2015/07/31

倉澤栄吉先生の思い出

といえるのかどうか分からないけど、私にとって、ほとんど唯一と言える思い出がある。
いったい何年前だろう?、そのときは、私はとある公立中の教諭だったんだけど、××大での月例の研究会で発表をする機会をいただいた。
当時の勤務校は結構大変な職場だったので、がむしゃらに取り組んだ実践をかき集めて、とにかく数で勝負!と思い勇んで、研究発表に臨んだのだった。
当時、××大の月例の研修会では倉澤先生が毎回のようにいらっしゃっていて、私の発表の会でも臨席されていた。(もう80代後半?90台くらいはなずだったがかくしゃくとされていた。)
私にとっては「国語教育のレジェンド」のような存在の方だ。そんな先生に、私の未熟な発表をどのように聞いてもらえるのだろうか、と不安で仕方がなかった。
私の発表はなんとか終わった。すると、「はい!」とすっと手が上がった。
倉澤先生だ! 
なんど先生が、私の発表にコメントをしてくださるとは?!
しかし、こんな質問をいただいたのは、後にも先にもこれっきりのことだろう。
それはこんな質問だった。
「先生のアイディアの豊かさには敬服しました!
 ところで、普段はどんな映画を見ているんですか?」と!
えっ?どんな映画??
今にして思えば、先生の質問の真意は、こういうことなんだろう。
倉澤先生の興味は、きっと「アイディアの源」にある、教師自身の言語生活を知りたかったのだと。
国語教師がどんな映画を見て、どんな小説を読み、何を話し、書いているか、その日常のありふれた言葉の生活の中に、アイディアや授業の源があるのだと、そういうことなのだろう。
(当時は何て不思議なことを倉澤先生は質問されるんだろうと感じていたけど)
その発表会の後、感動して感謝のはがきをしたためたら、すぐに直筆のお葉書を頂戴した。
その文面も非常に味わい深いものだった。当時倉澤先生がこだわっていた「唱歌」の一節を引用し、「あなたの中学校でも子どもたちと一緒に歌わせてご覧なさいと。」

倉澤先生が亡くなった知らせを聞いたときに、すぐにそのはがきを家中探し回ったけれども、先生のはがきはついぞ見つからなかった。

研究授業に参観者向けの「学習発表会」はアリ? ナシ?

大勢の先生方を集めて授業を公開する。その研究授業をどのように「見せる」か、頭を悩ますものだろう。失敗して授業者が恥をかきたくない、かっこいいところを見せたいという「見栄」がない人はいないはずだ。
とくに一番大きく頭を悩ませるのが、何時間展開もの授業の、どこを切り取ってみせるかという点だ。
「研究授業」であれば、なにがしかの「研究」の一端を提案することが縛りとなる。だから、その「学習の成果」を伝えるのか、それとも「成果に至る学習のプロセス」を伝えるのかで、ジレンマが生じる。(本当はぐんぐん学び取っていくプロセスこそが「成果」なんだけどね)
つまり、6時間扱いの授業だったら、最後の6時間目の「まとめ」の授業を「成果」として見せるのか、3時間目くらいの途中経過を見せるのかという問題だ。
最後でも、途中経過でも、どちらの展開も一理あるので、一概には判断が難しいが、個人的に参観者として面白いのは、何ていっても途中経過だ。子どもたちがどんどん学んでいって、変わっていくさまが見て取れる授業だろう。
反対に、最後の「発表会」のような授業だとかなりがっかりしてしまう。(悪いと言っているわけではない)それでも、見せ方に多少なりとも子どもたちの工夫やアイディアがあればまだいいけれども、延々と、何グループも似たり寄ったりの発表を見させられるとうんざりしてしまう。(とわたしが思うくらいだから、子どもはもっとうんざりしているのだろう)
つまり、「授業の成果を共有するのは誰か?」っていう問いなのだ。
一番イヤなのは、研究授業のなかで、子ども同士がお互いに発表を楽しみあっている姿がちっともなくて、参観する教師のために、見せ物にされているような授業だ。(「観客」のために、俺たちの発表を見せつけてやろうというくらいの魂胆が子どもたちにあればまだいいけど)
そういう「見せ物授業」はちょっと観察すればすぐ分かる。
・子ども同士の学びのためではなく、教師(参観者)に向けて発表している
・お互いの発表を聞いていない、関心がない。
・表情から学びが感じられない。
そんな授業、一体誰のためにあるの? 何のためにあるの?
見せ物である前に「授業」でしょう?
「教師向けの発表会」に一体どんな学びがあるの? 
そんな「猿回し」のような「研究授業」が、もし日本のどこかで行われているのだとすれば、世の中から根絶されることを切に願う所存である。

2015/07/26

言葉がおもすぎるのはよろしくない

小さいころ好きだったのは、植物図鑑とか、画集、写真集だった。かこさとしのえほん「地球」とかも大好きだ。なんで飽きないんだろうというくらいに、何度も何度も、時を忘れて眺めていられた。ゴッホとか北斎の絵とか大好きで、真似してお絵かき帳に描いたりもした。(絵のセンスなんて全然ないけど)
小説はある日突然読みだしたんだけど、もちろん好きは好きなんだけど、言葉がおもすぎると感じると、それ以上読めなくなる。それだったら、言葉なんて必要ない絵本や画集、写真集を眺めているのが好きだったりする。
音楽だってそうだ。音楽そのものは大好きなんだけど、歌謡曲は苦手。メロディーは好きでも、日本語の歌詞がどうしてもだめなのだ。むしろ歌詞があるなら意味なんか分からない外国語のもののほうがよっぽどいい。やっぱり言葉がおもすぎるからだ。言葉が気になりだすとひたれないという性分らしい。
なににつけても、言葉がおもすぎるのはよろしくない。

聞くより読むほうが得意 〜読み聞かせが苦手な私の弁明〜

聞くより読むほうが得意という認知的特性の人は結構いるのではないだろうか?
少なくても私はそうだ。
たとえば、レジュメを渡されて、言葉を尽くして丁寧に「話して」説明されていても、実はほとんど私の頭に入ってこない。(聞く気がないわけじゃないよ、苦手なだけ?)
それよりもレジュメの「書き言葉」をつつーと読んでしまうほうがずっと早く、正確に理解できる。
絵本とかの読み聞かせもそう。
目の前にある絵本を、上手に音読して読んでもらう。語り手の話し言葉に置き換えられ、表現されているものを聞き取ってイメージする。これは本当に「誰にとっても」理解しやすい方法なんだろうか?
それだったら、その絵本を貸してもらって、すみから、自分の好きなペースで、行きつ戻りつしながら読むことができる方が、私にとってはずっとわかりやすく、楽しい読書体験だ。
「読み聞かせ」って、ある程度本を読めてしまう人にとって、聞くよりも字を読む、見るほうが得意な人にとって、(聴覚よりも視覚優位な人にとって? 継時処理より同時処理のほうが得意な人?)どのような価値を持つのだろうか。声で聴いて理解するのが苦手な人には読み聞かせはさしたる必要はないという程度のものなのだろうか?
読み聞かせっていいよね、いいに決まっているよね、楽しいよね、味わえるよね、という雰囲気にはどうしてもなれない、悲しい自分がいる。
図書館系の人、みなさん好きな人が多いようだから。

2015/07/25

公開授業よりもビデオ検討で。

とある国語教育研究会では、夏の全国大会ではコンサートホールのようなところで行われる。そして、なんと大ホールのステージ上で研究授業をやるのが恒例となっている。
夏休みの半日、1クラスの生徒を連れてきて、ステージ上で机と椅子、黒板を並べてショー?いや、授業を行う。
ステージ上での授業なのでどう考えても無理がある。グループ活動、話し合い、制作系のワークショップ型授業は無理だ。いや、無理ではないけど、ごちゃごちゃと生徒が動き回るのは「見せ物」にならない。
だから大抵、発問ー応答型の一斉授業か、学習発表会形式になってしまう。かならずしもそれが悪いとは思わないけど、研究授業として、いつまでこんな、非生産、非効率的なことをやっているんだと感じてしまうのも事実だ。
ライブで生徒、教師とのやりとりを見たいという気持ちはわかる。しかしどう考えてもステージ上での授業がリアリティーがあるとは思えない。
日常の、普通の授業から学ぶなら、理想は研究授業という形ではなく、普段の授業を参観しに来ればいいのだろう。(少人数で)
その次善の策は、ビデオで撮影して、授業の様子を検討することなのだろう。
こういう、わたしにとっては当たり前の発想が、なかなか教育界では根付かないのが不思議で仕方がない。

聞き手は待ち手である。

誰かの話を聞く、話し合う。その時の聞き手は、単に話し手の話を聞き取り、吸収し、理解する、受動的な、スポンジのような主体として存在しているのではない。
より本質的に言えば、聞き手とは、「待ち手?」(待っている人)なのではないか。
この「待つ」には二つの意味がある。
一つは、他者からもたらされる新たな意味との出会いを、または、出会いという出来事そのものを待つ、「期待する」という意味だ。
もう一つは、他者との対話的な関係の中で、どのように自分が関与していくか、切り込んでいくか、その機会を「待機する」という意味だ。
だから、本当によく聞いている状態とは、他者との対話的な関係の中で、対話の力を信じ、「期待」と「待機」のある、待ち手としての存在となっているかどうかということなのだろう。

「儀礼的無関心」を学習する都市、教室

電車のイスに座ると、隣に見知らぬワカモノが座っていた。朝ごはんのサンドイッチを頬張っている。ときおり、サンドイッチを頬張るタイミングでワカモノの肘が私の脇腹を小突いている。
そのサンドイッチがどんなに美味しそうでも、「うまそうだね」とか、「一つだけちょうだい」なんてことを私が親しげに話しかけることはできない。変なオヤジだと思われて、無視されるのがオチだ。
電車のなかでは、肩を寄せ合い、肘を小突き合う他人は空気のようなものとして無視する、無関心を装うのがマナーとなっている。(これを社会学では「儀礼的無関心」と言っている)
でももしこれが電車の中でなく、学校の職員室では? 家のリビングでは? 田舎の田んぼ道のなかではどうだろう?
「儀礼的無関心」はひしめき合う都市特有の、学習される不自然な身振りだということは知っておいても良い。
ところで学校でも「儀礼的無関心」を学習しているということはないか?
教室というスペースのなかで、一人のオヤジ(職業は教員らしい)が一方的に話している。
それがどんなに面白くても、疑問に思っても、子ども(職業は生徒)が「面白いですね」とか「なぜ……なんですか?」と逐一質問して話しかけたら「授業」は成り立たない。
だから教室でのマナー、ルールとして「黙って聞く」という「儀礼的無関心」が学習されることとなる。
そこでの対話的関係は、実生活とかけ離れた、極めていびつで特殊なものであるということは、入学当初の小学生の様子を見ればよく分かる。
このようにして、学校、教室というシステムでは「話すこと、聞き合うこと、話すこと」という対話的な空間から、「話すこと、聞くこと」への独話空間にシフトしていくのだろう。

独話システムから対話システムへのパラダイム更新

「話すこと、聞くこと」というくくりは、独話を前提とした発想。
そこでは、ひとりが一方的に話し、それを一方的に聞く「聴衆」が存在する。しかし、片方だけが話していたり、聞いたりすることは、実生活、実社会ではほとんどないのでは?(学校の授業くらい?)
実生活、実社会では「話すこと、聞くこと」ではなく、「話すこと、話すこと」の対話的関係がほとんどだ。そこでの聞き手の「沈黙」は、一方的に聞く身振りではなく、「あなたが話し手ですよ」「次に話す権利をあなたに与えますよ」というメッセージとして機能している。(ソシオメソドロジーの「会話の順番取りシステム」の知見から)
だから、より厳密に言えば
「話すこと、聞くこと」は「話すこと、話すこと」の対話的関係が前提としてあるし、それをもっと言えば「話すこと、聞き合うこと、話すこと」なのではないか?
「話すこと、聞くこと」というくくりのなんとも言えない不自然さはその辺に起因してるに違いない。
大事なのは、独話のなかの、見えない対話的なやりとりを感受すること、聞こえない他者の声を聞こうとすること。

私の勉強法。

①知りたい分野のテキストブックの中から、最も親しみやすいもの、わかりやすいものを選ぶ。→(例「ワードマップ 会話分析・ディスコース分析」をチョイス。)




②とりあえず①で選んだ本を通読する。わからないところは気にせずどんどん読んでいく。

③図書館で関連するテキストをごっそり借りてくる。そして重ね読みする。このへんで、①で分かりづらかったことがわかってくる。(例「会話分析への招待」など)

④もう一度、①のテキストを読む。自分の関心に近いところ、ポイントだと思われるところはややしっかりと読む。ネットで調べたり、関連する論文をサイニーなどで検索したり。キーワードなどはノートにまとめる。(例「エスノメソドロジー」っていうのも面白そうだぞ)

⑤関連する論文を読んでいく。わからなかったり、他の分野に興味が移ったら①に戻る。(以後繰り返し)

なかなか初心者ゾーンから抜け出せない。しかし、初心者っていうのはいくつになってもワクワクするものだ。で、いつになったらろんぶんを書き始めるのだろう…‥。

2015/07/19

待つことと聞くこと

「待つ」という言葉は実に含蓄のある言葉だ。
「待つ」ときに人は何を「待って」いるのだろうか?
おそらく、自分の力の及ばぬこと、知り得ないこと、どうにもならない事態になったときに、唯一とり得る積極的な身振りが「待つ」ということなのだろう。
コミュニケーションを、他者との相互作用によって共に意味を作り上げていくプロセスと捉えるならば、自分の力の及ばぬ他者に対して、最終的にとり得る身振りは「待つ」ということなのだろう。他者という存在を待機し、招待し、待遇し、そして期待する。
人は「待つ」という身振りをどうやって獲得していくことができるのだろうか。
「待つ」ことの難しいこの時代に。

なぜ人の話を聞くことができないのだろう。
それは「待つ」ことができないからなのでは。
「待つ」とは、他者の、自分の力の及ばぬこと、どうにもできないこと、知り得ないことに対してとる身振りだ。他者を自分の思い通りに操作したいのならば待つ必要はない。他者が自分の想定内で、予想の範疇に入っていると思い込んでいるのであれば待たなくてもいい。そもそも他者を必要としないモノローグでよしとする構えであるならば、待つのは面倒なだけだ。
他者を待つことのもっともシンプルな身振りが「待つ」ということだ。
効果的な質問とか、頷きとか、アイコンタクトとか、そういうものも必要かもしれないけれども、より本質的には、他ならぬ他者の存在を「待って」「待ち続けて」いるかどうかなのだと思う。


待つ力というものはあるか?
待つ力、何かをじっと耳を澄まして、感性を研ぎ澄まして待つ姿勢や態度、これを能力と言えるだろうか。
待つことの力を、忍耐とか我慢とかそういう表現の他に言い表すことはできないだろうか。

待てない人と待てる人は何が違うのだろうか?
待てない人はなぜ待てないのか?
待てる人はなぜ待てるのか?
それらは生得的な性格なのか、後天的に獲得されうる能力なのか。

2015/07/18

他者の始まりは「蓼食う虫も好き好き」体験から

他者が他者として、自分とは相容れない理解不能な人として立ち現れる、その最も象徴的でわかりやすい例はなにか?
それは「好み」であると思う。
自分が嫌いなものを大好きな人がいる。自分が大好きなものを、他の人はちっとも分かってくれそうにない。
そういう「蓼食う虫も好き好き」体験が、他者の存在を認識することのできる格好の題材なのだろうと感じている。
だから、他者の愛する理解不能なものがあることを、理解する。
自分の愛するものを、それを理解しないかもしれない他者に伝える。そういう経験の両方が重要なのだろう。

他者の欲望に欲望する
と同時に、人は理解不能な他者の理解不能な欲望に、たまらなく欲望してしまうらしいのだ。
社会学の「欲望の三角形」は面白い概念だ。これは、人が好きなものにつられて自分も好きになってしまう、欲望を模倣したくなる心理らしい。
たしかに、親父がうまそうに飲んでいた酒は、子ども時代たまらなく美味しそうに感じたものだったし、友達が持っている新発売のゲームソフトは喉から手が出るほと欲しかった。
ある知り合いの女子は、友達の彼氏を略奪することを生きがい?に感じていたようだった!!
他者がたまらなく好きなものは、自分もつられて好きになったり欲しくなったりするのが人情というものらしい。
多分、教育を思いっきりシンプルに語ろうとすれば、他者の欲望を欲望する原理にあるのかもしれない。
大人や社会が理想とすること、欲望することを、子どもも模倣し内面化していく。
ようは、教師、大人、そしてクラスメートという準拠集団が、何を欲望しているかということに勝る作用は、なかなかないようなのだ。
教師、クラスメートたちが、力強く「好き」を語り合うことの価値はそこにあるのだろう。

中二病な大人?

中学生のころ、斜に構えるのがかっこよかった。
クラスで前向きな発言をする女子(秀才)がいると、「どうせそんなの無理だよ!」とか「なんでー、めんどくさい!」とかつい言ってしまう。(ついで、その女子が可愛かったりすると、さらにヒートアップしてしまう)
つまり、始末に置けないくらいにめんどくさいアホだったわけだ。わたしは。
大人になってようやく、そういう中二病なところからは、多少距離を置いてみることができるようになった。可愛い異性にも少しだけ素直に接することができるようになった。
ただ、大人になってからも、「斜に構えることのかっこよさ」の誘惑にしばしば駆られることがあるのも事実だ。
「そんなの絵空事だ」「もっと現実を見よ」「どうせ無理だ。変わりっこない」などなど。
そういう「斜に構えた発言」は、さしたる根拠を示さなくても、十分いわくありげだし、重々しいし、頭が良さそうにさえ装える。だからそういうことを言われると、「わたしは何も知りませんでした、ごめんなさい!」と思わず謝りたくなってしまう。(何にたいしてかは謎だけど)
でも、そういう斜に構えたリアリストだけでは、世の中は動きそうにないのもまた事実らしいのだ。
世の中を明るいものに変えるのは、斜に構えた言葉からは生まれない。ましてや絶叫からは生まれない。そういう中二病な誘惑を振り切って、それでもなお発せられるノーテンキな発想が、姿勢が、案外周りを変えていくものなのかもしれないのだ。
そう信じて、これからも、もう少しだけうろうろしていきたいと思っているのだ。

「心の体力」という対象化

ちょんさんの考え方で一番ユニークだと思うのは「心の体力」という概念だ。
「心の体力というものがある」と一度インプットされると、自分の心理状態を対象化して捉えることができるようになる。
「気が晴れない」とか、「イライラする」「ムカつく」というのではなく、「いまは心の体力が弱っている」と考えることができれば、自分の状況を冷静に眺めることができるようになってくる。
支援する方も「あいつの性根を直してやろう」という構えではなく、「心の体力を強くしする、温かくするためにはどうすればいいんだろう」という問題設定に変わってくる。
心が冷える、温まるというのも、まったくそのとおりで、自分の力が思い通りに出せなくて鬱屈している状況だったり、ショボンとしているときは身体は固く、冷え冷えとしている。
その反対に、心が軽く、生き生きと力を発揮し、気持ちが解放されているときは、身体の芯がオキのように適度に温まっている。
こういう身体感覚と気持ちとは、面白いくらいにビッタリと寄り添っているものだ。だから、心は体、体は心なのだろう。「心の体力」というのは。

2015/07/13

対話が深まれば深まるほど、他者が顕在化する

今日のディスカッションで一番面白かったのは、対話の中で、聞き手の受容的な姿勢はどこまで必要なのかという点だった。
相手を尊重し、受容することが大事なことは言うまでもない。でも、相手をどこまでも受け入れることはできるのか、そうするべきなのか。
ここでは「受容」とはいったいどういうことなのか考える必要がある。
「受容」はややもすれば、安易な同調、一体化、うなずき合いになってしまう。
そうではなくて、本当に受容的な構え、相手を尊重することを突き詰めると、相手と自分自身の違和にぶち当たる。そのズレを認めるということになる。
深い対話をすればするほど、相手と自分の立ち位置の微妙なズレに気づき、ズレを共有し、そのズレを心地よいものと感じることができるんだろう。
対話とは、自分の目の前の存在を、自分にとって必要な違和、他者として認識し、その違和から生まれる何かを楽しむ作法なのだ。

リフレクションの問いの即効性と遅効性、あるいは問いの射程距離

リフレクションでの「問い」の機能は、自己内対話を促すという点にある。
その「問い」は他者から与えられる場合もあるし、自己内で省察することもありえる。
しかしどちらもより本質的には、問いによって、自己内対話のサイクルが回り出すかどうかということなのだろう。
リフレクションにおいて、メンターからの問いにすぐに反応する場合もある。もう一つのパターンとして、メンターからの質問に、その場では答えられなくても、その言葉が一日、一週間、そして一年、胸に引っかかり続けて、ひょんなきっかけでその問いが蘇ってくるケースもあるんだろう。
だからメンターによる引き出す質問の効果は、即効性と遅効性の両方あると考えるべきなんだろう。
そう考えると、リフレクションでの「引き出す問い」のやりとりでは、性急な成果を望まないという姿勢こそが最も大切なのかもしれない。

質問の射程距離
リフレクションでの問いには即効性と遅効性があるらしい。
そう考えると、今すぐに解決できる「近い問い」「小さな問い」と、長いスパンで考え続けることが大切な「遠い問い」「大きな問い」の、そういう射程距離の距離感覚が必要なのだろう。
この「問い」の面白いのは、小さな問いを積み重ねて大きな問いに繋がってくるルートと、大きな問いから無数の小さな問いが生起するルートの二つがあることだ。
リフレクションに必要なのは、小さな問いにある大きな問いの存在に気づくこと、大きな問いから、小さな問いへと腑分けしていくこと。その両方の循環、往復をすることなんだろう。

2015/07/10

単元「わたしの素」〜本との出会いのこれまでとこれから〜

「わたしの素」ができるまで
中学3年、読書生活を振り返る学習。
学首指導要領では、中3「読むこと」の言語活動例に以下のように示されている。
「自分の読書生活をふり返り、本の選び方や読み方について考えること」。
「読書生活をふりかえる」とはどういうことか、「本の選び方や読み方について考える」とは何をどうすることなのか。
授業をする二ヶ月ほど前から、それをぼんやりと考え続けていた。
ぼんやりと考え続けてたある日、学校図書館をうろうろと眺めていたら、次の本と「出会った」。

『ほかの誰も薦めなかったとしても今のうちに読んでおくべきだと思う本を紹介します。 』
この、長ったらしい名前の本は、角田光代、森達也、村上陽一郎、上野千鶴子、木田元、金原瑞人などのそうそうたる執筆陣が、14歳の少年少女にむけて、「今のうちに読んでおけ」という本について熱く語っている本だった。
この本に登場する方々は、どれも10代に強烈な読書体験をしている。そして自分の人生に影響を与えている1冊を、いくつになっても熱く語り続けることができる。
これだなと思った。
本にはそういう力がある。読書の力とはそういうものなのだ。
「読書生活をふりかえる」というのは、単に一日何分読んだとか、何冊読めたというレベルの話ではない。今までの人生の中で、あるいは日々の生活の中で、どのような一冊と出会い、そして自分の運命を変えていったか、切り開いていったのか、そのルーツまでたどらないことには「ふりかえる」なんていうことにはならないのではないか。
この風変わりなタイトルの1冊と出会ったことで、授業の発想が一気に膨らんできた。

授業を構想するとき、私はまず授業のタイトルから考える。
最初の案は「私のつくり方」・・・・・うーん、そういうことなんだけどちょっと違うなあ。「つくり方」っていうような、外側からこしらえる感じじゃなくて、もっと内的な必然性に導かれるようにして、一冊の本と人は出会っていくのではないだろうか?
悩みに悩んで、最終的には「わたしの素(もと)」という授業タイトルにした。
「わたしの素」。「味の素」みたいに、自分という存在の、「味」を作り出す要素のようにも読める。また、「もと」をたどっていく、ルーツをさかのぼっていくようなイメージにも連想が進んでいく。これはなかなかいいかもしれない。
このような紆余曲折を経て、ようやく一ヶ月前に、授業のおおまかな構想が固まった。

「引き出す質問」を学ぶためにはどうすれば良いか
この授業のもう一つのねらいは、「わたしの素」の交流を、一方的に伝え合う活動にするのではなく、質問を通して引き出し合う活動にすることだった。「引き出し合う質問」を学ぶ学習活動にしたかった。
「質問」ということでいえば、ほとんどの生徒が日常的に「質問」はしている。分からないことを教師に聞いたり、興味を持ったことを友達に「質問」したり。
しかし、世の中で必要とされている「質問」は、もう少し広がりのある概念だ。自分が知りたいことを「質問」するだけでなく、相手の気持ちや考えを引き出すときにも「質問」は用いられている。
「今日の体調はどう?」
「君のこの取り組みは、どのへんをゴールにして進めているの?」
「この話し合いのテーマが何か、もう一度確認しませんか?」など。
このように、相手の意向をうかがったり、相手との相互関係の中で新たな文脈を作り出すことも社会生活における「質問」の大きな働きの一つだ。
また、コーチングやカウンセリング、ファシリテーションといった職業の専門性の根幹にあるのも、このような相手やチームの力を引き出すための「質問」にあることはいうまでもない。
これらの質問は、自分が知りたいことを聞く、分からないことを質問するというタイプの「質問」ではない。そうではなくて、相手が話したいこと、相手が解決したいこと、相手が心の中でもやもやしている部分をクリアにするために行われる「引き出す質問」だ。
このような後者の「引き出す質問」を日常的に使えるようになって欲しい。すぐには使えなくても、中学生が「引き出す質問」を意識できるくらいにはなって欲しい。そういう願いから「引き出す質問」の授業プランを考えることにした。
「引き出す質問」を学ぶことの難しさは、いままでの「分からないことを聞く」というタイプの「質問」から「引き出す質問」というものがあるんだということへ発想を転換するところにある。
このような「引き出す質問」について、理論や理屈で中学生に説明しようとしてもそれは無理なことだ。そういうやり方でなく、「引き出す質問」を一気にイメージできる便利な方法はないか?
それはある。生徒の身近な生活の中で「引き出す質問」を目にする機会が、実はある。
それはテレビのトーク番組だ。
トーク番組では、ゲストを番組に招き、ホストから質問を投げかけ、ゲストの魅力を引き出していく。阿川佐和子や黒柳徹子という対談の名手がいる。「さんまのまんま」の明石家さんまがゲストに質問する「振り」も、そういう「引き出す質問」の一種だろう。トーク番組には「引き出す質問」のワザが縦横無尽に飛び交っている。
このトーク番組というフレームを使い、中学生を「ゲストの魅力を引き出すホスト役」にしてしまえばいいのだ。そうすれば、くだくだとこちらで説明をしなくても、一気に「引き出す質問」をイメージさせることができる。このような発想から、授業のフレームを「トークショー」とすることにした。
去年この学年で行ったビブリオバトルの手応えも、この「わたしの素」のヒントとなっている。
「質問」についてより詳しくは、ひとつ前の記事「質問考」へ
なお、この実践のトーク番組のフレームを使った先行実践は以上の文献に詳しい。中学校における「対話」学習の実践研究として筆頭にあげられる一冊だろう。先達はあらまほしきことなり。『国語授業における「対話」学習の開発』


読書生活をふりかえる仕掛け、三冊読書
今回の「わたしの素」では、今までの人生で出会った本の中から三冊をチョイスして紹介し合う活動を行う。
この「三冊」というのが意外にキモだったりする。
取り上げる三冊は同じようなものは避ける。(例えば「名探偵コナン」1巻、2巻、3巻みたいに)
三冊は、なるべく違う時期、違うジャンル、内容のものとするようにさせる。
一冊とか二冊でというのは比較的スムーズに決まる。ちょっと多そうだったら四冊という手もある。しかし三冊選ぶというのは不思議と難しいのだ。
プラスとマイナス、白と黒だけでなく、第三項を選ばなければいけない。そのため「三冊」は、選書が立体的なものになってくるようなのだ。そんなバカなと思うかもしれないけどやってみるとそれが実感できる。三冊は悩ましい。
今まで読んできた本を絞り込むこと、これだけでも、一体何を選べば良いか、どのような本を組み合わせれば良いかと頭を悩ませることになる。ためつすがめつ、昔読んだ本を引っ張り出して、読みかえしていくことになる。それを三冊組み合わせて、立体的に「わたしの素」を表現しなければならないのだ。このように「三冊に絞りこむ」というプロセスを経ることで、これまでの読書生活を立体的に捉え、ふりかえる意識へと、一気に高まっていくこととなる。
※なお、三冊を立体的に組み合わせる発想は、松岡正剛の「三冊屋」をヒントにしている。こんなところにも「編集」が潜んでいるのである。

いろいろと能書きをたれたけど、ここからが授業の実際となる。

単元名
「わたしの素(もと) 〜「本との出会い」のこれまでとこれから〜」

授業の概要
今までの十四、五年間の人生で出会った本の中から、印象に残っている一冊、大好きな作品、夢中になって読んだ本など、人生を変えた!というような本を紹介し合う活動をし、読書経験を共有していく。

授業の展開(全三時間展開)
1時間目 本との出会いをふりかえる
①単元の概要を確認する。
(授業については、一週間前に生徒たちには予告しておいてある)
②教師のデモンストレーションをみて、学習のイメージをつかむ
 教師とゲストとで「本との出会い」のトークショーをする。(「徹子の部屋」みたいなやつね、と言ったら一気に生徒とイメージを共有することができた)
③「本との出会い年表」を書く
④③の年表の中から、「わたしの素」を三冊に絞り、フリップに書く。(下写真)
このフリップや本の実物を提示しながら次の時間のトークショーが進んでいく。

(例)「〇〇さんの素」の三冊と、それに添えたコメント
3歳『さるかに合戦』……必ず最後に正義は勝つのだ!!
小学校3年生、『名探偵コナン』……あまりのおもしろさに人生を後悔
中学校1年生、東野圭吾『パラドックス13』……ミステリー系にドハマリ

このように、フリップには、それぞれの本の下に簡単なコメントが添えられている。
インタビュアーは、本の内容や、添えられたコメントという限られた情報から質問の切り口を考えていくことになる。
(写真の赤い付箋はトークショーで交わされた質問。トークショーを終えた後に貼ったもの)

2・3時間目 「わたしの素」トークショー
五人グループを作り、一人ゲストを決めて、そのゲストの読書体験を質問して引き出し合うトークショーを行っていく。
なお、授業は次のような展開で行っていった。

①トークショーの打ち合わせ(3〜4分程度)
ゲストは退席してグループから離れる。
その間、インタビュアーである四人は、ゲストが提示したフリップから質問内容を考えたり、質問を調整をしたりする。
質問が重複していないか、質問の順序は適切かなどを考えていく「作戦会議」を行っていく。この打ち合わせの段階で、すでに「引き出す質問」のメタ認知が高まっていくことになる。

②トークショー(7分くらい)
ゲストを拍手で出迎えてトークショーが開始。
それぞれの質問者は「二問ずつ」質問をしたら他の人にバトンタッチをしていく。(トーキングスティックであるぬいぐるみがバトン代わり)
この「二問」というところにもこだわりがある。
一問目は①の「打ち合わせ」で事前に考えておく質問。
二問目はアドリブでその場で考える質問。
言うまでもなく重要なのは、二問目のアドリブ質問だ。
二問目の、即興的に考える質問をひねり出すためには、ゲストの話を真剣に聞き取って、文脈を押さえ、どのタイミングで、どのような問いを切り込めばいいか考えていくことになる。特に、自分が知りたいことではなく、相手を引き出すための質問を意識していかなければならない。しかも、前の質問者や後に続く質問者の質問内容も意識して、上手くつないでいかなければならない。そのため、この質問はかなり難易度の高いものとなる。さすがにフリーハンドでは難しすぎると判断して、その支援として、質問のパターンをカードにしてテーブル上に並べておいた。
(全員ではないが、このカードを頼りに質問を考える姿は見られた。だから一定の効果はあったと言える。しかし、上手くトークの文脈をつなげるように質問を繰り出していくのはなかなか難しかった。きっとこれは大人でも難しいことなのだろう)








この「質問のカンペ」は、トークショーで質問として交わされそうな内容を片っ端から分析してカードに書き起こしたものだ。質問が思い浮かばなくなってしまったら、このカンペをチラ見しながら即興的に質問を思い浮かべることになる。(別にこのカードの言葉を言わなければいけないというものではない。ヒントカードのようなもの)
こういう学習言語、学習語彙を、子どもの活動内容に合わせて提示する手法は、先日、つくばの研修で学んだJSLカリキュラムの発想を参考にしている。

テーブルのセッティングは以下の通り。

三冊を紹介するフリップボード、質問のカンペ(質問の文型をカードにしたもの)、ゲストからのフィードバック用のカード、一問目の質問をメモするための付箋、トーキングスティック(ぬいぐるみ)、各グループの交流を録音するためのボイスレコーダー。

③ゲストからのフィードバック
ひとしきりトークショーが終わったら、ゲストから、このトークショーの質問をフィードバックしてもらう。
このフィードバックでは何も示さずにフリーに話してもらっても、もちろんいいんだけれども、そうなると「楽しかったです」で終わってしまい、浅いものとなってしまうことを危惧した。そこで、以下の四つのパターンをカードで示した。
(なお、この四つのパターンは、ゲストにとってフィードバックを引き出すという意味だけでなく、インタビューアーにとっても、トークショーの目指すべきゴールを共有するためのものとして機能していく。このトークショーの最高のゴールは「考えてもいなかった気づきを得る」ようなインタビューとなることだ。)
ゲストはトークショーが終わると、このカードを示しながらトークショーのフィードバックをコメントしていくこととなる。
よかった質問は? よかったところは? 質問を受けての感想は? などなど。

このような流れでトークショーのワンサイクルが終了する。

※なお、事後に、「わたしの素」の三冊、「本との出会い」年表、「本との出会い」の「これまで」と「これから」を振りかえるコメントを含む内容で、八つ切り画用紙に表現して掲示物にして他のクラス、学年とも共有していく予定。これは夏休みの宿題とした。

さて、この「わたしの素」の試みは、ひと言で言って、とても面白いものだった。
「思い入れのあるとっておきの本」というトークの題材、そして、それを引き出し合う仲間の存在、それを楽しむトークショーという虚構のフレーム、それらの相乗効果で、この交流は熱をおび、大いに盛り上がった。

実はこの授業は、学芸大の岩瀬先生も飛び入り参加をしてくださった。
あるクラスでは、1時間目のトークのデモンストレーションを岩瀬先生と。もう一つのクラスでは2時間目のトークショーを参観していただいた。
授業後、岩瀬さんから長文のフィードバックをいただいている。
このフィードバックが、活動場面での子どもたちの様子や、この試みの課題を知ることのできる何よりのレポートであると考え、最後に、以下、全文を紹介させていただく。


【授業参観記:長文】

今日は〇〇中学校の▲▲さんの授業を参観させていただいた。かねてから自分と同じ「匂い」を感じていた▲▲さん。今回突然のお願いにもかかわらず快くお引き受けくださり、研究室の院生の方々ら6人と一緒に2時間参観させていただいた。

一番の感想は「幸せな気持ちになった」だ。ボクは授業を参観するときに、そこに子どもとして座って授業に参加している自分を想像する。子どもである仮想の「ボク」は、本当に楽しそうに授業に参加していた。
そして生徒の皆さんが幸せそうに語り合う姿を見ていて、ボクも本当に幸せになった。

授業は、「わたしの素~「本との出会い」のこれまでとこれから~」。これまでの人生で出会った本、大好きな本、自身の人生に影響があった本など「わたしの素」になっている本を3冊選ぶ。その選んだ3冊についてグループごとに交流する授業だ。
グループごとに「徹子の部屋」のイメージでトークショーを行う。一人一人がゲストになり、グループのメンバーが「徹子役」(ファシリテーター)として、ゲストの「わたしの素」を引き出していく。

中3の皆さんは自身の「素」となった本について本当に嬉しそうに語っていた。思い入れのある本にはエピソードが埋め込まれている。本との出会い、その頃に体験したこと、本とのつながり。グループのメンバーはいかにゲストの魅力的なエピソードを引き出すかを「質問」でチャレンジしていく。全3時間の単元なので質問をブラッシュアップしている時間はあまりない。
そこは▲▲さんが周到に準備されていて、「質問カード」が各グループに配られている。
例えば、「具体性を引き出す質問」、「記憶を引き出す質問」、「感情・イメージを引き出す質問」等々。それぞれのカードに質問例が載っている。
これは、ボクがブッククラブの実践で使っていた「質問例集」に近いものを感じた。
http://d.hatena.ne.jp/iwasen/20140121
このカードを手がかりに質問をしていくわけだが、話し手に
「話したいストーリー」
があるので、次々に魅力的なエピソードが飛び出してくる。
ボクは生徒の皆さんのトークについつい引き込まれていった。うっかり質問したくなるくらい。ある生徒が語っていた『遠い町から来た話』は、帰り道で思わずアマゾンで注文してしまったほど引き込まれた。院生の皆さんもやはり参加したくなった!と言っていた。それくらい豊かな学びの場だった。こんなステキな授業を見たのはいつ以来だろう。
中3男子が「オレ、小学校の頃、黒魔女さんシリーズ読んでたんだよ−!」と嬉しそうに語っているのも何ともステキだった。

1時間はあっという間に過ぎていった。
「続きはまた次回」の言葉に「えー!」という声が出たところに、いかにいい時間だったのかがわかる。ボクももう終わりとは信じられない!というぐらい時間が短く感じた。
たった3時間の単元(今日は2時間目)でここまでできることに素直に驚いた。もちろん日頃の授業での積み重ねがあるからこそだろうけれど、その時間で深められるような丁寧な準備。その丁寧さが▲▲さんの実践を支えているのだろう。そしてきっとその準備はとても楽しいはずだ。(ボクもそうだったから 笑。▲▲さんほど丁寧じゃなかったけれど・・・・)
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以下印象に残ったことをざっくばらんに。
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・場の雰囲気がとてもやわらかく、もはやワークショップ。トークショーというフレーム、トーキングスティック(ぬいぐるみ)や、本の紹介用パネル、わざわざゲストの人は一旦退出して拍手で入場、と場を楽しむ仕掛けがふんだん。生徒の皆さんもそのフレームを楽しんでいた。時間が来ると、▲▲さんは「CM入りました-」笑。こういうユーモア、ステキだなあと思う。
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・トーキングスティックを回していってグループのメンバーが交代で質問するというルールになっていたのだが、回していないグループもあった。▲▲さんが「ぬいぐるみいる?どう?」と1回目と2回目の間に問いかけると、「いるー!」「いやされるー」。「じゃあ使おうか」。何気ないやりとりだが、この学習を共同で作っていくという▲▲さんの立ち位置が表れているなあと感じた。「共同修正」は授業はもちろん、学級経営でもキモになるとボクは思っている。一緒に作っていくもの、なんだと考えているからだ。
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・この授業は中学生に限らず、大人も十分楽しみ、深まる授業だ。ボクは「いい学びは年齢を問わない」を信念にしてやってきたが、この授業はまさに!だ。完成度の高い、豊かな学びのワークショップ。授業後▲▲さんに「授業のこだわりはなんですか?」とお聞きしたら、「大人に通用しないことを子どもにやるのは失礼だから、大人にやらないことは子どもにしない」とおっしゃっていた。この共通点は本当にうれしく、そしてそれを高い次元で実現している▲▲さんはすごいと改めて感じた。
▲▲さんはきっと授業を構想するときに「その授業に参加している自分」を見ているのではないか。自分もやりたい学び。だからこそ、生徒の皆さんの様子をあんなに嬉しそうに観察されていたのだろうなあと想像した。「自身を学び手として設定して授業や学級を考える」という視点は、ボクたちにとって一番大切なのかもしれない。
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・4時間目はこの授業の導入だったのだが、ボクもゲストとして生徒の皆さんの前でトークをさせていただいた。すごく緊張して汗が止まらなかったが(笑)、とても楽しい時間だった。話しているうちに「これも聞いてもらいたい」ということが湧き上がってくる自分がおもしろい。「ああこれを話したい」というときにそれを引き出す質問が出てくるか、違う方向に行ってしまうか、ということが起きるということも実感できた。
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・この授業を貫いている問いは、「いい質問(インタビュー)とは?」。この場合いい質問は、どういう質問だろう。①インタビュアーが聞きたいこと ②ゲストが話したいことでは質問が違ってくる。ゲストの主訴を意識して質問を組み立てるのもおもしろそうだ。作戦会議の作戦の方向性を定める感じだろうか。
そしてトークショーというフレームでは「お客さん」がいる。
お客さんを意識するかどうかで質問が変わる。
そのあたりを深めていってもおもしろいなあと感じた。そのためには、例えば、ゲストとインタビュアーがペアでトークショーを行い、他のメンバーは「お客さん」役にしてはどうだろう。金魚鉢の要領だ。インタビュアーにとって「お客さん」の聞きたいことはなんだろう、という視点が生まれて、いい質問についての洞察が深まりそうだ。トークショーをメタに見る視点も生まれる。これはボク自身が、生徒の皆さんの前で渡辺さんにインタビューしたときの実感から生まれたアイデア。観客を意識するとゲストとしてもインタビュアーとしても質問や話すことが変わっていく。その意味ではトークショーという場は豊かな可能性が含まれている。
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・一つだけ欲を言うと、7〜10分という時間はあまりにも短い。これは中学であるという現実的制約上やむを得ないのだろうけれど、もっと長い時間設定にしたいなあと思う。「いい質問とは?」を深めるためには、もう少し質問する機会が必要に感じた。トークショーとしては「いよいよここから」というところで終わってしまう班もあった。
また、時間に余裕があればどこかの班のプロトコルを読んで、生徒自身が質問の機能を分析してもおもしろいなあと思ったが、これは欲張りすぎか。いずれにせよ「語りきる」みたいな時間ができるとホントに幸せだろうし、生徒の皆さん同士のつながりもより生まれただろう。そう、この授業は「本」を媒介に生徒同士がつながり合うデザインの授業でもあったのだ。ああ、やっぱり短くても1人20分はほしいなあ。
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・昼食を取りながら院生の方々の質問にも丁寧に答えてくださり、ただただ感謝。ここには詳しく書かないが、評価の話や、「いらないものを捨てていく」という授業づくりの話、「やらなきゃいけないこと」と「やりたいこと」の関係など、院生の皆さんには今後の支えになる深い話をしてくださった。飾らず本音で話してくださるので、院生も激しくうなづきながら聞いていた。ああ、ありがたいなあと思う。
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・ボクが大学生の頃、東京学芸大学の平野朝久先生は、バスをチャーターして全国の小学校に連れて行ってくださった。「いい子どもの学びをたくさん見ておいてほしいんですよ」とニコニコしておっしゃっていた。ボクはその時が教員としての原体験になっている。「すべての子どもには力がある」「すべての子どもは学びたがっている!」を具体的な姿で知ったことで、自身の信念になった。
今回、▲▲さんの授業を院生と共有できたのは、まさにあのときと同じだ。いい学びを実際に見て体験すること。これ以上の教師教育はもしかしたらないのかもしれないなあと思う。中学志望の院生は、未来の可能性を感じたと思う。ボクも未来を感じた。

院生の方々には、自主ゼミでぜひ実際にやってみて「学習者」を体験してほしい、それによって今日の学びがより深まるはずだ。
こんなにステキな授業を見たのはいつ以来だろう。本当に幸せな1日でした。これからも足繁く通わせていただこうと思います。本当にありがとうございました。

あ、一つ書き忘れましたが、
▲▲さんの授業に「持続可能性」を感じました。
特別なんだけど特別じゃない。
先生の肩に力が入っていないし、無理してない。自然体。
生徒にも過度に要求しない。生徒もまた自然な学びの場。
この自然さと「続けられる感」って今の多くの学校教育の実践にかけているなあと。

そしてなにより、両者の「やりたい!」が詰まっている授業でした。
これが授業の原点だと思うわけです。
▲▲さんの本への愛情を感じました。

「あこがれにあこがれる」ですね、▲▲さん。

引用終わり。
そう、そうなんだ。「あこがれにあこがれる」
子どもが好きで好きでしょうがないモノ(ここでは本)へのあこがれに、教師である自分も寄り添って一緒に伸ばしていくということ。
教師があこがれているモノ(ここでは本)への熱い思いに、子どももつられて好きになっていくということ。
その両方のベクトルが授業を作り、人を育てる営みの根幹となる原理となるのだ!


「質問」考

「質問」のジャンル、表現様式はどうなっている?
思いつきだけど、「質問」とざっくりといっても、そのなかには様々なジャンル、言語様式が含まれていると感じる。
先生への「質問」と、友達と休み時間におしゃべりする「質問」とはなんとなく違う。目的、語彙、機能、口調など。
ヒーローインタビューの「質問」、謝罪会見の「質問」はちょっと違う。
カウンセラーの「質問」、コーチングでの「質問」も似て非なるものだ。
弁護士、政治家、セールスマンの「質問」は?
トーク番組の、黒柳徹子の「質問」と、阿川佐和子のそれ、さんまのそれとはかなり違う。
LINEの「質問」とYahoo!知恵袋のそれとは同じじゃない。
これら全て「質問」と一言でざっくりとくくってしまっていいのだろうか?
ひょっとしたら、「質問」ってかなり広大な言語世界が広がっているのではないだろうか?
それらを一望してみたら「質問」の世界について何かを知ることができるかもしれない。


質問の文法
質問は必ずしも疑問詞とか終助詞「か」がつくとは限らない。
「お前がやったんだろ?」「明日も来てくれるかな?」というような推測を投げかける質問や、
「これじゃないですよね?」という念押し、確認型の問いかけ(付加疑問文?)もある。
「え?」という問い返しの技もある。
「大丈夫?」というような語尾をあげて疑問にする表現もある。
要は、質問の機能とは、相手から情報を引き出したいのか、同意や共感を得たいのか、そもそもの相手の感情、欲望を察知したいのか、これらの意図の違いによって、文字だけ見れば似たような質問の表現でも、音声のニュアンスやイントネーションが異なってくるのだろう。
「質問」が「詰問」になったり「押し付け」や「依存」にもなったりする。(文法的定義はいい加減)


質問に見せかけた意見、詰問
よくあるのが、最初から意見、結論ははっきりしているのに、それを疑問文の形で投げかける「質問」だ。
「……でいいんですか?」
「……なんじゃないですか?」
「……と思いますが、そのてんはどうですか?」
こういう感じの質問は、たいてい自信たっぷりの強い語調で投げかけられる。
で、たいていの人は、意見を対立させるのが面倒なので
「……まあ、そうですね」とか「はい……」と言葉を濁す。
こういう詰問型のピンポンゲームのようなコミュニケーションを、サッカーのボール回しのような対話型コミュニケーションに変えていくためにはどうすればいいんだろうか?
「なんじゃないんですか?」という「問い」を相手のものとして押し付け、投げかけるのではなく、
「なんじゃないかと、わたしは思うんですが」と、自分自身の前提を自分に問いかける、または
「なんじゃないかと思いますが、どうでしょうねえ」と、問いを2人の対話の場で共有できればかなり風通しが良くなるかも。
それができないから、息苦しい詰問になってしまうのだ。


「話を振る」「水を向ける」という感覚
やはりトーク番組、インタビューの基本は「話を振る」という意識なんだろう。
インタビュイーが話しやすい状況になるように、切り口を提示する。
インタビュアーは、自分の興味関心ではなく、相手の文脈、心理、関心に寄り添って、その呼び水となるような問いかけを投げかける。
ハナっから「あなたにとってのサッカーはなんですか?」なんて質問は最悪だ。
「後半の追い上げはすごかったですね。あの点差で、ハーフタイムではチームでどんな話をしていたんですか?」のように、試合の一番のキモを、最も具体的なエピソードで存分に語ってもらう。
そういうような「話を振る」「水を向ける」という意識がまずあれば、質問者のスキルは格段に上がってくるだろう。

分類考

分類を学ぶとは?
今日は校内研究授業。一年生を対象に「分類」を学ぶ授業だった。
「分類」って考えれば考えるほど奥が深い。国語科としてはやはり「差異」とか「恣意性」といったような言語的な観点から「分類」を眺めてみたくなる。差異や分類の発想を突き詰めていくと数学的でもあるし、国語的でもある。連続量と離散量の概念など、こういう言語世界の精妙さに比べたら、シンキングツールなどで概念を図化することはどれだけ有効なんだろうか? (この場合の有効とは、他者に提示する場合と、自分の思考を深めるための足場がけにする場合の2パターンがあるだろう)
図表が有効なものもある気もするし、かえって粗雑に二分化してしまっているようなものもある気もする。そもそも最初から分類が明確にイメージできている場合はことさら図表を使う必要はないだろう。
やはり図表を使うと効果的なものとそうでないものの見極めが重要だ、というか、そもそも、そういう必要性を見極めることこそが学習内容なのではないか?

分類の恣意性
人が何かを分類しようとする。その分け方は常識的なものであっても、広い目で見れば結構いい加減なものだ。分類しようとする人の主観や文 化的背景に左右される。
たとえば良くある例だと、「兄と弟」「コメとメシとイネ」という差異、分類の体系は、日本語の文化を背景に持つ独特のものだ。
星座だって血液型だって、そういうのを知らない文化の人にとっては、必要としない文脈ではほとんど意味を持たない「差異」であり「分類」だ。
裏を返せば、「兄/弟」「コメ/イネ/メシ」や血液型の分類、差異のシステムを必要とする人がいるからこそ、文脈があるからこそ、こういう言葉が生まれ、分類が生まれたのだ。
だから分類をする背景とか意図、他の概念システムとの整合性のようなものを検討しないと「分類」を考えたことにならないのではないか?
なぜ「分類」をしたのか、「分類」をしたことで、どこに光が当たり、どんな世界が見えてくるのかを実感することが大切なのではないか?

おまけ、たとえば……
こんな「分類」の学習はどうだろう?
課題、絶対に分けられないものはあるのか?あるとしたらそれはどんなものか?
課題、九教科を、誰も思いつかないような分け方で分類してみよう。
なぜそのような分類にしたのか、どんな時にその分類が役に立つか、説得しよう。
課題、空欄に入る面白い言葉を考えなさい。
この世には2種類の人間が入る。それは( )と( )である。
など。

比喩的思考は論理を超える

校内では研究推進委員のメンバーの一員だ。毎週行われる研推委員会が面白くて仕方がない。
そのメンバーに、天才的に比喩が上手な先生がいる。どんな込み入った事象もひとことで「ぽっ」と比喩で置き換え、目の前に対象化して見せてくくれる。
たとえば、習得と活用の関係(本当はもうちょっと複雑なのなんだけど)を、
「ハサミの使い方を学ぶ」のと、「実際に何かを切るときにハサミを使う」ことの関係で置き換える。
自動車教習所の「学科と路上」のメタファーでイメージする。
武道の「稽古と試合」のように。
こうして並べてみると、だから?っていう感じかもしれないけど、絶妙なタイミングで、絶妙なメタファーが飛び出すと、快刀乱麻、一気にイメージを共有することができる。
授業の良し悪しはこうたとえる。
「美味しい料理か、栄養のある料理か」
栄養は学力。美味しさは意欲関心。
いくら美味しい料理でも、おやつみたいなのばっかり食べるのはだめ。
いくら栄養が豊富でもドックフードのようなものは食べられない。
こんな風にうまくメタファーで言い換えると、全体の構成や関係性をくっきりと浮かび上がらせることができる。
メタファーの破壊力は、言葉を尽くす論理の力以上だと思う。

わたしの授業づくりの原体験

昨日ある先生と話していて思い出してしまった。わたしの授業づくりのルーツのようなものを。
ここから先は大変個人的などうでもいいエピソードだ。そして、大変尾籠な話になって恐縮だけど、私は、中、高時代、お腹が弱い少年だった。
でも、当時は、こっから先は話さなくても何となくわかってもらえると思うけど、男の子が学校のトイレの個室に入るのは、かなり難易度の高いことだった。
朝からお腹が痛みだすと、もうその日一日がブルー。平安に過ごせますようにと、神にも祈らんほどの悲痛な思いで一日を過ごしたものだった。
とくに授業中にお腹が痛み出したときは最悪。黒板の前で、直立不動の姿勢で立つ教師の声だけが響きわたる、あのシーンと静まり返った教室空間。その静寂を破って「先生……ちょっとトイレに……」なんていうことは、かなりのハイリスクな行為だった。
そんな「授業」についての原体験が私にはある。だから、わたしが教壇に立って真っ先に心がけたのは「私の授業だけは、気軽にトイレに行けるものにしよう!」というものだった。
たとえば、
・教室を息苦しい空間にしない。
・教師が机間指導をして生徒に近い位置にいき、声をかける。
・生徒も気軽に手を上げて教師に話しかけられるような雰囲気にする。
・そしてなにより、生徒が時間や体調を気にしないくらい没頭する時間を作る、などなど。
こんなルーツや発想で授業を作っているのは、この世界でもわたしだけかもしれない。
いやあ、思い出してしまった。どうしよう。

強烈な「癖」かあるからマネしたくなる

今日の岡田斗司夫さんのメールマガジンは面白かった。
曰く、文章が上手くなりたいなら、いいなと思う文章を丸写ししてマネよ、真似る場合は、強烈な個性のあるやつを選べ、というもの。
モノマネだって、ビギナーはまず森進一さんからでしょう。強烈な癖のある人の方がマネしやすい。かえって月並みで優等生的なモデルは、モデルとして機能しないということなのだ。そういうものなのかもしれない。
文体で言えば「天声人語」みたいな、毒にも薬にもならない立派すぎる文章は、いくら書き写しても多分身にならない。やはり私にとっても、「こういう文体っていいな」と思うのは、どれも強烈な個性をもっている。森進一のハスキーボイスのような文体の「癖」に魅了されることで、知らず知らずにマネして、そのうちの0.001パーセントくらいは自分の身体に刷り込まれていくのだろう。
ちなみに、いいなと思う文体と、マネしたくなる文体は必ずしも一致しないけれども、マネしたくなる文体は坂口安吾、板倉聖宣、あと加藤典洋(「言語表現法講義」は「文体」に目覚めさせた一冊)。あと最近は茂木健一郎さんの文章も結構好きだったりする。
とくに安吾と板倉さんのは、雑誌の埋め草のようなコラムでも、内容なんかがなくても文体を眺めているだけで愉しくなってくる。こういう文体で書きたいって思うのはこのメンツだ。どれもが全然似てないところもまた面白い。

2015/07/04

「引き出す質問」を身につけるためには?

「質問」というと、通常は、自分がわからないことを、わかっている人に聞くことを指す。「質問」は自分の知りたいことを聞くものだ。
しかし、コーチング、ファシリテーションの「質問」は、相手(クライアント)のために、内省を促すために行われる。間違ってもコーチやカウンセラーが知りたいことを聞くのが目的ではない。その「質問」についての発想の転換が、イメージのない我々にはそもそも難しい。相手を引き出す問いはどうやって学ぶことができるのだろう。
何となく、相手にそういう質問を投げかけられるようになる前に、自分自身に問いかけるような、内省の習慣や意義の自覚がないと難しいような気もする。やりながらそれに気づくというのもあり得るか?
だから「引き出す問い」は、「オーブンクエスチョンがいいよ」とスキルとして提示することは、ある程度までは可能なんだろう。
しかし、より本質的には、相手の思考や発想に寄り添って、「これだったらどう?」と相手の文脈に補助線を引いたり、相手の自覚していないような発想(思い込み)を推測して、それにこちらからさぐりを入れてみるような、高度にメタ的な対話のやりとりだと考えるべきなんだろう。
そして、相手の見えない思考の枠やもろさに触れる(見たくないもの、触れたくないものも含む)リスクや覚悟を伴うものという意識がないと、ゆめゆめ危険なものかもしれない。

古いものは退屈だからよい

今日は出勤。
休日の京葉線はホリデー気分満載で場違い感満載だ。
こちらまで心が浮き立ってくる。
しかし今日は毎朝楽しみにしていることができない。
それは、毎朝、NHKFMの「古楽の楽しみ」(旧「朝のバロック」)を聞くことだ。
このラジオのおかげで、聞いたこともないような作品とか作曲家と出会うことができた。
クラシック音楽に限らず、日本なら雅楽や能、アジアや中東のものとか、古典芸能とか古いものはとにかく何でも好きだ。全然詳しくはないけど聴いてみようかな、見てみたいという気になる。
古いものの魅力は退屈なところだと思う。
テンポは悪いし、展開はまどろっこしい。劇的な起伏がそうあるわけではない。だけどこの古いものがもつ時間や世界に強制的に身を委ねさせられるのが気持ち良かったりする。
なかには時間が止まってるんじゃないの?と思わせるようなものある。謎めいた能の作品(「翁」みたいな)とか、ほとんど忘れかれられたような教会音楽とか。
そういう古いものを冷凍食品?を解凍するように味わっていると、こちらまで凍り、時間が止まってしまいそうになる。
古いものは「ただそこにあること」「あり続けること」のもつ存在の力をささやかに教えてくれる。

2015/07/03

「だめだし」の先へ

今日は教育実習最終日。最後の授業が精錬実習となった。
実習生にとってこれまでのベストの授業だったと思う。たった12時間(6×2クラス)の授業でも、ここまで変わるのかという成長が見られ驚かされた。
ただ、指導者の私としては反省点もある。もっとこうすれば良かったという思いは、実習生よりも、なまじ色々なことが見えてしまう私のほうが多い。
一番うかつだったのは「だめだし」の指示だけして、その意図や取り組み方について考えを向かわせることができなかったと言うこと。
たとえば授業で生徒に、活動に取り組む前に、前もって「……はいけませんからね」という説明をしていた。こうしてつまずきがちなポイントについて、あらか じめ注意しておくように伝えるという点では意味のあるコメントだったんだけど「……をしないで、じゃあどうすればいいのか」とか「……をしないように、ど う気をつければいいのか」「どう取り組めばいいのか」という点にまで、子どもたちの注意や意識を仕向けることができなかった。そのため、実際の子どもたち の動きに戸惑いが見られた。
この失敗の原因ははっきりしている。私自身の実習生への指導が「だめだし」中心だったからだ。実習生の一挙手一投足(というほどでもないけど)に、「…… に気をつけて」「……はまずいから……」「……はしないように」というような「だめだし」をしていた。が、「ならばどうすればいいのか」「どう取り組めば 良いのか」という意識に実習生を向かわせるところまではフォローできていなかった。
そういう指導の反映として、生徒に向けても「……はいけませんからね」という言いっ放しのコメントになってしまったのだろう。
「……はいけませんからね。そのかわりに……」とか
「……はいけませんからね。なぜだと思う?」
「……はいけませんからね。じゃあどうすればいいと思う?」
のように、かりに「だめだし」をするなら、その先へと意識が向かうような声かけをするべきであった。

2015/07/02

「デュアル型実習生指導」のリフレクションのしかけ

「デュアル型実習生指導」も明日が最終日。
2人の実習生が、別々の指導案を作り、それを共有し合って、自分の指導案と、他の実習生が作った指導案で授業をしていく。
明日の精錬実習に向けての、今日の午後は事前検討をみっちりと行った。
2人とも同じ教材、同じ授業展開で授業をしている。精錬授業をするのは2人のうちの片方だけなんだけど、精錬授業をしない実習生にとっても、自分の指導案で授業をしてもらっているので、とても他人事としてみていられない。
「わたし、いまさらになってこうすれば良かったっていう後悔ばっかり出てきちゃっているんですよ。もっと授業をしたいっなあって!」と反省しきり。
でもきっと「こうすれば良かった」っていうのは「やってみたから分かったこと」であり、「やってみて、振り返ったからこその気づき」なものなはずだ。
「デュアル型実習生指導」はそういうリフレクションの仕掛けが随所にある。
自分の指導案を他の人が授業することから生まれる気づき
他の人が別の教材で、同じ指導事項で授業をすることから生まれる気づき
他の人が自分の指導案で授業をして、他の人がリフレクションしているのを聞いて、さらにそこから生まれる気づき。
などなど。
そういう何重、何層ものリフレクション、気づきが
「こうすれば良かった!」「もっと授業をしたい!」という思いにつながったのかもしれない。

2015/07/01

たいした考えもないくせに、難しい顔をするんじゃない!

難しい顔をしていたり、難しいことを言おうとすると、他の人から賢そうに見えるらしい。場を凍り付かせるネガティブな発言は、時に慎重で考えが深い人だというような印象を他の人に与えるようだ。
大学時代の恩師、斎藤孝先生は、そういう難しそうな表情や、ネガティブな志向を許さなかった。
「たいした考えもないくせに、難しい顔をしてるんじゃない」と。
そういう不機嫌な態度や生き方が、自分自身にも、他に対しても、いかに非生産的なものであるかいつも嘆いていた。
だから、斉藤先生の本に載っている顔写真は、いつもにこにこと笑っている。苦虫をかみつぶすような「知識人」っぽい写真は一つも無い。
ただし「そのままでいいんだよ」「バカですから」というような知的でないポジティブさは、それはそれで堅く戒められた。
「知性・認識においてはニヒリスト、意志においてはオプティミスト」が、斉藤ゼミの合い言葉だった。
ネガティブなだけのコメントや、難しい顔しかできないような心理状況のときは、そういう自分のつたなさを自覚することにしている。他の人に向けてネガティ ブなコメントや難しい顔をしてしまう人には、「たいした考えもなさそうな」うさんくささを感じてもいいんだと思うことにしている。
※『上機嫌の作法』は先生の本の中でも好きな一冊。