2014/10/26

なぜ人は書くのか~「書く意欲」と「書くきっかけ」とは違うということ~

小学生とは違う中学生の書く行為
新卒2年目。ある地域の研究会で作文指導の提案をした。
提案内容は今考えても稚拙なものだったんだけども、それが問題ではない。
そこで、いただいたご意見が、今でも忘れられない大切なご指摘だったのだ。
私がした提案は、中1で論理的な意見文を原稿用紙一枚で書くというもの。
その提案の協議の時に、小学校の先生から
「たった一枚? 小学生だったらもっと何枚だって書きますよ」
というご指摘をいただいたのだ。
いただいた意見は悔しかったが、全くもってその通りだったので返す言葉もない。
私の授業では、中学生は1時間で1枚を書くのがやっとだったのだ。(まあ、今だったら「長けりゃいいってもんじゃないでしょ」と反論するかもしれないけど……)
悔しかったけれども、この発言をきっかけに、私は「なぜ同じ子どもたちが、小学校のときは書けても中学生になると書けないんだろう」という疑問を持ち続けることになった。いまでもその問いは胸に抱いている。


中学生にとっての「書くこと」の断層
現時点でのその答えは、「書く意欲」は、必ずしも「書くきっかけ」にはならないということだ。
言い換えると、書く意欲、書きたいという思いを持っているからといって、それですぐに書きだせるようにはならないということだ。
「書く意欲がない」ことの内実を考える必要がある。
書きたいという思いと、実際の書く行為までの間には、小学校時代とは比較にならないくらいの断絶が存在するのではないか。とりわけその断絶は中学生になると大きくなるのではないか。

たとえば、思いっきり分かりやすい例で説明してみる。
男子がある女子を好きだとする。一刻も早くこの思いを伝えたい。しかし、小学生時代では言えた「好きだ!」という一言を、中学生の私はすんなりと言えるだろうか? 言えるわきゃない。
何度も何度も逡巡して、ようやく「好きだ!」の一言を伝えることができるようになる。中学生ってそういうものではないのか。
語彙があっても、伝えたい思いがあっても、中学生にとっては、それが伝えるきっかけにはならないとはこういうことだ。
作文も「伝える」というその本質は同じだ。書くのがめんどくさい場合は小学生だって中学生だって書かない。しかし、いくら書きたいと思っても、いや、むしろ書きたいという思いが、書くことを邪魔するということさえ中学生ではまま見られる。自我が表現行為にブレーキをかけてしまう。


茂呂雄二『なぜ人は書くのか』から考えたこと
難解な本で、何度読んでもほとんど理解はできていないけれども、断片的な理解をもとに、自分なりに考えたことを書こうと思う。




目次
序章 問題の発掘
1章 書くことの発生と前史
2章 書きことばと知の発達
3章 書かれたものの意味―シンボル・センス・対話
4章 生成的記号活動としての作文
5章 書くことを支えること、育てること
終章 なぜ書くのか
補稿 書くことと「やさしさ」(汐見稔幸)

最初に紹介めいたことを書くと、この本は認知心理学者の立場から「書くこと」の営為、本質を考究している一冊だ。ヴィゴツキーなどの状況主義的学習観に立って「書くこと」の始原の姿を追っている。しかし、理論が先行するのではなく、世界中の様々な文化的背景を持った人たち(主に子どもたち)の「書かれたことば」を取り上げつつ、それがどのような状況で書かれ、そこから「書くこと」において何が見えてくるかを論じている。
茂呂氏は、「書くことを」を状況や場の中で引き出され、生み出されていくものとしてとらえている。
読み手との関係の中で、また、書かれたものが共有されていく「場」の中で、「私」が関わっていく参加の姿として書かれていくものである。(これを「身ごなし」と表現している)

先ほどの告白する男子中学生の例で言うと、
1、「好きだ!」という言葉を気軽に言える関係性があり、
2、それを相手が受け入れてくれるという見通しが立てば、
誰だって「好きだ!」と言うことができる。
しかし、そう言えるだけの見通しも、自信も持ちにくいのが中学生なのだ。(もちろん、かつての中学生である私も、今だって、ほいほいと告白なんてできません!)

これを「書くこと」に敷衍して思いっきり図式化して言うと
「関係性」の認識、、「読み手」の認識、、そして「自己」への認識の3つの認識が、書き手の中で十分に確立されていると了解されない場合、人はおいそれと自己を表現することができない。(どれかに自信を持てなかったり、迷いがあると、伝えることはできない)
反対に、この三つが安定的に了解できると、どこまでも書くことができる。(Lineで一日にやりとりしている会話は原稿用紙だと一体何枚になるんだろう??)

茂呂氏はこう言う。「なぜ書くのか。われわれはわれわれ自身の声を作るために書くのだ」「なぜ書くのか。それは文化としてすでにある語り口から、固有の声を作るためだといえる。書くということはすでにそこにあった身ごなし・語り口から、あらたな身ごなし・語り口、すなわち声を組み上げることとして成り立っている。」と。
書くことは他ならぬ自分の声を聞き、自分の語り口をさぐることを意味する。
書くことで否応なしに自己の声と向き合うことになる。「書かれたもの」によって表現される「自己」を、書いている自己は見つめなおすことを余儀なくされる。それは、十分に自己を受容できない、自分の「声」が確立していない思春期の生徒にとっては、なかなかキツイものであろうことは容易に想像がつく。

『なぜ人は書くのか』の補論を汐見稔幸さんが書いている。汐見さんの文章はずいぶんわかりやすい。汐見さんは書くことの動機付けをこう述べている。

自分の書く行為と、作品を受け止めてくれる存在が、より抽象化された形で存在するのではないか。……これは、自分が属している集団の中で、自分がどう評価され処遇されているかということについての自己評価のことと言い換えてもよい。そういう自己評価がポジティブな形で存在しない限り、人は書こうとしないだろう。ところで、そうだとすると、この集団における他者の目、評価をいわば内面化したような自我の存在が、人間の書くという行為を励まし、動機づけているのではないかという仮設が成り立つ。……書くという行為をある段階以降支えているものの一つは、自我の中に、何かを行っている意識や思考の働きをいわばモニターする働きが育っていて、そのモニター部分が書くという行為を肯定的に受容するような構造ができあがってくる、ということになるだろう。
初任2年目以来考え続けてきた「中学生はなぜ書かないか」ということに対するヒントをこの本から得るできた。さて、では、ここからどうするかという話だ。

「語られない言葉」に耳を澄ますこと〜「言ったもん勝ち」の世の中にあらがうために〜

戦争体験をされた方4人とお話をする機会があった。
4人のうち、2人は戦争当時、国民学校の生徒で学童疎開を、もう2人は高等女学校で軍需工場で勤労動員をしていた経験を持たれている。
お知り合いのつてを頼って、この4人とお会いし、お話をするチャンスを得た。

私が一番知りたかったのは、戦争当時、人々が何を考え、どう自分たちの状況を感じていたのかという点だ。
空襲や疎開の様子などを伺ううちに、この核心に迫る話題になっていった。

「やっぱり、工場で働きながら、この戦争がずっと続くのかなあと思っていましたか?」 
「今の戦況がどうだとか、そういうお話は家ではされていましたか?」
「軍需工場では、空襲で負傷した人とか亡くなった人がいたそうですが、友達とは当時それについてどんな話をされていたんですか」
「疎開から時々面会に来る親と、東京の空襲とか戦争の様子を聞いたりはしなかったんですか」

それらの質問について聞いた答えは(自分にとっては)とても意外とも思える言葉だった。
「まあ、あなたはお若いから分からないのでしょうね」(と、あきれた感じで、お笑いになって)
「そういう戦争についての話は、当時はいっさいできなかったんですよ」
私「話すと特高警察とかに捕まってしまうからですか?」
「軍事機密とかの話題はもちろんそういうのもありますけれども、戦争について話題にしようとも思わなかったという気持ちでした。親も家ではいっさい戦争について話しませんでした。なんとなく、そういう話題を避けていたんです」

戦争について「話せなかった」「話そうとも思わなかった」。
この言葉は。空襲で焼け出されたり、原爆で亡くなったりすることと同じくらいに、強烈に戦争の持つ恐ろしさを「語って」いるのだと思う。
「戦争はいやだ」
「死ぬのはいやだ」
「自由に生きられないのがいやだ」
こういうごく当たり前のことを、ごくふつうの市民が当たり前に語れなくなってくる、語ろうともしなくなってくる。それこそ「戦争」のもつ本当の恐ろしさなのだろう。

声高に語られる絶叫の影に、ベストセラーの書籍の下に、こうした普通の市民の「語られない」言葉が埋もれている。「言ったもん勝ちの言葉」の前に「語りたくもない言葉」は圧倒的に無力だ。でも、せめていま「語られない言葉」に耳を澄ましていたい。そして「もっとも恐ろしいのは、それが語られなくなったときだ」という教訓を胸に刻んでおきたい。

2014/10/25

サービスのジレンマ〜サービスの効果はあっという間に減衰する〜

コンビニの店員さんのちょっとしたサービス?が、最近どんどんエスカレートしている気がする。
万券で買ったときは、お釣りの千円札を一枚、二枚と目の前でカウントしてくれる。
小銭がジャラジャラしているときは、コインが手からこぼれても受け止められるように、手のひらを添えてくれる。
おにぎり買うとお手拭き入れてくれる。
毎回、会計の時に、「ティーポイントカードのご利用はございませんか?」とすかさずアドバイスしてくれる。……
しかし、もっと厄介なことに、一度こういうサービスに慣れてしまうと、次に同じ対応をしてくれないと不満に感じてしまうということだ。
サービスはあっと言う間に「当たり前」になり、有り難みが薄れてしまう。こんな私のような尊大なお客様がいる以上、ますます新たなサービスがあみだされていくのだろう。

サービスは「当たり前」になると「サービス」にはならない。なぜなら、通常の業務とみなされるから。
だから、「当たり前」にならない程度に「特別感」を提供し続けなければいけない。それがサービスのジレンマだ。
飽きられないサービスには、無限の「差異と反復」が営まれている。
「老舗」の持つ魅力は「何もしない」ことが生み出す豊かな「差異」だ。ほんとうは「何もしない」のではない。うなぎのタレをちびちび継ぎ足すように、一時たりとも変化を止めていない。しかし、お客にしてみれば「変わってない」という反復のイメージが、無限の意味を生み出すのだ。そしてそんなサービスこそ、お客様を尊大にしたり増長させたりしないサービスなのだろう。

もちろん、私にとっての最大の関心事は、教育における「サービス」のありかただ。
サービスとホスピタリティーとの違い、または茶の湯における「もてなし」など、時間があればそういった方面もそのうち勉強してみたい。

2014/10/19

アイディアの種はどこでも転がっている

京葉線東京駅のエスカレーターは、都内でも有数の高低差がある。とにかく深い。そして長い。
そこで問題になるのが「エスカレーター片側通行問題」である。
私はエスカレーターをかけ上がらずにゆっくり乗りたい派なんだけど、そうしたら左側の長い列に並ばないといけない。駅員さんもわざわざトラメガで両側乗車を呼びかけている始末。どうしたらこれが解消できるのだろう?
駆け上り専用エスカレーターを決める?
サクラを入れる?
駆け上れないよう等間隔で柵をつくる?
などなど、
そういう下らないアイディアを考えているのが楽しい。
ちなみにこの難問は未だ解決されていない。

偶然が心地よい

通勤時間が長いので、通勤時間はたっぷり音楽を楽しむことができるようになった。
しかし、毎回聴く音源もそろそろ飽き始めたので。最近はもっぱらiPhoneのアプリからラジオをネット経由で聴くようにしている。高校生以来かな?
ラジオのよいところは、時折聞いたこともない曲で、しかもいいのとめぐり合うことができることだ。また、そうでなくても、自分の意思や好みとは無関係に、偶然との出会いに身を委ねているのは心地いい。
「主体的に、偶然に依存する」のってなんと心地よいものなのだろう。何でもかんでも見通しばかりよくなることで妙に息苦しい世の中になっているような気もする。そんな時に、ラジオ。おすすめです。

竜神池と実践的研究

昔、子ども時代大好きだった番組に「風雲たけし城」というのがあった。
たけし城でおなじみなのが「龍神池」というアトラクション。
池の中の足場を渡っていくんだけど、その足場が浮島のようになっていてずぶずぶと沈んでしまう。ずぶずぶと沈む前にひょいひょいと前に進んでいかないとクリアできない。
実践的研究は、この龍神池の歩みと似ている。
ちょっと勉強すれば、おいそれと「これは画期的な提案だ!」なんて言えなくなる。勉強すればするほど、ずぶずぶと底なしの池のように深い世界が待っている。自分の勉強がちっとも足りなかったこと、もっともっと広大な世界が広がっていることを痛感させられる。
しかし、立ち止まっては沈んでしまう。
だから、ひょいひょいと前に進んでいかなければいけない。すこしでも手がかり(足がかり?)となる土台を見つけ、立ち止まらずに進まないといけない。じっくりと沈んでいられるだけの時間は無い。目の前に授業を受ける子どもたちが待っているからだ。
だから、実践は常に不十分。いつも見切り発車だ。準備が足らなくて、すいません、と思いながら、おっかなびっくり授業をしている。それが私の情けない毎日なのだ。

2014/10/16

「価値」と「評価」は違う

ということを、あらためて、しみじみと、考えないといけないと思う。
私たちが行っている教育活動は、それが何らかの「価値あるもの」という信念があるからこそ行っている。しかし、その「価値あるもの」が「評価できるもの」とイコールであるかどうかは別次元の問題だ。「価値あるもの」が全て「評価できるもの」であるとは限らないからだ。

小説を創作する授業を検討しているときに、真っ先に言われるのが「それをどう評価するんですか?」という問題。評価できないものは授業として成立しないとでも言うのだろうか?……でも、今の授業の流れは明らかにそう。
でも、「評価」が難しくても、「価値」があれば断行する。それが教育というものじゃないのかな?

ただその「価値」というのは大勢の人から「価値あるもの」として共感してもらわないことには「価値」は生まれないというからくりがある。
たとえば紙切れや金属片で作られたお札やコインは、紙の原価とか、金属の材料費以上の「価値」を多くの人によって共有されているからこそ、500円玉として、一万円札として「評価」されているのだ。
評価は難しくても価値あるものとして共感してもらえるように伝え続けることが重要なのだろう。

アマゾンの「五つ星レビュー」で「感想」から「批評」への脱皮を。

昨日から「走れメロス」の鑑賞の授業をスタートさせている。
通読して設定を確認した後、200字で、いわゆる「初発の感想」を書かせたんだけど、そこで一工夫。Amazonのレビューのように、五つ星をつけてもらい、それにコメントするという活動にした。
実際の「走れメロス」のAmazon上のレビューはこちら。
ちょっとした違いなんだけど書き方を変えることで「読後の感想」から「読み手を意識した作品批評」へとモードが明らかに変わっているのを感じる。星をいくつに設定するかという「迷い」が、その人なりの作品評価を含んだ読みに仕向けることができたのだろう。
もちろん、一読した後のコメントだから、不十分な読みも散見される。しかし、その不十分なコメントだからこそ、かえってお互いの読みを刺激するものとなっている。
今日の授業では、お互いの五つ星コメントを交流しあった後、さらに実際のAmazon上での「走れメロス」のレビューもみんなで読んでいった。
高校生が書いたレビューや、中学生時代に読んで、大人になってから読み返した人が書いたレビュー、穏当な評価と過激な評価など、さまざまな観点があってとても面白い。一つの作品でもこれだけ評価が分かれる問題作なんだと言うことを、Amazonのレビューを読み合うことで気づくことができたと思う、

2014/10/15

初心者同士だからよい

今日は月例の授業研究。
音楽で。みんなでヴァイオリンを弾く授業をやっていた。
ヴァイオリンというと高級そうなイメージだが、安いのだと数千円でも買えるのだそうだ。これを生徒数分買ってグループで練習する。
残念ながら授業は見られなかったのだが、協議会で興味深い気づきが得られた。
それは「初心者同士だからよい」という意見から。

ヴァイオリンなんて見たことはあっても弾いたことのある生徒はいない。だから、みんな初心者で、おっかなびっくり弾いていくわけだが、みんなが初めてだか ら、引け目を感じることなく、互いの音を聴きあって、探り探り練習をしていった。そして、うまく弾けた子はその技を伝授していく。そういうやりとりが自然 に生まれてくる学び合いに発展していったようだ。
技がどのように広がっていったか、それに言葉がどれくらい貢献していたか、いなかったか、授業を参観していたら是非知りたかった。

授業の本質でないところに、つい気を取られちゃうという話


ある研究授業を参観したときの話。
授業の内容はとても感銘を受けるすばらしいものだったのだが、協議会がいまいちだった。出てきた質問がうーん、というものだったからだ。
「あのー、授業で使っているプリントは、どのように保存されているんでしょうか?」って、そこを聞く?。
きっとその先生にとっては、プリントを効率よく管理することが日々の授業の課題だったんだろう。しかしそんな些末なことで、わざわざ時間を取って質問しなくても……と思ってしまった。
授業の本質でないところに、どうも目が行ってしまうようなのだ。(本当は深い意図があったのかもしれないが、それはわからない)



11月から行う単元に向けて構想や準備を進めている。
ゲストティーチャーもたくさん関わるけっこう大がかりな単元だから、こっちも気合いを入れて準備をしている。
・授業の場所はどこがいいかな?やっぱり図書室?
・グループ編成はどうしようかな? 座席配置は?
・道具はどれくらい用意したらいいだろうか???
などなど、細部まで詰めていけばきりがない。しかし、この細部を考えるのが楽しくなってしまう。そして、どうでもいい、授業の本質でないところに、どうも目が行ってしまう。
もちろん、そういう細部が、ある一定の影響を与えることはあるだろう。しかし、どのような力を取り上げるか、それをどう高めるかという、授業で最も重要な ことを棚上げにして、些末なことにかかずらわるのは、ある意味ラクでもあるし、楽しいので、ついついそちらに目が行ってしまう。
そこに、大きな落とし穴が待っているのだと思う。自らの戒めとして。

2014/10/13

道徳資料「江戸しぐさ」から垣間見える道徳教育の実情

文科省が全国の小学生に配布している資料に「江戸しぐさ」が掲載されているということが大きな話題となっている。
どうも「江戸しぐさ」は時代考証的にかなりまゆつば物らしいのだ。
私は「江戸しぐさ」が教材に取り入れられる過程そのものに、おとなが考える「道徳教育」の何とも言えない実情、実態がはらんでいるような気がしてならない。
・ちょっと調べれば真偽がわかるようなネタをなぜ取り入れるのか?
・何となく「本当にあったいい話」だから入れとけみたいなノリで掲載しちゃったんじゃないか?
・むしろ、この教材をおかしいなと思うような子はいないのだろうか?
子どもは「いちゃもん」が大好きだ。少しでも間違いを発見したら鬼の首を取ったように生き生きと喜ぶ。
大人だったら「それくらいでわやわや言うなよ」というくらいのピンポイントのところもすかさずに指摘をする。
そこが子どもの賢さであり、まっすぐな好奇心の表れなのだ。そしてそれが批判的思考力の萌芽ともなる。難癖やいちゃもんにとどまらずに、他者に向けて筋道を立てて説明できる論理性を身についたり、とことん追求する態度が持続したりするように仕向けていくことができれば、生涯発揮していくことのできる創造的な批判力となっていくのだろう。
しかし、どうやら、お国の考える「道徳教育」には「批判的思考力」の育成は含まれていないらしい。
誰か「江戸しぐさ」の資料を「真理愛」で取り上げてくれないかなあ。

2014/10/12

これからの「学習指導案」にむけて〜地図やナビがなくてもなぜ目的地にたどり着けるか〜

先日の学習指導案についての投稿が思わぬ反響を得たようだ。
ブログの管理者には閲覧数を知ることができるんだけど、この投稿は今までではあり得ないくらいの閲覧数。びっくりだ。
もうすこし「学習指導案」について考えてみたいと思う。しかも「地図」のアナロジーで。

唐突だが、私たちは地図やナビゲーションがなくてもある程度の範囲であれば目的地に到達することができる。たとえば、私が生まれ育つ県内であれば、わざわざカーナビなんかつかわなくても、だいたいの感覚で目的地に到達できる。
そのときに、何を、どう見ているのか。
・だいたいの方向を知っている。
・道よりも、景色や遠くのランドマークを見ている(山の見え方など)
・大きい幹線道路、細い道などを評価しながら進んでいる。(細い道は袋小路になりそうだから避けるとか)
・目的地の建物などを見たことがある、あるいは知っている。
・そして、もし袋小路だったり明らかに方向を間違えた場合は引き返し、目指す目的地や方向に軌道修正をしながら進んでいくことができる。
・もちろん、案内の看板や国道番号などは重要な情報源となるだろう。
↑これらの条件があることが「土地勘」の正体であろう。

いっぽう、最近はカーナビに頼り切っているので、なかなか道を覚えられなくなった。
カーナビでの走行は次のような特徴を持っている。
・方向感覚よりも、通る道路を優先する。(あきらかに反対の方向でも、カーナビが示す道路に進もうとする)
・幹線道路か、狭い路地かはあまり関係ない。
・目的地の建物よりも、住所を重視するため、到着しても建物に入れないことがある。
・常に最短距離を走ろうとする。
・明らかに間違えた道路を通った場合は、取りあえず180度引き返して正しいルートに戻る選択をとる。(性能のいいカーナビだったらその場で経路を検索してくれるものもあるだろう)

これは、何を言いたいかというと、「目的地」に到達するための、人間と機械(カーナビ)との思考の違いがどのような点にあるかと言うことだ。

人間が目的地に到達できるのは、道路すべてを知り尽くしていなくてもよい。ある程度の感覚で進むことができる。そしてほとんどの場合は、それで何とかなる。(むしろ、知っている道路しか進めないのであれば、地図やカーナビをひとときたりとも手放すことができない)
そのときに重要なのは、ゴールのイメージ、土地勘、そしていつでも方向転換できる柔軟性だ。
道路や地形をその場で解釈し、目的地から外れそうな気配を感じたら、そこで舵を切り替える。それこそが、機械にはない人間の「知性」であると言える。

多くの学習指導案という「地図」が、それだけでは実際にはほとんど役に立たないのは、できの悪い地図に気をとられて、道に迷っている旅行者のようなものであるからなのだだ。
「ゴールのイメージ」「土地勘(ランドマークとか、地形など)」「方向転換する指針」を明確にするための「学習指導案」の存在こそが、現場で力を発揮するのではないか。
ちょっと抽象的な議論になってしまったが、時間が無いのでとりあえずここまで。

2014/10/11

指導案検討中心の授業研究がなぜ機能しないか、そのささやかな代案。

多くの学校の校内研究、研究授業では必須のツールとなっているのが「学習指導案」だ。
結論から言うと、私は、学習指導案はほとんど不要だと思っている。
その理由は次の5個だ。

1 指導案の書式や内容が煩雑で、作成に膨大な手間がかかる。
2 指導案が単なるつじつま合わせの「アリバイ作り」となってリアルな授業で使えなくなる。
3 指導案にいろいろな人が「ご指導」していく中で、その人が本当にやりたいこと、できることとかけ離れてしまう。
4 むしろ指導案通りにやることで、授業が生気ないものになりがちだ。
5 大げさすぎて、普段の授業で使えるようなフォーマットとなっていない。活用できない。

「ほとんど不要」といったのは、ある程度は必要ということでもある。(教育実習生や新卒、若手の教師など、形だけでも、授業や教科の構造を勉強するためには有効だろう)
事前に、授業について自分の考えを書いて整理することは必要だし、有効なのは間違いない。
しかし、私は「最低限」ということであれば、次の3つでいいのではないかと思う。

1、なぜこの授業を取り上げるか
2、授業のねらいは何か
2、授業でやること、手順はどのように進めるか
しかも、曖昧にぼやかさずに、箇条書きで。

1の「なぜ取り上げるか」は、教師である自分の切実な関心や問題意識、子どもにとっての授業の価値が語られるだろう。「教科書に書いてあるから」「学習指導要領に書いてあるから」なんているのは論外だ。もし「教科書に書いてあるから」だとしても、それを掘り下げて、自分なりにとらえた学習の価値を語られるようになっていないと、自信を持って授業はできない。

2の「授業の狙い」は、授業の目指すゴールだ。
多くの授業は、ゴールが不明確だったり方針が定まっていないのでごちゃごちゃしてしまうことが多い。
ちなみに、授業によっては「教師の目標」と「子供の目標」が異なる場合も当然ありうる。

3の授業でやることは、全単元なり、50分・45分の授業をどういう流れや要素で展開するかという内容だ。
時系列的に書く場合もあるし、要素を書きだす場合もあるだろう。その粗密は扱う単元や授業の規模によって変わってくるだろう。

以上の3つをA41~2枚以内で書きだす。
そして、事前の指導案検討では最低限、この3つだけ押さえて、後は各授業者で好きに授業をやってもらうのだ。

実際の授業では、次の視点で授業をみるとよい。
A 子どもの学習する姿から「2 授業のねらい」は伝わってきたか。
B 教師が想定した以上の、学習の価値や学びの姿、課題は見えてきたか。

授業は、事前のプランやプログラム通りに進むわけない。むしろ、プログラムから逸脱した要素、はみ出したものにこそ価値があり、発見があるのだ。「授業者の見えてない世界を見る」のこそが「研究」なのだから。
「プログラム」中心のコンピュータの知と、状況的行為の知性をもった人間との関連についてはこの著書に詳しい
プランと状況的行為―人間‐機械コミュニケーションの可能性


そう考えると、事前に指導案を熟知している参観者と、むしろ指導案を事前に全く読まずに、その場で授業の価値や印象を述べる人と、様々な観点で授業後のディスカッションをしたほうが、面白い発見があるかもしれない。むしろ指導案を作ったり、事前に熟読することで、授業の見方が固定されてしまうこともありうるからだ。


関連して、以前こんなことを考えた。
→理想の「研究授業」論理・創造・批判・感性
→「学習指導案」をめぐるあれこれ

2014/10/09

その時々のベストな答えがあるだけだ。

能の大成者、世阿弥には「時分の花」という言葉がある。
これは少年時代には、その時代特有の「花」(今だったらスター性とでもいったらいいかな?)というものがあり、大人のマネをさせずに、存分にそのときだけの、その人の持つ「花」を咲かせるのが良い、ということ(だと解釈している)。そしてその「時分の花」も、ジジイになってしまえばあっという間に色あせてしまう。いつまでも咲いている「花」ではない。
詳しくはこちら

これは、能に限らず、大げさに言えば、人生すべてにおいて当てはまる心理なのではないかと思う。
たとえば、教師人生も、新卒には新卒にしかない「花」があるし、もちろん「発達課題」がある。10年選手には10年目の、30代には、40代には、同様に……、要は、その「時分」に応じた課題も、光らせることのできる魅力もある。
しかし、人は得てして、現在の自分が直面している課題や「花」が、他の人にも、いや、すべての人に通用する課題であり、「花」であると勘違いしてしまう傾向があるのではないか?
それは「時分」の課題に過ぎないし、「自分」だけの課題かもしれないのに。
今日で私もやっと38歳、態度のでかさだけは40代? もう少しで「不惑」といわれる年齢にさしかかってしまう。
まだまだ迷いっぱなしの毎日だ。「時分」で「自分」の課題に向き合っていくしかないと観念している。

「鶏口となるも牛後となるなかれ」の真意とは?

ノーベル賞と獲った中村さんは、大企業ではなく中小企業で、たたき上げで一から取り組むことができたからこそ、これだけの成功を収めることができたのだろう。

この中村さんの記事は圧倒的に面白い。平成の立志伝だ。
中村さんの話題は、どうしても青色LEDを開発した後の悶着にクローズアップされらがちだけど、むしろ開発に至るまでの軌跡がとても勉強になる。
おそらく大企業のコマの一つで動いていたら現在の彼はなかっただろうと言うことがよく分かる。

「私がギャンブルできたのは、研究開発、製造、品質管理までの一連の技術を手掛け、研究室にこもらずに客先を訪ね歩いた経験が大きいと思う。自分が手掛ける開発テーマは世の中でどのように位置付けられるか。つまり売れる技術は何かを確認する技術者としての基本的な体力を、入社後の10年間で養えたのではないか。」

畑村さんが確か『失敗学のすすめ』で述べていたけれども、創業者やたたき上げの人の最大の利点は、業務の全体像が見えると言うことだそうだ。それは実感的によく分かる。
一からプロジェクトを立ち上げた創業者世代の人間は、その趣旨や成り立ち、システムの構造を隅々まで熟知している。
創業者から二代目、三代目と世代が移っていくと、その創業自体に培われたノウハウはマニュアル化し、効率化へと進んでいくが、それが行きすぎると、形骸化してしまう。創業当初の「ここは押さえとかなきゃダメだろう」というキモが忘れ去れていくことになるのだ。そうして大企業になればなるほど組織は硬直化していく。
小さい規模でもいいから、一人(か少人数)で全体を回してみる経験をするということは、大企業の隅っこで働くことよりも遙かに勉強になる。
昨日読んだ池上正さんのサッカーの教えにも似たようなことが書かれていた、「まず小さいチーム編成で戦う経験を積ませる」と。
→この記事を参照。

学校で言えば、実は公立学校というのは、その本質は大企業と同じだ。教育委員会という本庁があって、地域に所轄の公立学校がある。だから、なかなか小回りがきかない面が多い。たとえば、教科書一つさえ自分たちで選ぶことができない。予算の自由もあまりない。
一方、私立学校や国立学校の利点は、自分たちで一から作り上げることができる「中小企業」であるという点だろう。それ以外のメリットは実はあまりない。お金や設備、人員だって、地域の公立の方が遙かに恵まれているなんて例はザラだ。国立学校だって学級崩壊のような生徒指導上の問題も存在する。
しかし、「本庁」から求められる経営やカリキュラム上の制約はほとんど無い。本庁から求められる書類もほとんど無い(週案さえない学校も多い)、それが最大の強みなのだろう。
だからこそ、その現状にあぐらをかかないで、現代の課題にチャレンジしていくリスクをとる必要があるのだろう。

2014/10/08

成長なんてしない

小学校高学年から中学生時代、「大人」にあこがれていた。
たばこをくゆらしたり、酒を飲んでくだを巻いたりする姿が無性にかっこよく感じた。
子どもには理解できない単語や会話を聞くのが楽しかった。
そこには理解できない他者である「大人」の存在があった。
早く大人になりたいと思った。大人になって、たばこを吸ったり、酒を飲んだり、お金を稼いで好きなものを買ったり、自由な生活を送りたかった。
しかし、二十歳を超え、30歳を超え、大人と呼ばれる歳になって一番びっくりしたのは、自分のなかの「自分」は、ほとんど何も変わっていないと言うことなのだ。
べつに天使のようなピュアな魂を持ち続けていると言いたいわけではない。子ども時代も十分に生意気だったし、大人の今もいっこうにわがままは止まらない。しかし「大人」へと成長していくんだという幻想は見事に崩れ去ったことだけは確かだ。
変わったのは、「自分」にまとわりつく何かかだ。

「自分」には「成長」というイメージがどうしても持てない。
天に向かって、木々や草が伸びていくようなイメージをどうしても持てない。芋虫がチョウチョに脱皮して華麗に変態していくようなイメージを持てない。
その代わりに、いろいろなものがまとわりつき、絡み合って太くなっていく、紡がれていく糸とか縄のようなイメージをもっている。
中心の軸はきっとどこかにあるんだけど(それさえもひょっとしたら空洞かもしれないけれども)、それにさまざまな関係が結びついていくイメージ。
その糸が赤色が多かったら赤い糸になり、青が混じれば紫の糸になる。ひょっとしたら、今後これらが緑や黄色の糸になっていくかもしれない。ぐるぐると回りながら、糸が太く、強くなっていく。さまざまな関わりが、こんがらがりまとわりつき、一つになっていく。
それは「成長」と言うよりも、「成熟」に近いのかもしれない。
上に伸びていくのではなく、太くなっていく、そしてその根っこは、広く、深く広がっていくイメージなのだ。
きっとこれからも成長なんてしていかないだろう。

「表現の自由」と「文学」

「文学なんか何の役にも立たないとかよく言われるんですけど、政治家が真っ先に弾圧するのも文学なんですよね」(安部公房)

最近、また安部公房にはまっている。
最近はyoutubeで安部公房の肉声に触れることができるようになった。うれしい。






安部公房は文学と自由との関係、いや、人間存在と自由との関係をとことん追求しようとした文学者である。

文学を創作する授業における「表現の自由」はどこまで尊重すべきなのだろうか?
いや、むしろこの問いよりも、「表現の不自由」なところに、いったいどんな文学が生まれるのだろう、と考えた方が建設的かもしれない。
文学とはある面において、「表現の自由」への戦いでもある。
それは、政治・社会・慣習・モラル・言語などおよそあらゆる制度によって囲まれた不自由や、自分でこしらえた不自由との戦いとも言える。
それらの間隙を縫って表現される「あるもの」が文学の胚胎となる。
それこそいわゆる「文学のふるさと」(坂口安吾)なのだ。

2014/10/07

【メモ】表現者≒釣り人論、「魚を与えるのではなく魚の釣り方を教えよ」

表現者はある面において、すべからく釣り人である。
いや、釣り人の自覚のある人しか、表現者と名乗ることはできない。
釣り人たる資格はつぎの6つの要素にある。
1、釣り人は、魚を釣ることをゴールとした果てしない試行錯誤を繰り返す。
2、釣り人は魚を熟知している。熟知しようとする。
3、釣り人は海や川などのコンディションや生態系がどのような状態であるかをまず知ろうとする。
4、釣り人は釣果よりも魚との対話を楽しむ。
5、釣り人は仕掛けなどの道具にもこだわる。
6、釣り人は「積極的に待つ」ことのできる人である。

かりにもし、魚の釣り方を教えたいのであれば、あるいは「表現者」を育てたいのであれば、この釣り人の心得を持たせることは不可欠の要素だ。



実は釣りにもいくつかの種類がある。
1、餌釣り(生き餌・練り餌など)
2、毛ばりやルアーなどの疑似餌
3、(鮎など)友づり・泳がせ釣り
4、トローリング
5、撒き餌・コマセ釣り
6、浮子釣り
6、ヘラブナ釣り
釣りとは言わないが、漁に近いものとして
7、ウナギ釣り(魚籠によるしかけ)
8、鵜飼い
9、簀立
…インターネットを「ネット(網)」や「ウェブ(クモの巣)」と表現するのはとても示唆に富む。

釣りから派生したこんな言葉もある
・あたりをつける
・アワセる
・潮目を読む
・レッドオーシャン・ブルーオーシャン
・撒き餌を撒く
・雑魚・五目釣り
・入れ食い
・時化る
・置き竿

詳しくは「釣り用語辞典」へ
実は、釣りには表現者としての様々な心構えや技法が満載されているらしい。
釣りをそういう視点から研究するといろいろなヒントが得られる。
釣り用語、釣り道具を眺めているだけでも勉強になることが多い。

2014/10/05

「ポータブル宗教」をもたない辺境、日本

世界宗教といわれる宗教(キリスト教、イスラム教、仏教)は、どれも「テキスト」を持っている。聖書、コーラン、そして仏教経典。
「テキスト」があるということは、それをいつでもどこでも持ち歩くようになったということだ。(モーセは石に刻んだ十戒を持ち歩きながら約束の地を目指した。三蔵法師は中国から天竺へ、経典を運んで行った)
このように、世界宗教は「ポータブル宗教」でもある。

「ポータブル」なテキストによる教義は、世界じゅう、あまねくいきわたる「普遍性」を獲得する。この「普遍性(カトリックは「普遍」という意味らしい)」を志向する価値観を持った人々は、今度は世界中をそのテキストで満たそうとする。だから一神教の皆さんは、世界中どこでも一色に染めたがるらしいのだ。

かたや、極東の辺境、日本ではどうか?
日本だったら、いつでもどこでも存在する、普遍の神はいない。その代わりに、富士山とか御嶽山とか、巨木、巨石とか、トイレなど、場所やモノに、固有の神々が宿ると考える。そしてその神も、あちらこちらに移動してしまったりする。そういう発想の文化を持った人たちだから、中国だろうとヨーロッパだろうと、どんなものを借りてきても、和魂漢才、和洋折衷、どんなモノにも、日本の魂を注入してしまうのだ。パンにあんこやカレーを入れてしまうように。
日本の都市景観の猥雑さ、文化の無節操さこそ、日本固有の文化だともいえる。(ちなみに私が最も好きな都市は新宿だったりする)

2014/10/04

実家にはマッサージチェアーを置くべし

月に2回は妻の実家に帰っている。大した用件があるわけではないが、妻も一息つけるようだし、夕食代の節約にもなるし、暇もつぶれるし、なにかとコスバが高い。
それでも行ったら行ったで、こんな私でも何かと気をつかう。目一杯の話題を提供したら、そのあとは隣の部屋に引っ込む。そこにはマッサージチェアーがあるのだ。鄙びた温泉に置いてあるような古風なタイプだ
しかし、身体のこりはしっかりほぐれる。そして何よりも、そこにいるだけで、ほっておかれるのがよい。
私も将来もし我が子ができたら、そしてたまには家に寄って貰いたくなったら、真っ先にマッサージチェアーを購入して待ち構えよう思う。鄙びた温泉にあるような、しっかりしたやつを。

本を売らない本屋、本を貸さない図書館

最近は忙しくてすっかりご無沙汰してしまっているが、千葉市で勤めている間は、よく町の小さな本屋で開かれているこぢんまりした読書会に毎月顔を出していた。
その読書会の会場を提供している書店主のAさんはいつもこう言っていた。
「この本、図書館で探してみてくださいね……皆さんもっと図書館使ってくださいね」
本屋なのに、全く本を売ろうとしない「やる気がない」本屋さんなのだ。
正確にいえば、本を売るけど本を売る以外に本と出合うことを大切にしている。
そんな書店主のAさんを心から尊敬していることは言うまでもない。
一方、最近立て替えている千葉大の図書館。どんどん面白くなっている。「ラーニングコモンズ」としてかなりユニークな空間に変貌しつつある。
飲食、雑談、パソコンも可。書斎のような研究スペースも、わいわいグループで雑談するゾーンもある。アイパッドやノートパソコンも貸してくれる。ちょっとしたステージのようなものも。そしてなんと、本屋まで併設している???
ひとことでいえば「本を貸さない図書館」? これは言い過ぎだ。本を貸すんだけど、正確にいえば、本は貸すけど、本と出合う場を作り上げている図書館。
そんな千葉大の図書館、身近すぎてそれを実感しなかったけど、こういう大学図書館はなかなかないものみたいだ。増えてきているようだけど。

2014/10/03

規則正しいリズムは人間がこしらえたもの

よく子どもに行進をさせたり、手拍子をさせたりすると思ったほどリズムよく打てなかったりすることがある。
リズムよく拍子を刻むことは、実はかなり難しい。トレーニングが必要なものである。
これは、裏返せば自然にはメトロノームのような規則正しいリズムが存在しないことを表している。例えば、自然には完全な円や球体が存在しないように、波がいつも等間隔で押し寄せないように、刻むリズムも、どこかがアンバランスで、どこかが歪んでいるのがむしろ自然なのだ。
人がうたう歌と、機械が演奏する音楽との違いもひょっとしたらその辺にあるのかもしれない。
実はリズムという概念も、五線譜上の、西洋音楽のパラダイムのなかで存在する概念でもある。
例えば雅楽や能楽にはメトロノームのようなテンポは存在しない。そのときの間とか、気のようなものがあるだけだ。西洋音楽で言えば、休符の沈黙の中に、自然のテンポが隠されている。

……というのを高校時代、現代音楽の巨匠、武満徹の本から読んでものすごい衝撃を受けた。
武満徹といえばこれ、「ノヴェンバーステップス」だ。


むりやり教育の文脈にひきつけると……
「リズムとテンポ」のある授業って、ある意味不自然で、機械的で、非人間的のように感じられるのだ。まあ「リズムもテンポもない授業」が非能率的、機能的でないと言われればその通りなんだけど。
どうしたら人は機械のようではなく、人間として歌を歌えるのだろうか?

2014/10/02

試行錯誤をうながす連作課題~失敗、振り返り、再チャレンジンのスパイラルへ~

前任校の。伝説の美術教師Aさんは退職する晩年まで「連作課題」の研究に取り組まれていた。
連作課題とは、同じ題材の課題を数回繰り返し行い、その積み重ねのなかで子どもたちの試行錯誤を促す仕掛けになっている。
たとえば、版画だったら、最初は、はがき大の小規模な課題を共通して行い、次は自分で大きさや素材、技法を自由に選択してチャレンジしていく。こんな感じだ。
晩年の研究では、この「連作」をさまざまなパターンで研究されていた。小→大へ、短時間→長時間、制約→自由など。(A先生の研究紀要も毎年ほとんど変わらない「連作論文」であったというオチもおまけにつく)
いうまでもなく、この繰り返しのなかに子どもたちの自発的な学びの契機がいくつも含まれている。
よく、学びのスパイラルというが、そのスパイラルが子ども自身にも実感できてないと、あまり効果を発揮しないのではないかと思う。あたりまえだけど。
どうしても教師は短時間であれもこれもと「幕の内弁当」のように学習事項を詰め込んで「教えたつもり」になってしまう(←自分はいつもこのパターン……)。そして次の単元になるとまた新しいことに手を出して中途半端になってしまう。
やはり、じっくり腰を据えて、焦点を絞り、「連作課題」として繰り返し取り組ませ、そのたびに失敗させて、振り返らせて、再チャレンジさせていったほうが、結果的には力となっていくのではないかと最近感じてきた。