2015/02/28

メタ認知と根性論

今日はとあるイベントでウォーキングをしてきた。といっても、歩いたのは6キロコース、小一時間ほどのお散歩だ。しかし中には40キロほど歩くコースもあって、そんなに歩く人には敬服するほかない。
それでも、私は普段それほど歩かないので、たった6キロでも三回ほど足を止めて休憩することとなったのだ。相変わらずの根性なし。
で、感じたのは、「疲れる」というのも大切な能力かも、ということだ。
「疲れる」というのは、大切な身体からのメッセージだ。メッセージを適切にキャッチし、全行程の中から、休むべきタイミングやバランスを判断する「知性」は、きっとメタ認知と呼ばれるものの一つだろう。
そう考えると、世の「根性論」が、「疲れる」というモニタリング能力をひたすら鈍麻させるように機能しているするならば、一考する必要があるかもしれない。
と、根性なしの私は、そうやってひたすら明日以降の筋肉痛を怖れている。

2015/02/24

「あしながおじさん的読書生活」あるいは「マレビト読書」

1、「こんな本読みたい」というリクエストを、こっそり掲示板に貼る。(神社の絵馬のイメージ??)
2、それを見た人が「この本読んでみたらどうですか」と、匿名で本を紹介or貸してあげる。(「貸金庫」「私書箱」のように、本を置くスペースを図書室内に用意しておく)
3、一週間後、それを読んだ人が感想をカードに書いて本に挟み、こっそり元の場所に戻す。

ディベートはジャッジが一番力がつく

ディベートはジャッジが一番力がつく
今日は3クラスでマイクロディベート。三人組で三回。全員が肯定、否定、審判を体験した。
ちなみに論題は「中学生は9時以降のゲーム、ケータイを禁止すべし」
ディベートは、言うまでもなく、一番難しいのがジャッジだ。
「審判は、公平に、論理的に判定をくだし、伝えること。決して私情を交えてはならぬ。」と釘を刺したので、審判になった生徒は必死になって議論を追いかけていた。
何回か繰り返せば、かなり力がつくだろう。来年は定期的にやっていきたい。

ディベートをやると、生徒によっては熱くなり、声を張り上げたり、机をドンとやったりもする。
しかし、それを見た私は「熱くなればなるほど、冷静に、論理的に言葉をかわすのがカッコいいんだよ。日本人はそれが苦手みたいだけど…」と軽く牽制、虚仮威しの「弁論」の癖がつかないように、聞き手も騙されないように、討論の態度を身に付けて欲しいと思っている。自分はそれが苦手だけど…。

2015/02/21

メタ認知力としての時間感覚

最近よく言われる「メタ認知」がどうもよくわからない。
「認知についての認知?なんじゃそりゃ」という感じ。
例えば、これはメタ認知になるのか。
ある活動(話し合いなど)をするとして、それが何分くらいかかりそうか、予想することへの思考。
先生「話し合いはあとどれくらいで終わりそう?」
生徒「あと五分ください!」と、このように、活動の状態やプロセスを具体的にイメージできている状態、その時間感覚は、メタ認知ということができるのだろうか。
そうだとすると、「メタ認知力」はスペシャルな活動を設定しなくても、このような、日常的な声かけや意識づけで習慣化してしまうのが近道かもしれない。

自作自演がいまいちな不思議 〜作者でも分からない世界がある〜

ストラヴィンスキー、R.シュトラウスなど近現代の作曲家は、自作を自ら演奏する録音が残っていたりする。しかし、作曲家自身が演奏したからと言って、その演奏が「決定版」にはならないのが不思議なところだ。(むしろいまいちなものが多かったりする)
演奏技術など、いろいろな要素があるだろうが、作者が最高の解釈者ではない、というのはとても興味深い事実でもある。

国語の世界でも、教科書や問題集にとりあげられた作者自らが登場して、「この解釈はおかしい」「わたしはこれを表現したつもりじゃなかった」とおっしゃることがままあるが、それとても、「生み出した作者自身も、生まれ出た作品の『読者』であり、『解釈者』でしかない」という端的な事実を突きつけている。

電子書籍の意外な効用

定期テストに読書課題を出した。
宮澤賢治の作品『注文の多い料理店』『セロ弾きのゴーシュ』『風の又三郎』そして『銀貨鉄道の夜』を読んでおく課題を事前にだし、そこから出題するという形式。(この課題は長期休業中に課しておいたもの)
それで今、あらためて賢治の作品を読み返している。読んでいるのはi文庫HDというアプリ。
この手のツールはあまり活用していないんだけど、使ってみて感じる効用がいくつかある。
その一つは、「終わりがいつか分からない」という点だ。
紙の本だったら、本の厚みで「もうすぐ終わりだな」というのが分かってくる。しかし電子書籍だとそれが分からないので、どこまでこの話が続くかどきどきしながら読み進めることができる。
もう一つ、「読み上げ機能」を使った読書。i文庫では音声で読み上げる機能がついている。そこで、この「読み上げ機能」をつかって、読み上げる機械の音声を聞きながら読み進めている。(授業で教師の範読を聴いているのと同じ?) 
多少読み間違いはあるが、慣れてくるとかなり速いペースで読むことができる。飽きっぽい私には、集中して速読できる機能として活用している。

理論が先行する解釈は常に退屈だ 〜理論の発見か、理論の確認か〜

宮澤賢治の作品は一読して意味が分からない。難しい。けれども何か惹かれるものがたしかにある。
『やまなし』『風の又三郎』なんかも、読んでいてさっぱり。何が言いたいのかよく分からない。そこで、ネットなどでいろいろ調べてみるわけだ。調べると、「これは法華経の世界だ」とか「菩薩行だ」とか、高説をのたまう解説がある。そういう理論先行の解釈は、「どうせ始めっからこれを言いたかっただけでしょ」とも思わせる、退屈したものが多い。
「賢治の世界からの理論の発見」ではなくて、「賢治の世界による理論の確認」になってしまっている。
そういう子供だまし??の高説は、一度読むとまあ興味深いし、勉強にはなるが、そう何度も聞かされるとうんざりしてしまう。

2015/02/19

例文を作る学習は難しい

説明文の読解と並行して、難解な語句の例文づくりに取り組ませている。
今回のお題は「示唆」。
例文を作るためには、辞書で意味を調べて理解した上で、その意味に当てはまる文脈を考えて文章化しなければいけない。
しかし、これがなかなか難しい。意味を理解することと、その言葉を使うこととの間には、かなりのハードルがあるらしいのだ。
意味は押さえているのだろう、だけど、なんかしっくりこない。不思議な文章ができあがってくる。
たとえば、こういう例文を作ってくる。
・彼は僕に期末テストが近いよと示唆してくれた。
・私は、自分が弟のお菓子を食べてしまったことについて、弟に示唆した。
・高級レストランに行く際、母は私にマナーを示唆してくれた。
・私が小説を読むのが好きなのは、家にマンガがあまりないことを示唆している。
……これ以外にも無数のパターンが登場する。
やはり、語彙は辞書でしらべるだけでなく、例文をたくさん読み、教えてなじませるしかないのだろうか。
例文を作る学習はなかなか難しい。

2015/02/13

「見つけられるけど探せない」

今日は学校司書Nさんとお隣の小学校の図書室へ訪問をしてきた。
そこで、色々と興味深いことを伺った。たとえば、最近の子は「見つけられるけど探せない」というのだ。
最近の小学生は、図書室に行っても本棚から本を探し出すことができない。調べ学習などで本を探すときに、まず本棚にいって探しだすのではなくて、真っ先に検索機に行って蔵書検索をする。そして検索機が指定されたところへ一直線に向かって本を見つけ出す。
「子どもって、どんなところにお菓子を隠しても見つけ出すでしょ、でも、マヨネーズを持ってきてって頼むと、冷蔵庫から探し出せない。それと同じなんですよ。見つけられるけど、探せない。冷蔵庫の隣の棚を見てみようとか、別の棚を探そうとか、そういう発想にならないんですよ」
これは、ある意味巧みな情報リテラシーなんだろう。しかし、これは小学生に限らず、Google検索時代の情報リテラシー全般に通じる落とし穴のような気がした。

2015/02/10

「あれもこれも」カリキュラムか、「かつかつ」カリキュラムか

もう3月の終業式までの週案を書き終えた。残りの授業時数もあとわずかだ。
この一年間で取り組んできた学習をさかのぼりながら、なにができ、なにができなかったかを振り返っている。
こうして俯瞰してみると、一年間で取り上げられることのできる学習内容は思ったほど少ないことを痛感する。そんな少ない時間の中でも、いまいちだったなあと思う授業は「あれもこれも」と、単元の中に雪だるま式にいろいろと詰め込んだ授業プランだった。
反対に、三時間とか、五時間とかのごく限られた時間の中で、削りに削り、最低限取り上げる内容を厳選した「かつかつ」の授業は上手く機能していたと感じる。
一から十に付け足していく形の授業プランは、なんとなく、この内容はまあ、仕方ないかなあとか、せっかくだから時間を増やそう、と最後に甘さが生まれてしまうようだ。
反対に、十から一に絞り込む、かつかつの授業プランだと、取り上げる内容はごく少ないが、せっかく厳選したんだから「ここだけは!」という覚悟と勢いで、集中した構成の授業になっていくことになる。
「あれもこれも」カリキュラムで多少時間数がオーバーしても進めていくか、「かつかつ」カリキュラムで、最初からスリムに迫っていくか、そこのことろは非常に判断が難しい。
今年は意識して授業時数を厳しく設定し、限られた時間の中で取り上げることのできる内容と指導目標を設定した。「かつかつ」型のカリキュラムをかなり開発することができたと思う。授業時数にシビアになることの重要性を痛感した一年だった。

将来の夢は「ゲーム実況で年収4億」

今日のICT部会の放談は面白かった。テーマは「ネット×お金×教育」
最近はyoutubeにゲーム実況をしていて年収4億を稼ぐ人がいる。
そしてそれを見ているコアな視聴者層が小中学生……。
小中学生の「将来の夢」に「ゲーム実況をして稼ぐ」という子どもが出てきてもおかしくないし、実際何割かは、将来、ネット上の個人メディアで生計を立てるクリエイターが出てくることだろう。ユーチューバ—、ブロガー、ネット配信の小説家、漫画家、映像編集などなど。個人がメディアになるという時代だということなのだ。一人一人がテレビ局、新聞社、雑誌出版社。広告代理店。
そう考えると「ネット×お金×教育」は結構切実なテーマになるに違いない。

2015/02/09

コミュニケーションツールとしての写真

今日同僚との雑談でひとしきり盛り上がったのは、ある人が撮った一枚の写真だった。
普段は真面目な先生が、飲み会ではっちゃけたポーズをしてるのを、写メで捉えた一枚。
この手の写真は、アルバムに保存するためというよりは、シェアされ、話の種となるために活用される。いわば写真がコミュニケーションのツールになっている。
このように、コミュニケーションのツールとして、写真を学級づくりに生かすことはできないだろうか?
例えば、毎朝、一人ずつ、何かテーマを決めて撮った一枚を提示しながら、リレースピーチをしていくのだ。
例えば「私のリラックス」などのように。それをクラスブログに記録していくのも面白い。
写真を撮るスキルと、コミュニケーションと、両方の力をつけられる活動だと思うんだけど、どうだろうか?

「ちょっといい話」が苦手

正直に告白すると、巷で流行る「一杯のかけそば」系の(古いか?)心温まるちょっといい話が苦手だ。
素直に心が温まってくれない自分は、素直じゃないんだなあと悲しくなってくるほどだ。
教科「道徳」には、ものすごい可能性があるし、やりようによっては生徒にとって価値ある時間になるはずだと思っているんだけど、心温まるお話が溢れる時間になるとしたらやや不安だ。
だって、心温まりにくい私が、毎時間「一杯のかけそば」を教えている姿を想像すると……やはり、モヤモヤが収まりそうにない。

2015/02/08

わちゃわしゃした関西弁

以前から気になっていたんだけど、関西弁には語彙やイントネーションの他にも、ユニークなオノマトペが多用されているのが大きな特徴だと思う。(もちろん他の地方にもたくさんあるんだろう。が、少なくとも東京の言葉では、これほどオノマトペは使われていない)
わちゃわちゃ、しゅっとした、どぅわーっとなど、関西在住者以外は耳慣れない言葉が多用されている。きっと関西では、日々、新しいオノマトペがどんどん生まれているんだろう。
地域によって、このよう言語感覚が異なっているのはとても興味深い。関西の国語の先生には、このようなオノマトペを生み出す言語感覚を取り上げて授業をしてみたらどうだろう。
下記の本には授業で取り上げてみたいヒントがたくさんありそう。


※絶版みたいですよ。興味のある方は急いでゲット!

ワザを説明する

昨日の修論発表で個人的に一番面白かったのは、「ワザを説明する」という実践だった。
小学五年生が、剣玉の大皿に乗せる方法を他の人に説明する文章を記述する。
構え、動作の開始、そして完成と、三つに区切らせて書く。
もちろん、事前に剣玉を与え、さんざん遊んだ後に、課題に取り組んでいく。
明確に伝えられるように、だらだらとした文章を一文一義で区切って書き直すというテクニカルライティングの基本を学んだり、スポーツオノマトペの活用なども学んでいく。なにより、「わざ」という自分の身体感覚を、言葉を媒介に、意識的に伝えていくという、大人でも難しい課題に挑戦させている。これぞ体験と知識をつなぐ「言語活動」といえるような実践だった。
この実践は、例えば中学校では、後輩に部活のワザを伝えるときなどの学習として活用することができるだろう。保健体育のダンスの学習とコラボしても面白い。
早速参考文献もゲット。岸先生はテクニカルライティングの第一人者だそうだ。
岸学『説明文理解の心理学』

これは読み応えがありそう。


三時間で「ガイアの知性」~アクティブラーニングな説明文学習~

説明的文章「ガイアの知性」(龍村仁)の授業プラン(中学2年)

教材について
「ガイアの知性」は、地球交響曲(ガイアシンフォニー)を制作した映画監督、龍村仁さんが書いた文章。
ガイアシンフォニーでは、「ガイア仮説」(こちらのサイトを参照)といわれる、地球全体が知性や意志を持っているという考えを念頭に置いてつくられているドキュメンタリー映画だ。(「地球交響曲」のサイトはこちら)
自主公演などのユニークな取り組みで知られている。私も、かつて見に行ったことがある。



ガイア仮説は、科学的には論証が難しい理論だ。この「ガイアの知性」という文章においても、次のような不思議なエピソードやメッセージが展開されている。
・オルカ(シャチ)が人間を喜ばせるために芸をしている事例。
・イルカが人間にイルカ語を教えようとするエピソード。
・亡くなった親象の歯を、倉庫に数百個しまってある中から探し出したという不思議な象さん。
・鯨や象は、人間とは異なった知性(受容的な知性)を持っている。
・人間は、鯨や象の知性から学び、「ガイアの知性」に進化する必要がある。 などなど。

「ガイアの知性」ってなんじゃ? いわゆる「スピリチュアル」?? 
読みようによっては「うさんくさいなあ」と感じてしまうところも正直ある。論理展開の甘さを、龍村さんの熱い筆致で補おうとしているともいえる。
この文章は、一応、教材のカテゴリーとしては説明的文章になるんだろうけど、エッセイ風の文章なのだろう。評論というところまで論理展開がかっちりとしているわけではない。私にとって、この文章が好きか嫌いかと言われれば、「んー、ビミョー」という感じだ。(龍村さんは嫌いじゃないけど)
しかしケチを付けていても仕方が無いので、授業では、この文章の持つメッセージ性に着目して読み進め、そこを入り口にして論理展開についても考えさせていくこととした。

時間 3時間

指導事項
①文章の構成や表現の仕方について、根拠と明確にして自分の考えをまとめる。
②文章を適切に理解し、要約する。

授業プラン
1時間目「龍村さんからのメッセージ」
「ガイアの知性」から、「龍村さんからのメッセージ」という趣旨でダイジェスト本を作るという活動。

・通読する
・わからない言葉はその場で調べる。
・初発の感想をノートにまとめる。
・龍村さんは、この文章で何が言いたいのか,ノートにまとめる。
 要約文を書くために重要箇所を書き出す。
・ミニ本「龍村さんからのメッセージ」を作成する。(ミニ本の作り方はこのサイトを参照
 見出しと要約文の学習。
 三つの大段落に分かれるので、見開き三面分に、それぞれタイトル(一行)、要約文(見開きに入る文量。箇条書きでなく、文章で)を書く。
 要約文は、キーワードと要旨を外さないようにする。
 タイトルもキャッチーなものが良い

2時間目「龍村さんへのメッセージ」
・ミニ本を読み合って要約文について確認する。
・論理的な文章構成について。(三角ロジックなど。教科書の意見文の項目を参考にする)
・龍村さんのこのメッセージを、さらによりよくしていくにはどうすればいいか考える。
 龍村さんのメッセージについての疑問、反論など(ひねくれた生徒が活躍しそう??)
 文章表現についてのアドバイス(ここが甘い、とか、ここをもう少し詳しく、とか)
 研究方法についてのアドバイス(ここのデータがとれると良い、など)
(たとえばこんな視点で) 
 筆者が説得力を上げるためには書く必要があるけれども書けていないこと、不足している記述
 筆者があえて避けている議論、取り上げていない事実、隠された本音
 筆者への質問、反論、アドバイス
 筆者の気づきを確かなものにするために、今後どんな研究が必要か
・これらを小グループでディスカッションして意見を膨らませていく

科学的な論証の方法論について、下記を参考にさせたり。


ややずれるが、スピリチュアル系の胡散臭い情報にだまされる心理についての研究は、下記が参考になるかもしれない。


3時間目 まとめ
 グループで話し合った意見を発表
 授業を通して考えたことを「龍村さんへのメッセージ」としてまとめる。
  ・文章を読んだ印象、感想 
  ・龍村さんへのメッセージやアドバイス(意見など) などを文章に入れ込む。

2015/02/02

経験を捨てていくのが即興の妙味

昨日は久しぶりに再会した大学院の友人と一献することができた。そこで音楽談義がかなり盛り上がった。
彼はフリージャス、フリーインプロにハマっているという。いわゆる即興演奏。ジャズといっても、私はマイスル・デイヴィスとかコルトレーンくらいの知識し かない。「フリージャズ」って、失礼ながら、ピアノを燃やしながら弾いているやつでしょ?くらいなイメージだったんだけど、彼の熱い語りを聞いていると、 そんな激しいのではなく、もっと内面的なものらしい。
いわく、「何が生まれてくるか分からないドキドキ感」がインプロの妙味だと。
譜面もコード進行も無く、テキトーに演奏するのだったら誰でもできそうだけど、「即興にも上手、下手が確かにある」というのだから面白い。その極意は「つ い気を緩めて、手慣れた音楽を垂れ流さない」というというところらしい。瞬間瞬間、生まれてくる「音」に耳を澄ませ、注意深く経験を捨てていく。今までに 無い音楽を作り、そして生まれた音楽を、その場で捨てていく。そのスリリングさが即興のキモなのだということらしい。
ライブを聴きに行きたくなってきた。