2015/08/25

疑問が湧いてくる授業

何か質問はありますか?

といって、質問が出ることは滅多にない。
だからといって、教師は「質問が出なくてよかった。疑問は氷解した」と思っていいのだろうか?
ほとんどの授業は、最終的には「質問が出ないこと」を目的に行われる。
その常識を疑ってみたい。
学問は、知の世界は、質問、疑問によって発展してきた。
「質問はありませんか?」と聞かれて、黙って分かったつもりになっている態度からは、決して知は生み出されない。
だから、授業のゴールを「質問、疑問が出なくなること」とするのではなく、「質問、疑問が湧いてくること」をゴールにしてみるのだ。
教師を困らせるくらいの質問を、深い疑問を、この一時間の授業で考えてごらん、と。
そんな授業はどうやったらできるのだろうか?

国語の話し合いと社会の話し合いでは何が違うのか?

「言語活動の充実」が言われ出してから、それぞれの教科で話し合い活動が取り入れられるようになってきた。
国語以外の教科の授業で話し合いの活動を参観する機会が増えた。他教科の授業で話し合いが行われていると、私はつい国語科的な視点で見てしまう。
国語科と、他の教科での授業での話し合い活動は何が違うのだろうか。
私が最も感銘を受けたのは、ある社会科の授業だった。
その授業では、原発問題について、グループで解決策を話し合う活動をしていた。でも、やはり問題があまりにも難しく、話し合いは一向に進まない。ついに黙りあってしまうグループもあるほどだった。
授業後、国語科の私と、社会科の先生の授業に対する評価は正反対なものだった。
「あれだけ沈黙して考えることができたから、この課題はよかったんだ」と。
国語科的な視点で話し合いを考えると、どうしても、教師はあの手この手で話をさせようとする。発言が止まってしまったり、盛り上がらなかったりしたらひやひやしてしまう。しかし、社会科の授業ではそうではなかった。
話している言葉の量、会話の盛り上がりではなく、どれだけ真剣に考えていたか、課題と向き合おうとしていたかを問題にしていたのだ。だから黙っていても思考は働いていればいいし、表面的な発言量は問題にはならないのだ。あの社会の授業は、話し合い活動について目を開かされた出来事だった。

2015/08/22

ギャンブルには夢があるか?

空襲から命からがら生き延びた、まんじゅう屋の祖父は、若い頃よく千葉けいりんに入り浸っていたそうだ。
我が子(つまり私の父)が盲腸になって、のたうち回っていたとき、その手術代を稼ぎ出したのも千葉けいりんだった。そんな祖父の博才に由来する武勇伝を、89歳で亡くなるまで私は何度となく聞かされた。
博打もまんじゅう屋もいまいちで、結局店を潰した子(つまり父)は、やはり若い頃パチンコにはまっていた。私もよく京成千葉駅のパチンコ屋に連れられていったことを思い出す。
しかしある時期から父は、ぱたっとギャンブルから足を洗う。それは、パチンコにはまる自分のそばで、幼い我が子(つまり私)が、床にはいはいしながら、落ちている銀玉を拾って打ち出そうとしたのを見たからだったという。
そんな父は、現在では宝くじを買うのをささやかな慰みとしている。
会うたびに「東京のマンション買ってやろうか?」が口癖だ。「こんど、サマージャンボ当ててやるからな!」というおまけつきで。
きっと、パチンコも、宝くじも、競輪も競馬も、一切やらない人生だったら、ずっと色々ものにお金使えただろうなあ、勿体無い!と思うんだけど、もちろんそんなことは口が裂けても言えない。
私はギャンブルには手を出していないけど、それにはまる理由は遺伝的に理解している。
きっと、欲してるのはお金ではない。いわんや未来ではない。結果が明らかになるまでのつかぬまのひととき、今、わくわくしていたいという気持ちなのだ。
だから父は「宝くじを買ったよ」ということは言うけど「当たったよ」「外れたよ」という結果を話すことほとんどない。本人も、買ったという今、期待しているというひととき以上に、当たり外れの結果にはそれほど関心がないのかもしれない。
でもいつか東京のマンションを買ってほしいと、子供はひそかに期待している。

学校で一番大切な時間は、休み時間!

学校生活で一番大切な時間って? 授業? 部活動? 掃除? ホームルーム…… 
いささか逆説的かもしれないけど、それは「休み時間」だと私は思っている。「休み時間」を過ごすために学校に来ているのだ。そう信じて疑わない。
勉強が得意な生徒も、そうでない生徒も、休み時間はどの生徒も自由でいられる、楽しむことができる、のびのびできる。そういうクラスならば、きっと授業でも、他の活動でも、自由でのびのびと取り組むことができるはずだ。休み時間が充実していない、心が満たされないクラス、学校ほど、窮屈なものはない。
これは煎じ詰めれば、人生の価値にもつながってくる。
あなたは仕事をしている時間と、それから解放されて自由でいられる時間と、どちらの時間が自分にとって価値があると思うだろうか……そう考えると自ずと答えは出てくるのだ。
だから、どんな練りに練った授業よりも、子どもたちが楽しみにしている休み時間よりは価値がないと思っているから、私はよっぽどのことがない限り、休み時間を削って授業を延長することはない。
だから、どんなに素晴らしい学級経営でも、休み時間が悲惨なものとなっていれば、それは失敗だ。

2015/08/20

Appleミュージックはアリか?〜クラシックの場合〜

Appleミュージックとは、毎月千円足らずの定額で、あらゆる音源が聴き放題になるサービスである。
このサービス、三ヶ月間はお試し期間で無料で利用できるので早速登録してみた。その一ヶ月間の感想である。

で、結論。これはやめられない。
とくに、以下のようなクラシック好きの聴き手にとっては魅力的なサービスとなることだろう。とくにクラシックファンに向けてレビューを書いてみる。

1、聴き比べが好き
クラシックの醍醐味は何と言っても聴き比べだろう。同じ作品を、他の指揮者は、他のオーケストラは、ソリストはどのように演奏するのか、その微妙な解釈の違いを楽しむのが王道だ。
そんな聴き方をする人はAppleミュージックはうってつけだ、なんといっても、一つの作品を検索すると、古今東西、名盤からマイナー盤までズラッと並んだラインナップの中から選ぶことができるのだ。私の好きな「マタイ受難曲」を検索したら、何十タイトルもの中から選んで聴くことができたのには感動した。単なる摘み食い的なチェックのためだとしても月千円の元はすぐに取れてしまうだろう。(もちろん、YouTubeのようなストリーミングで聴くだけでなく、iPhoneやiPadなどの端末にもダウンロードし、保存することができる)

2、マイナー作品も聴いてみたい
マタイ受難曲のような有名な作品だけでなく、聴いたこともないような作品にも触れることができる。かなりマイナー作品をカバーしている。私は、CDを買うにはやや勇気がいる現代作品や、普段はあまり聴かないオペラ、ジャズなどの他ジャンルにも気軽にチャレンジしてみようという気になった。
このAppleミュージックのおかげで、もうすでに何人ものお気に入りのミュージシャンを見つけてしまった。

3、CDの管理が不要!
音楽好きなら、ウン10年も聴き続けていたらきっと部屋中がCDの山だろう。聴いているうちに、傷をつけてしまっったり、どこかに無くしてしまったりして管理が面倒だと感じている人もいるかもしれない。そんなものぐさな人にこそAppleミュージックはオススメだ。CDやレコードのような高音質は期待できないが、それさえ気にしなければ、溢れかえるCDの山からすぐに解放される。聴きたいときに、聴きたい作品をすぐに聴くことができる。これはかなり心地いい体験なのだ。騒がしい通勤電車内で音楽を楽しむような人にとっては、まさにうってつけのサービスだろう。

どうですか? なかなかいいでしょう? 是非一度お試しを。


2015/08/19

異国における異文化を受容する方略に関する一考察〜これはこれでありだよね体験〜

旅先で強烈に体験する異文化の筆頭にあげられるのが食事だろう。
どんなに風光明媚でも、趣きのある遺跡があっても、現地の食べ物が「うっ」というものだと、旅行期間中はある程度は気合を入れなければいけなくなる。それでハラを壊したら旅行どころではなくなる。つまり我々は「食べる」という行為を通して、旅行者は異文化をどう受け入れるかが試されているというわけだ。
異文化である食事をどのように楽しんでいけばいいか、おおよそ、次の5つのパターンがあろうかと思う。

1、「和食だったら…‥みたいなものかな?」パターン
例)「インド人にとってのカレーって、日本だったら味噌と醤油みたいなものでしょ?」
このように、日頃親しんだ食事のスキーマに当てはめて、異文化を理解しようという方略である。

2、「この料理に醤油かければいけるでしょ」パターン
他の例)「これにマヨネースがあれば最高!」
このように、既存の文化を日本の食文化で染め上げるという態度である。実際に海外にマヨネーズや醤油を持参するという荒業もある。やや文化侵略的な後ろめたさが伴う。

3、「これはこれで、こういう食べ物だと思えばありかも」パターン
例)「メロンに生ハムって…‥、こういう食べ物だと思えばありかも。」
このように、メロン=単品のデザートという固定観念にとらわれずに、現地の食習慣、食文化の文脈で味わおうとする態度である。こういう発想で攻略できれば、その現地での食事をかなり楽しむことが可能になる。

4、「食べても死ぬわけじゃないから、大丈夫」パターン
どうしても切羽詰まった場合に使う方略。大丈夫だと思っていたらあとで本当に危なくなって腹を壊してしまうこともしばしばあるから要注意。

5、「来世に◯◯人にうまれ変わったら食べよう」パターン
パターン4まで努力してもどうしても喉を通らないことがある。
イヌを食べたり、サルの脳みそを食べる国もある。
そういう国に出かけたときは、泣く泣く、5の方略を選択して食事は遠慮することとなる。

この5つのパターン、たかが食事、されど食事。食文化を通して、異文化と向き合うときの姿勢や心構えを示していると言ったらいいすぎだろうか。
願わくば、どんな異文化に直面したときでも「これはこれでありだよね」「こういうものだと思えば味わえるよね」と思えるくらいの懐の広さは持ちたいものだ。



2015/08/11

見るアホウから踊るアホウへ

昨日懇親会でお話しした、徳島の先生のお話しが興味深かった。
昨年までは中学校の校長、今年からは、ある大学の教員をやっている。とてもパワフルな女性の先生で新しいものもいいと思ったらすぐ取り入れていく。
今年の提案では、校長として学校をあげて「ホワイトボードミーティング」に取り組んだ学活の実践を提案されていた。
その先生が、しみじみと語っていた。
「この研究会って、偉い先生の教えをみんなで学んでいくという会ではなくて、みんなが自分なりに学んできたこと、工夫してきたことを学び合うところがいいと思うんですよね。どうせなら、見るアホウじゃなくて、みんなで踊るアホウになる方が楽しいでしょ」と。
だから、どんな実践でも、いいものはいいと受け入れるし、そうでないものはダメと批判される。
若手が提案して、それを大御所が上から教えを垂れて指導するスタイルではない。よくある教師向けのセミナーのように、すごい先生の話を一方的に聞いて学ぶというものでもない。ワカモノも、ベテランも、小中学校の教員も、大学の教授も、全く同じ時間のワクのなかで、今まで学んできたことを提案しあい、協議しあう。
とかく流派や派閥にとらわれがちな国語教育において、こういうゆるい研究会は、地方レベルではあるのかもしれないけど、全国レベルで実践家や研究者が集まるのはほとんどないのではないか、そしてそれがどうして難しいのか、なかなかに考えさせられるお話しだった。

2015/08/10

能力をより繊細に定義することができるか

授業研究は、面白い授業、効果的な授業について探るのは当たり前のことなんだけれども、それをもっと突き詰めていくと、どんな能力を取り上げるべきかという能力論に行き着く。
例えば「聞く力」について授業で取り上げるとして、それにはどんな能力があるか、ひとことで「聞く力」といっても、その中には無数の能力が埋め込まれているはずだ。
それの具体を一つ一つ取りだし、学習者にどの能力がついていて、どれが足りていないのか、「聞く力」のどんな系統が考えられるのかを繊細に捉えられているだろうか。こういう能力論に対する分析、考察は、系統主義だろうと、経験主義だろうと、どちらのスタンスに立つにせよ、およそ授業を考えていく際に避けることのできない不可欠な要素だ。
「学習指導要領に書いてあるから」も一つの根拠にはなりうるけど、それだけでは目の前の学習者をみとることはとうていできない。それでも学習指導要領はかなりよく書けているから(個人であれほどの系統性を立ててカリキュラムを作れる研究者はいないだろう)、それを参考にしつつも、よりかみ砕いて、より繊細に、授業ごとにカスタマイズしていくことが重要なのだろう。

話題に論理がくっついてくる〜絵日記を論理的に書かせる愚〜

論理的に話したい、書かせたい場合は、論理的な文章が引き出されるような話題、テーマを設定することが最大のポイントだ。
授業で往々にして見落としがちなことは、論理的な文章の「形式」はしっかりと教えているんだけど、それを活用する「内容」、つまり話題、テーマの選択がいまいちで、そんなテーマじゃあ、論理的なものにならないよ、というようなものとなっているということだ。
例えば、「論理的な文章」で「夏休みの絵日記」を書くことはできるだろうか、できるかもしれないけど、それはかなり無理があるテーマじゃないかな。論理的にする必要性が感じられないし、論理を積み上げるというよりも、時系列的に、描写的に書く、物語という文体が似つかわしい。
こういう例に限らず、全ての表現は、形式と内容が密接不可分なものとして考えるべきだ、(考えてみれば当たり前なことだ。何かの「メッセージ」を伝えたいために「形式(文体)」を選択するのが自然な表現行為の流れなのだろう)だから、「論理的な文章」という形式を教えたいという場合は、どういうテーマだったら論理的な表現が必要感と必然性をもって引き出されるかということこそ、まず第一に教師は考えるべきなのだろうし、そのテーマの設定にこそ教師のセンスが求められる。
(ここでは「論理的」を例に挙げたけど、談話でも、他の文体でも全く同じだ)

2015/08/05

会話分析の知見から「きくこと」を捉え直す

 聞き手の力、質問の力とは何なのか。これまでぼんやりと考え続けてきた。聴衆に向かって一方的に話すプレゼンのような独話と、話し手と聞き手が質疑応答をしあう、やりとりのある対話的活動とは何かが違うようだ。そこには、話し手、聞き手の構えが本質的に異なるのではないか。
 調べていくうちに、社会学の領域では会話分析、さらにそこから発展したエスノメソドロジーという学問領域があるというのを知った。エスノメソドロジーとは人々(エスノ)が暗黙のうちに従っているルールや規範などの方法(メソッド)を記述する学問のことをいう。会話分析では、人と人との会話のやりとりに焦点を当て、会話に潜む目に見えないルールの存在を次々と明らかにしていっている。この会話分析の知見から、授業改善へのヒントを得ることができるかもしれない。

会話分析の入門書としては以下の三冊がおすすめ。






「会話の順番取りシステム」と聞き手の価値
 会話分析が明らかにした基本的な会話のルールに「一度に話せるのは一人」というものがある。考えてみれば当然のことだ。どんなに大勢でも、聖徳太子のような人が相手でない限り、話す人は一人だけだ。だから会話とは「一人の話し手と、一人または複数の聞き手が、何度も入れ替わる発話のやりとり」であると定義することができる。そしてその素朴な発見から、会話分析の研究が大きく進んでいくことになる。それは「話し手がいつ交代できるかというタイミング(完了点)のルール」と、「話し手が交替するときに、次に誰が話すか決めるルール(会話の順番取りシステム)」についての知見である。(H.サックス)

会話の順番取りシステム(次に話す人はどのようにして決まるか?)

A 現在の話し手が次の話し手を選べば、その選ばれた人に話す権利と義務があり、順番がかわる。

B 現在の話し手が次の話し手を選ばなかったら、最初に話し出した人が話す権利があり、順番がかわる。

C AでもBでもない場合は、現在の話し手がそのまま話を続けることができる。


 このように、自由な会話の中では、発言する順番は上記の見えないルールが存在していることが明らかになっている。この場合の「次に話す人を選ぶ」というのは、普段の生活では、必ずしも具体的に指名をしたり、挙手をさせたりするわけではない。日常では、指名や挙手の代わりに、話し手や聞き手の目配せやうなずき、身体の向きといった微細な身振りが順番交代の合図として機能している。
この「会話の順番取りシステム」の知見として重要なのは、会話は、誰かが一方的に話したり、他の人が聞いたりする行為であるととらえるのではなく、双方が話し手(聞き手)となる可能性を常に持っているという前提があるということである。「会話という場」に参加する人々が、いつでも交換可能な存在として、発話のタイミングをはかっている「駆け引き」が行われていると捉えるということだ。
 会話分析における話し手と聞き手との関係ついて、西阪(2009)は「活動の空間的および連鎖的な組織: 話し手と聞き手の相互行為再考」『認知科学』16-1: 65-77.」のなかで、

 「会話分析」の伝統においては、相互行為における発言の組織が、話し手の一方的な決断にもとづくのではなく、つねに聞き手との協働のもとで成し遂げられること、このことが当初よりその主張の中心にある。

とのべ、具体的に、会話における聞き手の役割を次のように述べている。

 現在の話し手が、次の話し手の選択を行っていない場合、現在の順番の実際の終了は、いずれかの聞き手が、その可能な完了点において自ら話し始めるかどうかにかかっている。つまり、現在の発言順番がどのような大きさとなるかは、しばしば聞き手の出方に依存している。
 (中略)
 あるいは、可能な完了点(筆者注 会話が終わりそうなタイミング)において、聞き手はあえて「順番を取るのを控えること」をすることがある。例えば、現在の発言が可能な完了点にいたったとき、聞き手は「ん」とか「ええ」とだけ言うことがある。そうすることで、一方で、自分が順番を取ってもよい場所がいま出現しているという理解を明らかにしつつ、他方で、その場所で実質的な順番を取ることなく、順番交替の機会をあえてやり過ごす。こうして現在の話し手はさらに発言し続けるよう、いわば促される。だから、可能な完了点を超えて発言が続くという事実も、聞き手との協働の産物でありうる。

 このように、会話分析の立場から「聞き手」の役割をとらえると、そこに「話し手」を支える「聞き手」の能動的な存在を再確認することができる。「聞き手」はいつでも「話し手」に交代しうる、「待機する」存在であった。それは裏を返せば「聞き手」の沈黙は「黙って行儀良く聞いている」というだけではなく、「あなたが話し続けていいですよ」「あなたに話す権利を委譲しますよ」という承認や支持、促進のメッセージとしても機能することも示す。これは、一方的に話し、それを一方的にきくスピーチなどの「独話」とは大きく異なる対話の特徴なのではないか。(より本質的には「スピーチ」も聞き手との対話なのだろうが) 聞き手が話し手と場を共有すること、そこで聞き手として「待っている」こと。話し手の話を「期待」しながら聞き、いつでも聞き手がその会話に介入しうる、「待機する」存在の呈示そのものが、「話し手」の自律と責任を促す。その両者の駆け引きの緊張感こそが「話しがい」のある関係性となっていくのではないか。会話における「聞き手」とは、このように会話という相互行為の場において「待機」し「期待」して、引き出されていく話し手の語りを「待つ」人であるということができる。

鷲田清一も「聴く」「待つ」ことの価値について論述している





②生き生きとした対話を引き出す「隣接ペア」

もう一つ、会話分析が明らかにした重要な知見は、どのような言語であっても、会話のやりとりには連鎖的につながるパターン(「隣接ペア」という)が存在するというものだ。例えば、目の前にいる人が「こんにちは!」と挨拶をしてくれば、見知らぬ人とでも反射的に挨拶を返さなければと感じるだろう。挨拶のような決まり文句は「隣接ペア」の分かりやすい例であるが、それだけに限らず、我々の会話のなかには、依頼ー受諾、提案—承認、質問—応答、激励—感謝などの「投げかけ—応答」の連鎖的なパターンがあり、その隣接ペアのパターン、ルールに従いながら会話をしていることが明らかになっている。
 たとえば、「ただいま」と言えば、「お帰りなさい」とこたえる。この「お帰りなさい」という言葉(第二発話)は、「ただいま」という発話(第一発話)によって引き出された言葉である。投げかけられる第一発話によって、第二発話はあらかじめ規定されている。その隣接ペアのルールをあえて破って会話をしていくことは、実は容易なことではない。(相手に失礼に感じさせたり、ちぐはぐした会話になる)何気ない会話のなかにも「隣接ペア」というルールが厳然と存在している。 
隣接ペアのルール
 ①2つの発話からなる。       
(例「ただいま」(第1)—「おかえりなさい」(第2)
 ②それぞれの発話は隣り合っている。
 (隣り合う=連続して発話される)
 ③第1発話と第2発話の話者は異なる。
 ④第1発話の次に第2発話が来る。
 ⑤第2発話は、第1発話の影響を強く受ける。
この知見によって我々が学ぶことができるのは、会話には、お互いが自由に、好きなように発言をしているように見えて、その中には無数の「隣接ペア」のような「投げかけ—応答」のフォーマットがあるということだ。これを対話学習に活用できないだろうか。
 しばしば教室での「交流」が、順に自分の考えを述べ合うというような、情報の報告会に終始するのは、そこに生き生きとした対話(話し手と聞き手とが相互にやりとりし合う)が存在しないからではないか。
 生き生きとした対話、相互作用の場とするためには、「投げかけー応答」などの「隣接ペア」の活用が効果的である。たとえば、意見を順に報告し合う「独話」スタイルの交流から、「質疑—応答」「提案—承認」「勧誘—受諾」のような「隣接ペア」の埋め込まれた「対話」スタイルへと意図的に変えていくのだ。
 意見や感想を一方的に伝えるよりも、「聞き手」からの依頼や質問をうけて、それに応じて「話し手」が語り出すスタイルにした方が話し手のモチベーションは高くなる。そして対話が引き出されていくものである。「聞き手」を一方的な情報の受け手とするのではなく、「話し手」との対話を促す存在へと変えていくために、やりとりを生み出す「隣接ペア」のフォーマットを意識的に活用することが有効である。

③「成員カテゴリー化装置」によってコミュニケーションをずらす
 最後に、会話分析から得られる知見として有益だと思われるものを一つ取り上げる。それは「成員カテゴリー化」という概念である。「成員カテゴリー化」とは、会話を通して話し手、聞き手の立ち位置が自然と浮かび上がってくる作用を指す。
 例えば、筆者は中年男性であり、夫であり、千葉県出身であり……というさまざまなカテゴリーに属する主体である。しかし、学校という制度的な空間の中で、15歳の少年と会話をする、そのやりとりの中において、筆者は「中学校教師」となり、15歳少年は「生徒」というカテゴリーに属することになる。「成員カテゴリー化装置」とはそのように、会話などの相互作用を通して立ち現れてくる立ち位置や役割をうながす暗黙のシステムを指す。この「成員カテゴリー化装置」には以下のルールが内包されている。

「成員カテゴリー化装置」の運用ルール
【経済規則】 ある人を特徴付けるには一つのカテゴリー集合で十分である。
【一貫性規則】同一の場面内であれば、ある集団に含まれる人がカテゴリー化される場合、最初の人に適応されたカテゴリー集合が以下の人にも適応される。
この運用ルールからわかるように、人とのコミュニケーションにおいては、そのコミュニケーションのやりとりを通じて、自ずとお互いの立ち位置や役割が一つに規定され、そしてその規定に沿って行動や会話が仕向けられるということである。
 重要なのは、そのような役割や立ち位置が、初めから決まっているわけではないということだ。人は、会話を通して、複数のカテゴリー(男性、夫、教師etc.)の中から、一つのシンプルな役割(中学校教師)に導かれていく。筆者が「教師」でいられるのは、社会的な身分だけでなく、より本質的には、生徒や同僚とのあいだで「教師らしく」会話し、振る舞っているからに他ならない。また、そのようなカテゴリーに属していることによって、状況や関係性に埋め込まれている固有のコミュニケーションの様式を、自然に身につけていくことになる。(教師らしく話せるようになってくる)
 さて、この「成員カテゴリー化」という概念を、学習にどのように活用していくことができるだろうか。
 「中学生」は、コミュニティーの中でさまざまな表情を見せる。学校の中では「生徒」として、家庭では「子ども」として、部活動では「先輩」としてetc.……それらの相互の関係性がコミュニケーションの質を、表現の幅を規定している。実社会では、教師は教師らしく、医師は医師、芸能レポーターは……それぞれが、それぞれの社会的な立場に応じたコミュニケーションの様式、スタイル(文体)を獲得し、活用している。
 中学生が豊かなコミュニケーションを学び、生み出すためには、「生徒」というカテゴリーをずらし、多様な関係性と、さまざまなコミュニケーションのスタイルを学ぶ場を与えることが効果的なのではないか。たとえば、擬似的ではあるが、生徒がニュースキャスターになってリポートしてみる、親と子の関係を演じてみるなど。このようにして「生徒」というカテゴリーをずらし、話し手、聞き手の関係性をずらしてみることによって、日常生活に埋め込まれたコミュニケーションの暗黙の前提を振りかえる契機となるのではないか。このような視点に立てば、「成員カテゴリー化装置」の概念を、授業改善のヒントとして活用することが可能となる。
 このように、会話分析の知見(会話の順番取り、隣接ペア、成員カテゴリー化装置)から、授業を開発するためのヒントとしていきたい。

人間関係と「会話の輪」

よくコミュニケーション教育の文脈では、人と人との親和的な関係とか信頼感が重要だと言われる。
それはそれでおおむね間違いないんだけど、本当に現実はそれだけなのかということについては一考する価値があるだろう。
たとえば「会話の輪に入る」「会話の輪に入れない」とか「蚊帳の外にいる」という感覚がある。(この場合「輪」とは一対一ではなく三人以上のコミュニケーションの中で、一人が疎外感を感じるような状況をいうことに注意して欲しい。)
それは、イコール人間関係ができていないからだ、と言い切れるのか?
たとえば、親子三人で会話をしている。と、その親子の会話が、ふとしたきっかけで夫婦の会話になった、そのときに、「会話の輪」から外れた子供は蚊帳の外になり、疎外感を感じてしまった。
その夫婦はそれに気づき、会話の輪に我が子を参加させようと配慮する、または、子供がむりやり夫婦の会話に加わろうとする、その配慮や努力によって、会話の輪は広がり、親子全員が会話に参加した状態になった。
もう一つ例を出す。
ある教員向けの研修会があったとする。その研修会に初任の先生が参加していた。すると、話題があまりにもレベルが高すぎてついていけない。だから、会話がいくら盛り上がっていても、初任の先生は会話の輪には入れなかった。それを見かねた他のメンバーが、初任の先生を会話の輪に入れようと気を使ってくれたおかげで、なんとか初任の先生も会話に参加することができた。
さて、この二つの例は、どちらも「良好な人間関係」を前提にはしていないことをあらためて考えて欲しい。家族だって、赤の他人が集まる研修会だって、疎外感を感じることはあるし、逆に、会話の輪に加わることはできる。つまり、どんな関係性でも会話の輪ができるときとできないときがある。
それはざっくりと言ってしまえば「人間関係を構築する力」と言えちゃうかもしれないけど、それだけでは何も言っていないに等しいのではないか。
それには、もっと、態度的なものだけでなく、知的な能力やスキルのようなものが介在しているのではないか?
「会話の輪」に参加する能力、「会話の輪」を感じる能力、「会話の輪」を広げる能力という、会話という「言論の場」をメタ認知する能力がここでは問われているのではないか。
結局、こういう発想がいまいち浸透していかないのは、コミュニケーション教育の一番の落とし穴は、一対一で話したり聞いたりという状況を前提としているところにあるのではないか?
「会話の輪」は一対一ではなく、三者以上の関係性のなかで顕在化する。
そのなかで、三者がどのような会話の順番を取り、話題や語彙の選択などをするか、誰が参加するかという繊細な駆け引きがおこなわれる。
そのような「会話の場」「言論の場」という場に対する感覚や責任感のような態度を、コミュニケーションの能力に含めてもそろそろいいのではないか。

2015/08/04

寸鉄は人を刺すか?

何かを批判したい、物申したい、意義申し立てをしたいとする。
そのときに、どの程度の「文の長さ」なら効果的に伝わるのか。
ここで問題にしたいのは「内容」ではなく、あくまで「文量」だ。
話し言葉なら、大声で叫ぶ、目を怒らせるなどの身体的な表徴でそれを伝えることはできる。しかし文字言葉ではそれはできない。デジタルの場合、字の大きさも均一だ。
長く書けば書くほど思いが伝わると思いきや、どうもそうではないと感じているのが私の予感。
相手に読む気をなくさせるような文量では意味がない。
かといって、短いスローガンや練りに練ったキャッチコピーでは、受け手が噛み砕く必要があるものはスルーされる可能性もある。
寸鉄は必ずしも人を刺さない。
反対に、内容なんてほとんどないような(シャれじゃないよ)いちゃもんも、たくさんの文量がならんでいると「こりゃ、相当な批判だなあ」とか「批判が盛り上がっている」と印象付けさせることがある。
読み手にじっくり考えさせるより、読み飛ばされても、雰囲気を感じさせたい場合、長々と言葉を羅列する「言葉のデモ行進」という手法もあるかもしれない。
要は、内容よりも量なんじゃない?
量って重要だよね、書いたもん勝ちだよね、という時代になっているような予感がするのだ。
紙時代の書き言葉は「原稿用紙何枚」ってあらかじめ文量が決められてから書くものだった。しかしデジタル時代に突入し、文量はほとんど無限大にまで膨れ上がった。だれでも、どんな内容でも、書きたいだけかけるようになった。
だからこそ、読みとばされるわけだし、書きなぐらせてしまう時代になった。
そんな時代の「寸鉄」とは、一体何文字くらいが適切なのだろうか。

2015/08/03

学問は、限度の発見だ。

できた。多分できた。
夏の自由研究「中学生はどのように質問で引き出しあっているか」のレポートが。
自分としてはなかなかの満足した出来になったと思う。
というのは、実践を通して「できたこと」と「できなかったこと」、「良いところ」と「悪いところ」について、突き詰めて書くことができたと思っているからだ。
どんな実践、方法、思想だって、手放しで「いい」とか「悪い」と断じることはできない。どこまではよくて、どこに課題があるのかを明らかにすることこそ「研究」の名に値するのではないか。(だから、ある「実践」なり「方法」「思想」を手放しで賞賛しあう研究団体みたいなものこそ、最も「研究」の本質から遠い集団なのかもしれない)
「学問とは、限度の発見だ。」
とは、わたしが惚れている坂口安吾の言葉だ。(「不良少年とキリスト」の中の一節)
更にその先には「私は、そのために戦う。」とも。
「戦う」というほどの悲壮な覚悟は、まだ私には持ち合わせていないけれども、今後もじりじりと「限度の発見」をしていきたいと思う。
(きっと夏の大会で発表したら、いっぱい「限度」が見つかるのだろうけどなあ…‥)