2015/06/30

「うちの学校では無理!」から「うちの学校だったらこうしよう!」へ

先進的な学校に行ったり、カリスマ的なテクを持つ先生の授業を見たりする。そうすると協議会などで決まって聞くセリフが「うちの学校では無理なんですが……」というコメントだ。
ご当人は謙虚な気持ちでそうおっしゃっていると思うんだけと、なんか本質的な部分でずれてない?と私が感じちゃうのも事実だ。
ご当人のコメントをもう少し具体的に分析してみる。
おそらくおっしゃりたいのは
「うちの学校では(こういう授業は)無理!」と言いたいのではないかな?
こういう授業を「名人の授業」でも「アクティブラーニング」でもなんでもいいんだけど、とにかく同じようにやることがゴールなんだ。
そこで、こうつっこみたくなる。なんで「同じように授業をすること」があなたの目的になるんですか?と。
「うちの学校でも同じ授業をしたい」というのではなく、本当は「同じように子どもを成長させたい」とか、「同じように子どもにこの力を伸ばしたい」っていうのが本物じゃないのか?
そう考えれば「成長させる道筋」なんていろいろありえるし、「伸ばす方法」が他の現場とぴったり同じ方がおかしいでしょう。それぞれの現場で、それぞれのやり方で、ベストを尽くすだけなんだ。
共有したいのは「同じように授業をやること」「同じように授業がなること」じゃなくて、「同じ志を持つこと」「理念を共有すること」なんじゃないかなって思う。
志や理念が共有することができれば、「よーし、うちだったらこう育てるぞ」「わたしならこうやろう!」って語り合えることもできるはずだ。
「うちでは(同じ授業はできないから)無理!」という言葉を聞いてしまうことの底知れぬ寂しさは、そういう意識のズレにある気がする。
※ついでに言うと「うちでもそっくりそのまま使わせてもらいます!」っていうのも、なんか違うんだよなあと、同じ意味合いで。悪い気持ちはしないんだけど、もうちょっとカスタマイズしようとしてよと。

2015/06/28

「何をやってもいい!」から「何をやったらいい?」へ

私が教員になったのが世紀末の1999年。そのころは「総合的な学習の時間」がスタートし、週5日制になりと、いわゆる「ゆとり教育」に向けて日本の教育が大きくかじを切った時代だった。受験勉強よりも大切な学びがある!というロマンあふれる時代状況。
新卒で赴任した学校でも、新たに始まる総合の時間に何をやろうかみんなで試行錯誤していた。今考えるとかなりハチャメチャなことを総合でやっていたんだけど、そこには「何をやってもいい」という安心感と、「こんなことをやってみたい」という教師の思いがたしかにあった。そういう思いで学校が動いていたような気がする。
その後、総合的な学習の時間もなんとなくパターン化されるようになった。どこの学校でも、やってることは似たり寄ったり。全国学力調査のあおりもあり、総合が朝ドリルに流用されることもあった。そんなに総合で遊んでもいられないという教師の自己規制も働いたのだろう。総合にかぎらず、学校行事も、特別活動も、もちろん教科の学習も、あらゆる学校教育の論理が「何をやってもいい!」から「何をやったらいい?」へと揺れ動いてきているように体感している。
その「何をやったらいい?」と伺いを立てる相手は、教委だったり、保護者だったり、評価やエビデンスという得体のしれないものだったりするわけなんだけれども、それらに共通する心性は、教員たちが日々行ってる営為(教育)に対する獏とした不安感と、教師が常に、誰かや何かを頼りにしようとする「上目遣い」にあるのだとも感じる。この傾向は今後ますます進んでいくことだろう。そしてマックやセブン-イレブンのように学校教育も規格化へと進んでいくのだろうか?
これを時代の変化というのは言いすぎだろうか? ただ単に、私がオヤジになっただけなんだろうか。

2015/06/27

正統的(オーソドックス)な教育方法は、本当に正統的なのか? 〜「これからの国語教育」を考えるために〜

国語の授業で、ある文章を読んだり、書いたりするときに、日本中のどの教室でも行われているようなオーソドックスな方法がある。(たとえば「三読法」のような)
それは、学校から一歩外に出た時に、本当に「オーソドックス」な方法なんだろうか。
作家や新聞記者や政治家が書くときも、そうやって書いているのだろうか。
ビジネスマンや主婦やエンジニアが読むときも、そうやって読んでいるのだろうか。
「オーソドックス」っていったいどこにあるんだろう?
学校で習っている読むことや書くことが、もし学校外のそれとはかけ離れているとするならば、「学びの連続性」が絶たれているのならば、それを「オーソドックス」と主張する根拠は、いったいどこに根ざしているんだろうか?

伝統的な教育方法は、本当に伝統的なのか? 〜「これからの国語教育」を考えるために〜

新たに開発された手法がいいのか、それとも伝統的な手法がいいのか。
「やっぱり新しいほうがいいな」、「うんにゃ、古いものも大事」と、両方の信念が対立し、しばしば堂々巡りの議論になってしまう。
しかし、こういう物の見方もできないだろうか。
「昔ながらの伝統的な教育方法は、本当に伝統的なのか?」と。
「昔ながらの」っていったって、その歴史はせいぜい百年だ。だいたい、国語科が成立したのも日本の近代、そのなかでも100年足らずなんだから。
しかし、その100年よりもっと前に「学校」は存在しなくても教育という営みは行われてきたはずだし、言葉は学ばれてきたのだ。そういう長いスパンで見れば「100年」という時間さえ「最新」の「特殊」なものなのかもしれない。
「学校」という制度、40人学級という規模、黒板とノート、教科書という学習環境の枠のなかで、最も最適化されて成立してきたのが、今の日本の教育方法だ。その硬直化された発想をどう揺さぶっていけばいいのか、どんなアプローチで考えていけばいいのか、いや、そもそも揺さぶる必要があるのか。それを考えるのは、決して文科省のお偉いさんだけの仕事ではないだろう。

2015/06/26

話し合いのキモは「問い」を連続させること

実習生の授業のふりかえり。
グループの話し合いが盛り上がるところとそうでないところがある。その差はどこにあるのか?
あるグループでは、話し合いである男子が「でもさ」「でもさ」と食い下がり、それに応じる相手も「そうじゃなくてさ!」と次第に声がおおきくなり、盛り上がりに盛り上がっていた。
もう一つのグループでは、ある生徒が意見を話したら、「なるほどー」と納得し、それで話し合いが終わってしまっていた。〈意見の表明会?)
話し合いが「意見の発表会」でとどまらずに、お互いの考えがしっかりとからみ合う話し合いになるためには何が必要なのだろうか。
それはやはり「『問い』の連続」にあるのだと思う。
この「『問い』の連続」という言葉は、この間の千葉大附属中の研究会で教えてもらった言葉なんだけど、なるほどと膝を打った次第だ。
相手の意見を「なるほど−」と受け止めるだけでは、やはり話し合いはそこまでで終わってしまい盛り上がらない。
相手の言葉をきっかけに「本当にそうかなあ?」「こうも言えない?」「それだったらこっちはどう?」と「問い」が次から次へと連続され展開していく、こういう話し合いであればこそ、お互いの考えを発展させ、深めていくことができるのだろう。
話し合いでは、そのように『問い』を連続させるために、骨太の「問い」を設定することと、その『問い』を各自が胸に秘めて話し合いに参加していくこと、さらには、相手の言葉から、新たな「問い」を立てていくことができるような力が「話し合いを盛り上げる」ためには必要となっていくのだろう。

2015/06/18

つぶやくのか、つっこむのか ~授業の中の「生活言語」と「学習言語」~

ここ最近の関心は、授業の中にいかに生活言語を組み入れ、それを学習言語につないでいくかという課題がある。
実習生の授業でも、どこで生活言語が生かされ、そして学習言語へと転換されているのかを注意深く観察している。
昨日からの授業で、実習生は一つの試みをした。それは、文学作品を読んで感想を書き込む際に「突っ込みを入れるように書いてね」という助言のパターンと、「つぶやくつもりで書いてね」というパターンの二つを試してみたのだ。まさに迷ったときは仮説実験。
で、予想通りに、「つっこみ」と「つぶやき」とでは、明らかに表出される『感想」は異なるのだ。
「つっこみ」の場合は、「……なのかよ!」というような、登場人物の行動を対象化し、批評的なまなざしの感想になっていく。
いっぽう「つぶやく」ように書き込ませると、「……の言葉が分からない」という感触を書いたり、「……なのかも」というような、登場人物の心情にやや寄り添った「感想」が増えてくる。
ちょっとした切り口を変えてみるだけで、これほど表出される「感想」が違ってくることに、実習生と軽い驚きを感じた。
 
ちなみに、いうまでもなく「つっこみ」も「つぶやき」も、生徒にとっては生活言語に近い。一方「感想」は学習言語に属する語彙だろう。
「感想を書きましょう」という、いかにも学校的な「学習言語」をちょっと生活言語によらせるだけで、これだけの変化が生まれるのだ。


もう一つの課題は、
生活言語……日常的なコミュニケーションで用いられる言語
学習言語……授業でのやりとりや教科の学習で使われる言語
と、
社会で使われている言語との3つをどうつなげていくかという課題だ。
たとえば、学校でしか使われないような特殊な言葉(学校方言?)をどう教師はとらえていけばよいのか。
一方、学校ではなかなか触れない言葉でも、社会では一般的に使われる言葉がある。
たとえば今日の授業では「コンセプト」とか「差別化」という言葉を「教えた」。しかし、これらの言葉は学校ではほとんど使われない言葉でもある。それらは教えなくてもいいのか、教える(習得させる)べきなのか。
そのへんのジレンマに悩まされている。

生活言語と学習言語

実習生の授業2時間目。二人の実習生はそれぞれ文学教材を取り上げ、ゆるーくグループでディスカッションするスタイルの授業で展開している。
昨日の授業。グループディスカッションからのシェアリング。そこで、「これは新兵衛の死亡フラグが出て……」という生徒の発言が飛び出し、(私が)ひやひや?びっくりしてしまった。(菊池寛「形」)

しかしそこからの実習生のコメントがあざやかだった。
「……さんは、新兵衛が最後に死んでしまうという『伏線』をつかんだということですね」と。
ゆるーいディスカッションだと、生徒の話し合いは、限りなく日常の話し言葉に近づいてくる。つまりおしゃべりと見分けが付かなくなる。だから「死亡フラグ」とか「若侍ってイケメンだよね」という生活言語も飛び出してくる。
そういう生活言語を土台とした交流を、授業の中で実習生の二人は大切にしている。今日の授業でも、生徒がリラックスして、物語の世界で楽しんでいるのが良かったよね、と三人で振り返ったところだ。
「生活言語」によって表現される生徒のなまの気持ちをうまくすくい取って「学習言語」につなげようとしている実習生の姿勢に敬服させられた。

2015/06/15

【実習生指導】課題に対するアウトプットの方法を示す

明日から2人の実習生の授業実習が始まる。今日はその前段階として明日の授業の流れを聞いて指導をしていった。
で、どうやら実習生の授業プランに欠けているものは「課題に対するアウトプットの方法」らしいということが分かった。
例えば「授業でやる内容を考えてきてね」というとこんな感じで「準備」をしてくる。
 
授業内容
・登場人物の設定の確認
・場面構成の整理
以上。
 
確かに授業で取り上げるべきこと、やるべきことが書かれているんだけど、「それをどうやってやるのか」「生徒がどのようにアウトプットするのか」というところまで示されていない。だから具体的な活動がイメージできない。「やるべき課題があったら、それに沿ったアウトプットの方法を考えるべし」という指導をした。
例えば、登場人物の設定の確認だったら、「二人の登場人物を比較の観点を設定してマトリックスを作って整理する」とか、
「場面構成の整理」だったら、「回想場面の部分をマーカーで色分けする」とか、「それぞれの場面に、テレビドラマのようなタイトルを考えてみる」のように。
こういう具体的な活動レベルまで落とし込んでいないと「さあやりましょう」「分かった人?」「黒板にまとめてみます」といった形の「黒板の写経」になってしまう。
そういう「アウトプット」の方法は、経験の浅い実習生にとっては「持ちネタ」の引き出しは乏しいだろうから、こちらの方で、さまざまな例を紹介して参考にしてもらっている。そのモデルをまねしたりアレンジしながら自分の授業を作っていってもらうようにさせている。

2015/06/14

「強み」という言葉がきらい

そうだ、ぼんやりと感じていたんだけど、自分は「強み」という言葉があまり好きではない。それがどこに由来しているのか、「弱さ」の視点からそう感じたのだった。
「強み」はその人の自覚している得意なものとか、能力を指していると思うけど、それって容易に「交換可能な利用価値」に転換されてしまうものでもある。しかも「俺は他の人とは違ってここがすごい!」という意識も「強み」にはあるのかもしれない。
それって、裏を返せば「他の人と同じ」だと一気に色褪せちゃうということでもあるわけで。
つまり、「強み」を語る言葉の裏にある「強がり」とかナルシシズムがあまり好きではないということなのかもしれない。
それに比べて「弱さ」のなんと頼りなさげなことか。「弱音は吐かず」に表には決して出さず、言葉にさえ明瞭に意識できていないものなのかもしれない。しかしその人の存在につねに働きかけているもの。ひょっとしたら「強さ」とか「強み」で人は立っているのではなく、「弱み??」で立つものなのかもしれない。「交換可能な『強み』」で立つのではなく、誰にとっても役には立たない「弱さ」があるからこそ、「交換可能な自己」ではない自分でいられる。その「弱さ」を媒介に、他に共感できたり、他ともつながろうとするのだろう。「強み」よりも「弱み」だな。〈そんな言葉あるのか???)

2015/06/13

ちなみに、私は作文の処理(添削、朱書など)をどう考えているか

・時間があればやる、なければ無理をしない。
・文量は、他の生徒と平等になるよう配慮する(全ての人に一言づつとか)
・添削というよりも「この文章を読んでいる読者としての反応」を心がけ、コメントを書く。(つまり評価としてではなく、自分が読者として感じたことを話しかけるようなつもりで書いている)
・誤字脱字、表記ミスなどは相手によって1,2個程度ならばスルーし、別の指導の機会をうかがう。
・なるべく赤で書かないようにする。(採点っぽくなるので。でも黒だと見えにくいから青ペンとか)
つまり、添削とか評価、指導と言うよりも、読んで私はこう感じたという対話の一環として捉えている。
(短作文や条件作文のような明確な作文スキルの育成を狙う活動の場合は、その視点に沿って「評価」するために朱書することはありうる)

子ども目線から見た、読書感想文、作文指導のトラウマ体験を集めたら??

作文を書く、それを教師が読む、そして赤ペンで添削をする。それはごくごく一般的な「作文指導」の流れだ。
しかしその「作文指導」のちょっとした添削とか声かけで、ひどく傷ついたり、作文が嫌いになったりという「トラウマ体験」をしたというのをいたるところで耳にする。
しかもそういうトラウマ体験をさせてしまう先生ほど「私は作文指導に熱心だ」と認識してしまっているのが手に負えないところでもある。(一つ一つ添削をするくらいの先生だから、方向性はさておき「熱心」なのだろう)
だから、こういう子どもにとってのトラウマ体験、作文指導の失敗事例を集めて、「熱心な先生」に考えてもらったらどうかとも思うのだ。その気になればいくらでも集まってくるように思える。

ついでに、人のいちゃもんをつけているばかりのようで面白くないので、私は「添削」をどうとらえているか

添削の考え方
・時間があればやる、なければ無理をしない。
・添削の文量はなるべく平等にするに配慮する(全ての人に同じ文量)
・添削というよりも「この文章を読んでいる読者の一人としての反応」を心がける。(つまり感じたことを話しかけるようなつもりで書いている)
・誤字脱字などは直さない、どうしても気になるところのみ。(テストの記述問題の採点は別。)
・なるべく赤で書かないようにしている。(採点っぽくなるので。でも黒だと見えにくいから青ペンとか)
つまり、添削と言うよりも、読んで私はこう感じたという対話の一環として捉えている。
もちろんこの「添削」についてもいろいろな考え方があるだろう。

「読書感想文」という得体の知れないものを外国人児童に伝えるなら

誰しもがうすうす感じているだろうけど、「読書感想文」のあの文体はきわめて学校文化的なものである。いろいろな「お約束」が内包されている。
そういう「お約束」をマスターした人だけが「読書感想文が上手!」と評価される。
そういう生徒はひょっとしたら「感想文が上手」なのではなくて「学校の、教師の意図を読むのが上手」なだけかも知れないけど……
しかし、そういうお約束を「読む」ことのできない生徒に分かりやすく伝えるためにはどうすればいいのだろうか。たとえば学校にいる外国人生徒に「読書感想文」を説明するとしたら、何を説明すればいいのか。

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※以後はフィクションであり、実在の読書感想文コンクールなどとは一切関係ありません。あしからず………

どんな本を読めばいいの?
好きな本を取り上げればいいというものではないよ。そこ重要だから!
「JR時刻表」、「プログラミングの仕方」みたいなマニュアル本も「本」なんだけど、そういうのはふさわしくない。辞書とか百科事典もなし。雑誌も不可。ミステリーも難しいかもね。マンガなんてとんでもない!!! ボーイズラブ系、だめにきまってるでしょ!
絵本……微妙だなあ。あまり薄い本だと手抜きしていると思われるかもね。分厚い本を読むと「頑張ったね」っていってもらえるかもよ。
反対にウィトゲンシュタインの哲学書みたいな背伸びしすぎる本を選んでも「中学生らしくない」って思われるかもね、
課題図書か、国語の教科書に載っているような作家の小説、またはノンフィクション系で「努力すると報われる系」とか、環境問題などの社会問題を扱った本がいいよ。

どんな感想を書けばいいの?
感じたことを何でも書けばいいというわけではないよ。
「この本なげーよ」とか、「外人の登場人物の名前が覚えられない」とか「漢字が多い」というのは感じたことであっても「感想文」には書かないでね。
あくまで、読んで感動したこととか、社会や生き方について考えさせられたことなどを書くべきね。

批判は厳禁
感想文は「肯定的な感想」を書くようにね。
「つまらない」とか「読んだら時間の無駄だった」なんていう本は選んではいけない。
批評家ではないんだから、読んで面白かった本、読んで感銘を受けた本を選ぶように。
普段そういう本を全然読んでなくて、感想文を書くためだけに読んだ本でも、それを「面白かった本」「読んで感銘を受けた本」ということにして書くこと。

読んだら成長しました!
「本を読んだら成長した」っていうことを書くのがおすすめ。
本の内容紹介じゃなくて、本を読んで変わったというあなたの「成長」を書くの。本を読んだくらいで成長できるのか?っていうツッコミはなし!「読書をすると人は成長するものだ」と日本の社会では思われているから。
本を読むまえは……だけど、読んだら……になった。とか、読んでこんなことをしてみました、という「本を読んだあなたの成長物語」を創作できるといいね。
普段そういう本を全然読んでなくて、感想文を書くためだけに読んだ本でも、「それを読んで成長しました」ということにして書くこと。

反社会的なことは書いてはダメ
思春期だからいろいろなことを感じるかも知れないけど、間違ってもそういうことを書いてはダメ。
泥棒をしてみたくなったとか、人を殺したくなったとか……
そういうのは「成長」って言わないよ。そういうことを書いたら、先生が心配しちゃう。
「先生が読んでいる」ということを常に念頭に置いて、大人が安心してくれたり喜んでくれるような成長物語を書くようにね。

あなたの感想の量にかかわらず、文量は決まっている
「感想文の量」は規定で決まっているから、どんどん感じることが出てきても絶対に規定の5枚以内におさめなければいけない。感想がそんなになくても、なんとか5枚に引き延ばして書いてね。
コンクールで入賞したいなら5枚の最後の行まで書くこと。そうしないといくら内容が立派でも、文量が足りていないと評価されないから。
なぜ5枚なのかって??? そんなの先生に聞かないで。知らない。

「読書感想文」は誰に向けて書くの?
実際に読むのは学校の先生とコンクールの審査員です。
でも「審査員さん読んでください!」ってあからさまに書いたらNG.
中学生が誰も読まなくっても、建前は同じ世代に向けて書くものなのです。


……ってね、そんなホンネを子どもには伝えられません。ひねくれた大人になっちゃうかもしれないから。

2015/06/12

外国人生徒が授業を日本語で学ぶとはどういうことなのか?~JSLカリキュラム~

研修3/4日目。外国人生徒への日本語指導研修も佳境に入ってきた。
今日はJSLカリキュラムに基づいた教科指導について、グループで授業プランを提案するというワークショップを行った。




JSLとは(Japanese as a second language)、つまり「第二言語としての日本語」話者のことを指す。多くの外国人がそれにあたる。「JSLカリキュラム」とは外国人生徒が日本の学校教育に円滑に参加していくためのカリキュラムのことをいう。このリンクを参照

私なりのとらえでざっくりと説明すれば、いわば日本語によるイマージョンプログラム。
教科内容を教えつつも、教科の学習に必要な日本語も教えていくという教育プログラムである。
さらに具体的にいえば、たとえば算数の関数の授業であれば算数の内容のほかに「……が……のとき、……に変化します」のような日本語の話形もついでに指導を入れていくような手だてをとる。(上記写真から、授業で必要な日本語の話型が示されているのが分かるだろう)
これは、裏を返せば、授業外で交わされている「おしゃべり」と、教室で交わされている「発言」とには、公的私的というくくりだけでなく、認知的にも大きな違いがあるということを表している。
日本人にとっては当たり前のことであっても、外国人にとっては、教室で日本語を使って知的活動をするというのは相当な負荷のかかる活動でもあるのだ。
授業などの知的活動でしか使わない用語、言い回し、話形等々。
外国人が授業に参加するとはこれほどたくさんの「カベ」があるのだということを改めて思い知った次第である。(もちろんこれは外国人に限った話ではないだろう)
JSLカリキュラムではそういう「知的活動に必要な日本語」についての膨大な研究の蓄積がある。外国人指導にだけ用いるのはもったいない。

JSLカリキュラムの研究では、授業での生徒と教師の日本語のやりとりのすべてを分析し、それをAU「Activity Unit」(活動の単位)として整理している。
それらの学習活動や、付随する話形をJSLカリキュラムでは組み合わせて授業を構成していく。
学習活動を構成している学習行為を「AU」と呼んでいる。このAUとは「Activity Unit」(活動の単位)の略であり、学習活動を構成している一連の下位活動である。
トピック型の授業の場合、このような下位活動には、たとえば次のようなものが考えられるという。
「体験」の局面:知識を確認する、経験を確認する、など
「探求」の局面:比べながら観察する、変化を観察する、など
「発信」の局面:表現する、判断する、など
このAUの研究もものすごく充実している。リンク参照!

さらにさらに、各教科ごとの学習活動とそれに付随する言語もAUとして設定されている。
次のリンクをたどり、膨大な研究の知見を見てみて欲しい。
社会AU
算数AU
理科AU

ちなみに国語は全てがAUのようなものなので、代わりに学習スキルが例示されている。

たとえば、読むこと指導における固有な語彙として以下が例示されている。
こういう学習用語を、国語を教えるときにどの程度、教師は自覚的に定義し定着させようとしているだろうか。外国人生徒への指導ではそれが行われつつあるというのに。(学習指導要領でさえ、それらの学習用語の整理は明確にされていない)
「読むこと」の指導・授業で使われる、固有な語彙
文、文章、段落、さし絵、お話の筋、詩、物語、絵本、説明文、作者、登場人物、主人公、読み聞かせ、題名、筆者、中心人物、主要人物、せりふ、内容、事柄、感情、感動する、心に残る、音読、朗読、感想、ストーリー、要旨、心情、など

これらのJSLカリキュラムはAU、学習言語の研究はそもそもは第二言語話者のための学習支援という文脈で開発されたものだ。
しかし、この研究の知見は日本語を母語とする話者にとっても、つまり普通の生徒の学習にとっても参考になるところ大だろう。
つまり何が言いたいかというと、授業で知的活動をするということは、知的活動に特有の日本語の言い回しや語彙があり、それらは日常の言語生活だけでは獲得されにくいということがこれらの知見から分かると言うことだ。
外国人生徒が日本の学校でどのように学んでいくか考えるということは、私たちの授業行為や、学習者の知的行為の自明の前提を問い直すということでもある

「自然言語と第二言語ではその習得の過程が異なる」という第二言語習得理研究の知見からJSLカリキュラム(第二言語としての日本語話者のための授業)が生まれた。JSLカリキュラムでは、認知操作、知的思考活動に必要な日本語(学習言語)を抽出して教えるという方法をとっている。
つまりおしゃべり(生活言語)をさせているだけでは学校の授業にはついていけない。学力は高まらない(学習言語は獲得できない)ということを表している。
これは、はたして日本語を母語としない学習者だけのものなのだろうか。
日本語を母語とする子どもたちも、生活言語と学習言語を使い分けて認知活動を行っているのではないだろうか。
だとしたら何らかの手立てで学習言語を獲得させる手立てが必要だろう。
「好きに話していいよ」「好きに書いていいよ」でそれらの学習言語が獲得され、育つのだろうか?
ホールランゲージ理論はこれにどう答えるのだろうか?

「学習言語」について調べてみたら以下の文献が見つかった。
これらのそのうち読んでみようと思う。



「9歳の……」の本は、聾学校の先生による「学習言語」習得指導の方策。
聴覚障害教育の現場でも「学習言語」に脚光が浴びているようだ。


2015/06/10

外国人を受け入れている学校の事例を聞いて

 
今日は外国人を受け入れている学校(小学校~高校まで)の具体的な事例を聞く機会があった。どの事例もそれぞれに興味深かったが、共通する問題点として次の3つが特に考えさせられた。


1、日本語ができるよりも、日本人の友達がほしい!
多くの外国人児童が、もっとも望んでいることは何か?...
日本語ができることよりも、勉強ができることよりも、それよりも「日本人の友達がほしい」ということなのだろうだ。
外国人指導というとどうしても言葉や学力面でのサポートをしなければという思いが先走ってしまうけれども、子供の意識はそれとは違うんだということ。




2、アイデンティティーを守る
外国人生徒が日本になじんでくるのにともなって大きくなってくる問題は、彼らが母語や母国語を失ってしまうという危惧だ。
特に、家族間では母語を使っている生徒も家から出れば日本語を使う生活が長く続くと、やがて母語を忘れてしまうようになってしまうという。母語を失うと、母国への気持ちも急速に薄れていく。そうなると引き裂かれたアイデンティティーの危機は深刻なものとなってしまう。
そうならないために、最近では母語や母国の文化を大切にしていくための教育を積極的に行っているそうだ。
たとえば大阪府には外国人生徒を特別に受け入れている高校が6校あるが、その高校では母国語を学ぶカリキュラムがあるという。どんなにマイナーな言語でもその国の生徒が入学してくると授業が開設される。こうやって外国人生徒が自分の母語を保持し、アイデンティティーを形成してもらえるような取り組みを行っている。(在日コリアンがいる学校でも同じような取り組みをやっているそうだ)



3、社会や政治情勢に揺れる外国人生徒たち
ヘイトスピーチ問題や中韓へのあからさまな嫌悪感を表す風潮を知り、多くの外国人生徒たちは傷ついている。また、両親から教わっている内容と日本の学校で教えられている内容との違和感に疑問を持つ生徒もいる。社会や政治情勢に子供たちは大きく影響を受けている。
「日本人なんて大っきらい! この間お母さんがね……」と親から聞いたことをそのまま鵜呑みにして気持ちをぶつける生徒。そんな生徒にある日本語教室の先生(その先生は中国人のハーフでもある)はこう投げかける。
「でも、あなたの身近にいる人はどう? お友達とか、先生とか……、いつも親切にしてくれていない? そういう人たちも大っきらいなの?
まずあなたの目で見て、あなたに接している日本人をどう感じたかが大切なんじゃないの?」と。
外国人を教える教師、学校ではこのように、国際関係の問題や日本社会の問題に真っ先に向き合っていくこととなる。しかしこうした地道な取り組み、さりげない言葉がけの中に「国際理解教育」とか「異文化との共生」という言葉が絵空事にならずに現実化に進んでいっているのも事実なのだ。

「指導力」とはどれだけ「個」をイメージすることができるかだ。


昨日の研修でもっとも驚嘆させられたのが、練達の先生がじつにリアリティーを持って学習者を把握できているかということだ。そしてその生徒にあわせて、即座に指導計画を立てられるということだ。
たとえば、演習ではこのようなお題が出された。...
課題 次の3人の生徒にあわせた学習プログラムを考えてください。
A ベトナム人のトルンさん
インドシナ難民の両親
日本生まれ・育ち
小学一年生
就学前は家庭で祖父母と生活。

B ネパール人のハッサンさん
調理師の父
小学校三年生で来日
現在は小学6年生
日本語でおしゃべりできるようになったが、勉強はわからない。
C 中国人の王さん
留学生(博士)の両親
中学二年生
来日直後
保母では主要教科が非常によくできた
英語もよくできる。
さて、このような簡単なプロフィールが出された段階で、即座に3人の生徒にあわせた学習プログラムを考えなけばいけない。
「うーん、そうね、Cの王さんは家庭がしっかりしていそうだから、まず日常生活で必要な言葉を教えれば後は……」
「一番大変なのはBかなあ。おしゃべりはできるんでしょ。三年間日本にはいるけど授業にはついていけていないっていうことは、勉強に必要な学習用語が入っていないという可能性はあるわね……。でも今更易しいところからやるのはプライドもあるだろうし……」
と、まるで今ここにその生徒がいるかのような鮮やかなイメージを持って子供の姿が立ち現れてくる。
理屈や理論を学べば誰でもある程度は「上からのカリキュラム」は作れるようなってくるだろう。しかし、この先生のように、子供のなまなましいイメージからその場でアレンジしていく「下からのカリキュラム」を作ることができるのは並大抵の経験、努力、見識が必要とされるのだろう。昨日の研修でかいま見たある先生の「指導力」に心から驚嘆させられた一こまだった。

外国人にとっての日本の学校のあり方とは?

ここ20年、日本に滞在する外国人が急速に増えてきている。
都内のコンビニ、キオスクなどで外国人の店員さんが働いていないことの方がむしろ珍しいほどだ。少子化と移民の受け入れが進むにつれ、介護などの福祉サービス業、いわゆるブルーカラーを中心とした労働者の供給源として、外国人移住者の増加は今後ますます加速していくことだろう。
外国人移住者が増えてくることで学校はどう変わってきているか。とくに現在次のような傾向が見られるそうだ。



1 外国人が集まって暮らす地域とそうでない地域とがある。
ダントツは愛知県。他を大きく引き離し6000人もの児童生徒がいる。続いて神奈川県の3000人、静岡、東京の2500人と続く。最近では山陰地方や九州も一気に増えてきているという。そういう「集住地域」では外国人受け入れセンター校を設置したり日本語指導員を入れたりという体制が整いつつある。
一方、それ以外の地域では、地域に一人とか、学校に一人といったパターンが非常に多く、そのため手厚いケアが受けられないという問題がある。



2、外国籍ではないハーフの生徒も増えてきている。
いわゆる国際結婚で、外国籍ではないんだけど日本語がうまく話せない生徒も増えてきている。
また、永住している外国人が日本で子どもを産み「日本人」として育てるケースも。そういう数字は上記の統計ではあらわれにくい。最近では「外国籍」とは言わずに「外国にルーツを持つ子」「外国につながりある子」とか「渡日人」という呼び方もされるようになってきたという。(しかし「日本語指導」の対象は外国籍となっているケースが多く、一概にどちらがいい悪いとは言えない状況にある。問題が複雑化している。)



3、移住者の国も多様化してきている
移住者の母語の一位はこれもダントツでポルトガル語。(ブラジル人)
二位は中国語、そしてフィリピノ語と続く。最近はベトナム人も増えてきている。また、様々な国から日本に来るようになってきいるので、これも多様化の傾向が見られる。
4、どのような問題があるか?
①異文化との衝突
一つには生徒の問題、そしてもう一つが学校の問題がある。
当面大事なのは、外国人生徒を日本の社会で生活できるように適応させていくという問題だ。そしてその個の能力を伸ばしていくという問題。
しかし難しいのが、生徒の個に応じることと、その生徒が持っている「文化」を尊重していくこととは、必ずしも一致しないという問題である。「文化」の問題は個に還元できないからだ。多様性と共通性を両立させていくことが大事、個に応じ、文化の違いを尊重しつつも、勇断として守るべきルールや規範については指導していかなければならない。
同化教育は慎むべきだが、分離教育となってもいけない。共生教育へと向かうべきだ。
②外国人生徒のライフコースを支援する
目の前の外国人生徒の「いま」をみるだけでなく、その外国人生徒のライフコース(成長・発達)という観点からの支援が必要だ。
そのためには「学びの連続性」を保障すること。
外国人生徒の持つ「文化」と学校文化、日本文化との「連続性」
外国人生徒の家族、学校、社会などのコミュニティーの「連続性」
外国人生徒の「いま」と「未来」との「連続性」など。
外国人生徒は異なる文化間を移動するたびに、それぞれの場で学びをリセットし、調整して適応して生きてきている。
「学びの連続性」を保障するためには、「学校」がその結節点となってそれぞれを結びつけていく必要がある。

2015/06/06

授業が教科書を規定するのか、教科書が授業を規定するのか

さて、どっちだろう?
よく国語の授業で批判のやり玉に挙げられるのが、文学的文章を何時間も取り上げる授業実践。
あれ、もし教科書に載っている教材が、いまの十倍の量になったら、そんな時間で取り上げることはできなくなるだろう。
「年度内に教科書を終わらせる」という圧力は、学習指導要領なんかよりもずっとずっと先生方のプレッシャーとして大きい。
いっそのこと、全部取り上げると終わらないくらいの量の教材にしてしまって生徒の実態や学習指導要領に合わせて教師が軽重をつけて教材をチョイスできるようにしたらいいと思っている。
(最近の教科書は、本編と補助資料として、そういうアレンジが可能な編集になってきている)

班ノートでリレー小説、ミニ読書タイム

今年の三年生の授業から毎時間、帯取りで班ノートと読書タイムの実践を行っている。

基本的なルールは次の通り。
・授業開始10分程度で。
・六人班で輪番でノートを回してテーマを決めて作文を書く。
・他の人は読書タイム。(好きな本を読む)
つまり同一時間帯に、読書をする生徒と班ノートを書く生徒の二パターンが存在することになる。

班ノートの活用
班ノートのテーマは自由。
しかし班員が一周するまでにはテーマを変えてはいけないという縛りがある。
まだ始まって日が浅いけれど、生徒達は次にようなテーマを選択していた。
○自己紹介、好きなもの系
私の趣味
私の好きな芸能人
私の好きなラーメン
班員紹介(他己紹介で次の人を紹介する)

○リレー小説系
学園恋愛小説
学園いじめ小説
ミステリー「○組○班殺人事件」(自分の班を舞台にしたミステリー)
リレーキーワード小説(次の人にキーワードを設定してそのお題で話をつないでいく)
恋愛小説

次の人にキーワードを指定する

学園ミステリー

もちろん一番盛り上がったのがリレー小説だ。
前の文脈を受け継ぎつつ、自分の番でどう話をひねっていくかに全力を傾注していく。そして次の人に上手くつながるように書き終える。
みんなで一つの文章を書くというのは簡単なようでなかなか難しい。でも「連句」のように、テキストが次々に解釈され、新しく生まれ変わっていくのはとてもスリリング!
なんと言っても,こういう形で日常的に書き手を育てる活動となるのは面白い。「表現の出口」が常に設定されていることで、「次はどうやって書こてみようか」という気にもなるから。
「書き手」として育てば、小説の読み方も自ずと変わってくるだろう。
早速国語の授業以外でも話題になるくらいのちょっとしたブームを巻き起こしている。
なお、文量は国語ノート半分以上をノルマとして、余ったスペースは班員がどんどんツッコミなどを書き込むようにさせた。10分で書きあがらなかった場合は、次の日の朝までに提出するようにさせた。
この実践は国語の作文指導と言うよりはむしろ学級作りの側面の方が大きいかも知れない。
文学という虚構を共に作り上げて行く楽しみ。リレー小説を通して引き出されるそれぞれの個性を味わうことなど。国語科の枠に留まらずになかなか面白い展開を見せている。


読書タイムの効用
貴重な授業時間を「ただ本を読むだけ」に使うのは無駄ではないのか?
そう感じてしまうかも知れない。
「読解は授業で」「読書は家で」というのがこれまでの常識だったからだ。
私も去年まではその認識だった。
しかし、ある友人から「読書は家で」って言っても、それで、本当に読書生活を育てているといえるのか、読むようになっているのか? むしろ教室の中でこそ読書をさせるべきなのではないか、という問題提起をいただいたのだ。
つまり、「畳の上の水練」と一緒で、十分に海で泳がせずに、「水泳の仕方」を教えているだけなのではないかという反省だ。
「そんなことはない!」とそのときは反発したくなった。
しかし、その後、生徒にアンケートを取った結果、予想通りというか、私の不安は的中した。
多くの中学生にとっては、「読書は嫌いじゃないけど、忙しくてしていられない」と感じるの回答がほとんどだったのだ。塾などで生活時間が押しつぶされてしまっているのだ。
このまま放置していたら、読書の楽しみを感じないままに大人になってしまう!
この結果を見て、生徒達のために、一日10分だけでも読書を親しむ生活を日常化させようと決断をした。
そういう経緯から、毎時間「ミニ読書タイム」を設定するに至った。
たった十分だけれども,この読書生活が根付くことで
・本を読む習慣 だけでなく
・本を選ぶ習慣
・本について語り合う習慣
なども身についてくれるだろう。
今のところは「好きなものを読む」時間となっているが、そのうちにテーマ読書に取り組んだり、ビブリオバトルなどの読書活動と関連させて取り組んだりと活用していきたいと考えている。
また、10分間継続して取り組んだ読書から、どのようなことを身につけていったのか振り返ったり交流する機会も設定していきたい。
そういう、読書活動に割けるフレキシブルな時間を設定した意味は小さくないと感じている。


2015/06/05

こんな時代だから「こそ」文法って大事だよという話

今日は定期テスト前の最後の授業。
テスト範囲となっている付属語(助詞、助動詞)の問題をたんたんと解いていくという、なかなかつらい授業になってしまった。
助詞、助動詞って扱い方によってはとっても面白いんだけど、どうして文法の問題集ってくだらなすぎるんだろう。
問 次の空欄に入る助動詞を書きなさい。
昨日、カナリアが卵を産み(まし)(た)。
って、こんな問題、一体何の役に立つんだ?
何のための問題??
「文法」というかことばの機能に関する学習って、本当はもっともっとやっていかなければいけないんだろう。
昔は「文学的文章の詳細な読解」で、どこの教室でも文学的な表現を助詞の一語一語までこだわって考えさせてきたけど、最近は読者論とか「単元を貫く……」の隆盛であまりお目にかからなくなった。
そういう時代だからこそ、なおさらレトリックとかメディアリテラシーなどの観点で、助詞、助動詞などの精妙なニュアンスを掴んでいく「文法学習」の有効性があると思うんだけど……。

エピソード1
たとえば、国語教師の私でさえ、原稿を書いたら校閲の方から「てにおは」について間違いを指摘していただくことが多々ある。
「言葉はセンスだ」とうそぶかずに、助詞などの言い回しについてかっちりと学べていたら良かったのになあと痛感している。

エピソード2
また、あまり空気の読めない私は、ちょっとした助詞・助動詞の選択ミスで、相手にあらぬメッセージを伝え、失礼なことをしてしまうことも多々ある。
実は助詞、助動詞って、自然と自分の立ち位置を示したり、相手とコミュニケーションするための根幹を支えるものなのだ。
そういう言葉のおもしろさとおそろしさを、文法の学習でも(文法の学習でこそ)感じられるようになってくれるといいのだろう。※「も」「こそ」は副助詞!

2015/06/01

勉強は一人でやるものか?? 〜チラ見のすすめ〜

勉強は一人でやるもの???
「一人でやる」というのは確かにそうに違いない。
二人で鉛筆を持つことなんかできない。紙に向かって問題を解くのは、最終的には「一人」だ。
だけど、教室での学びをより的確に描くのなら、「誰かの学ぶ姿を参照しながら『一人』で学ぶ」というものではないのか。
高校の授業とか、テスト時みたいに完全に机を離ればなれにした状態で授業を受けていれば、誰かを参照にするというのは難しいかもしれない、けれどもちょっと隣の生徒に聞いたり、グループでなんとなく一緒に取り組んでいくと「さあ話し合って」なんて教師が指示をしなくても、自然と聞き合う関わり合いになっていく。お互いのノートやプリントをチラチラ見ながら(参考にしながら)学ぶようになってくる。それがむしろ自然な姿なんだろう。
「一人でやろうと思うな」「教師だけから学ぼうと思うな」「隣の人のノートをチラ見せよ」「分からなかったら知っているヤツに聞け」という「学びのOS」は、学校を卒業する前に是非身につけて欲しい技術でもある。

「協働」の機能を問い直す

前任校では教科学習の中で「交流」について研究を進めていた。
そのときに真っ先に取り組んだのが
「『交流』ってざっくりといっても、そのなかで一体何が起きている?」という問いを追求したことだった。つまり、学習場面における「交流の機能」を分析したのだ。
その結果、参考文献も見ていく中で、「交流」にはつぎのような機能に整理することができた。以前書いたブログにやや詳しく載っている。
・共感的交流(お互いの良さを認め合う)
・累積的交流(情報をたくさん集め、豊かにしていく)
・連鎖的交流(コンセプトマップや連想ゲームのように、話題が連鎖的に広がっていく)
・探索的交流(一つの解に向けて意見を収束していく、まとめていく)
・批判的交流(出された意見をクリティカルに精査、吟味していく)

もちろん、実際の交流場面ではこのように上手く現象が分けられるというものでもない。しかし、一度こういう分析をしてみたことで、なんとなく交流をさせるのではなく、交流のどのパターンを重視して設定すべきかという方向付けが、教師の意識の中でよりはっきりとしたという効果はあった。なにより、交流をしている子どもたちをみとる判断材料に活用できた。これは自分にとっても意義ある研究だった。

さて、現在の学校で取り組んでいる研究課題は「協働的な課題解決」だ。
この「協働的」というのもなかなかくせもので、何となくグループで取り組ませているだけで「協働」と言えてしまうこともなきにしもあらずだ。
だから、グループでやる意味ってあるの???と思ってしまうようなユルい協働的な課題解決にどうしても陥りがちな現状がある。
そこで「協働」のパターンや機能を、交流の研究で行ったように整理してみたらどうなるのだろうか。
雑ぱくな思いつきだけれども、次のように考えてみた。

メンバー構成のパターン
Ⅰ 構成的グループ編成……教師がグループ分けを決定する
 A 同質グループ……同じ能力や特性にそろえたグループ(習熟度、男女別など
 B 異質グループ……異なる能力が混在するグループ(男女混合など
 C ジグソーグループ……同質グループを途中で組み替える編成
 D 役割分けグループ……グループ内に異なる役割を与えられたメンバーが存在している
 E ランダムグループ……A〜Dのようにとくにメンバー構成を意図しないグループ
Ⅱ 非構成的グループ
 F 自由グループ……生徒〈学習者)が自由にグループを組む
 G フリー編成………グループを作ることも作らないのも自由。

課題解決のパターン
! 交流パターン
衆知を集めて、集団で解を導き出していくパターン。
次のようなプロセスをたどることが多い。
 A アイディア(考え)を出す(ブレーンストーミング)
 B アイディアを整理する(束ねる、分類、構造化する)
 C アイディアを吟味する(批判検討したり、抽出、焦点化したり、選択したり)
 D アイディアを試行する
 E アイディアの試行について振り返る
話し合い活動などはこのパターンをとることが多い。ディベートもこのパターンのバリエーションとして位置づけることができる?

Ⅱ 一緒に取り組む(共同)パターン
同じ課題を一緒に取り組んでいく。
お互いの姿を参照しながら、相互啓発的に学びを豊かにしていく。
随時、感想や意見交流が活発に行われていく。
(「共同学習」『学びの共同体』でよく見られる?)

Ⅲ アドバイスパターン
それぞれが課題に取り組んでいく中で、他の人に質問し、教え合ったりする活動が行われていく。(縦割り活動や『学び合い』の学習に多い? 部活動もこれに近い)

Ⅳ コラボレーション(協働)パターン
それぞれが異なった役割を担い、チームで課題を解決していく。
制作表現系のプロジェクト単元に多い?
例)新聞作り
編集長、記者、カメラマン、校閲、デザイナーなどの役割を決めて取り組んでいく。 

もちろん、これらのパターンは重なり合うことも多いし、これ以外にも、もう少し考えれば新たなパターンを抽出することができるかもしれない。

このように「協働」とひとことで言っても、そのなかには様々なパターンが内包されている。個々人によって「協働」のイメージがかなり異なることが考えられる。だから、一度このように協働の類型を整理し、授業で取り組みたい「協働的な課題解決」がどのパターンに近いのか当てはめてみることも有効ではないかと考える。
って、そういう研究ってどこかでやられているはずだとは思うんだけど……勉強不足なだけ?