2013/12/31

2013年を振り返る


2013年の大晦日、とても美しい富士山を拝めることができた。
冬休みのゆったりとしたこの時間に、2013年の成果を振り返ってみたいと思う。

1、勤務校での研究成果をまとめ、地域の研修会で発表することができた。
数年間に及ぶ勤務校での研究成果を実践記録としてまとめて発表することができた。しかも、国語科スタッフ全員のレポート発表をすることができた。
勤務校が地域とどのように連携していくか、どのように良好な関係を築いていくかという問題は、大きな課題の一つである。
連携していくためには、まず、自らが地域の学校の実践から学ばなければいけない。また、自分たちの実践を積極的に発信していく必要がある。
そのために少なからず努力を続けてきた結果が、ようやく今年になって実ることができた。これは本当にうれしいことだ。今年は、市の中学校国語科研修会での発表と、県の高校でのパネルディスカッションに参加し、交流をした。また、小~高校までの授業を参観して学ぶことができた。公開研究会も、今年、はじめて図書室での授業公開をした。「図書室が見違えるように変わったねえ」といわれたのも、労が報われてうれしかった。
もう、勤務校でできることはやりきったかな。

2、大学院での学修から得られたことを環流させるようにした
大学院2年目となり、一気にペースを上げて学修に取り組んだ。
授業に参加しながら、教育課題としてどのようなイシューが取り上げられているか、それをどのように自分の実践や研究に反映させていくかを考えた。
具体的にいうと、他教科や領域と国語科教育との関連性の問題、国語科教育の過去の遺産をどのように現在に生かしていくかという視点、そして、現在、未来にわたって国語教育をどのように発展更新していくかという視点だ。また、これからの学級づくり、学校のあり方など考えていかなければならない問題も多い。それら一つ一つを、大学院を修了するころには答えを持っていたいと思う。
来年こそ、修論を書き上げないと!

3、今まで経験できなかったさまざまなことに取り組むチャンスを得ることができた
学校での仕事、そして大学院での勉強と、さらに、それ以外でさまざまに活動するチャンスを得ることができた。
・質的評価についての研究会のコーディネート
・学級経営についての原稿執筆
・新たなテクノロジーを活用した国語教育の開発
・国語学力の評価、分析と、それをもとにした授業実践の開発
昨年の今頃は知りもしなかった、出会うこともなかった世界に足を踏み入れ、活動することができたことは、大きく躍進することのできた要素の一つだ。
これらの一つ一つはまだ緒に就いたばかりである。その種子を芽吹かせ、根を張り、幹を茂らせていくことが今後の課題だ。

総じて、今年1年は、自分にとっても大きな意味のある1年であったと思う。
来年のさらなる変化を予感させる、きっかけや「芽」がさまざまなところで見られた1年だった。
その証拠に、昨年の今頃、今年の1年がこうであったことを想像することが全くできなかった。きっと来年の1年も、今考えているのとは全く違った、考えもしなかった未来が待っていることだろうと思う。
今できることを、一歩一歩謙虚に取り組んでいくことだなあ。

2013/12/20

Amazonのレビューはどこまで当てになるか?

現在プリンターの購入を考えている。
それで、Amazonとか価格ドットコムなどのレビューを見て検討している。
どうやら、買った人の手応えによってレビューにもずいぶんバイアスがかかってしまうような気がする。

有名メーカーの高級品の評価は高い。
「さすが……だ!」とか「所有欲を満たされる」なんていう訳のわからないレビューもちらほら。
……思い切って高い買い物しちゃったから、後悔したと感じたくないだけなんじゃないの??と邪推したくなる。

反対に、とってもお買い得な、弱小ブランドの、高機能、低価格品の評価は厳しい。
「やはり安物買いの銭失いだ!」「……がだめ。……のデザインがいまいち」など。
ブランドイメージも悪いだけに、見る目が厳しくなっているような気がしてならない。

レビューは決して公正、平等ではない。(そもそも比較するために複数購入する物好きはいないだろう)
コメントには買う人の主観ももちろん入る。
あの手のサイトのレビューを読むときには、レビューの書き手(購入者)の心理状況も加味して読み解くことが必要なのだろう。

一件公平に見せかけて、バイアスがかかりやすい文章だから、読み手が「事実と意見」を読み分けるためには最適のテキストかもしれない。

2013/12/17

国語教育の先行研究を効率的に探るには?

①国語教育関係の辞典をひもとく
日国をはじめ、さまざまな研究団体からでている。
作文教育や音声言語などの分野ごとの辞典もある。
古いものが多いが、それぞれの思潮の基本的な流れをつかむことができる。

②『国語科教育実践・研究必携』『国語科教育学研究の成果と展望 1、2』を読む。
それぞれの分野の研究課題や、巻末の参考文献が有益。

③ ①②をもとに、研究したい分野の『国語教育基本論文集成』などの基本文献にも目を通しておく。

④「博士論文書誌データベース」(国立国会図書館・国立情報学研究所)で関連しそうな博士論文をあさる。(そこにも先行研究のレビューがある)

⑤CiNii(論文のデータベースサイト)や、「明治図書教育記事データベース」などで関連する論文をひたすら探す。

⑥図書館にレファレンス依頼をし、関連しそうな本に目を通す。

こんな感じで研究を進めています。

自分で調べるものもちろん大切だけども、詳しそうな研究仲間や、大学の先生を頼って、どんどん研究の相談をしてしまうことも結構重要。

社会人大学生は、すきま時間を有効に使って、頭を使うよりも、体をとにかく動かすことが重要みたいです。

2013/12/15

発問の研究とは「いちばん最初に思ったこと」を思い出すことから

「大人になるということは、いちばん最初に思ったことを口にしないこと。」(みうらじゅん)という言葉に出会った。
ということは、こどもの発想に気づくためには、自分が「最初に思ったこと」を丁寧にすくいとることだ。

実習生の授業の発問などで、どうしてこんな小難しい投げ掛けをするのだろうかと首をかしげてしまうことがよくある。
「メロスにとって友情とは何なのだろうか?」
「……の意義を考えよう」など。
そういう「問い」の持ち方を、子どもはまずしないだろうなあと思うような言葉を、先生が平気で投げかけてしまう。そしてそういうカッコイイ言い回しをしていることで「授業らしく」見せかけているだけなのだ。とっても「大人」な配慮。「大人」な授業だ。

もっと、子どもが教材に初めて出会ったときのような「つぶやき」を教師がすくい取れないものだろうか?

たとえば、「メロスみたいな人は好き?」とか、「セリヌンティウスから見てメロスってどんな人なんだろうね」とか投げかけてみればいいのに・。
そういう問いを切り口に、根拠や解釈を出し合えば「メロスにとっての友情」などにつながっていくと思うんだけどなあ。

論文と意見文の違いは、そこに「問い」が立てられ、対話が成立しているかどうかだ。

論文の論文たる条件とは何か?
どんな論文がいい論文なのだろうか?

いろいろな文献を読んでいると、自分の思いが先走ってしまい、独りよがりの意見文(檄文?)となっている「残念な論文」に出会うことがままある。
本人の中で「答え」が決まっていて、その「答え」を、もったいぶって「論じて」いるように見せかけているだけなのだ。
だから、通じる人には通じる。通じない人には通じない、独善的な文章に見えてしまう。
・子どもの主体性を尊重すべきだ。
・単元学習(課題解決学習)は正しい。
・教え込みはいけない。
などなど。
意見文や決意表明だったらいいけど、これが論文だったりすると、読んでいる人はうんざりしてしまう。
教育系の論文には、特にこの「激情型」とか「感傷型」檄文が多いような気がする。
そのような論文には、おそらく価値中立的な「問い」がない。そして「問いを立て、根拠を示して論証する」という「対話的な展開」も弱いだろう。
・なぜ主体性を尊重しなければいけないのか?
・そんなに単元学習が良いといえるのか?
・なぜ教え込みはいけないというのか?
という、もやもやとした問いを認めた上で、それに対するデータなり事実なりが示され、そして読み手を説得するというのが「論文」として成立すべき条件だ。

一番初めの「読み手」は自分自身だろう。自分自身が、自分と違う前提、異なった立場、知識を持っている人になったつもりで説得することが重要なのだ。
自分のなかに「『物わかりの悪い』他者」をいかに持っているかが、対話としての「論文」が成立するためには大切なのだろう。

ということを感じて、論文の項立てをあらためて疑問文の形式で立て直すことにしてみた。
・……とはそもそも何なのか?
・……は必要なのか?
・……とはどんな力か?
・……を育てるためにどんな取り組みがされてきたか?
などのように。

2013/12/12

授業の編成は、「こと」から「かた」へ、そして「力」へ。

授業の編成は、「こと」から「かた」へ、そして「力」へ。

学習内容は「こと」と「かた」と「力」で作られる。
「こと」とは、学習活動。
小説を読むこと、
作文を書くこと、
自己紹介をすること、などなど。

その「こと」を学習するためには「かた」の要素を含む必要がある。
小説の読み「かた」
作文の書き「かた」
自己紹介のし「かた」などのように。
※実際には、上記の活動の中に、無数の「かた」が含まれ、要素やレベルに分節化することができるだろう。
「かた」は方(方略)であったり型(手続き的な知識)であったりするかもしれない。

さらには「かた」を教えることを通して「力」として結びつける必要がある。
小説を読む力、
作文を書く力
自己紹介をする力、のように。
※実際には、こんなざっくりとした言い方ではなく、その活動特有の、その方法固有の力というものまで突き止めることができるはずだ。
さらには、ここで育てるべき力とは、技術・技能だけでなく、姿勢であり、態度や習慣も含む幅をもつものである。

「こと」を通して「かた」を教え、そして「力」を育てる。
「こと」だけではダメだし、「かた」だけでは力が付かない。
「こと」と「かた」の両方を押さえつつ、「力」を定置することが必要だ。


国語科の学習でタブレットを用いることが効果的か?

国語科の学習でタブレットを用いることが効果的か?という議論とか、
タブレットは国語科の学習を促進させる、という議論はあまり意味がないように思う。
それよりも、タブレットを操作して表現したり理解したりすることに、どんな能力が必要とされるかを精査すべきだ。
その能力は、おそらく従来の国語科で取り上げていた読み書き話す聞く力だけでは定置できない能力が含まれるはずだ。
国語科が、タブレットを操作して表現する力や、理解したりする力の、それぞれの能力を具体的に位置づけ、しかも学習できるようなカリキュラムを作れなければ、国語科そのものが、「書き方{習字)」のような教養科目の道をたどるだろう。
……「書き方」が生まれた時代は、確かに、毛筆を使う書き方が社会で求められていた時代だった。しかし、現在は毛筆を使うことはそれほど社会では求められていない。むしろ、毛筆で書くことそのものが「書き方」の目的になっている。社会で直接役に立ちにくい教科は、実学ではなく「教養」的な位置づけとして落ち着くことになる。国語が「書き方」のような教養科目になっていいのだろうか?

2013/12/10

要素に分解する。要素の力点をずらす。

教授学習心理学の授業で「クレーの塗り絵」の実践レポートを読んだ。
クレーの絵の輪郭線だけをコピーしたものを与え、その枠に自分で選んだ色を塗っていくという学習。
この授業実践から、授業において「要素に分解すること」と「要素の力点をずらすこと」の重要性を考えた。

人は、絵を描くときどこに力点を置くだろうか?
輪郭線か、色彩か?
きっと輪郭である線をしっかりと描くことに重点を置くだろう。
しかし、輪郭にばっかり目を向けてしまうと、肝心の色彩のほうには目がいきにくくなる。
太陽だったら赤、顔だったら肌色と、何も考えずに色を選択してしまう。
そして、ペンキのようにべた塗りをしてしまう子もいる。
そもそも輪郭がうまくかけない生徒は、絵を描くことに苦手意識を持ってしまう。

そこで出てきた発想が「塗り絵」をするという活動だ。
絵の描くときの要素、「輪郭」と「色彩」を分解し、与えられた「輪郭」にどんな「色彩」を描いていくのかということに意識を集中させる。
取り上げた学習材はクレーの絵画。
クレーの絵は、たとえばこんな雰囲気のもの
クレーの絵は抽象的なモチーフのものが多い。
どんな色彩も入りそうな余地がある。そして、どんな色を入れてもそれっぽく見える。
また、単調な構図であるだけに、ひねりを入れたい、変化をつけたいという誘惑をさそう。
クレーの絵だったら、絵が上手な子はそのセンスを発揮し、絵が苦手な子もそれっぽく立派な作品に仕上がる。
(モナリザとか、モネの「睡蓮」ではこうはいかないだろう)
優れた授業実践からは、他の授業に応用できる多くの示唆が得られる。

2013/12/09

メディアリテラシーとは、誰しもがアンバランスなものの見方をしているということに気づくことだ。

テレビやラジオから垂れ流しで情報を受け取るのとは違って、本を読んだりネットを見たりするのは、好きなときに、望む情報を得られるから、より自由自在に情報が得られる。メディアからのコントロールを受けなくてすむ。
と言えそうな気がするが、好きなときに好きな情報に「しか」アクセスできない(できにくい)というリスクやデメリットもある。
自分にとって心地よい言葉、都合のいい情報「だけ」を検索、収集して悦に入り、ますます閉じていくなんて危険性も大いにあり得る、
自分にとって心地よくない情報や、理解できにくい情報を避けているばかりでは、新たな発見を引き出すものとの出会いは期待できない。
偶発性がある程度保障されなければ、自己を更新する「未知との遭遇」は、なかなか得られない。

誰しも、バランスを持った、ものの見方や考え方なんかをしてはいない。
好み、主義主張、価値観、感覚に、極端さやゆがみや偏りがみられるのが普通だ。
だから、「あいつ偏ってるなあ」という目で他を見たり、情報を受け取る前に、そう感じる自分自身の、ものの見方の極端さやゆがみや偏りに自覚的であることの方が、より有益だと思う。
自分が好むものは何なのか? 自分が選ぶものは何なのか? そして嫌悪するものは何なのか?

メディアリテラシーとは、誰しもがアンバランスなものの見方をしているということに気づくことだ。
だれもが、自分の関心に基づき、その関心という色眼鏡で世界をとらえている。
その自分の中の「アンバランス眼鏡」がどんな性能やゆがみを持っているか、自覚するということがそもそも何よりも重要なのだ。

2013/12/08

書く生活はどう変化したか? どう変化するか?

A、発信メディアの多様化、簡便化、大衆化
ブログ、Twitter、電子出版など、発信するメディアがかつてとは比較にならないほど簡便になった。
誰でも、気軽に発信できるようになった。

B、情報量の短縮化と大量化
Aと関連して、情報を気軽に発信できるようになったぶん、発信される情報はどんどん断片化している。(Twitterのつぶやきなど)
ブログやFacebookなどの記事の文体は、今までの書き言葉の文体と明らかに異なっている。
書籍など比べて文量は少なくなったり、改行が増えたりという傾向になっている。
(多いと読んでもらえない) 
しかし、発信の頻度は増大している。そのため、発信される情報量そのものは、日々増え続けている。

C、話し言葉と書き言葉、文字テキストと映像テキストの差異の融解
TwitterやLineなどの文体は限りなく話し言葉に近似している。
また、絵文字(スタンプ)を多用したり、写真を投稿したりというように、発信するときの、文字テキストと映像テキストの差異は融解しつつある。

D、「書く」から「打つ」、そして「口に出して書く」へ
ペンを取り、手書きで書くという生活はますます少なくだろう。
現状は、キーボードで打つという生活が一般的だが、そのうち、ウェアラブル端末などが一般化すれば、音声認識だけで文字テキストのやりとりが完結してしまうだろう。(音声認識よりも優れたシステムが開発されるかもしれない)

E、情報の受け手の変化
特定少数から不特定多数へ、そして特定多数、さらには「顔の見えない」特定多数へ

通信メディアの変化を考えて見よう。
1、特定少数
かつて、一市民が通信するための手段としてのメディアは手紙・電報が一般的だった。これは特定少数に向けてのメディアだ。

2、不特定多数
その後、ブログやインターネットサイトなど不特定多数に向けてのメディアが開発された。

3、特定多数
さらには、SNSのなかにTwitterやFacebookなどの特定多数に向けてのメディアが日常的に使われるようになった。

4、「顔の見えない」多数
近年はデジタルキュレーションの技術が発展し、自分が発信した情報が、それを必要とする人に、(第三者の手によって編集され)届くようになってきた。(例、Amazonのレビュー、グーグルの検索など)
2と異なるのは、2の場合、情報の受け手は、自分で検索などをして特定の情報にたどり着いていたのであるが、最近はそれが情報技術によって自動的にあてがわれるようになることが可能になった。(Amazonや楽天のオススメ機能など)

F、個人としての書く生活から、関係としての書く生活へ
Eと関連し、情報は一方向のみに流れていくのではなく、双方向にやりとりできることが可能になった。
個人か書いたことをもとにして、それに関係、関心のあるものが(特定、不特定にかかわらず)返事をしたり、共感を示したり、情報をシェアし共有していくようになる。
個人のつぶやきは、つぶやかれたとたんに共有のテキストとなる。
従来のメディアと比較して、より「関係の中での書くこと」に向き合わざるを得なくなる。

G、書き直し、更新と、情報の半永久性
ワープロの大きな特徴は書き直しなどが自在にできるということだ。
どこから書き始めてもいいし、間違ったらすぐに書き直すことができる。差し替えや更新も容易だ。
だから、ちょっとした思いつきでも,とりあえず書きとめておき、後でそれをつなぎ合わせたり、書き直していったりという編集操作が容易になる。
そのため、従来の書くこと指導のような、取材→選材→構想→記述→推敲のような、硬直したプロセスではなく、記述しつつ削除したり、推敲しつつ書き足すことが普通になる。
また、(矛盾するようだが)一度ネット上に発信した情報は、劣化せずに、いつまでも漂い続ける。
自分の過去のつぶやきが、消したつもりだったけど残っていたなんてこともある、「消せない情報」のデメリットについても考慮する必要がある。



2013/12/05

PISAが突きつけた「問」

OECD(経済協力開発機構)が実施している国際学力テストPISA(Programme for International Student Assessment)の結果が公表された。
日本は数学、科学、読解、三分野とも前回の順位を上回った。
このテストは知識の多寡ではなく、思考力や応用力を測ろうとしている。

最近、大学院の授業で「教育社会学」を学んでいる。
そこで取り上げた佐々木賢氏(元定時制高校教諭、教育評論家)も、ちょうどこのPISA調査を取り上げ論じている。

佐々木氏の見解は次の通りだ。
◆PISA調査の結果は、ちょうど「ゆとり教育」を受けてきた世代である。そもそも「ゆとり教育」の可否が検証されていないのにもかかわらず、今結果を取り上げて「脱ゆとり」と論じるのはおかしい。

◆「ゆとり教育」はいわば「自由教育」。貧困家庭の子にとって、有効とも思えない。貧困層の学力向上を図るには、貧困をもたらす環境のほうが大きく障碍となっているから、その対策こそが課題なのだ。学力底上げは社会問題なのだ。

◆「ゆとり教育」もPISA型学力も、上・中流層のみを対象にした教育である。OECDは経済団体であり、経済発展や開発を目指す材確保のためのテスト問題を作っている。

佐々木氏の論考には次のような問が含まれている。
◆教育政策の可否はどのように測定されるべきなのか?
◆学力底上げは社会問題だとするならば、教育現場の努力は無力なのか?
◆階層に応じた教育内容というものがあるのか?
あるとすればどのようなものなのか? 
PISAで測るような力(思考力)は、貧困層には不要なのか?

授業における課題の順序の研究~「どひゃあ型」と「じわじわ型」~

今日の大学院の授業、教授学習心理学では、課題を出す順番についての研究論文を読んでいった。
で、結論めいたことをいうと、次のようになる。

理科などで、ある概念なり法則を教える際に、実験などを複数続けて見せるとしたら、どの順序が一番効果的か?

課題を出す順番を、かりに「どひゃあ型」と「じわじわ型」に区別する。
「どひゃあ型」とは、自分の予想を裏切り、「どひゃあ」とたまげる結果になる課題から順に提示する順番。
「未知→既知」の構造だ。

「じわじわ型」とは、自分の予想どおりの結果になるものを先に提示し、徐々に予想が難しくなっていくものを見せる課題。
「既知→未知」の構造だ。

ちなみに、仮説実験授業は「どひゃあ型」の提示順序が多いそうだ。
さて、どちらがより効果があるか。

一見、「どひゃあ型」の方がインパクトがあって良さそうだが、間違った知識が定着してしまっている学習者、誤概念へのこだわりが強い学習者にとっては、そのときは驚くが、長期的にみると知識の定着は悪い結果を示すのだという。
つまり、その場だけはびっくりするが、後になると知識が間違った状態のまま残ってしまっていることが多いのだそうだ。

反対に、「どひゃあ型」が向いている学習者もいる。
それは、理科への興味関心が高かったり、ある程度知識があり、誤概念へのこだわりが低い人。びっくりした後に、どうして?とさらに追及できる姿勢のある学習者にとっては効果があるらしい。
自分の予想と異なる結果が示されたときに、驚くだけでなく、さらに深く考えられることができれば、知識の構造が変化する(知識が身につく)という訳なのだ。

「どひゃあ型」が向いていない学習者、誤概念へのこだわりが強かったり、基礎的な知識が不足している学習者にとっては、じわじわと既有の知識を元に積み上げて行くような課題の方が効果がある。
また、実験結果を予想させたり、なぜそうなったのかを話し合う活動も効果的だという。
ポイントは、情意面だけでなく理屈でも理解する状態にするということだ。

どひゃあ型の方が授業としては見栄えがするし、生徒の情意面に訴えやすいから効果があるはずと思い込んでいたんだけど、学習者によっては、かえって思考が働かないのだという。

私にはとって「どひゃあ」と言いたくなる研究結果だった。

「サンタの正体」

クラスでは帰りの会のときに毎回5分程度短作文を書いている。
ちなみに師走に入った今日のテーマは「サンタの正体」だった。
その作文のいくつかを紹介したい。

◆「私は毎年、サンタが来る前の日の夜は、窓のところで手を合わせて『きちんと届きますように』と願っていました。
でもある年、サンタに手紙を書いたら返事の手紙の最後の文に「サンタ、ママ、パパより」と書いてありました。ショック……」

◆「サンタクロースの正体はかなり前から知っていた気がします。私の家では空を見ながら手を組んで、ほしいものをいうとサンタさんに伝わるといわれていましたが、3・4歳あたりで『あっこれうそだな」と思っていたのを覚えています、

◆「サンタの正体は、去年母に父だと教えられました。それまでは信じるようにしていたけれど、ついに教えられたので少しショックでした。今年もクリスマスプレゼントはもらえるけど、少し悲しいです。」

◆「僕は町内会に入っていて、低学年ぐらいまではクリスマス近くになると、必ず町内会長が家に訪ねてきていました。だからきっと町内会長さんがサンタに扮してプレゼントをくれているんだろうなと勝手に想像していました。それを、プレゼントもらえなくなってきた5年生のころ、母に言ってみたところ大爆笑されました。高校生まで夢を持たせてくれた親に感謝です。

◆「いよいよクリスマスが近づいてきました。クリスマスの夜には、一人ひとりいろいろな思いがあると思います。たとえば夜に来るプレゼントをずっと待っていたが眠くなって寝てしまったとか、いろいろ……。
でも大人のサンタさんには、一年で(たぶん)一番大きなウソをつく日だと思います。子どもはサンタさんのふりをして、大人同士になると……子どもが喜んでくれるので……ですよね。」

◆「ある年のクリスマスのこと。
私の弟にオレンジ色のリュックがサンタさんから届きました。
それから何日かたった日曜日。家族で買い物へ出かけました。
バックの店の前を通ったとき、ふと、父が「あの色も良かったなあ」と言いました。
しかし、弟の背負っていたオレンジ色のリュックをポン、とたたくと「やっぱりこっちだよな」といい、母もうなずきました……。」

◆「サンタとは……ある人いいわく『サンタとは、人が人を幸せにする心であり、実在しなくとも人がプレゼントをしたときにその人はサンタになる』という。」

◆「さんたさんへ……今年もいい子にしていたのでぷれぜんとをください。」と書いてある手紙が、テレビ台の引き出しから発見された。それを見つけたのは小学校一年生くらいの時でした。
でもやっぱりなんか欲しいので、今でも信じているフリをしています。

2013/11/26

「授業をみること」にまつわる三章

◆授業をみる1 授業に「つかる」
授業参観や研究授業などで他の先生の授業を見るとき、私は、授業を客観的に「見る」と言うよりは、正確には「授業(教室?)につかる」という感覚が近い。
お風呂のようにどっぷりと、その先生や子どもたちの教室の醸し出す空気に、肩まで「つかる」のだ。
もちろん、指導案も、教材も、授業のねらいも、事前にある程度は読み込んでおいてから参観するのだけれども、教室に入ったらどっぷりと「つかる」ようにその授業の世界にひたる。(首から上は残しつつ)
そうすると、いろいろなことが感じられるようになってくる。
先生と子どもとのちょっとしたやりとりの呼吸、子どもが頭をぐわんと働かせるときの音、授業が展開するときの潮のうねり、よどみ、満ち引き。
良い授業は心地よい「お風呂」のようなゆったり感がある。そして終わった後に心地よい疲れがある。よどみない流れがあり、動きがあり、一体感がある。
そんなふうに、液体のような感覚で、他の先生の授業と教室を見ていることがよくある。こんなこと感じるのって私だけ?

◆授業をみる2 「あいだを感じる」
授業を見ることは「あいだを感じる」ことだと思う。
まず、教師と生徒の「あいだ」、生徒と他の生徒との「あいだ」、そして生徒と学習内容(教材)との「あいだ」、さらには、過去と未来との「あいだ」、教室と社会との「あいだ」……etc.
これらのやりとり、相互作用を、千里眼のような透視能力を持って(持ったつもりになって)見ようとすることが、私にとっての「授業をみる」ということだ。
その「あいだ」が、うまくつながったかな? とか、いま、……が影響を与えているな? とか、あ、離れちゃった!とか、そんなことを感じながら授業をみていることがある。

◆授業をみる3 「コメントを言うつもりでみる」
新採のときから、地域の公開授業などで他の先生の授業を見た後は、必ず自分から発言をするようにしていた。(義務感でというよりは言わずにはいられなくなってしまう体質らしい)
いまの学校のように実習生を毎回大量に見るようになったらなおさら、他の人(実習生)の授業を見終わるたびに、何らかの気の利いたコメント(評価なり、助言なり)を言わなくちゃいけない機会が増える。
そうすると、「人の授業を見る=それについてコメントを言う」というサイクルが自動的にできあがるようになる。
実習生の指導案を見たら、即座にそれについてコメントを言わなければいけない。
実習生が授業をしたら、すぐに、それを見た講評を言わなければいけない。
(「まあ、よかったんじゃない」といういい加減なコメントとか、「板書がきれいだねえ」なんていう低レベルな台詞は、決して言うまいと自分に戒めている。同じ授業を見たどの先生よりも、授業の本質をとらえたコメントを言おう、うならせようと、毎回必死に考えている)
最初はとてもきつかった。しかし、これもある程度、経験というか、こつがあるらしいのだ。
それは、前もって「コメントを言うつもりで」、ネタを探しながら見るということだ。
他の人の授業を見ながら、授業(子どもが学ぶプロセス)の基本的な骨格とか考え方に関わる要素、「授業のツボ」のようなもの(として自分が考えてきたこと)とその授業とを参照しながら、自分の考えを述べるようにしているのだ。
そのコメントも、抽象的な理念を述べたててもわかりにくい、かといって、授業テクニックだけを開陳するのも浅はかだ。私の持っている力の範囲で、抽象的な理念のような部分と、それを支えるテクニックをサンドイッチのように併せて伝えるようにしている。
(実際は、そんな偉そうな、たいそうなものではないけど)
去年、私が実習生に言った内容が、今年は真っ向から反対することを言う場合もある。
たいていは、以前実習生に言った内容なんて思い出すだけでも恥ずかしいようなことばっかりだ。
……しかし、もっと問題なのは、実習生に伝える内容がマンネリ化してしまうことだ。
実習生にとってはいいかもしれないが、毎回代わり映えのしないコメントしかできないのも、うんざりするし、とても情けなく感じることがある。だから、なるべくより新しい角度で、コメントを言うことができるように心がけてはいる。
(このブログに書いている駄文も、読み返すとうんざりするものばかりだけど)
しかし、「コメントを言うつもりで見る」ことと、実際にコメントを言ってみることの繰り返しは、「授業をみる」力を高めていることは、どうやらあるらしい。(当社比)

2013/11/19

授業評価の指標としての身体感覚

授業評価の指標としての身体感覚
よく、時間が経つのを忘れるほど没頭したとか、あっという間に授業が終わったような気になる時がある。
反対に、なかなか時間が過ぎずに、何度も教室の時計をチラチラ、という授業もある。
どちらの方が、より学習効果が高いのだろうか?
一般的に、没頭してあっという間に授業が終わった方が意欲的に取り組めているから学習効果が高いとは言えそうだ、
しかし、それは逆に、ぼーっとして、思考していなかっただけとも言えなくもない。
学習者の身体感覚は、学習状況とどのような相関が見られるのだろうか?
時間があっという間にたつのがいいのか、それともその逆か?

仮説
実際の授業時間と、期待する授業時間のギャップが、授業時間感覚を形成するのではないか?

例えば、授業があまりにもつまらないので5分で即刻やめてほしいと願う。
しかし授業時間は50分だ。
このとき、授業時間感覚は10倍の遅さで進行するように感じられる。

反対に、授業が楽しいので100分間授業を受けたいと期待する。
しかし実際の授業時間は50分だ。
このとき、授業時間間隔は2倍の速さで進行するように感じられる。
なんか、もっともらしい法則が生まれちゃったぞ!

そこで、授業の評価を、学習者の身体感覚で測るのだ。
今日の授業は何分ぐらいに感じた?と。
生徒にとって、3時間くらいに感じたとすれば、苦行のような授業だったということがわかる。
10分くらいであっという間に終わっちゃった、と感じさせれば、相当生徒を熱中させたということがわかる。

校内研修の研究主題が「あっという間に終わっちゃったと感じられる授業を作る」なんてテーマだったら楽しいのになあ。

2013/11/13

質的なものの見方とは、「なぜ……ができないんだろう」という問いから、「なぜ……をしているんだろう」という問いへと転換させることから始まる。

「なぜ……をしているんだろう」と考えることから、教師としての成長が始まるのではないか?

子どもは往々にして、教師の思い通りになんかには動かない。
そんなときに、「なぜ……ができないんだろう」とぼやいてばかりの人がいる。
しかし、「なぜ……ができないんだろう」という問いの根底には「……ができて当たり前だ」という無意識の前提が潜んでいる。
そういう、教師である自分の中の無意識の思考フレームを克服しない限りは、教師の子供観、子どもを見る力は更新していかないのではないか。

「なぜ……ができないんだろう」と考えるよりも「なぜ……をしているんだろう」と考える方が有益だ。
「なぜ……をしているんだろう」と考え、無意識のフレームとか、先入観を極力排除して、目の前の出来事を見るように努めることで、よりリアルな現象に迫ることができる。
(さらに言えば、無意識のフレームとか、先入観を「どうして教師である自分が持ってしまうのか」と自らに問うように務めることで)
そういう一つ一つの現象への見取りを積み重ねていき、そこから考察していくまなざしこそ「質的なものの見方」なのではないか。

2013/11/11

現職教員が大学院で学び直すことの難しさ

現在、現職教員として大学院(M2 修士課程)で学んでいる。
基本的には夜間の授業。仕事を終えた後に大学院に向かう。
どんなに仕事が疲れたときも大学院の授業に出席すると仕事を忘れてリフレッシュできる。
普段の生活では考えもしないようなことが大学院の授業に出ることで学ぶことができるのでとても良い刺激になっている。
ちなみに現在とっている授業の内容は次の通りだ。

・教育社会学(主として社会科)
・言語環境について(国語教育)
・調理文化(家庭科)
・学級経営
・教育心理学
・教科教育についてのオムニバス授業(美術・理科・数学・社会など)
・情報メディア教育
これに、研究室で行われる研究指導が加わる。

大学院の授業に参加して、現職教員が、大学院で自分の専門について学ぶことの難しさを感じている。
現職教員が、ストレートマスターと混じって学ぶことの意義とか価値はもちろんあるだろう。
だけれども、こと、自分がいままでさんざん勉強してきた分野のものであると、大学院での学びがどうしても「物足りなさ」を感じてしまうのは否めない。
大学院の授業は講義というよりもどちらかというとディスカッション形式ものもがほとんどだ。
少人数で話し合う形態の授業は眠くならないし、盛り上がれば楽しい。
しかし、学生と話していて「物足りなさ」をどうしても感じてしまう。
その原因は何なのだろうか?どうすればよいのだろうか。

1、ストレートマスターにとっては、現職教員の実体験やスキルを聞くことに関心があるため、そもそもディスカッションにならない(Q&A形式になってしまう)

2、授業内容や、ディスカッションが、現職教員の実体験やスキルを上回ったり、クリティカルに捕らえなおすような視点までにはなかなかいかない。(お互い遠慮している?)

3、大学教員も、現職教員の知見をひっくり返すようなことよりは、むしろそれを顕彰していて、ストレートマスターに学ぶように仕向けている。

4、現職教員にとっては、自分の「成功談」をドヤ顔で話すカタルシスは得られるかも知れないけど、それ以上の学びがなかなか得られない。

現職教員である私の立場にしてみれば、そういう状況であっても、謙虚に、かつ貪欲にダイアローグして学び取るくらいの構えが必要なんだろう。
しかし、だからといって、どうやってこの現状を打破していければいいか、いまのところよくわかっていない。
ストレートマスターも、現職教員も、大学という学問の府であれば平等だ。(私はそういう感覚で参加している)こちらがドヤ顔で話すものいやだし、学生に「ごもっとも」と感心されるのも本意ではない。
もっともっと自分の現状を否定し、更新していきたいだけなのだ。

2013/11/08

「古典」の価値を見いだし、継承していく「人」を育てる視点としての古典教育のあり方

 中学校三年間の古典学習は、古典に触れ、それを楽しみ、そして親しむステップをたどる。
義務教育の古典学習のゴールは、学習者が、与えられた「古典」を、教師によって決められた解釈に沿って理解するのではなく、自らテキストの価値を見いだし、自分にとっての「古典」(価値あるテキスト)としていくような古典学習のプロセスをたどらせることができれば理想である。
 現在日本に残る「古典」は、何らかのきっかけで、そのテキストを価値あるものとして認めた「人」の存在があったからこそ、時代を超えて継承されてきたものなのである。「古典」の価値を見いだし、継承していく「人」を育てるという観点からも、自らの手でテキストを解釈し、自分なりの観点でその価値を引き出し、その価値を多くの人とともに分かち合うような力を養いたい。

 中学、義務教育で学ぶ古典学習のゴールをどこにおくか、やはり、生涯学習の視点は欠かすことができないできないだろう。 
 古典こそ長い人生で熟成させ、ちびちびと味わえるウィスキーのような存在なのだ。子どもにその味がわからなくても、大人になれば、きっとその味が理解できる時が来る。 だから、最低限、どんなお酒があって、どのような楽しみ方がある。どうすればそれにアクセスできるか、という理解をさせることは必要だろう。 さらには人生で長く味わっていける銘酒をおのおのに持たせることができれば理想的だ。 
 古典の種類、作品名、時代背景と時代の主潮、大まかな内容、古文の読み方(辞書、脚注、ネットなどを駆使し、何とか自力で読める方法を知る)、 心にとめておきたい名文を持ち、ときおりそれを愛でる……。

古典文法をちまちま学ぶことが古典嫌いを量産しているのなら、いっそのこと古典文法には一切触れないで現代語訳などを併用して古典に親しむほうがよっぽど日本人の教養教育としては意義があることだと思う。
ちなみに、これは古典ファンを育てて増やすための方策です。古典のプロを育てるための方策はまた別。



校内研修・校外研修のそれぞれのメリットととるべき視点

教師の力量を高める研修の本来的な矛盾
・誰かが取り組んだすばらしい実践を、この自分ができるわけがない。
(教師の身体性とかキャラクターとかスタイルの壁)
・他の学校(クラス)で通用したすばらしい実践が、この学校(クラス)でできるわけはない。
(生徒の実態が共有できないという壁)
この2つをどのように乗り越えていくかが、研修の課題である。

校内研修のメリット・デメリット
よくとられている方法
校内で教材研究したり、授業を見あったり、特定の生徒について事例研究をしたりする。

メリット
・「生徒の実態が共有できないという壁」がほとんどない。お互いに実態を理解し、共有しているため、同じ生徒を前にした自分の授業や実践に生かしやすい。
・同僚生が高まり、協働意識が生まれる。
デメリット
・すぐれた先生や意欲が高い先生ばかりではない
・同一の教科や専門の先生が少ない
・そのため、学校の実態に即した研修はできるが、視野が狭くなる危険性もある。

校内研修でとるべき視点
生徒の実態を共有しているという強みを最大限に活用すべきだ。
たとえば、私が教えているこの生徒たちを、他の先生はどんなアプローチで攻めるんだろうか?
という視点で学んだり、
私が日々接しているこの生徒たちを、他の先生はどう観察し、どんな良いところを見つけているのだろうか?
という視点で生徒理解を深めたり、生徒の見方を学んだりするのである。

校外研修のメリット・デメリット
よくとられている方法
・講義式で最新の理論や情報を知る伝達型の研修
・優れた実践者の取り組みを知る研修
・自分の実践を振り返ったり、お互いに交流し合う研修

メリット
・いろいろな理論や、すぐれた先生のノウハウを学ぶことができる
・同一の教科や問題意識を持った人と交流することができる
デメリット
・自分の勤務する生徒の実態や、自分が取り組みたい問題意識が、必ずしも他の人と共有されているわけではないから、「どうせうちじゃあ無理だな……」とか「これは今自分には必要ないな」となってしまう
・研修内容が他人事になってしまったり、文科省の伝達講習のような形式的なものになってしまい、リアリティーを欠いてしまう。

校外研修でとるべき視点
・伝達型の研修は必要だろう。しかし、それ以上に必要かつ有効なのは、それぞれの先生方が知恵を集めるワークショップ型の研修だ。
すごい先生のやり方がそのまま自分に通用するとは限らない。
むしろ、いろいろな経験やスタイルやスキルを持った先生方の、いろいろな攻め口を交流し合い、シェアしていくことの方が有益なのではないか。
微細な授業スキル、教育方法、教育理念、そして教育観などを交流し合う場を設定する。
多様なスタイル、手法を交流し合う場を設定できればその中のいくつかは自分にもヒットするだろう。
とともに、自分の実践を他者に言語で表現することを通して、日常の実践をリフレクションする機会が得られるだろう。

生徒の学ぶ意欲を高めている授業とは?

興味付けとか、動機付けとかのために、いろいろなネタを繰り出したり、おもしろおかしく興味を引く取り組みはもちろん大切だろう。それが得意な人はどんどんその持ち味を出していけば良い。
しかし、より本質的なのは、生徒の意欲がそれほどないときでも、そこそこ授業ができるような状態にすることではないのか?
(生徒がつねにベストコンディションなわけではない。誰かとケンカした後だったり、気分が優れなかったり、プールの授業の後だったり??していたら、どうして勉強をする気になるだろう?)
学習意欲を「火」にたとえるならば、常に燃料を補充し、空気を送ってやらないと燃えないような頼りない「火」ではなく、「炭火」のように、多少風が強くても、放っておいても、つねにじりじりと熾き(オキ)が燃え続けるような状態こそが「学ぶ意欲」が高い状態とは言えないだろうか。

教育実習生に見られがちな「個に応じた指導」のジレンマ~私の机間指導論~

個に応じた指導をするための基本は「見る」こと、そして「待つ」ことだ。
実習生に授業をしてもらうと、「見る」「待つ」ということがあまりできていない傾向がある。
自分のペースで、生徒の反応も見ずにがんがん進めてしまったり、課題の内容が生徒に十分伝わっていないのに、それに気づかない状態のこともある。

そんな実習生には、次のように助言をしている。
指示をした後、全員が作業に取りかかっているかどうかを、まずはその場を動かずに、黒板に張り付いて全体の反応を見ること。
全体へのアセスメントができてから個別の指導に入るようにすること。
個別指導は「トリアージ」のように必ず優先順位を考えてすべし。

個別の指導をするためには、まずは全体をよく見て、誰がどのレベルでつまずいているのかをチェックすることが大前提だ。
実習生にありがちなのが、課題を指示した後にすぐに机間指導をはじめてしまうこと。
全体に課題が「入って」いるかどうかを確認せずに、個に向かってしまう。
机間指導にも「トリアージ」のように「救出」する順番がある。
まずは、他の生徒を邪魔する生徒を押さえ、
何をやるか課題内容がよくわかっていない生徒に対して、やるべきことを伝える。
こうして、全員を学習のレールに乗せる。
そのあとで、ちょっとアドバイスすれば自分ですいすいできるような生徒を先に指導してしまい、
最後にかなり指導しないとできるようにならない生徒にたっぷりと支援をする。
能力が高い生徒で、課題をすぐに終わらせた生徒には、発展的な課題を用意しておく。
このように、個を指導する時も、つねに全体とのバランスを考えて行動をしなければいけないのだ。



2013/11/05

「理科離れ」対策のための取り組み試案

問題の所在
そもそも「理科離れ」ってどんな現象?
・大学の理系(理工学部)志望者の割合が減少している。
(大学全入時代だからなあ……中途半端な文系大学は山ほどありそう)

・「理科が好き」「理系の職業に就きたい」という意識が国際的に見て低い。
とくに、小学校段階では理科は楽しいといっている子どもたちも、中学、特に高校入試を控え、暗記中心の勉強になったとたんに嫌いになる生徒が増えるそうだ。(そのへんは何となく私にも実感あり)
各種調査から、この二つの減少は客観的に明らかになっている。

「理科離れ」の根底には、日本の産業構造の変化もある。
日本の高度成長を支えたものづくり、工業化社会から、サービス業や情報産業などのポスト工業化社会へ。(東南アジアなどに移行している)
理系の就職そのものが減ってきている。かつてほど、理系へのインセンティブがはたらかないという点を指摘している人もいる。
国際競争力をつけるために、高度経済成長時代のように、ものづくりで国づくり! 一位じゃなきゃダメなんです! という人たちが言い出したのが「理科離れ」の言説の正体なのだろう。

それでは、理科教育を改善するためにはどのような視点と取り組みが有効なのだろうか?

Ⅱ そのための対策のポイント
「理科離れ」が果たして本当にあるかどうかはおいといて、理科教育のターゲットを次の3つのフェーズでとらえたらどうだろう。
「理系のプロ選手」育成のための理科教育。
「理系のアマチュアプレイヤー」育成のための理科教育。
「理系のファン」育成のための理科教育。

野球で言えば
プロ野球選手と、草野球をしているおじさん、そして球場に行ったりテレビを見たりして野球を応援しいるファンと、この3つの層だ。
ファンやアマチュアの層がプロ選手を支える構造だ。
これは理科に限らず芸術などあらゆる分野で使える視点かもしれない。


理系に対するファン層を拡大しつつ、理系のエキスパート(エンジニア、研究者)を増やしていく取り組みが求められる。
そこで、学校教育段階ではどんな取り組みが可能だろうか?

取り組みⅠ 「科学者」に焦点を当てた「人物科学史」の授業
・科学を進展させた「人」のライフヒストリーと業績をドラマチックに描く。
・科学者の生き方に対するあこがれを喚起する。
・「科学者が目指したものを理解し、それに興味を持った上で、基礎的な科学知識を深めていく。
(「夢の扉」「情熱大陸」のようなドキュメンタリー仕立てで)
「科学者になってみたい!」「科学者ってカッコイイ!」と思ってもらう!

取り組みⅡ 「自然科学入門」
・理科の基礎、基本的な法則を楽しく学ぶことが目的
・科学的なものの見方や思考法を学ぶ。
・そのために、身近で手軽に取り組める実験が中心。
・煩雑な計算や用語の暗記などを極力使わない。
(「すいえんさー」のようなバラエティー仕立てで)

実験例    
  文房具を科学しよう……はさみ、万年筆やボールペンなどの仕組みを学ぶ。
  調理器具で学ぶScience……鍋ややかん、冷蔵庫などを使って楽しく物理実験!
  身近な機械を壊してみよう……時計やテレビ、自動車などを壊して戻す。
    
取り組みⅢ サイエンスSNS「生き字引くん」
・プロとアマチュアをつなぐ、理系「クックパッド」のようなSNS
・私はこれが研究テーマです。
 こんな文献を読んで調べています
 こんな実験結果がでました。などをネットアップし、シェアし合う。
・自分の研究テーマに近い人や、同じ文献を読んでいる研究者を知ることができる。
・たとえば、このSNSがあることで、
 「クワガタなら隣のクラスのあいつに聞け」とか、
 「その研究テーマだったらこんないい資料あるよ」とか、
 「それだったら、こういう実験手法をとるといいよ」というようなコミュニケーションが活性化されていく。(校内、校外に順次拡大していく)
・その研究ネットワークに、プロの研究者や、アマチュア研究家などが関わっていく。
(「Mendeley」のような研究プラットフォームのイメージ)
学校内、学校外で、興味のある人が、興味のあることをとことん追求できるSNSを作成するのだ。


追伸、
科学=自然科学とは限らないはずだ。自然科学、社会科学、人文科学などなど。
科学とは、問いを持って合理的に現象を理解する、という謂だと思う。
そう考えると、学校教育を通して養うべきことの一つは、さまざまな教科の学習を通して「科学的な精神」を身につけることであることは間違いない。(それが学校教育のすべてとまでは言わないが)

科学的な知識を身につけることをもちろん軽視してはいけないけれども、「科学」そのものを体感させるような学習こそ、科学教育の根幹に置くべきものなのだろう。

2013/11/01

理想の「研究授業」の4タイプ 論理・創造・批判・感性

教師の研修の機会として、研究授業を行うことは一般的によく行われていることである。
校内で授業研究をしたり、地域の研究組織で代表として授業をしたり、あるいは、熱心に研究に取り組む学校とか、研究指定などを受けた学校にいる場合は、学校全体が公開研究会を行って授業研究を行う場合もある。
「研究授業」を行うことは、教師にとってどんな意味を持つのだろうか。
日常の授業実践と、質的にどのような点が異なるのだろうか。
私の周りの狭い経験の中に過ぎないが、感じたことを記しておく。

多くの場合「研究授業」とは、学習指導案を精密に書くこととセットである。
研究授業といっても、ただ授業を見せて終わりというわけにはなかなかいかない。
授業を行う前に事前に学習指導案(指導案)をみっちりと検討することになる。
「研究授業=指導案づくり」といっても過言ではない。
指導案を書く前に、教科や学校ごとに研究主題を立てて、その主題を反映させた授業をすることが求められる。
もちろん、現行の学習指導要領や、地域など教育課題を踏まえることも重要なポイントとなる。
そのため、このタイプの研究授業では、次のような労力がそがれることとなる。
・学習指導要領の趣旨に沿った授業だろうか?
・最新の教育理論を反映させたものとなっているだろうか?
・研究主題との関連性はどうか?
・用語などで不明瞭なところはないだろうか? 飛躍や言い過ぎている表現はないだろうか?
・評価規準が曖昧ではないだろうか?
などなど。
このタイプの研究授業で必要な能力は「精密な指導案を書くこと」である。
やや過激な言い方をすれば、いい指導案さえ書ければ、当日の授業が多少ぐだぐだでも「実は指導案ではこうなっていたんです……」と言い逃れができる。
ここでのいい指導案とは、
ねらいとか、学習活動とかがすっきりと筋が通っている。
生徒の実態を的確につかみ、それを文章化している。
研究主題との整合性もぴったりだ。
などの要素を含むものである。

この、「指導案作成重視」の研究授業(あえてこう呼ぶが)の授業者にとってのメリットは、
授業の構造を明確に文章で説明するための論理的な表現力が身につくこと。
学習指導要領の趣旨の理解や、最新の教育課題について、一定の見識を身につけることができること。
などがあげられるだろう。
しかし、デメリットもある。それは、
つじつま合わせの作文能力だけが身について、指導案を実証するアリバイづくりのための授業に意識が向いてしまう。
指導案に縛られて、授業で最も重要な、子どもとの相互作用や、「勘」のようなものが犠牲になる危険性がある。
自由な発想よりも、学習指導要領などで要請されてる事柄に縛られてしまう。
そのため、研究授業の成果が、日常の授業にあまり生かされなくなってしまう。
このような、日常よく見られる研究授業を、A「論理型」研究授業と名付けよう。
感性や自由な発想よりも、指導案の「論理」が優先するという理由である。

わたしはかねてから「指導案検討重視の研究授業」で本当に良いのかという迷いがずっとある。
もっと実践的な授業力を伸ばす研究授業ができないものだろうかとあれこれ頭をひねっている。
そこで、指導案検討重視の研究授業を克服するための研究授業のプランを3つほど提案する。
創造型・批判型・感性型である。
下手な鉄砲も数打ちゃ当たるということばもあるし、3つも代案が出せれば十分だろう!?

B「創造型」研究授業
A「論理型」研究授業ではとらえられない、自由な発想を奨励するために、次のような「創造型」研究授業はどうだろうか?
・指導案は書かず(書いても書かなくても、重視しない)それぞれの自由な発想が発揮されることを奨励する。
・大まかなテーマを決め、それに対する多様なアプローチを模索する。
(たとえば「思考力」とか「読書活動」という大まかなキーワードだけ示し、それについて迫る授業を各自で考えて実践する)
・事前の指導案検討はしない。
・それぞれが授業をしてみて、それを見た参観者が、授業者のどのような発想が感じられたか、どんな気づきが得られたかを交流し合う。(唯一のアプローチを生み出すのではなく、多様な解決策の選択肢を増やすことをねらいとする)

C「批判型」研究授業
現行の学習指導要領や、最新の教育理論を批判的に検討するための研究手法。
次のような流れで行う。
まず、文科省や有名な実践家の授業実践などを校内研究で詳細に検討する。
それらの実践の良いところ、課題を挙げる。
その上で、それとは別のアプローチの授業案を各自で(またはチームで)考える。
批判的に検討するところまでは、校内でがっちりと行い、それへの代案については各自の裁量で取り組むことを求める。
Aの論理型の研究授業では、文科省や有名な実践家の実践をそのまま模倣するパターンが多いが、あえてその問題点を考究し、代案を考えるというスタンスで行う研究である。(相当頭を使うけど、きっといろんな発想が生まれて楽しいかも)

D「感性型」研究授業
授業行為における、論理以前の感性について検討するための研究手法。
やり方は簡単!
とにかく、授業を2人でやってもらうことにする。(同時間、同クラスの授業で)

2人でコラボして授業プランを考える。
指導案は書いても書かなくても良い。
漫才の掛け合いのように相互で役割を決めても決めなくても良い。
ともかく、2人で授業を行う。
T1とT2のようなどちらかが補助の形ではなく、なるべく対等の立場で授業に関われるようにする。
授業をしてみて、お互いが気づいたこと、子どもの見え方を述べ合う。
(2人の授業に対する構えや、見え方を交流するのである)
斎藤喜博の介入授業みたいな感覚?
ジャズのように即興的な対応ができればとても楽しい授業研究になるはずだ。
詳細な打ち合わせなしで行き当たりばったりでやったらいったいどうなるんだろう!
この手探り感、両者の感性や授業観をその場ですりあわせていくことこそが、このタイプの授業研究の趣旨である。

2013/10/14

脇役、チョイ役、悪役図鑑

物語では、主役(主人公)のキャラクターに注目が浴びがちだけど、むしろ脇役、チョイ役、悪役が魅力的な場合もある。
脇役、チョイ役、悪役の存在で、凡庸な主人公が引き立てられるという場合さえある。
そこで、脇役、チョイ役、悪役を集め、それを分析するという読書活動はどうだろうか?
いろいろな物語を読んで、そこに出てくる魅力的な脇役、チョイ役、悪役を紹介する。いくつか集まった段階でカテゴリーわけしてみる。

悪役例)
嫉妬型……映画「アマデウス」のサリエリ
暴君型……「走れメロス」のディオニス
癒やしマスコットキャラクター型…「ブラックジャック」のピノコ
正反対型……同じく「ブラックジャック」のドクターキリコ
などなど。
そして脇役が主人公の「スピンオフ物語」を創って書き替えるのだ。
(『三国志』の曹操を主人公にした「蒼天航路」みたいなやつ)
世間での悪役も、見方を変えれば、実は善人だったりすることもあるしね。

2013/10/07

「畳の上の水練」考

海か、プールか。
「畳の上の水練」という言葉がある。
せめて、大海で泳げるようになるためには、未熟なうちはプールぐらいは用意しておいてあげたい。
しかし、プールが浅すぎても、深すぎてもいけない。
足が届く程度は水をたたえていないと行けない。ある程度の広さも必要だ。
泳ぎを教えることは大切だけど、それと同じくらい、どのようなプールを準備するかと言うことも重要だ。
しかし、えてして海の存在を知らない(もしくは無視して)水練をしようとしてしまう愚に陥ることがよくある。
いきなり海に突き落とそうとしてしまうこともたまにある。
あ、浮き輪かビート板を用意すればいいか。

2013/10/05

ネガティブ考~ニヒリズムとオプティミズム~

自戒を込めていうけれども、ネット上のネガティブな発言は端から見ていてもあまり気持ちのいいものではない。
愚痴とか、クレームとか、文句とか……
ネットにはき出しているご本人は気持ちがいいものかも知れないけれども、端から見ていると、そのご本人の見栄とか、はったりとか、苦しさや切なさが透けて見えるのがなんともやりきれない。
「炎上マーケティング」のように、初めのうちは、第三者として見ていておもしろさも感じていたが、愚痴や悪口ばかり吐いているこの人は、普段いったいどういう言動をしているのだろうか、職場や家庭で上手くいっているのだろうかと、かえって心配になってしまう。(余計なお世話だ)
そしてこっそりお友達を解除させてもらっている。

ニヒリズム(虚無主義)やペシミズム(悲観主義)は、オプティミズム(楽観主義)が根底にあるからこそ共感を得られるのではないか。
その反対に。オプティミズムは、根底にニヒリズムがあるからこそ、すごみを増す。
冷静な省察のない、上っ面で楽観的な扇動句なんてすぐに消費され、飽きられる。
反対に、威勢のいい(だけ)の、ニヒリズムのだだっ子とはあまりおつきあいしたくない。

私があこがれるのは、「知性・認識においてはペシミストであり、意志においてはオプティミスト」なスタイルだ。
自己破壊から創造に向かい、創造が必然的に自己破壊をはらむスタイルだ。
坂口安吾しかり、小林一茶しかり、ビートたけししかり、ニーチェしかり……
「ネガティブ」を「ポジティブ」なストーリーに創り変える、創造的な仕事をこそしていきたい。

2013/09/29

SNS上での「批判」をどう考えるか

SNSで加速する「批判」のコミュニケーション
TwitterもFacebookも、便利で楽しい自己表現のツールだ。
私もずいぶんお世話になっている。
これらのSNSは、ツールによって拡張されたコミュニティーでのコミュニケーションである。人と人との言葉のやりとりであるという本質は変わらない。
しかし、メッセージの受け手の顔や気持ちが分かりづらいため、ときおりトラブルが起きることもある。
面と向かってのやりとりよりもはるかに本音が出やすいので、SNS上での批判の応酬はときにかなり辛辣にエスカレートし、傷つけあってしまうこともある。
かつてだったら、情報を発信できるのはマスコミなど一部の力のあるメディアだけだったのだが、SNSの登場により、誰でも、全世界に向けて好き放題に発信できるようになった。まるで、ゲリラ犯が核兵器を持っているようなもので、普段は隠している悪意やルサンチマンが噴出する可能性だってある。
SNS上で交わしあってしまう「批判」をどう考えればいいのだろうか

「批判」を言いたくなった場合は?
建設的な批判と不毛な批判の違いを弁別すべし。
自己の正当化のために、他者への批判するなら、それは不毛な愚痴となる。
その批判が自己にも向けられている場合は建設的な批判になりうる。
批判は自己破壊、自己更新につながる意思がある時にのみ有効だ。
自己批判をともなう厳しさを持っているか省察すべし。
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、石を投げなさい。」ということだ。

「批判」を受けた場合は?
体力が弱っているときは……
・スルーする
・人は人、わたしはわたしだと思う。
・それで?だから? とつっぱる。

体力がみなぎっているときは……
・反論する
・その人のスタンスを理解する
・なるほど、そういう見方もアリだな、とこっそり同意する
・自分のいたらなさをリフレクションするチャンスととらえる

自分にとってプラスにしていく貪欲さが必要だ。
それができないのならば、沈黙するのが得策だ。

「批判」について、陰山英男さんのTwitterでの発言にはっとさせられた。
以下引用する。。
自由にいろいろな教育をやろうという声は聞こえ、また実行されているが、答えは見えず、変わらない現状への批判ばかり。批判から提起される改革って、私から見れば危ないものが多い。 
なぜそうなるか。実は理由は意外にシンプルだと思う。それは自己の正当化のために批判や愚痴を大量生産してしまうから。「批判や愚痴は言わない。子どもを伸ばす。」人の批判ばかりやっていると何も達成されてないのに何かやれたという錯覚に陥る。でもやがてそのマイナスは倍返しで自分に帰ってくる 
一方、事実は事実に即して動く。大切なのは、みんなの願いを小さくても実現することだ。その知恵はやがて大きなものを生み出す原動力になるはず。その点で、批判はしないが、やたら意見ばかり言わせたり、ディベートなる批判ごっこに力を入れる必要はないと思っている。日本人には似合わない。 
人を批判することは自分が正しいということを前提とする。正しいものは変わってはいけない。つまり、批判する人は変われない。つまり発展しない。
山口小学校はそんな原理で動いていた。そろそろ、現場に帰りたくなった。
もとより、現状を変えようとしている人、新しい提案をしようとしている人は、現状を変えようともせず、新しい提案をしようともしない人から、有形無形の批判にされされるリスクが高いものだ。
それをどのように克服、超克していくか、「批判」の作法を意識するのは必要な心構えだと思う。
あ、もちろん、自分自身が現状を変えようとしているのか、新しい提案をしようとしているのかという自己批判ができていることが前提ですが。


2013/09/23

「技術」と「能力」の違いは?

「技術」はテクニック。何かをするための手段、方法。
「能力」は,技術を使いこなして目的を達成することのできる力のこと。
さらに言えば、漢字などを使えることができるのが「技能」
技能・技術・能力の順に学力の構造があると考えることができる。

例)「読む技術」は、それを使いこなせるようになってはじめて「読む能力」となる。
だから、技術の集合体が能力というわけではない、
技術を目的に応じて操作する力がともなうことで、技術が能力となっていく。

能力を分節化すると技術に近づいてくる。
例)分かりやすい文章を書く能力
→文章の順序を意識する、一文一義、曖昧な表現をしない、主述を対応させる、などなど。

学校での学習の多くは、能力を技術として細分化し、身につけさせることに意を注いでいる。
しかし、細分化された技術を身につけさせることを重視するあまり、そのメタにある、技術を統合する能力に意識が向きにくいというデメリットもある。
手取り足取り教えれば教えるほど、技術は身についても、総体としての技術を統合する能力は身についているのかなあという疑念が常につきまとう。
技術を統合し、意味づけるメタ認知、メタ意識のようなものを意識付けさせる必要があるのではないだろうか。
それこそが知識・技能を「活用」していく能力であると思う。
それら「活用」にいかされる能力を「思考力・判断力・表現力等」と言うのだろうけど、それだと何となく、とても浅いものに思えてしまう。

「能力」を「技術」として分節化して教えることのデメリットは他にもある。
技術は重要な技術とさほど重要でない技術とがある。
たとえば、「一文一義」という言語技術は、あらゆる文章表現において必ず問題となる頻出の技術だ。
また、たとえば「閉じるカギ括弧と句点は同じマスに入れる」という技術?は、まあ知ってても知らなくてもどうでもいい技術ではある。
しかし、技術として取り立てて指導すると、どれも等しく重要に見える錯覚が生まれる。
たとえば、学習指導要領の指導事項は、言うまでも無く複数取り上げられている。が、すべてが等しく重要であるとは絶対に思えない。
しかし、このように複数が並立して取り上げらているので、どれも同じくらいの重要性を持って教える「べきだ」と錯覚してしまう。
(指導事項に取り上げられている)「技術」の重要性を意識することや、それぞれの技術にどのような意味や価値があるかを考えることなど、そこまでを含めて身につけることができて(教えることができて)はじめて能力を育てたということになるのではないだろうか。
ちなみに、技術を統合する基本的な構えのようなものについては、以前次のように書いている。


そこまで言ってしまってなんだけど、自分にはほとんどその自信はない。

放談 教員の資質向上のための方策、4つの方向性

教員の個人的な資質を向上させるための方策として、次の4つの方向性があるだろう。

1、やる気があって能力もある人への手立て
2、やる気はあるけど能力はいまいちの人への手立て
3、やる気は無いけど能力のある人への手立て
4、やる気も能力も無い人への手立て

このうち、一番重点的に取り組むべきものはどれか?
私は2だと思う。
やる気はあるけど能力が伸びていない要因、環境は何なのか? 
それらを分析し、着実に能力を養い、それが生かされるような対策をこそ講じるべきだ。
また、負担を軽くし、少ない負担の中で思う存分に活躍してもらうという方策もあるだろう。
たとえば、初任や経験が浅いうちは担任や主任などの仕事をなるべく与えないとか、小学校であれば担当する学年のサイクルを低・中・高のようにある程度固定し、狭い範囲で存分に教材研究をしてもらうというのはありうる。
自主的な勉強会や研修に気軽に参加できるような環境を作ることも必要だろう。
(出張をとって他校の授業を見に行くことができるとか、長期研修の機会を与えるとか)
一番力がつくのは、力のある先生にジプシーのようにくっついて学び、自分でも実践していくという方法だ。インターンの研修医制度みたいなものだ。
→このジプシー法については以前こちらに書いた

つぎに、3だろう。高い能力を持っているのだから、あとはやる気が生まれるような環境や条件を設定することが必要だ。
やる気が生まれない原因が何かによっても異なるけれども、一番の原因は、能力を持っていても評価されなかったり、お互いに足を引っ張り合ってしまうところにある気がする。
3については、やる気が生まれるように、校務分掌などで、その人の専門性を生かしたものにするようにしたり、自由度をあげることがよいかもしれない。
大学だったら科研費のような研究費を与えるとか、サバティカル休暇を与えるとかの方策があるけど、学校でどこまでそれができるか、やって効果があるかどうかはちょっとわからない。

1は、あるていどは放っておいても伸びていくものだろう??
むしろ1に照準を当てた対策(教員全員が能力もあり、やる気もあるはずだと見込んでのあれやこれやの対策)をするならば、悲惨な状況になるだろう。4も同じ。

つまり何が言いたいかというと、教員全員が能力が高いわけでも無いし、やる気に満ちあふれているわけでもないと言うこと。
人生で何よりも教職の仕事が重要という人もいるし、そこそこ仕事をして生活さえ出切ればという人だっている。どっちのタイプがいてもいい、多様であるべきだとさえ思う。
だから、それぞれの適性とか意志を生かすような、複線的な研修とか環境が設定されているということが重要なのだと思う。



2013/09/22

授業での対話を球技にたとえてみる

ピンポン型授業
教師と生徒が向かい合って激しくラリーするイメージ

ビリヤード型授業
教師の打ち出した球が、壁やいろいろな球に当たって影響し合うイメージ

サッカー型授業
サッカーのパス回しのように、協働でゴールに向かっていくイメージ

ボーリング型授業
教師が投げた玉で子どもが倒れていくイメージ??

研究と実践の四則計算

研究と実践を四則計算であらわしてみる。

引き算
研究は引き算で
研究は、複雑な事象の中から、あらゆる要素をコントロールし、課題を絞り込むことでよりシャープなものになる。
よい研究にしたいのならば、すべからく引き算で研究すべし。

実践はかけ算で
実践は、逆にあらゆる要素が相互に影響し合う。その相互の影響関係を戦略的に組み合わせることが肝要である。
よい実践は、さまざまな要素の相乗効果から生まれると知るべし。

評価は足し算で
教育効果の検証、評価はよい点、前向きな点に着目する方が教育的だ。
減点法ではなく、加点法のほうが豊かな現象を捉えることができる。評価は足し算のほうがよい。

実践の共有は割り算で
教育実践は独占するものではない。多くの人に取り入れられ、試行されることで淘汰、向上していく。
教育実践を前進させるためには、多くの実践家と成果を分かち合っていく寛大さが不可欠だ。

よい授業とは何か、シンプルに考えてみる。

よい授業とは何か、シンプルに考えてみる。

目の前に跳び箱がある。
これを自分で跳べるようにするのがよい授業。
自分で跳べるようにするには、
低い跳び箱からだんだんと段を高くしていったり、
飛ぶときの姿勢や助走などについてポイントを示したり、
何度も練習させ、失敗から学ばせたり、
できるようになるまで励ましたり、
そういうふうに支援するものではないだろうか。

悪い授業とは……
教師が子どもを持ち上げて跳べるふりをさせている授業がある。
教師が跳んでいるだけの授業もある。
そもそも跳び箱がない授業もある。
跳び箱があっても低すぎる授業もある。
跳び箱を置いておいて、好きに跳んでいいよ、とほったらかしにしている授業もある。

授業をつくるときは
この授業での「跳び箱」は何か?
それを跳べるようにするにはどうすればいいか?
をシンプルに考えればよいのだろう。

2013/09/16

探求的学習を支えるSNSプログラム! 名付けて「生き字引くん」企画案

メンデレイという論文の作成を支援する画期的なソフトがある。
主に学生が論文を書く際のソフトなのだが、便利らしいけど英語だったりするのでいまいち使いこなせてない。

これ、将来的には小中学生でもつかえるようなソフトができてくれないだろうか。
もし私がメンデレイの小中学校版ソフトを開発するとしたら……
探求的学習を支えるSNSプログラム! 
名付けて「生き字引くん」でどうだ!

・調べ学習をする際に、読んだ本やサイトを即座にクラウド上でリスト化できる。
(インターネットのサイトはすぐに更新されるので、ネットを開いた時点でのページを保存できるような機能があるといいな。本も学校図書館のデータベースやカーリルなどとつながっているとなおよし)

・誰がどんなテーマを調べているかが共有できる。
→テーマとか、プロットとか。こういう情報がシェアできるとかなりいいモデルとなる。
もちろん上級生や卒業した先輩がとりくんだテーマやプロットなどが分かるのもいい。

・似たテーマを取り上げている人が、どんな本やサイトを見ているか共有できる。
→これがリアルな参考文献一覧になる。
参考文献ごとに役立った度などを★で示したり。
誰が、どんな分野の「生き字引」かが分かる。

・分からないことがあったら、その「生き字引」くんのところに行って聞く。
・または、研究内容についてコメントを書き込んだり、資料をシェアし合うこともできる。

これいいかも!
誰か作って!

2013/09/10

「読む」という言葉をなるべく使わない方が、「読むこと」の指導は精緻になる。

ある「読むこと」の学習指導案検討で感じたこと
今日は市内の国語科の先生方が集まって研修会が行われた。
10月に行われる研究授業の指導案の検討である。
今回の研究授業は、説明文の「詠むこと」の学習と言うことだ。
単元名は「必要な情報をまとめよう~暮らしと自然のつながりについて~」中1の授業である。
以下詳細。読むのは面倒な人は飛ばしてください。

単元の概要 
単元の目標
・関心意欲態度
他者の意見を参考にしながら、自分なりの表現を工夫しようとする。
・読むこと
目的に合った情報を集め、必要に応じた情報を読み取ることができる。
・伝統的な言語文化と言語の特質に関する事項
聞き手に分かりやすく説明するために語句を選び、表現を豊かにすることができる。

単元の指導計画
1時
教科書本文を通読し、感想を述べる。
2時
本文の構成を考え、内容の理解に役立てる。
本文を大きく二つにわけ、各段落に小見出しをつける。
3~6時
「自分たちの暮らしと自然とのつながり」について調べたいテーマを決定する。
決定したテーマについて本やインターネットを活用し情報を集める。
集めた情報をまとめ、構成や図表の書き方を考える。
7時(本時)
テーマに沿ってまとめた原稿をグループで読み合い、アドバイスや改善点を記入し、評価し合う。
話し合ってで高い全店やアドバイスを参考にし、まとめた原稿を清書する。
8時
自分の決めたテーマについて各自発表する。

この指導案を読んで何を感じたかというと、「読むこと」の指導はつくづく難しいなあと言うことだ。
「読むこと」は目には見えない。だから、力がついているかどうかはなかなか分からない。
そのため、さまざまな、書いたり、話したりという言語活動を通して読む力を高める授業が行われるのが一般的だ。(要約したり、レポートにまとめたり、教師の発問の答えたり)
特に、研究授業ともなれば、教師の一方的な発問やワークシートに読み取ったことを答えていくような授業はなかなか許されないだろうから、上記の指導案のように、レポートのようなものを書かせて、主体的な姿を見せて、「読むこと」を指導した「こと」にしてしまう。

上記の指導案にはいろいろな問題がある。
まず、問題点の一つ目は、教科書を「読む」活動と、レポートを「書く」活動がほとんど関連していないと言うことだ。
はっきり言って、最初の2時間をやらなくても授業として成立する。
さらに言えば、後半のレポートを書く学習を通して、教科書本文の読み込みが深くなるわけでもなさそうだ。つまり前半の内容を「読むこと」として生かされていない単元である。
「読むこと」の学習を何とか苦し紛れに研究授業にしようとでっちあげた魂胆が透けて見えてしまうのだ。
いっそのこと2時までで切り上げてシンプルな「読むこと」の授業にしてしまうか、3時以降から授業をしてレポートを「書くこと」の授業にしてしまった方がよっぽどましだ。

問題点の二つ目は、上記の指導案からは、どのような「読む力」が高まっているのか分からないという点だ。
この授業のどの場面で、どんな「読む力」が育っているのだろうか。その「読む能力」の押さえが、この展開からは分からない。読ませっぱなしの授業になってしまう危険性が感じられるのだ。

広がる「読む力」
そもそも「読む力」にはどのようなものがあるのだろうか。
自分が学習者として子ども時代教わってきた「読む力」とは、
・書かれていることを正確に理解すること であった。
また、文学的文章などでは、
・書いてあることをもとに想像すること も、読む力として育てられてきた。
この「文章理解としての読み取り力」が従来より「読解力」とされ、大切に指導されてきた。入試で問われる問題はこの種の読解力である。これは。だれも異論がないだろう。
この従来型の読む力は、今度とも「読むこと」のなかで大切にされなければいけない力であることは言うまでもないことだ。
しかし、「PISA型読解力」という新たな〈もはや古い?)「読解力」が登場し、従来の「読解力」に加えた要素も「読むこと」として指導されるようになってきた。
つまり、
・情報を正確に取り出して理解するだけではなく、
・情報をもとに、自分の頭で考えて、さまざまな文脈から解釈したり
・さらに、その情報をもとにして自分の考えを豊かにしていったり、
・自分の目的達成や、その表現のために、情報を活用するような読み方
も読む力として求められるようになってきたのである。
いわば、受動的な「読まされている」状態から、主体的に読んで,情報を生かすことへの転換である。
さらには、探求的学習やメディアリテラシーの視点から「情報活用としての読む力」も要請されるようになってきた。
自分の考えを構築するための「調べるスキル」も読むことの重要な指導内容である。
さらにさらに言えば、読書生活を豊かにするという視点での読書指導も、広義の「読む力」に入ることだろう。選書やレビューを読む力などである。

「読む」という言葉を使わないと……
何が言いたいかというと,「読む力」とひと言で言っても、上記のようにありとあらゆることが「読む力」として取り上げることができてしまうので、いっそのこと「読む」という言葉をなるべく使わないようにしたらどうかということなのだ。
「読む」という言葉を使わないで、よりぴったりした別の言葉に言い換えた方が、もっと「読むこと」の能力が具体化され、実効性のあるものとなるのではないかと言うことなのだ。

「読む」「調べる」のような曖昧な言葉をいったん封印して、より具体的な表現に言い換えてみる。
たとえば、次のように言い換えてみたらどうだろうか。

教科書本文を読む
→教科書の文章の大まかを理解し、文章からさらに調べたいことを書き出す。

本やインターネットを活用し、情報を集める
→これには、次のような学習活動、情報探索と活用の行動が含まれる。
テーマを決める、
テーマについてどんな情報が必要か考える
どんな情報収集手段(インターネット、図書館など)があるか検討する
情報収集手段に応じて、どんな情報が集められそうか見通しを立てる。
本の背表紙やインターネットのタイトルを見て、目的にかなった情報かどうか判断する。
調べる目的に沿って、情報を取り出す箇所を決める。
適切な量の情報を取り出し、出典などを明記してカードに書き出す。
集まったカードをもとに、レポートの構成を組み立てる。
集まった情報を適切に引用しつつレポートを書く。
レポートを書いたものをもとに、情報が適切に活用されているかどうかお互いに評価し合う。

上記にはどこにも「読む」とい言葉は使われていない。
しかしそのどれもが「読む力」につながる活動となっている。
「読む」「調べる」と、安易にひと言で言ってしまうから、焦点が曖昧になり、教師も視点がぼけ、読ませただけ、書かせただけの活動になってしまう。
この指導案の授業でいえば「読むこと」は、情報活用のプロセスを取り上げている。
だから、情報活用のプロセス一つ一つが「読む力」につながっていくのである。
たとえば、「情報収集手段を検討する」という学習も、(何も読んではいないけれど)、重要な「読む」(情報活用の)プロセスに位置づけられる学習内容なのである。

もちろん、「読む」という言葉を使うな、ということは説明文の学習だけにとどまらない。
文学でも、詩歌でも、なんでも全く同じだ。
※たとえば、以前、本ブログで短歌を「読む」ことについては以下のように分析している。

短歌の理解レベル(言葉として書かれていることを理解する)
1、短歌の意味の区切りを意識して音読できる
2、言葉の意味がわかる
3、文脈がとらえられる
4、短歌の言葉の韻律が味わえる
5、短歌の修辞の効果や約束事がわかる
6、その短歌が踏まえている歴史や伝統がわかる
短歌の想像レベル(言葉で書かれていない短歌の世界を想像する)
7、短歌がえがいている世界が理解できる
8、短歌がえがいている世界がイメージでき、さらにそれから発展してストーリーが想像できる
短歌の批評レベル(短歌の美醜などを判断できる)
9、(他の短歌などと比較して)この歌の価値を説明できる

「短歌を読みとる」とひと言で言ってしまうのではなく、「短歌の区切りが分かる」のように、具体的に「読む行為」を分析をするからこそ、学習が焦点化されるのだ。

「読む」学習の中に、生徒のどのような「読む行為」が含まれているのか、どんな「読む能力」や「情報活用能力」が含まれているのか、それを一つ一つ検討していくことは,目に見えにくい「読む力」を取り出して指導するためには不可欠な視点だと思う。
「読む」という言葉をなるべく使わない方が、「読むこと」の指導は精緻になる。
「読むこと」の学習をデザインする際には、この学習活動では「読む」ことを、どんな言い換えができるか考えてみるといいと思う。



2013/09/09

今の子供たちが理想と感じている社会が、いつかは現実になる。

私の父の世代(団塊の世代ね)は、東京オリンピック、1960年代、まさに青春の真っ盛りであった。オリンピックと聞けば、脳裏には高度成長時代のサクセスストーリーが即座によみがえってくるらしい。
新幹線
高速道路
三種の神器(テレビ、洗濯機、冷蔵庫)に代表される消費文化
などなど。
しかし、そんな成長神話など、もはや日本のどこにもない。
それどころか、震災、原発問題や少子高齢化問題、出口のない不況など、あらゆる分野が不透明であり、不確実なことだけは確実なところだ。
昭和東京オリンピックのような「勝ちパターン」を追い求める限り、日本の実情や世界の情勢とますます乖離した、まるで日テレの24時間テレビのような、うそうそしい空騒ぎになってしまうことだろう。

正直に言えば、私自身はオリンピックそのものには、それほどの思い入れはない。(もっと本音を言えば、5回連続立候補していたイスタンブールをちょっと応援さえしていた)
……そもそも、オリンピックというシステムそのものにも言いたいことはある。
子供の頃、疑問に思ったことがある。
それは、世界最速のリレー記録を計りたいのに、なぜチームが国単位なのか?ということだ。
一番早いアスリート同士でチームを作って、計ればいいじゃん!
と感じたのだ。
後にわかったことだけど、近代オリンピックの発祥は「国民国家」の成立と軌を一にしている。
だからこそ、「国家」間の戦争やいざこざがが一番激しい時代に、オリンピックが一番栄えているのだ。(だから、「国家」というくくりが難しい地域は別チームで出たりすることもある)
いつか、「国家」という枠組みそのものが問い直される時代が来たら、オリンピックそのものが消滅するか、また新たな形に変容することだろう。

…閑話休題…

オリンピックの是非はともかくとして、東京にオリンピックが招致され、2020年というゴールが設定されたことそのものは、日本にとって少なからぬインパクトとが与えられたことと思うし、これを一つのチャンスにして欲しいと思っている。

7年後、どのような世の中になっているだろうか。
今、私が目の前で教えている子供たちは、2020年には20歳、成人を迎える。
ということは、まさに、今教えている子供たちが理想と感じている社会が、七年後には日本の理想としてとらえられているということになる。

子供たちに、2020年、7年後をイメージしてもらった。
そうしたら、彼ら彼女らの多くが、将来、ボランティアをしてオリンピックに参加してみたいと言っていた。
また、多くの子供たちが、福島をはじめとする被災地を案じ、被災地のために何か力になりたいとも言っていた。
ほとんどの子供たちは、新幹線や、テレビや、高速道路を望んでいないことだけは確かだ。

私は、これから「7年後」に向けて、社会を生きるためには、さまざまな分野で、3つの条件が必要であると考えている。
・参加するということ(全員が傍観者にならず、コミットすると言うこと)
・つながりあうということ(ネットワークを広げて、世界を拡大していくと言うこと)
・分かち合うということ(コミュニティーの中で互いに生かされると言うこと)
そしてその3つの条件の前提となるのが、
・「個」が大切にされ、違いを認め合うこと
であると考えている。

オリンピックという舞台、それに向けて進む日本という社会が、その3つを生かすものであって欲しいなあと夢想している。

2013/09/07

「子どもを信じている」と軽々しく言えちゃう人は

「子どもを信じている」と軽々しく言えちゃう人は、往々にして「教師の思い通りになることを信じる」という前提に気づかない。
教師である自分自身を疑うことをしないで、どうして子どもを信じることができようか。
自分自身をどこまでも疑い、試行錯誤し、ドタバタし、それでも何とかしようとする人こそ、そう言ってもいい資格があるような気がする。

2013/09/05

「子どもを信じればいいんですよ」

まだ私が若かった頃、地域の研修会での出来事。
当時は自分の腕も未熟で、授業を成立させることもおぼつかないくらいの毎日だった。
それでも何とか良い授業を作りたいと思って試行錯誤していた。
そんな暗中模索、五里霧中の中で、少しでもヒントを得ようと思って参加したのがこの研修会だったのだ。

壇上に上がったのは四〇代くらいのベテランの先生。
その先生は、いかにも楽しそうな取り組みの授業を紹介していた
紙芝居、ペープサート、朗読劇、絵本づくり、など、それぞれの子どもたちが、各自で選んだ表現活動で、文学の作品世界を味わう実践である。
こんな大胆な授業をしている先生がいることが驚きだった。興奮してしまった。
そして、やむにやまれず、こんな失礼な質問をしてしまったのだ。
「先生の授業はとても楽しそうな授業だと思いました。
ですが、もし私がこの授業をしたら、子どもたちが遊んでしまうような気がします。
勝手なことをしだして授業にならないような気がするんです。
生徒が遊んでしまわないようにするためには、どうすればいいんでしょうか?」
わらをもつかむ思いでした質問だった。

壇上の先生、落ち着き払って、穏やかな表情で、実に明快に、ひと言、こう答えた。
「それは子どもを信じればいいんですよ」

私は、質問したことを恥じ、そして二の句もつげずに席に座った。
何かいいようのないもやもやした気持ちを持ったことは確かだった。
その研修会を終えたあと、私は心に誓った。
自分は、絶対に「子どもを信じればいいんですよ」とは言わない教師になろうと。

……それから十何年、私もそろそろベテランと呼ばれてもいい年齢の教師になりつつある。
もし、いま、若手の先生に、同じような質問をされたらどう答えるだろう。
きっと、こう答えるだろう。
「それだったらまず……という手を打つことかな。
……に配慮して、……するようにさせて、……を準備しておけばいいかもしれないね。
それでもだめだったら……してみたらどうだろうか。
いっそのこと……なんかは……」
あらゆる可能性を想定する。
できること、できないことを一つ一つつぶしていく。
考えなければいけないこと、準備しておくといいことをリストアップする。
そこまで考えに考え尽くして、はじめて言うだろう。
「あとは、子どもを信じればいいんですよ」と。

いまでは、あのときの研修会で出会った先生に感謝している。

2013/09/04

文法はひとつの体系に過ぎない。だから、体系とともに、実際の言語運用の姿もイメージさせるべきだ。

文法の授業では、はじめに学習用語を何度も復唱し、暗記させるようにしている。
主語述語修飾語接続語独立語。連体修飾語連用修飾語、体言と用言、などなど。
まず、前提として、学習用語に慣れていることが重要だ。
学習用語が入っていないと説明をしても理解できない。
まずは用語として頭に叩き込んで、しかるのちに体系を理解させるのだ。
一個一個、小出しに丁寧に教えるよりも、体系を提示してから各論に進んだ方が文法は理解しやすいと思う。

教科書に出ている文法は「法則、体系」である。
実際の日本語の振る舞いがイメージしやすくできているものとは限らない。
だから、「法則、体系」を教えるとともに、文法で習っていることが、実際の言語運用ではどのようになっているかを教師が伝えてあげることが重要だと思う。
たとえば、文の成分(主語・述語・修飾語・接続語・独立語)は、五つの用語として分類され、説明されている。
教科書でこの五つが取り上げられていると、どうしても、この五つが同じくらいの比率で出現するような錯覚を与えてしまう。しかし、実際は決してそんなことはない。
そこで、次のように、実際の言語運用の姿もあわせて伝えるのだ。
主語・述語・修飾語の三つの文の成分で、ほとんどの文節がカバーできてしまうこと。
日本語の会話文では、主語がない文さえ多いということ。
日本語の文章では、述語がほぼ99.9%文末にくること。
五つの文の成分で、修飾語が最も多く使われていること。
このような、実際の言語運用の様子を、法則と合わせてしっかりと伝えることが重要である。
これは子どもたちにとっても、文法を実際の言語運用に当てはめていくときの手引きにもなる。

やぶれかぶれ型実践研究

こんな研究方法はおおっぴらにオススメするものではないけれども、一つの方法としてご紹介したい。それは「やぶれかぶれ型実践研究」である。

私みたいな、がさつで飽きっぽく、移り気な人間にとって、実際の授業は、結構その時々の思いつきで行われることが多い。
もちろん、年間で教えるべき内容は決まっている。
トレーニングのステップもあるていどは押さえられている。
しかし、実際に授業をする段になれば、そのときどきで新しいことに取り組んでみたいという欲求が出てきたり、新たな課題が生まれたり、生徒の実態を見て変えていくことが余儀なくされるケースがほとんどだ。
だから、計画は計画として持っておきながら、授業内容は、時々の状況に応じて、かなりの幅や柔軟性を持たせて実践しているというのが実際のところだ。
そのへんが、他の教科にはあまりない、らせん状のカリキュラムとしての国語科のメリットでもあると思っている。

さて、「やぶれかぶれ型実践研究」である。
これは表現はあまりよろしくないが、実戦的な研究方法でもある。
それは、
1、研究仮設や研究計画などを立てずに
2,とりあえず実践してきたものをリストアップし
3,そのよかったところやまずかったところを分析し
4、いくつかの授業づくりの視点を提示する
(授業づくりの視点とは、たとえば、書くことの授業で大切にしていることとか、重点を置くポイント、陥りがちなミスなど、実際の授業づくりで活用できるコツやポイント、姿勢や心構えなどの指針も含む)
という方法である。
いわば、帰納的な方法で実践をふりかえり、それをまとめていく研究方法だ。
もっとも、こんなものを研究と名乗るだけおこがましいような気がするけれども、事前の準備がいらないので誰でも気軽に取り組めるメリットがある。それでいて上手く視点としてまとめることができれば、自分のためにもなる、お得な方法でもある。
計画性もなく、いい加減に取り組んだ実践なんかまとめられるのか?と思うかもしれないけど、「いいかげん」というところが実はキモだったりもする。
というのは、「いいかげん」に、無意識に集められ、まとめられた複数の実践群には、無意識のこだわりなり、課題意識が必ずどこかに共通してあるものなのだ。
複数の実践をとにかく並べてみる。そうすると「なにか」が浮かび上がってくる。それが、なかなかに面白い発見があったりするものなのだ。
実践内容をカードに書き出してもいいし、ワープロなどの文章に起こしてもいい。
リストアップしてそれをじっと眺めるだけで、両者の関係性が浮かび上がって見えてくる。
その成果や課題、反省点や到達点をくくりだし、次のステップにつなげていく。
それを続けていくことが自分の実践の糧になっていく。
カリスマ教師でない限り、平凡な教師ができる実践なんてたかが知れている。やれることも相当に偏りがあるのが実際のところだ。私の実践には、こだわり、思い、限界、そういうもろもろが絡み合って一つの授業が構成されている。「やぶれかぶれ型実践研究」では、その無意識の限界やこだわりをこそ大切にし、抽出することを目的にしている。
この研究は誰のためでもない、私自身の向上にとって必要な研究方法である。

2013/09/02

職場にもう紙はいらない

職場では、職員間で、さまざまな用件を連絡するさいに紙が飛び交う。
・卒業アルバムの写真撮影の時間。
・授業振り替えの連絡
・飲み会の会場
などなど
もちろん、毎週の予定(週報)や月行事予定、職員会議録なども紙媒体だ。

私は整理下手なので、いっそのこと全部電子データで配布してくれたらいいのにな……と思っている。
本校では職員にデスクトップのパソコンが貸与されている。
もちろん、校務文書はLANで共有できる仕組みになっている。
1人1人に職場からメールアドレスをもらい、メーリングリストで全職員に一斉連絡できる仕組みも揃っている。
だったら、大概の連絡文書はメールで十分ではないか?
校務文書はLANで共有すればいいではないか。
メールなどの電子データだったら、紙を紛失する心配はいらない。
検索すれば何十年も昔の文書もすぐによみがえる。
もちろん、自宅からだって文書を確認することが可能だ。
セキュリティーの心配のいらない書類はどんどん電子化すべきではないか。

ああ、予定表も本当はグーグルカレンダーとかにして欲しいんだけどなあ。

2013/08/31

子ども同士で教えあう学習スタイルについての素朴な疑問~教えることと学びはセットなのか?~

授業の中で教師と生徒のコミュニケーションだけでなく、子ども同士でコミュニケーションをして、ともに学び合うことがたいせつであることは誰もが否定しないだろう。
私も、単元の中で生徒がお互いにコミュニケーションをとりあって学ぶ機会をできるだけたくさん取り入れたい思っているし、そうすべきだともおもっている。

しかし、「子ども同志が教えあう」スタイルの交流については、学習効果の面で素朴な疑問がある。
一番の疑問は「教えないこと」を選びにくいという点だ。
「みんなで教えあおう!」と教師が指示したとする。
素直な子どもたちならば、そこで、お互いに教えあって学んでいく。
しかし、「学ぶこと」は必ず「教えること」とセットなのだろうか?
「教えなくても学んでいく」ことはないのか? 教えることが学ぶことをスポイルし、学んだつもりにさせてしまうということにはならないだろうか?

※ここでの「教えること」を定義すると、答えにいたる視点やヒントを出したり、答えについての根拠などを説明することとする。

もちろん、オールオアナッシングではない。教え合うスタイルの学習活動が、ある時には有効、ある時には不要ということが言いたいだけだ。

国語科の学習活動、とくに言語活動を通した学習活動においては、子どもが自分なりに創意工夫し、試行錯誤しながら言語活動に取り組んでいくことが重要だと思う。
つまり、自転車に乗る練習のように、まずは自転車に乗ってみて、転びながら上手に運転する技能をマスターしていくというスタイルの「学び」である。
作文を書く技能を身につけるためには、なによりも書くことによって、読む力をつけるにはなによりも読むことそのものによって、能力が高まっていく。
このような「活動を通した学び」においては、答えにいたる視点やヒントを出したり、答えについての根拠などを説明することは必ずしも有効とは限らない。
「答え」というものがそもそもない場合がある。それに「答え」とか「やり方」を教わったとしても、それができるようになるかどうかは別問題だ。
作文の書き方を1年間教えられても、作文が上手に書けるようになるとは限らない。
文章の読み方を教えられても、それで読めるようになるとは限らない。
実際に文章を書き、文章を読む、その創意工夫と試行錯誤の繰り返しの中に、国語における「学び」があるからだ。
創意工夫と試行錯誤を促進させるための「教え合い」であれば有効だろう。(たとえば感じたことをフィードバックしたり、多様な考えを交流したり)
しかし、もし「教え合うこと」が目的になってしまったら、個の「学び」がないがしろにされる危険性はないのだろうか?
じっくりと考えたいのに思考が邪魔されたり、粘り強く問題を解決したいのにそれが他者によって中断させられたり、失敗したり練習するための時間が十分にとれなかったり。

他者が教えないこと、放っておくことも「学び」においては実は重要だったりする。
学ぶ環境、「場」さえ整えれば、教え合ったりしなくても、ひとりでに学んでいくと言うこともある。
「教えること」は必ずしも「学び」とセットではないのではないか。

読書活動における三類型とその課題~給食型活動とお弁当型活動、そして立食パーティー型活動~

読書活動における三類型、給食型活動とお弁当型活動、そして立食パーティー型活動。
読書活動、読書指導は、子どもがどのようにして本に手を伸ばすかという点に着目すると、次の三つにタイプに分けることができる。
給食型活動とお弁当型活動、そして立食パーティー型活動である。

給食型の活動とは、全員が同じものを食べる。つまり、同じテキストを読んで学ぶスタイルの学習。教科書教材を取り上げた授業、読書活動における「集団読書」がこれに当たる。
一方、それぞれがテキストを持ち寄って、お気に入りの本を読んだり、交流し合うタイプの授業は、いわばお弁当型の読書活動。
さらには、教師が魅力的な本のラインナップを用意して、それを子どもたちの主体性に任せて取り分けさせるスタイルの読書活動は、言ってみれば、立食パーティー型の読書活動ということになるか。

給食型読書活動の課題
給食型読書活動とは、古くは集団読書、最近ではリーディングワークショップ、リテラチャーサークル、ブッククラブなどの読書会、読書へのアニマシオンなどの読書ゲーム、さらには教師によるブックトークや読み聞かせも、広い意味でとらえればこのカテゴリーにはまりそうだ。(しかし、現状では十分な授業時間が確保できないためか、中学校において集団読書的な取り組みはほとんど行われていないのが現状だろう)
学校で取り組まれる給食は、そもそも貧富の差に関係なくバランスのとれた食事をとらせることが目的だったと聞く、
現在、その給食の位置づけも変化しつつある。
ほとんどの家庭では食べるものには困らなくなった。だがら、栄養をとらせるということももちろんあるが、それ以上に良好な食習慣を形成したり、食のありかた、意義を学ぶ機会としての「食育」として位置づけである。
「給食型読書活動」のあり方のヒントは、実は「食育」にあるのではないか。バランスのよい栄養をとるということだけでなく、日常の読書生活をふりかえり、読書の習慣を形成したり、読書の意義を考えてみる機会としての読書活動である。
そもそも、日常の食生活と最もかけ離れた食事が「給食」だ。日常の読書生活ともっともかけ離れた読書が「集団読書」でもある。好きな本を好きなように読ませずに、全員が同じ本を、同じ読むスピードで、同じ読み方をして読む。そのような「不自然」な読書活動であるからこそ、教師は日常の読書生活との関連性を意識することが必要だし、その不自然な読書活動と、日常の読書とを対置させる意義も生まれるのである。
日常の読書生活との連続性をどのように考えるかが、給食型読書活動の課題であろう。

お弁当型読書活動
お弁当型の読書活動の基本は、自分で本を用意してくるところにある。(もちろん、本は自分で買っても、図書館で借りてもよい)
たとえば、朝読書や好きな本の紹介、推薦などの読書活動がこれに当たる。
さらには自分が選んだ本の読書感想文、読書感想画に取り組んだり、ポスター、ポップづくりなどの表現につなげていくスタイルの読書活動も、お弁当型の読書活動のスタイルをとるものが多いだろう。
好きな本を選んで活動をすることは、子どもの主体的な意欲を尊重するという意味では意義のあることだろう。好きな本がある生徒はきっと進んで学習にも取り組むだろう。
しかし、読書の習慣がほとんどなく、好きな本が見当たらない生徒にとっては「好きな本を」という自由が制約になることもある。それで、好きな本がない生徒、読書の意欲がそれほど高くない生徒は、仕方なく、図書館にある本(で簡単に読めそうなもの)を適当にとって形にしようとする。
いやいや紹介したり、仕方なく選んだ本では、せっかくの読書活動が十分に魅力的なものにすることができない。
読書が嫌いなのは、言い換えれば、自分を虜にするような魅力的な本にまだ出会えていないということだろう。そんな本に出会えるように、特にお弁当型の読書活動では、個に応じた選書の配慮を意識したい。そのときに有効なのが、いうまでのない、交流だ。
私たちはどのようなきっかけで魅力的な本に出会うだろう。それは、知人の紹介だったり、Amazonのレビューだったり、本を読んでいくうちに芋づる式に関連する本に手を伸ばしたりとさまざまだ。
そのような口コミや「キュレーション」の機能を十分に活用して魅力的な本に出会える場を設定することが有効だろう。
お弁当型の読書活動の課題は、選書と交流であろう。


立食パーティー型の読書活動
立食パーティーでは、パーティーの開催者が会場に料理を並べ、それを自由にとりわけさせる。これを読書活動になぞらえると、教師が並べた本を子どもたちが自分の興味関心に応じて本に手を伸ばし、それを読んでいくスタイルの読書活動になる。
テーマ読書等の取り組みで重要なのは、どのような読書活動の枠組みを作るかと言うことだ。
どのような本を教師がチョイスし、それをどのような切り口で子どもたちに選ばせ、さらにはどのような読み方の技能を活用させるかという点だろう。
この枠組みやねらいがしっかりしていればいるほど、教師のねらいに沿った効果的な読書活動になる。しかし、ねらいがぼやけ、資料の準備も不十分なものであれば、効果的な読書活動とすることができない。
ざっくりと言って、読書活動のねらいには、読書意欲を喚起させることをねらうのか(興味付け)、読書技能を高めるための活動なのか(読書技能の育成)、あるいは、そのテーに対する理解を深めることを目的とするのか(内容理解)、この3点のどれかに重点をあてた活動になるものと思われる。(もちろん両者は緊密に関連し合う)
さらに、読書活動をデザインする際には、どのようなねらいで、どんな本を用意し、それをどのように読ませるか、どんな学習活動や環境を用意するかという視点が重要になる。
立食ペーティー型は給食型に比べて子どもの自由度があるため主体的に読書に取り組めるというメリットがある。また、お弁当型に比べて教師が活動をコントロールしやすいことも利点である。それらの利点を生かした読書活動にするために、立食パーティー型の読書活動では、とくに緻密に学習をデザインすることが求められる。
立食パーティー型の読書活動の課題は、ねらいを明確にした授業デザインにあるだろう。

「じたばた」型実践記録を書いてみたい。

「じたばた」型実践記録を書いてみたい。
一つの単元の開発には、無数の試行錯誤、紆余曲折、選択とか判断とか断念とか諦念がまぜこぜになっているものだ。
そういう「じたばた「うだうだ」を記録することは、綺麗事だけを並べた指導案よりもずっと生々しく、実践の真意や経緯を伝えることができるかもしれない。断念した発想の断片に新たな実践のヒントが転がっているかもしれない。
そんなことをほのかに期待しつつ、単元を作り上げるまで、また、実践に取り組み始めてからの、考えたこと、迷ったこと、決断したことなどを、できるだけリアリティを失うことなく記録したいと思う。近日公開!

ドキュメンタリー『OZAWA』(1985年作品)


「教師」小澤征爾の魅力を伝えている傑作ドキュメンタリー。
共演者と心を交わしあい、若い指揮者の心に火をつける、小澤征爾のエネルギッシュな姿に驚嘆、そして感動。
クラシックに余り興味がない人も、ぜひ見て欲しい!
「君のために言うぜ、音楽は旋律だけじゃない。もっと内的で、深
……それはバーンスタインやカラヤンを見てもダメだ。あれは彼らのやり方だ。マネだけはするな。カラヤンにはカラヤンの道がある。バーンスタインもしかり。
君の道は君が創るんだ」

2013/08/27

旅行のお供はiPadminiで

旅行はできるだけ身軽に行きたいものだ。
しかし海外や長期の滞在などでは何かと荷物かかさばる。
そんなときに、最も重宝したのはiPadminiだった。
iPadmini一台さえあれば、紙媒体で持ち歩いていたさまざまな情報を電子化して持ち歩くことができるのだ。

・旅行の日程表
・持ち物リスト
・地図
・ガイドブック
・外国語の会話フレーズ集
・美術館の解説
・海外保険の保険証
などなど。
これらを紙媒体で持ち歩いていたらかさばってしまってしょうがない。
Evernoteやドロップボックス、iBooksにぶち込んでいけば好きなときに見ることができる。
るるぶやマップルなどのガイドブックも、惜しげもなく電子化する。(写真に撮って保存)
さらに便利だと感じるのは、文字や図を拡大できるという点だ。どんな細かい込み入った情報でも、拡大すればしっかりと読むことができる。これもタブレットならではの特徴だ。

もちろん、上記以外にも次のような機能も一緒に付いてくる。
・(ビデオ)カメラ
・辞書
・メモ帳(Evernote)
・グーグルマップ
(当たり前のことかもしれないけど、ロシアで路線検索したら、ちゃんとロシアの地下鉄の時刻を教えてくれた!驚き!)
・通貨換算用の電卓
・グーグルカレンダー
・時計
・インターネット(海外のホテルはほとんどWi-Fiが利用できる)
など。
iPadminiは旅行先でこそその力を十二分に発揮できる。
もはや手放せないツールとなっている。

2013/08/25

タブレット端末を使った授業、現場の声~便利すぎるのも考えものだ~

これからの学校教育でICTを活用した授業がだんだんと進められていくことだろう。
従来の、教科書、ノート、そして黒板だけにとどまらず、電子黒板や、電子教科書や、タブレット端末による電子ノート?が使われる日もすぐそこまで来ている。
ある地区では、コンピュータ室にパソコンを置くのではなく、デスクトップパソコンの代わりにタブレット端末を置こうと検討しているとも聞く。
タブレット端末の教育利用の方法を検討することは急務であろう。
さて、ICT活用について、ICTに精通した方がソフトやハードを開発することはもちろん重要なことであるけれども、そのときに、ぜひ現場のささやかな声をリサーチして欲しいと思う。

たとえば、当たり前のことだけれども、タブレット端末を使った学習では、次の視点を生かすことは不可欠だ。
・タブレット端末を使うことで、学力が効率的に上がることが期待できる。
→タブレット端末の機能を使うことで、それ以前に行われてきた「非効率的な」学習が「効率的に」行われるという見通しが立たなければいけない。
タブレットの操作や準備が煩雑で、かえって非効率的だったりしてしまっては意味がない。時間がかかりすぎたり、大した情報量ではなかったり、学習が充実していなかったら意味がない。
タブレットを使っているという「華々しさ」「目新しさ」があるうちは、現場でも使ってもらえるかも知れないけど、そのうち「やっぱり使わない方がましだ」と飽きられたらおしまいだ。

・タブレット端末を使うことで、今までできなかったことができるようになる。
→たとえば、タブレット端末などをはじめとするICTの特徴はいくつかある。
・思考を補助してくれる
(計算、OCR、検索機能などの情報処理)

・大量の情報を保存できる。
(これはいうまでもない。電子書籍などのコストも印刷メディアに比べて格段に低い)

・マルチメディアに強い。
(動画、画像、音声、ARなど)

・インターネット等で相互交流できる。
(学びのネットワークが格段に広がる。調べたり、発信したり、交流したり)

つまり、時間、空間という限界を突破し、人間の情報処理を助け、多様なメディアの越境ができるという点が最大の特徴である。
それらを生かして、今まで考えもしなかったような学習が展開できれば「タブレットを使ってよかった!」ということになるはずだ。

一方、タブレット端末を使うことのデメリットはどこになるのだろうか?
とっても卑近な例だけど「多機能すぎる」「便利すぎる」という点も、ひょっとしたらあるのではないだろうか。

たとえば、本校ではタブレット端末を使った授業はそれほどやられていないけど、電子辞書を使うことは授業の中で奨励している。
電子辞書を常時使用することで語彙や知識などが増えるので、とても重宝している。
しかし、最近の電子辞書は辞書機能だけでなく、さまざまな機能がくっついている。
・動画や画像を保存する機能
・音楽を聴ける機能
・インターネットができる機能
・イラストを描く機能
など
もちろん、機能が多くあればあるほど便利なのだけれども、授業内容とは関係のない機能がありすぎるのも、教師としては困りものなのだ。実は、電子辞書を持ち込むことで、授業中に生徒がこっそり自分のお気に入りの動画を眺めていることが学校で問題になったこともある。
これは卑近な例に過ぎないけれども、多機能にすればするほど、学習者の自由度は上がるけれども、裏返せば「サボる自由」「気が散る自由」「勝手なことをする自由」も増大するというデメリットもある。
学習を効果的にするためには、教師は生徒に与える情報を制限し、「自由」を上手くコントロールすることが、授業技術では大切な要素でもある。
たとえば、授業の中で発言する時に、なぜ挙手を求めるのだろうか。これは、発言したい時に発言させるという「自由」をコントロールすることで、教師の誘導で、生徒の発言を効果的に取り上げるという一斉授業の技術である。
黒板を用いる最大のメリットはどこにあるのだろうか? それは、教師が生徒とのインタラクティブ(やりとり)の中で、臨機応変に授業内容を組み替えていくことができる点にある。
学習内容に応じて学習者の「自由」をコントロールできるという要素や、臨機応変に授業内容を組み替えていくという視点では、まだまだICT活用の授業では不十分な点であると思う。
この二つの点において、タブレット端末よりも、黒板とノートのほうが圧倒的に優位だ。
……まあ、それでも、ノートや教科書に「落書きする自由」は残されているんだけれどもね。

と、勝手なことをいい散らかしてみましたけれども、「最近のICTはそんなもんじゃない!」という情報があったら是非教えてください。

2013/08/24

私は「若者」にしか期待しない~「無礼ボーイ」のすすめ~

先日、ある先生方が集まる飲み会でちょっと寂しくなる出来事があった。
私は飲み会ではほとんどお酌をしに行かない人間だ。
せわしなく歩き回ることよりは、食べるものを食べ、飲むものを飲んで、しかる後に、話したい人のところに行って話す。そういう流儀だ。……話したくなる人がいない場合は一人で静かに飲む。
……と格好つけて言ってはみたけれども、基本的にはシャイだし、めんどくさいだけなのだ。
がつがつと人に関わっていくのが、余り得意ではないだけなんだけど。

で、そんな私に、両手で瓶ビールを捧げた「若者」がかいがいしく酌をしに来るではないか!
「ご挨拶が遅れて申し訳ありません××先生。」
「あ、はい」
「いつも先生の……中学校でのご研究に感銘を受けております」
……
と、とても礼儀正しく腰を折る若者。
一気に酔いも覚めて、身が縮こまるほどであった。
恥ずかしくなるくらいのお褒めの言葉をいただいた後、その若者
「ところで、先生はおいくつになられるんですか?」
と、年齢を聞いてくる
「あ、私昭和……生まれですよ」
「昭和……年の何月生まれなんですか」
(ずいぶんマニアックなことを聞くなあといぶかりつつ)
「昭和……年の10月です」
「そうなんだ。私は昭和……なんですよ」
と。
そこで気がついた。その「若者」は、実は私よりも一つ年上だったのだ。
生まれた月までわざわざ確認したのは、同学年の早生まれでないかどうかを確認したかったのだろう。これで、私のほうが学年が一つ下、「後輩」だと言うことがはっきりとした。
そこから、さーっと潮が引いたように雰囲気が変わったのを私は見逃さなかった。
礼儀正しい態度だった彼の様子が、どこかよそよそしいものに変貌したのだ。

……ちなみに、私は見た目はかなり老けている。
実際の年齢に10歳プラスしても気づかれないくらいの「貫禄」を持っている。
だから私の外見と態度のでかさに触れた人ならだれでも、実際の年齢を知ると一様に驚く。そして人によっては態度を変えるのだ。……

そこからの会話はさらに奇妙だった。
「いまどんな研究をしているんですか?」と私、
「ええ、……ですけど」と素っ気なく彼
「……という視点で授業とか取り組まれると、きっと面白いですよね」と私
「はい。もちろんそのつもりですけど…」と彼
会話が……会話が弾まない!
自分は、ちょっとでも、一緒に大好きな授業のことを語り合おうと思っているんだけど、そこに「見えない壁」のようなものがあるのだ。何か寂しい。

私は、ひょっとしたら、年長者の方にとっては無礼な人間、年下の人にとっては礼儀正しい人間と思われていることだろう。
年長者だからといって聞きたいことがあったら聞く、言いたいことがあったら言うし、年下だからという理由で、その人の前で尊大に振る舞ったりはしていないつもりだ。
ましてや「肩書き」があるかないかなんて関係がない。
「肩書き」がある人には、さすがと思わせるような見識や知識、経験をもたれている場合が比較的多いということはある。だから、尊敬すべきは「肩書き」という記号ではなく、その人の見識や知識であるはずだ。(見識を持たない「肩書き」のある人、それで偉そうにしている人ほど、人として軽蔑するものはない)

だから、時折、私は寂しい思いをしたくないので、最近では肩書きや年齢をなるべく隠して人と接するようにしている。肩書きや年齢というフィルターによって接し方を変えられるのがたまらなくイヤなのだ。
それと同様に、人に対する時も、年齢や肩書きという記号で態度を変えるのではなく、経験や知識、見識から吸収して学ぶように心がけて接するようにしている。

本で読んだ話だけれども、あるクリエイターの方は、仕事のことなどでインタビューをするときに、必ず自分よりも年下の人とだけ会うようにしているそうだ。
「年寄り」からは新しい可能性は生まれないというのだ。
これは極端な話だけれども、分かるような気はする。
「年寄り」というのは単に年齢が上と言うだけではなさそうだ。
歳がいくつかというのではなく、精神的に「老成」している人こそ「年寄り」と呼ぶべきものだろう。
向上するものが枯渇してしまっている人、新しい世界に対する興味がない人、伸びていかない人、そういうひとが、自分の狭い経験だけ取り上げて、持論を延々とリピートする。そして年下の人間に対しては、つまらない見識を振り回して上から目線でのたまわる……
そういう方から学べるのは、おそらく最初の一回だけだろう。

私は「若者」にしか期待しない。
「若者」は年齢がいくつかどうかなんて関係ない。
そんな外面的なものではなく、いくつになっても柔軟性を失わない人、学ぼうと思っている人、外に開かれている人には心から尊敬する。
そして、そんな年長者でも若輩者でも、私は敬意を持って「無礼」に話しかけることだろう。

2013/08/23

「言語活動」に浮かれてはいけない~授業における「創意工夫と試行錯誤」~

今回の学習指導要領国語科の最大のウリは「言語活動」だ。
以前の学習指導要領では「言語活動例」は指導上の計画として配慮する程度のレベルだった。
今回は言語活動が「内容」に格上げされ、指導事項と言語活動が同等の重みで取り上げられるようになった。
文科省公認で「言語活動を通して指導事項を指導する」という「言語活動主義」の国語教育の立場が鮮明になったのである。

私は、基本的には言語活動を通して言葉の力をつけていくという学習スタイルには異論はない。
「畳の上の水練」ではなく、実際にプールで泳いでみないことには泳ぐ力が身につかないのは自明のことだからだ。
これからの授業では、何を教えるかという「指導事項」を研究するのと同じくらい、いや、それ以上の比重で「言語活動」についても「教材研究」をすることが求められることとなる。
……これは一言で言い表せるほど簡単なことではない。

言語活動を通した授業(「単元を貫いた言語活動」とも)が、さまざまな学校で取り組まれるようになってから、いろいろと楽しそうな言語活動が開発されてきている。

たとえば、小学校では次のようなユニークな「言語活動」が開発されている。
・本を紹介するリーフレット
・パンフレット
・ポスター
・本のショーウィンドウ
・本の小箱

・ペープサート

これらの活動はとても目新しく、魅力的なものだろう。
紹介されたらすぐに「やってみたい!」という気になるはずだ。
文科省サイドから、最近このような楽しそうな言語活動がたくさん紹介されている。(これは以前では考えられなかったことだ)文科省から公認、奨励されればなおさら多くの先生方は飛びつきたくなるだろう。

準備さえしっかりとすれば子供もそれなりに動くし、見た目もよいし、なにより楽しそうに活動している。「単元を貫く言語活動」大賛成! 先生方は大喜びだ。

しかし、教育界において、「経験主義」と「系統主義」の振り子が何度となく揺れ動いていることを知っている人なら、安易に言語活動に飛びつく愚は痛感しているだろう。
一見楽しそうな活動にこそ、落とし穴があることを知っているからだ。

文科省の打ち出す「単元を貫く言語活動」の提案の、最も不満、不十分なだと感じることは、
言語活動を通して、子供にどのように力がついていくか、そのために教師がどのように支援や指導をしていくか、という「学力が育っていくプロセス」や「具体的な指導の姿」がほとんど説明されていないと言うことである。
楽しそうな言語活動だけ取り上げて、授業の中での、言語能力を育成する教師の指導なり、子供が学んでいくプロセスをほとんど説明していないという点である。

料理番組を例にとって説明しよう。
まず、料理の準備を事細かに説明する。
こんな食材を用意します。
こんな調味料が必要です。
こんな味になります。
などなど。

で、その後いきなり、
はい、できました!
と完成作を見させられるのである。

料理をする人が一番知りたいのは、その料理をどのように調理するかだ。
食材を煮たり、焼いたりというプロセス、授業で言うと、子供が学力をつけるためにどのようなプロセスをたどっていくかという要素をすっ飛ばして、完成した料理のすばらしさだけをプレゼンテーションしているようなものなのだ。

どんなにすばらしい言語活動でも、「ほれやってみろ」では十分に力をつけることはできないだろう。
どんなに面白い言語活動でも、「やらせっぱなし」ではまずいだろう。
しかし、文科省のこのようなプレゼンテーションでは「ほれやってみろ」的な言語活動が量産されるおそれがあることを、ぷんぷん感じている。
どんな力を育てるかという、最も重要な「調理」過程がすっ飛ばされて、見栄えのする言語活動という「美味しい料理」を完成させることだけが目的化してしまうのではなないかと心から心配している。

子供が活動を通して力をつけるためには何が必要だろうか?
最もシンプルに言えば、活動の中に「創意工夫と試行錯誤」のプロセスをたどらせると言うことではないか。
自分たちなりに、上手くいく方法をイメージして取り組み、
いろいろな手段を試してみて、
それでも上手くいかなくて失敗をしたり、
何度もやり直したり
……
それらの「創意工夫」と「試行錯誤」のプロセスをたどることで、はじめて力というものは身につくのではないだろうか?
「創意工夫」と「試行錯誤」のプロセスを、教師がどう効果的に設定し、指導や支援を加えていくかと言うことこそ、活動の中での学びでは必要になってくると思っている。
「やらせっぱなし」の活動では「試行錯誤」の学びは生まれない。
何が失敗なのか、どうすればよいのか判断することが難しいからだ。
プログラムされすぎた活動では「創意工夫」の余地はない。
そんな活動だったら教師はいらない。思考力も育たない。

繰り返すが、「やらせっぱなし」ではなく、「創意工夫と試行錯誤」のプロセスを、どう教師が介入し、指導し、支援していくかというところこそ「活動を通した学び」では重要なカギとなるところだと思う。

魅力的な言語活動に浮かれてはいけない。
魅力的な言語活動に飛びついてはいけない。
飛びつく前に、子供に経験させたい活動に、子供たちが「創意工夫」をする余地があり「試行錯誤」をする経験があるのかを考えよう。そして、そのプロセスに、どんな教師の指導の手立てがあるのかを考えよう。

また「いつか来た道」をたどらないことを切に願う。
「活動あって学びなし」
「這い回る経験主義」
という言葉が聞かれることを。

2013/08/22

成長すると学ぶことが難しくなる

「成長すると学ぶことが難しくなる」
これは一面において真理だと思う。

新入社員は、どんな職場に行っても学ぶことがたくさんある。
周りにいる先輩方も色々なことを教えてくれる。
時間が経つと、新人さんも色々な経験を積み、ぐんぐん成長していく。
そうなると、「一人前」だと見なされてだれからも教えてもらえなくなる。

教えるとか学ぶということは、どんな段階であっても必要なことだ。
新入社員であろうと、10年目の人であろうと、退職間際の人であろうと。
少なくとも、私はいつまでも学んでいたいと思う。
しかし、経験を積めば積むほど「一人前っぽいオーラ」とか「批判を受けたくないオーラ」、「偉そうなオーラ」を自然に身にまとってしまう。子どもの前に立つ教師ならなおさらそういう傾向は強いだろう。
そうなると、だれもが、めんどくさそうな相手に対しては、助言とか意見を言わなくなる。
(いいね!とかすごいね! とかのおべっかは言ってくれるかもしれないけどね。)
同質性の高すぎるコミュニティーからは学びは生まれにくい。どんどん視野が狭くなる。
なれ合いの集団は心地よいかもしれないけど、退屈だ。

学びで必要な「他者」とは、おだてたり、賛同する人ではないだろう。
むしろ異質性を持った他者ではないか?
自分にとって、「冷や水を浴びせる」存在ではないか?
うどんの「びっくり水」のように、ちょっと自分が調子に乗っているとき、視野が狭くなっているときに、我が身を振り返らす存在ではないか?
自分とは別の、異質性を持っている存在として、新たな切り口から観点を提示し、さらに、人が変わることをそそのかす存在ではないか?
その人と対話することによって、内省が促される存在ではないか。

偉ぶっていると、それだけで「意味ある他者」を遠ざけることになる。
成長したり、地位や肩書きを手に入れると、そのたびごとに「意味ある他者」を見失い、学ぶ機会が失われていく。
だから、成長すればするほどに、より積極的に意味ある他者を求めなければならない。
意味ある他者を探すためには、まず自らが、誰かにとっての意味ある他者になれているのかを自省する必要がある。

2013/08/21

「コミュニティーとネットワーク」試論~学級づくりの視点としての「国会モデル」と「会社モデル」~

私の思考の癖は「たとえで考える」ことと「列挙する」ことだ。
目の前の現象を、とりあえず他の似ているものに置き換えてみる。そうすると、その構造や見えない働きなどが明るみになってくることが多い。
また、とりあえず列挙する、数多く出してみるというのも私の思考の方法だ。思いつく限り、もれなく抜けなくダブりなく出してみるのだ。
そうすることで思考が思考を誘発し、あらたな発想が生まれるかもしれない。

「学級づくり」について「たとえ」と「列挙」で考えてみる。
学級づくりにはさまざまなスタイルがあると思う。

・国会モデル……先生は天皇? 生徒は国会議員?
最も一般的なモデルは「国会モデル」ではないか。
どの学校にも生徒会という「議員」がいて、生徒総会という「国会」や学級会などの会議が行われる。委員会などの分担もある。総理大臣としての生徒会長がいる。
学級でもそれと同じ原理で、学級会長や班長がいたり、係があったりする。
先生は会長を支援する「天皇」のような存在か??
しかし、国を統治するシステムという議会制民主主義に、学級という小規模のコミュニティーが適しているのだろうか?

・会社モデル……先生は経営者、生徒は社員
「学級経営」という言葉がよく聞かれる。
「経営」という発想は「会社モデル」の考え方だ。
社長(経営者)のビジョンに従って、社員(生徒)を上手に動かしていく。
しかし、そのスタイルは本当に学級というコミュニティーにとってふさわしいのだろうか?
そもそも「学級」としてのビジョンとか目的というものが必要なのだろうか?
(個人としての目的とか目標をもつことはもちろん否定していない、しかし「クラス」という集合体が「目標」を持つことが、必ず必要だとされる根拠はあるのだろうか?)
ちなみに私は「学級経営」という言葉をほとんど使ったことがない。
なんとなくそういう「経営者」のような感覚になれないからだ。

・家族モデル……先生はお父さん、お母さん、生徒は我が子
いわゆる金八先生のように生徒を我が子として抱え込むスタイルだ。
我が子のためには全身全霊で守り通す。
我が子のためには自分を犠牲にする。
クラスは家族、クラスメイトは兄弟。疑似家族としての学級。

・教会モデル……先生は教祖様、生徒は信者
カリスマ教師の場合はそういうクラスになることもある??
洗脳された生徒の姿……

・レジャーランドモデル……先生は店員、生徒はお客様
マクドナルドやディズニーランドのように、教室に来ているお客様(生徒)を楽しませ、居心地の良いものにするためにひたすら店員(先生)ががんばるスタイル。
ポイントは「おもてなし」。
ゲーミフィケーション、PA、ディズニーランドなどの発想も、ひょっとしたら学校にもあるのかもしれない。

さて、さまざまなモデルを列挙したのだが、これからの学級づくりは、どのようなモデル、スタイルを志向すべきだろうか?

私が学級において一番大切にしたいのは、「個」を生かす人間関係としての集団である。
集団が個を圧殺することがある。
個がばらばらで、孤立をうながす集団(烏合の衆)もある。
そのどちらでもなく、集団が個を生かすような集合体、関係性こそ、理想だ。
そのときに必要な視点はなんだろうか?
・国会モデルだろうか?
・会社モデルだろうか?
・家族モデルだろうか?
……答えはまだでていない。

しかし、私は、クラスを「人間関係の集合体」として見る場合、これからは「コミュニティーとネットワーク」という視点はどうしても必要だと思う。
すべての人間関係は何らかの形で「ネットワーク」をもち「コミュニティー」を形成している。

・コミュニティーは「同質性」によってつながり合う共同体
クラスでいつも一緒にいる仲間がいる。そのとき、クラスの中で小さなコミュニティーが生まれている。
コミュニティーは時間の経過とともに自然に深まっていき、凝集性が高まることを志向する。
凝集性が高い方が生産性が上がるが、凝集性が高すぎると閉鎖的になり、息苦しいものとなる。

・ネットワークは「異質性」を契機につながっていくリンクの集まり
ネットワークは、見知らぬ他者へと働きかけ、つぎつぎと関係を広げ、アプローチしていく流れをいう。
ネットワークは時間の経過と共に自然に広がっていき、複雑になることを志向する。
ネットワークは狭いよりも広いほうが有利だ。
弱い絆であっても、幅広くリンクを張っている方が有益なこともある。
(遠くの親類より近くの他人、「弱い紐帯の強さ理論」)

コミュニティーとネットワークは両者相克しながら関係が変容していく。
A、コミュニティーとネットワークの両方が充実している
B、コミュニティーは充実しているけどネットワークはない
C、ネットワークは充実しているけどコミュニティーは貧弱
集団は常にその3つの様態を揺れ動く。

クラスづくりも「コミュニティー」「ネットワーク」の両方の視点が必要だ。
コミュニティーを深める志向と、ネットワークを広げる志向と
同質性や共感によってつながりを深め合うことと、他者の異質性から学び、広がっていくことと。

実はクラスは一つのコミュニティーとは限らない。
クラス内に無数のコミュニティーがあり、ネットワークがある。
それらは同時進行、多声的なものである。
子どもたち(人間たち)は多声的なコミュニティー、多くのコミュニティーを同時に生きる。

現在の学校の息苦しさの原因は、ひょっとしたら
B、「学級」という単一のコミュニティーはあるけど、外に広がるネットワークはない
というものではないか?
(それが「クラスで心を一つに!」「団結しよう!」という言葉で教師が毎日煽っているとしたら……)

教師の役割は、子どものネットワークを広げ、多声的なコミュニティーを用意することにある。
そのような多種多様なコミュニティーが、クラスの中に、あるいはクラスや学校という枠を超えて、自然発生的に生まれてくるよう「ビオトープ」のような「生態系」を用意することが重要なのではないか?

これからの学級作りのモデルとして明確な答えは用意できていない。
わたしは、これからの学級づくりのモデルとして「まちおこしや地域コミュニティー再生」のモデルにヒントがあるのではないかと思っている。

2013/08/20

『はだしのゲン』閲覧規制問題は、「学校図書館の選書規準開示」というパンドラの箱を開けるか?

某市教育委員会における『はだしのゲン』閲覧規制問題がかまびすしい。
『はだしのゲン』の描写や歴史認識が教育上ふさわしくないという理由で地域住民から陳情を受け、教育委員会が学校図書館にある『はだしのゲン』をすべて閉架にしろという指示を出したという問題だ。

『はだしのゲン』がふさわしいかどうかという議論ももちろんあるだろう。
しかし、私は学校図書館に関わっている身として、この問題はもっと深刻なものを提起していると思う。
「学校図書館にどのような本を置くべきか」ということに対して行政が具体的に踏み込んでくるという事態である。

図書館にどのような本を置くべきか、ということについて、図書館関係者と『図書館戦争』の読者だったら誰でも「図書館の自由に関する宣言」という格調高い文章を想起するだろう。
少し長いが資料として全文を引用する。(知っている人は飛ばして読んでください)

図書館の自由に関する宣言

1954  採 択
1979  改 訂

    図書館は、基本的人権のひとつとして知る自由をもつ国民に、資料と施設を提供することをもっとも重要な任務とする。
  1.  日本国憲法は主権が国民に存するとの原理にもとづいており、この国民主権の原理を維持し発展させるためには、国民ひとりひとりが思想・意見を自由に発表し交換すること、すなわち表現の自由の保障が不可欠である
    知る自由は、表現の送り手に対して保障されるべき自由と表裏一体をなすものであり、知る自由の保障があってこそ表現の自由は成立する。
    知る自由は、また、思想・良心の自由をはじめとして、いっさいの基本的人権と密接にかかわり、それらの保障を実現するための基礎的な要件である。それは、憲法が示すように、国民の不断の努力によって保持されなければならない。
  2.  すべての国民は、いつでもその必要とする資料を入手し利用する権利を有する。この権利を社会的に保障することは、すなわち知る自由を保障することである。図書館は、まさにこのことに責任を負う機関である。
  3.  図書館は、権力の介入または社会的圧力に左右されることなく、自らの責任にもとづき、図書館間の相互協力をふくむ図書館の総力をあげて、収集した資料と整備された施設を国民の利用に供するものである。
  4.  わが国においては、図書館が国民の知る自由を保障するのではなく、国民に対する「思想善導」の機関として、国民の知る自由を妨げる役割さえ果たした歴史的事実があることを忘れてはならない。図書館は、この反省の上に、国民の知る自由を守り、ひろげていく責任を果たすことが必要である。
  5.  すべての国民は、図書館利用に公平な権利をもっており、人種、信条、性別、年齢やそのおかれている条件等によっていかなる差別もあってはならない。
    外国人も、その権利は保障される。
  6.  ここに掲げる「図書館の自由」に関する原則は、国民の知る自由を保障するためであって、すべての図書館に基本的に妥当するものである。
    この任務を果たすため、図書館は次のことを確認し実践する。

第1 図書館は資料収集の自由を有する

  1.  図書館は、国民の知る自由を保障する機関として、国民のあらゆる資料要求にこたえなければならない。
  2.  図書館は、自らの責任において作成した収集方針にもとづき資料の選択および収集を行う。その際、
    1. (1) 多様な、対立する意見のある問題については、それぞれの観点に立つ資料を幅広く収集する。
    2. (2) 著者の思想的、宗教的、党派的立場にとらわれて、その著作を排除することはしない。
    3. (3) 図書館員の個人的な関心や好みによって選択をしない。
    4. (4) 個人・組織・団体からの圧力や干渉によって収集の自由を放棄したり、紛糾をおそれて自己規制したりはしない。
    5. (5) 寄贈資料の受入にあたっても同様である。図書館の収集した資料がどのような思想や主 張をもっていようとも、それを図書館および図書館員が支持することを意味するものではない。
  3.  図書館は、成文化された収集方針を公開して、広く社会からの批判と協力を得るようにつとめる。

第2 図書館は資料提供の自由を有する

  1.  国民の知る自由を保障するため、すべての図書館資料は、原則として国民の自由な利用に供されるべきである。
    図書館は、正当な理由がないかぎり、ある種の資料を特別扱いしたり、資料の内容に手を加えたり、書架から撤去したり、廃棄したりはしない。
    提供の自由は、次の場合にかぎって制限されることがある。これらの制限は、極力限定して適用し、時期を経て再検討されるべきものである。
    1. (1) 人権またはプライバシーを侵害するもの
    2. (2) わいせつ出版物であるとの判決が確定したもの
    3. (3) 寄贈または寄託資料のうち、寄贈者または寄託者が公開を否とする非公刊資料
  2.  図書館は、将来にわたる利用に備えるため、資料を保存する責任を負う。図書館の保存する資料は、一時的な社会的要請、個人・組織・団体からの圧力や干渉によって廃棄されることはない。
  3.  図書館の集会室等は、国民の自主的な学習や創造を援助するために、身近にいつでも利用できる豊富な資料が組織されている場にあるという特徴を持っている。
    図書館は、集会室等の施設を、営利を目的とする場合を除いて、個人、団体を問わず公平な利用に供する。
  4.  図書館の企画する集会や行事等が、個人・組織・団体からの圧力や干渉によってゆがめられてはならない。

第3 図書館は利用者の秘密を守る

  1.  読者が何を読むかはその人のプライバシーに属することであり、図書館は、利用者の読書事実を外部に漏らさない。ただし、憲法第35条にもとづく令状を確認した場合は例外とする。
  2.  図書館は、読書記録以外の図書館の利用事実に関しても、利用者のプライバシーを侵さない。
  3.  利用者の読書事実、利用事実は、図書館が業務上知り得た秘密であって、図書館活動に従事するすべての人びとは、この秘密を守らなければならない。

第4 図書館はすべての検閲に反対する

  1.  検閲は、権力が国民の思想・言論の自由を抑圧する手段として常用してきたものであって、国民の知る自由を基盤とする民主主義とは相容れない。
    検閲が、図書館における資料収集を事前に制約し、さらに、収集した資料の書架からの撤去、廃棄に及ぶことは、内外の苦渋にみちた歴史と経験により明らかである。
    したがって、図書館はすべての検閲に反対する。
  2.  検閲と同様の結果をもたらすものとして、個人・組織・団体からの圧力や干渉がある。図書館は、これらの思想・言論の抑圧に対しても反対する。
  3.  それらの抑圧は、図書館における自己規制を生みやすい。しかし図書館は、そうした自己規制におちいることなく、国民の知る自由を守る。
図書館の自由が侵されるとき、われわれは団結して、あくまで自由を守る。
  1.  図書館の自由の状況は、一国の民主主義の進展をはかる重要な指標である。図書館の自由が侵されようとするとき、われわれ図書館にかかわるものは、その侵害を排除する行動を起こす。このためには、図書館の民主的な運営と図書館員の連帯の強化を欠かすことができない。
  2.  図書館の自由を守る行動は、自由と人権を守る国民のたたかいの一環である。われわれは、図書館の自由を守ることで共通の立場に立つ団体・機関・人びとと提携して、図書館の自由を守りぬく責任をもつ。
  3.  図書館の自由に対する国民の支持と協力は、国民が、図書館活動を通じて図書館の自由の尊さを体験している場合にのみ得られる。われわれは、図書館の自由を守る努力を不断に続けるものである。
  4.  図書館の自由を守る行動において、これにかかわった図書館員が不利益をうけることがあっては ならない。これを未然に防止し、万一そのような事態が生じた場合にその救済につとめることは、 日本図書館協会の重要な責務である。
引用終了。

つまり、『はだしのゲン』問題に関する論点を集約すると、図書館というものは、国民の知る権利を保障するためのものであるから、この本を置くべきだとか、この本は読ませるな、などの行政の不当な口出しは許されないということなのだ。

しかし学校図書館ではどうなのだろうか? 
「図書館の自由に関する宣言」はどの程度認められるのだろうか?

学校図書館は「学校の教育課程の展開に寄与する」(学校図書館法)という大原則がある。
だから限られた予算で図書をそろえなければいけないという制約から「学校の教育課程の展開」に直接関係ないようなものは学校図書館には置かないという選択をせざるを得ない。

「学校の教育課程の展開」とは、つまり学校の教育活動だ。
そして学校の教育課程は「学校において編成する」(学校教育法)とされる。
各学校の裁量に任されているものなのだ。(もちろん教育基本法や学習指導要領等の法令に準拠しなければいけないことはいうまでもない)
学校の教育目標や、その教育活動は学校独自に決められるものである。

学校図書館にどのような本を置くべきかという判断や、どんな本はふさわしくないかという判断、つまり「選書規準」は、どの学校でも暗黙のうちに形作られている。

たとえば
・漫画は手塚治虫以外入れない
・村上春樹はノーベル賞級の文学者だけどHな描写があるから入れない
・山田悠介は中学生に大人気だけど、グロいから入れない
・ラノベは内容が軽薄すぎるから入れない
などなど。
……選書規準というか、司書教諭の暗黙の線引きのようなもの。
こんな具体的に生徒たちに言うことはもちろんないはずです。
学校によってもその線引きは全く異なりますし、そうあるべきものだと思います。

これらの「選書規準」はもちろん教育委員会で指定するものではない。学校ごとに、極端に言えば図書館担当者の独断??で決めているというのが実情なのだ。
だいたい、いちいちすべての作品ごとに、学校図書館に入れるべきかどうかなんて決められるわけがない。すべての本を読んでいるヒマなんてない。だから、ぼんやりとしたものにならざるを得ない。

しかし、今回の『はだしのゲン』閲覧制限騒動によって、ひょっとしたら全国各地の教育委員会が、各地域の学校図書館に、どのような本を入れているのか選書規準を明示せよと指示する事態になるかもしれない。
どんな本を購入したかとか、どのような蔵書があるかとかを情報公開せよ、開示責任を果たせと言われるかもしれない。
そんないやな予感をこの事件から感じるのだ。

そしてその選書規準や、配架されている資料について、行政や「地域の方々」からクレームや要望をいただくような事態にまで発展するかもしれない。
少なくとも『はだしのゲン』騒動では、それがわれわれの目の前で行われているのだ。

「われわれは団結して、あくまで自由を守る」ことができるだろうか?








2013/08/19

「コピペ厳禁!」よりも、引用をこそ習熟させるべきだ~オリジナル礼賛の危険性~

引用無きところ,印象はびこる」 
これはもちろんオリジナルではなくて、宇佐見寛先生の言葉の引用です。

調べ学習などで、資料を集めた後にそれをまとめる学習があります。
そのときに「コピペ厳禁!」と生徒に指示をすることがよくあります。
先生はどういう意図で「コピペ」を禁じるのでしょうか。
きっと、コピペをしてそのまま貼り付けるような安易な方法ではなく、集まった情報をまとめてほしいとか、自分の考えを述べてほしい、という意図なのではないかと思います。
さらに丁寧な先生ならば、コピペを禁じた跡に、
・具体的な情報のまとめ方(たとえば、グラフィックオーガナイザーなどを提示して)
・自分の考えの導き方(たとえば、推論などの論理のパターンを例示して)
などの情報活用の支援をすることでしょう。そこまで指導できてこその「コピペ厳禁!」です。

※情報活用の指導の参考として、この3冊はおススメです。






しかしもし、そういう情報活用の手順をしっかりと指導していなかったとしたら……、
コピペを封じられた生徒は、いったいどう対処するのでしょうか。
A 引用したことを隠して自分の意見ということにする
B 文章の一部を入れ替えたり、語尾をちょこっと変える

そうですね。Aは盗用、剽窃。Bは改変。
つまり、著作権違反、情報活用の悪用の手法です。
大学の研究者がそれをやったら一気に職を失います。
それほど、学問上では重大な違反行為なのです。
剽窃や改変をする誘惑に駆られる生徒の気持ちはよくわかります。
オリジナリティーあふれる「自分の考え」なんてそうそう簡単に出せるものではないし、情報をまとめろといわれても、どうやったらいいか途方にくれてしまうわけですから。

「まねが悪く、オリジナルはすばらしい」という発想が、どこか教育界には根深くあると思います。
「まねがわるい」という強迫観念が強ければ強いほど、子供はできるだけ模倣していることを隠し、オリジナルを繕おうとすると思います。
しかし、学ぶことの出発点は、「まねぶ」です。この語源どおり、学ぶことはすなわち模倣することにほかなりません。
私のこの意見だって、(記憶にはないですが) どこかの誰かが言い出したことをパクって言っているに過ぎません。
パクるという言い方は下品だから使わないようにするとして、引用するとか、参照する、参考にするということの重要性を、しっかりと教え込むことが重要だと思います。

現在は膨大な情報に囲まれた時代です。インターネット等で必要な情報はすぐに手に入れることができます。だからこそ、短時間で、適切な情報を、必要な情報量だけ取り上げて、引用する技能や習慣を身につけていることが重要だと思います。
膨大な情報の中から、必要な情報をすばやく探し出せるようになること、情報を適切に取り出せるようになることの力は、ひょっとしたら、独創性のある考えを述べることよりも世の中では重要かもしれません。
剽窃や改変を誘発する「オリジナル礼賛」という信仰こそ、百害あって一理なしと知るべきです。

板倉聖宣『模倣と創造―科学・教育における研究の作法』の紹介


仮説実験授業の板倉聖宣氏がかつて直面した盗作問題の裁判をきっかけにして「模倣と創
造」について考察した一冊。
科学研究、教育研究や授業開発などでいつも直面する「模倣と創造」の相克、矛盾についてこの本以上に詳細に論じ尽くした一冊はないだろう。
また、こどもへの教育における「独創」「創造」についても鋭い問題提起を行っている。

この本の概要
教育研究には「独創」や「オリジナリティー」を尊重するあまり、「模倣」が軽視される風潮がある。しかし、「模倣より独創がいいに決まっている」という考えによって日本人の創造性をダメにしているのではないかというのが筆者板倉氏の中心的な関心である。
板倉氏は模倣を「創造のための必要悪」としてとらえるのではなく「模倣と創造は相対立しながらなおかつ不可分なものである」というようにとらえ、「模倣と創造」の関係を矛盾論的、弁証法的に考え直すことの重要性を説いている。

以下、私が気になった言葉
・もともと科学における創造とは、模倣を前提になりたつものである。創造は他人の研究成果の模倣の上にたって行われるというだけではなく、創造は他の人々が模倣するに足るような新しい知識の提供を目指すものだ。
・創造を大切にするためには模倣も大切にしなければならない。
・日本人の創造性のなさはむしろ模倣性のなさにその端を発している。
・翻訳、紹介だって単なる模倣ではなくて、そこには創造的な努力が含まれている。
・模倣はかっこわるいとか、独創がすばらしいという思い込みが盗作を生む。模倣を嫌うと独創性も失われる。
・教育者が過度に創造性を重んじ、それをカッコイイものと思い込むようになると、それは子どもたちにも悪い影響を与えるようになる。
・自由研究では……先生から「自分で考えてやってこい」といわれたことを気にする子どもたちは、そこで自分でやったようにウソをつくように追い込まれてしまう。何かの本を読んだり、親からヒントを得たことをひた隠しにして……
・決められた権威以外のものを模倣する創造性を
・無理に模倣しないことに独創性が表れる。「何をいかに模倣するか」独創的に考える
・模倣はやっぱりすばらしいいので、模倣することを無理に抵抗しない方が良いが、しかし、だからといって、特に受け入れがたいと思われることまで無理に受け入れずに、そんなときは自分で新しい考え方を探るとよい。
・権威を十分に尊重すること。しかし、その権威は自分が権威と認めることによって権威なので、自分どうしても納得できないと思うところがでてきてもなおかつ権威として信じ込むことはやめた方が良い。その権威を疑っても、それでもその権威を認めざるを得ないことの方が多いだろうが、たまにはその権威からそれて、新しいものを発見できるかもしれない。

2013/08/18

ロシアの表情~モスクワ、サンクトペテルブルグ、そしてソ連邦~

隣国ロシアをイメージするのは難しい。
というか、いろいろなイメージがつきまとわりすぎてしまっているから、「何となく怖い国」という漠然とした想像しか今まで持てていなかった。
ソ連時代の社会主義、全体主義国家のイメージ
KGBやマフィアが暗躍する危ない国
ドストエフスキーなどの文豪が描いた重苦しい世界
シベリアなどの広大な自然、大地
ロシアに訪れる前はせいぜいその程度のイメージを持っていたに過ぎない。
そしてそれらのイメージが、実際に訪れて大きく崩れたというわけではないが、やはり実際に現地まで足を伸ばし、その国に生きる人の話を聞いた経験はとても貴重だった。
忘れないうちに書き記しておこうと思う。

レーニン廟と全体主義国家、ソ連邦
ロシアの一つ目のイメージは、やはり「ソ連」だ。
社会主義大国ソ連がどのような国であったか、その社会のなかで生きる人はどんな思いでいたかを、現地に訪れて知りたいと思っていた。
首都モスクワはやはりソ連時代のおもかげが今でもかなり残っている。
赤の広場

レーニン廟
レーニン廟の向かいにはグム百貨店がある
「赤の広場」はクレムリン(城塞)の外側に位置するロシアで最も有名な広場だ。
城塞の中央にはレーニン廟が建っている。今でも革命の指導者レーニンが剥製?になって眠っている。もちろん写真は撮れないが、意外に小柄だったのにびっくりした。
皮肉なことにレーニン廟にはかつてのように長蛇の列になって見学をするスポットにはなっていない。若い人にはほとんど人気がない。しかし中国人観光客には大人気だった!
レーニン廟に向かい合って建つグム百貨店は、今では西側諸国のシャネルとかカルチェのような高級ブランドが店を並べる、若者やお金持ちたちの超人気スポットとなっている。

モスクワ市内にはレーニン像や社会主義プロパガンダのレリーフは至る所にある。
レーニンの妻やエンゲルスなどの社会主義の指導者たちの像もそのまま残っている。
(しかしスターリンの像は民主化後移動させられたという。
また、市内にはスターリン様式といわれる、巨大でいかつい建物があちこちにある。
モスクワ大学
外務省
そして特筆すべきは地下鉄の豪華さだ。
これもスターリン時代、市民たちに社会主義のすばらしさ、豊かさを実感させるために命令して作ったものだという。宮殿のような内装のところどころには、社会主義のプロパガンダのためのレリーフが飾られている。

モスクワ市内の地下鉄、キエフスカヤ駅

地下鉄構内のプロパガンダレリーフ
これらの建物を見ると、「ソ連だなあ」という実感する。
スターリン様式の豪壮な建物や宮殿のような地下鉄を見ると、まるで、映画「未来世紀ブラジル」が描いた全体主義国家のディストピアを彷彿とさせられる。(もちろんモスクワが本家、モデルなのだろう)

さて、こんなソ連時代を生活した人はどのように感じているのだろうか。
モスクワをガイドしてくれたBさんは、刑事コロンボのようなくたびれたかっこうのおじさんだ。
ウオッカ好きが顔に表れている陽気な話し好きの方だった。
そのBさんにソ連時代のことをいろいろ聞いてみた。
Bさんはソ連時代、日本の社会党青年団?がソ連に派遣されたときのガイドの仕事をしていたという。
社会党では、毎年5~6人程度の若者の党員をソ連へ派遣し共産党組織で研修をさせていたのだ。
(社会党や共産党の左翼政党がソ連と密接なネットワークを築いていたことを今まであまり知らなかったから、それがまず驚きだった)
それで、民主化になったとたんにその仕事はなくなったから、読売や朝日などの大手マスコミ取材に随行する通訳として転職した。チェチェンなどの危険な紛争地にいくといいお金になったという。

「ソ連が崩壊して何が変わりましたか?」と単刀直入に聞いてみた。
「うーん、なにもかも、ウラシマタロウのようなものです」と、Bさんは語り出す。
ソ連邦の時代は80パーセント以上が貧乏だったから、一部のお金持ちを除いて平等だった。治安もよかった。
しかしロシアになってからは人々は豊かになったけれど、貧富の差はものすごく開くようになった。治安もとても悪くなった。
ソ連邦の時代は医師や学校の先生など、社会のために貢献する職業が人気があった。
しかし現在では若者たちは、お金がたくさん入るような石油や天然ガスなどの企業に就職することが夢なのだという。

Bさんは今でもレーニンやスターリンを尊敬している。
社会主義は思想としては悪くないと感じている。
スターリンの郷土では、彼はいまでも天才的な指導者、偉人として顕彰されているという。
Bさんのこの話を聞いて私はとても意外に思った。
私は、粛正をしまくったスターリンは悪の権化であり、共産主義、社会主義などの全体主義的思想は人を縛り抑圧するものだと感じている。共産主義なんてまっぴらごめんだ。
だから、ソ連を崩壊させ、民主化を成し遂げた多くのロシア国民にとっては、ソ連時代は憎むべきものなのかなあと思っていた。その予想は大きくくつがえされた。
もっとも、これはBさんだけの、一部の見解に過ぎないかもしれない。
しかしモスクワの町なかには今でもレーニンや社会主義指導者の銅像が建っている。それらはとてもきれいに整備されている。
ひょっとしたら彼らにとってソ連時代はそれほど悪いもの、憎むべきものとしてとらえられていないのではないかという気さえしてくる。
ウラシマタロウの竜宮城はいったいどっちなのだろう?

爛熟・退廃の街、サンクトペテルブルグ
サンクトペテルブルグの街に訪れて感じたキーワードは「爛熟・退廃」の人工都市だ。

そもそもサンクトペテルブルグは街としてはそれほど古くはない。
ピョートル大帝がモスクワからサンクトペテルブルグに街を建設したことから歴史はスタートしている。それが1703年ということだから、日本で言えば江戸の元禄時代のことだ。
ピョートル大帝は、青年時代にお忍びでオランダなどに留学したこともある、
そしてヨーロッパの進んだ文化や科学技術をいち早くロシアに移入しようと考えていた。
だから、内陸部のモスクワではなく海に面したこの都市を建設し、ヨーロッパ進出への足がかりを得ようとしていたのだ。
サンクトペテルブルグの街自体もオランダのアムステルダムをモデルとした、運河が縦横に張り巡らされた美しい人工都市である。
この辺の事情は文明開化を進めた明治の日本国家と似ている。
ロシアも日本も、地政学的に「辺境」なので、進んだ中央文化にいかに追いつくかというのがつねに課題であったのだろう。
サンクトペテルブルグは、
運河が縦横に走っている美しい街だ
夏の宮殿は噴水が見事

エカテリーナ二世が大黒屋光太夫と謁見した広間

ロシア革命の舞台となった冬宮前の広場
サンクトペテルブルグに訪れると、近代ヨーロッパが「冷凍保存」されたような町並みが現在でも残っている。運河、宮殿、教会、広場、そのどれもが18世紀の様式で残されている。
サンクトペテルブルグばペトログラード、レニングラードなどいくつもの呼び名に変わっているが、大戦中は「レニングラード包囲戦」というナチスドイツの攻撃によって、一度壊滅状態になっている。
レニングラード包囲戦(レニングラード封鎖とも)では、900日もの間ドイツ軍に包囲され、街全体が兵糧攻めの攻撃を受けた。
死者は100万人とも言われている。これは日本本土における民間人の戦災死者数の合計(東京大空襲、沖縄戦、広島・長崎を含む全て)を上回るほどだったという。驚くべき損害だ。
サンクトペテルブルグの教会や宮殿などには、わずかながらではあるがかつての戦争の痕跡を伺うことができる。きらびやかな宮殿の奥には戦争の記憶が眠っている。

レニングラード包囲戦とともに古都を襲いかかった衝撃は、ロシア革命とそれに伴う社会主義の政策だった。
社会主義は基本的に宗教を否定している。
そのため多くの修道僧がシベリア送りにされたり、教会の見事な建物が爆破されたり、当てつけのようにじゃがいも倉庫や迷信を否定する科学博物館にされたという。
そのような社会主義者による宗教弾圧も、愛国心の発揚や窮乏への慰みのために次第に容認されるようになってきたという。
これほどの美しい教会やロシア民衆の深い信仰心は、理性や論理の力ではねじ伏せることができなかったのだ。
ねぎ坊主が印象的なロシア正教の教会
ロシア正教の教会は、イコン(聖人の絵)を信仰する
ドストエフスキーを体感する
私にとってサンクトペテルブルグといえばドストエフスキーだ。
ドストエフスキーの数々の小説の舞台となったこの町には、ドストエフスキーの家や、『罪と罰』のラスコーリニコフの家、金貸し老婆の家、ソーニャの家などが残されている。(もちろん実話ではないけれども、街の建物にそのような表示がさりげなくしてある)
『罪と罰』のクライマックス、ラスコーリニコフが大地に接吻する「センナヤ広場」ももちろん残っている。
ラスコーリニコフの家

ドストエフスキーのレリーフが!
ラスコーリニコフの家からセンナヤ広場までは歩いて五分程度。うすら明るい白夜の中これらの街を歩いて回ったことは、どきどきするほど興奮する経験となった。
『罪と罰』(米川正夫訳!)の冒頭の言葉が頭の中でなんどもリフレインしていた。

ドストエフスキーの家近くの街角
七月の初め、方図もなく暑い時分の夕方ちかく、ひとりの青年が、借家人から又借りしているS横町の小部屋から通りへ出て、なんとなく思いきりわるそうにのろのろと、K橋のほうへ足を向けた。

ラスコーリニコフやドストエフスキーが歩いたであろう街は、サンクトペテルブルグ市内でも下町に属する。
きらびやかな宮殿がある中心地が位置から二〇分ほど歩いたところに、この下町が広がっている。観光客が歩き回るような街では決してない。
くたびれた建物とむんむんした臭気と、おじさんたちがうろうろとしている雑踏や路地裏は、おそらくドストエフスキーが暮らしていた頃とかわっていないだろう。
退廃を感じさせる町並み
ドストエフスキーが生活した時代、革命が起きる前夜の時代もきっと、きらびやかな宮殿のすぐふもとに、この薄汚れた街が広がっていたことだろう。
「猖獗を極める」とか「退廃」とかいった、ドストエフスキーの小説を読んで知った言葉たちの意味が、この街を訪れて初めて実感できたような気がした。






ロシアののどかな風景、じゃがいもおばあちゃん
ロシアの若い女性はびっくりするほど美しい。
ミスユニバースに選ばれてもおかしくないような、ものすごいスタイルと美貌とファッションセンスをもっている。そんな女性があちらこちらを歩いている。
しかし、3,40代を過ぎるとその容姿は一気に革命を起こす。
ロシア人曰く「じゃがいもおばあちゃん」。マトリョーシカのようなふくよかな体型、ロシアの母なる大地を体現したかのような恰幅のよいおかあちゃんになってしまう。
ロシアの家庭ではだれよりも女性(母)が強いのだという。
しかし最近では離婚率もとても高く、出生率もかなり低いらしい。これも女性の自立の現れ??
スズタリというのどかな村
モスクワを少し離れるだけで、とこのような緑が広がる
ロシアは大地に対する信仰や愛着がとても強いという。
どこかうそくさく幻想的な宮殿の美しさも確かにすばらしいが、ロシアの悠然とした大地やのどかな風景の美しさもまたすばらしい。
モスクワからサンクトペテルブルグの間の村をすこし巡ったに過ぎないが、ゆるやかに広がる野原はとてもすがすがしかった。日本のように急峻な山があまり見当たらず、とても見通しが広いのだ。
このような豊かな自然に触れることができたのもロシアを訪れた収穫だった。