2014/12/31

「ウソ」で人を教えられるか

「ウソも方便」という言葉があるけれども、大人が子どもに対してつく「ウソ」はどの程度ならゆるされるのだろうか。そもそも「ウソ」で人を教えることができるのだろうか。

「しらじらしいなあ」と思いながらもついている「ウソ」を聞くことがよくある。
「……すれば、将来絶対に……だよ」
「……したら、この学校にいられないよ」など。

「ウソ」が「ホント」として機能するためには、二つの方向性がある。
1、大人の「ウソ」を子どもたちが「本当」と信じ込んで疑わない場合
2、大人の「ウソ」を子どもたちが「ウソ」と気づいているんだけど、子どもたちが「信じているふり」という「ウソ」をしていることを、大人が気づかない場合。気づこうとしない場合。

私は、なるべくなら「ウソ」をつかない人生でありたいと思っている。
なるべくなら。


2014年の総括!

今年一年を振り返りたい。
今年は「足下を固めた」一年だったと思う。

対外的には色々新しい変化があった。
4月:職場が変わった
8月:大学で授業をさせていただいた
8月:夏の大会で研究発表させていただいた
10月:公開研究会に向けて授業開発にチャレンジした
7・11月:ベネッセで実験授業?模擬授業をさせていただいた
11月:「教育と情報の歴史研究会」に参加し新たな出会いが広がった
12月:修士論文が完成して、まもなく大学院生活も修了
など、今年も多くの得がたい経験をすることができた。
しかし、1年が終わってみればあっけないというか、もっと色々やれたなあという思いは正直強い。
やったことの量と言うよりは、手応えか充実感という面でだ。
「足下を固める」というのは、たとえてみれば、野球とかゴルフでスイングをするまえに、両足をぐりぐりとして足場を作る、あの感覚だ。
両足がしっかりと定まれば、フルスイングもできる。周りの景色もよく見えてくる。
まだ、今年はその両足が定まったという状態ではなかった。
やはり、環境が大きく変わったので、それに適応することにエネルギーを注いだという面が大きいのだろう。
妻からはよく言われる。「それって、前の学校に移った一年目もよく言ってたよ」と。じきに慣れることなのだろう。と同時に、千葉大附属に移ったときの野口先生のお言葉も忘れられない。「ワタナベさん、附属に飲まれちゃだめだよ。附属のワタナベじゃなくて、ワタナベのいる附属って言われるようにしないと」と。
どうやって今の現場で足下を固めつつ、自分らしいフルスイングができるかが課題だ。(打率3割が目標??)

そんな中でも私にとって光明となったのは、夏の研究大会にむけてまとめた一つの論文だった。論文はこちら。
その論文は、子どもたちの話し合い場面の分析(談話分析)をもとに、子どもたちがどうやって学んでいったかをつかもうとした。あの研究で、まだまだ自分自身がぜんぜん子どもを見ていないということが分かったし、もっと学ぶ姿を知ろう思ったきっかけとなった。この経験が、今年一年のハイライトと言ってもいいかな。

教師になって15年間、面白い授業、新しい領域の授業を開発していくことに血道をあげてきたけど、最近の興味はそれ以上に、人はどうやって学んでいくのかということの方が強い。
教材開発も楽しいけれども、それだけでは、どうしても面白い「ネタ」を作るところまでで満足してしまう、結果、ジコマンな研究が多かった。これからは、そこからさらに先まで見通し、子どもの学ぶ姿を掬い取る実践と研究を突き進めていきたいと思う。

2014/12/29

大公開! 私の修士論文成分表

来年一月に修士論文を提出する運びとなった。
三年間の集大成を取りあえずまとめられてほっとしている。
研究テーマは「中学校国語科における編集力を高める授業の開発」。
もうちょっと手直しをして、大学の先生からご指導を受けて、それからようやく完成となる。
まだ内容については公表できる段階にはないんだけど、「修士論文の成分表」ということで、研究の目的と、研究をするに当たって参考にした文献をご紹介したいと思う。

研究の目的
 本研究では、前章での課題を踏まえ、三つの目的を設定する。
 一つ目は、国語科で取り上げる編集力の要素や構造を具体的に解明するということである。
 そのために、今までに取り上げられてきた先行授業事例の検討を行うとともに、編集に関する文献研究と編集者への取材を行う。編集プロセスを取り上げた文献を検討したり、編集の現場に携わる編集者への調査を行ったりして、どのようなプロセスで編集が行われているか、どのような意識で編集をしているかを考察する。これらの検討から、編集力にはどのような諸要素が存在し、それらにはどのような関連がみられるか、また、どのような意識で編集が行われているかを明らかにしていく。
 二つ目は、中学校国語科において編集力を高める授業プランを開発し、実践することである。
 そして三つ目の目的は、編集力を高める授業において、学習者はどのように思考し、編集を学んでいるのか、その学びの姿をとらえることである。
 そのために、授業のなかでの学習者の編集プロセスを、パフォーマンス評価、感想コメントの記述、談話分析など様々な方法でとらえて検討することとした。これらの検討により、学習者がどのように編集をしていくか、そのプロセスを明らかにしていくことにした。
 以上、三つの研究目的を解明することを通して、中学校国語科における編集力を高める授業の開発に有効な知見を得ることを研究主題とする。

さて、この目的で研究を進めていく中で参考になった文献を紹介したいと思う。

本当に参考になった文献一覧
これらは、本当に参考になったものだけを厳選しています。
本格的な論文を書いてみようと思っている方、研究内容に関心のある人はぜひ目を通してみてください。
(論文に引用できなかったけど参考になったものを含む。どこを参考にしたらこんな論文になるんだ?!という突っ込みはさておき……)
手元にあるもの&覚えている内容だけで列挙したので、詳しくはググってみてください。

◎論文の書き方、質的データのまとめ方などで参考になった本
『留学生と日本人学生のためのレポート・論文表現ハンドブック』東京大学出版会
『これから研究を書く人のためのガイドブック』ひつじ書房
戸田山和久『論文の教室』NHKブックス
西條 剛央『ライブ講義・質的研究とは何か』新曜社
関口晴広『教育研究のための質的研究法講座』北大路書店
佐藤郁哉『質的データ分析法』新曜社

◎国語関係の修士・博士論文も、論文の書き方のモデルとして参考になった
池田修『中等教育におけるディベートの研究 -入門期の安定した指導法の開発
摺田誉美『「説得するために書く」作文指導のありかた』渓水社
貝田桃子『作文教材の開発に関する研究』渓水社
井口あずさ『中学生の意見文作成過程におけるメタ認知方略指導に関する研究』渓水社
町田守弘『サブカルチャー教材による国語科授業開発論――学習者の興味・関心喚起の方略を探る――』(博士論文、ネット上にあります)

◎現代のメディア状況などを知るために参考になったもの
梅棹忠夫『情報の文明学』中公文庫(1999)
秋山隆平『情報大爆発-コミュニケーション・デザインはどう変わるか』宣伝会議(2007)
スティーブン・ローゼンバウム (著), 監訳・解説:田中洋 (翻訳), 翻訳:野田牧人 (翻訳)『キュレーション 収集し、選別し、編集し、共有する技術』プレジデント社、 (2011)
佐々木俊尚『キュレーションの時代ー「つながり」の情報革命が始まる』ちくま新書
小林弘人『新世紀メディア論-新聞・雑誌が死ぬ前に』バジリコ、(2009)

◎編集についての文献
松岡正剛『知の編集工学』朝日新聞社、(1996)
松岡正剛『知の編集術』講談社現代新書 ほか、多数。
外山滋比古『エディターシップ』『新エディターシップ』『みすず書房
中俣暁生『編集進化論 editするのは誰か?』フィルムアート社
角田健司『創造の掟 情報空間の編集力学』勁草書房
西岡文彦『別冊宝島 編集の学校』JICC出版局
西岡文彦『編集的発想〈知とイメージをレイアウトする〉』JICC出版局
『これからのメディアをつくる編集デザイン』フィルムアート社
『一週間でマスター 編集をするための基礎メソッド』雷鳥社
菅付雅信『はじめての編集』アルテスパブリッシング、(2012)
日経デザイン (著, 編集), 工藤強勝 (監修, 監修)『編集デザインの教科書 第3版』 (日経デザイン別冊) 日本経済新聞出版、2008/
藤井大輔『「R25」のつくりかた』日本経済新聞出版社、(2009)
古賀勝利「国語能力としてのエディターシップ」「実践国語研究」2002年9・11月号、明治図書、(2002)

ああ、もっと読みたかった。

2014/12/27

歴史はマニアが作る?

「教育と情報の歴史研究会inお茶中」に参加。
日本のICT教育を黎明期からリードしてきた、濃ゆい皆様との研究会&懇親会だった。
マニアックすぎて20%くらいしか理解できなかったが、それを感じさせないオープンな雰囲気で楽しめた。
少なくともこれだけは学ぶことができた。
一、歴史を作るのは、それに時間とお金をいとわずつぎ込めるマニアの存在であること。
二、そのマニアをつなぐ「仕掛け人」や、ハブとなるプラットフォームが生成され、異業種、多様なメンバーによるネットワークが広がっているということ。(雑誌、メーリングリスト、イベントなど)
三 100校プロジェクトのような官製の取り組みであっても、ボトムアップ式に衆知を集めるシステムであれば有効に機能するということ。
四 正しいことよりも、新しいこと、そして、より面白いことに価値を置くほうが、結果的によいパフォーマンスをあげられるということ。
五 最後に、ICTをめぐる問題は20年来ほとんど変わっていないということ。学びとツールの問題、授業観の問題、セキュリティの問題等。しかし、かつてはICTに関わる全てを1人が担っていたが、現在では分業化が進み、システムの全体像や構造を俯瞰できる存在が少なくなってきているということ。

悩ましき年賀状問題

ここ5年くらい前から変化が見られているようだ。
周りの先生を見回すと、どの先生も年賀状を当たり前に出すようになってきた。
担任の先生が、クラスの生徒へに、である。
私が児童・生徒時代、一回も担任とは年賀状のやりとりはなかった。だから、こういう風習?になったのは、私の周りではひょっとしたら最近のことかもしれない。
そういう私自身も、学級担任になれば当たり前のようにクラスの生徒に年賀状を出していた。(自腹)
しかし、去年持ったクラスでは、形式的なのはやっても仕方が無いと判断して年賀状は出さずに、結局返事だけ出すようにした。
学級担任がクラスの生徒に年賀状を出すか、出さないか。
おそらく三つのパターンがあるのだろう。
1、担任の先生が自腹で出す。
2、学級費などの経費で出す。
3、出さない。(返事のみ)
さらには、
1、学校あるいは学年で出す/出さない方針が決められている
2、担任の判断で、それぞれが出している
というケースがあるだろう。
日本中くまなく調べてみると、この辺はどうなっているんだろう。ちょっと気になるところである。
「担任の先生が年賀状を出す問題」は、どの程度、プライベートな領域に学級担任が関わろうとしているかという問題にもつながってくる。そしてそれを他の先生とどの程度共通理解して判断しているのかという問題にも。
結構今の学校のスタンスを浮かび上がらせる視点だと思うけれども、どうだろうか。

「なります」地方の日本人

成増ではない。
「〜なります」とつい言ってしまうのが日本語、日本人であるということだ。
こちらがお通しとなります。
サービス税は10%になります。
教科書では……となっています。
うちの学校では……となっています。
「なります」、じゃなくて、誰かが「している」んでしょ。と言いたくなるものまで、「……なります」と言ってしまうのが、日本語になります。

2014/12/13

高校生の演説はなぜ空疎か、または、日本人は演説ができるか?

先日、ある大学の先生からとても興味深いことをうかがった。
都内の高校のイベントで弁論大会に参加したんだけど、その高校生の日本語弁論が全く上滑りで、全然心に響いてこない、説得力のないものだったということだった。
反面、同じ高校生の英語スピーチのほうがよっぽどロジカルで、心に届くものだったということだ。
両方とも都内を代表する高校生、英語と日本語、この差は何なのか?と。
スピーチが下手?というとちょっとちがう。学校で選ばれ、都内でも代表になるくらいの生徒だ。しかし不自然に感情が出過ぎて、全国民の意見を代表しているかのような物言いが、ものすごく空疎に響いてしまう、そのくせジェスチャー、ボディーアクションはとっても巧みなのだ。だから、よけいに空回りして見えてくる。
(もっとも、外国人から見ても、日本人がジェスチャーをして演説するのはかなり奇異に映るらしい)
その先生はいくつかの仮説をおっしゃっていた。
一つは、日本語の演説の良いモデルがないのではないかということ。だから、うさんくさい政治家のような、思い入れたっぷりな空疎なボディーアクションなどを模倣してしまう。(某予備校の先生??)
もう一つは、日本語の書き言葉と、話し言葉とではまだ断絶がある。演説向きの話し言葉が十分成熟していないのではないか? それが英語の場合はわりとすんなりと書き言葉と話し言葉とがつながっているのではないか。
さらには、もしかしたら、その高校生を指導する教員が、「良い演説ってこういうものだ」というのを勘違いして指導してしまったいるのではないか、という仮説。
なかなか興味深いお話だった。
中学校でも同様の話はいくらでもありそうだ。優等生的な演説、優等生的な作文。よい演説のモデルの不在。(教師である私がそのよいモデルになれるかと言ったら、全然その自信は無い)

2014/12/12

共感しすぎると話し合いの言葉のやりとりは少なくなる

あるテーマでの話し合い。グループのメンバーので考えがだいたいそろい、協調、共感が進んでいく。そうなると、言葉のやりとりがほとんど少なくなってくる。
たとえば、その会話の様子を文字起こししたとすると、ほとんど意味不明の状態になる。
「これはこっち?」「そうだね、それ」「これは」「うん」などなど。
お互いの考えが一致し、お互いの脳みそを使いあっているレベルの状態になってくると、こういう感じの言葉のやりとりになってくる。これが、ワールドカフェ のように途中でメンバーをシャッフルしたり、ディベート的に違った立場に立たせたら、全く異なったコミュニケーションになってくるはずだ。
話し合いのグループに異質性や他者性がないと、言葉を尽くして説明しようという話し合いには、なかなかならない。というか、言葉を交わす必要性を感じないのだろう。そしてそれが悪いということにはならないということだ。

2014/12/07

めくるめく口述筆記の世界

Macのデフォルトでついている音声認識はすばらしい。
論文執筆ではこの音声入力にかなりお世話になっている。
生徒の感想コメントや談話分析、書籍からの引用などの単純な文字起こしは、ほぼ音声入力。(ただ、ちょっとコツを言うと、一太郎とかよりも、Macのアプリ(メモ帳など)のほうが変換が自動化されるので便利みたい。メモ帳で打ち出したテキストを一太郎の文章に貼り付けている)
ここでちょっと調子に乗って、文章も口述筆記をしてみようと思った。
太宰治は「駆け込み訴え」などの作品を妻に口述筆記をさせて書かせたといわれている。折口信夫のあの文章も、最愛?の弟子に語って聞かせたのを文章化したのだという。
そんな私も、ついにめんどくさくなって論文の口述筆記にチャレンジしてみることとした。生徒の作品を見て、感じたこと、考えたこと、そこから気づいたことなどを語っていく。これですらすらと文章が打ち出されていければ、200枚も夢ではないだろう。

2014/12/06

「アクティブラーニング」に50分は最適か?

最近、ほとんどの授業を生徒の活動中心で行うようになった。
最初に説明して、軽く足慣らしをして、そしてグループなどの活動。そうすると、50分の授業時間で、活動にかける時間は大体20分。やっと軌道に乗り始めた頃に時間となってしまう。
昔の技術科や大学の授業のように、90分くらいかけられたらどんなにいいだろうといつも思っている。
「アクティブラーニング」といくら掛け声は盛んでも、実質20分の活動じゃあどうにもならないような気がする。
50分授業に最適化された授業技術はあるけど、これがもし、90分授業、180分授業、一日中授業とかになったら、それに対応する授業技術も出来てくるんだろう。

何人くらいに理解してほしいの?? ~説明にはレンジがある~

今やっている研究内容で気づかされたことの一つは、説明には読み手のレンジ〈幅)への検討が必要だ言うことだ。
よく、読み手への意識のことを、「相手意識」という言葉でひとくくりにして語ってしまうが、その読み手の「幅」がどれくらいにするかという設定は案外いい加減だったりする。
たとえば、雑誌編集の現場では、どの程度の読者層の幅をターゲットにするかというのはとても重要な問題だ。ポピュラー路線で幅広い読者を相手にするか、マ ニアックな内容でコア層を相手にするか。そしてそのレンジによって当然表現内容も変わってくる。(言うまでもなく、どちらがいい悪いという話ではない)雑 誌編集とは「情報を共有するコミュニティーの創出」でもあるのだ。
そしてそのレンジの検討は、webによる情報発信の時代を迎えてさらに複雑さを増している。ロングテールなマーケットであれば、レンジについての戦略も自ずと違ってくるからだ。ニッチであることと、大きな網をはることとが両立しているのが今の言論状況だ。
リアルからヴァーチャル(何もをってというのはあるけど??)へのコミュニケーションの変質は、「だれへ」という意識から、「何人くらいの誰へ」という意識へと変質を迫っている。

2014/12/03

序論は最後に書き、結論は最初に書く。

論文を書くというのは、一つの主張をすると言うことだ。
その主張が首尾一貫したものにならないから、うんうん悩むこととなる。
書いては読み、読んでは削り、削っては書き直すのくりかえし、
結局、序論の部分はいつまでたっても完成をしない。論文がある程度まとまる段にならないと、序論をまとめることができない。序論はいわゆる伏線だから、結論が具体的に決まっていないと伏線も張ることができない。
反対に、結論は明快だ。自分の主張したいことを端的に言えば良い。
だから、むしろ結論を一番はじめに書いてしまう方が、結果的には、それに連なる論理もシンプルなものに研ぎ澄まされていく。
結論は最初に、序論は最後に。
提出まであと1ヶ月。今頃になってこんなことに気づかされた。