2013/07/31

国語教科書をカスタマイズ!

国語の学習において、なんと言っても大きなウェイトをしめるのは教材です。
教材の善し悪しで授業のほとんどが決まってしまうと言っても過言ではありません。

国語の教材=教科書、と考えがちですが、教科書教材を深く理解しつつも、それ以上の教材や学習活動がある場合は遠慮なくカスタマイズ(最適化)させるべきだと思っています。
そんなカスタマイズをするための方法をご紹介します。


教科書をカスタマイズして使うために
○まずは教科書を深く理解する。
A、初級編
ステップ1 まず、教科書を隅から隅まで読む。
表紙から、表紙の裏から、目次から何から何まで、とにかく隅々を読む。
とくに凡例(「この教科書を使うに当たって」など)や、教科書選定用のパンフレット、ホームページなどを熟読し、編集方針や、教科書内で用いられている記号や表記などを的確に理解する。

ステップ2 教材を隅から隅まで読む。
教材文だけでなく、脚注や挿絵などもしっかりと読み込む。
後半のコラムや解説記事もよく読み込む。そうすると、教科書の色々な部分を関連づけて指導できることがわかる。
※過去の同一教材のものと比較すると、違いや特色がとてもよくわかります。

ステップ3 教科書を準拠しているワークブックなども参考にする
教科書準拠のワークや問題集にも目を通しておくと良い。
どのようなところを問題にしているか、学習のポイントが端的にまとめられていることも多い。
年度初めならば、いろいろな業者のワークがサンプルで届いていると思うので、これらに目を通しておくと結構参考になることもある。

B、上級者編(時間がなかったらスキップしても可)
ステップ4 他社の教科書と比較する
同一の指導事項や、同一の文学作品などが、他の教科書でどのように扱われているかをしることはとても有効。色々な授業のヒントが満載だ。
教科書会社の違いによって、微妙に編集方針や授業のもっていき方が異なっている。それらの違いからさまざまなことを学ぶことができる。

ステップ5 他の校種の教科書を読む
小学校や高等学校の教科書を読むこともとても参考になる。
小学校でされていることが必ずしもレベルが低いといいわけではない。反対に、高校でやっている内容が中学校でも十分に実戦可能なものも多い。

○教科書を理解した上で、カスタマイズ
教科書は、指導書や学習の手引き通りに使えれば、もちろんそれにこしたことはない。
しかし、それだけでは何か物足りなさを感じることはある。
・教科書の内容が魅力的でない。わかりずらい
・教える生徒たちのレベルと合わない
・なんとなく好きでない
・教える内容(指導事項)と教材がマッチしていないような気がする

などなど、全国の中学生の平均を想定して作られた教材が、自分の学校の生徒と合わないことがあるのは、当然のことなのではないかとさえ思う。
そんな場合は、生徒に合わせてカスタマイズ(最適化)することが必要だ。

国語の授業は、ざっくりと言えば次の要素の「かけ算」で表される。

○学ばせたい内容(指導事項)
   ×
○教材(テキスト)
   ×
○学習活動(言語活動)
   ×
▲生徒の実態や教師の指導技術

これらのうち、いうまでもなく▲生徒の実態や教師の指導技術は、入れ替えは不可能だ。
だから、入れ替え可能な指導事項やテキスト、言語活動を組み替えていけばいいのだ。

○教材(テキスト)をカスタマイズする
たとえば、次のような作品に差し替えるのことができそうだ。
 ・下学年や小学校のときに習った文章
・身近な新聞や雑誌の記事
・生徒に人気の小説や本の一節
・教科書には取り上げられていないが、生徒に読ませたい古文
著作権に配慮が必要。

学習活動(言語活動)をカスタマイズする
・言語活動を組み替える
学習指導要領には「言語活動例」が例示されているが、「例示」であるから、必ずしもそれにとらわれる必要はない。とりあえず、言語活動で何をしたらいいかわからない人は、他の学年や、他の校種で例示されている言語活動を取り上げることも可能だ。(そういう使い方はできる)

・領域を組み替える
たとえば、「読む」→「書く」は最も自然に組み替えが可能だ。
読むことの教材を、書き換えなどを通して、書くことの学習として発展的に取り上げる。
教科書の説明文をモデルとして、説明文を書く学習につなげる。
また、「読む」→「話す聞く」へと変えることもできる。
クイズやアニマシオン、ディベートなどに取り組み、「話す聞く」の学習として組み替える。

○指導事項(学ばせたい内容)をカスタマイズする。
たとえば、「読むこと」の場合は、その「文章の魅力」がどこにあるかによって、指導する重点を柔軟に変えることが重要だ。
(教科書は編集上の都合で、その教材に必ずしも適切とは言いがたい指導事項があてがわれていることがよくある。だから、指導書や教科書に指導事項が割り当てられているからといって、それに必ずしもとらわれる必要はない)
作品の魅力を捉える視点の例
・(文学・説明)言葉の表現が工夫されている
・(文学)登場人物のキャラが立っている
・(文学)時間や空間の構成が効果的だ
・(説明)具体例(事実)と意見の取り上げ方がユニーク
・(説明)段落構成や展開がしっかりとしている
・(説明)筆者の意見が明確に主張され、それがありきたりでない
・(文学・説明)取り上げられているテーマが魅力的
などなど。

一番大切なのは、子どもを引きつける「作品の魅力」はどこにあるかを、目利きである教師がしっかりと捉えるということだ。
教材の「一番の」魅力とか、文章の「一番の」特徴をつかんだ上で、それを上手に生かす授業を構想したい。
内容的な魅力はもとより、言葉の力を高める学習材としての価値を、指導事項との関連を考えて的確に捉え、それを上手に子どもたちに橋渡しをしていくことが大切だ。

「餃子のO将」に学ぶ、効率的な研修方法

たしか、あの中華料理屋「餃子のO将」だと思ったけど、なるほどと思う研修方法を聞いたことがある。

「餃子のO将」に行った人はわかると思うけど、あそこでは、毎月「今月のメニュー」というのが出ている。
あの「今月のメニュー」には、実は周到な戦略があるのだという。
というのは、あれは売り上げ向上だけでなく、店員さんのスキルを向上するためにもやっているというのだ。
「今月のメニュー」として安く提供すれば、当然その注文は殺到することになる。
同じメニューでたくさん注文が出れば、店員さんは、その一ヶ月は、何度も何度も、同じメニューのものを作り続けることになる。そうすれば、そのメニューを作るスキルが集中的に鍛えられるようになるというわけだ。
一月ごとに、集中的に同じメニューを作ることで、練習する機会も増え、得意料理のレパートリーとなっていく。
なかなか賢い方法だと思いませんか?

ただでさえメニューの多い中華料理屋だ。だから、当然、何でもそれなりに料理できないといけないだろう。しかし、特定の料理を集中的に作り続けることで、スキルをあげていくというのは一つの戦略的な研修方法であるといえそうだ。

さて、ここからが教師の話だけど、教師もある意味では「何でも屋」だ。授業も、学級も、部活動も生徒会も、それなりにできていないと一人前とはみなされない。国語の授業一つとっても、文学、説明文、作文、話す聞く、それぞれに膨大な授業スキルと見識が必要とされる。しかし、どれもがその場の勢いで手当たり次第にやっつけているだけでは、仕事に追われているだけで、スキルとしてはなかなか向上していきにくいのではないだろうか。
ある意味「今月のメニュー」のように特化して、自分なりの課題を設定して、一つ一つ学んでいくのが効率的な研修方法であると思うわけだ。

私自身のことを話すと、もともと国語の授業についてしっかりと勉強しようと思っていたので、毎年何となく「これを勉強しよう」というテーマや関心領域を決めて勉強を積み重ねてきた。
それらは地区の研修会や校内研修での研究授業など、何らかの発表をする機会とのタイアップが多かった。だから、一つ一つの機会にうまく便乗して、「今月のメニュー」のように毎年勉強する機会を得ることができたのはラッキーだった。
私の世代は、教員の層としては多くないので、今の若手の先生方よりはずっとそういう勉強の機会には恵まれていたといえるかも知れない。しかし、私はそれほど特殊な例というわけではないだろう。だれでもその気にさえなれば、自分なりにテーマを決めて発表するというのは難しくはないはずだ。

国語教育における「大好き」と「お気に入り」の落とし穴~理解と好悪の絶妙な関係~

「大好き」と「お気に入り」の蔓延
最近、(特に小学校の)国語教育でこんな言葉をよく聞くようになった。
「大好きな……を……ではっぴょうしよう」
「お気に入りの……を……でしょうかいしよう」

もちろん、子どもの自発的な意欲を尊重すると言うことは大切なことだろう。
「大好き」結構、「お気に入り」大歓迎だ。
しかし、教師にとってより大切なのは、「大好き」になるまでに、どのような指導なり、支援をしているかということではないか?

「好き嫌い」について、少し遠回りになるけど、私の経験をお話しする。

私は音楽(とくにクラシック)が好きだ。
たまにコンサートにも出かける。
私はコンサートで聴く曲が初めての場合、必ず事前にCDを買って予習することにしている。
ちょっとずるいかなあと、何となく後ろめたくは思うことは確かだ。しかし、しっかりと予習をして、作品をだいたい理解しておくことは、私にとっては、作品を鑑賞するために必要なことだと思っている。
作品のだいたいを理解できて初めて、その作品の良し悪しが判断できるようになる。
初めて聴く作品を、その場で良し悪しとかは判断できないものだ。

すると、不思議なことが起こる。
はじめは何となく嫌いだった作品が、しつこく聞いていくうちに、全体が理解できるようになり、いつの間にか好きになっていることがあるのだ。
なにごとも、嫌いなのは単に理解不足なだけかもしれない、とりあえず理解しようとつとめることは大切なのだ。

そこで、はじめのテーマに戻る。
こどもの素朴な「好き嫌い」を尊重するのは結構だ。しかし、大して理解もしているわけではないのに、浅はかな直感で「好き」とか「嫌い」とかを言わせることに、どれだけの価値があるのかと言いたいのだ。
「好き」の前提となる「理解」を深める指導なり、手立てをどれだけしているかこそが、重要なのではないかと思うのだ。


理解と好悪の心理学
と、こんな放談をしていたら、お知り合いの心理学の先生がこんな研究があることを教えてくれた。


大抵の音楽は,接触回数とともに好意が増えるという知見はあります。心理学で有名な単純接触効果というものです。何度も聴くうちに内容がわかってきて,理解が流暢になることが理由です。ただし,単純な音楽はそのピークが早く,複雑な音楽はピークがゆっくりと来ます。こちらは最適複雑性理論という考え方で説明されます。本だって,何度も読むうちに次第にほだされやすいものです。小学校などで教科書で触れた作品が多くの人に好まれるのも,そういう理由かもしれません。
元々は記憶や感性認知のモデルですね。正確にはバーライン(Berlyne, D.E., 1971)の最適複雑性モデルと言います。対象への印象が,親近性の上昇に伴い逆U字カーブを描くというものです。知覚される覚醒水準によって説明され,社会心理などでも頻繁に使われる理論です。音楽では,心理学者や認知科学者によって頻繁に使われています。
 クラシックでもその他の音楽でもそうですが,何年か聴いているとある時「ガツン」とその良さに気づくような時もあります。クラシックは複雑性が比較的高いので,時間的経過は重要かもしれませんね。
 学生には,お気に入りのアーティストの新譜を初めて聴いた時「今回はイマイチかなあ」と思うことがあるかもしれないけど,次第に好きになったりする経験があれば,大抵これがもとになっている。と説明します。
 単純接触効果とは繰り返し触れれば触れるだけ好感を感じるというもの、「読書百遍」の効果を言い換えた言葉かもしれない。
 一方、最適複雑性モデルというのは、複雑で難解な音楽は、何度も聞いていくうちに理解できていき、それが「快さ」を感じるという知見らしい。底の浅い、単純な作品は逆にすぐに飽きられてしまうということも、この理論から説明できるそうだ。

ようは、好きか嫌いかというのは、そのものに対する理解度とか、それにどれだけ触れているかということに大きく左右されると言うことだ。これは実感レベルでも納得できることだ。

好きか、嫌いかより、理解しているか、理解していないか。
「大好き」とか「お気に入り」を取り上げるのは、とりあえずいいとしよう、
しかし、好き嫌いや、良いか悪いかという価値判断そのものには、あまり教師は踏み込むべきではないと感じている。それはある面では思想教育であり、極端に言えば洗脳になってしまう可能性があるからだ。
しかし、子どもの好き嫌いを手放しで放置していいというわけではない、それらは理解度とか接する頻度によっても変化していくものなのだから、少なくとも、好きとか嫌いとか、良いとか悪いとか判断できる材料や、そのものへの理解を導くことくらいは、教師がサジェスチョンしてもいいのではないかと思っている。

書くか、書かないか、それが問題だ~教育実践を記録に残すことのささやかな喜び~

実践を書く人と書かない人がいる。
実践記録は「記録」ではあるけど、客観的なデータを残したり、資料としての価値があるということ以上の、教師の成長や喜びにとって不可欠なものだと思う。
では、記録を書くことにはどのような意味があるのだろうか、なぜ記録を書くのだろうか。

1、形になって残るという喜び
過去の授業記録を読み返すと、ついそのときの子どものことや授業の様子が目に浮かんでしまう。夜遅くまで準備したり、先生方と議論したときのことを思い出してしまう。
実践記録にはさまざまな記憶が形として残っている。
私たちの仕事は、モノを作るのではないから、その成果は目に見えず、何も残らない。
しかし、ほんの0.001パーセントくらいは、書いて記録として残すことができる。そんなかすかな仕事の痕跡を、実践記録を通して感じ取ることができる。これはこの仕事をしているささやかな喜びの一つだ。

2、共感を得られるという喜び
実践記録を発表する。ブログで発表したり、いろいろな勉強会などで発表する機会を得る。
そうすると、その発表を通してさまざまなリアクションがかえってくる。質問、反論、議論などなど。
それらの議論を通してさらに学びを深めることができる。
これらは、記録を残さないと決して得られないことだ。勉強し、実践をし、そして記録を残すことで、さまざまな質問や反論や議論などの意味も理解できる。
傍観者として、批評家として見て、語っているだけでは、実践の議論は絶対に理解できない。
実践を発表し、それへの反応から学ぶことができることも、記録を残すことで得られる喜びだ。

3、自分の成長を実感するという喜び
実践を記録に残そうとする、そうすると、いかに自分が文章が書けないかが分かる。
いかに自分が独りよがりであるかが分かる。
以前書いた実践を読む、そうすると、以前の自分の未熟さ、不勉強さに思わず恥ずかしくなる。
過去の実践の不勉強さに恥ずかしくなる自分は、きっと一歩前に進んだ自分なのだ。
記録を残すことで、自分のふがいなさ、不勉強さを身にしみて感じることができる。そして、人は他人との比較ではなく自分との比較を通してしか、成長していかないのだとさえ思う。

地域の国語科の研修会が、勤務校で行われる。
そのときにお土産として、私の最近の実践記録を配布することになった。
自分の記録をまとめ、印刷し、ホチキスで綴じ込みながら、あらためて記録を残すことの意味について考えてみた。

2013/07/29

「話し合いましょう」撲滅運動~「交流」を学習活動に生かすために考えて欲しいポイント~

「『話し合いましょう』撲滅運動とは、物騒なタイトルです。
が、気をひくためにちょっと盛ってタイトルをつけてみました。
つまりは「話し合いましょう」というだけでは「話し合い」はできない、ということを伝えたいわけです。

でも、「さあ話し合いましょう」と先生が言って、生徒たちが途方に暮れている「話し合い」って結構よく見かけると思うんですよね。自分もそんな失敗を(今でも)数多くしてきています。
「さあ話し合いましょう」といってスムーズに話し合いができるのならば、素人だって授業ができます。しかし実際は(特に中学生は)、そう簡単には話し合いに取り組まないのが現実なのではないでしょうか。
 「さあ話し合いましょう」と投げかけるだけではなく、もう少し具体的な手立てができないものか。話し合い(交流)を成立するためにはどのようなことを教師が考えなければいけないのか、つらつらと考えてみたことを「『交流』を学習活動に生かすために考えて欲しいポイント」としてまとめてみました。是非参考にしていただければ幸いです。


1.交流を活かした授業作りの視点

交流を活かした授業作りの視点1
 【交流の基本原理】
  •  交流を行うための前提として、お互いが「違い」を認め合い、関わり合って学ぶことのできる人間関係の土壌作りが必要です。
  •  お互いの「違い」を理解し、認め合ってますか。
  •  「違いから学びが生まれる」ということの意義や価値を理解していますか。
  •  どんな生徒とも、お互いに関わりあって学ぶことができていますか。


 交流をしあって学ぶことで一番大切なのは、学習者である生徒自身が、お互いに「違い」をわかり合い、その違いを乗り越えて新たな意味や価値を生み出すことを理解していることです。
 能力の差や意見の相違などを乗り越え、互いを尊重し合って、他から学ぼうという意欲がわかない限り交流による学びを成立させることは難しいでしょう。
 そのためには、日頃から、お互いの差異を尊重し合い、学び合うことの価値や意義が感じられるような活動を、教師が意図的に設定していくことが必要となるでしょう。そして授業以外でも、学級の中で気軽に質問し合ったり、意見を言い合えるような、和やかな人間関係ができるように、教師が意識していくことが重要なことはいうまでもありません。
 また、違いから学ぶ交流を進めるためには、学習課題にも配慮が必要です。お互いの優劣が際立ち、「優等生」などの特定の生徒だけが常に活躍するような活動は慎むべきです。優劣の差ではなく、お互いの違いがプラスにはたらくような課題設定を心がけるべきでしょう。
 お互いの違いや葛藤があればあるほどよいのが、交流を生かした学習の基本的な原理です。お互いの違いに目をつぶり、同調したり、画一化したりするような活動では、交流が十分に学習に生かされることはありません。
 もっとも、クラスにこのような和やかな人間関係がないからといって、交流を一切授業に取り入れるべきではないと言っているのではありません。はじめのうちは、交流がぎこちなくてもよいのです。交流をする負荷が低く、楽しく意欲的に取り組めそうなものから取り組んでいき、徐々に、誰とでも交流ができるような関係性を作っていけるような、長期的な視点を持った指導が必要だと思います。

○授業作りのヒント
 「人間関係作り」という視点も含めた学習活動を意図的に設定しましょう。

 グループエンカウンターやワークショップのアイスブレイクの手法などは交流の授業作りに活用できます。
 はじめは交流の負荷が低い活動がおすすめです。

 匿名で読み合って他の人のよいところを指摘し合うような、認め合いや褒め合いをメインにした交流から取り組んでみたらいかがでしょう。



 交流を活かした授業作りの視点2 
 【言語活動の特徴】
  •  交流は言葉を交わし合うことで行われます。それらの言語活動の違いや特徴をふまえて交流に取り組むようにしましょう。
  •  話し合いと書き合いとでは交流の質は異なります。その違いを理解した上で交流に取り組ませていますか。
  •  感想・意見・質問など、「話し合い」とひとことで言ってもさまざまな言語活動が含まれています。これらの中の、どのような言語活動をさせるのか区別していますか。 


 言語活動の表現様式に応じた特徴を見極めて交流に取り組むをことが効果的です。
 たとえば、交流には話し合って(聞き合って)交流する場合と、書き合って(読み合って)交流する場合があります。この場合は音声言語(はなすこと)と文字言語(かくこと)の違いや特長を十分に吟味することが必要です。
 お互いに説明しあう場合、「話して」説明するのだったら、相手の反応を見て、柔軟に説明する言葉を言い換えたり、理解度を確認するようなやりとりができるように取り組ませていきたいものです。また、「書いた」もので相手に説明をするのだったら、読んだだけで理解できるように、言葉が不十分で伝わりにくくならないように配慮して書くなどの意識も必要となるでしょう。一番最悪なのは、書いている文章を、ただ読み上げているだけの交流です。これでは書き言葉も読み言葉も、どちらのメリットも生かされません。
 話し言葉や書き言葉だけでなく、言語活動にはさまざなな種類があります。たとえば、感想や意見、質問など、それぞれに交わす言葉に違いがあります。その違いを区別して、どのような言語活動をしていくのか明確にさせることが必要です。

○授業作りのヒント
 交流は「話し合い」だけではありません。

 「書き合い」や「読み合い」も立派な交流です。
 付箋にコメントを書いて貼ったり、作品を回し読みしてコメントを書き合ったりするなどの「読み合い」「書き合い」も有効です。
 「話し合い」による交流では、状況に応じて臨機応変に変化させる柔軟性や、熱意を持って語ったり、意識を集中させて傾聴することなどのノンバーバルな要素も重要になってきます。
 たんに「話し合いましょう」と指示するのではなく、「紹介し合いましょう」「助言し合いましょう」「意見と理由を述べ合いましょう」「質問し合いましょう」のように、具体的な言語活動を提示することと、交流がぐっと締まったものになります。


 交流を活かした授業作りの視点3
【交流の機能】
  •  交流にはさまざまな機能があります。その機能を明確に意識し、ねらいにそった交流を行うことが大切です。
  •  何のために交流をしているか、目的は明確ですか。
  •  そのために、どのような言語活動を組み合わせていますか。交流の機能や言語活動の設定を、意図的に組み合わせていますか。


 交流にはさまざまな働き(機能)があります。
 交流の目的や機能について、コミュニケーション構造を分析した渡辺通子(2008)の論*1を参考に、学習者相互の関係性や異質性の違いが、どのように交流に働くのかを分類し、以下のように交流の機能を整理してみました。


交流のパターンとその機能
A、共感的交流
 お互いのよいところを指摘しあったり、たたえ合うタイプの交流です。
 お互いが作った作品などを見合ったりするときの交流に適しています。
(交流の目的)相互に認め合う・わかりあうための交流。学び合うコミュニティーの形成。
(交流の機能)他者を受容し理解する。良いところを認め合う。
                                 
B、累積的交流
 意見を持ち寄り、どんどん増やしていくタイプの交流です。
 ブレインストーミングなどのアイデア出しの話し合いや、多様な観点から意見を出し合って広げる交流に適しています、
(交流の目的)互いに多様な意見を出し合い、ものの見方や考え方を広げる。
(交流の機能)発想を広げる。拡散的に思考を広げる。

C、連鎖的交流
 他の人の意見につなげて広げていくタイプの交流です。
 マッピングなどで情報を広げていくような話し合いに適しています。
(交流の目的)他と発想を関連させつつ発展させていく。
(交流の機能)発想を関係づけて広げる。連想する・関係づけをする。

D、探索的交流
 テーマや課題に向けて、意見をまとめ上げたり、絞り込むタイプの交流です。
 グループで一つのことを決めたり、意見を言い合ってまとめる話し合いが適しています。
(交流の目的)一つのテーマに沿って考えを深めたり、まとめたりしていく。
(交流の機能)情報を収束させる、認識を深化する。意見を合意形成する。

E、批判的交流
 お互いの考えに対して意見を言ったり、反論や評価を述べ合うタイプの交流です。
 討論(ディベート)や相互評価などの交流に適しています。
(交流の目的)観点をもって相互に考えを述べ合ったり評価(批評)しあったりする。
(交流の機能)観点に沿って評価する。批判的思考(クリティカルシンキング)をする。

 このように、交流には、お互いがどのような目的や意識で関わるかによってさまざまな機能があることが分かります。
 交流を生かした学習に取り組む際には、何のために交流をするのか、どのように交流をするのかという目的や機能を明確にさせて取り組むことが必要です。この目的や機能が散漫な「話し合い」を設定してしまったら、生徒たちは、何のために、どうやって話しあったらいいか混乱してしまうことになります。

○授業作りのヒント
 交流をするさいは、たとえば次のように「交流の機能」を意識した教師の言葉かけが有効です。
A、共感的交流
 「それぞれの作品のよいところを指摘しあいましょう」
 「お互いの意見の中でいいなとか、参考になったなと思うのものを言い合いましょう」
B、累積的交流
 「お互いに考えを出し合い、なるべくたくさんの種類の意見が出るようにしましょう」
 「一つの見方だけなく、さまざまな見方や考え方ができないか、話し合いましょう」
C、連鎖的交流
 「他の人の意見につなげて、関連した自分の意見を言い合いましょう」
 「……というテーマに関連づけて、質問したり意見を出し合ったりしましょう」
D、探索的交流
 「……という点から、最も優れているもの(適しているもの)を話し合い、三つに絞りましょう」
 「お互いの意見の中で、共通する要素をまとめて一つの文で表現しましょう」
E、批判的交流
 「……というテーマについて、お互いの意見を検討し、質問や反論をしましょう」
 「お互いの作品の優れているところや、改善した方が良いところなどを指摘し合いましょう」


2.交流の機能を課題解決のプロセスにあてはめる
 課題解決のそれぞれのプロセスにおいて、交流を活かすことができます。
 そのためには、それぞれのプロセスにあった交流の機能を選択し、展開させていくことが重要です。
 グループで新聞を作る活動を例に挙げて考えてみましょう。
 はじめに、どんな記事を書くか意見を出し合う段階で話し合いをするとします。この段階の話し合いでは、とにかくアイデアを数多く出し合う、【累積的な交流】を活かしたブレーンストーミングが有効でしょう。この段階では、意見を否定したり絞り込んだりしてまとめることはせずに、とにかくたくさん意見を出し合っていくのです。
 十分に意見を出し尽くした後で、たくさん出たアイディアの中で、よりふさわしい記事は何かを話し合ってまとめていきます。この段階では【探索的な交流】に取り組ませるようにします。
 記事が仕上がったあとは、お互いの記事を厳しい目で読み合って推敲や相互批評をしていきます。不適切な内容や表記は、ここで正さていきます。この段階では【批判的な交流】が活きてくることでしょう。
 最後に、完成した新聞を出版し、他のグループと交換して読み合いをしていきます。この段階では批判は禁物です。お互いに楽しく読む味わうことが何よりも大切にされないといけません。【共感的な交流】をして、お互いのよいところを積極的に評価しあえると、この新聞作りの学習での達成感をより高めることができます。
 このように、学習活動を効果的に行うためには、それぞれのプロセスで交流を取り入れることが効果的です。ただし、課題解決のプロセスにあわせて交流を設定し、交流がより効果的なものとなるように配慮することが大切です。







2013/07/28

これからの「読むこと」指導の課題(説明的文章編)

説明的文章を読む学習を取り上げる際、従来の「書いてある内容を的確に読み取る」という学習だけでなく、以下の視点が課題となるだろう。

1、目的や方法意識を持って文章を読む学習
従来の説明的文章を読むことの学習では、与えられた文書を、教師に教えられた読み方で、忠実に読み取っていく学習が進められてきた。
ポイントを押さえた教師の発問や、課題の提示で、正確に読み取る読み方が奨励されてきたといってよい。
これからの説明的文章を読む学習では、「何のために読むか」という文章を読む目的意識や、「どのように読んでいくか」という方法意識を明確に持った学習をすることが課題となるだろう。
なぜなら、社会に出てからは、文章を読むときに目的や方法意識を持つことなく読むことというのはおよそあり得ないからだ。

2、文章の意図や効果を読む学習
何が書かれているかという内容を読み取るだけでなく、その内容を書き表している表現の効果や意図まで読み取ることのできる力が必要だろう。
たとえば、同じ事柄を説明するときに、どのような語尾や文体を用いるかで読み手に与える印象はかなり異なったものとなる。
何を取り上げ、なにをあえて取り上げないか、という「事柄の優先順位」や「事柄の選択」のなかにも、書き手の意図は濃厚にあらわれるものである。
そのような、書き手の意図や表現の効果をクリティカルに読み解く視点を持つことは、さまざまなメディアや膨大な情報に囲まれた社会に生きる私たちにとって必要な読む力であろう。

3、「読解と読書をつなぐ」ことをあらためてとらえ直す
社会で人々が触れる情報量はここ数年で急激に増加をしている。文字情報だけをとっても、以前は書籍や新聞などのわずかメディアであったが、近年では圧倒的にwebからの情報量が拡大している。「読書」=「本を読むこと」の意味合いは、今後ますます薄れていくことだろう。
そのような、膨大な情報に囲まれた社会に対して、いままでの説明文を読む学習がどれくらい対応できていると言えるだろうか。
国語教育の課題として「読解と読書をつなぐ」ことの重要性は以前より言われてきた。
もう一度、これからの時代の「読解」とは何か、「読書」とはどのようなものか、とらえ直す時期にきていると思う。
そのような視点を持たず、教科書の読み取りのみに汲々としているような国語の授業であるならば、早晩国語科は消滅することだろう。

2013/07/16

授業実践 批評入門「ドラえもん短歌」を批評しよう(中3)


批評入門「ドラえもん短歌」を批評しよう(中3)

1時間目
①「ドラえもん短歌」をいくつか紹介。
 →→ 一見子どもっぽい短歌だけど、大人の目線で読み込むと深くよめる。
②教科書「それはトンボの頭だった」を範読。
③解説・感想・批評の違いを考える。
 解説……内容をわかりやすく説明する。
 感想……自分の感じたことを表現する。
 批評……対象を評価する。作品から自分の考えを述べる。
④「それはトンボの頭だった」の批評の表現の特徴を指摘する。
 ・内容……短歌への評価・最後に作品から発展して自分の考えを主張している
 ・形式……突っ込み・語りかけ・疑問点から解釈、そして自分の考えへと自問自答している。

2時間目
①批評のモデル文を読む。
②ドラえもん短歌のなかで教師が選んだ作品一八首を読み、そのなかから批評したい作品を選ぶ。
③作品を分析・解釈する。
 短歌の解説・この短歌の心ひかれた点・短歌への問い・問いに対する自分の答えの、四項目についてワークシートに記入する。
 →「心ひかれた点」が、西尾実の言う「直観」にあたり、そこから「自問自答」の解釈に引き込み、そして「判断・評価」の批評として表現させる。
④同じ短歌を選んだ人同士で集まり、解釈を交流する。
⑤批評文を書く。
 この批評文には、②で整理した内容と、③で交流した内容をまとめるとできあがる仕組み。

生徒の批評文は次のようなものができあがった。


 「ドラえもんが好きだと言える人だった 羨ましくてにくらしかった」

 この短歌は、「ドラえもんが好き」と言える人に対しての作者の気持ちをうたった短歌である。
 わたしは「羨ましいのににくらしい」という気持ちにとくに心ひかれた。
 ではなぜ羨ましくてにくらしかったのだろう。多分ドラえもんというのを「夢」にたとえているのだろう。大人になると、子どものときと同じように夢が見れなくなり、現実ばかり見てしまう。その中で「ドラえもんが好き」と言える人はやはり羨ましくてにくらしいのだ。私は大人になっても夢を持ち続けるのは大変だと思った。


『またドアが壊れちゃって』と言い訳する日々なのか僕の未来は」

 この短歌は、「今の自分から変わりたい」という意志をうたった短歌である。
 「  」を使った自分の口癖に対する悔しさや悲しさを表しているのだが、そこに「未来の自分」を考える作者の希望も垣間見えている点に心ひかれた。
 この作者はどんな人で、誰に対する言葉だったのだろう。
 私は、いつも遅刻ばかりしている少年が、友だちに対して言う言葉なのではないかと思う。でも、そんな自分がくやしい。そんなどうでもよいことで、信頼を失いたくない、自分の人生をムダにしたくない、という気持ちがあるのだろう。
 作者はこの少年を通して、読者に「今の自分」を見つめ直す機会を与えているのではないか。


「批評」の授業をどう構想するか

「批評」の根底にあるのは対象への「問いかけ」

 「批評家」とか「評論家」と聞くと、何となく「自分では何も生み出さないくせにけちばかりつける人」というイメージがつきまとう。
 「批評」には「揚げ足を取る」とか「難癖をつける」「冷たい」というイメージがあるようだ。
 この「批評(クリィティシズム)」の根底にあるのは「批判的思考力(クリティカルシンキング)」。
「批判的思考力」も伝統的な国語教育の世界ではすこぶる評判が悪い。
だいいち「批判的」という言葉からして悪い。これはふつう「非難する」という意味で使う言葉だ。だから「批判的思考」というと「頭ごなしに批判する」という誤解を誘発する。「批判的思考」とか「批評」ということばは、まだ、日本語としてこなれていないのだ。「批評」に対するこの世間一般の認識は、日本人の思考にとって、とてもマイナスであると思う。
 批判的思考力は、ものごとを表、裏さまざまな面から検討し尽くし、他面的に探究することをいう。
 欧米では批判的思考力と同列に、創造的思考力(クリティカルシンキング)・論理的思考力(ロジカルシンキング)の3つを併置させることが一般的である。
 創造的思考力の根本は「生むこと」(創造)
 論理的思考力の根本は「つなげること」(関係づけ)
 そして批判的思考力の根本は「問うこと」(省察)にあると考えている。
 なぜか、本当か、正しいか?
 そのように、常に対象に問いかけ続けることこそ批判的思考力の根本であり「批評」であると思う。
 「批評」を授業の学習として展開させるためには、いかにして子どもが対象に対して「問いかけ」をするようになるか「学びの仕掛け」を作ることにあるのだろう。

  「批評精神」というものがもしあるとするならば、作者(テキスト)と対話してみたいという気持ちを指すのかもしれない。テキストに対して賛同したり反感したり、くってかかったり評価したり。たとえ批評スキルが未熟でも、批評精神が旺盛な人間は、批評を表現し、それを他者にさらしていくことで批評力も高まっていくように思う。

 批評に関わる「読解力」の記述で分かりづらいのが「熟考」。
この熟考は英語にすると「Reflection」という。これは、反射とかふりかえりという意味がある。テキスト(他者)と対話し、フィードバックを得てメタ認知し、自己の考えをどんどん深めていって、更新していくことととらえることもできる。
 「読解力」は、自分の考えを述べる「批評」を重視している。自分の考えには正解はない。つねに自分の考えは他者(または自己内他者)によって否定され、そして止揚していく。
「批評」もまた、絶え間ないReflection(反射・ふりかえり・メタ認知)によって更新されていくべきものなのではないか。

「批評」の授業をどう構想するか

「批評」の授業のポイント
1、批評の定義
 批評とは,対象とする物事や作品などについて,そのもののよさや特性,価値などについて,論じたり,評価したりすることである。(学習指導要領国語科解説より)
 
・批評文の特徴
 テキストのどの部分を取り上げたようとしているか「引用」あるいは「根拠」が示され、
その引用されたテキストに対する分析や説明などの「解釈」を含み「解釈」をもとにした「評価」が表現される。
 
◇すぐれた批評とは何か
 ・テキストへの深い理解や解釈から生まれる批評
 ・テキストに新しい光を当てる批評
 ・テキストの魅力を引き出す批評
 ・批評の新しい方法、新しい表現が見られるもの
  →批評とは、テキストという鏡を通した自己表現でもある。
 
2、批評の方法
①〈批評のスタート位置の設定〉批評の目的や自分の立ち位置を明確にする。
 ・何のために批評するか、何を、どのように批評するか、課題を把握し、目的意識を持つ。
  (教師が課題を与え、方向付けをすることが多い)
 ・さらには、自分がどういう立ち位置で批評しようとしているか、批評する時点での自分の考え  や立場を明確にすると批評がよりクリアになる。
  (言葉の定義づけ、批評する前の自分の見解、批評する自分の立ち位置など)
 
②〈テキストを観察し、解釈する〉そのものの良さや特性、価値などをつかむ。
  批評するためには、その対象を的確につかみ、解釈することが必要である。
 (何を)
  ・書かれている内容
  ・かかれた表現(語句・描写・構成など)
  ・作者の意図、メッセージ
 (どうする)
  ・観察する
  ・分析する
  ・比較する
  ・統合する
  ・知識や経験と関連させて考える
 
③〈テキストを評価する〉作品の特徴をつかみ、そのよさを論じたり、評価したりする。
  評価の観点(批評の切り口)を決める
  テキストは、評価の観点から光を当てることで批評をすることができる。
  批評の目的から照らして、どのような評価の観点を設定すればよいか考え、
  適切な評価の観点を設定して分析的、客観的に評価を下す。
  A、評価の観点を決める→B、解釈する→C、評価する
  ABCを往還させて批評の制度を上げていく。
 
3、批評の学習のポイント
 ①「批評文」のイメージを持たせる
  批評文の要素が入っている例文を提示して、意見文や感想文との違いをつかませる。
  意見文……自分の意見を主張する文章
  感想文……自分の感想を述べる文章
  批評文……ある対象やテキストに対する自分の評価を述べる文章。
 
 ※中学生が読んでもわかるような批評文のサンプルが必要!批評文を書かせるためには、批評文の文章構成や批評文特有の語彙、書き出し文を与えることが有効では?
 
②適切なテキスト
 学習者にとって愛着が持てたり、身近なテキスト
 さまざまな人によって評価が分かれるテキスト
 どのような解釈をも包み込む懐の深いテキスト
 学習者が批評したいと思えるような手頃なボリューム(内容のレベル・文量など)のテキスト
 国語の学習として価値のあるテキスト
 
③鋭い批評の観点を設定する
 どのような問を持ち、どのようなり切り口で読んでいくかが最も重要。
 中心となる観点は、次の3つ。この3つを,テキストにそってカスタマイズすることが必要。
 ・このテキストからどんなメッセージを受け取ることができるか
 ・そのメッセージをどのような内容で表現しようとしているか
 ・その内容を、どのように表現しているか、表現の効果は?
 
④批評に交流を生かす
 批評は、多様な解釈とふれあうことでより客観性を増し、説得力のあるものとなる。
 批評を豊かにするための仕掛けとして交流活動を行うことはとても有効。
 
 例えば、以下のような交流のタイミングがあるだろう。
  ・テキストをグループで選択する。
  ・テキストについてのそれぞれの感想を述べ合う。
  ・批評の観点の候補をグループで出し合う。
  ・一つのテキストを協同で評価する。(ジグソーを組む)
  ・観点にそって解釈した内容をグループで交流する
  ・評価した結果を交流し合う。
  ・批評文を読み合い、表現内容について交流する。



2013/07/13

「書きぶり」という言葉が好きでない。

「書きぶり」という言葉が好きでない。
・なにかすごそうなことを言っていそうで、実は大して内容もない空疎な言葉だから。
表現の工夫とか、文体、口調とかのように具体的に言ってくれた方がまだよく伝わる。
・「書きぶり」は、何となく,文章よりもむしろ書道の書体を連想させる。見てくれとか格好のような外面的な特徴を連想させる。文章の内容とか流れを強調するならむしろ「書く」よりも「えがく」とか「述べる」とか「語り口」とか「綴る」のほうがしっくりとくる。
・「ぶり」っていう言葉の響きがいやだ。
いったい誰が言い出したんだ?
こういう言葉を無批判に模倣するのもどうかと思う。
私は絶対に「書きぶり」って言う言葉を使いません。

「分かりやすい文章」とは何か?

「分かりやすい文章」とは何か?
パソコンのマニュアルのように、「的確に」操作をナビゲートする「わかりやすさ」がある。
一方、薬の説明書や法律の条文、保険の約款のように、誤読の余地を極力排除し、「正確に」内容を伝えるという「わかりやすさ」もある。
前者の「わかりやすい文章」は、情報を絞り込み、順序や構造を意識してあっさり、シンプルに伝えることなどが求められる。
後者は、誤読の余地のない用語の厳密な仕様や、誤読を想定した幅広い視野からの(くどくどしい)説明を必要とする。(「電子レンジに猫を入れて温めないでください」のように)
両者とも目的に応じて適切に伝えるためには必要なことだ。
「分かりやすい文章」を書かせるという授業を提案する場合「分かりやすい」ということの内実を厳密に定義し、ターゲットを絞り込むことが必要だ。

ちなみに、以前「わかりやすさ」に関連して「不親切な文章」を書くことの原因について次のような拙文を書いているのを思い出した。→こちらの投稿

最近は、ネット上での文章表現でかなり多様な表現がなされるようになってきた。
リンクを張って、説明を構造的に示し、たどりながら読ませる。
注釈のためのリンクを張りめぐらす。
専門用語などの詳細な部分の説明は省き、各自で検索してもらうように促す。
ネット上の文章は、論文のような一直線の長ったらしい表現は嫌われる。
段落構造を持った重厚な文章よりも、箇条書きのように、フレーズが並んだ文章のほうが読んでもらいやすいともいわれる。
私も、論文などをネットにアップするときは、段落をくずして改行などを多用したり、一文を極力短くするように書き替えている。
ネットに長時間むかって同じ文章を読むというスタイルはどうやらなじまないらしい。(テレビとyoutubeの動画の長さの関係も同じ構造だ。YOUTUBEで一時間以上ある動画は、よほどの物好きでない限りまず見られない)
そのへんの、ネット時代における「分かりやすい」文章表現のあり方についても、今後は学習内容になってくるだろう。(そのまえに、自分がネットで分かりやすい文章を書けるようにならないと)

2013/07/10

作文コンクール必勝法

夏休みの宿題は、作文コンクールに向けての作文を各自で書いて提出させることにしている。長い休みなので、一年に一度くらいは5枚くらいのまとまった量の文章を書く経験をさせたいと思うからだ。
コンクールに向けての指導めいたことはほとんどしていない(添削したり、書き直させたり)。
しかし、今年から次のような”必勝法”を伝授することにした。(必勝法というほどのものではないが)

作文コンクールを全力で取り組みたい人へ
 ~コンクール必勝の極意~
一、自分にしかかけないオリジナリティーある経験やインパクトのある内容を目指そう。(身近な出来事やとっておきの経験などは好印象!)
二、HPなどで、過去の入賞作などを調べ、どのような作品が良い作文なのか、じっくりと対策を練ろう。(コピペは厳禁!)
三、作文テーマに関連する情報を本で読んだり、人に聞いたり、ネットで調べるなどの取材をしよう。
四、必ず事前に構想メモを書き、全体の構成を考えて、バランスの整った記述を心がけよう。
五、作文の構想や下書きを、家族や他の人に話し、色々な人からアドバイスをしてもらおう。
六、作文の文章量は規定を守ろう。(入賞者は、最後の行まで埋めて書いています)
七、もちろん、清書は濃く、大きく、丁寧な読みやすい字で。濃い鉛筆かペン書きで清書するのがおすすめです。
 ~自分にしか書けないことを、自分の言葉で、そして、誰が読んでもわかるように~

しかし、作文コンクールにせよ、何にせよ、作文は圧倒的に内容、話題が一番だ。どんなレトリックを駆使したところで、内容が魅力的なものを取り上げないことには、厚化粧をしているだけ醜悪だ。中身のない美文ほどむなしいものはない。

2013/07/08

文学作品の「わからなさ」を楽しむための方法

意外に多い「賢治嫌い」
今日の大学院の授業では宮沢賢治の作品についてディスカッションをした。
が、そのゼミにいる学生&先生全員が賢治作品は苦手という事実が発覚!
賢治作品があまり好きでない人って、結構多いんだなあと言うことに驚かされた。
特に、国語の授業で賢治作品を取り上げたときのつまらなさは尋常でなかったらしい。
ただでさえわかりにくい賢治作品を、教師の一方的な解釈で教え込まれた経験に辟易とさせられたからだそうだ。いかにもありそうなことだ。
この、ゼミでのディスカッションを通して学んだことは、「賢治嫌い」の人にとっては、「賢治作品ってわからなくっていいんだ、わからないところがおもしろいんだ」ということに気づいてもらうことが、まず何よりも大切なのだと言うこと。
「賢治嫌い」の人は(私の主観だけど)、素直で、まじめな人が多いような気がする。「どこかに正解があるはず」と思って一生懸命読もうとすると、ますますわけがわからなくなる。とてももやもやとした、おさまりの悪い読書体験になる。「正解」を求めるような読みは、賢治作品ではきっと不向きなのだ。

「わからなさ」を楽しむ方法
賢治作品でも村上春樹でもカフカでも何でもいいけど、わかりにくい文学作品を授業で扱うときは、むしろこの「わからなさを楽しむ」ことを大切にすべきかもしれない。
文学作品のなかの「わからなさ」や「違和感」をどう楽しむか、という、「わからなさ」を楽しむための方法を学ぶことことは、文学の学習の中で、もっともっと取り上げてもいいかもしれない。
ポイントは、自分がわからないとか違和感を感じた、その根源を探ること。
「きっとこうなるはずだと思っていた(けど、賢治の表現で違う)」とか
「普通はこう展開するはず(だけど、賢治の作品ではこうなった)」など。
自分の無意識の前提とか、常識とか、パターン、文学観を、賢治とか春樹とかカフカの「鏡」を当てることで、明らかにしていく作業だ。
「ぞうきんほどあるオムレツ」って僕だったらそんな言い方しないよなあ。とか、
「グララアガアっていうオノマトペ、なんかあり得ないんだけど、印象に残るんだよなあ」とか
「白象って、自分がイメージしていたよりも、意外に、本当に何にもできない、だめな登場人物なんだな」などのように、自分の中の、暗黙の期待、前提やこだわりを発見していく作業。
そう考えると、「わけわからない」作品を読むことの中にこそ、自分が何にこだわって読んできているのか、暗黙の「読み」を浮かび上がらせ、気づかせるきっかけとさせることができるかもしれない。

宮澤賢治『オツベルと象』の魅力

はじめに ~『オツベルと象』は傑作か、駄作か~
 『オツベルと象』は宮澤賢治の童話の中でも数少ない、生前に発表された童話の一つである。教科書では昭和28年に取り上げられて以来、賢治作品の中でも、最も息が長く中学校の授業で学習されてきた作品である。
 しかし、『注文の多い料理店』や『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』などと比較して、賢治作品の中で必ずしも人気の高いものとは言いがたい。『オツベルと象』が賢治作品の中で一番好きだという人はあまり聞いたことはない。謎めいた設定、荒唐無稽な展開、そして感情移入しにくい登場人物などが原因であろうか、他の作品ほど魅力的で優れているとは言いにくい作品であるのかもしれない。
 私は、中学校現場で一〇年以上『オツベルと象』を国語科教材として読んできたが、この作品ほど、読み込めば読み込むほど味わいの増すものもないと感じている。そこで、私の感じる『オツベルと象』の魅力とはどこにあるのか、あらためて整理をしてみたい。

一、登場人物の魅力
 『オツベルと象』の,魅力の一つは、多彩な登場人物の存在にある。
主人公「白象」
 この象は「白」の色彩が象徴するように、純粋、無垢、素直という性格を想起させる。 また、この「白」は「白痴」の白でもあるだろう。白象は、白痴であり、愚直であり、「デクノボウ」である。オツベルに課せられた仕事に嬉々として取り組むものの、搾取されていることにはついぞ気づかない。苦しくても、仕事を拒否したり、オツベルに苦情を言おうともしない。もちろん、抵抗するという発想さえない。
 さらには白象の「白」は他の象の仲間たちとの差異を際立たせる、突然変異のアルビノ種としてのスティグマを暗示するものでもある。象の仲間たちから外れた存在である白象は、何らかの理由で「山」での生活から離脱し、人間のいる世界へと「降りて」くることになる。(ちなみにヒンズー教のガネーシャ神も白象である)
 このような白象の無垢・無知・愚直な性格が、後半のオツベル襲撃という悲劇を生むことになる。
悪徳資本家「オツベル」
 この「オツベル」という名前が、どこの土地のものなのかがわからない、謎めいたものであるが、この人物像は、労働者を搾取するありがちな悪徳資本家の姿として描かれている。ほとんど人格のない,ロボットのような「百姓ども」をこき使い、自分はろくに仕事もせずに、高価なパイプをくゆらせ、ビフテキを食べる毎日を送っている。白象や百姓を労働力として利用するだけ利用し、消耗品のような形で酷使する。百姓どもからは全く信望がなく、オツベルが象に襲撃された時は誰一人助けてくれるものはいない。これも、オツベルの性格が引き起こした自業自得の結末と言えるだろう。
語り手「牛飼い」の存在感
 白象やオツベルとともに欠かすことができない存在が「牛飼い」である。この牛飼いのは冒頭の一行「ある牛飼いが物語る」にのみ、その存在がおもてに示され、以後、物語世界内語り手の狂言回しとして、背後に回り、牛飼いの視点で世界が進められていく。三度反復される「オツベルと来たらたいしたもんだ」というセリフは、牛飼いの感情が突出する数少ない表現である。このセリフは、はじめは、オツベルの手腕に対する賞賛を示す。しかし、そのうち、あまりにオツベルの冷酷な手法にあきれ、アイロニーへと転化していく。牛飼いも、オツベルも、ともに動物をパートナーとして生業をおくる存在であるが、その牛飼いから見ても、オツベルの「動物虐待」や酷使は目に余るものであったことがここで示されることになる。
 なお、最後の一行である「おや、(一字不明)、川へはいっちゃいけないったら」は、常に問題になる部分であるが、牛飼いの語りとして素直に読めば、牛飼いが語りに没頭している間に、自分の飼っている牛が川に入ろうとしている〈逃げる?)ことを制した言葉とみるのが妥当であろう。(後述)

二、荒唐無稽な展開
 この作品の理解を難しくしているのが、物語のストーリーが一気に発展する荒唐無稽の展開や飛躍にある。
都合のいい救世主、月
 白象がオツベルに酷使されるものの、なすすべもなく立ち尽くすところに、問題を一気に解決する救世主が現れる。それが「月」である。
 白象は毎晩、月(サンタマリア)に向かって自分の気持ちをつぶやいているが、いよいよ白象が追い詰められた段階になってはじめてその月が返事をする。そして「仲間へ手紙を書いたらいいや」という解決策を提示する。その手紙のプレゼンターが赤衣の童子(菩薩の従者だという)である。
 白象は毎晩月に自分の状態を報告している。だから、月は白象の状況を逐一把握していたはずである。にもかかわらず、いよいよ切羽詰まったピンチにならないと手をさしのべようとしない月も、ある意味理不尽で都合のいい存在ではある。また、突然何の脈絡もなく登場する「赤衣の童子」の存在も、読者を混乱させる。

三、読者にゆだねられた謎
最後の一行の解釈
 結末にある「おや、(一字不明)、川へはいっちゃいけないったら」は、いったい誰が、誰に向かって言った言葉なのだろうか? (一字不明)はどんな言葉だったのだろうか。
 この問題はさまざまな解釈が存在し、解決を見ていない。
 たとえば、授業でこの一行を子どもに問いかけると次のような意見が出る。
 ○白象がよろよろとよろめいて川に落ちそうになったから。
 ○白象が三途の川を渡ろうとしている。
 ○話を聞いている子どもたちに向かって言った。
など。
 しかし、私は先述したように、このセリフが、他の象や白象のセリフのときに記述される「 」の表現としてではなく、地の文で表されていることから、牛飼いのセリフだと解釈している。

結末の「寂しく笑って」をどう解釈するか?
 白象がオツベルの手から救出されたときに、仲間の象に向かって「寂しく笑」い、礼を述べている。このアイロニカルな表現は、作品中最も重要な箇所として必ず授業に取り上げられている。
 なぜ白象は寂しく笑ったのか、一つの見解に絞り込むことはとうていできないだろう。さまざまな、矛盾した、複雑な思いが重層的に重なり合い、「淋しさ」と「笑い」を生んだのである。
 たとえば、白象は、このとき、以下の感情を抱いているとは考えられないか。
 ○大好きな仕事ができなくなって寂しい。
 ○自分を世話してくれたオツベルが死んでしまって寂しい。
 ○人間と共生できなくて寂しい。
 ○自分の不手際で、仲間の象に迷惑をかけてしまって申し訳ない。
 ○自分の手だけでは、解決することができなくて、自分の無力さがふがいない。
 ○仲間の象が、自分の意図(助けること)とずれた行動(オツベル殺害)をしてしまったから。
 ○楽しかった人間の世界での生活ができなくなることへの寂しさ。
 ○疲れていたので、さわやかに笑顔になれなかった〈寂しげな表情に見えた〉
 これらの白象の思いをオープンエンドに話し合い、感想を交流するのはとても楽しい学習活動になる。

四、宮澤賢治独特の表現を味わう
 賢治作品に共通するのが、風変わりな言葉の使い方である。
 とくに『オツベルと象』においても、比喩やオノマトペの使用が独特で、イメージを喚起される。
 ○のんのんのんのんのんのんのんのん……稲こき機械が稼働する音
 ○ぞうきんほどあるオムレツ
 ○グララアガア・グワア……象が咆吼する声
 ○ばしゃばしゃ暗くなり
 ○オツベルはもうくしゃくしゃにつぶれていた。
 これらの表現の効果を、イメージ豊かに味わうという楽しみ方もできるだろう。

五、『オツベルと象』を中学生と一緒にどのように味わうとよいか
 最後に、教材としてこの作品をどのように味わうべきか、私見を述べたい。
①疑問点や感想から出発する
 とにかく、謎だらけの作品である。いろいろな疑問点や気づきを指摘させつつ、そこから全体で共有して広げていくような学習が楽しいだろう。ユニークな表現、突飛な展開、不思議な登場人物など、本文中に気づいたことなどをどんどん書き込みをさせていき、叙述に即して解釈をさせていくことが有効だろう。

②語り手である「牛飼い」の視点を意識して表現の意図や効果を読む
 この作品は、語り手である牛飼いの存在がきわめて重要である。牛飼いがどのような視点で白象やオツベルを捉えていたか、それがどのような言葉使いからわかるか、表現の細部にわたって読みを深め、白象やオツベルの人物像に迫っていきたい。

③問いを焦点化し、感想の交流を通して多様な解釈を広げる
 ①で出された疑問点を焦点化し、感想交流をさせていきたい。
 たとえば、白象が「寂しく笑った」のはなぜかとか、最後の一行の解釈などについて、グループ、学級全体で多様な解釈を引き出し合う交流を設定していきたい。この活動を通して、言葉一つ取り上げても読み手によってさまざまな解釈が存在し、それを楽しむことが文学鑑賞の一つの方法であることを体験的に学ばせていきたいと思っている。

②賢治作品の描く世界観まで広げられるとよい
 せっかくの機会なので、時間があれば賢治作品をたくさん読む時間がとれるとよい。
 賢治作品は、童話が中心なので中学生にとって読むこと自体はさほど難しくはない。それでいて、大人でもうなるような深い思想性や独特の世界観が存在する。賢治作品を多読する機会として設定していきたい。

2013/07/04

「道徳と国語の違いって何?」ということについて、最低限考えておきたい、いくつかのこと

この授業って道徳じゃないですか?
文学作品の感想を交流する授業などをしたあとに、決まって言われる批判的なコメントの一つが、「この授業って道徳みたいですね」という言葉だ。

べつに道徳教育を否定するわけではないが、国語教師としてなんとなく「道徳ですね」と言われるとかちんとくる。(べつに「道徳」という言葉を、社会でも、理科でも学活でも何に置き換えてもいいんだけど)
では、「道徳ではなく国語の学習です!」と胸を張って言うためには、何が必要なのだろうか。

道徳の目的は道徳的な心情を養うこと、国語の目的は言葉の力を高めることにある。
道徳も、国語も、意見を交流するという全く同じ活動をしていても、両者のねらいは全く異なる。
その違いを意識して指導しているかどうかがポイントなのだ。

意見を持つとか意見を交流するいうのは、国語科の場合、それだけではほとんど意味をなさない。
「意見を持つ」ことば目的ならば、どんな人だって何らかの意見は持っているではないか。
「メロスはかっこいい」
「メロスは勇者だ」
「メロスの性格は矛盾している」
どんな感想だって、立派な意見だ。
問題は、意見を持つことや、それを交流し合うことではない。
その意見を持つに至った、作品に対する自分の「読み」をこそ、吟味し、高めていくことが必要なのだ。

国語科の「読むこと」の指導事項の中に「自分の考えの形成」というものがある。
たとえば、
「3年 エ 文章を読んで人間,社会,自然などについて考え,自分の意見をもつこと。」
のようなものだ、

考えを持たせることは、立派な国語科の指導内容でもある。しかし、「読むこと」の学習を通して、「自分の考えを持つ」とはどういうことか、それをどのように高めていくかを問わなければ、国語科の学習にはならない。
「自分の考えを持つ」とはどういうことなのか、ということへの検討なしに、勝手な思いつきを言い合わているのならば、それは国語ではなく道徳だと言われても仕方がない。

文章を読んで自分の考えを持つとはどういうことか~感想の三層構造~
文章を読んで自分の考えを持つ(感想を持つ)ことには、実は3層の構造がある。
1、感想や意見の根拠となるテキストを取り上げる。
2、そのテキストについて、自分なりに解釈する。
3、その解釈となる「読み」を元にして、評価する。(感想・意見を持つ)

つまり、ここにこう書いてあって、それを私はこう解釈したので、こういう意見を持った。というのが、「読むこと」の学習の中で「自分の考えを持つ」ということだ。
「自分の考えを持つ」学習では、3つのプロセスの最終段階にある、自分の意見を言い合ってもほとんど意味はない。
メロスがかっこよかろうが、かっこわるかろうが、そう判断するのは、その人の主観であり、人それぞれだ。そんな意見を言い合っても、単なる感情論や価値観の違いで終わってしまう。
むしろ、意見のよってきたる根拠(テキスト)や、それをどのように自分は読んだのかという解釈段階のプロセスをこそ、吟味しなければいけない。
考えや感想は人それぞれでいい。しかし、根拠となるテキストと、それへの解釈については妥当性を検討する余地はある。解釈に対する吟味、交流こそが、「読むこと」学習の中で大切にされないといけない。

○解釈についての吟味
ここにこう書いてるのはわかったけど、それってむしろ……とも解釈できない?
ここにこう書いてあるから、確かにそうとはいえるかもしれない。だけど、こっちに……と書いてあることとは矛盾しない?
君の取り上げた根拠以外にも、……という表現から……がわかるね。
などなど。
意見の言い合いではなく、テキストに対する解釈をこそ検討する。そこに言葉の学びがあるのではないか。

「言葉に始まり、言葉に終わる」~「自分の考えを持つ」学習がうまくいっているかどうかをみる指標~
「自分の考えを持つ」ことの指導とは、実は、「文章を読んで考えを持つに至ったプロセスを問い直す」ということに他ならない。
それは、道徳の授業ではなく国語科の授業として、最低限外してはならないポイントだと思う。

「自分の考えを持つ」ことの学習がうまく進んでいるかどうか見る指標はいくつかある。
たとえば、
・一度読んだ文章を何度も何度も読み返して確かめている。
・文章中の、その言葉が選ばれた必然性を説明できる。意図や効果を説明できる。
・自分の考えを支える根拠の数が、学習を通して増えている。
・自分の解釈以外の、多様な観点による解釈を知り、比較検討ができるようになっている。
・「読むこと」の学習を通して、もやもやとなっていた自分の考えが明確になり、他者に根拠をもって説得力のある説明ができるようになっている。
・文章の評価が、ステレオタイプな単純化されたものではなはく、より複雑で重層的なものになっている。(考えが深まっている)
などなど。

国語の学習は徹頭徹尾「言葉に始まり、言葉に終わる」ものなのだ。
表現にたいする吟味のない、単なる思いつきの交流は、もはや国語の学習ではない。