2015/01/29

「は」と「も」の哲学

カミもホトケも、あちらもこちらも「も」という一字を添えるだけで、なんとなく包み込んで捉えてきた、この「も」の文化が、日本の文化だ。
しかし「も」のちゃんぼん文化は「は」の文化からは、いまいち評判が良くないらしい。
私「は」正しい、という言葉の含意には、常に、あなた「は」正しくない、というメッセージがある。
「は」は常に他者との拮抗、差異が前提にあるからだ。そこには、私「も」あなた「も」正しいという言葉の奥ゆかしさは、なかなか理解されない。

2015/01/26

【論文抄録】中学校国語科における編集力を高める授業の開発

1 問題の所在
 そもそも、人間の創造的行為には既存の情報を組み替え、再創造する広義の編集力(エディターシップ)が欠かすことのできないものであるという言及は、外山(1975)や松岡(1996)らによってなされてきた。
 この編集力の必要性が、情報社会の進展に伴い一層高まってきている。情報社会において、誰しもが様々なメディアを通して発信できるようになり、情報を効果的に発信する編集力が求められるようになった。他方、大量の情報が流通する中で、その情報に埋没しないために、人の手によって情報をまとめたり、価値付けしたりしていく「キュレーション」(ローゼンバウム,2011)としての編集力の重要性が言及されるようになった。
 国語教育においては、従来より雑誌や文集などの製作で編集が取り上げられてきている。しかし、個別のメディアに対応する学習は実践されてきたが、様々なメディアに通底する編集力そのものを取り上げた実践および研究はほとんど存在していない。 また、平成20年改訂の学習指導要領において、書くことの言語活動例に編集が取り上げられるようになったものの、学習指導要領上では読むことと書くことが分断された構成となっているため、両者を関連させた能力としての編集力を位置づけることが難しいという課題が存在している。
 これらの課題から、国語科で扱うべき編集力とはどのようなものであるかという問いを持ち、授業開発をすることとした。

2 本研究の目的と方法
 本研究では、中学校国語科における編集力を高める授業を開発するという目的のもと、以下の三点の研究に取り組む。
 一つ目は、国語科で取り上げる編集力の要素や構造を具体的に解明するということである。そのために、編集に関連する先行学習事例の検討を行うとともに、文献研究と編集者への取材を行う。これらの検討から、編集力の構造について考察する。
 二つ目は、編集力を高める授業プランを開発し、筆者の勤務する中学校で実践することである。
 三つ目は、編集力を高める学習において、学習者はどのように思考し、編集を学んでいるのか、その編集プロセスをとらえることである。これらの検討により、中学校国語科における編集力を高める授業の開発に有効な知見を得ることを企図した。
 
3 研究内容
(1)編集を取り上げた学習事例の検討
 編集の学習自体は、新聞や雑誌の製作活動などとして以前から取り組まれてきている。そこで、中学校国語科においてこれまで編集学習がどのような位置づけで取り組まれてきたのか教科書の記述から概観することとした。どのようなメディアを取り上げてきたのか、また、それぞれのメディアの編集学習が、どのような意義や位置づけで取り組まれてきたか考察した。
 編集学習で取り上げてきたメディアについては、文集、新聞、雑誌、パンフレットやニュース番組など様々あるが、1990年代以降、メディアの種類が急速に多様化してきていることと、また、メディアによっては教科書への掲載が大きく増加したり、減少したりしているものがあることが分かった。そのことは、時代の変遷にともない、メディアも大きく変化してきていることと、それに伴って国語教育で取り上げるメディアにも変化があることを示している。
 続いて、これまでの編集学習では、以下の五つの意義をもって取り組まれてきたことが分かった。
・書くことを振り返る
・多種多様な情報を活用する
・文種に応じた表現の技術を学ぶ
・多様なメディア表現の特徴を学ぶ
・作り手の意図を学ぶ
 編集学習は、このように様々な意義を持って取り組まれてきている。課題として、様々なメディアにおいて活用できる編集力の要素を精選、構造化することや、編集学習において学習者が編集者としての視点を持つことと、編集技術を学ぶことの両立を図ることの重要性が示唆された。

(2)編集力の構造についての検討
 様々なメディアの編集に共通する編集力について、その構造を明らかにするために、文献研究及び編集者への取材を試みた。
 その結果、編集力とはメディアの中で、読者に向けて様々なコンテンツを構成し、プロデュースする能力であること、その編集力には、編集方針と編集技術との二つの側面から整理できることが分かった。
 編集方針には、発信メディアの特徴の吟味、コストへの見通し、読者層の設定や、読者のニーズなどの分析、そしてコンテンツへの理解が含まれる。また、編集技術には、情報(テキスト)を収集するための取材技術、適切に整えるための加工技術、複数の情報を組み合わせたり配列したりする構成技術の三つに大別できる。(表1)

  表1 編集技術の構成要素と編集例
┌──┬──────────────┐
│取材│情報を選択する               │
│    │取材をする                   │
│    │執筆依頼をする               │
│    │写真・動画を撮る             │
├──┼──────────────┤
│加工│【情報を減らす】             │
│    │ 削除する                   │
│    │ 要約する                   │
│    │【情報を書き換える】         │
│    │ リライトする               │
│    │ 校正する                   │
│    │ イラスト化・図化する       │
│    │【情報を付加する】           │
│    │ 解説・注釈を付ける         │
│    │ 見出しを付ける            │
├──┼──────────────┤
│構成│組み合わせを考える           │
│    │順番・配置を考える           │
│    │デザインを考える             │
│    │レイアウトを考える           │
└──┴──────────────┘
 編集力を製作プロセス全体を俯瞰する編集方針が中心となり、様々な編集技術を活用していく力の総体として整理した。

(3)編集力を学ぶ授業の開発と実践
 編集力を高める授業の開発では、教材研究の視点と学習支援の視点と、二つの観点から授業を検討することとした。
 まず教材研究の段階では、学習者がどのようなメディアで発信していくのかという発信メディアの検討と、何を加工していくのかという編集テキストの検討、そしてそれらをどのようなプロセスで編集していくのかという編集プロセスの検討との、三つの視点を取り上げた。
 また、編集プロセスの学習支援として、編集方針の形成プロセスと、編集技術の活用プロセスの二つの側面から学習者を支援していくこととした。

第一実践 「小林一茶企画展」
 中学1年生を対象に実践した授業は、一茶の俳句を組み合わせて展示するミニ企画展を各自で製作するというものである。
 屏風状のディスプレイ型ポートフォリオによる「展示」を発信メディアとして、そこに各自が設定したテーマで編集した一茶の俳句などを展示する学習を展開した。
【おもな学習の流れ】
①一茶の俳句を読む。
②テーマを決めてコレクションを作る。
③展示の企画を考える。
④構成やレイアウトを考え、展示を作る。

第二実践 「戦争の記憶を受け継ぐ」
 中学2年生を対象に実践した授業では、「戦争体験者から当時の暮らしなどをインタビューしたり調査をしたりして、読者対象である中学校の後輩たちに、戦争について考えてもらうための雑誌を作る」という学習活動を展開した。
 プロの雑誌編集者をアドバイザーとし、戦争体験者を教室に招き、雑誌編集について学んだり、インタビューを体験したりしながらグループで雑誌を製作した。
【おもな学習の流れ】
 ①構成ラフを描く
 ②戦争体験者へインタビュー取材する
 ③見出しやリードを作成する
 ④紙面のレイアウトを考える
 ⑤文章を考える

4 成果と課題
(1)実践から見えてきたもの
 実践を行い、学習者の編集プロセスについて次のことが見えてきた。
・多様な解釈を許容する懐の深いテキストが編集テキストとして適している。
・編集方針の形成プロセスと編集技術の活用プロセスの双方が密接に関連することのできる授業デザインが重要である。
・編集方針と編集技術は編集テキストと向き合う中で相互作用的に高まっていく。
・編集活動ではテキストかテーマか、どちらを優先するかでジレンマが生まれる。
・切り口のあるテーマを設定することで、テキストへの解釈が深まっていく。
・様々なメディアが融合された現代のメディア表現に対応していくために、他教科との連携や、国語科の教科内容の更新の必要がある。
 このように、編集力を高める授業の開発および実践への有効な示唆が得られた。

(2)今後の課題
 本研究では、二つのメディアを別の学習者を対象に授業実践を行った。そのため、これらの学習によって得られた編集力が、他のメディアの編集にどのように転移していったかについては解明できていない。同一の学習者が、様々なメディアを対象とする編集に取り組んでいくなかで、編集力のどの要素が、どの程度転移したのかなどを検証することが必要であった。それらの系統的な編集力向上の実践および検証が今後の課題である。

参考文献
スティーブン・ローゼンバウム (著), 監訳・解説:田中洋 (翻訳), 翻訳:野田牧人 (翻訳)(2011)『キュレーション 収集し、選別し、編集し、共有する技術』プレジデント社
外山滋比古(1975)『エディターシップ』みすず書房
松岡正剛(1996)『知の編集工学』朝日新聞社

2015/01/24

「アクティブラーニング」の鍵は技能教科にあり

「アクティブラーニング」はそもそも大学教育の領域で進められた
私が学生として久しぶりに大学に戻って驚いたのは、大学の授業が最近かなり変わりつつあるということだ。聞くところによれば、大学では座学中心の、教授が一方的に話す講義では学生があまり知識を得ることができなくなってきているという現状から、話し合いやワークショップなどの「アクティブラーニング」などの取り組みが導入されてきているという。大学で授業研究のようなこともしているという。そういう流れが着実に進んでいるのだ。
その「アクティブラーニング」導入の次のターゲットとなったのが高等学校だ。大学が変わりつつあるのに、高校の授業が一向に講義中心で変わらない。そこで、高校の授業を変えていくために、文科省レベルで「アクティブラーニング」を増やしていこうと動き始めている。今後高校の授業が大きく変わっていくはずである。
一方、小中学校現場で、次の学習指導要領で「アクティブラーニング」を取り入れよ、と文科省から号令をかけられてもいまいちぴんとこないのは、こういう問題意識をあまり共有できない(というか、すでに「言語活動の充実」などで、体験的な学習が当たり前のように取り入れられてきている)からかもしれない。

「アクティブラーニング」と「学力」
大学、高校の教育がなぜ講義中心なのか、これは、逆説的に言えば、講義中心で獲得できる「学力」が「学力」であるとしてアカデミックな世界で認定してきたからということも出来る。
何が言いたいかというと、「学力」を普通我々がイメージするのは、きっと「漢字が書ける」とか「計算が出来る」「歴史の知識がある」というような座学で得られる「五教科」の「学力」である。大学であれば、それらを活用した「論文を書く力」ということになろうか。「学力検査」「学力テスト」といった場合、国語や数学の力を測定するのが通常だ。
しかし、言うまでも無く、「学力」には、音楽の学力、美術の学力、体育の学力、技術・家庭の学力がある。その「技能教科」の「学力」にはほとんど目を向けずに一心不乱に「学力」を追い求めてきたのが、これまでの「学力」観であり、講義中心の学習観だったのだ。
この学力観を問い直す切り口が「アクティブラーニング」であるととらえるべきだろう。
さらに言えば、学力観として、このような教科固有の学力を超えた、様々な教科で活用することの出来る教科横断的な「学力」の存在に光が当てられつつある。たとえば、課題解決力や思考力、表現力、コミュニケーション力、メタ認知などだ。
教科のタコ壺から脱し、教科横断的に学力および授業方法を模索すべき機が来ている。

技能教科と「アクティブラーニング」
講義中心の音楽の授業。座学の体育というのはちょっと想像できない。(あるとしたらかなりまずい授業だろう)技能教科はすべからく、「アクティブラーニング」だ。
だから、講義中心に教えてきた五教科の教員が「アクティブラーニング」について学ぼうとするなら、技能教科が日常的に行っている授業行為に、子どもの学ぶ姿に、無限のヒントが得られることに気づくだろう。
日常生活においては、技能教科だろうと五教科だろうとそれぞれの学習で得られた「学力」を統合させて思考・判断して活用している。日常生活の中では、得られた「学力」が五教科だろうと技能教科だろうと、そういう区分は全く意味が無い。だからこそ、いまこそ、いままで「学力」としてあまり光が当たってこなかった技能教科から学べることがいかに多いかを実感すべきだ。そして教師は五教科も、技能教科も、教科横断的に学びあうことが必要だ。

2015/01/22

われ無意味を愛する

教室は意味に満たされている。
格言カレンダー
成績上位者の掲示
空疎なスローガン
注意や警告の標語
意味の充満する空間は息苦しい。
私だったら、無意味なモノや、他愛のない絵や写真をさりげなく飾っておきたい。そんな無意味を愛する。
教室を去った後に、奇妙に忘れられずに意味を持つのは、そういう無意味なものに違いない。

2015/01/20

読書メモ『民主主義と教育』(随時更新中)

デューイ『民主主義と教育』をちびちびと読んでいる。
読みながら、この一冊は教育のあらゆる問題を根底から問い直している名著であるという予感を感じた。そこで、ちびちびと読みながら、主要なポイントと思われるところをこちらに書き出して備忘としておきたいと思う。
ちなみに所有しているのはこの三冊。
1冊目、岩波文庫版これが一番入手も容易。ただ、訳がかなり生硬で読みずらい。


そこで、次に入手したのが、人間の科学社・河村望訳版 。しかし期待していたほど読みやすくはなかった。


 結局、玉川大学出版部の金丸弘幸版に落ち着いた。これが現在邦訳で入手しうる最も読みやすい一冊だと思う。(が、それでも読みにくい文体であることは確かなので、英語に自信のある人は原文で読まれるといいと思う)

 
以下、原文よりチェックした個所をメモ。

序より
・この本は、民主的社会に込められている諸理念を見いだし、明示し、それらを教育という事業に応用しようとした一冊。
・公教育の建設的な目標や方法の指摘を含む。
・民主主義の発展を、科学における実験的方法の発達や、生物学における進化論の諸観念や、産業機構の再編成と結びつけ、これらの発達が指示する教育の教材や方法の変化を示そうとする。(進化論的、弁証法的な教育観)

第一章 生命(ライフ)に必要なものとしての教育
「生命(ライフ)」とは、環境への働きかけを通して、自己を更新していく過程。
「生命」の連続とは、生物体の必要に環境を絶えず再適合させていく過程。
「生命(ライフ)」とは慣習、制度、信仰、勝敗、休養、職業を含む。
「経験」に対しても、更新による連続という原理が当てはまる。
人間の場合には、肉体的存在の更新に、信念や理想や希望や幸福や不幸や慣行の再生が伴う。そんな経験でも社会集団の更新を通じて連続する。
社会集団を構成する各成員が生まれ、そして死ぬという根本的な不可避の原理が教育の必要性を決定する。
社会は、生物学的な生命と全く同じ程度に、伝達の過程を通じて存続する。この伝達は年長者から年少者へ行為や思考や感情の習慣を伝えることによって行われる。
社会は伝達(transmission)によって、通信(communication)によって存在し続けるばかりでなく、伝達の中に通信の中に存在するといって良いだろう。
共通(common)、共同体(community)、通信(communication)という語の間には単なる言語上の関連以上のものがある。
人々は、自分たちが共通に持っているもののおかげで、共同体の中で生活する。また通信(communication)とは、人々がものを共通に所有するに至る方法なのである。
共通の目的を知っており、それに関心を持っており、そのためにそれらがその共通の目的を考慮しながら自分たちの特定の活動を調整するならば、それらは共同体を形成することになる。
目的の共有と関心の共有
あらゆる通信(communication)は教育的である。
共に生活するという過程そのものが教育を行う。その過程によって、経験が拡大され、啓発される。想像力が刺激され、豊かにされる。言明や思想を正確にし、生き生きとしたものにする。
他の人々と共に生活することから受ける教育(非制度的教育)と、計画的に子どもを教育すること(制度的教育)との間には著しい差異がある。
教育哲学が取り組まなければならない最も重要な問題の一つは、教育のあり方の非制度的なものと制度的なものとの間の、付随的なものと意図的なものとの間の、正しい近郊を保持する方法である。
communicationとは経験を分かち合っていく過程。
人間の共同生活のあらゆる様式の奥深い意義は、それが経験の質を改良するために貢献すること。

第二章 社会の機能としての教育
社会集団に広く行き渡っている関心や目的や観念を共有するに至るまで、経験の質を変えていくこと。

一定の反応を呼び起こす際の環境からの作用。
生活環境は、その人の中に一定の行動体系や行動傾向を作り出す。
環境は、ある生物に特有の活動を助長したり、妨害したり、刺激したり、抑制したりする諸条件から成り立っている。
生活は、単なる受動的生存に過ぎぬものではなく、行動の仕方を意味するものであるからこそ、環境または生活環境とは、この活動の中に、それを維持したり、挫折させたりする条件として入り込むことを意味する。
訓練と教育とを分けるのは、それに「参加」しているかどうか。
社会的生活環境は、一定の見たり触れたりすることの出来る具体的な行動様式を刺激するような状況を設定することが最初の段階である。そして、個人をその共同活動の参加者すなわち仲間にして、彼がその成功を自分の成功と感じ、その失敗を自分の失敗と観ずるようにすることが、その完成段階なのである。

言語は観念を伝え、獲得するために用いるが、事物は共有された経験すなわち共同の活動において用いられることによって、意味を獲得するという原理の拡張である。
言語が共有された状況の中へ要素として入り込まないときには、意味すなわち知的価値を持つものとしては作用しない。

社会的環境とは、一定の衝動を呼び覚まし、強化し、また一定の目的を持ち、一定の結果を伴う活動に、人々を従事させることによって、彼らの中に知的および情動的な行動の所特性を形成する。

環境からの無意識な影響の例……言語の習慣、行儀作法、良い趣味と美的鑑賞眼

特殊な環境としての学校
未成熟者がその中で行動し、それゆえ、そこで考えたり、感じたりするところの環境を統制すること。環境によって間接的に教育すること。
社会の伝統が非常に複雑になって、その社会的な蓄積の相当な部分が文書に書き留められ、文字記号によって伝達されるようになるとき、学校が出現する。
文書には日常の生活には比較的に縁の無い事柄を選んで記述する傾向がある。
学校の特徴
1、部分に解体され、漸進的な段階的なやり方で少しずつ同化させるため、単純化された環境を提供する。
2、価値のない諸特徴を出来るだけ取り除く。
3、いっそう広い環境に活発に接触するようになる機会を設定する。



2015/01/17

いわゆる「楽勝単位」のことなど

社会人大学院生と現役大学院生との最大の違いは、授業に対する意識だろう。
そりゃあ私だって大学生時代は、テストされ受ければ単位が来る授業とかあってうはうはしてたのは否定しない。でも、社会人になってわざわざ夜間大学院に行くくらいの物好きだから、少しでも価値のある時間を送りたいと思っていた。
楽勝かどうかよりも、役に立つかどうかという基準で授業を選んでいた。退勤後の一時間半は喉から手が出るほど貴重な時間だからだ。
だから、学生と共犯で休講ばかりするセンセイには内心金返せと思っていたし、くだらない雑談で時間を潰す授業には耐えられなかった。
(幸いにして、そういう授業はほとんどなかった。むしろ、単位はいらないからもう一年授業を受けたいと押しかけた講義さえあったくらいだ)
もう大学院に入り直すことはできないし、長研生やサバティカルでどっぷりと好きな勉強する機会は人生ではないだろう。
しかし、ジジイ臭いが、これから大学や大学院で勉強しようという人は、限られた時間を有効に活用して欲しいと思っている。

2015/01/12

私の考える、理想の研究紀要〜ぬくもり、多声性、そして開放性〜

研究が盛んな地域とか学校だと、その研究成果を研究紀要として冊子として印刷、配布するところがあるだろう。年に一回ペースというのが多いはずだ。
しかし、その研究紀要は色々と問題のあることも多い。
(ということは、まだまだ改善の余地があると言うことだ! ラッキー!)
思いつくままに問題を列挙してみる。
1、どんな立派な研究をしていても、どの学校がどんな研究をしているのかがほとんどの人に知られていない。そのために埋もれてしまう。
2、研究の土台となる用語に統一性がないので、どこでも似たような校内研究を、言葉だけ変えて行っている。
3、研究紀要が思い出作りの「文集」のように内輪受けするものになっていて、外部の人が見ても学ぶべきものになっていない。
4、研究紀要が一部の人(研究主任など)の力業で作られ、形だけの「報告書」になっている。

改善の方策をいくつか考えてみる。
1、多くの人に目にとまるように、紙の研究紀要を原則廃止し、電子化で誰もがどこでも読めるようにする。
すでに、学会論文などはCINNI(サイニー)やGooglescalar(グーグルスカラー)などで簡単に読める世の中になっている。
明治図書などの教育系の雑誌も記事ごとに電子配信をする「教育記事データベース」を開設するようになって、格段に利便性が増した。(有料)
民間教育団体などでも、教育技術のノウハウをネット上で公開、共有できるwebサイトがいくつもある。(TOSSなどの投稿サイトやEDUPEDIA教職ネットマガジンなどのキュレーションサイトなど)
国や地方公共団体でも、WED上で研究紀要や指導案などを共有できるプラットフォームを整備しつつある。(が、CINNIなどと比較していまいち検索性が良くない?)
私は、個人的には、教育研究用の特別なプラットフォームを新たに作って囲い込むよりは、CINNIやGoogleScalarのような汎用性の高いプラットホームで誰もが手軽に検索できるような形にするのが望ましいと思っている。(そんな議論もあと10年もしたら電子化が当たり前になって無くなることだろう)

繰り返すが、読み手の立場に立てば、一部の人の手にしか渡らない紙の冊子はいらない。
ネットで、CINNIやGooglescalarなどで分野ごとに検索して読みたいときに読める方がずっと役に立つ。
文科省だって、学習指導要領など、ほとんどの資料をネット配信している。そして、立派な冊子よりも、電子データの方が活用されているのは自明のことなのだ。
紙の方が一覧性が増して読みやすいというのであれば、その人が自腹でプリントアウトして読めば良い。または、オンデマンド出版などの方策を活用すれば良い。コストも格段に安くなる。日本全国の学校でいくらコストが浮くのだろうか??
一部のお友達だけでなく、地域の保護者、他の学校の教員、社会人、他の領域の研究者に対しても校内研究が開かれるというメリットもある。

ただし、電子化に伴うデメリット?もある。
それはメディアによって、情報発信の質が変わってくる可能性があるからだ。
電子化のデメリットは、情報が細切れに伝わりやすくなるということだ。
音楽で言えば、レコードからCD,そしてiTunesなどの電子配信になったときどういう変化が起きたか?「マジカルミステリーツアー」のような「コンセプトアルバム」のような編集力がなくなり、単品の歌で勝負する時代になった。
映像で言えばYouTubeも同じ。短く、いかにインパクトを与えるかに焦点が向きやすい。電子化は、情報を細切れに、短く伝えるのに適した媒体だ。ノンリニア(非直線的)な傾向の強い媒体であるということだ。その反面、紙媒体は、一冊の本として、校内研究を大きなパッケージにして与えることが出来るというメリットがある。

2、1と関連して、研究の検索性を高めるために、用語の統一性やフォーマットのようなものを模索する必要があるだろう。(それが学術論文の形式なわけだ)
現状では用語については教育関係の法規や答申、学習指導要領が一番認知度が高いので、学習指導要領などの用語を極力使うとか、逆に、それ以外の新しい用語を使う場合は、従来の使い慣れている言葉と何がどのように違うのか、社会ではどのように使われている言葉なのかを精査し、安易に目新しい言葉に飛びつかないようにすべきだろう。
学校の教育研究で最も重要なのは、新しいことに取り組んだかどうかと言うことよりは、実践を通して子どもから何を学ぶかということなのだ。(授業では子どもが学ぶが、教師の研究では教師が子どもから学ぶのだ)
現場から、実践から、公共性、普遍性のある理論を立ち上げると言うことなのだ。それ抜きに言葉だけをいじくってもほとんど意味の無い研究となる。
(この辺は制度の問題と言うよりも、研究倫理とか知的誠実に関わる部分だ。本来は指導主事などが、そのような薄っぺらい校内研究では労多くして無意味だと言うことを、しっかりと見識を持って伝えていかなければいけないのだろう)

3、4と関連して、研究を一部の人のものにするのではなく、学校の教育活動全体を具現化するツールとして活用するという方策があるだろう。
具体的に言おう。
研究の成果を、様々な「声」で表現すると言うことだ。
・一部の研究主任などだけでなく、様々な教員の声を取り入れる。(その「声」は、ちょっとしたエピソードや失敗談などでも良い、いや、むしろそういうホンネの声の方がずっと貴重だし共感できる)
・様々な子どもの声を取り入れる。テストやアンケートなどの「数字」ではなく、作品や感想コメントや写真などを通して表現する。
・保護者の声を取り入れる。地域の人の声を取り入れる。他の学校の教員の声を取り入れる。大学の研究者の声を取り入れる。などなど、多様な層の声を取り入れる研究になっていけば、その研究は独りよがりなものではなくなってくるはずだし、「研究所」ではない、人々が行き交う学校ならではの「ぬくもり」を感じさせる研究となるはずだ。

学校に関わる多様な人々の声、そしてぬくもりというウエットな部分を大切にしつつ、かつ内輪受けしない研究。そして紀要。というのはどうだろうか。

2015/01/09

クリティカルな議論をする力は、クリティカルな聞き方を学ぶことから。

二年生の総合で、学年ディベート大会をすることになった。
早速、学年スタッフでディベートの論題について考えた。結果、以下の論題が候補に挙げられた。
全国の中学校は給食を義務化すべし。(アレルギーなどには配慮する)
全国の中学校は制服を義務化すべし。
全国の中学校は定期テストを廃止すべし。
全国の中学校は週6日にすべし。
全国の学校の入学試験を廃止し、全て抽選にすべし。
全国の学校を男女共学にすべし。
と、なかなか挑戦的な論題が揃った。

ところで、ディベートについてありそうな研究だけど、ディベートなどの討論を聞いている人は、話し手の何に説得力を感じるのだろうか?
『弁論術』などではそれをロゴス(論理)、パトス(熱意)、エトス(人柄)の三つに腑分けしているが、どこが一番強く聴衆に訴えかけるか?
中学生はどうか?大人とは違うか?
もし、論理は滅茶苦茶でも熱く語ったほうが聴衆に評価されるのだとしたら、そういう弁論術を意図的に選択するのは、戦略的には正しいということにはならないか?

何が言いたいかというと、論理的に話すスキルを学ぶことはもちろん大切だけど、それを評価する聴衆の「耳」が育っていないと、そのスキルは十分に伸びていかないのではないかということだ。
この「聴衆」は、もちろん中学生に限った話ではない。社会の大人たち、国民全体が、話し手の感情的な物言いに踊らされる現状であるならば、話し手は扇動的な物言いを選択したほうが有利と言うことになる。そして結局、こう言うのだ。「論理なんて必要ない。肝心なのはその人の熱意だ。」と。

それについてフェイスブックで投げかけたところ、早速いくつかの反応をいただいた。ディベート連盟に関わるIさん。
私たちの全国教室ディベート連盟では、あくまでも論理で勝敗を決めます。伝え方はコミュニケーション点としてカウントし、リーグ戦の勝敗の得票数が同じ場合、コミュニケーション点で勝敗を決めるようになっています。
と。競技ディベートの世界では、コミュニケーションと論理とを区別して評価しようとしている。このように聞き手の聞き方をコントロールすることも有効な方策だろう。
一方、社会ではロゴスもパトスもエトスも重視される現状がある。その現状の中で、話す力をどう指導していけばいいか、一つの視点を、ある中学国語教師Sさんは次のように語った。
泣き落としも戦略ですね^_−☆
冗談はともかく、説得力は論理だと誰もがいう。でも、熱意をもって訴える人の説得力は時に論理を凌駕する。しかし、論理的に熱く語れば通るかといえば、どんなにそれを極めてもあいつの言うことはなぁ…と思ったら人は説得されない。
論理は学んで鍛えられる。熱く語ることは、本当に実現したい思いがあれば今の君にもできる。しかし、信頼は一朝にはならんぞ。誠実な論理と誠実な熱意の積み重ねしかない。
と、話してますけどね、私は。
戦略的に熱意を用いるのも時には必要でしょうけどね^_−☆
まあ、でも戦略的にじゃ彼氏・彼女はゲットできんな〜って。
と。やはり、人柄や熱意は指導できにくいから、まずは学んで力を伸ばすことのできる「論理」を国語科の学習では重点的に鍛えるべしということなのだろう。

話し手を育てることと、聞き手を育てることは車輪の両輪のようにどちらも両立しないといけない。
すぐれた話し手、すぐれた書き手は、きっとすぐれた聞き手、読み手なはずだ。
クリティカルに聞けるからこそ、クリティカルに話すことができる。
クリティカルに話す人で、クリティカルに聞けないという人はおよそ想像できない。逆に、クリティカルに聞けても話せない人はたくさんいそう。
やはり、まず着手すべきは、よき聞き手、読み手を育てることなんだろうと感じる。
聞く力不在の話すこと指導では、いかにも心もとない。
では、クリティカルに聞くとはどういうことなのだろうか。どんな視点で聞けばいいのだろうか。それについて、高校でディベートを実践されているNさんは次のような視点を提示してくださった。

根拠がその通りだ、と思えば、説得力があると感じます。
「パトス(熱意)、エトス(人柄)」があっても、主張と根拠が乖離していれば、説得力を感じません。(普通はそうだと思うのですが…)
次にディベートでは、議論の大きいほうが勝ち、となります。
議論の大きさは「実際に起こるか否か」と「起きたとして、それがどのくらいの意義(インパクト)があるのか(どの程度良いのか、悪いのか)」の2つの要素の掛け算のような形で判断します。
「実際に起こるか否か」は、 「パトス(熱意)、エトス(人柄)」とは切り離して判断されるべきです。
そして、「起きたとして、それがどのくらいの意義(インパクト)があるのか(どの程度良いのか、悪いのか)」は、価値観が絡むので、「軽く考えないでください。なぜならば…」という形で、「パトス(熱意)、エトス(人柄)」がやや絡んで、(「起きたとして」の前提をクリアできていると)総合的な説得力に繋がる、とご理解頂ければと思います。
先日のディベートの経験がほとんどない大学生にディベートを教えてきたのですが、「起きるか否か」と「インパクト」とを切り分けて判断する、という《議論の聴き方のコツ》を、教わっていないがゆえに知らない、という人は結構多いと思っております。

なるほど!
1、主張と根拠の整合性、
2、議論の大きさ(「実際に起きるか否か」×「起きたとして、それがどのくらいの意義(インパクト)があるのか(どの程度良いのか、悪いのか)」
など。このようなクリアな視点を提示した上で、ディベートなどの討論で、聞いたり、話したりできれば、クリティカルな議論のやりとりが出来るようになるだろう。
ディベートのような論理のやりとりは、日本語の論理にはなじみにくいということもある。だからこそ、それを意識的に視点を提示したり、トレーニングする必要があるのだろう。Nさんから紹介していたいただいたこの本もとても参考になった。

この本では、英語のもつロジックと比較して「日本語の論理」の特異性を取り上げ、ロジックを学ぶことの重要性を論じている。国語教師(英語教師も)必読の一冊といって良いだろう。
まだ自分自身が、ディベートとか論理とかが自家薬籠中のものにはなっていないが、中学生でも理解できる形に、教える内容を精選、構造化して学習できるようにしていきたい。