2015/12/24

こんな一年だった(2015年編)

今日で学校は仕事納め。今年の業務は終了した。
今年は「起承転結」でいうと「承」の一年。激動の去年と比べて、外面的には大きは変化はあまりない。しかし「転」につながる、いろいろなきっかけをつかむことのできた一年だったと思う。
まず校内では、今年は持ち上がりの学年だった。そのため、ほとんど変化なく、同様のペースで進めることができた。
私にとっての進歩は、かなり大胆に子供たちに任せて、そこから微妙に介入する勘所のようなものをつかむことができたということだ。これは生徒たちをある程度理解できたからこそのことだとは思う。
もう一つは。一つ一つの授業のユニットを小刻みに進めつつも、ユニット間の連続性をかなり意識して授業を作ることができたということだ。来年はこの連続性を意識して、さらに綿密にカリキュラムをデザインしていきたい。
三つ目は、ルーチンで取り組む活動の威力を実感できたことだ。来年度はどんな活動にするかまだ決めていないが、非常に効果は大きいので何かは取り組みたい。来年の生徒の姿を見てから決めようと思う。
研究面での進展は、以前よりもずっと子どもの姿にへばりついた研究ができるようになった点があげられる。具体的には、作文や談話分析などの手法を用いた研究になじみ、子どもの姿から虚心坦懐に課題を見つけ、学ぶことの面白さに気づいたことが大きい。
また、学校の研究に関連して、教科以外の総合的な学習などの授業づくりにハマり、その面白さに目覚めたのも大きな収穫だった。

対外的な活動としては、今年もいろいろなご縁でさまざまな活動に関わることができ、学ぶ機会を得ることができた。
今年取り組んだものとして、
学校図書館、読書活動に関する取り組み、
デジタル教科書、タブレット教材の開発、
アクティブ・ラーニングへの提案、
編集の授業開発(学会発表)
話す聞くの研究と研究大会での提案
著作権関係のシステムづくりの構築、
大学研究者とコラボで作文教育の実証研究、
教員への研修講師など。
このどれもが緒についたばかりだけど、来年、再来年にはその幾つかは大きく花咲くことだろう。それもとても楽しみだ、

今年は比較的に仕事に余裕があるので、積極的に外に出て勉強しに行きたいなと思っていたけど、さすがにそれほどできなかった。(会いたい人、行きたい学校、見たい授業はたくさんあったけど)しかし、少ない中でも、他の中学、高校で参観した授業はどらもお世辞抜きで素晴らしく、びんびん刺激を与えられるものばかりだった。また、会いたいなあと思っていた人ともたくさん出会えることができた。
と同時に、まだまだ自分の実践の中途半端なところを痛感させられることにもなった。今後もどんどん外から学んでいき、殻を破っていきたい。
と、来年の今ごろも同じような反省をきっと述べていることだろうと思う。けれども、積極的に前に出て攻める姿勢は忘れないでいこうと思う。まだアラフォーだし。

今年一年お世話になった全ての皆さんに感謝しつつ。良いお年を!

2015/11/27

ワークショップデザインの授業で中学生は何を学んだのか?

「ワークショップを作るワークショップ」の授業もワンサイクルが終了。
実践の紹介は過去の記事に。
2クラスが7時間で授業に取り組んだ後に、他の2クラスも同じ流れでワークショップ作りにチャレンジしていく。(今日からスタート)
最初にワークショップ作りに取り組んだ生徒たちに、授業後に「これから授業に取り組む二つのクラスにワークショップづくりのアドバイスをして!」と投げかけた。
授業を終えた生徒たちが、ワークショップデザインにおいて何が大切だと思っているのか、この記述からある見てとることができる。

〇課題設定のアドバイス

  • QOLを向上させるために必要なのは本当になんなのかをしっかり考えた上でテーマを決めた方がよい。
  • 「本当にこれでQOLが向上するの?」というのもあったから、実際の生活に役立ちそうな内容にするとよい。
  • どういうワークショップの活動にするのかというイメージをもつことから、ワークショップのテーマを考えていくのもよい。
  • ワークショップの考え方がまとまらないときは、アドバイザーの先生に聞くのが非常に効果的である。
  • ただ自分たちが知りたいことだけでなく、参加者は最も何を知りたいのか?何に興味があるのかを探ろう。
  • テーマはうけねらいではなくて、みんなの役に立ちそうなことにした方がいい。
  • ワークショップのタイトルで参加者をひきつけるべし。


〇プログラム内容のアドバイス

  • 最初にワークショップの内容を決めるときは、目的や方法等を明確にして、進めていくなかで方向性を見失わないようにする。
  • 「体験」と「説明」を上手くバランスをもたせて組み合わせるのがすごく大切。
  • 説明は根拠と主張がしっかりしていると聴き手も納得しやすい。科学的な根拠や参考文献を提示できるようにしておく。
  • どんな情報を言ったらみんなに興味を持ってもらえるか、こんなこと誰も知らないだろうみたいなことを言った方がパンチがあって良い。
  • 一つ強調したい部分を持つとお客さんのウケがよくなる。
  • 時間配分や順序をよく考える。(長すぎず、短すぎないように)
  • 時間が20分と短いので、その時間の中で簡単にできるテーマにするべき。短い時間で急ぎながら深いところについてのワークショップにすると少し中途半端になってしまうので、簡単なことについてじっくりよく考えたり体験する方が得るものは大きい。
  • 調理20分はかなり無理があった。少し時間がかかるようだったら途中まであらかじめ作っておくとよい。(片付けまで20分でやらなければいけないので、遅れると次のワークショップに行けなくなる)
  • ブースに分けて少人数でやるなどの会場レイアウトも工夫する。
  • 映像や音楽などで気分を高めるのも効果的。
  • 小道具などが必要な班は、分担を決めて、休み時間を使って計画的に準備しよう。(道具のリストを作っておく)
  • CD科の授業でとれる準備時間はとても短いので、自主的に準備をしていった方が良い。
  • 班員との情報共有を大切に。分担も公平にする。

 
〇ワークショップ本番では?

  • ワークショップと発表(プレゼン)との違いを意識する。どうしても一方通行になってしまって「参加型」にするのが難しかった。
  • まじめすぎず、ふざけすぎずにやるといいと思う。
  • パワーポイントに頼りすぎない。参加者とやる人の発言量が同じくらいが理想。
  • 参加者を巻き込んで一緒に楽しむ気持ちが大切!
  • 和やかな雰囲気にする。
  • 時間配分が思ったよりかかったので、一度実際の時間で通して練習してみるとよい。(調理系のワークショップは必ずリハーサルを!)
  • ワークショップをしている間は全く相談しなくてもできるようにしておく。もたつくと印象がすごく悪くなる。事前の準備が超重要。
  • 根拠となる資料を集めておいて、質問にちゃんと答えられるように。

2015/11/14

問いを吟味する授業

とある中学校の公開研究会から考えたこと。

「問い」そのものを授業の対象にするという発想が面白い。
調べ学習の時になんとなく問いを立てて、(あるいは教員が設定して)そのまま探究に突入しちゃうというパターンが多いんだけど、「問いについて問う」というワンクッションがあるとないとでは、その後の研究の成否が大きく違ってくる。きわめて重要な視点。しかしとっても奥が深い。「問いが持てる子」って、「答えを知っている子」よりもずっとずっと価値があると常日頃から感じている。
授業では、夏休みの宿題で地域について調べたレポートを題材に、さらにそれを深める問いを考え、その立てた問いについて小グループで「問い相談会」(「価値ある問い」かどうかを話し合う)をするというのが今日の展開だった。
問いを吟味することの必要性は、大学のアカデミックライティングでは必須のスキル。高校などでの探究的な学習でも取り入れられている。(「問いを作るスパイラル」など) ほとんどの人は知らないと思うけど、国研の「中学校授業アイディア例」にも、かつて似たような実践が取り上げられた。( http://www.nier.go.jp/jugyourei/h25... )
授業を開発する際には、それをどの程度、対象である中学1年生に落とし込み、他の探究的な学習でも使えるような汎用的なスキルとして習得させることが鍵となるのだろう。汎用的なスキルとするためには、「授業の文脈につかず離れず」ぐらいな距離感が必要だ、つまり、「この授業のための」とか、「この調べ学習のための」問いの吟味の仕方とするのではなく、どんな探究にも使えそうな吟味する視点や方法を対象化、意識化させるのだ。
例えば、問いを吟味させる話し合いで、「良い問いか、悪い問いか」と話し合わせるのではなく、「問いのレベル」を話題にするという方法はどうだろうか。この問いは「深い問いだ」「浅い問いだ」というように、問いを対象化して「問いのレベル」を評価し合うのだ。(って、大人は普通そう感じているでしょ)
また、「問いの方向性」を提示する方法もある。「広げる問い」『深める問い」「連想される問い」「具体化する問い」「ひねくれた問い」「すぐに答えの出そうな問い」「答えは絶対にでない問い」など。このような「問いの方向性」が見えてくるレトリックが活用できると、問いを検討するための発想を広げることができる。発想を広げるという意味では「アタリマエを疑う」という観点も重要だ。常識を壊し、発想を広げるためには「異化」をしていくための道具立てをする。「六色ハット法」や、「なぜなぜ五回」のような「異化」を促すテンプレート、フレームワークを活用させるとよいだろう。
しかし、「問い」を吟味する視点で最も重要なのは、言うまでもなく、調べている本人の「知りたい」という探究心だ。だから「問い」を広げる活動を行いつつも、「そもそも自分の知りたいことは何なのか」という問題意識の根っこにもどっていくような感覚も(感覚こそ?)大切なのだと思う。「問い」を吟味し、あれこれ「問い」を評価していく中で、「この問いは私が知りたいことに近づいている」「この問いだと知りたいことから離れてしまう」「むしろ本当はこの問いを探究したかったんだ」などと感じるような、「問いへの繊細な感覚」を大切にすべきなのではないかと感じた。
つまり、直観レベルでの「問いの吟味」(気になる,知りたい、どうもスッキリしない。モヤモヤする……など)と、論理レベルでの「問いの吟味」(検証は可能か、方法は適切か、つじつまが合っているかなど)の必要性だ。熱いハートと冷たいノーミソで、問いをためつすがめつしていくような学習ができればいい。

そもそも、葛藤や対立に気づこうとしているか

月末に行われる公開研究会に向けて指導案検討。
全員分の授業プランが出そろうと、ようやく公開研に向けてのスタートラインに立ったような気分になる。
指導案検討の後、校長先生か感想を述べる。校長は異文化対立や葛藤を研究する大学の研究者でもある。その研究のバックボーンをもとに興味深いコメントをなされていた。
「日本では、そもそも世の中に葛藤や対立が存在することを認識することに苦手意識を持っている。葛藤や対立があるんだけど、それをなるべく考えないようにしている。気づかないようにしている。それが問題をより深刻にさせているのだ」と。
確かにそうなのかもしれない。身近な葛藤や衝突、軋轢を極力避ける事なかれ主義が重視される世の中だ。異議申し立てや、波風を立てることそのものが煙たがれる。社会に存在する葛藤や対立に目をつぶる身振りが、日本社会のあらゆる場面で学ばれてきている。
まず問題のスタートは、安易にわかったふりをするのでは無く、迎合するのでも無く、葛藤、対立の存在に気づこうとすること、そこからが、あらゆる課題を解決する第一歩なのかもしれない。

汎用的な「メタ認知」というものは存在するのか?

ねらいを決めたり、見通しをもったり、振り返りをしたりという、モニタリングやコントロールに関わる認知をメタ認知というらしい。
最近はどの実践ても「メタ認知」が大流行りだ。とりあえず「メタ認知。といっておけばいいやという感も無きにしも非ずだ。
しかし、そもそも汎用的で、文脈を離れても通用する「メタ認知」というものは、どの程度通用するのだろうか?
たとえば、料理の段取りが上手い人は、同様にテスト勉強も上手なのか、テスト勉強が計画的にできる人は、何かのプロジェクトも同様に段取りよくできるのか?
安易に「メタ認知」とひとことでくくって言うけど、ある程度の幅で、メタ認知(という名の、共通して活用できる知識や技能〕が適用する分野なりジャンルが存在するだけなのではないか?
たとえば、図形の証明と、論理的文章の証明はどこまで一緒なのか。論文を書くことと、料理を作るときのメタ認知はどの程度「転移」するのかしないのか?
何でもかんでも「メタ認知」といったところで、何も言ったことにはならないのではないか?
探求学習には課題解決のステップとしてある程度、定型化されたものがある。イベントなどの企画、運営には、段取りの適否というものは確かにある。しかし、それらの分野の特殊性を離れた「段取り力」とか、「見通し力」などという「メタ認知」なるものは存在するのか?あくまで、探求学習、イベント運営に限る、手続き的知識なのではないか?
ジャンル、文脈、状況を離れて、汎用性のある「メタ認知」というものがあるのか、それを学ぶことができるのか、それを知りたい。

やはり、「評価」という言葉をなるべく使わない方がいい。

よく言われることだけど、評価を語るときに、ABCと生徒を値踏みするための評価(エヴァリュエーション〕と、生徒の学習が進んでいるかどうかを見るための評価〔アセスメント)とが混同していることが非常に多い。私自身も時々ごっちゃに考えてしまっていることがある。
そしてそれらの「評価」も、同時期、全員に対して行う必要があるものと、全体をざっと眺めたり、抽出児で把握できるものもある。〔そうでないとやっていけない)
さらには、教師にとっての授業評価と、生徒にとっての能力評価とも混在している。
もっと言えば、教師が確認できる評価と、生徒自身が実感できる評価もある。(自己評価チェックなどで)
これらの多様な意味が全て「評価」の一言で語られてしまうのだ。
これで食い違いが起きない方がおかしい。
授業で評価が大切なことは誰でも理解している。そして意識的にせよ、無意識的にせよ、誰だって、学習状況から何らかの判断(それが「評価」なのだが〕をしているはずだ。
だから、たとえば、教師の授業中の評価は、「評価」という言葉を使わずに、「今日のみどり」とか、「ここに注目する」などのタイトルで、つけたい力に応じて
「この姿を注意して見る」
とか、
「こういう表情が見られるはずだ」
「こういう発言や動きを見逃さない」
という程度の記述がギリギリのところなのではないか。
やってないこと、やりたくてもできないことを論じる、建前のための評価の議論ほど不毛なものはない。〔それがさらにエスカレートすると、評価のためのアリバイ作りの授業になる。ああ!)
※もちろん、単元終了後の評価〔エヴァリュエーション〕の方策は別途検討するべきだろう。

やっぱり、教材が命。

これからはコンテンツじゃなくてコンピテンシーだ!とかいっても、知識じゃなくて課題解決能力だ!っていったって、単なる薄っぺらい操作スキルの習得や、スカスカの課題解決じゃあ「深い理解」「深い関与」にはなっていかないのだろう。
噛めば噛むほど味がしみ出るようなチキストがあってこそのディープさなのだ。
エビで鯛は釣れないように、チープな教材からはチープな学びしか得られない。だからこそ、ディープな学びを引き出すためには、何をおいても学習材の開発が必要なのだ。
という反省のつぶやき。

アクティブ・ラーニング型授業を作るための教科を超えた汎用的な能力はあるか?

素朴な疑問
・技能教科はほとんどがアクティブ・ラーニング型授業であるといえる。
・小学校の先生は技能教科も教える。
・ゆえに、小学校ではどんな初任者でも、アクティブ・ラーニング型授業をしていない人はいない。
そこで疑問。
小学校の先生で国語の一斉指導が上手い人は、体育のアクティブラーンング型授業もうまいのか?
反対に、
体育のアクティブ・ラーニング型授業が上手い人は、国語の一斉授業もすべからくうまいのか?
アクティブ・ラーニング型授業や一斉指導型授業を作る、教師の「教科横断の汎用的なスキル」ってどの程度有効なのか?
ひょっとしたら、その汎用的なスキルって割合的には少なくて、他教科の授業にはあまり転移しにくい、領域固有の知識、能力の比率が高いのではないのか?
結局はその教科、授業の教材研究に依拠しているのではないか??

失敗例も価値ある実践

というか、陥りがちな失敗の発見こそが、その研究のもつ新規性なのだと思う。
だからこそ、どんな試みも「未完成な試み」である限りは価値ある実践だ。
完成品として取り繕うのではなく、未完成品であり続けること。そういう前向きさの伝わる実践には心から共感できるし、得るものも大きい。完成されたパッケージはあっという間に忘れられてしまう。
研究はコミュニティによって育てられる協同的な実践なのだ、ということをみんなが共有できれば幸せになるなあと感じる昨今。

場数を踏む、あるいは創造的な失敗

場数を踏むという視点が大事
アクティブ・ラーニング型の学習のような、学習者の自由度が高い学習活動では「場数を踏む」という経験値がどうしても必要になる。だから、研究授業だからとか、思いつきでたまーにやる程度では「場数」はこなせない。うまくいくかは運次第になる?
結局、生徒も教師もいっぱい失敗しながら、その失敗をしたたかに次のステップとさせていくような、「次はこれこそは!」というフィードフォワードの発想が、アクティブ・ラーニングでは大切なんだろう。
だから、たった一回の授業の成否を、それだけの良し悪しで判断するのでは無く、子どもたちが場数をこなせばできるようになるものなのか、それともそもそも無理な活動だったのかという視点で見ていくことが必要になるのだ。場数をこなさないうちからあれやこれや言っても仕方がない。

場数を踏むのための「場」の条件
というわけで、生徒にとってどういう「場」が値打ちがあるのかという問いにつながっていく。
一言でいうと、「ルーチンでありながらルーチンを超えるもの」となるのかな。
子どもにとってルーチン(反復して取り組む価値のあるもの)という認識が無いと、そもそも経験として定着しずらい。教師の思いつきで振り回されているだけ、という意識では次への取り組みにつながらない。
反対に、単なるいつものルーチンで、出来合いの力で自動的にさくっとできてしまうようなものではあまり力とはなっていかない。「箸の上げ下ろしでは筋肉がつかない」のと同じだ。
「ルーチンでありながらルーチンを超える経験の場」を、どう設定するかなのだろう。

2015/11/06

批評の目覚めとしての食レポ

批評の題材に何を選択するか。結構頭を悩ませる問題だ。
「批評」というとどうしてもちょっと背伸びしたテーマ(時事問題とか社会について)語らせたくなる。それはそれでもいいんだけど、なんとなくそういう題材だと、実感からかけ離れた空理空論になってしまうような気がする。
結局は、批評の表現指導の力点をどこに置くかが問われるんだけど、そこを私は「自分の固有の感覚を言葉にして他者と共有する」と位置づけた。
その「固有の感覚」とか「自分なりのとらえ方」というものを前提にしないと、借り物の意見をいくら語らせたところで、それではそもそも批評はなり立たないと思ったからだ。
で、前置きが長くなったけど、その批評の入門的な題材として「食レポ」を取り上げた。

「食レポ」とは、グルメ番組などでリポーターが味を紹介することをいう。
「味覚」という、最も身体的で私的な感覚を、言葉の表現を駆使して他者と共有する。それこそが、ちょっと大げさに言うと「批評の芽生え」につながってくるのではないかと考えたのだ。
「おいしい」という感覚を「おいしい」だけでなく、こんなふうにとか、こんな感じで、と具体的に表現していく。そのための学習を考えた。
参考にした文献はこれ。知る人ぞ知る、大学生向けの文章表現のワークショップの本。面白いよ。

まず最初に、谷崎潤一郎の「陰翳礼賛」の有名なくだりを紹介。
何の食べ物だと思う?? (横書きでちょっとかっこわるい)
正解は……

と、こんなふうに、一切れの羊羹でもこれだけ奥行きのある表現ができるのだ。
つづいて、このように味わいを表現するためのテクニックを紹介。(このへんは『日本語上手』の内容をそのまま借用した)
食レポの比喩の例として彦摩呂さんは外せないだろう。
彦摩呂さんの巧みな比喩を、その場でwebで検索していくつか紹介した。
やってみよう①は、『日本語上手』で取り上げられていたもの。
この活動で面白いのは、オノマトペでも多くの人が共有できるものと、共有できないもの(イメージしづらいもの)があるということ。「自分ならではの味覚」を共有してもらうために表現するのは難しい!ということに気づきはじめた。
そして最後の課題はこれ。

こんな感じで、自分の好きな食べ物、最近食べた美味しかった料理の批評文(食レポ)を400字で表現する課題を提示した。

生徒の作品は次の通り。
なかなか気合いを入れて書いてくれた。これだけノリノリに表現できれば、もう「批評」と呼んでも差し支えないのではないだろうか。いや、批評じゃないなあ、なんだこれ?

らぽっぽのアップルパイ
らぽっぽのアップルパイ。それはアップルパイといえどもリンゴに加えて薩摩芋も入っている。まず箱を開けたときのおいしそうなにおい。そしてシンプルな見た目。口に入れるとシットリとした薩摩芋と歯ごたえのあるリンゴ。それにさくさくのパイの味が感じられる。こんなにしっとりとした満足感のあるパイは他にはないだろう。薩摩芋はほどよい甘さで、量が多いので少しずつ食べることに意味がある。リンゴは柔らかく、砂糖はあまり使われていないので、素材そのものの味を楽しめる。その二つの下で支えているパイの生地は薄く、まるでしっかりとした畳が敷かれているようだ。この三つの素敵な要素があるからこそ、このアップルパイが成り立っている。
今日もあの、おいしそうな、甘いにおいに誘われて思わず立ち寄ってしまうかもしれない。らぽっぽに。

梅干し
見た目はシンプルなシルエット。しかし、よく見ると少しシワシワしていて、ここまで来るのにどれだけの苦労があったのかと物語っている。情熱的な太陽のような赤さを一目見るとよだれが出てくる。
一口、口の中に放り込むと深い世界が広がってくる。それと同時に酸味が口の中に広がる。思わず顔をしかめたくなるような酸っぱさだ。しかし、その酸っぱさがたまらなく美味しい。そこらへんに売っているものよりも酸っぱい。彼らにかけられた苦労が他のものとは違うからだ。おばあちゃんが腰を曲げながら一階から四階の屋上まで登って干している。そんな様子が浮かんでくる。口の中でつるつるした皮がめくれると柔らかい実が出てくる。今までの酸っぱさとは一変し、あたたかくわたしを受け入れるようだ。舌に触れただけで実はとろける。最後に口の中には種だけ残る。種にも味がついている。とても美味しい。他にこんな美味しい梅干しがあるんだろうか。いや、ない。

三ツ矢サイダー
僕はオアシスを求めていた。まるで、砂漠のど真ん中で、今にも干からびてしまいそうな植物のように。
すると、遠くにキラキラと太陽の光を反射させた泉が見えた。僕は走った。友のために走るメロスのように。手を伸ばすと、そこにはキンキンに冷えた天然のミネラルがあった。頭に手をかけ、反時計回りに回し、最後の障害物を取り除く。すると、僕を歓迎するかのようにシュワシュワと音を立ててはじけた。一気に流し入れると、今にも死んでいきそうだった僕の細胞が気力を取り戻し、活性化した。ほんのり甘い天然水の中に、パチパチとはじける元気な泡たちがたまらなく刺激的だ。乾ききった身体にしみこみ、うるおいを取り戻した。僕のなかでの飲料ナンバー1だ。何十年もの間、飲まれ続けた理由は、僕の身体で立証されたといえる。

クドすぎる食レポに挑戦
もう過ぎてしまった夏を思い出して欲しい。部屋の中まで入り込んでくる熱気を抑えようとクーラーをかけ、一向に減らない宿題にさじを投げたあのとき、一体何を食べただろう。冷蔵庫の扉を開けた私を迎えたのは、常磐色の表面に、その楕円形の上下を結ぶ幾本もの黒い紋様を浮かべる。大きな大きな西瓜だった。両手でやさしく抱え出したそれはずっしりと、中には隙間なく詰められた果肉の重さを伝え、そっと当てられた包丁に力が込められると、ザッという音が響き、薄暗い部屋に光を灯すようなまぶしい白。さらに刃を降ろせば、今度は奥に隠されていた深紅と珊瑚朱色が斑に顔を出しゆっくりと左右に割れた。
半球となった西瓜が透きとおるガラスの容器から飛び出すように置かれたそれは、光沢のある銀色のスプーンに刺されるのを今か今かと待ちわびているようで、一人っ子の特権のように思われる幸せな瞬間でもある。
薄く平らな凹みの縁を真っ赤な表面にあてれば、予想よりも遙かに軽い力で中に進み、その亀裂が同じ様に広がって欠片となる。浸みだした赤の果汁と一緒にすくえば、さわやかな甘い芳香がただよって口元に運ばれる。たっぷりと音を立てて砕かれ溶けるように一瞬で消えてしまう。ほどよい涼しさと蜜のような甘さだけが残ると、ついさっきのあのザラザラとした粒の集まりが恋しくなる。勢いよくすくって口に入れれば、漆黒で平べったい僅かな大きさの種が混ざっていて、ほんの少し後悔する。噛まないように咀嚼してがりっという堅さを感じてしまったときの悔しさは誰かに伝えたくなってしまう。
誰もいないリビングで一人黙々とスプーンと口を動かし続ければ、永遠に続くように思われた掘削の時間も、うっすら見えだした白の皮が露になることで冒険が終わってしまったと空虚な気分になる。

2015/11/01

指導案を書く力と授業を作る力

昨日の協議会では「指導案」の内容についての発言があった。曰く、指導案に示されている目標と、活動、評価との整合性は?など。
「授業」の協議会なんだから「授業の案」を取り上げて協議するのは意味あるの?とも言いたいけど、やはり実際の授業、そして子どもの姿と、指導案との齟齬は気になる人は気になるものらしい。それだけ丁寧に読んでくれたということなんだけど。
そういう意味でも「実際の授業を見るだけでは伝わりきれない何か」を伝えるためのツールとして「指導案」は必要だし、伝わってるかを確かめるために、念密に指導案の検討を進めていく必要があるのではと感じた。自分の思いを吐露するだけではなく、参観者に「伝える」という位置付けの指導案。だからもっと丁寧にするなら、本当は指導案だけでなく、その単元の授業で使ったワークシートや、その授業に至るまでの生徒の学びのプロセスをたどって示すことも必要なのだ。一時間で完結しない、学習者の自由度が高い単元ならなおさらだ。
指導案を見なくても参観者に授業の意図が伝わるものが本当は一番なんだろうが、授業ってそんなに単純なものばかりではない。

辞書の語釈について考える授業は何を提起していたのか

参観した授業から授業考えたこと。
授業の構成自体はまだまだ練り上げる要素は多いけど、提起している問題はなかなか興味ぶかい。

◆授業のおもな内容
1 身近な言葉の語釈を考えてみる
「旅」とか「友だち」とか「思い出」など。
「あなたの言葉を辞書に載せよう」という大辞泉のサイトがある

2、辞書の言葉について考える
大辞泉や三省堂国語辞典では、読者参加型の辞書づくりに編集をシフトさせていっているそうだ。
その試みのおもしろさや意義について考える。

◆この授業が提起しているもの
1、「辞書上の意味」を考えさせようとした
学習指導要領の指導事項には「辞書上の意味と文脈上の意味との関係に注意し、語感を磨くこと」という文言がある。これはほとんどの場合、小説などを読んだときに出会った見知らぬ言葉を辞書で調べ、辞書上の意味を文脈に沿って書き換えていくという学習が行われる。
しかし、今回の授業は何かの文脈が先にあるのではなく、まず「辞書上の意味」そのものを考えさせようとしたところに特徴があり、提案性があるのだ。
「辞書上の意味」ってどうやって書くべきなんだろう、そもそもなんのためにあるんだろうか。
言葉の意味は、そもそも文脈から離れてはあり得ない。Aくんの感じる「かわいい」とBさんがつぶやく「かわいい」の意味は同じではない。しかし、いくつかの「かわいい」の文脈を集めていくとそこにおぼろげながら「かわいい」の「辞書上の意味」が浮かび上がってくる。どんな文脈でも「この意味として使われているとは言えそうだな」という「語釈」がにじみ出てくる。(言語学では「ラング」「パロール」というらしいことを大学のときに習ったけど、「パロール」から「ラング」を取り出していく作業だと思っていいのか?)

2、言葉の意味のフローとストック
といいながら、「辞書上の意味」が書かれている「辞書」そのものも大きくかわりつつある。大辞泉などの辞書では、インターネットによって、自由に語釈を書き込んで読者を参加させ、辞書の語釈をを豊かにしていこうという取り組みを進めているのだ。まるで掲示板のような辞書。
初めから「ラング」が決まっているものとしてトップダウンに読者にあたえるのではなく、ボトムアップに作り上げていく試み。しかも辞書の編集者だけでなく、様々な「文脈」を持つ一読者もそれに関わることができる。
「文脈を持つ言葉」はTwitterの「つぶやき」のようにあっという間に消えていき、移り変わっていく「フロー(流動的)」の言葉だ。しかし辞書は「ストック(不変・不易)」を志向する。言葉の意味のフローとストックのせめぎ合いを、具体的な辞書の編集のプロセスを知ることで、学習者は目の当たりにすることになる。
そういう観点で、言葉の意味のフローとストックを考える機会にすることができる。

3、編集の参加性と権威性
そもそも、読者は辞書に何を求めているのだろうか?
それをひと言で言うと「辞書に載っている正しい意味」という安心感、信頼なのではないか。もっというと「辞書の権威」にすがっているのではないか。
「辞書に載っている」といえば、その語釈は規範となり、正しいものとして安心して許容することができる。しかし「隣のA君が言っていたよ」というのでは当てにならない。
辞書は「権威性」の高いメディアなのだ。
しかし、最近は百科事典の世界ではご存じのようにWikipediaによってだれでも百科事典作りに参加できるようになった。
誰でも書き込めるという「参加性」が高まると「権威性」は薄まる。
国語学者でしか書けないという「参加性」が低くなると「権威性」は高まる。
もし辞書が「参加性」を高めた場合、「権威性」はどうやって担保していくのか、どうすれば信頼できる語釈になるのか、それこそが辞書の編集ポリシーが問われることになる。
そういう観点で、編集の権威性、参加性を考えさせてもよかった。

4、実は「編集方針」を考えていたのだ
授業のなかで最も欠けていた何か?
それは「辞書を読む読者」の存在だ。
世の中にはさまざまな辞書が作られている。
これは裏を返せば、それだけ多様な読者のニーズがあると言うことなのだ。
たとえば、「日本国語大辞典」や「広辞苑」のようなごっつい辞書を使いたい時もいれば、「新明解国語辞典」のほうが必要なときだってある。誰にとっても「日国」が必要なのではなく「日国」が必要な時があり、それを必要とする読者がいるから、マーケットが成立しているのだ。
だから、「こういう読者のニーズがあるからこういう辞書が必要だ」、「こういう辞書があればこういうニーズを満たす」、「この語釈は誰々向きだ」、という議論ができればさらに深まりがあったのではないかと思う。
「自分のお気に入りの語釈」を考えることは楽しい活動だし、言葉の感性を磨くためには有効には違いないんだけど、もっと「辞書」というメディアの「編集」に目を向けさせる、作り手と読み手との「あいだ」に存在する「辞書」の微妙な立ち位置のようなものをもっと考えさせてもよかったのではないだろうか。
そしてこのことについて考えさせることは、いうまでもなく「辞書」だけでなく、全てのメディアの成り立ちを考えさせるときにも有効な「汎用的な資質能力」の一つとなっていくのではないか。

「ワークショップを作るワークショップ」のうらばなし

公開研の授業「ワークショップをつくるワークショップ」について、忘れないうちにいくつか書き留めておこうと思う。

◆授業のそもそもの発想
この授業は「コミュニケーション・デザイン科」の授業。
そもそも、コミュニケーションはどこに向かうべきなんだろう、何のためのコミュニケーションなんだろう。情報を効率よく伝えたり、相手を意のままに動かそうとする力が本当にコミュニケーションの力なんだろうか。そんなレベルのものでいいのだろうか。
「コミュニケーション」の語源は「分かち合う」にあるというのを聞いたことがある。(諸説あるらしいが)本当のコミュニケーションって、相手を意のままに動かしたり、情報を一方通行に流し込んだりするものではなくて「一緒に考えようよ」とか「これやってみよう」という共有とか共感がともなうものなのではないか。
中学生のコミュニケーションスタイルもそうだ。優等生ほど、しらじらしい「未成年の主張」の演説会プレゼンテーションになってしまう。本当にそれが優れたコミュニケーションなんだろうか。育てたい力なんだろうか。それだけでいいんだろうか。
昨今、一方通行的なコミュニケーションがなんだか増えてきているような気もする。
自分の主張を一方的に相手に押しつけたり、炎上させるようにのべつまくなしにまき散らしたり。必要なコミュニケーションって、一体何なのか? 
これからのコミュニケーションで必要なのは、相手をねじ伏せるのではなく「一緒に考えようよ」というものであって欲しい。それを探究するのが「コミュニケーション・デザイン」なんじゃないか。
そんなふうに、求めたいコミュニケーションのカタチがだんだんとはっきりとしてきた。
では、そのようなコミュニケーションが埋め込まれた活動のモデルって社会のどこにあるんだろう、それは何なんだろう。そう考えたときに探し出した答えが「ワークショップ」だった。
(実は、この夏休みに、私自身が先生向けのワークショップを作って実践したんだけど、それがことのほか楽しく貴重な経験になった。ワークショップデザインを自分でやってみて楽しかったという経験も単元の発想にはある)

とりあえず、以下の文献を読み返した。
『協同と表現のワークショップ』

『ワークショップデザイン論』

『市民の日本語』、これはまちづくりなどのワークショップを精力的に取り組まれていた加藤さんの遺作。これからの日本に必要な「市民の日本語」としてのコミュニケーションについて次のようなことが述べている。加藤さんがファシリテーターとして取り組んだワークショップでのさまざまな「言葉」やエピソードがとりあげられていて、国語教師としてずきずきと刺さってくる一冊だ。
「声が大きくて、理路整然と話ができる人だけではなく、声が小さくても、まとまっていなくても重要なことばを発する人もいる。多数決だけでは、貴重なことばを練り合わせていくことは難しい。過去の美しいことばを美しく朗読しても、それは市民のことばにはなりにくい。新しい社会を作り出していくためには、新しいコミュニケーション方法が生み出されなければならない。」

近年、まちづくりなどのコミュニティーの問題を考えるワークショップや、ものづくりなどの制作系、そしてダンスや演劇などの表現活動でワークショップの手法が取り入れられてきているそうだ。
そこでのワークショップの特徴はいくつかある。
・お客さんではなく主体的な「参加者」「参画者」であること。
・具体的な活動、しかも楽しいものが含まれていること。
・この活動を通して「気づき」が得られるものであること。

私なりに、ワークショップの定義をつぎのようにした。
「参加、体験を通して『気づき』が得られる活動」である、と。

ワークショップに特定のフォーマットはない。(むしろ既存の学び方をくずしていく「まなびほぐし(アンラーン)」がその本質だという人もいる)しかしそれでは中学生は途方に暮れてしまうので、取りあえず『ワークショップデザイン論』を参考に、流れの例を提示した。


こうして、「ワークショップ」に焦点を絞って授業開発をすることに決意した。
次はこれをどう授業にしていくかだ。

◆ワークショップを考えることはコミュニケーションを問い直すこと
ワークショップづくり、ちょっとかっこよく「ワークショップデザイン」は「分かち合う」ためのコミュニケーションを成り立たせるために必要な要素がぎっしりと含まれている。
総合などの学習でプレゼンは行うことが多い。しかし、プレゼンのような伝達手段と、ワークショップのようなコミュニケーションのデザインは大きく異なる。
たとえば、ワークショップでは次のような要素を考えなければならない。
空間……座席配置、部屋の広さ、レイアウト
時間……無理のない活動の流れ(導入・活動・ふりかえり)
伝え方……相手の立場に立った説明、行動や気づきを促すファシリテート
道具………活動を構成するためのツールの検討
などなど。
だから、ワークショップはプレゼンや研究発表の延長線上ではなく、全く違う次元で相手と共有するための方法や関わり方を考えなければならない。二次元のパワポから、時間、空間を伴った三次元の活動デザインへと意識を変えていかなければならない。

ワークショップを作ることは、効果的な学びの場、コミュニケーションのあり方を子どもたち自身が問い直すことになる。学びは与えられるものでも、一方的に与えるものでもなく、参加者が自分で生み出していくもの。そしてその気になれば、そんな学びの場を自分たちでも作ることができる。それがワークショップづくりの醍醐味だ。
もっと言えば、ワークショップづくりに目覚めてしまうと、普段の授業が何でつまらないかも見破ることができるようになってしまう。空間への配慮、活動や時間への配慮、インストラクションの配慮など……。そこまでは、さすがに子どもたちには言わなかったけど……。

◆ワークショップのテーマをどうする?
子どもたちがワークショップをするとして、そのテーマや場の設定をどうするか?
ワークショップの相手は、本当は下級生とか外部の人とかがいいんだろうけど、たった7時間でそんなに大がかりなことができない。
結局、同じ学年の生徒どうして、ワークショップを作り、お客さんとして体験してもらうことにした。
これには裏テーマもある。中三の今の時期のかれらが取り組むことの意義だ。
本校は中高一貫のように見えて、実は完全には直結していない。多くの生徒はそのまま系列校に進学できるが、そうでなく、男女とも外部への受験を余儀なくされる生徒も一定の割合存在する。(内部入試は11月に行われ、それでほぼ帰趨を決することになる)だから、実はクラス、学年内の同級生はライバルでもあるのだ。決してクラスで「みんなで頑張って合格しよう」とは口が裂けても言えない状況。ちょっと考えれば想像できないようなプレッシャーに負われている状況であることがわかるだろう。そんな受験生たちが、この今の時期に、ひとときでも協働で何かを作り上げる経験をする。そのこと自体にとてつもない価値があるような気がする。
もう一つは、学習者にとって最も切実なテーマとは何かという問いだ。
いわゆる学習発表会なら、こちらが具体的なテーマを示して、それに沿って調べてきて、発表して……という流れになるだろう。しかし、そんなあてがわれたテーマで、学習者が本当に「共有」したい、ワークショップを作りたいと思えるようなテーマとなるだろうかという不安があった。
結局、彼らにとって一番の問題である、「受験生の心身の健康」に焦点を当てた。
これは、前任校での「ヘルスプロモーティングスクール」(健康的な生活を、自分たちで作り上げていくことのできる力を育成する学校)の実践に触れたのがヒントになった。
受験生としての彼らは、想像以上のプレッシャーに追い込まれている。休日になれば昼と夜の模試のダブルヘッダーも当たり前、学校に行けば競争に追い込まれる。不規則な生活や孤立した日常など、心身に与えるダメージは計り知れないだろう。
そういう自分たちのQOL(生活の質)そのものに目を向け、高めていく。しかも自分たちで助け合ってその課題を解決していく。それがいいんじゃないかと思ったのだ。

こうして、単元の課題がまとまった。
「私たちのQOLを向上させるためのワークショップを運営する」

◆授業の流れ
授業は次のような流れで進められた。
3学年4クラスのうち、2クラス合同で7時間で実施。(他の2クラスは他のコミュニケーション・デザイン科の授業を同時間に行っていて、7時間実施したら入れ替わる)
この授業に取り組むスタッフは、学年の担任および副担任の4人。

1時間目 課題をつかむ
まず、QOLという考え方、ワークショップとはなんぞやというところを講義形式で伝えた。

もちろん、これだけで「ワークショップ」についてイメージが持てるわけではないので、ここで実際にワークショップを演じて見せた。演示をしたのは学年スタッフの他の先生。ワークショップを運営する経験もあり、手慣れているので短時間でポイントを押さえた楽しいワークショップを披露することができた。

2時間目 課題を絞る
このあと、QOLについて具体的にブレーンストーミングで課題を出し合い、さらにそれらをKJ法でまとめ、班で取り組みたいワークショップのテーマを決めた。
そして現時点でのワークショップ企画書を次のフォーマットでまとめた。
2時間でここまでまとめるのが精一杯。
次の授業は秋休みを挟んでいたので、この間に各自で書籍やWebなどで調べてくるように宿題を出した。学校司書は、この授業がスタートする前にはすでに本をかき集め、この授業用の資料コーナーを校舎の一角に作ってくださっていた。
調べ学習では、必ず複数の情報に当たるように、また出典を示すように指示し、それらを明記したワークシートを配布した。

◆3・4時間目 監修者(スーパーバイザー)にワークショップの相談をする。
子どもたちの発想だけではどうしても浅いものとなってしまうので、ここでゲストティーチャーを教室に招き、ワークショップの内容についての相談をする機会を設けた。
授業に協力したのは次の三人
・医師&栄養学の研究をしている大学の先生
・認知心理学を研究している大学の先生
・起業家を応援する会社を経営している社長
この三名のうち、自分が探究するテーマに近い先生を選び、自分たちが調べたことやワークショップで取り上げたい内容についての相談を行った。
やはり、専門家に自分たちのテーマについて質問をすることは、学習者にとって大きなインパクトがあったようだ。ちょっとした思いつきのテーマでも、そのテーマにまつわる膨大な知の世界の蓄積がある、研究の厚みがある。探究してきた研究者たちがいる。それらを知ることで、自分たちが探究しようとするテーマの背後には大きな世界が広がっていることに気づかされたようだった。(実際にどの程度ワークショップに活かされたかはうーんだけど……)
これらのリサーチを経て、20分間のワークショップの活動案をまとめていった。

◆5時間目 ワークショップの準備を行う
本来の計画では、ここまでの4時間で準備を済ましておく予定だったが、とても時間が足りなかったので、一時間授業を増やして準備をする時間とした。ワークショップに必要な道具を用意したり、説明用のパワポを作ったりする活動を行った。

◆6時間目 ワークショップのリハーサルを行う
実際のワークショップを行う前に、リハーサルを行うことにした。
これは「よいワークショップとは何か」を考えさせるための取り組みだ。
子どもたちにとっては、リハーサルは「よいワークショップにする」という目的の活動である。しかし「よいワークショップ」にするためには「よいワークショップってこういうものだ」というイメージができていないといけない。リハーサルを行うことで、「ワークショップのよしあしを評価すること」に意識が向くようになる。「よいワークショップとは?」(よい「コミュニケーション・デザインとは?」と言い換えてもいいだろう)という問いが生まれること、それがこの授業の目的だ。つまり「ワークショップ」を運営側、参加者側の目からメタ認知する機会となるのだ。
そのようなメタ認知を促すための助言を次のように示した。



参加者を「モニター」として設定し、主催者は参加者から積極的に「聞き取り」をするという場になるようにリハーサルを設定した。
さらに、リハーサルをするために事前に、主催者側の意図と、モニターに聞きたいことをホワイトボードにまとめ、提示させるようにした。

たとえば、このグループは「こんなときDoする??」というテーマで、ややこしい人間関係のトラブルをロールプレイングするワークショップを作った。

二段目の、「QOL」と「CD科」と書かれていることは、それぞれQOLの観点からのねらい(人間関係のトラブルを起こさないよう)、コミュニケーション・デザインの観点からのワークショップのねらい(楽しく体験……)となっている。さらに下段には「モニターに聞きたいこと」と示している。
これはモニターからの聞き取りの際に、自由にフィードバックしてもらうだけだとやや不安なので、事前に質問事項を示した上でモニターに体験してもらうという意図がある。
「モニターに聞きたいこと」も、やはりQOLとCD科の観点に対応した質問事項に一応なっている(つもり)

というように、ワークショップのリハーサルにおいては、事前に自分たちで評価ポイントを設定、評価ポイントに沿ってモニターから聞き取りという流れで、ワークショップ運営のメタ認知を高めようとした。

◆リハーサルの授業を行ってみて
「言うのとやるのは大違い」「言うほど簡単ではない」というのが実際のところだ。
ワークショップだって、大人が作るようなものにどのくらい近づけたか比較すると、それは厳しいものとなるだろう。モニターからのフィードバックがどれだけ有益だったかも疑問だ。しかし、彼らなりに、プレゼンではないワークショップをイメージし、作り上げようとしていた。そのチャレンジに意味があると思いたい。
実際、授業後のふり返りには「よいワークショップ」についての気づきがたくさん書かれていた。

「よいワークショップとはどんなワークショップだと思いますか? そのために本番ではどうしていきたいですか?」についての生徒のコメント

◆お客さんをうまく誘導しながらも、お客さんに主体となってもらう学びの場だと思います。お客さんに主体となってもらおうとして学びが浅くなってしまったり、学びを深めてもらおうとするあまりお客さんが学ぶことに受け身となるだけになってしまうとあまり良いワークショップとは言えないと思うので、バランスが大切だと思います。
◆モニターが楽しくかつなにか学んで帰れるもの、ファシリテーターとモニターの間に意見交換などコミニュケーションがあるものだと思う。
◆いいワークショップとは、ファシリテーターとお客さんが等しく話したり、行動しつつ、お客さんだけでなく、ファシリテーターもたくさん気づきがあるワークショップだと思います。
◆お客さんがどうしたら楽しめるかのかを一番に考える。ワークショップをやる側も体験する側も同じテンションで温度差がなく、一緒に楽しめるワークショップにしていきたい。
◆きちんと計画が練られているもの。サプライズ(考えをくつがえすような)があるもの。教えるだけでなく、気づかせるもの。
◆相手に主権がある体験コーナー。楽しいもの。→一方的に発表して、体験しても何も言わせないものだと、プレゼンになってしまい楽しくない。
◆進行があいまいで、共感してもらうことができなかった。体験してもらうことが少なかったのも原因だったと思いました。雰囲気づくりを心がけたのですが、なかなか本番ではうまくいかなかった。
◆ロールプレイングをして、それが、やりっぱなしになってしまったので主催者側も意見を伝え、それをやった趣旨を説明するべきだと思いました。また、やってみてどうだったか意見を聞けると良いです。

つまり、「よいワークショップ」について
「わかっていて、できる」を最上級だとすると、
「わかっているけど、できない」をB
「わかっていないし、できていない」Cとすると、そのうちBくらいまでには、あと二時間の授業で到達させることができるのではないかと思う。

あとは、取り上げるワークショップの内容の質をどう高めていくかという問題がある。
やはり、たかだか3時間くらいでリサーチを済ますのはもったいなかった。あらかじめ決められた授業の制約上、仕方がないが、やはり総合的な学習の時間の活動とからめるなどして、全体で20時間くらいとって、もっと課題にどっぷりとつからせて、リサーチも十分にさせたものをワークショップとして取り組むべきなんだろう。その辺の浅さが露呈してしまったことは反省すべき点だ。

◆研究授業としてこの授業を取り上げてみて
授業をご覧いただいた方は気づいていると思うけど、この授業は「完成形」では決してない。「これはいい授業ですよ」「全国の学校でもそのままこれができますよ」というつもりはさらさらない。
自分の役割は、面白い授業を開発すること。研究授業では、その授業を「未完成」であってもたたき台、踏み台として提案し、「コミュニケーション・デザイン」のような現代的な課題に対する解決策を一歩進めるヒント(反面教師??)としてもらうことが使命だと思っている。(最後はちょっといいわけを……)

2015/10/18

「よく分からないけど、なんかいい」っていう嗅覚を大切にしたい

先日の、学術出版の編集者の方々とお話をして印象に残ったこと。
編集者の方は、自分が売り出そうとする本の内容を必ずしも理解をしているわけではないそうだ。(本の中身を理解できなくても売ろうとするというのが驚きだ。)でも、「何かこれは良さそう」という嗅覚は働くのだという。
この嗅覚通りに出版されて高い評価を得られれば、それは無上の喜びとなるし、そうでなければ商売としては失敗ということになってしまう。学術書の場合は、必ずしも大衆受けして「売れる」ことは念頭に置いていない、だから、他の出版よりも、かなり繊細な嗅覚が必要となるのだろう。むしろその嗅覚を楽しんでいるともいえる。
「大御所に執筆を依頼してそこそこ売れる本を作ること」や、「はじめから内容が分かっているような本を作るのは面白くない」ともいう。自分の嗅覚で「何かいい」という感覚をかぎつけることが重要であり、それに編集者の矜恃があるようだ。
 
実践も、研究も、本来はそういうものなのだろう。一番大切なのは「何かこれはいい!」とか、「お宝が埋まっているんじゃないか?」いう嗅覚を大切にすること。
それが言葉でうまく説明できるとか、ましては評価できるかどうかということは置いておいて、その「何か」に向けてじりじりと迫っていく。トリュフをかぎつける犬のように? くんくんと迫っていくようなものが、本来は一番わくわくするのだ。

「答えは人を分け隔てるが、問いは人を結びつける」

「答えは人を分け隔てるが、問いは人を結びつける」
何度でも引用したい言葉だ。(引用元は何だっけ??忘れちゃった。)

どうも話がかみ合わないなあと感じるとき、だいだい、この「問いのレベル」が違いすぎる、つまり共有できていないところに問題があるようだ。
こちらは大きな問題を考えようとしているのに、実に卑近な例で突っかかってくる、また、自分は具体を取り上げているんだけど、世の中を動かすような大きすぎる問いで構えてくる。そうすると、話がかみ合わなくなってしまう。
また、こちらは「問い」を問題にしようとているのに、相手は「答え」で応戦してくる場合もある。「私はこうしています」「ここではこうなっています」と。この場合も話がかみ合わない。「それで?」「だから?」といいたくなる。「自分のフィールド」を引っ張ってきて、「自分」を開陳する。それが「各自の勝手な都合」にすぎない場合、「問い」を深めることはできない。

合意形成とは、実は「答え」を他の人と一致させることではなく、「問い」のレベルをそろえることなのだ。「問い」のレベルさえ共有できれば、その時点でたいていの「答え」についても許容できるようになってくる。
合意形成とは「誰もが同じ考え(答え)を持つこと」ではなく、「誰もが同じレベルの問いに向かうこと」である。
とすれば、「市民の日本語」として重要なのは、他者の問いのレベルをつかまえようとすること、共有しようとする身振りにあるのではないか。解決策は、問いが共有できてから、それぞれが考えればよい。

2015/10/17

誰にでも通用する「幸せ」はないと気づくということ〜コミュニケーション・デザイン科のキモとは何か?〜

昨日の授業で印象的なことをがあったので忘れないうちに書いておく。
それは今、うちのコミュニケーション・デザイン科(総合みたいな学習活動)で取り組んでいる「QOL向上大作戦」の中のひとこまだった。
この授業では各グループが、自分たちのQOL(Quality of  Life・生活の質)を向上するための様々な取り組みをすすめている。活動の最終的なゴールは「学年内でQOLを向上させるためのミニワークショップをグループで運営する」というものだ。
各グループがどんなワークショップを開催するか、活動内容についての限定はしなかったため、テーマには中学生のさまざなな願望が投影されていて面白い。

・勉強で集中するためには?
・エナジードリンクを作る
・短くても効率的に睡眠する方法
・食べてもやせる方法
・1000円を幸せに使う方法?
など。

昨日の授業では、それぞれのテーマについて、各グループで調べてきたことを更に深めるために、ゲストティーチャーをお呼びし、その人たちに自分たちの探求内容について相談をするという学習を行った。お呼びしたのは、ベンチャー企業を応援する会社を起業した経営者の方、医師(栄養学の研究も)、心理学の研究者の三人だ。
ゲストティーチャーへの相談を通して何を一番学んだのか、それは、自分たちの活動内容についての意味や価値についての気づきだ。この活動が「どんなQOLを向上しているのか、ということについての思考の深まりだ。
たとえば「1000円を幸せに使う方法」をワークショップで参加者に伝えたいという活動をするグループがある。中学生の彼らが考えた当初のアイディアは、「1000円で効率的に、安くてお得に買い物をする方法」のようなものだった。しかし、それを経営者をしているゲストティーチャーはこう突っ込みを入れる。「1000円をどう使えばその人にとってのQOLが上がるのかというのを考えないとね、」と。
たとえば、「お金が増えるのが幸せだ」と考える人にとっては、その1000円を利殖に回すだろう。「1000円は人のために使いたい」と考える人は、1000円を募金に使うとその人のQOLは向上する。「効率的に使いたい」という人は、安くていい品物を手に入れることで生活が豊かになると感じる。つまり、お金の使い道ひとつとっても、その人の価値観や生活が反映されていく。

他のグループ「食べてもやせるための方法」についてワークショップをしようとしているグループでは、医師のゲストティー-チャートのやりとりでこんな場面があった。医師が「やせることがどうして必要なの?」と突っ込むと、ある生徒は、「いやあ、私みたいな人は、やっぱりちょっとやせないといけないなと思っているんですけど……○○ちゃんだったら必要ないとは思うけど……(と、同じグループのスリムな子を見ながら笑って)」と。そこでゲストティーチャーが、「やせるということよりは、その人にとって必要な最低限の栄養素はとるということを考えないといけないよね。」と。
この例は、「QOL向上ワークショップ」の一番の本質に迫る場面であったと思う。つまり、「QOLを向上させる」と考える前提には、「人それぞれの幸せがある」ということを想像しなければいけないということだ。こうして言葉に出してみると実に当たり前のことなんだけど、「幸せが人それぞれである」ことを理解してはいても、それを行動として、実践に移すことができるかは、大きな隔たりがあるようだ。

概して、中学生の発想は「自分が幸せになると感じることは、他の人も幸せになるはず」という単純なものが多い。いや、ひょっとしたら「他の人も」という発想さえなく「自分がやりたいこと」をやろうとしているのが素朴なモチベーションになっているのかもれない。しかし、そのような独りよがりではなく、その「自分にとっての幸せ」を、他の人と共有できるようにするためには、他の人の多様な考えや生活や生き方のようなものへの想像力を持つことが必要となる。その多様な生き方への省察が「QOL向上」のキモでもあり、いま、学校で取り組もうとしている「コミュニケーション・デザイン」のキモであるということは間違いないだろう。
「自分にとっていいこと」が「他のひとにとってもいいこと」とは限らない。他の人にとっての「いいこと」を想像すること、想像しようとすること。または、「自分にとってよいこと」を他の人とも共有し、分かち合っていくこと。そのプロセスこそ「分かち合い」としての「コミュニケ―ション」なのだ。

2015/10/07

授業の「かたさ」を考える

ここ最近、授業の様子を形容する言葉「かたい」「やわらかい」が気になっている。
実習生の、あまり上手くいっていない授業を見ると例外なく「かたい」という印象をえる。
そう考えると、一面においては、教師の熟達とは「かたい」授業から「やわらかさ」を獲得していくプロセスと言えなくも無い。
「かたい授業」とは、一体何がどう「かたい」のか。

・表情がかたい
→能面のように感情を表に出さない。生徒の反応を受け止め、それに対して教師が反応できない。

・授業の展開がかたい
→決まり切ったことしかせずに、授業の流れに変化が乏しい。臨機応変な脱線などが無い。

・表現がかたい
→言葉遣いや所作に、子ども相手にはふさわしくないようなフォーマルさがあり、他人行儀に感じられる。

・扱う内容がかたい
→取り上げる内容やエピソードなどが、生徒の実感などとかけ離れた「教科書的」なものとなっている。(いわゆるサブカル的なものへの目配せが皆無である)

など。もっとあるかな。
こう考えると、「かたさ」にもさまざまな要素があり、そのなかでも「やわらかく」していく方がいい場合と「かたい」からこそいいものがあるのかもしれない。クラスによる雰囲気の違い、教師の身体性やキャラクターの差違などとも密接に関わるものであるはずだ。

2015/10/06

教師も学習の輪に加わる

最近の流行に過ぎないのかもしれないけど、どうも、教師は子どもに勝手にやらせておくのが良い、教師が介入しなければしないほどよいという極端な物言いがあって、(もしそれを言葉通りに受け止めるとすれば) 何か物足りないなあという気がしていている。
かくいう私も、ひょっとしたら日本の平均的な授業スタイルよりもずっと「勝手にやらせている」ほうなのかもしれないけど、「介入しなければしないほどよい」なんていうことは、全く、これっぽっちも思っていない。
その理由はとてもシンプルだ。
私も一緒にその学習に参加したいから。
私も、学習者となって、学習の輪の一つとして加わっていたいという思いがあるから、子どもと同じように、話し合いに加わってつい発言をしてしまうし、ちょっかいも出してしまう。(それに多少の後ろめたさがないわけではないけど。)
「教師は手出しをしない方が良い」というのは、まあ、理屈としては理解ができなくもないけど、「学習ってそんな不自由なものなんですかね? 加わりたくなったら大人だって、教師だって学習に参加したっていいでしょ」と言いたくなってしまう。
だいたい、大人(教師)がちょっと発言したぐらいで、自分の考えを捨ててコントロールされてしまうような子どもを育てている方がずっと問題でしょ。
「アクティブラーニング」っていうくらいなら、どうして、教師自身がアクティブに学んでる姿を子どもたちに見せないんだろう。

2015/10/01

頻出度順の、慣用句、ことわざ、名言などの本が欲しい

現在、「論語」について本で調べ、それをアンソロジーとして編宇する学習に取り組んでいる。この学習の成否を大きく左右するのが、学習者がどんな資料に触れていくかという資料の選択にある。
「子どもに自由にアクセスさせ、その中から選ばせれば良い」ということもあるけど、それは理想論、というか、限られた時間で、効率的に、価値ある言葉と出会わせることが授業のねらいであるとするならば、それに見合った資料の選択がとても重要な要素となってくる。
私は次のような要素を加味して資料をそろえている。
①解説が平易でどの生徒にとっても抵抗感なく理解できる、分かりやすい資料。(3学年くらいレベルを下げ、学習者が簡単すぎると感じるくらいのものでちょうど良い)
②収録されているテキストが厳選されているもの。
③そのほか、装丁や見た目などの要素も考慮。文字がぎっしりと2段組とか、紙が焼けて茶色いような紙面のものでは読む気をなくしてしまう。
この①〜③のうち、意外に盲点なのが②だ。
ことわざや慣用句、名言などが必要以上に多すぎるものも困ってしまう。
たとえば、「ことわざ1万語収録の辞典」なんて、ことざわが何でも載っていて頼りがいがありそうだけれども、ほとんどの人が知らないようなことわざを覚えても、実生活でそんなマニアックなことわざを使っても相手にきょとんとされるのがオチだ。
必要最低限の、教養として知っておくと良い程度のボリュームの資料がちょうど良いのだ。そう考えると、概して、大人向けのことわざ、慣用句辞典のようなものは量が多すぎて使いにくい。マニアックすぎることわざに埋もれてしまうリスクがある。
頻出度順のことわざ、慣用句辞典のようなものがあれば、教材として願ったりかなったりなんだけど、探せばそういう本はあるのだろうか。

2015/09/28

いわゆる通知表の「所見」についての私見

一体、通知表の所見はいくつまで増えるのか?

小学校教諭の妻は、いま学期末の評価のかき入れどきらしい。家まで仕事を持ち帰って、家事の合間に遅くまで通知表の仕事をしている。昨夜は一体何時までかかっていたんだろう。先に寝てしまったので分からないほどだ。
通知表の何がそんなに忙しいかといえば、最近やたらと文章で書く評価が増えてきたかららしい。
・総合所見
・総合的な学習の時間
・英語活動
などなど。
総合所見だけでも生徒数分考えるのが大変なのに、それに輪を掛けて、総合、そして英語と、3倍の文量を書かなければいけなくなってきている。今後はさらに道徳の評価も文章でということになってくるのだろうか、うんざりしてしまう。
新しい教育が入るたんびに、新しい評価項目が入ってくる。そしてそれに教員は忙殺されていく。(でも評定の数字ほど、文章評価は読まれるのだろうかという疑念も……)
一体、通知表の所見はいくつまで増えるのだろうか?

文章表記と細かい評価観点と、どちらがいいのか?
帰国生の関係で、海外の現地校の通知表?指導要録?(のようなもの)を拝見する機会がある。
だいたい分厚い冊子で、教科ごとに細かい観点がわけられ、それぞれA・B・C・D・E……のような評価が付けられている。
日本では、国語科で言えばその評価が、5段階の評定と、5つの観点別評価のABCだけれども、海外は、おおむねその5倍くらいの量で評価項目を立てて評価をしているものが多い。もちろん、文章表記のものも多い。しかし決して文章による評価だけではなく、むしろ驚かされるのは、具体的な評価観点の豊富さにある。日本のように5つの観点だけでなく、20個ぐらいの観点のABCがあり、その上で文章表記の評価があるというわけだ。
日本ではそれと同じようなような評価は望むべくはないけれども、なんとなく、日本の評価観というものは「文章で書く評価はエライ」「数字で切る評価は手抜き」みたいな感覚がないだろうか。だから、新しい教育内容が入るたびに、「エライ」文章表記が増えてくるというからくりになっているし、「数値で評価したい!」と、それを大きな声で主張もできにくい風潮がある。
文章だから愛がある、数字だから冷たいというのは、評価の一面的な見方に過ぎない。どんな数値で評価するか、BにするかCを付けるか、一晩悩むぐらいのことは、どんな先生だってしているではないか。むしろ、文章のように曖昧にできない数字だからこそ、悩みに悩み抜くものなのではないだろうか。
いっそのこと、英語活動も、総合的な学習の時間も、数値で評価するべし。AからB、BからCのギリギリの選択のなかに、教師の迷いがあるし、愛だってあるはずだからだ。
もしそのリスクが大きいなら、曖昧な文章表記の文章を増やすのではなく、評価項目、評価観点を増やすようにするべし。そのほうが、こども本人や親からしてみれば、よっぽど分かりやすい、具体的なフィードバックになるのではないだろうか。

2015/09/22

もう当分、この手の研究はやめたほうがいいです。

今から15〜20年くらい?前、ある日本でも有数の規模である国語教育の研究会でEメールの授業の実践提案があった。(Windows95だったかな)
で、その実践は、新卒ペーペーのわたしから見ても「なんじゃこりゃ」「こんなのでも提案になるの?」というような惨憺たるものだった。コンピュータ室に生徒を集めて、ひたすらメールを打つというものだったからだ。
事後の協議会では「これが国語教育か?」「なんでわざわざPCを?」「手書きのほうがずっと効率的だ」という集中砲火を浴びたことはいうまでもない。
で、締めの言葉で、指導助言者の偉いセンセイが「もう当分この手の(ICTの)研究はやめたほうがいい」とまで言い放たれたというオチが付く。以後、その研究団体ではICT活用系の国語教育の実践はほとんど出てきていない。
歴史に「もし」が可能なら、もしそのとき、国語教育の御大が「まだこの手の研究は未成熟だから、もう少しこの研究を進めていこう」と号令したなら、随分見通しが変わっただろうなあという思いを強くする。
国語教育の実践家たちにとって、Eメールとは手紙指導の一環であり、ワープロとは原稿用紙の代わりであるという認識から捨てきれなかったのだろう。Eメールで「しか」できないこと、ワープロだから「こそ」できる「何か」に着目して研究を進めていたら、日本の国語教育はもう少し風通しが良くなったのだろうと夢想している。どうせならそういう研究を私はしていきたい。

2015/09/21

紙の本はクリティカルな読みに適している?

今日の授業で、ちょっとびっくりした場面があった。
あるグループの生徒たちが、複数の万葉集の本を見合いながらああだこうだと話し合っている。
「この訳は意味分からない」
「この解説は書いている人の思い入れを言っているだけの気がする。いまいち納得できない」
などと、自然と比べ読みをして、複数の解説本の表現を吟味しあっているではないか。
これがネットの調べだったら、すぐにコピペしておしまいにしてしまいそうな気がする。これが教師の解説を聞くだけの授業なら、そもそもクリティカルに聞こうという構えさえもたないだろう。
やはり紙だから、本だからこそ、それも、硬軟取り混ぜた本が揃っているからこそ、クリティカルに読むことが自然とできたのではないか?
司書さんが、土日に、この授業のために、あらゆるところから資料をかき集めてくださったことの真価に、私自身が気づくことができてよかった。

分からないことがなくなってからが教師の出番

あるクラスの授業。
今日の授業ではちょっと考えさせられる場面があった。
資料集で現代語訳を確認したあるグループ。そうしたら「先生、もう全部分かっちゃったから、調べることがありません」と言ってきたのだ。
俄然燃える私。
「分かったって言っているけど、もっと深く掘り下げられることはあるんじゃない?
例えば、「防人」の言葉の意味だけじゃなくて、何年間赴任しているとか、どんな人がかり出されるとか、そういうところまで調べれば、もっと作品の世界がよくイメージできるようになるよ。もっと分からないことがないか探してごらん」と。
せっかく探究できる時間を確保しているのだから、表面的な理解で終わらせるのではなく、ぐいぐいとテキストに食い込んでいくような学びをさせていきたい。そのためには、「分からないことがない」と生徒が言った後の教師の出方が必要だと思う。
追伸
山上憶良さんは何歳のときに子供を授かったか?
そこまで疑問に思わなかった私に、衝撃の事実を生徒が教えてくれた。まだまだ私も探求が甘い!

おばあちゃんのテクニック

某女子大前の道路沿いには、とっても古くからやっている庶民的なおまんじゅう屋がある。
見た目からしてかなり気合いが入っている。昭和の香り漂うお店だ。
通りかかるたんびに、気になって中を覗いみるんだけど、見ると、老夫婦がいつも一緒にテレビを見ながら番をしている。
どうしても気になったので、今日は勇気を振り絞って声をかけてみた。
「すいませーん。どら焼きと豆大福、二個ずつくださーい」
「あいよ。500円。」
と、ゆっくりゆっくり、パックにどら焼きと、豆大福を詰め込んでいる。1個130円。
あれっ、なんか変だぞ、これは、ひょっとして、おばあちゃん……。
「値段が違ってませんか」と言い出す前に、
「はい」と、袋とおつりを渡されてしまった。
あれは、おまけだったのか、それともお年寄りで計算がうまくできなかったのか。一体どっちなんだ?
とにかく、もやもやが残ってしまった。
そして、ちゃんと聞けなかった後ろめたさで胸がいっぱいになってしまった。
今度通りがかったときは、再び、絶対に、どら焼きと豆大福を購入しよう。そして、真相を突き止めてみせる!
あれっ、ひょっとして、これが、あのおばあちゃんのテクニックなのか? まさか!

しゃべるのが得意か、書くのが得意か。

どちらも同じような力を持っている人の方が少ないだろう。
例えば作文を書かせてみるとそれがよくわかる。
とっても饒舌で、立て板に水のように調子よく話すことのできる生徒が、なぜか文章を書くと支離滅裂だったり、全然書けなかったりする。
書くことが得意で、文章にして表現すると、とても整っているし理路整然と丁寧に書ける人が、しゃべりだと、しどろもどろになったりすることがある。
実際に上手かどうかはともかく、書く方が好き、しゃべる方がいいと、結構どちらかに分かれるのではないか。
そして現在のペーパーテスト中心の評価システムでは、話すこと優位な生徒は、話し合いの授業では活躍することができても、ペーパーテストでは圧倒的に不利になる。
こういう認知や表現の個人差を意識せずに、なんでも話し合い、なんでもアクティブとか、なんでもペーパーテストとすると困る生徒はたくさん出てくるのではないだろうか?

人が書くというのは憤りから

昨日お話ししたK島さんの言葉。
確かにそういうものかもしれない。
人は不如意と出会ったときに、やり場のない思いをなんとか吐き出したいと思う。そして誰かに分かって欲しいと願う。
人が強く「書きたい」「書かずにはいられない」と思うのは、ある意味「憤り」という生命の力から生み出されるものなのだろう。
普段、平々凡々と生活しているように感じ、さしたる不満も、憤りも、問題意識も感じない生活からは「書く」というパワーを引き出すのは難しい。
反対に、憤らずにはいられないような事態があっても、それに生命のパワーが圧倒されている場合もまた、書くことができなくなってしまう。そういうものなのだろう。
で、書かずにはいられない私は、何に憤っているんだ?

複数の解釈が成り立つのが万葉集の面白さ


万葉集は謎めいている。「主題」とか、「定説」というものの成立が難しい。これは明らかに違うという読みはあるが、「これはアリなんじゃない」という読みも多数提出され、そのどれもが魅惑的なのだ。
例えばこんな和歌がある。
春の野にすみれ摘みにと来し我そ
野をなつかしみ一夜寝にける
現代語訳すると、
春の野原にスミレを摘みにきたのだが、野辺の美しさに心ひかれて、ここでつい一夜を明かしてしまった。
という意味になる。
当然、読み手は
なぜ男がすみれを摘みに?
一晩寝るって、野宿?
いったいなぜそんなことを?
という疑問が湧き上がってくる。
で、ここから先はご想像にお任せして、となるんだけど、文献を漁ると、諸説紛々なところがまた面白い。ある歌人は、この歌は恋の歌で、すみれを女性に見立てていると主張していたり。
こういう類の作品解釈は、きっと永遠に定説は生まれないだろうし、むしろあれやこれやと想像を逞しくして読んでいくような楽しみ方こそが醍醐味なのだろう。
授業では、ただ意味をとらせるだけでなく、その先を想像していく、そして色々な説を参照させ、比較させて、自分の読みや定説を考えるような読み方をすることができる、そんな学習が可能なのが万葉集というテキストだ。

それでも明日学校がある。

2001年の911テロの時、私は新卒3年目だった。夜が白めるまで、友達とメールをしながらテレビに釘付けになっていたことを昨日のことのように思い出す。あのときは、もう世界が滅びるんじゃないかと本気で思ったけど、その翌朝にはいつもと変わらない朝がやってきて、いつもの通りの時間割の授業をこなしていた。そのことが何とも奇妙に映った。外国が戦争になるくらいでは、中学校は休みにならないものらしいのだ。
ひるがえって2015年。今日も、そして明日も、学校はある。日本が大きく変わろうとするこの一日にも、それには動ぜずに、中学校は動いていく。それがとても頼もしいことにも思えるし、これでいいのかという漠然とした不安もある。社会とはかけ離れても教育ができたかつての学校は、時代は、幸福すぎたようだった。

その時々の完成がある。

今日から二日間の「生徒祭」。うちの学校は文化祭はなく、代わりに生徒祭が行われる。学級を解体して好きな生徒同士でグループを作り、思い思いのパフォーマンスを繰り広げる。そこに教師の手はほとんど(全く?)入らない。入りようがない。生徒同士で作る方がよっぽどクオリティーが高いからだ。
こういう子供たちの姿を目の当たりにしていると、人間とは、大人に向かって成長していく、完成に向かっていくというよりは、その時々が完成形であり、その時々にしか表すことのできない輝きを持っているのだという思いを強く感じる。三十代の大人が「文化祭」をやってもパロディーにしかならないだろう。中学生たちは十代のこの時期だからこそ、この時期にしか表せない輝きを表現しているのだ。大人のまねごとなんかでは決してない。
生徒祭はあと一日。私が普段関わる三年生たちにとって、中学校最後のイベントとなる。彼らのまぶしい姿を、あともう一日だけ見ることができそうだ。

これを好むものは、これを楽しむものにしかず。

今日の生徒祭で三年生の様子を見て感心したことは、「勝ち負け」にちっとも頓着していないということだ。
うちの生徒祭は、毎年、来場者から、どのグループが一番良かったか投票してもらうシステムになっている。その順位に一喜一憂している姿が見られるのが、恒例となっていた。
しかし今年は、その順位発表にほとんど反応がなかった。勝ち負けなんていうものよりも、純粋に楽しんでいたのだろう。
多くの実行委員も、生徒祭の期間中、「楽しんでやりましょう」と生徒たちに伝えていた。それは意図的なものではない。「勝ち負け」よりも「楽しむ」というのは、多くの生徒にとって共感できる価値観となっているのだろう。
かつて(何年前だ?〕勝ち負けが絡むような取り組みで「楽しもう」とおおっぴらにいうのは、やや憚られていた風潮もあった。しかし今は違う。相対的な位置付けや評価よりも、自分たちの充実感に価値が置かれるようになってきている。そういう「絶対評価」がすっかり定着してきたとも言えるのだろうか?
それに良し悪しはあろうが「これを楽しむものにしかず」という真理は、古来から、人生を豊かに生きるための知恵であることは間違いない。

2015/09/04

万葉集は偏愛の古典。


色々な意味で、日本人にとって奇跡の詩集だと思う。世界遺産にしたっていい。誇るべき遺産だ。
なにがいいって、古典のなかでも群を抜いて親しみやすさがあるからなのだ。
万葉仮名とか、古代日本語とか、内容理解までのハードルは高いのは仕方がない。けれども、一度意味が取れれば、思わずはっとさせられたり、ほっこりとしてしまう作品がとても多い。
それは万葉集が庶民の歌がたくさん、しかも天皇、貴族と同等に並べられているという点にある。その庶民の作品が抜群に愛らしい。
例えば、教科書にはこんな和歌が掲載されている。「東歌」という東国の庶民が歌った作品だ。

「信濃道は今の墾り道
刈りばねに足踏ましなむ
沓履けわが背」
(信濃道は新しく作られた道。切り株に足をくじかないでね。靴履いていってね。わが夫。)
こんな感じで、遠くへ旅立つ夫をもつ妻のつぶやきが歌われている。まるで、単身赴任するだんなに口うるさく??指図している妻の姿が目に浮かんでくる。 きっと夫のことが大好きで、そして心配なんだろう。ああ、愛らしい、そして可愛らしい。こんな作品を偶然見つけてしまうと、思わずほっこりしてしまうの だ。
万葉集は、私たちのような庶民の目線で、人生の哀感、喜怒哀楽を素朴に歌っている。千年もの時を隔てた古典のなかで、今も昔も変わらない人間の情感、あわれさを感じると、それがたまらない味わいとなる。
定年退職したら、毎日、万葉集をちびちび読む余生を送るのが夢だ。歌枕巡りもいいかな。

古文の訳文はなんとかならないか?

昨日同僚の先生と話題になったのは、古文解釈の、あの直訳体のいけてなさだ。
古文は(に限らず、どんな文章もそうだけど)文体によってえらく親しみやすさが変わってくる。同じ古典でも訳し方によって印象が一変する。
たとえば、徒然草だったら、橋本治さんのふてぶてしい文体が最高。あれで私は徒然草に開眼した。万葉集なら「song of Life〜コンテンポラリーレミックス、和歌〜」だ。
しかし、教科書の直訳体は、どう書けばこんなにつまらないんだろうと思うほど、いけてない。これでは古文嫌いが量産されるのも仕方がない。
最近、角川のビギナーズクラシックスシリーズなどの意欲的な訳文が出回りつつある。一般書でもだいぶ古典の訳本が増えてきた。
授業でも、いや、授業でこそ、古典作品の魅力を十二分に引き出す訳文が必要なのではないだろうか?

2015/09/03

中学生が中学生に授業する和歌の学習

和歌の学習は正直きつい。
何がきついって、いくつもの作品(教科書には20首程度採録されている)の解説を、ひたすらやらないといけないからだ。どうしても単調になる。
かといって、古典なので、生徒に任せっきりで活動させても、どこまで正確に理解させることができるかも不安だ。任せっきりでも不安、ひたすら説明し続けても寝てしまう。諸刃の剣だ。
そこで、苦肉の策だけれども、生徒に授業をさせてみることにした。
発表ではなく「授業」、「授業風プレゼン」といったほうがいいかな。

次の流れで行う予定。
1時間目
①和歌についての基本的な事項の確認。
 これは一斉授業で、私が効率的に教えてしまう。
②教科書に掲載されている和歌のうち、三首を選んで感想を書く。
 感想カードを用意し、それぞれの和歌ごとに感想を集める。

2・3時間目
①教科書に掲載されている和歌8首の疑問点をグループで出し合う。
脚注を読めば分かることではなく、しっかりと読み取ったり、イメージしないと分からないような疑問点を考えさせる。
グループで全ての和歌について疑問点を出し、疑問カードに記入する。

②8首をグループで分担し、授業案を考える。
1時間目で書いた感想カード、2時間目の①で書いた疑問カードを、和歌の作品ごとに分け、それぞれの和歌を分担したグループに渡す。
各グループでは、その感想や疑問を切り口に、授業プランを考える。
学校図書館の資料などを活用し「教材研究」をする。

②それぞれの作品ごとに「授業風プレゼン」を行う。
「授業風プレゼン」に必ず入れる内容
・和歌の音読(オプション:皆さんで音読をご一緒に!)
・クラスから出た感想の紹介
・疑問点とそれについての解説(オプション:抜き打ち指名も!)
・和歌の意味について
※なお、授業ではホワイトボードか電子黒板(iPadなどで撮った画面を拡大提示する)をつかえるように準備しておく。

こんな感じで「授業風プレゼン」をやらせてみようと思っている。
さて、どうなることだろうか。

2015/08/25

疑問が湧いてくる授業

何か質問はありますか?

といって、質問が出ることは滅多にない。
だからといって、教師は「質問が出なくてよかった。疑問は氷解した」と思っていいのだろうか?
ほとんどの授業は、最終的には「質問が出ないこと」を目的に行われる。
その常識を疑ってみたい。
学問は、知の世界は、質問、疑問によって発展してきた。
「質問はありませんか?」と聞かれて、黙って分かったつもりになっている態度からは、決して知は生み出されない。
だから、授業のゴールを「質問、疑問が出なくなること」とするのではなく、「質問、疑問が湧いてくること」をゴールにしてみるのだ。
教師を困らせるくらいの質問を、深い疑問を、この一時間の授業で考えてごらん、と。
そんな授業はどうやったらできるのだろうか?

国語の話し合いと社会の話し合いでは何が違うのか?

「言語活動の充実」が言われ出してから、それぞれの教科で話し合い活動が取り入れられるようになってきた。
国語以外の教科の授業で話し合いの活動を参観する機会が増えた。他教科の授業で話し合いが行われていると、私はつい国語科的な視点で見てしまう。
国語科と、他の教科での授業での話し合い活動は何が違うのだろうか。
私が最も感銘を受けたのは、ある社会科の授業だった。
その授業では、原発問題について、グループで解決策を話し合う活動をしていた。でも、やはり問題があまりにも難しく、話し合いは一向に進まない。ついに黙りあってしまうグループもあるほどだった。
授業後、国語科の私と、社会科の先生の授業に対する評価は正反対なものだった。
「あれだけ沈黙して考えることができたから、この課題はよかったんだ」と。
国語科的な視点で話し合いを考えると、どうしても、教師はあの手この手で話をさせようとする。発言が止まってしまったり、盛り上がらなかったりしたらひやひやしてしまう。しかし、社会科の授業ではそうではなかった。
話している言葉の量、会話の盛り上がりではなく、どれだけ真剣に考えていたか、課題と向き合おうとしていたかを問題にしていたのだ。だから黙っていても思考は働いていればいいし、表面的な発言量は問題にはならないのだ。あの社会の授業は、話し合い活動について目を開かされた出来事だった。

2015/08/22

ギャンブルには夢があるか?

空襲から命からがら生き延びた、まんじゅう屋の祖父は、若い頃よく千葉けいりんに入り浸っていたそうだ。
我が子(つまり私の父)が盲腸になって、のたうち回っていたとき、その手術代を稼ぎ出したのも千葉けいりんだった。そんな祖父の博才に由来する武勇伝を、89歳で亡くなるまで私は何度となく聞かされた。
博打もまんじゅう屋もいまいちで、結局店を潰した子(つまり父)は、やはり若い頃パチンコにはまっていた。私もよく京成千葉駅のパチンコ屋に連れられていったことを思い出す。
しかしある時期から父は、ぱたっとギャンブルから足を洗う。それは、パチンコにはまる自分のそばで、幼い我が子(つまり私)が、床にはいはいしながら、落ちている銀玉を拾って打ち出そうとしたのを見たからだったという。
そんな父は、現在では宝くじを買うのをささやかな慰みとしている。
会うたびに「東京のマンション買ってやろうか?」が口癖だ。「こんど、サマージャンボ当ててやるからな!」というおまけつきで。
きっと、パチンコも、宝くじも、競輪も競馬も、一切やらない人生だったら、ずっと色々ものにお金使えただろうなあ、勿体無い!と思うんだけど、もちろんそんなことは口が裂けても言えない。
私はギャンブルには手を出していないけど、それにはまる理由は遺伝的に理解している。
きっと、欲してるのはお金ではない。いわんや未来ではない。結果が明らかになるまでのつかぬまのひととき、今、わくわくしていたいという気持ちなのだ。
だから父は「宝くじを買ったよ」ということは言うけど「当たったよ」「外れたよ」という結果を話すことほとんどない。本人も、買ったという今、期待しているというひととき以上に、当たり外れの結果にはそれほど関心がないのかもしれない。
でもいつか東京のマンションを買ってほしいと、子供はひそかに期待している。

学校で一番大切な時間は、休み時間!

学校生活で一番大切な時間って? 授業? 部活動? 掃除? ホームルーム…… 
いささか逆説的かもしれないけど、それは「休み時間」だと私は思っている。「休み時間」を過ごすために学校に来ているのだ。そう信じて疑わない。
勉強が得意な生徒も、そうでない生徒も、休み時間はどの生徒も自由でいられる、楽しむことができる、のびのびできる。そういうクラスならば、きっと授業でも、他の活動でも、自由でのびのびと取り組むことができるはずだ。休み時間が充実していない、心が満たされないクラス、学校ほど、窮屈なものはない。
これは煎じ詰めれば、人生の価値にもつながってくる。
あなたは仕事をしている時間と、それから解放されて自由でいられる時間と、どちらの時間が自分にとって価値があると思うだろうか……そう考えると自ずと答えは出てくるのだ。
だから、どんな練りに練った授業よりも、子どもたちが楽しみにしている休み時間よりは価値がないと思っているから、私はよっぽどのことがない限り、休み時間を削って授業を延長することはない。
だから、どんなに素晴らしい学級経営でも、休み時間が悲惨なものとなっていれば、それは失敗だ。

2015/08/20

Appleミュージックはアリか?〜クラシックの場合〜

Appleミュージックとは、毎月千円足らずの定額で、あらゆる音源が聴き放題になるサービスである。
このサービス、三ヶ月間はお試し期間で無料で利用できるので早速登録してみた。その一ヶ月間の感想である。

で、結論。これはやめられない。
とくに、以下のようなクラシック好きの聴き手にとっては魅力的なサービスとなることだろう。とくにクラシックファンに向けてレビューを書いてみる。

1、聴き比べが好き
クラシックの醍醐味は何と言っても聴き比べだろう。同じ作品を、他の指揮者は、他のオーケストラは、ソリストはどのように演奏するのか、その微妙な解釈の違いを楽しむのが王道だ。
そんな聴き方をする人はAppleミュージックはうってつけだ、なんといっても、一つの作品を検索すると、古今東西、名盤からマイナー盤までズラッと並んだラインナップの中から選ぶことができるのだ。私の好きな「マタイ受難曲」を検索したら、何十タイトルもの中から選んで聴くことができたのには感動した。単なる摘み食い的なチェックのためだとしても月千円の元はすぐに取れてしまうだろう。(もちろん、YouTubeのようなストリーミングで聴くだけでなく、iPhoneやiPadなどの端末にもダウンロードし、保存することができる)

2、マイナー作品も聴いてみたい
マタイ受難曲のような有名な作品だけでなく、聴いたこともないような作品にも触れることができる。かなりマイナー作品をカバーしている。私は、CDを買うにはやや勇気がいる現代作品や、普段はあまり聴かないオペラ、ジャズなどの他ジャンルにも気軽にチャレンジしてみようという気になった。
このAppleミュージックのおかげで、もうすでに何人ものお気に入りのミュージシャンを見つけてしまった。

3、CDの管理が不要!
音楽好きなら、ウン10年も聴き続けていたらきっと部屋中がCDの山だろう。聴いているうちに、傷をつけてしまっったり、どこかに無くしてしまったりして管理が面倒だと感じている人もいるかもしれない。そんなものぐさな人にこそAppleミュージックはオススメだ。CDやレコードのような高音質は期待できないが、それさえ気にしなければ、溢れかえるCDの山からすぐに解放される。聴きたいときに、聴きたい作品をすぐに聴くことができる。これはかなり心地いい体験なのだ。騒がしい通勤電車内で音楽を楽しむような人にとっては、まさにうってつけのサービスだろう。

どうですか? なかなかいいでしょう? 是非一度お試しを。


2015/08/19

異国における異文化を受容する方略に関する一考察〜これはこれでありだよね体験〜

旅先で強烈に体験する異文化の筆頭にあげられるのが食事だろう。
どんなに風光明媚でも、趣きのある遺跡があっても、現地の食べ物が「うっ」というものだと、旅行期間中はある程度は気合を入れなければいけなくなる。それでハラを壊したら旅行どころではなくなる。つまり我々は「食べる」という行為を通して、旅行者は異文化をどう受け入れるかが試されているというわけだ。
異文化である食事をどのように楽しんでいけばいいか、おおよそ、次の5つのパターンがあろうかと思う。

1、「和食だったら…‥みたいなものかな?」パターン
例)「インド人にとってのカレーって、日本だったら味噌と醤油みたいなものでしょ?」
このように、日頃親しんだ食事のスキーマに当てはめて、異文化を理解しようという方略である。

2、「この料理に醤油かければいけるでしょ」パターン
他の例)「これにマヨネースがあれば最高!」
このように、既存の文化を日本の食文化で染め上げるという態度である。実際に海外にマヨネーズや醤油を持参するという荒業もある。やや文化侵略的な後ろめたさが伴う。

3、「これはこれで、こういう食べ物だと思えばありかも」パターン
例)「メロンに生ハムって…‥、こういう食べ物だと思えばありかも。」
このように、メロン=単品のデザートという固定観念にとらわれずに、現地の食習慣、食文化の文脈で味わおうとする態度である。こういう発想で攻略できれば、その現地での食事をかなり楽しむことが可能になる。

4、「食べても死ぬわけじゃないから、大丈夫」パターン
どうしても切羽詰まった場合に使う方略。大丈夫だと思っていたらあとで本当に危なくなって腹を壊してしまうこともしばしばあるから要注意。

5、「来世に◯◯人にうまれ変わったら食べよう」パターン
パターン4まで努力してもどうしても喉を通らないことがある。
イヌを食べたり、サルの脳みそを食べる国もある。
そういう国に出かけたときは、泣く泣く、5の方略を選択して食事は遠慮することとなる。

この5つのパターン、たかが食事、されど食事。食文化を通して、異文化と向き合うときの姿勢や心構えを示していると言ったらいいすぎだろうか。
願わくば、どんな異文化に直面したときでも「これはこれでありだよね」「こういうものだと思えば味わえるよね」と思えるくらいの懐の広さは持ちたいものだ。



2015/08/11

見るアホウから踊るアホウへ

昨日懇親会でお話しした、徳島の先生のお話しが興味深かった。
昨年までは中学校の校長、今年からは、ある大学の教員をやっている。とてもパワフルな女性の先生で新しいものもいいと思ったらすぐ取り入れていく。
今年の提案では、校長として学校をあげて「ホワイトボードミーティング」に取り組んだ学活の実践を提案されていた。
その先生が、しみじみと語っていた。
「この研究会って、偉い先生の教えをみんなで学んでいくという会ではなくて、みんなが自分なりに学んできたこと、工夫してきたことを学び合うところがいいと思うんですよね。どうせなら、見るアホウじゃなくて、みんなで踊るアホウになる方が楽しいでしょ」と。
だから、どんな実践でも、いいものはいいと受け入れるし、そうでないものはダメと批判される。
若手が提案して、それを大御所が上から教えを垂れて指導するスタイルではない。よくある教師向けのセミナーのように、すごい先生の話を一方的に聞いて学ぶというものでもない。ワカモノも、ベテランも、小中学校の教員も、大学の教授も、全く同じ時間のワクのなかで、今まで学んできたことを提案しあい、協議しあう。
とかく流派や派閥にとらわれがちな国語教育において、こういうゆるい研究会は、地方レベルではあるのかもしれないけど、全国レベルで実践家や研究者が集まるのはほとんどないのではないか、そしてそれがどうして難しいのか、なかなかに考えさせられるお話しだった。

2015/08/10

能力をより繊細に定義することができるか

授業研究は、面白い授業、効果的な授業について探るのは当たり前のことなんだけれども、それをもっと突き詰めていくと、どんな能力を取り上げるべきかという能力論に行き着く。
例えば「聞く力」について授業で取り上げるとして、それにはどんな能力があるか、ひとことで「聞く力」といっても、その中には無数の能力が埋め込まれているはずだ。
それの具体を一つ一つ取りだし、学習者にどの能力がついていて、どれが足りていないのか、「聞く力」のどんな系統が考えられるのかを繊細に捉えられているだろうか。こういう能力論に対する分析、考察は、系統主義だろうと、経験主義だろうと、どちらのスタンスに立つにせよ、およそ授業を考えていく際に避けることのできない不可欠な要素だ。
「学習指導要領に書いてあるから」も一つの根拠にはなりうるけど、それだけでは目の前の学習者をみとることはとうていできない。それでも学習指導要領はかなりよく書けているから(個人であれほどの系統性を立ててカリキュラムを作れる研究者はいないだろう)、それを参考にしつつも、よりかみ砕いて、より繊細に、授業ごとにカスタマイズしていくことが重要なのだろう。

話題に論理がくっついてくる〜絵日記を論理的に書かせる愚〜

論理的に話したい、書かせたい場合は、論理的な文章が引き出されるような話題、テーマを設定することが最大のポイントだ。
授業で往々にして見落としがちなことは、論理的な文章の「形式」はしっかりと教えているんだけど、それを活用する「内容」、つまり話題、テーマの選択がいまいちで、そんなテーマじゃあ、論理的なものにならないよ、というようなものとなっているということだ。
例えば、「論理的な文章」で「夏休みの絵日記」を書くことはできるだろうか、できるかもしれないけど、それはかなり無理があるテーマじゃないかな。論理的にする必要性が感じられないし、論理を積み上げるというよりも、時系列的に、描写的に書く、物語という文体が似つかわしい。
こういう例に限らず、全ての表現は、形式と内容が密接不可分なものとして考えるべきだ、(考えてみれば当たり前なことだ。何かの「メッセージ」を伝えたいために「形式(文体)」を選択するのが自然な表現行為の流れなのだろう)だから、「論理的な文章」という形式を教えたいという場合は、どういうテーマだったら論理的な表現が必要感と必然性をもって引き出されるかということこそ、まず第一に教師は考えるべきなのだろうし、そのテーマの設定にこそ教師のセンスが求められる。
(ここでは「論理的」を例に挙げたけど、談話でも、他の文体でも全く同じだ)

2015/08/05

会話分析の知見から「きくこと」を捉え直す

 聞き手の力、質問の力とは何なのか。これまでぼんやりと考え続けてきた。聴衆に向かって一方的に話すプレゼンのような独話と、話し手と聞き手が質疑応答をしあう、やりとりのある対話的活動とは何かが違うようだ。そこには、話し手、聞き手の構えが本質的に異なるのではないか。
 調べていくうちに、社会学の領域では会話分析、さらにそこから発展したエスノメソドロジーという学問領域があるというのを知った。エスノメソドロジーとは人々(エスノ)が暗黙のうちに従っているルールや規範などの方法(メソッド)を記述する学問のことをいう。会話分析では、人と人との会話のやりとりに焦点を当て、会話に潜む目に見えないルールの存在を次々と明らかにしていっている。この会話分析の知見から、授業改善へのヒントを得ることができるかもしれない。

会話分析の入門書としては以下の三冊がおすすめ。






「会話の順番取りシステム」と聞き手の価値
 会話分析が明らかにした基本的な会話のルールに「一度に話せるのは一人」というものがある。考えてみれば当然のことだ。どんなに大勢でも、聖徳太子のような人が相手でない限り、話す人は一人だけだ。だから会話とは「一人の話し手と、一人または複数の聞き手が、何度も入れ替わる発話のやりとり」であると定義することができる。そしてその素朴な発見から、会話分析の研究が大きく進んでいくことになる。それは「話し手がいつ交代できるかというタイミング(完了点)のルール」と、「話し手が交替するときに、次に誰が話すか決めるルール(会話の順番取りシステム)」についての知見である。(H.サックス)

会話の順番取りシステム(次に話す人はどのようにして決まるか?)

A 現在の話し手が次の話し手を選べば、その選ばれた人に話す権利と義務があり、順番がかわる。

B 現在の話し手が次の話し手を選ばなかったら、最初に話し出した人が話す権利があり、順番がかわる。

C AでもBでもない場合は、現在の話し手がそのまま話を続けることができる。


 このように、自由な会話の中では、発言する順番は上記の見えないルールが存在していることが明らかになっている。この場合の「次に話す人を選ぶ」というのは、普段の生活では、必ずしも具体的に指名をしたり、挙手をさせたりするわけではない。日常では、指名や挙手の代わりに、話し手や聞き手の目配せやうなずき、身体の向きといった微細な身振りが順番交代の合図として機能している。
この「会話の順番取りシステム」の知見として重要なのは、会話は、誰かが一方的に話したり、他の人が聞いたりする行為であるととらえるのではなく、双方が話し手(聞き手)となる可能性を常に持っているという前提があるということである。「会話という場」に参加する人々が、いつでも交換可能な存在として、発話のタイミングをはかっている「駆け引き」が行われていると捉えるということだ。
 会話分析における話し手と聞き手との関係ついて、西阪(2009)は「活動の空間的および連鎖的な組織: 話し手と聞き手の相互行為再考」『認知科学』16-1: 65-77.」のなかで、

 「会話分析」の伝統においては、相互行為における発言の組織が、話し手の一方的な決断にもとづくのではなく、つねに聞き手との協働のもとで成し遂げられること、このことが当初よりその主張の中心にある。

とのべ、具体的に、会話における聞き手の役割を次のように述べている。

 現在の話し手が、次の話し手の選択を行っていない場合、現在の順番の実際の終了は、いずれかの聞き手が、その可能な完了点において自ら話し始めるかどうかにかかっている。つまり、現在の発言順番がどのような大きさとなるかは、しばしば聞き手の出方に依存している。
 (中略)
 あるいは、可能な完了点(筆者注 会話が終わりそうなタイミング)において、聞き手はあえて「順番を取るのを控えること」をすることがある。例えば、現在の発言が可能な完了点にいたったとき、聞き手は「ん」とか「ええ」とだけ言うことがある。そうすることで、一方で、自分が順番を取ってもよい場所がいま出現しているという理解を明らかにしつつ、他方で、その場所で実質的な順番を取ることなく、順番交替の機会をあえてやり過ごす。こうして現在の話し手はさらに発言し続けるよう、いわば促される。だから、可能な完了点を超えて発言が続くという事実も、聞き手との協働の産物でありうる。

 このように、会話分析の立場から「聞き手」の役割をとらえると、そこに「話し手」を支える「聞き手」の能動的な存在を再確認することができる。「聞き手」はいつでも「話し手」に交代しうる、「待機する」存在であった。それは裏を返せば「聞き手」の沈黙は「黙って行儀良く聞いている」というだけではなく、「あなたが話し続けていいですよ」「あなたに話す権利を委譲しますよ」という承認や支持、促進のメッセージとしても機能することも示す。これは、一方的に話し、それを一方的にきくスピーチなどの「独話」とは大きく異なる対話の特徴なのではないか。(より本質的には「スピーチ」も聞き手との対話なのだろうが) 聞き手が話し手と場を共有すること、そこで聞き手として「待っている」こと。話し手の話を「期待」しながら聞き、いつでも聞き手がその会話に介入しうる、「待機する」存在の呈示そのものが、「話し手」の自律と責任を促す。その両者の駆け引きの緊張感こそが「話しがい」のある関係性となっていくのではないか。会話における「聞き手」とは、このように会話という相互行為の場において「待機」し「期待」して、引き出されていく話し手の語りを「待つ」人であるということができる。

鷲田清一も「聴く」「待つ」ことの価値について論述している





②生き生きとした対話を引き出す「隣接ペア」

もう一つ、会話分析が明らかにした重要な知見は、どのような言語であっても、会話のやりとりには連鎖的につながるパターン(「隣接ペア」という)が存在するというものだ。例えば、目の前にいる人が「こんにちは!」と挨拶をしてくれば、見知らぬ人とでも反射的に挨拶を返さなければと感じるだろう。挨拶のような決まり文句は「隣接ペア」の分かりやすい例であるが、それだけに限らず、我々の会話のなかには、依頼ー受諾、提案—承認、質問—応答、激励—感謝などの「投げかけ—応答」の連鎖的なパターンがあり、その隣接ペアのパターン、ルールに従いながら会話をしていることが明らかになっている。
 たとえば、「ただいま」と言えば、「お帰りなさい」とこたえる。この「お帰りなさい」という言葉(第二発話)は、「ただいま」という発話(第一発話)によって引き出された言葉である。投げかけられる第一発話によって、第二発話はあらかじめ規定されている。その隣接ペアのルールをあえて破って会話をしていくことは、実は容易なことではない。(相手に失礼に感じさせたり、ちぐはぐした会話になる)何気ない会話のなかにも「隣接ペア」というルールが厳然と存在している。 
隣接ペアのルール
 ①2つの発話からなる。       
(例「ただいま」(第1)—「おかえりなさい」(第2)
 ②それぞれの発話は隣り合っている。
 (隣り合う=連続して発話される)
 ③第1発話と第2発話の話者は異なる。
 ④第1発話の次に第2発話が来る。
 ⑤第2発話は、第1発話の影響を強く受ける。
この知見によって我々が学ぶことができるのは、会話には、お互いが自由に、好きなように発言をしているように見えて、その中には無数の「隣接ペア」のような「投げかけ—応答」のフォーマットがあるということだ。これを対話学習に活用できないだろうか。
 しばしば教室での「交流」が、順に自分の考えを述べ合うというような、情報の報告会に終始するのは、そこに生き生きとした対話(話し手と聞き手とが相互にやりとりし合う)が存在しないからではないか。
 生き生きとした対話、相互作用の場とするためには、「投げかけー応答」などの「隣接ペア」の活用が効果的である。たとえば、意見を順に報告し合う「独話」スタイルの交流から、「質疑—応答」「提案—承認」「勧誘—受諾」のような「隣接ペア」の埋め込まれた「対話」スタイルへと意図的に変えていくのだ。
 意見や感想を一方的に伝えるよりも、「聞き手」からの依頼や質問をうけて、それに応じて「話し手」が語り出すスタイルにした方が話し手のモチベーションは高くなる。そして対話が引き出されていくものである。「聞き手」を一方的な情報の受け手とするのではなく、「話し手」との対話を促す存在へと変えていくために、やりとりを生み出す「隣接ペア」のフォーマットを意識的に活用することが有効である。

③「成員カテゴリー化装置」によってコミュニケーションをずらす
 最後に、会話分析から得られる知見として有益だと思われるものを一つ取り上げる。それは「成員カテゴリー化」という概念である。「成員カテゴリー化」とは、会話を通して話し手、聞き手の立ち位置が自然と浮かび上がってくる作用を指す。
 例えば、筆者は中年男性であり、夫であり、千葉県出身であり……というさまざまなカテゴリーに属する主体である。しかし、学校という制度的な空間の中で、15歳の少年と会話をする、そのやりとりの中において、筆者は「中学校教師」となり、15歳少年は「生徒」というカテゴリーに属することになる。「成員カテゴリー化装置」とはそのように、会話などの相互作用を通して立ち現れてくる立ち位置や役割をうながす暗黙のシステムを指す。この「成員カテゴリー化装置」には以下のルールが内包されている。

「成員カテゴリー化装置」の運用ルール
【経済規則】 ある人を特徴付けるには一つのカテゴリー集合で十分である。
【一貫性規則】同一の場面内であれば、ある集団に含まれる人がカテゴリー化される場合、最初の人に適応されたカテゴリー集合が以下の人にも適応される。
この運用ルールからわかるように、人とのコミュニケーションにおいては、そのコミュニケーションのやりとりを通じて、自ずとお互いの立ち位置や役割が一つに規定され、そしてその規定に沿って行動や会話が仕向けられるということである。
 重要なのは、そのような役割や立ち位置が、初めから決まっているわけではないということだ。人は、会話を通して、複数のカテゴリー(男性、夫、教師etc.)の中から、一つのシンプルな役割(中学校教師)に導かれていく。筆者が「教師」でいられるのは、社会的な身分だけでなく、より本質的には、生徒や同僚とのあいだで「教師らしく」会話し、振る舞っているからに他ならない。また、そのようなカテゴリーに属していることによって、状況や関係性に埋め込まれている固有のコミュニケーションの様式を、自然に身につけていくことになる。(教師らしく話せるようになってくる)
 さて、この「成員カテゴリー化」という概念を、学習にどのように活用していくことができるだろうか。
 「中学生」は、コミュニティーの中でさまざまな表情を見せる。学校の中では「生徒」として、家庭では「子ども」として、部活動では「先輩」としてetc.……それらの相互の関係性がコミュニケーションの質を、表現の幅を規定している。実社会では、教師は教師らしく、医師は医師、芸能レポーターは……それぞれが、それぞれの社会的な立場に応じたコミュニケーションの様式、スタイル(文体)を獲得し、活用している。
 中学生が豊かなコミュニケーションを学び、生み出すためには、「生徒」というカテゴリーをずらし、多様な関係性と、さまざまなコミュニケーションのスタイルを学ぶ場を与えることが効果的なのではないか。たとえば、擬似的ではあるが、生徒がニュースキャスターになってリポートしてみる、親と子の関係を演じてみるなど。このようにして「生徒」というカテゴリーをずらし、話し手、聞き手の関係性をずらしてみることによって、日常生活に埋め込まれたコミュニケーションの暗黙の前提を振りかえる契機となるのではないか。このような視点に立てば、「成員カテゴリー化装置」の概念を、授業改善のヒントとして活用することが可能となる。
 このように、会話分析の知見(会話の順番取り、隣接ペア、成員カテゴリー化装置)から、授業を開発するためのヒントとしていきたい。

人間関係と「会話の輪」

よくコミュニケーション教育の文脈では、人と人との親和的な関係とか信頼感が重要だと言われる。
それはそれでおおむね間違いないんだけど、本当に現実はそれだけなのかということについては一考する価値があるだろう。
たとえば「会話の輪に入る」「会話の輪に入れない」とか「蚊帳の外にいる」という感覚がある。(この場合「輪」とは一対一ではなく三人以上のコミュニケーションの中で、一人が疎外感を感じるような状況をいうことに注意して欲しい。)
それは、イコール人間関係ができていないからだ、と言い切れるのか?
たとえば、親子三人で会話をしている。と、その親子の会話が、ふとしたきっかけで夫婦の会話になった、そのときに、「会話の輪」から外れた子供は蚊帳の外になり、疎外感を感じてしまった。
その夫婦はそれに気づき、会話の輪に我が子を参加させようと配慮する、または、子供がむりやり夫婦の会話に加わろうとする、その配慮や努力によって、会話の輪は広がり、親子全員が会話に参加した状態になった。
もう一つ例を出す。
ある教員向けの研修会があったとする。その研修会に初任の先生が参加していた。すると、話題があまりにもレベルが高すぎてついていけない。だから、会話がいくら盛り上がっていても、初任の先生は会話の輪には入れなかった。それを見かねた他のメンバーが、初任の先生を会話の輪に入れようと気を使ってくれたおかげで、なんとか初任の先生も会話に参加することができた。
さて、この二つの例は、どちらも「良好な人間関係」を前提にはしていないことをあらためて考えて欲しい。家族だって、赤の他人が集まる研修会だって、疎外感を感じることはあるし、逆に、会話の輪に加わることはできる。つまり、どんな関係性でも会話の輪ができるときとできないときがある。
それはざっくりと言ってしまえば「人間関係を構築する力」と言えちゃうかもしれないけど、それだけでは何も言っていないに等しいのではないか。
それには、もっと、態度的なものだけでなく、知的な能力やスキルのようなものが介在しているのではないか?
「会話の輪」に参加する能力、「会話の輪」を感じる能力、「会話の輪」を広げる能力という、会話という「言論の場」をメタ認知する能力がここでは問われているのではないか。
結局、こういう発想がいまいち浸透していかないのは、コミュニケーション教育の一番の落とし穴は、一対一で話したり聞いたりという状況を前提としているところにあるのではないか?
「会話の輪」は一対一ではなく、三者以上の関係性のなかで顕在化する。
そのなかで、三者がどのような会話の順番を取り、話題や語彙の選択などをするか、誰が参加するかという繊細な駆け引きがおこなわれる。
そのような「会話の場」「言論の場」という場に対する感覚や責任感のような態度を、コミュニケーションの能力に含めてもそろそろいいのではないか。

2015/08/04

寸鉄は人を刺すか?

何かを批判したい、物申したい、意義申し立てをしたいとする。
そのときに、どの程度の「文の長さ」なら効果的に伝わるのか。
ここで問題にしたいのは「内容」ではなく、あくまで「文量」だ。
話し言葉なら、大声で叫ぶ、目を怒らせるなどの身体的な表徴でそれを伝えることはできる。しかし文字言葉ではそれはできない。デジタルの場合、字の大きさも均一だ。
長く書けば書くほど思いが伝わると思いきや、どうもそうではないと感じているのが私の予感。
相手に読む気をなくさせるような文量では意味がない。
かといって、短いスローガンや練りに練ったキャッチコピーでは、受け手が噛み砕く必要があるものはスルーされる可能性もある。
寸鉄は必ずしも人を刺さない。
反対に、内容なんてほとんどないような(シャれじゃないよ)いちゃもんも、たくさんの文量がならんでいると「こりゃ、相当な批判だなあ」とか「批判が盛り上がっている」と印象付けさせることがある。
読み手にじっくり考えさせるより、読み飛ばされても、雰囲気を感じさせたい場合、長々と言葉を羅列する「言葉のデモ行進」という手法もあるかもしれない。
要は、内容よりも量なんじゃない?
量って重要だよね、書いたもん勝ちだよね、という時代になっているような予感がするのだ。
紙時代の書き言葉は「原稿用紙何枚」ってあらかじめ文量が決められてから書くものだった。しかしデジタル時代に突入し、文量はほとんど無限大にまで膨れ上がった。だれでも、どんな内容でも、書きたいだけかけるようになった。
だからこそ、読みとばされるわけだし、書きなぐらせてしまう時代になった。
そんな時代の「寸鉄」とは、一体何文字くらいが適切なのだろうか。

2015/08/03

学問は、限度の発見だ。

できた。多分できた。
夏の自由研究「中学生はどのように質問で引き出しあっているか」のレポートが。
自分としてはなかなかの満足した出来になったと思う。
というのは、実践を通して「できたこと」と「できなかったこと」、「良いところ」と「悪いところ」について、突き詰めて書くことができたと思っているからだ。
どんな実践、方法、思想だって、手放しで「いい」とか「悪い」と断じることはできない。どこまではよくて、どこに課題があるのかを明らかにすることこそ「研究」の名に値するのではないか。(だから、ある「実践」なり「方法」「思想」を手放しで賞賛しあう研究団体みたいなものこそ、最も「研究」の本質から遠い集団なのかもしれない)
「学問とは、限度の発見だ。」
とは、わたしが惚れている坂口安吾の言葉だ。(「不良少年とキリスト」の中の一節)
更にその先には「私は、そのために戦う。」とも。
「戦う」というほどの悲壮な覚悟は、まだ私には持ち合わせていないけれども、今後もじりじりと「限度の発見」をしていきたいと思う。
(きっと夏の大会で発表したら、いっぱい「限度」が見つかるのだろうけどなあ…‥)

2015/07/31

倉澤栄吉先生の思い出

といえるのかどうか分からないけど、私にとって、ほとんど唯一と言える思い出がある。
いったい何年前だろう?、そのときは、私はとある公立中の教諭だったんだけど、××大での月例の研究会で発表をする機会をいただいた。
当時の勤務校は結構大変な職場だったので、がむしゃらに取り組んだ実践をかき集めて、とにかく数で勝負!と思い勇んで、研究発表に臨んだのだった。
当時、××大の月例の研修会では倉澤先生が毎回のようにいらっしゃっていて、私の発表の会でも臨席されていた。(もう80代後半?90台くらいはなずだったがかくしゃくとされていた。)
私にとっては「国語教育のレジェンド」のような存在の方だ。そんな先生に、私の未熟な発表をどのように聞いてもらえるのだろうか、と不安で仕方がなかった。
私の発表はなんとか終わった。すると、「はい!」とすっと手が上がった。
倉澤先生だ! 
なんど先生が、私の発表にコメントをしてくださるとは?!
しかし、こんな質問をいただいたのは、後にも先にもこれっきりのことだろう。
それはこんな質問だった。
「先生のアイディアの豊かさには敬服しました!
 ところで、普段はどんな映画を見ているんですか?」と!
えっ?どんな映画??
今にして思えば、先生の質問の真意は、こういうことなんだろう。
倉澤先生の興味は、きっと「アイディアの源」にある、教師自身の言語生活を知りたかったのだと。
国語教師がどんな映画を見て、どんな小説を読み、何を話し、書いているか、その日常のありふれた言葉の生活の中に、アイディアや授業の源があるのだと、そういうことなのだろう。
(当時は何て不思議なことを倉澤先生は質問されるんだろうと感じていたけど)
その発表会の後、感動して感謝のはがきをしたためたら、すぐに直筆のお葉書を頂戴した。
その文面も非常に味わい深いものだった。当時倉澤先生がこだわっていた「唱歌」の一節を引用し、「あなたの中学校でも子どもたちと一緒に歌わせてご覧なさいと。」

倉澤先生が亡くなった知らせを聞いたときに、すぐにそのはがきを家中探し回ったけれども、先生のはがきはついぞ見つからなかった。

研究授業に参観者向けの「学習発表会」はアリ? ナシ?

大勢の先生方を集めて授業を公開する。その研究授業をどのように「見せる」か、頭を悩ますものだろう。失敗して授業者が恥をかきたくない、かっこいいところを見せたいという「見栄」がない人はいないはずだ。
とくに一番大きく頭を悩ませるのが、何時間展開もの授業の、どこを切り取ってみせるかという点だ。
「研究授業」であれば、なにがしかの「研究」の一端を提案することが縛りとなる。だから、その「学習の成果」を伝えるのか、それとも「成果に至る学習のプロセス」を伝えるのかで、ジレンマが生じる。(本当はぐんぐん学び取っていくプロセスこそが「成果」なんだけどね)
つまり、6時間扱いの授業だったら、最後の6時間目の「まとめ」の授業を「成果」として見せるのか、3時間目くらいの途中経過を見せるのかという問題だ。
最後でも、途中経過でも、どちらの展開も一理あるので、一概には判断が難しいが、個人的に参観者として面白いのは、何ていっても途中経過だ。子どもたちがどんどん学んでいって、変わっていくさまが見て取れる授業だろう。
反対に、最後の「発表会」のような授業だとかなりがっかりしてしまう。(悪いと言っているわけではない)それでも、見せ方に多少なりとも子どもたちの工夫やアイディアがあればまだいいけれども、延々と、何グループも似たり寄ったりの発表を見させられるとうんざりしてしまう。(とわたしが思うくらいだから、子どもはもっとうんざりしているのだろう)
つまり、「授業の成果を共有するのは誰か?」っていう問いなのだ。
一番イヤなのは、研究授業のなかで、子ども同士がお互いに発表を楽しみあっている姿がちっともなくて、参観する教師のために、見せ物にされているような授業だ。(「観客」のために、俺たちの発表を見せつけてやろうというくらいの魂胆が子どもたちにあればまだいいけど)
そういう「見せ物授業」はちょっと観察すればすぐ分かる。
・子ども同士の学びのためではなく、教師(参観者)に向けて発表している
・お互いの発表を聞いていない、関心がない。
・表情から学びが感じられない。
そんな授業、一体誰のためにあるの? 何のためにあるの?
見せ物である前に「授業」でしょう?
「教師向けの発表会」に一体どんな学びがあるの? 
そんな「猿回し」のような「研究授業」が、もし日本のどこかで行われているのだとすれば、世の中から根絶されることを切に願う所存である。

2015/07/26

言葉がおもすぎるのはよろしくない

小さいころ好きだったのは、植物図鑑とか、画集、写真集だった。かこさとしのえほん「地球」とかも大好きだ。なんで飽きないんだろうというくらいに、何度も何度も、時を忘れて眺めていられた。ゴッホとか北斎の絵とか大好きで、真似してお絵かき帳に描いたりもした。(絵のセンスなんて全然ないけど)
小説はある日突然読みだしたんだけど、もちろん好きは好きなんだけど、言葉がおもすぎると感じると、それ以上読めなくなる。それだったら、言葉なんて必要ない絵本や画集、写真集を眺めているのが好きだったりする。
音楽だってそうだ。音楽そのものは大好きなんだけど、歌謡曲は苦手。メロディーは好きでも、日本語の歌詞がどうしてもだめなのだ。むしろ歌詞があるなら意味なんか分からない外国語のもののほうがよっぽどいい。やっぱり言葉がおもすぎるからだ。言葉が気になりだすとひたれないという性分らしい。
なににつけても、言葉がおもすぎるのはよろしくない。

聞くより読むほうが得意 〜読み聞かせが苦手な私の弁明〜

聞くより読むほうが得意という認知的特性の人は結構いるのではないだろうか?
少なくても私はそうだ。
たとえば、レジュメを渡されて、言葉を尽くして丁寧に「話して」説明されていても、実はほとんど私の頭に入ってこない。(聞く気がないわけじゃないよ、苦手なだけ?)
それよりもレジュメの「書き言葉」をつつーと読んでしまうほうがずっと早く、正確に理解できる。
絵本とかの読み聞かせもそう。
目の前にある絵本を、上手に音読して読んでもらう。語り手の話し言葉に置き換えられ、表現されているものを聞き取ってイメージする。これは本当に「誰にとっても」理解しやすい方法なんだろうか?
それだったら、その絵本を貸してもらって、すみから、自分の好きなペースで、行きつ戻りつしながら読むことができる方が、私にとってはずっとわかりやすく、楽しい読書体験だ。
「読み聞かせ」って、ある程度本を読めてしまう人にとって、聞くよりも字を読む、見るほうが得意な人にとって、(聴覚よりも視覚優位な人にとって? 継時処理より同時処理のほうが得意な人?)どのような価値を持つのだろうか。声で聴いて理解するのが苦手な人には読み聞かせはさしたる必要はないという程度のものなのだろうか?
読み聞かせっていいよね、いいに決まっているよね、楽しいよね、味わえるよね、という雰囲気にはどうしてもなれない、悲しい自分がいる。
図書館系の人、みなさん好きな人が多いようだから。

2015/07/25

公開授業よりもビデオ検討で。

とある国語教育研究会では、夏の全国大会ではコンサートホールのようなところで行われる。そして、なんと大ホールのステージ上で研究授業をやるのが恒例となっている。
夏休みの半日、1クラスの生徒を連れてきて、ステージ上で机と椅子、黒板を並べてショー?いや、授業を行う。
ステージ上での授業なのでどう考えても無理がある。グループ活動、話し合い、制作系のワークショップ型授業は無理だ。いや、無理ではないけど、ごちゃごちゃと生徒が動き回るのは「見せ物」にならない。
だから大抵、発問ー応答型の一斉授業か、学習発表会形式になってしまう。かならずしもそれが悪いとは思わないけど、研究授業として、いつまでこんな、非生産、非効率的なことをやっているんだと感じてしまうのも事実だ。
ライブで生徒、教師とのやりとりを見たいという気持ちはわかる。しかしどう考えてもステージ上での授業がリアリティーがあるとは思えない。
日常の、普通の授業から学ぶなら、理想は研究授業という形ではなく、普段の授業を参観しに来ればいいのだろう。(少人数で)
その次善の策は、ビデオで撮影して、授業の様子を検討することなのだろう。
こういう、わたしにとっては当たり前の発想が、なかなか教育界では根付かないのが不思議で仕方がない。

聞き手は待ち手である。

誰かの話を聞く、話し合う。その時の聞き手は、単に話し手の話を聞き取り、吸収し、理解する、受動的な、スポンジのような主体として存在しているのではない。
より本質的に言えば、聞き手とは、「待ち手?」(待っている人)なのではないか。
この「待つ」には二つの意味がある。
一つは、他者からもたらされる新たな意味との出会いを、または、出会いという出来事そのものを待つ、「期待する」という意味だ。
もう一つは、他者との対話的な関係の中で、どのように自分が関与していくか、切り込んでいくか、その機会を「待機する」という意味だ。
だから、本当によく聞いている状態とは、他者との対話的な関係の中で、対話の力を信じ、「期待」と「待機」のある、待ち手としての存在となっているかどうかということなのだろう。

「儀礼的無関心」を学習する都市、教室

電車のイスに座ると、隣に見知らぬワカモノが座っていた。朝ごはんのサンドイッチを頬張っている。ときおり、サンドイッチを頬張るタイミングでワカモノの肘が私の脇腹を小突いている。
そのサンドイッチがどんなに美味しそうでも、「うまそうだね」とか、「一つだけちょうだい」なんてことを私が親しげに話しかけることはできない。変なオヤジだと思われて、無視されるのがオチだ。
電車のなかでは、肩を寄せ合い、肘を小突き合う他人は空気のようなものとして無視する、無関心を装うのがマナーとなっている。(これを社会学では「儀礼的無関心」と言っている)
でももしこれが電車の中でなく、学校の職員室では? 家のリビングでは? 田舎の田んぼ道のなかではどうだろう?
「儀礼的無関心」はひしめき合う都市特有の、学習される不自然な身振りだということは知っておいても良い。
ところで学校でも「儀礼的無関心」を学習しているということはないか?
教室というスペースのなかで、一人のオヤジ(職業は教員らしい)が一方的に話している。
それがどんなに面白くても、疑問に思っても、子ども(職業は生徒)が「面白いですね」とか「なぜ……なんですか?」と逐一質問して話しかけたら「授業」は成り立たない。
だから教室でのマナー、ルールとして「黙って聞く」という「儀礼的無関心」が学習されることとなる。
そこでの対話的関係は、実生活とかけ離れた、極めていびつで特殊なものであるということは、入学当初の小学生の様子を見ればよく分かる。
このようにして、学校、教室というシステムでは「話すこと、聞き合うこと、話すこと」という対話的な空間から、「話すこと、聞くこと」への独話空間にシフトしていくのだろう。

独話システムから対話システムへのパラダイム更新

「話すこと、聞くこと」というくくりは、独話を前提とした発想。
そこでは、ひとりが一方的に話し、それを一方的に聞く「聴衆」が存在する。しかし、片方だけが話していたり、聞いたりすることは、実生活、実社会ではほとんどないのでは?(学校の授業くらい?)
実生活、実社会では「話すこと、聞くこと」ではなく、「話すこと、話すこと」の対話的関係がほとんどだ。そこでの聞き手の「沈黙」は、一方的に聞く身振りではなく、「あなたが話し手ですよ」「次に話す権利をあなたに与えますよ」というメッセージとして機能している。(ソシオメソドロジーの「会話の順番取りシステム」の知見から)
だから、より厳密に言えば
「話すこと、聞くこと」は「話すこと、話すこと」の対話的関係が前提としてあるし、それをもっと言えば「話すこと、聞き合うこと、話すこと」なのではないか?
「話すこと、聞くこと」というくくりのなんとも言えない不自然さはその辺に起因してるに違いない。
大事なのは、独話のなかの、見えない対話的なやりとりを感受すること、聞こえない他者の声を聞こうとすること。

私の勉強法。

①知りたい分野のテキストブックの中から、最も親しみやすいもの、わかりやすいものを選ぶ。→(例「ワードマップ 会話分析・ディスコース分析」をチョイス。)




②とりあえず①で選んだ本を通読する。わからないところは気にせずどんどん読んでいく。

③図書館で関連するテキストをごっそり借りてくる。そして重ね読みする。このへんで、①で分かりづらかったことがわかってくる。(例「会話分析への招待」など)

④もう一度、①のテキストを読む。自分の関心に近いところ、ポイントだと思われるところはややしっかりと読む。ネットで調べたり、関連する論文をサイニーなどで検索したり。キーワードなどはノートにまとめる。(例「エスノメソドロジー」っていうのも面白そうだぞ)

⑤関連する論文を読んでいく。わからなかったり、他の分野に興味が移ったら①に戻る。(以後繰り返し)

なかなか初心者ゾーンから抜け出せない。しかし、初心者っていうのはいくつになってもワクワクするものだ。で、いつになったらろんぶんを書き始めるのだろう…‥。

2015/07/19

待つことと聞くこと

「待つ」という言葉は実に含蓄のある言葉だ。
「待つ」ときに人は何を「待って」いるのだろうか?
おそらく、自分の力の及ばぬこと、知り得ないこと、どうにもならない事態になったときに、唯一とり得る積極的な身振りが「待つ」ということなのだろう。
コミュニケーションを、他者との相互作用によって共に意味を作り上げていくプロセスと捉えるならば、自分の力の及ばぬ他者に対して、最終的にとり得る身振りは「待つ」ということなのだろう。他者という存在を待機し、招待し、待遇し、そして期待する。
人は「待つ」という身振りをどうやって獲得していくことができるのだろうか。
「待つ」ことの難しいこの時代に。

なぜ人の話を聞くことができないのだろう。
それは「待つ」ことができないからなのでは。
「待つ」とは、他者の、自分の力の及ばぬこと、どうにもできないこと、知り得ないことに対してとる身振りだ。他者を自分の思い通りに操作したいのならば待つ必要はない。他者が自分の想定内で、予想の範疇に入っていると思い込んでいるのであれば待たなくてもいい。そもそも他者を必要としないモノローグでよしとする構えであるならば、待つのは面倒なだけだ。
他者を待つことのもっともシンプルな身振りが「待つ」ということだ。
効果的な質問とか、頷きとか、アイコンタクトとか、そういうものも必要かもしれないけれども、より本質的には、他ならぬ他者の存在を「待って」「待ち続けて」いるかどうかなのだと思う。


待つ力というものはあるか?
待つ力、何かをじっと耳を澄まして、感性を研ぎ澄まして待つ姿勢や態度、これを能力と言えるだろうか。
待つことの力を、忍耐とか我慢とかそういう表現の他に言い表すことはできないだろうか。

待てない人と待てる人は何が違うのだろうか?
待てない人はなぜ待てないのか?
待てる人はなぜ待てるのか?
それらは生得的な性格なのか、後天的に獲得されうる能力なのか。

2015/07/18

他者の始まりは「蓼食う虫も好き好き」体験から

他者が他者として、自分とは相容れない理解不能な人として立ち現れる、その最も象徴的でわかりやすい例はなにか?
それは「好み」であると思う。
自分が嫌いなものを大好きな人がいる。自分が大好きなものを、他の人はちっとも分かってくれそうにない。
そういう「蓼食う虫も好き好き」体験が、他者の存在を認識することのできる格好の題材なのだろうと感じている。
だから、他者の愛する理解不能なものがあることを、理解する。
自分の愛するものを、それを理解しないかもしれない他者に伝える。そういう経験の両方が重要なのだろう。

他者の欲望に欲望する
と同時に、人は理解不能な他者の理解不能な欲望に、たまらなく欲望してしまうらしいのだ。
社会学の「欲望の三角形」は面白い概念だ。これは、人が好きなものにつられて自分も好きになってしまう、欲望を模倣したくなる心理らしい。
たしかに、親父がうまそうに飲んでいた酒は、子ども時代たまらなく美味しそうに感じたものだったし、友達が持っている新発売のゲームソフトは喉から手が出るほと欲しかった。
ある知り合いの女子は、友達の彼氏を略奪することを生きがい?に感じていたようだった!!
他者がたまらなく好きなものは、自分もつられて好きになったり欲しくなったりするのが人情というものらしい。
多分、教育を思いっきりシンプルに語ろうとすれば、他者の欲望を欲望する原理にあるのかもしれない。
大人や社会が理想とすること、欲望することを、子どもも模倣し内面化していく。
ようは、教師、大人、そしてクラスメートという準拠集団が、何を欲望しているかということに勝る作用は、なかなかないようなのだ。
教師、クラスメートたちが、力強く「好き」を語り合うことの価値はそこにあるのだろう。

中二病な大人?

中学生のころ、斜に構えるのがかっこよかった。
クラスで前向きな発言をする女子(秀才)がいると、「どうせそんなの無理だよ!」とか「なんでー、めんどくさい!」とかつい言ってしまう。(ついで、その女子が可愛かったりすると、さらにヒートアップしてしまう)
つまり、始末に置けないくらいにめんどくさいアホだったわけだ。わたしは。
大人になってようやく、そういう中二病なところからは、多少距離を置いてみることができるようになった。可愛い異性にも少しだけ素直に接することができるようになった。
ただ、大人になってからも、「斜に構えることのかっこよさ」の誘惑にしばしば駆られることがあるのも事実だ。
「そんなの絵空事だ」「もっと現実を見よ」「どうせ無理だ。変わりっこない」などなど。
そういう「斜に構えた発言」は、さしたる根拠を示さなくても、十分いわくありげだし、重々しいし、頭が良さそうにさえ装える。だからそういうことを言われると、「わたしは何も知りませんでした、ごめんなさい!」と思わず謝りたくなってしまう。(何にたいしてかは謎だけど)
でも、そういう斜に構えたリアリストだけでは、世の中は動きそうにないのもまた事実らしいのだ。
世の中を明るいものに変えるのは、斜に構えた言葉からは生まれない。ましてや絶叫からは生まれない。そういう中二病な誘惑を振り切って、それでもなお発せられるノーテンキな発想が、姿勢が、案外周りを変えていくものなのかもしれないのだ。
そう信じて、これからも、もう少しだけうろうろしていきたいと思っているのだ。

「心の体力」という対象化

ちょんさんの考え方で一番ユニークだと思うのは「心の体力」という概念だ。
「心の体力というものがある」と一度インプットされると、自分の心理状態を対象化して捉えることができるようになる。
「気が晴れない」とか、「イライラする」「ムカつく」というのではなく、「いまは心の体力が弱っている」と考えることができれば、自分の状況を冷静に眺めることができるようになってくる。
支援する方も「あいつの性根を直してやろう」という構えではなく、「心の体力を強くしする、温かくするためにはどうすればいいんだろう」という問題設定に変わってくる。
心が冷える、温まるというのも、まったくそのとおりで、自分の力が思い通りに出せなくて鬱屈している状況だったり、ショボンとしているときは身体は固く、冷え冷えとしている。
その反対に、心が軽く、生き生きと力を発揮し、気持ちが解放されているときは、身体の芯がオキのように適度に温まっている。
こういう身体感覚と気持ちとは、面白いくらいにビッタリと寄り添っているものだ。だから、心は体、体は心なのだろう。「心の体力」というのは。

2015/07/13

対話が深まれば深まるほど、他者が顕在化する

今日のディスカッションで一番面白かったのは、対話の中で、聞き手の受容的な姿勢はどこまで必要なのかという点だった。
相手を尊重し、受容することが大事なことは言うまでもない。でも、相手をどこまでも受け入れることはできるのか、そうするべきなのか。
ここでは「受容」とはいったいどういうことなのか考える必要がある。
「受容」はややもすれば、安易な同調、一体化、うなずき合いになってしまう。
そうではなくて、本当に受容的な構え、相手を尊重することを突き詰めると、相手と自分自身の違和にぶち当たる。そのズレを認めるということになる。
深い対話をすればするほど、相手と自分の立ち位置の微妙なズレに気づき、ズレを共有し、そのズレを心地よいものと感じることができるんだろう。
対話とは、自分の目の前の存在を、自分にとって必要な違和、他者として認識し、その違和から生まれる何かを楽しむ作法なのだ。

リフレクションの問いの即効性と遅効性、あるいは問いの射程距離

リフレクションでの「問い」の機能は、自己内対話を促すという点にある。
その「問い」は他者から与えられる場合もあるし、自己内で省察することもありえる。
しかしどちらもより本質的には、問いによって、自己内対話のサイクルが回り出すかどうかということなのだろう。
リフレクションにおいて、メンターからの問いにすぐに反応する場合もある。もう一つのパターンとして、メンターからの質問に、その場では答えられなくても、その言葉が一日、一週間、そして一年、胸に引っかかり続けて、ひょんなきっかけでその問いが蘇ってくるケースもあるんだろう。
だからメンターによる引き出す質問の効果は、即効性と遅効性の両方あると考えるべきなんだろう。
そう考えると、リフレクションでの「引き出す問い」のやりとりでは、性急な成果を望まないという姿勢こそが最も大切なのかもしれない。

質問の射程距離
リフレクションでの問いには即効性と遅効性があるらしい。
そう考えると、今すぐに解決できる「近い問い」「小さな問い」と、長いスパンで考え続けることが大切な「遠い問い」「大きな問い」の、そういう射程距離の距離感覚が必要なのだろう。
この「問い」の面白いのは、小さな問いを積み重ねて大きな問いに繋がってくるルートと、大きな問いから無数の小さな問いが生起するルートの二つがあることだ。
リフレクションに必要なのは、小さな問いにある大きな問いの存在に気づくこと、大きな問いから、小さな問いへと腑分けしていくこと。その両方の循環、往復をすることなんだろう。

2015/07/10

単元「わたしの素」〜本との出会いのこれまでとこれから〜

「わたしの素」ができるまで
中学3年、読書生活を振り返る学習。
学首指導要領では、中3「読むこと」の言語活動例に以下のように示されている。
「自分の読書生活をふり返り、本の選び方や読み方について考えること」。
「読書生活をふりかえる」とはどういうことか、「本の選び方や読み方について考える」とは何をどうすることなのか。
授業をする二ヶ月ほど前から、それをぼんやりと考え続けていた。
ぼんやりと考え続けてたある日、学校図書館をうろうろと眺めていたら、次の本と「出会った」。

『ほかの誰も薦めなかったとしても今のうちに読んでおくべきだと思う本を紹介します。 』
この、長ったらしい名前の本は、角田光代、森達也、村上陽一郎、上野千鶴子、木田元、金原瑞人などのそうそうたる執筆陣が、14歳の少年少女にむけて、「今のうちに読んでおけ」という本について熱く語っている本だった。
この本に登場する方々は、どれも10代に強烈な読書体験をしている。そして自分の人生に影響を与えている1冊を、いくつになっても熱く語り続けることができる。
これだなと思った。
本にはそういう力がある。読書の力とはそういうものなのだ。
「読書生活をふりかえる」というのは、単に一日何分読んだとか、何冊読めたというレベルの話ではない。今までの人生の中で、あるいは日々の生活の中で、どのような一冊と出会い、そして自分の運命を変えていったか、切り開いていったのか、そのルーツまでたどらないことには「ふりかえる」なんていうことにはならないのではないか。
この風変わりなタイトルの1冊と出会ったことで、授業の発想が一気に膨らんできた。

授業を構想するとき、私はまず授業のタイトルから考える。
最初の案は「私のつくり方」・・・・・うーん、そういうことなんだけどちょっと違うなあ。「つくり方」っていうような、外側からこしらえる感じじゃなくて、もっと内的な必然性に導かれるようにして、一冊の本と人は出会っていくのではないだろうか?
悩みに悩んで、最終的には「わたしの素(もと)」という授業タイトルにした。
「わたしの素」。「味の素」みたいに、自分という存在の、「味」を作り出す要素のようにも読める。また、「もと」をたどっていく、ルーツをさかのぼっていくようなイメージにも連想が進んでいく。これはなかなかいいかもしれない。
このような紆余曲折を経て、ようやく一ヶ月前に、授業のおおまかな構想が固まった。

「引き出す質問」を学ぶためにはどうすれば良いか
この授業のもう一つのねらいは、「わたしの素」の交流を、一方的に伝え合う活動にするのではなく、質問を通して引き出し合う活動にすることだった。「引き出し合う質問」を学ぶ学習活動にしたかった。
「質問」ということでいえば、ほとんどの生徒が日常的に「質問」はしている。分からないことを教師に聞いたり、興味を持ったことを友達に「質問」したり。
しかし、世の中で必要とされている「質問」は、もう少し広がりのある概念だ。自分が知りたいことを「質問」するだけでなく、相手の気持ちや考えを引き出すときにも「質問」は用いられている。
「今日の体調はどう?」
「君のこの取り組みは、どのへんをゴールにして進めているの?」
「この話し合いのテーマが何か、もう一度確認しませんか?」など。
このように、相手の意向をうかがったり、相手との相互関係の中で新たな文脈を作り出すことも社会生活における「質問」の大きな働きの一つだ。
また、コーチングやカウンセリング、ファシリテーションといった職業の専門性の根幹にあるのも、このような相手やチームの力を引き出すための「質問」にあることはいうまでもない。
これらの質問は、自分が知りたいことを聞く、分からないことを質問するというタイプの「質問」ではない。そうではなくて、相手が話したいこと、相手が解決したいこと、相手が心の中でもやもやしている部分をクリアにするために行われる「引き出す質問」だ。
このような後者の「引き出す質問」を日常的に使えるようになって欲しい。すぐには使えなくても、中学生が「引き出す質問」を意識できるくらいにはなって欲しい。そういう願いから「引き出す質問」の授業プランを考えることにした。
「引き出す質問」を学ぶことの難しさは、いままでの「分からないことを聞く」というタイプの「質問」から「引き出す質問」というものがあるんだということへ発想を転換するところにある。
このような「引き出す質問」について、理論や理屈で中学生に説明しようとしてもそれは無理なことだ。そういうやり方でなく、「引き出す質問」を一気にイメージできる便利な方法はないか?
それはある。生徒の身近な生活の中で「引き出す質問」を目にする機会が、実はある。
それはテレビのトーク番組だ。
トーク番組では、ゲストを番組に招き、ホストから質問を投げかけ、ゲストの魅力を引き出していく。阿川佐和子や黒柳徹子という対談の名手がいる。「さんまのまんま」の明石家さんまがゲストに質問する「振り」も、そういう「引き出す質問」の一種だろう。トーク番組には「引き出す質問」のワザが縦横無尽に飛び交っている。
このトーク番組というフレームを使い、中学生を「ゲストの魅力を引き出すホスト役」にしてしまえばいいのだ。そうすれば、くだくだとこちらで説明をしなくても、一気に「引き出す質問」をイメージさせることができる。このような発想から、授業のフレームを「トークショー」とすることにした。
去年この学年で行ったビブリオバトルの手応えも、この「わたしの素」のヒントとなっている。
「質問」についてより詳しくは、ひとつ前の記事「質問考」へ
なお、この実践のトーク番組のフレームを使った先行実践は以上の文献に詳しい。中学校における「対話」学習の実践研究として筆頭にあげられる一冊だろう。先達はあらまほしきことなり。『国語授業における「対話」学習の開発』


読書生活をふりかえる仕掛け、三冊読書
今回の「わたしの素」では、今までの人生で出会った本の中から三冊をチョイスして紹介し合う活動を行う。
この「三冊」というのが意外にキモだったりする。
取り上げる三冊は同じようなものは避ける。(例えば「名探偵コナン」1巻、2巻、3巻みたいに)
三冊は、なるべく違う時期、違うジャンル、内容のものとするようにさせる。
一冊とか二冊でというのは比較的スムーズに決まる。ちょっと多そうだったら四冊という手もある。しかし三冊選ぶというのは不思議と難しいのだ。
プラスとマイナス、白と黒だけでなく、第三項を選ばなければいけない。そのため「三冊」は、選書が立体的なものになってくるようなのだ。そんなバカなと思うかもしれないけどやってみるとそれが実感できる。三冊は悩ましい。
今まで読んできた本を絞り込むこと、これだけでも、一体何を選べば良いか、どのような本を組み合わせれば良いかと頭を悩ませることになる。ためつすがめつ、昔読んだ本を引っ張り出して、読みかえしていくことになる。それを三冊組み合わせて、立体的に「わたしの素」を表現しなければならないのだ。このように「三冊に絞りこむ」というプロセスを経ることで、これまでの読書生活を立体的に捉え、ふりかえる意識へと、一気に高まっていくこととなる。
※なお、三冊を立体的に組み合わせる発想は、松岡正剛の「三冊屋」をヒントにしている。こんなところにも「編集」が潜んでいるのである。

いろいろと能書きをたれたけど、ここからが授業の実際となる。

単元名
「わたしの素(もと) 〜「本との出会い」のこれまでとこれから〜」

授業の概要
今までの十四、五年間の人生で出会った本の中から、印象に残っている一冊、大好きな作品、夢中になって読んだ本など、人生を変えた!というような本を紹介し合う活動をし、読書経験を共有していく。

授業の展開(全三時間展開)
1時間目 本との出会いをふりかえる
①単元の概要を確認する。
(授業については、一週間前に生徒たちには予告しておいてある)
②教師のデモンストレーションをみて、学習のイメージをつかむ
 教師とゲストとで「本との出会い」のトークショーをする。(「徹子の部屋」みたいなやつね、と言ったら一気に生徒とイメージを共有することができた)
③「本との出会い年表」を書く
④③の年表の中から、「わたしの素」を三冊に絞り、フリップに書く。(下写真)
このフリップや本の実物を提示しながら次の時間のトークショーが進んでいく。

(例)「〇〇さんの素」の三冊と、それに添えたコメント
3歳『さるかに合戦』……必ず最後に正義は勝つのだ!!
小学校3年生、『名探偵コナン』……あまりのおもしろさに人生を後悔
中学校1年生、東野圭吾『パラドックス13』……ミステリー系にドハマリ

このように、フリップには、それぞれの本の下に簡単なコメントが添えられている。
インタビュアーは、本の内容や、添えられたコメントという限られた情報から質問の切り口を考えていくことになる。
(写真の赤い付箋はトークショーで交わされた質問。トークショーを終えた後に貼ったもの)

2・3時間目 「わたしの素」トークショー
五人グループを作り、一人ゲストを決めて、そのゲストの読書体験を質問して引き出し合うトークショーを行っていく。
なお、授業は次のような展開で行っていった。

①トークショーの打ち合わせ(3〜4分程度)
ゲストは退席してグループから離れる。
その間、インタビュアーである四人は、ゲストが提示したフリップから質問内容を考えたり、質問を調整をしたりする。
質問が重複していないか、質問の順序は適切かなどを考えていく「作戦会議」を行っていく。この打ち合わせの段階で、すでに「引き出す質問」のメタ認知が高まっていくことになる。

②トークショー(7分くらい)
ゲストを拍手で出迎えてトークショーが開始。
それぞれの質問者は「二問ずつ」質問をしたら他の人にバトンタッチをしていく。(トーキングスティックであるぬいぐるみがバトン代わり)
この「二問」というところにもこだわりがある。
一問目は①の「打ち合わせ」で事前に考えておく質問。
二問目はアドリブでその場で考える質問。
言うまでもなく重要なのは、二問目のアドリブ質問だ。
二問目の、即興的に考える質問をひねり出すためには、ゲストの話を真剣に聞き取って、文脈を押さえ、どのタイミングで、どのような問いを切り込めばいいか考えていくことになる。特に、自分が知りたいことではなく、相手を引き出すための質問を意識していかなければならない。しかも、前の質問者や後に続く質問者の質問内容も意識して、上手くつないでいかなければならない。そのため、この質問はかなり難易度の高いものとなる。さすがにフリーハンドでは難しすぎると判断して、その支援として、質問のパターンをカードにしてテーブル上に並べておいた。
(全員ではないが、このカードを頼りに質問を考える姿は見られた。だから一定の効果はあったと言える。しかし、上手くトークの文脈をつなげるように質問を繰り出していくのはなかなか難しかった。きっとこれは大人でも難しいことなのだろう)








この「質問のカンペ」は、トークショーで質問として交わされそうな内容を片っ端から分析してカードに書き起こしたものだ。質問が思い浮かばなくなってしまったら、このカンペをチラ見しながら即興的に質問を思い浮かべることになる。(別にこのカードの言葉を言わなければいけないというものではない。ヒントカードのようなもの)
こういう学習言語、学習語彙を、子どもの活動内容に合わせて提示する手法は、先日、つくばの研修で学んだJSLカリキュラムの発想を参考にしている。

テーブルのセッティングは以下の通り。

三冊を紹介するフリップボード、質問のカンペ(質問の文型をカードにしたもの)、ゲストからのフィードバック用のカード、一問目の質問をメモするための付箋、トーキングスティック(ぬいぐるみ)、各グループの交流を録音するためのボイスレコーダー。

③ゲストからのフィードバック
ひとしきりトークショーが終わったら、ゲストから、このトークショーの質問をフィードバックしてもらう。
このフィードバックでは何も示さずにフリーに話してもらっても、もちろんいいんだけれども、そうなると「楽しかったです」で終わってしまい、浅いものとなってしまうことを危惧した。そこで、以下の四つのパターンをカードで示した。
(なお、この四つのパターンは、ゲストにとってフィードバックを引き出すという意味だけでなく、インタビューアーにとっても、トークショーの目指すべきゴールを共有するためのものとして機能していく。このトークショーの最高のゴールは「考えてもいなかった気づきを得る」ようなインタビューとなることだ。)
ゲストはトークショーが終わると、このカードを示しながらトークショーのフィードバックをコメントしていくこととなる。
よかった質問は? よかったところは? 質問を受けての感想は? などなど。

このような流れでトークショーのワンサイクルが終了する。

※なお、事後に、「わたしの素」の三冊、「本との出会い」年表、「本との出会い」の「これまで」と「これから」を振りかえるコメントを含む内容で、八つ切り画用紙に表現して掲示物にして他のクラス、学年とも共有していく予定。これは夏休みの宿題とした。

さて、この「わたしの素」の試みは、ひと言で言って、とても面白いものだった。
「思い入れのあるとっておきの本」というトークの題材、そして、それを引き出し合う仲間の存在、それを楽しむトークショーという虚構のフレーム、それらの相乗効果で、この交流は熱をおび、大いに盛り上がった。

実はこの授業は、学芸大の岩瀬先生も飛び入り参加をしてくださった。
あるクラスでは、1時間目のトークのデモンストレーションを岩瀬先生と。もう一つのクラスでは2時間目のトークショーを参観していただいた。
授業後、岩瀬さんから長文のフィードバックをいただいている。
このフィードバックが、活動場面での子どもたちの様子や、この試みの課題を知ることのできる何よりのレポートであると考え、最後に、以下、全文を紹介させていただく。


【授業参観記:長文】

今日は〇〇中学校の▲▲さんの授業を参観させていただいた。かねてから自分と同じ「匂い」を感じていた▲▲さん。今回突然のお願いにもかかわらず快くお引き受けくださり、研究室の院生の方々ら6人と一緒に2時間参観させていただいた。

一番の感想は「幸せな気持ちになった」だ。ボクは授業を参観するときに、そこに子どもとして座って授業に参加している自分を想像する。子どもである仮想の「ボク」は、本当に楽しそうに授業に参加していた。
そして生徒の皆さんが幸せそうに語り合う姿を見ていて、ボクも本当に幸せになった。

授業は、「わたしの素~「本との出会い」のこれまでとこれから~」。これまでの人生で出会った本、大好きな本、自身の人生に影響があった本など「わたしの素」になっている本を3冊選ぶ。その選んだ3冊についてグループごとに交流する授業だ。
グループごとに「徹子の部屋」のイメージでトークショーを行う。一人一人がゲストになり、グループのメンバーが「徹子役」(ファシリテーター)として、ゲストの「わたしの素」を引き出していく。

中3の皆さんは自身の「素」となった本について本当に嬉しそうに語っていた。思い入れのある本にはエピソードが埋め込まれている。本との出会い、その頃に体験したこと、本とのつながり。グループのメンバーはいかにゲストの魅力的なエピソードを引き出すかを「質問」でチャレンジしていく。全3時間の単元なので質問をブラッシュアップしている時間はあまりない。
そこは▲▲さんが周到に準備されていて、「質問カード」が各グループに配られている。
例えば、「具体性を引き出す質問」、「記憶を引き出す質問」、「感情・イメージを引き出す質問」等々。それぞれのカードに質問例が載っている。
これは、ボクがブッククラブの実践で使っていた「質問例集」に近いものを感じた。
http://d.hatena.ne.jp/iwasen/20140121
このカードを手がかりに質問をしていくわけだが、話し手に
「話したいストーリー」
があるので、次々に魅力的なエピソードが飛び出してくる。
ボクは生徒の皆さんのトークについつい引き込まれていった。うっかり質問したくなるくらい。ある生徒が語っていた『遠い町から来た話』は、帰り道で思わずアマゾンで注文してしまったほど引き込まれた。院生の皆さんもやはり参加したくなった!と言っていた。それくらい豊かな学びの場だった。こんなステキな授業を見たのはいつ以来だろう。
中3男子が「オレ、小学校の頃、黒魔女さんシリーズ読んでたんだよ−!」と嬉しそうに語っているのも何ともステキだった。

1時間はあっという間に過ぎていった。
「続きはまた次回」の言葉に「えー!」という声が出たところに、いかにいい時間だったのかがわかる。ボクももう終わりとは信じられない!というぐらい時間が短く感じた。
たった3時間の単元(今日は2時間目)でここまでできることに素直に驚いた。もちろん日頃の授業での積み重ねがあるからこそだろうけれど、その時間で深められるような丁寧な準備。その丁寧さが▲▲さんの実践を支えているのだろう。そしてきっとその準備はとても楽しいはずだ。(ボクもそうだったから 笑。▲▲さんほど丁寧じゃなかったけれど・・・・)
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以下印象に残ったことをざっくばらんに。
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・場の雰囲気がとてもやわらかく、もはやワークショップ。トークショーというフレーム、トーキングスティック(ぬいぐるみ)や、本の紹介用パネル、わざわざゲストの人は一旦退出して拍手で入場、と場を楽しむ仕掛けがふんだん。生徒の皆さんもそのフレームを楽しんでいた。時間が来ると、▲▲さんは「CM入りました-」笑。こういうユーモア、ステキだなあと思う。
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・トーキングスティックを回していってグループのメンバーが交代で質問するというルールになっていたのだが、回していないグループもあった。▲▲さんが「ぬいぐるみいる?どう?」と1回目と2回目の間に問いかけると、「いるー!」「いやされるー」。「じゃあ使おうか」。何気ないやりとりだが、この学習を共同で作っていくという▲▲さんの立ち位置が表れているなあと感じた。「共同修正」は授業はもちろん、学級経営でもキモになるとボクは思っている。一緒に作っていくもの、なんだと考えているからだ。
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・この授業は中学生に限らず、大人も十分楽しみ、深まる授業だ。ボクは「いい学びは年齢を問わない」を信念にしてやってきたが、この授業はまさに!だ。完成度の高い、豊かな学びのワークショップ。授業後▲▲さんに「授業のこだわりはなんですか?」とお聞きしたら、「大人に通用しないことを子どもにやるのは失礼だから、大人にやらないことは子どもにしない」とおっしゃっていた。この共通点は本当にうれしく、そしてそれを高い次元で実現している▲▲さんはすごいと改めて感じた。
▲▲さんはきっと授業を構想するときに「その授業に参加している自分」を見ているのではないか。自分もやりたい学び。だからこそ、生徒の皆さんの様子をあんなに嬉しそうに観察されていたのだろうなあと想像した。「自身を学び手として設定して授業や学級を考える」という視点は、ボクたちにとって一番大切なのかもしれない。
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・4時間目はこの授業の導入だったのだが、ボクもゲストとして生徒の皆さんの前でトークをさせていただいた。すごく緊張して汗が止まらなかったが(笑)、とても楽しい時間だった。話しているうちに「これも聞いてもらいたい」ということが湧き上がってくる自分がおもしろい。「ああこれを話したい」というときにそれを引き出す質問が出てくるか、違う方向に行ってしまうか、ということが起きるということも実感できた。
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・この授業を貫いている問いは、「いい質問(インタビュー)とは?」。この場合いい質問は、どういう質問だろう。①インタビュアーが聞きたいこと ②ゲストが話したいことでは質問が違ってくる。ゲストの主訴を意識して質問を組み立てるのもおもしろそうだ。作戦会議の作戦の方向性を定める感じだろうか。
そしてトークショーというフレームでは「お客さん」がいる。
お客さんを意識するかどうかで質問が変わる。
そのあたりを深めていってもおもしろいなあと感じた。そのためには、例えば、ゲストとインタビュアーがペアでトークショーを行い、他のメンバーは「お客さん」役にしてはどうだろう。金魚鉢の要領だ。インタビュアーにとって「お客さん」の聞きたいことはなんだろう、という視点が生まれて、いい質問についての洞察が深まりそうだ。トークショーをメタに見る視点も生まれる。これはボク自身が、生徒の皆さんの前で渡辺さんにインタビューしたときの実感から生まれたアイデア。観客を意識するとゲストとしてもインタビュアーとしても質問や話すことが変わっていく。その意味ではトークショーという場は豊かな可能性が含まれている。
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・一つだけ欲を言うと、7〜10分という時間はあまりにも短い。これは中学であるという現実的制約上やむを得ないのだろうけれど、もっと長い時間設定にしたいなあと思う。「いい質問とは?」を深めるためには、もう少し質問する機会が必要に感じた。トークショーとしては「いよいよここから」というところで終わってしまう班もあった。
また、時間に余裕があればどこかの班のプロトコルを読んで、生徒自身が質問の機能を分析してもおもしろいなあと思ったが、これは欲張りすぎか。いずれにせよ「語りきる」みたいな時間ができるとホントに幸せだろうし、生徒の皆さん同士のつながりもより生まれただろう。そう、この授業は「本」を媒介に生徒同士がつながり合うデザインの授業でもあったのだ。ああ、やっぱり短くても1人20分はほしいなあ。
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・昼食を取りながら院生の方々の質問にも丁寧に答えてくださり、ただただ感謝。ここには詳しく書かないが、評価の話や、「いらないものを捨てていく」という授業づくりの話、「やらなきゃいけないこと」と「やりたいこと」の関係など、院生の皆さんには今後の支えになる深い話をしてくださった。飾らず本音で話してくださるので、院生も激しくうなづきながら聞いていた。ああ、ありがたいなあと思う。
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・ボクが大学生の頃、東京学芸大学の平野朝久先生は、バスをチャーターして全国の小学校に連れて行ってくださった。「いい子どもの学びをたくさん見ておいてほしいんですよ」とニコニコしておっしゃっていた。ボクはその時が教員としての原体験になっている。「すべての子どもには力がある」「すべての子どもは学びたがっている!」を具体的な姿で知ったことで、自身の信念になった。
今回、▲▲さんの授業を院生と共有できたのは、まさにあのときと同じだ。いい学びを実際に見て体験すること。これ以上の教師教育はもしかしたらないのかもしれないなあと思う。中学志望の院生は、未来の可能性を感じたと思う。ボクも未来を感じた。

院生の方々には、自主ゼミでぜひ実際にやってみて「学習者」を体験してほしい、それによって今日の学びがより深まるはずだ。
こんなにステキな授業を見たのはいつ以来だろう。本当に幸せな1日でした。これからも足繁く通わせていただこうと思います。本当にありがとうございました。

あ、一つ書き忘れましたが、
▲▲さんの授業に「持続可能性」を感じました。
特別なんだけど特別じゃない。
先生の肩に力が入っていないし、無理してない。自然体。
生徒にも過度に要求しない。生徒もまた自然な学びの場。
この自然さと「続けられる感」って今の多くの学校教育の実践にかけているなあと。

そしてなにより、両者の「やりたい!」が詰まっている授業でした。
これが授業の原点だと思うわけです。
▲▲さんの本への愛情を感じました。

「あこがれにあこがれる」ですね、▲▲さん。

引用終わり。
そう、そうなんだ。「あこがれにあこがれる」
子どもが好きで好きでしょうがないモノ(ここでは本)へのあこがれに、教師である自分も寄り添って一緒に伸ばしていくということ。
教師があこがれているモノ(ここでは本)への熱い思いに、子どももつられて好きになっていくということ。
その両方のベクトルが授業を作り、人を育てる営みの根幹となる原理となるのだ!