2014/01/29

「学ぶこと」って何だ?

学校教育は、「学ぶ」ということがすべて「成長」に絡め取られてしまうということはないだろうか?(よきにせよ悪しきせよ)
成長とか、「人格の完成」なんていうのに、てんで関係のない「学び」も世の中にはいっぱいあるような気がする。
だって、「学び」がすなわち成長であり、成長することが「学び」であるならば、最も成長していない「赤ちゃん」とか「子ども」が一番学んでなくて、いろんな経験をして「成長」している「大人」が一番学んでいるということになるでしょう? 果たして本当にそうなのだろうか? 大人になることで、失われること、見えなくなってしまうこと、つまり「学んでいないこと」ってないのだろうか?
私にとっての「学ぶこと」とは「自分が持っている知識やルール、身体性で、対象に働きかけ、問いかけて、自分なりの答えを更新していくこと」だ。私にとってそれは、大人も子どもも関係ない。

学習活動の成否を決定する最大のボトルネックは「時間」である。

どんな教師も、45分という1単位時間の枠からは逃れることができない。
45分から、教材を発想し、単元の計画を発想し、学習活動を発想する。
時間のマネジメントは、他のどの職業にも比して、教師の専門性に深く関わる能力の一つだ。
たとえば、医師がもしかりに、手術が定められた時間以内に終わらなかったとする。しかし時間以内に終わらないからといって、手術を切り上げるということはないだろう。
反対に、1時間で終わる手術が10分で終わったとしても、決められた1時間を守るために、残りの50分はなんとなく時間をつぶすなんていうことも絶対にないだろう。
他のどんなことよりも、固定された時間が優先されるという職業は、おそらく教師と交通機関?くらいではないか?
どんなにすばらしい学習でも、それが60分かかったらいけない。その単元が何十時間もかかるような実践は望ましくない。そしてなにより、3年経ったら、どんなに教育がうまくいかなくても、その生徒も卒業し、教師は手放さなければいけないのだ。

1単位時間が45分であるということだけで、探求的な活動を取り上げた大規模な単元を扱うことに躊躇してしまうし、長編を取り上げてじっくり読み合うこともなかなかかなわない。
反対に、どんな魅力的な授業実践でも、それが何時間もかけて取り組まれたものであれば、一般性を持ち得る、提案性のある実践とは見なされにくい。3時間かければ読めてしまう教材を、10時間以上もかけて取り上げたり、放課後生徒を残してやらせていたりするならば、それはあまり褒められることではない。

45分の授業で話し合いは難しい。
45分授業の中で、小グループの話し合いをすることはなかなかむずかしい。
1時間ワンテーマだとしても、
導入&課題についての説明(5~10分くらい)
自分の意見をまとめる(5分くらい)
話し合い(10~20分)
全体で共有・ふりかえり(10~15分)
ぐらいの時間配分になる。
意見を出しあう程度で押さえ、深めることを狙わないのであればこれでもいいかもしれないけれども、どうしても物足りなさは否めない。
かといって2コマ使うのも、思考が途切れるのがあまり好きではない。
授業時間が90分だといいのに!
やはり反転授業かなあ、という結論になってしまう。

活動型の授業、とくにいろいろな教具が活躍する授業は、生徒がとても意欲的に取り組むのでどんどん取り入れていきたいと思う。
しかし、いかんせん「時間コスト」が発生してしまうのだ。
チョーク&トークの授業に比べて、活動や教材教具を活用した授業はそれだけで、学習とは直接関係のない時間が生まれてしまう。
新聞を配れば、それをぱらぱらと見てしまう→10分経過
ホワイトボードに話し合いの内容を書かせれば、それだけで時間が発生する→5分超過
タブレットを持たせれば、その操作やトラブルなどの処理で膨大な時間がかかる……
それらの「時間コスト」のことを考えたうえで、それに見あった効果がないとよろしくない。そうでないと、やはりチョーク&トークのシンプルな授業が一番だよなということになってしまう。それだけではいけないというのはわかっているんだけど。

モジュラー方式の学校が(特に小学校では)増えてきたが、授業時間を学習の規模に応じて柔軟に扱うことができれば、もっといろいろな実践が生まれてくる可能性があるのになあと思ってしまう。その辺の規制はどうなっているのだろうか?

2014/01/24

ちょっとの違いが大違い~『少年の日の思い出』をどう味わうか?~

今年も1年生の定番教材「少年の日の思い出」の学習がスタートした。
定番教材は、定番として定着しているだけあって、何度読んでも新しい発見が得られる。

今回あらためて「少年の日の思い出」を読み返してみて、この作品は同意語の言い換えが多く、しかもその言い換えが解釈に深く関わるということにあらためて気づかされた。

そこで、「同意語の言い換え」を切り口に「描写の効果を考えながら読む」ということを指導事項として、文学鑑賞の授業の中で、次のような学習活動を構想した。

1、同意語の言い換え表現をグループで探す。
2、そのような言い換えの表現からどんなことがわかるか、考える。
3、ミニ批評文を書く。

たとえば次のような言い換えが出てくる。

客―ぼく―熱情的な収集家―宝を探す人―悪漢
エーミール―批評家―鑑定家ーあいつ―模範少年
チョウチョ―宝物―獲物―宝石

これらを見つけていくのが第一段階。

その後、どんな文脈で使われているか、その言い換え表現からどんなことがわかるか、どう印象が変化するかをグループで話し合う。
(さらにいえば、これは翻訳小説でもあるので、他の翻訳ではどうなっているか比べてみるのもおもしろいだろう)

「文脈・描写・表現の効果・作者の意図」などの学習用語を駆使しながら、これらの言い回しについて検討していくことになるだろう

最後に、グループで話し合ったことを参考に、個人で、200字くらいでミニ批評文を書いていく。

オプション課題として、ある話(ももたろうとか?)を、特定の単語を、タイミング良く言い換えながら表現させてみたり、言い換えがされている他の作品を探して、その効果を紹介しあうなんていう活動に広げていくのもいいかもしれない。

ちなみに私が最も衝撃を受けた言い換え表現は、太宰治の『駆け込み訴え』←全文はクリック

イスカリオテのユダ(私)が、イエス(あの人)を裏切る瞬間の、この豹変ぶりだ。
私も、もうすでに度胸がついていたのだ。恥じるよりは憎んだ。あの人の今更ながらの意地悪さを憎んだ。このように弟子たち皆の前で公然と私を辱かしめるのが、あの人のこれまでの仕来りなのだ。火と水と。永遠に解け合う事の無い宿命が、私とあいつとの間に在るのだ。犬か猫に与えるように、一つまみのパン屑を私の口に押し入れて、それがあいつのせめてもの腹いせだったのか。ははん。ばかな奴だ。旦那さま、あいつは私に、おまえの為なすことを速かに為せと言いました。

こんな感じに、微細な言葉遣いの変化に着目するような鑑賞法をこの教材で学んでいきたいと思っている。

2014/01/21

「文学の交流スキル」仮説試案序説

文学は人によって解釈が異なることが多い。
だから、交流することによって読みが広がったり深まったりする。
しかし、「交流のスキル」そのものが十分に身についていなかったり、ざっくばらんに話し合える関係性にない場合は、その交流が上手くいかないことも考えられる。
「交流のスキル」を身につけさせ、習熟させることと、その交流によって読解・鑑賞の質を上げることはおそらく比例をするだろう。

近年、ブッククラブなどの名称で、交流を前面に出した文学鑑賞の方法が取り入れられている。
ブッククラブの優れたところは、シンプルな方式で、学習者達が自立した読書人として育っていくことができるように設計されているところだ。
教師主導であれやこれや発問や指示をして(指導をして)、文学を深く読ませることは確かに可能だろう。しかし、教師主導「でしか」文学が鑑賞できないのだとしたら、何のための文学鑑賞の時間だろうと思う。
文学鑑賞指導の究極の目的は、子どもたちが教師の手を離れて、自分で本を手に取り、文学を味わう方法を身につけることではないか?

そこで、「文学の交流スキル」というものを仮に設定して、子どもたちが主体的に、文学の感想を交流し合えるスキル身につけるためには、どのような学習ができるか検討してみようと思う。

「文学の交流スキル」は二つの軸がある。
交流の機能を見極めることと、文学鑑賞の切り口を見いだすということだ。

A「交流の機能」の側面
交流(ここでは話し合いを主に想定しているが)は、お互いの発言が、どのように交わされるかによって、おもに5つの機能を持つ。
交流によって、意見を広げていくのか、それともまとめていくのか、批判的に深めていくのか、などの方向性を意識しあいながら話し合うことはとても重要なことである。
この交流の機能は、交流の形態(ワールドカフェなど)や人数を検討することよりも、より本質的に重要な要素である。
どのような話し合いの形態をとるかということよりも、話し合いにどのような目的や方向性があるかということを意識することのほうがずっと大切だ。

5つの「交流の機能」
①共感的交流……お互いに認め合う交流
②累積的交流……情報を増やしていく交流
③連鎖的交流……情報が連鎖的に広がっていく交流
④探索的交流……情報が収束的にまとまっていく交流
⑤批判的交流……クリティカルにお互いに意見を交わし合う交流

この五つを「交流のタイプ」として、話し合う時にお互いが意識できていると良い。
この交流の5つの機能については、以前の投稿内容を参照して欲しい。

B、「文学鑑賞の切り口」の側面
つぎに、交流でどんなことを話題にするかという「鑑賞の切り口」を設定することも、文学鑑賞において重要な要素となる。
鑑賞の切り口の視点は二つある。
一つは、読者(子ども)の読後反応(感想)に立脚するということだ。
教師が作ったどんなに優れた発問でも、それが子どもが自然と持つような発想でない場合は、やはり選択すべきではないだろう。
自分にとって切実でない問いは、読み進めようという気にはなりにくいし、教師が作った発問でしか読めない読者を育てるということにもなってしまうからだ。
子どもから問いを持たせても良いし、ある程度選択肢を出して、そのなかから選ばせるということでもよい。子どもが主体的に切り口を選択するという視点は不可欠だろう。

二つめは、作品の魅力に迫る切り口を選択すると言うことだ。
作品に直接関係のない話題で交流しても仕方が無い。それでは雑談になってしまう。
やはり、その文学作品の本質に迫る「ツボ」というものがあって、その文学作品の魅力を最も引き立たせるポイントを探しだし、そこに焦点化させて交流していくようにすること効果的であろう。

それでは、子どもが文学を鑑賞するときに持つ切り口にはどのようなものがあるだろうか?
ここで、岩瀬直樹氏のブログ記事 2014-01-21 メモ ブッククラブのために。に掲載されていた質問集の内容を参考に考えてみる。

岩瀬氏の「質問集」の内容は以下の通りだ。

★読む前に
・本のタイトルからどんなお話だと想像しますか?
・本の表紙、裏表紙の絵から何がわかりますか? どんなお話だと想像しますか?
・この作者の他の本を読んだことはありますか?どんなお話でしたか?

読んでいる途中に
★感想
・どこが面白かった?どこがつまらなかった?
・どこが印象に残った?それはなぜ?
・どの登場人物が好き?どの人物がきらい?それはなぜ?


★書いてあることの確認
・今回の範囲のあらすじは?
・だれがでてきた? ・どんなことが起きた?
・ここまでの話を整理すると~
・登場人物はどんな性格?どんな外見?それはどこからわかる?


★読んだことで考えよう
・ここがよくわからなかったんだけど~
・自分が考えていたこと(思っていたこと)が変わってきたんだけど~みんなはどう?
・なぜ登場人物は~のような行動をしたのか?からのようなことを言ったの?
・なぜ作者は~のような書き方をしたのだろう?
・なぜこんな表現にしたのだろう?
・「なぜ~?」
・この後どうなるだろう? その理由は~
・前回の予想と同じだった?違った?なぜ違ったのだろう?
・この登場人物が変わってきたのでは?どのように変わったというと~、なぜ変わったかというと~
・登場人物のとった行動(言ったこと)に賛成?反対?どう思う?
・もし自分がこの人物だったら~  
・自分が作者ならこんなストーリーにするな。こんな風に書くな。
・似たような経験ある?
・登場人物同士の関係が変わってきた?どのように変わった?それはどこからわかる?
・○○と○○を比べてみると、
・作者はこの文から(この章から)何を伝えたいのだろう?
・何がこのお話の大事なポイントだろう?なにが大事な話し合いのテーマだろう? 

★読み終えた後に
・この本は好き?嫌い?点数を付けるとしたら?その理由は?
・誰におすすめする?
・この作品の結末に賛成?反対?結末についてどう思う?
・作者が伝えたかったテーマは何だろう?そのテーマについてどう思う?
・登場人物はどのように変わった?なぜ変わった?
・自分ならどんなタイトルにする?
・この本で覚えておきたいことは~

★話し合いの途中で・・
・もっとくわしく教えて
・どこからそう思った?
・どこに書いてある?
・今のに付け足しだけど
・賛成!その理由は~
・私は違うふうに考えたんだけど、それは
・例をあげてくれる?
・その理由は?
・もう一回言ってくれる?
・○○はどう思う?
・もう一度読む時間とって整理する?
・というと?(オープンクエスチョン)

この岩瀬氏の質問集は、見てわかるように、ブッククラブのプロセスに沿って、子どもの発言を例示している。
この質問集の優れたところは、ブッククラブで実際に交わされた発言を集めていると言うことだ。
このような資料は、実際にやってみないとなかなか知ることができない。とても貴重なデータであると言える。

ただ、この質問集を、たとえばリストにして例示するとしてどのような方法が最も適切だろうか?
私だったら、子どもたちが、話し合いの切り口を探す時にそれを支援するような形で提示できれば意いいのではないかと思う。
たとえば、上記の質問集を、次のような「交流の切り口」と「合いの手」に沿って再編集し直すのだ。
たとえばこんな感じだ。

◎「交流の切り口」カード
A、「人物設定」カード
気になる登場人物は……です。
私はこの登場人物が好きだ!
この人は多分こんな人だと思う。

B、「ストーリー、プロット」カード
一番好きな場面は……
もしこのとき……が……だったら

C、「表現」カード
気になる表現は?
なぜこんな言葉遣いをしているのだろう?
この言葉を言い換えるとしたら

D、「テーマ」カード
この作品はどんなことを伝えたかったんだろう?

E、「番外編」カード
・似たような経験がある
・どんな人に勧めたい?
・本の装丁は?


◎「つっこみ」メニュー
・もっとくわしく教えて
・どこからそう思った?
・どこに書いてある?
・今のに付け足しだけど
・賛成!その理由は~
・私は違うふうに考えたんだけど、それは
・例をあげてくれる?
・その理由は?

などなど。(上記の岩瀬氏のコメントをすべて上手に整理すれば、なかなか優れた「交流の切り口」集ができそうだ)

さらに、付け加えると、作品を鑑賞するためには、学習用語を押さえておくことが必要になる。
文学の交流で使える用語集のようなものも合わせてカードなり、リストで提示しておけばいつでもそれを使いこなすことができるようになるだろう。

(文学の鑑賞 学習用語)
・登場人物
 主人公
 対役
 チョイ役・脇役
・語り手(話者)

・設定
 時間・場所・人物

・構成
 冒頭・結末・中盤・クライマックス・起承転結

・文体
 会話文・地の文

・主題
 葛藤・矛盾・アイロニー(皮肉)・象徴・作者・思想

などなど。
こういう学習用語や鑑賞の切り口は、国語教育において、文芸研や分析批評、読み研などでさんざん検討されてきた。それらの知見を参考にしつつ、子どもの目線で使いこなすことができるように加工することが必要だ。なるべく、発達段階に即してちょっと背伸びした用語や切り口を例示し、それを使ってみたくなるような環境を与えると良いだろう。

どのように活用していくか?

さて、「交流のタイプ」、「鑑賞の切り口」、そして「学習用語」の三つのツールが出そろった。
それらを、実際にどのように活かしていけば良いのだろう。

たとえば、次のような活用法を想定している。
4~6人ぐらいで読書会を開くとする。

全員が「学習用語のメニュー」を持っている。
「切り口」カードがテーブル上に、カルタのようにばらまかれている。
テーブルの上には「話し合いのタイプ」のリングが5つ用意されている。

一人一人、話す人が、順番に「切り口」カードを取って、みんなに見せながら、話し合いを進めていく。そのとき、選択したカードは、任意の「話し合いのリング」に置く。
この「リング」は「話し合いのタイプ」にリンクし、5つのリングを設定する。(リングって言うのは、プロレスのリングのことね)
次の5つのリングの中から、話し合いの進め方としてもっとも適切であると思われるものの上に置くのだ。
・共感リング(共感的交流)
・増やすリング(累積的交流)
・つなげるリング(連鎖歴交流)
・まとめるリング(探索的交流)
・バトルリング(批判的交流)
このように、5つのリングが「場」に用意されている。
たとえばこんな感じ。
「一番カッコイイ登場人物」について「バトルリング」で話し合う。
「印象に残った場面」について「共感リング」で話し合う。
「この人は多分こんな人」ということについて「まとめるリング」で話し合う。
のように。

このようにして、話し合いたい「切り口」と「交流のタイプ」を、各自で設定して話し合いを進めていく。
このシステムの良いところは、話し合う切り口とタイプを子どもたちが主体的に選択できるところだ。
そして、カードやタイプの量を調節することで、学習の方向性をあらかじめ教師が設定することもできる。

たとえば、教師が事前に、今日は「登場人物の設定」カードの中から選んでね。登場人物について話し合うんだよ、とか、今日は「バトルリング」と「共感リング」だけ使うからね、というように、あらかじめカードを操作すれば良い。

理想的には、やがては、それら切り口と機能を、カードやリングなどを使わなくても、意識しながら話せるようになることだろう。

以上「文学の交流スキル」仮説の試案の序説。
どんなものだろうか?
思いつきレベルだけど、ブラッシュアップすればなかなか良いものができあがるような気がするのだけれども。

2014/01/20

学校内SNSは成り立つか?

学校内に、生徒向けのフェイスブックのようなSNSを普及させようという取り組みがある。
(もちろん民間で。 たとえば、  IRAND や、 Ednity Edmodo ぐーぱ など。)

それが学級内のコミュニケーションを活性化させ、学力向上に寄与するのであればとても有意義なことだろう。
実際、生徒たちは、学校で用意などしなくても、自分たちでフェイスブックやLINEでつながっている。その上に、あえて学校が用意することにどんな意義があるのだろう?

現場レベルで言えば以下のような課題や疑念がある。
・学校のSNSをどのような目的のために位置づけるか。個人的に楽しむSNSとの差異化。
・炎上やネットいじめなどのネガティブな投稿に対する対応、それをチェックする手間。
・いわゆる「ネット依存」をあおらないか?(書き込む時間や端末を指定する?)
・そもそも、学校での授業以外の、家庭での生活時間に、学校がどこまで関わるべきかという問題。(学校での人間関係を、学校外でまで四六時中かかずらわりたくない子だっているはずだ)

ただし、純粋にSNSへの投稿マナーのようなものを学ぶ「ネットモラル」教材としての位置づけであれば、ある程度は理解できる。その場合には、目的や用途を絞り込み、利用を限定することは必要となるかもしれない。

もっとも、上記のデメリットを全部ひっくるめても、ネットの荒波に無防備で放り出すまえに、学校内SNSのような「プール」で泳がせてトレーニングさせるということも必要かも知れない。

『情報大爆発 コミュニケーションデザインはどう変わるのか』メモ

ICT技術の進展により、情報量はとんでもない量に増大している。
社会は「情報爆発」と呼ばれる様相を呈している。

情報化社会は、我々の行動様式にどのような変化をもたらしているのだろうか?
そんなことについて語っているのがこの一冊だ。

内容は、情報化社会の行動様式というような、いかにも硬そうな内容だ.。それも、広告代理店のスタッフが書いた本だから、その業界に向けての内容も多い。縁遠そうな内容の話も多いけれども、たとえ話がとても具体的でイメージしやすいのと、脱線して話される「豆知識」的な小話がとても興味深く、最後まで一気に読み進めてしまった。
この本はプレゼン資料がもとになっている。そのため、プレゼンのスライド(上段)とそれについての説明(下段)がセットになって紙面が構成されている。ビジュアル的にも工夫されているので、おもしろい講演を聞いているような気になる。
以下に、気になったことを以下にメモする。実際はこんな専門用語ばっかり飛び交っているばかりではない。本を手にとって読んだほうが圧倒的にわかりやすい。
(しかし、後半は電通の広告戦略に関する話が中心になるので、広告の現場で述べられていることにあまり接点が感じられない人とっては興味が持てないかもしれない。)

以下備忘メモ(まとまっていなくてすいません)

1、情報爆発時代の情報の特徴
筆者は社会に流通する情報の変化を二点に整理している。
一つは、「情報化社会」から「情報過剰社会」に突入しているということ。
情報の流通量は消費量をはるかに追い越し、処理しきれないくらいに飽和している。

もう一つは、流通される情報は、メディアによってパッケージされた「硬い情報」であったものが、「やわらかい情報」(消費者によっていくらでも変形できるもの、未完成なもの、断片)になってきているということ。
飛び交っている情報は、パーツとしての自由に組み替え編集することができる状態になっているということ。
このように、情報の「過剰性」と情報の「可塑性」が大きな特徴となってきているという。

2、情報爆発時代の大きなニーズは「情報整理」
情報が過剰で、かつ可塑性に富むものであることから、、情報産業は「情報整理産業」へとシフトしていっている。
情報整理産業では、情報を一方的に発信するのではなく、さまざまな情報をまとめる「プラットフォームビジネス」としての機能を持つ。(たとえば、グーグルやアマゾン、YOUTUBEなどが典型的な例だ。)それは、自ら情報を生み出すのではなく、発信された情報を編集することを目的としている。

情報爆発時代の消費者は、あふれる情報の中から信頼するに足る情報にたどり着くためには、機械的な検索だけではどうしても限界がある。
そこで、情報についてよく知っている「人」を頼って、必要な情報を手に入れるようになる。(端的な例だと、ヤフー知恵袋とか、Amazonのレコメンド機能のような。)
そういう行動を「コラボレイティブ・フィルタリング」と呼ぶ。
情報過剰時代には、何が自分にとって役に立つ情報で、何が「ゴミ」なのかを分別してくれるフィルターが役に立つ。「コラボレイティブ・フィルタリング」は消費者同士が、お互いをフィルターとして利用して、役に立つ情報とそうでないものを区別しようという考え方に立っている。
このように、情報爆発時代では他の消費者に対する依存度が上がる。

3、情報爆発時代のボトルネックは[Attention(注意)」
いくら情報が増えても、人々がそれに注目できる時間は限られている。
情報過剰時代においては、Attention(注意)が希少になり、それを消費する膨大な情報源に対して、attentionを効率的に割り当てる必要が生じる。
このように、希少になってきたアテンション(時間コスト)をどのように配分するかというテーマに関心が集まってきており、それを「アテンション・エコノミー」と呼ばれている。
より多くの人に、より多くの時間、より効果的に情報に集中させることができるかどうかが、そこでは問題にされるようになる。

・ロングテール化する業界(例 Amazon)
ヘッドの方では「人気が人気を呼ぶ」という傾向(求心性)が働いている。
テールの部分では「私好みのアイテムを探し求める」という傾向(遠心性)が働いている。

プラットフォーム・ビジネス
「レーザーブレード型(自社取り込み)」と「カジノ型(マーケットプレース)」とがある。

3、過剰の経済学
過剰の時代は、「希少な資源を節約するのではなく、過剰なものをジャブジャブ浪費すること」が正しい経済戦略だ。(クリス・アンダーソン)
「過剰性を存分に活用する国民、企業、個人では、他のすべてのライバルを押さえてマーケットシェアを獲得する」(ジョージ・ギルダー)

「過剰の経済」では、何が過剰になっているかをいち早くみつけて、大胆に浪費することが大切。
同時に、新たに希少になってくるものは何かを予測することが重要になる。
「相対的な希少性」を察知する力が求められる。

4、ネットワークの歴史
ネットワークは、ツリー型(1対1)→スター型(1対多)→そしてメッシュ型(多対多)へと移行する。
情報は「偏在」するものでなく「遍在」するようになる。

分散型ネットワークの特徴(ポール・バラン) (インターネットの発想はこれ)
・すべての結節点(ノード)を平等に複数のルートでつなぐ
・中央機関を置かない
・デジタル信号を使う
・管理をしない

5、産業革命のパラダイム
マスメディアは、中心から末端への情報の配信コストを飛躍的に下げ、配信スピードを上げた。
その後、インターネットがもたらしたのは、末端からの情報配信コストの驚異的な低下と、スピードの加速。
インターネットがもたらしたのは、インタラクティブ・コミュニケーションではなく、マルチ・ディレクショナル(全方向型)なコミュニケーションであった。

既存メディアによる「乗合馬車」から、個人の乗り物へ。(アンバンドリング)

6、ネットワーク・ダイナミクスと広告戦略

ネットワーク化された「個」の挙動の特徴
(グレイグ・レイノルズの人工生命体の研究から)
・セパレーション(分離)仲間に近づきすぎたら離れる
・アラインメント(整列)仲間と同じ方向に同じ速度で飛ぶ
・コーヒージョン(凝集)仲間の中心方向に飛ぶ

・インターネットのコミュニティーの特性
特性1「スモール・ワールドネットワーク」(ダンカン・ワッツ)
小さいまとまりと、他のネットワークへの広がりを同時に持っている。

「六次の隔たり」・「弱い紐帯の絆」

インターネットの特性2「スケールフリー性」
二割のハブが八割のコネクティビティーを持つ
「ネット上の100人のうち、
1%が、コンテンツを自分で作っている。
10%が、それにコメントを書いたり、言及している。
89%は、mそれを見ているだけだ」(英新聞「ガーディアン・アンリミテッド)

「インフルエンサー・マーケティング」

・インターネットの掲示板
誰しもが受信者であり、発信者である。
そこではスレッドという「場」が主人公となる。
全体としては水の分子のように「流れる」という状況が発生する。

「インターネット環境は、情報の流れを受信と発信の関係でとらえるのではなく、探索と支援という関係で理解することも可能である」(『創発する社会』)

相互編集性
「発振→共振→増幅」

・広告の戦略
「ブロックバスター方式」(ハリウッド映画ような大型広告戦略)
「雪だるま方式」(ボトムアップ式に流行が生まれる)

・消費者行動モデルはAIDMAからAISASへ
A…attention(注意)
I…interest(興味)
D…desire(欲求)
M…memory(記憶)
A…action(行動)

A…attention(注意)
I…interest(興味)
S…search(検索)
A…action(行動)
S…share(共有)

AISASモデルは、企業と諸費者が互いにアクティブに関与し合っている。インタラクティブなモデルになっている。

・「フィルター」の共有
レコメンド・プレイリスト・タグ・リンク
フィルターを共有することで、消費者は時間コストである「アテンション」を節約することができる。
フィルターを共有することによって、思いがけない「フェイバリット」を発見することがある。
「フィルター・マーケティング」(フェイスブックなど)

・「アテンション・マーケティング」のキーワードは「キャッチ」
いかにして注目を引くかという要素が必要。
ノイズレベルを超える広告の大量投下など

・「ベネトレーション・マーケティング」(浸透させるマーケティング)のキーワードは「マッチ」
「パーソナライズ」「ローカライズ」「オケージョナライズ」
共感性(あなた目線・なかま目線・みんな目線)

BUZZは情報格差があるところに発生する。
消費者同士の間に情報格差があるところに発生する。
情報は「より深く知っている人」から「より浅い人」に伝わる。

2014/01/18

言葉の根っこにヒントがある。

新しく出会った言葉や、異業種で使われはじめた言葉を、自分のフィールドで論じようとするときは、かならずその言葉の原義を調べ、ルーツをたどり、その言葉が使われている業界なり世界での文脈を調べる。それが研究上のルールでありマナーであると思う。
安易に自分の文脈に引きつけて「ふりかけ」のように使い、粉飾することほど恥ずかしいことはない。
辞書で言葉の意味を調べ、ネットで使われ方をリサーチし、その業界の参考文献を読んで学ぶ。そこからスタートルすべきだ。
本の紹介と「ブックトーク」とではどう違うのか?
「情報活用能力」はどのように定義されているか?
「見える化」のルーツは? その言葉が使われている業界や、背景は?
「伝え合う力」のもとになっている言葉は何か?誰が言い始めたか?
言葉のルーツをたどると、研究を推進、発展させていくためのヒントがたくさん得られる。遠回りのようで一番効率的な研究の方法だ。
自分の文脈に都合よく使っている言葉は、その定義も曖昧だし、研究もぼやけたものとなってしまう。

2014/01/16

「とんでも」例文作成遊び~中学生の中学生による中学生のための古文単語学習~

高校入試を間近に控えた中学三年の授業。
目下の課題は60あまりある古文単語をおさらいしつつ、定着させることだ。
そこで、「とんでも」例文遊びに取り組んだ。

「とんでも」例文遊びの流れは次の通り。
1、あらかじめ、単語とその訳の一覧表を提示する。
2、覚えている言葉をチェックする。
3、覚えていない言葉のなかで古文単語を一つ選び、それを使った例文を考える。
(例文は現代文。普段使っているような言い回しでよい。例文の脇には現代語訳を書き添える)
4、例文カードを作り、全員の分を印刷して読み合う。

例文のポイントは、とにかく多少怪しくても、古文的にどうかな?というところがあっても許容し、古文単語の意味を受け止めて使っていたらよしとするところ。
例文も古文っぽくする必要はなく、むしろ、現代文の文脈で古文単語を使うほうが、かえって古文の意味が際立つのでよい。

こんな感じのカードができた。(写真をクリックすると拡大します)


  • 何気ない心配りがこころにくし
  • 君はどうせ人の話を聞かないのだから私の意見はいふかひなしだね。
  • 昨日の親との喧嘩はえもいはず、いと恐ろしかった~
  • 彼女はねんごろに部活に取り組んでいたため、人々は彼女を応援していた。
  • 受験の前に風邪を引いておぼつかなし
  • いたづらに頑張っても空回りするだけで意味がないと思う。
  • やがて、勉強に集中する。
  • 桜が二月に咲くのはありがたし
  • 引っ越しした部屋はとてもすさまじ
  • なかにはこんな大作を作ってきた生徒もいた。
  • テレビを見ながらの勉強はいたずらなり。この時期にそのような人がいるのはあやしと思う。あなたはいかがだろうか。受かるのはありがたしことで、ののしりたくなるがなほ勉強は大切である。
  • 受験生は遊べ
  • けがをしたら,手当てをしないとなかなか悪化してしまいますよ。
  • 一人でいるのはさうざうしい。
  • 彼は祖父を亡くしたようだ。とてもいとほしく思う。

やってみて案外すらすらできたので上々の手応えだった。
ただ、もうちょっとこうすれば,という課題もある。

  • 複数の古文単語を使った例文にして、もっとハードルをあげても良かった。
  • たとえば、問題形式にして、読み手が訳を考えて答えるなどのスタイルにすれば、例文つくりを書いたり読み合ったりする目的意識を持たせられただろう。
  • 一人一台タブレットを使えるような環境ならば、例文をアップロードし、同じ古文単語を使った例文を共有し合うなんてこともできるだろう。
  • 古文単語を使った日記など、文章の形式を指定してあげるのも。
  • 中三で慌ててやるのでなく、中一段階ではやめに古文単語を定着させる方法もありそう。(百人一首などをテキストに。)
  • 帯単元的な扱いで少しずつとりあげるのも。
  • 古語辞典をもっと活用させても良かった。(そういえば、最近では現代語から引ける古語辞典もあった!)
  • 古文単語に触れることをとおして、日本語の語彙を豊かにする指導として、他の語彙指導全体のバランスの中で関連してとりくませていけばさらに効果があるかも。
など。

なお、この授業のアイディアは、古文単語の定着指導に悩む私に対する、荷方先生、首藤先生の次のアドバイスから生まれたものです。
感謝すると共に、下記に記録しておきます。

荷方先生 現代表現に直した「文例集」とか予備校講師時代はよく使いました。「満員電車に乗りて,うたてしこととひとりごつ」→満員電車に乗ったんで,はあうぜー(気に入らない,嘆かわしい)って独り言を言っちゃったよ。 さすがに中学生にここまではやりませんが,最近の高校生の単語集(ex.萌単)なんかは,若い人に馴染んだ言い回しで文例を作ることが多いですね。
『萌える英単語もえたん』 最近はこんな英単語集まで!

首藤先生荷方さんが、ご提示くださっている方法をヒントに、「とんでも」例文作成遊び、というようなノリのほうが、私は好きです。あるいは、weblioなどを活用して、中学生のそれぞれの個々人の趣味や興味に合わせて、weblioの例文から、ターゲット以外の単語を他のいろいろな単語に入れ替えた例文を大量に作る遊び、なんてのも面白そうです。やってみると、これが、案外、ターゲットにした単語の定着率もよくなるはずです。

荷方先生お試しいただいたようで。もちろんこの用例集,先生が作るのがベストではなく,生徒が自分で作る方がベストです。その時の訳は上に示したように,「意味さえ合っていればどんなとんでもないものでも良し」です。 一応知識獲得と学習指導の研究者なので(笑),知識の生成活動はよく知られた通り学習に寄与します。特に,自己のために自己の知識を再構成する活動は,このような例文づくりや図表作成などあらゆる場面で利用できます。 自分のために知識を使いやすい状態にする「知識の利用可能性」を高めるカスタマイズ(知識の再構成・生成)を楽しく促進するため,首藤先生が指摘する「トンデモ」作成はとっても素敵な方法だと思います。

なるほどなるほど!
大学の先生のお墨付きのこの学習方法、これからも、このネタで子どもたちと遊んでみたいと思う。















2014/01/13

道徳の授業についてのあれこれ

道徳についてとりとめもなく、今まで考えてきたことをまとめてみた。

1、ある道徳の授業から。
ある研究会でのレポート発表を聞いて感じたこと。
瓦礫にまみれた岩手の被災地で、バケツで水くみをしている少女の写真(新聞に掲載されていたもの?)を提示し「この人は幸せだと思いますか」という発問をした授業を展開していた。
 発表者の先生はとても物腰が柔らかく、おそらく道徳教育に熱心に取り組まれている様子が想像できた。
……その発表、私はものすごく嫌な思いで聞いていた。
けれども、それがどこから感じたか、そのときはよく分からず、もやもやした思いで、何も発言できなかった。
今になると、そのもやもやの正体が分析できる。
 「『この人は幸せですか』と聞かれている少女は幸せか」という視点が、その授業者には全く欠如していたからだ。「他人事」の発想で授業を作っていたのだ。
 私が感じた不快感は、「そんな質問、彼女に失礼だろ!」という、ごく当たり前の感覚だったのだ。

2、道徳の授業を「自分事」にしていきたい
道徳の授業で何を取り上げるべきか?
偉人伝などで、立派な人の生き様から学ぶことは必要だろう。
障害を持っている方や、震災で被災したり差別されていたり、社会で不利益を被っている人について知り、その人の懸命の生き様や、置かれている立場を共感的に受け止めることは必要だろう。
しかし、そのどちらもが、「すごい」「かっこいい」「かわいそう」などと「他人事」として受け止めるのであれば、自分自身の生きる力にはつながっていかないのではないか。
道徳を「他人事」から「自分事」に引きおとさなければいけない。
他人事だったら何でもしゃべれる。
いじめ、差別、震災、原発、障害を持つ人……
それが「自分事」に感じられたとき、人は沈黙する。
価値ある沈黙を作り、その沈黙から声を引き出すこと、それをいかにつくるかが道徳の授業のカギだ。

3、共感中心の授業批判
道徳の授業はややもすれば「共感」中心の、授業が行われる傾向があるのではないか?
資料の登場人物への「共感」、クラスメート同士の「共感」。
このような、「共感」の共同体(学級)のなかで、日本の子ども達は育まれている。
しかし、そういった価値観に共感できない一部の生徒にとっては、息苦しさを感じる場となってはいないか?
 「共感」の重視が「同調」を強いることとなり、クラスの空気や教師の反応を過度に「読む」ことを学習する場とはなっていないだろうか?
「道徳の授業だから何となくこれを言ったらマズイ」
「これを言ったら先生に褒められるかな?」

道徳的な「正しさ」は、「正しければ正しいほど」絶対的な強制力となって機能する。
「絶対的な正しさ」を重視し、強調する授業は、ある種、教師の誘導する価値観への同調を強いていることにはならないか? 
それにしても、全ての人に共通する価値観しか取り上げないのであれば、それをあえて道徳で教える必要があるのだろうか?

4、道徳で何を学ぶか? 道徳の授業論、一つの方法。
「道徳性」という美しすぎる言葉を、私なりに考える。
ざっくりと言い換えると「視野の広さ」「意識の高さ」「判断の的確さ」「感じる心の細やかさ」等になるのではないか?
だから、読み物教材による感動中心主義の「道徳」だと、視野が狭くなる危険性がありはしないかと危惧する。
感性はもちろん大事、それに論理や知識、知見が支えることで、広い視野や判断力が磨かれ「道徳性」が高まるのではないだろうか。

たとえば、友人関係のあるトラブルを取り上げるとする。
そのときに、自分が取りうる態度や行動、言動が何パターンあるか分析する。
そして、そのとりうる態度によって引き起こされる事態を想定する。
もちろん、客観的な状況だけでなく、相手の気持ち、自分の立場などあらゆる角度から検討する。
その結果、自分がとるべき立場と引き受けるリスクを決定する。
そうすることで、一つの状況に対して、あらゆる選択肢があることを知ることができる。
そして自分が想定していなかった選択肢やリスクの存在を知ることができる。
そのような、広い視野と判断力を身につける「道徳」があっていいのではないか?

5、道徳の時間に心理学を学ぶのは?
例えば、道徳の時間などで、心理学の成果を学校教育で学ばせることはできないのだろうか。
「防衛規制」のような、ごく基本的な心理学の知見は、知っておいて損がないと思う。
自分の心理状況をメタ認知できる視点を得ることができる。文学の解釈だって深まるのではないか。 「ことわざ」にも、人間の不合理な心理に対する洞察が深いものが多い。
そういう生きる知恵や発想法を学んでもいいのではないか?

6、資料を使わない、体験活動を中心とした道徳をもって認めてほしい
道徳の学習指導要領解説には、学習指導案に書くべき内容についての言及がなされている。これはおそらく他の教科にはない(と思う)。
 「ねらい」とか「主題名」はまだ理解できる。気になるのが「資料」という言葉。
道徳の学習指導案には必ず「資料」を明示することになっている。
 この「資料」とは、指導書によれば「資料については,体験活動等を盛り込んだ資料,読み物資料,テレビやビデオ,インターネット等の情報通信ネットワークを利用した資料」と書かれている。
が、資料のない道徳だっていいじゃんと素朴に思ってしまう。
 たとえばプロジェクトアドベンチャーは道徳につながっているし、いろいろな行事などの体験を通して学ぶ道徳的価値はたくさんある。
 そういう「学びを引き出すリソース」を活かして道徳性を高めるという授業観は「資料」という言葉からは伝わってこない。 何となく、頭の硬い先生が、つまらない読み物資料を読んで感想を交流し合うのだけが道徳である、という理想を、文科省公認の指導書のなかで押しつけているような気がしてならないのだ。


2014/01/04

「治安維持法」の教訓~『治安維持法 なぜ政党政治は「悪法」を生んだか』レビュー~

『治安維持法 なぜ政党政治は「悪法」を生んだか』を2日かけて読了
関連する用語などをWikipediaなどでたどりながらちびちびと読んで行った。


本書は著者の博論をもとにした一冊。
治安維持法の成立過程、そして暴走していった過程などを、かなり客観的に、史実を綿密に押さえて記述している。文章は生硬で教科書的な記述だが、バランスのとれた堅実な論述には好感が持てる。
わかりにくいところはネットで調べながら読むことで、当時の時代状況をより立体的に、リアルにとらえることができた。
高校の日本史で習った言葉が、さまざまな歴史の因果関係で結ばれていくのは快感でもあった。

以下メモ
・ロシア革命、シベリア出兵とそれに伴う米の暴騰、米騒動へ
・日ソ国交樹立と、ロシア革命の輸出、共産主義の脅威
・普通選挙運動と治安維持法の「アメとムチ」法案成立
・京都学連事件(最初の治安維持法適用は京大生)
・3・15事件と4・16事件(共産党員の一斉検挙、共産党員の「スパイM」の暗躍)
・日本共産党の崩壊による、一斉検挙から日常検挙へ、大量検挙による転向政策へ
・天皇機関説事件(学説に対する封殺)
・大本事件(宗教団体に対する弾圧)
・人民戦線事件(合法左派組織への弾圧)
・横浜事件(でっち上げ、小林多喜二への見せしめ)
・予防拘禁制度による拘束
・築地小劇場などのプロレタリア演劇への弾圧、京都大学俳句の会の弾圧!
・極右団体の暗躍(血盟団事件、5.15事件) 大川周明、


大正デモクラシーを経て、昭和前期のテロリズム全盛へ、そして軍部の台頭へと、日本が戦争に突入していったプロセスは空恐ろしい。
そもそも治安維持法は、ロシア革命の余波による日本の共産主義化を防ぐために、内務省及び司法省が協働で作成した法律だった。

大正14年(1925)4月21日に治安維持法が公布された。
この法律は、第1条第1項に「国体ヲ変革シ又は私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」とあるとおり、「国体」の変革と私有財産制度の否認を目的とする結社を組織することと参加したりすることを取り締まるものであった。つまり、当初は、国体を変革する「結社」を取り締まることを前提としたものであった。もちろん、その結社とは共産主義的な組織(共産党)を指していた。
成立したのは大正デモクラシー全盛、護憲三派内閣といわれる加藤高明内閣である。
若干の反対運動はあったものの、成立した当初はさしたる問題は取り上げられなかった。
成立時点では「反社会的な結社」を取り締まる法律が、個人の思想信条に立ち入るとは思えなかったからだ。
しかし、その後、治安維持法は、なし崩し的に拡大解釈、改悪をされていく。
「結社」への取り締まりから、「結社の目的に協力するもの(目的遂行罪)」も罪に問われることに。つまり、党の目的に寄与すると見なされるあらゆる行為に拡大解釈されて取り締まれるようになった。また、「国体」の定義が極めて曖昧で融通無碍に解釈可能であったがために、共産党だけでなく、マルクス主義の研究や極右団体への適用、国家を批判する学説への適用(天皇機関説)、宗教への適用(大本教などの新興宗教)など、あらゆる領域に渡って思想統制の道具として猛威を振るうようになる。

治安維持法は大正デモクラシーの「政党政治」、民主主義の中で生まれた。そして皮肉にも「政党政治」が弱体化していくなかで膨張、暴走し、そして「政党政治」の滅亡(大政翼賛会)を導くことになる。
治安維持法が生まれた当初、少なくともある程度の言論の自由は守られていた。
明治憲法下でさえ、自由民権運動、普通選挙運動、そして政党政治の中で、自由な言論の場は確保されていた。
治安維持法への反対意見を論じることはできた。共産主義などの研究も可能でさえあった。それを論じる自由な空気もある程度はあった。
しかし、政党政治が崩壊し、5.15事件、2,26事件などのテロリズムを経て、軍部が台頭していく中で、政党政治が守っていた自由な言論さえ圧殺されていくようになった。

読みながら一番感じたのは、暗黒時代といわれる戦前でも、それなりに政党政治が機能し、「言論の自由」を主張する余地があったということだ。
この映像は、日中戦争の拡大を憂慮した斉藤隆夫の「反軍演説」。
斉藤はこの演説をした後、圧倒的多数の賛成によって衆議院議員を除名させられた。

そして昭和17年の「翼賛選挙」において、軍部を始めとする選挙妨害をはねのけ、翼賛選挙で非推薦ながら兵庫県5区(但馬選挙区)から最高点で、2位と7000票以上の大差で再当選を果たし、見事衆議院議員に返り咲く。しかし、大政翼賛の挙国一致内閣、国家総動員体制になり、言論は死に絶えたのだ。
斉藤の他にも、尾崎行雄や浜口雄幸、幣原喜重郎など戦前の気骨ある政治家を知ったのも、この本のおかげだ。戦争に向かう日本にも、こんな真の「愛国者」がいたのだ。これから、尾崎らの本を読んでさらに知りたいと思った。

筆者は、結びに「治安維持法」の教訓を次のように述べている。

治安維持法は、暴力や革命の発生源となる結社を取り締まろうとした。しかし、本来は暴力から保護されるべき言論へと手を広げ、あまたの悲劇を招いた。
政党は言論の自由を守るために、共産主義思想よりも、まず不法な暴力(いわれのない誹謗中傷も含まれる)を排除することを目指すべきだった。
………
「国体」の定義は、日本の命運を背負わせるには漠然としすぎていた。政党は何を守るかを明確にするために、もっと真摯に言葉を選ぶべきだった。
現代社会においてまず尊重されるべきは、個人の言論であり、そのためには思想、出版、結社の自由は皆大切である。そして個人の言論を不当に抑圧することは方法を問わず許されない。そのような結社はやはり規制されるべきである。
治安維持法の「悪法」としての歴史は、戦前の政党政治の全盛、衰退、消滅の歴史とも重なる。そして、自由と民主主義を守る上で何が必要かを、我々に遺してくれた。

2014/01/02

「集合知」を生かすための作法

教師は、あるレベルまでは何でも屋である必要があるけど、それ以上のものは、他の人の力をうまく借りて任せることが必要だと思う。職場でも、職場以外のつながりでも。
教育相談だったらあの人、特別支援ならあの人、ITCならあの人、特別活動だったらあの人、国語で言えば、文学なら、話す聞くなら、読書指導なら……というように。
それぞれの領域で前を向いて走る仲間を見つける。争ったり張り合うのではなく、力を借りる。そのためにも、「こっちは得意じゃないからあなたに任せたよ!」という部分と、ある面では、自分が意識的に、専門となるもの、得意なものを探して身につけていくこと重要なのではないかなあ。それが、「集合知」というものの生かし方だと思う。
今後ますますその傾向は加速していくのではないか。
で、必要なのは、そういう「これが得意ですよ」「これが好きですよ」という看板を、意識的に持って掲げるということなのだ。それを私は、「相手意識」に対抗して「自己意識」と勝手に呼んでいる。匿名性の高い,顔の見えにくいコミュニケーションであればあるほど、そういう「自己意識」を打ち出していくことは必要な作法だと思う。
いや、教師だけでないか?

2014/01/01

梅棹忠夫『文明の生態史観』を読む~「革命」と「脱皮」~

「文明」とは何だろうか。今さらながらに思う。
この『文明の生態史観』は「文明」を真っ正面から取り上げた一冊だ。

梅棹さんは民族学者としてアジアをはじめさまざまな国を探検した。
その体験から「文明」を「生態史観」という立場で観るというユニークな視点を獲得した。
「生態史観」とは、砂漠や熱帯雨林のように、地域の自然環境によって独自の発達をしていく植物の植生と同じようなとらえ方で、人間の文明も地域・環境によって似通った発達をしていくという見方をすることだ。
文明を「東洋」対「西洋」、「イスラム」対「仏教」のように、単線的な時間の流れとしてとらえるのではなく、異なった地域で、似たような文明が同時進行、同時発達に平行進化していることを示唆した点がとてもユニークなところだ。
梅棹は、イギリス、フランス、ドイツなどの西ヨーロッパ諸国と日本を「第一地域」と名付けた。
そして「第二地域」として、ロシア、中国、インド、トルコの4大帝国と、その周辺にある多数の小国とを位置づけた。


その詳細な分析については本書を読んでもらうなり、さまざまなブログで説明されているので割愛するとしよう。(梅棹さんの文章は中学生でも読めるような易しい文体だから原典に当たるのが一番だ)
第2地域が砂漠の灌漑からうまれた四大文明に端を発していること、その文明が、常に砂漠の遊牧民族(匈奴やスキタイ、元のような)の脅威に頭を悩ませていたこと、また、4大文明の影響を直接は受けなかった「辺境」である日本やヨーロッパが、結果的には現在の文明の発達を得たことなど、興味深い関連性が次々と取り上げられている。
梅棹がこの「生態史観」を発表したのが戦後まもなくのころというのも驚くべきことだ。平成の現代、インドや中国、イスラムなどの、かつての巨大帝国が力をもたげてきているのも「生態史観」の新たな展開を予想させる。
やや強引なところもなきにしもあらずだが、見方としてとても面白いし、それによっていろいろな現象を捉えることもできるのだ。

この本を読んで一番考えさせられたのは、日本の位置づけだ。
第二地域(中国やロシア)は、王様のような強大な権力があり、その下に圧倒的な数の、無力な庶民の存在があった。そのため「革命」が一気に進み、新たな圧政的国家(社会主義国家など)が生まれた。
一方、日本を含めた第一地域は、王様のような権力と、無力の庶民の間に、中間層として力を持っている「ブルジョア」の存在があったために、「革命」のような急速な改革はおきなかった。「革命」ではなく「脱皮」としての近代化を成し遂げることができたのだ。
日本やヨーロッパなどの地域は、本質として「革命」は起きえない。ぐだぐだと(表現は悪いが)なし崩し的に変容していくかか、急速に変わっていくとしても、その本質は「脱皮」であるということだ。
中間層であるブルジョア(という表現が適切かどうかは??だが、)がどう変化していくかが、日本やヨーロッパが変わっていく鍵であるということなのだろう。
しかし、この現在、日本などの第二地域における「中間層」の存在は、「大衆」の誕生とともに、その位置づけは大きく揺らいでいることと思う。

また、工業社会から情報社会に移行するに伴い、「生態」そのものの様態も変わってきているのではないかと思う。
いまは砂漠のなかでさえ、世界の情報にアクセスできるようになっている。
モロッコの砂漠のなかをを車で通過しながら、屋根にはパラボラアンテナ、遊牧民は携帯電話を持っている姿をいくつも見た。また、世界のたいていの地方都市には、カルフールのような巨大なスーパーマーケットがあり、そこで人々はマックやケンタッキー、スターバックスに行くことをステータスとしている。「百均」のような店もいろいろな国で見かけることができる。
グローバル化はあらゆる地域の「文明」で進んでいる。この世界が「ジャスコ化」「ファスト風土化」(三浦展)していることは間違いない。
そのグローバル化は「生態」をどのように変えるのだろうか??
サイバー的な社会と、ローカルな社会との「生態」はどのように変わっていくのだろうか?
梅棹さんだったらなんていうのだろうか、生きていたら質問してみたい。

今年のテーマは、語彙を豊かにする学習!

私の今年のテーマは「語彙を豊かにする学習」
海外で、語彙力が無くて英語が全然しゃべられなかった悲しい経験と、映画「舟を編む」を見て、あらためて、豊かな言葉を持っていることによる力を痛感した次第です。

年末、海外(モロッコ)に旅行に行ってきました。
私と妻の個人旅行で、同行したのはモロッコ人ドライバーのみ。現地ガイドが観光地ごとについてくるというスタイル。しかも、彼らは英語しかしゃべれません。説明はすべて英語です。(モロッコはアラビヤ語とフランス語が公用語なので、英語は必ずしも上手ではないらしいが……)

で、自分も高校までは英語を勉強してきたのでしゃべれるかなあと思っていたんですが、しゃべろうと思っても言葉が出てこない! 正確に言うと、単語が出てこない! これでは、いくら英文法とか構文を知っていても意味は無いのです。反対に、文法的にはかなり怪しくても、単語さえ知っていればコミュニケーションをとることはできるわけです。
作文力は語彙力!とあらためて痛感させられたのでした。
伝えたい思いがあっても、言葉にならないあのもやもやした時間は、きっと、教室で子どもたちが作文を書くときに途方に暮れているあの顔と同じです。かれらも、きっと伝えたい思いにぴったりした語彙を知らなかっただけかもしれません。
言葉を知っていること、言葉をいつも持っていること、それが、表現力のすべての根幹であることにあらためて痛感させられました。
作文を指導する時、いままで私は「どんな語彙に出会わせようか」とか「どういう語彙を使えるようになったらいいんだろうか」という視点で指導をしてはいませんでした。
「書き方」などのテクニックを教えて、書けるようにさせている「気」になっていただけだったのです。
作文が書けるようになる前提には、豊かな語彙力が必要とされる。しかもそれは教師が意図的に学習する場を設定する必要があること、これは、いままでの私の授業ではあまり重視されていない盲点です。
この「語彙力」はたんに単語の意味を知っているというだけではなく、単語の使い方(単語が文脈とセットで、一文の中で当てはめる力)や、特定の言い回しを知っていて、それをタイミング良く思い出して使える力とも言えると思います。英語教育やコーパスなどのツールも活用できるかもしれません。
「語彙を豊かにする学習」にフォーカスを当てた取り組みを意識していきたいです。


ちなみに「舟を編む」は、ご存知の人も多いと思いますが、辞書づくりに関わる人たちの物語です。
『大渡海』という辞書を、十何年もかけて編集をしていきます。
この作品にはこんな名言がちりばめられています。

(『大渡海』の名前の由来)
「海を渡るにふさわしい舟を編む」
「ひとは辞書という舟に乗り、暗い海面に浮かびあがる小さな光を集める。もっともふさわしい言葉で、正確に、思いをだれかに届けるために。もし辞書がなかったら、俺たちは茫漠とした大海原をまえにたたずむほかないだろう」

「死者とつながり、まだ生まれ来ぬものたちとつながるために、ひとは言葉を生みだした。」

「言葉という落雷があってはじめて、すべては生まれてくる。愛も、心も。言葉によって象られ、昏い海から浮かびあがってくる。」


さあ、「舟を編む」にならって、今日から用例採集!

本年もよろしくお願いします。