言っている。「情報に関してケチでないこと。」
ここからはじめるしかない。


「iPadと使った探求的な学習の実践」という研究主題にしてはいけない当たり前だけど見落としがちな理由

5年後、10年後残る研究とは?

大学院で先生から真っ先にいわれたのは、ICTのような最新の機器を使った授業を開発するのはいいけど、それを研究のテーマとして全面に出すのは、かっこわるい、ということ。
たとえば「電子黒板を活用した効果的な課題提示の工夫」とか「iPadと使った探求的な学習」というテーマは、今だったら、まあ、聞こえはいいかもしれない。しかし、このテーマが5年後、10年後、どう聞こえるだろうか?

たとえば、以下のような研究テーマが5、10年前にはあったかもしれない。けれども、それを、いまの人はどう感じるだろうか?

「OHPを使った効果的な課題提示の工夫」!

「8ミリビデオを活用した視聴覚資料の作成」!

「ガリ版による文集作成の効果的な方法」!


「石版と蝋石を用いた探求的な学習」!
石版は元祖タブレット!!

etc.(20代の人はほとんど知らないだろうなあ……)
でも、これって、今だったら「電子黒板を活用した効果的な課題提示の工夫」!とか「iPadと使った探求的な学習」!と同じことを言っているわけでしょ??

「最新の機器」を中心的なテーマにした研究は、あっという間に賞味期限が切れてしまう。よく言えばノスタルジックになる。悪くいえばださくなってしまう。そして忘れ去られる。
たとえ「最新の機器」を使った実践研究をしたとしても、研究テーマとしてそれを前面に出すのは戦略としては得策ではない。むしろ、その根底にある普遍的な学習観や授業観をこそ提案しなければいけないということなのだ。
言われてみれば当たり前なんだけど、結構見落としがちなことでもあるようだ。

……とかいいながら、「タブレット端末を使った授業、現場の声~便利すぎるのも考えものだ~」なんていうブログ記事を節操もなく書いていたりもする。

『見える化』を読んで、授業のなかの「見える化」を考えてみた

近年、様々な領域で「見える化」(可視化)がキーワードとなっている。
「見える化」とは何なのか?何のために必要なのか?どんな効果が得られるのか?
「見える化」の原典を読んで、自分のフィールドでどのように活かせるか考えてみた。

「見える化」の原典は次の一冊だ。
『見える化-強い企業をつくる「見える」仕組み』遠藤 功



この本では「見える化」について次のように述べている。
「見える化」が何を目指しているのかここからよくわかる。
 私たちは普段、「見える」ことが当たり前だと思って生活している。そもそも「見える」ことの大切さを日常的には意識しないほど「見える」ことが当然のことだと考えている。しかし、実際には私たちには「見えていない」……そう、人間は当たり前のことだが、「すべてを見ることはできない」のだ。……自分の目の前に現れたこと以外には、人間は「見えない」のである。
 「見える化」というコンセプトは、こうした人間の視覚が持つ弱点を補うために生まれたと言ってよい。人間が何でも「見える」のであれば、「見える化」などというコンセプトはわざわざ必要ない。漫然としていれば「見えなく」なってしまうからこそ、自分の目の前にあらわれたことをきちんと「見る」ことが大切だし、必要なものをきちんと「見える」ようにすることが大切なのである。  「見える」ようにするのは人間の意思だ、 世の中には「見せたくないもの」がたくさん存在する。悪い情報、守秘性の高い情報、囲い込まれている情報など。 「見せよう」とする意思、「見える」ようにする知恵、その二つがなければ「見える化」は実現できない。 人間の意思と知恵があってこそ「見える化」は実現され、維持される。

つまり、、「見える化」の本質は「問題を『見える』ようにすること」なのだそうだ。
問題が見えていれば、自立的に物事を判断し、適切な行動をとることができる。
しかもそれが自然と目に飛び込んでくる状態が理想だ。

「見える化」にとって重要なのは幾つかある。
「悪い情報」「後ろ向きの情報」が見えていること。
しかも名人的、属人的に見えているのではなく、誰でも見られ、組織として見えていること、
タイムリーに見えていること、
そして、伝聞ではなく、一次情報が見えていることだ。

たとえば、よく見かける「信号機」や「スコアボード」は「見える化」のお手本だ。
信号機……メッセージを伝える
情報やシグナルをタイムリーに誰の目にもわかりやすい形で見える。
シンプルさ、わかりやすさ。色の持つ意味を全員が理解している。

野球場のスコアボード……情報がコンパクトに凝縮されている。
無意識のうちに「見える」環境になっている。
野球場からスコアボードが消えたら??ゲームが成り立たないくらい重要なツール。

「見える化」には次のようなカテゴリーがあるという。これもとても参考になる。
問題の見える化 ・異常の見える化 ・ギャップの見える化 ・シグナルの見える化 ・真因の見える化 ・効果の見える化
状況の見える化 ・基準の見える化 ・ステータスの見える化(進捗状況・リソース)
顧客の見える化 ・顧客の声の見える化 ・顧客にとっての見える化
知恵の見える化 ・ヒントの見える化 ・経験の見える化
経営の見える化 タイムリーにモニタリングする
そして、最終的に目指すべき「見える化」とは「問題解決のための情報共有」である。
 ・信号情報
 ・支援情報

 ・基礎情報


「見える化」のルーツはトヨタ自動車だそうだ。
トヨタ自動車は、自動車製造に「カンバン方式」のような見える化の手立てを次々と行い、イノベーションを成し遂げた。
社長の渡辺氏は、かつて「見える化」について、次のようにコメントしている。
「成長している時は問題点が潜在化して見えなくなる。開発や調達、生産、販売など各部門が抱えている兆候を『見える化』し、何が足りず何を補強すべきなのかを明確にする」
 この言葉を、授業に置き換えるとどうなるだろうか?
「授業がうまくいっていると、問題点が潜在化して見えなくなる。一人一人の子どもが抱えている問題の兆候を『見える化』し、何が足りず何を補強すべきなのかを明確にする」 
このように、「見える化」の本質は、まずなにより「問題を『見える』ようにすること」にあるらしい。

授業における「見える化」を考えてみた

1、「見える化」をするまえに、そもそも何が見えていないかを明らかにする
 授業では、子どもたちはさまざまな反応を見せる。試行錯誤をしたり、つまずいて立ち止まったり。しかし、それらの多くは、教師のコントロールは及ばない潜在化したものとなる。
また、人は得てして、都合の悪い面から目を背けたり、隠してしまう傾向もある。それらの問題点を顕在化して対応していくようにすることが「見える化」のポイントということになろうか。
 学習の中で見えにくいもの、見たくないものは何か? そこを省察するところから「見える化」がはじまるのだろう。

2、何を学習すべきか「見える化」して伝える
 教師主導の授業では、子どもたちは与えられた指示通りに学習に取り組めば良い。しかし活動中心の授業においては、子どもたちは自分で考えて学習に取り組まないといけない。子どもが学習に向かうために必須なのが、次の三つの「問い」である。

 WHY  「なぜ」この学習活動に取り組むのか?【学習の目的】
 WHAT そのために、「何を」すればいいのか?【学習の内容】
 HOW  その活動に、「どのように」取り組めばいいのか?【学習方法】

 この三つの問いが具体的であり、誰でもわかるようなものであれば、ことさらに「見える化」は必要ない。しかし抽象的な課題であるときには、それが具体的に「目に見えて」イメージできるようなものであることが必要だ。
 たとえば、単元が始まる時に、取り組むべき課題を板書したり、学習の見通しをプリントして配布すること、制作する課題であれば、事前に作ってみたモデルや見本を提示することなどによって、何をすればいいのかが具体的にイメージできるようになるだろう。

3、一人ひとりの学習プロセスを支援するために「見える化」する
 一人ひとりの子どもの学習状況を的確に見取るのは難しい。
名人級の先生は、顔つきとか、つぶやきとか、ノートの記述を見てその場で状況をつかむことができるのだろう。しかし、工夫次第で「見える化」によってある程度、学習状況を把握することは容易になる。
たとえば、次のような手立てが考えられる
・毎時間の振り返り作文
・学習内容をまとめて集積するポートフォリオ
・模造紙やホワイトボードなどに書き出す、教科書やプリントに書き込む
つまり、頭の中に考えていることを、いかに文字や記号などで表出させるか、その具体的な手立てを高じるということだ。
 煩雑なので、あまりおすすめはできないが、学習状況をビデオなどで撮影するという方法もある。たとえば、スピーチや話し合いの様子をビデオに撮って後でふりかえる活動などだ。
 最近はiPadなどのタブレットにより、これらの記録はとても簡単にできるようになっている。しかし情報量が膨大になりすぎるので、それらをどう編集してタグ付けしたり、抽出するかが鍵となるだろう。

4、共同的に問題解決をするための情報共有として「見える化」をする
 「見える化」は、教師が子どもの学習状況を見取るためだけでなく、子どもたち同士でモニタリングできるような状況を作る配慮が効果的だろう。しかも、目に見える形で。
 たとえば、「書き込み回覧作文」や付箋によるアドバイスなどの交流は「見える化」の手立てだ。
 ツールによって交流を可視化することで、子どもたち同士の共同的な問題解決を促していくことができる。

5、学習成果を振り返り、定着させるために「見える化」をする
 子どもたちは学習した成果をどのように自覚しているだろうか? 
 たとえば学習成果を「テスト」という形で可視化することはできる。しかし「テスト」だけが学習成果なのだろうか?そうではあるまい。もっと、学びにつながる発見や気づき、実感があるはずだ。それらを「見える化」して定着させていきたい。
 そのためには一手間をかけ、学んだものをポートフォリオや振り返り作文の形で「見える化」し、意味づけて残すことが重要になる。
 活動したらそれで終わりではなく、学習活動によって何を得て、それをどう活かしていくのか「見える化」によって積み重ねていくことが大切なのだ。

 問題を発見するための「見える化」、問題を解決するための「見える化」、そして課題を協同で解決するための「見える化」、そして、学習成果を定着させるための「見える化」の四つが授業における「見える化」のポイントとなってくるだろうと思う。