2013/09/29

SNS上での「批判」をどう考えるか

SNSで加速する「批判」のコミュニケーション
TwitterもFacebookも、便利で楽しい自己表現のツールだ。
私もずいぶんお世話になっている。
これらのSNSは、ツールによって拡張されたコミュニティーでのコミュニケーションである。人と人との言葉のやりとりであるという本質は変わらない。
しかし、メッセージの受け手の顔や気持ちが分かりづらいため、ときおりトラブルが起きることもある。
面と向かってのやりとりよりもはるかに本音が出やすいので、SNS上での批判の応酬はときにかなり辛辣にエスカレートし、傷つけあってしまうこともある。
かつてだったら、情報を発信できるのはマスコミなど一部の力のあるメディアだけだったのだが、SNSの登場により、誰でも、全世界に向けて好き放題に発信できるようになった。まるで、ゲリラ犯が核兵器を持っているようなもので、普段は隠している悪意やルサンチマンが噴出する可能性だってある。
SNS上で交わしあってしまう「批判」をどう考えればいいのだろうか

「批判」を言いたくなった場合は?
建設的な批判と不毛な批判の違いを弁別すべし。
自己の正当化のために、他者への批判するなら、それは不毛な愚痴となる。
その批判が自己にも向けられている場合は建設的な批判になりうる。
批判は自己破壊、自己更新につながる意思がある時にのみ有効だ。
自己批判をともなう厳しさを持っているか省察すべし。
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、石を投げなさい。」ということだ。

「批判」を受けた場合は?
体力が弱っているときは……
・スルーする
・人は人、わたしはわたしだと思う。
・それで?だから? とつっぱる。

体力がみなぎっているときは……
・反論する
・その人のスタンスを理解する
・なるほど、そういう見方もアリだな、とこっそり同意する
・自分のいたらなさをリフレクションするチャンスととらえる

自分にとってプラスにしていく貪欲さが必要だ。
それができないのならば、沈黙するのが得策だ。

「批判」について、陰山英男さんのTwitterでの発言にはっとさせられた。
以下引用する。。
自由にいろいろな教育をやろうという声は聞こえ、また実行されているが、答えは見えず、変わらない現状への批判ばかり。批判から提起される改革って、私から見れば危ないものが多い。 
なぜそうなるか。実は理由は意外にシンプルだと思う。それは自己の正当化のために批判や愚痴を大量生産してしまうから。「批判や愚痴は言わない。子どもを伸ばす。」人の批判ばかりやっていると何も達成されてないのに何かやれたという錯覚に陥る。でもやがてそのマイナスは倍返しで自分に帰ってくる 
一方、事実は事実に即して動く。大切なのは、みんなの願いを小さくても実現することだ。その知恵はやがて大きなものを生み出す原動力になるはず。その点で、批判はしないが、やたら意見ばかり言わせたり、ディベートなる批判ごっこに力を入れる必要はないと思っている。日本人には似合わない。 
人を批判することは自分が正しいということを前提とする。正しいものは変わってはいけない。つまり、批判する人は変われない。つまり発展しない。
山口小学校はそんな原理で動いていた。そろそろ、現場に帰りたくなった。
もとより、現状を変えようとしている人、新しい提案をしようとしている人は、現状を変えようともせず、新しい提案をしようともしない人から、有形無形の批判にされされるリスクが高いものだ。
それをどのように克服、超克していくか、「批判」の作法を意識するのは必要な心構えだと思う。
あ、もちろん、自分自身が現状を変えようとしているのか、新しい提案をしようとしているのかという自己批判ができていることが前提ですが。


2013/09/23

「技術」と「能力」の違いは?

「技術」はテクニック。何かをするための手段、方法。
「能力」は,技術を使いこなして目的を達成することのできる力のこと。
さらに言えば、漢字などを使えることができるのが「技能」
技能・技術・能力の順に学力の構造があると考えることができる。

例)「読む技術」は、それを使いこなせるようになってはじめて「読む能力」となる。
だから、技術の集合体が能力というわけではない、
技術を目的に応じて操作する力がともなうことで、技術が能力となっていく。

能力を分節化すると技術に近づいてくる。
例)分かりやすい文章を書く能力
→文章の順序を意識する、一文一義、曖昧な表現をしない、主述を対応させる、などなど。

学校での学習の多くは、能力を技術として細分化し、身につけさせることに意を注いでいる。
しかし、細分化された技術を身につけさせることを重視するあまり、そのメタにある、技術を統合する能力に意識が向きにくいというデメリットもある。
手取り足取り教えれば教えるほど、技術は身についても、総体としての技術を統合する能力は身についているのかなあという疑念が常につきまとう。
技術を統合し、意味づけるメタ認知、メタ意識のようなものを意識付けさせる必要があるのではないだろうか。
それこそが知識・技能を「活用」していく能力であると思う。
それら「活用」にいかされる能力を「思考力・判断力・表現力等」と言うのだろうけど、それだと何となく、とても浅いものに思えてしまう。

「能力」を「技術」として分節化して教えることのデメリットは他にもある。
技術は重要な技術とさほど重要でない技術とがある。
たとえば、「一文一義」という言語技術は、あらゆる文章表現において必ず問題となる頻出の技術だ。
また、たとえば「閉じるカギ括弧と句点は同じマスに入れる」という技術?は、まあ知ってても知らなくてもどうでもいい技術ではある。
しかし、技術として取り立てて指導すると、どれも等しく重要に見える錯覚が生まれる。
たとえば、学習指導要領の指導事項は、言うまでも無く複数取り上げられている。が、すべてが等しく重要であるとは絶対に思えない。
しかし、このように複数が並立して取り上げらているので、どれも同じくらいの重要性を持って教える「べきだ」と錯覚してしまう。
(指導事項に取り上げられている)「技術」の重要性を意識することや、それぞれの技術にどのような意味や価値があるかを考えることなど、そこまでを含めて身につけることができて(教えることができて)はじめて能力を育てたということになるのではないだろうか。
ちなみに、技術を統合する基本的な構えのようなものについては、以前次のように書いている。


そこまで言ってしまってなんだけど、自分にはほとんどその自信はない。

放談 教員の資質向上のための方策、4つの方向性

教員の個人的な資質を向上させるための方策として、次の4つの方向性があるだろう。

1、やる気があって能力もある人への手立て
2、やる気はあるけど能力はいまいちの人への手立て
3、やる気は無いけど能力のある人への手立て
4、やる気も能力も無い人への手立て

このうち、一番重点的に取り組むべきものはどれか?
私は2だと思う。
やる気はあるけど能力が伸びていない要因、環境は何なのか? 
それらを分析し、着実に能力を養い、それが生かされるような対策をこそ講じるべきだ。
また、負担を軽くし、少ない負担の中で思う存分に活躍してもらうという方策もあるだろう。
たとえば、初任や経験が浅いうちは担任や主任などの仕事をなるべく与えないとか、小学校であれば担当する学年のサイクルを低・中・高のようにある程度固定し、狭い範囲で存分に教材研究をしてもらうというのはありうる。
自主的な勉強会や研修に気軽に参加できるような環境を作ることも必要だろう。
(出張をとって他校の授業を見に行くことができるとか、長期研修の機会を与えるとか)
一番力がつくのは、力のある先生にジプシーのようにくっついて学び、自分でも実践していくという方法だ。インターンの研修医制度みたいなものだ。
→このジプシー法については以前こちらに書いた

つぎに、3だろう。高い能力を持っているのだから、あとはやる気が生まれるような環境や条件を設定することが必要だ。
やる気が生まれない原因が何かによっても異なるけれども、一番の原因は、能力を持っていても評価されなかったり、お互いに足を引っ張り合ってしまうところにある気がする。
3については、やる気が生まれるように、校務分掌などで、その人の専門性を生かしたものにするようにしたり、自由度をあげることがよいかもしれない。
大学だったら科研費のような研究費を与えるとか、サバティカル休暇を与えるとかの方策があるけど、学校でどこまでそれができるか、やって効果があるかどうかはちょっとわからない。

1は、あるていどは放っておいても伸びていくものだろう??
むしろ1に照準を当てた対策(教員全員が能力もあり、やる気もあるはずだと見込んでのあれやこれやの対策)をするならば、悲惨な状況になるだろう。4も同じ。

つまり何が言いたいかというと、教員全員が能力が高いわけでも無いし、やる気に満ちあふれているわけでもないと言うこと。
人生で何よりも教職の仕事が重要という人もいるし、そこそこ仕事をして生活さえ出切ればという人だっている。どっちのタイプがいてもいい、多様であるべきだとさえ思う。
だから、それぞれの適性とか意志を生かすような、複線的な研修とか環境が設定されているということが重要なのだと思う。



2013/09/22

授業での対話を球技にたとえてみる

ピンポン型授業
教師と生徒が向かい合って激しくラリーするイメージ

ビリヤード型授業
教師の打ち出した球が、壁やいろいろな球に当たって影響し合うイメージ

サッカー型授業
サッカーのパス回しのように、協働でゴールに向かっていくイメージ

ボーリング型授業
教師が投げた玉で子どもが倒れていくイメージ??

研究と実践の四則計算

研究と実践を四則計算であらわしてみる。

引き算
研究は引き算で
研究は、複雑な事象の中から、あらゆる要素をコントロールし、課題を絞り込むことでよりシャープなものになる。
よい研究にしたいのならば、すべからく引き算で研究すべし。

実践はかけ算で
実践は、逆にあらゆる要素が相互に影響し合う。その相互の影響関係を戦略的に組み合わせることが肝要である。
よい実践は、さまざまな要素の相乗効果から生まれると知るべし。

評価は足し算で
教育効果の検証、評価はよい点、前向きな点に着目する方が教育的だ。
減点法ではなく、加点法のほうが豊かな現象を捉えることができる。評価は足し算のほうがよい。

実践の共有は割り算で
教育実践は独占するものではない。多くの人に取り入れられ、試行されることで淘汰、向上していく。
教育実践を前進させるためには、多くの実践家と成果を分かち合っていく寛大さが不可欠だ。

よい授業とは何か、シンプルに考えてみる。

よい授業とは何か、シンプルに考えてみる。

目の前に跳び箱がある。
これを自分で跳べるようにするのがよい授業。
自分で跳べるようにするには、
低い跳び箱からだんだんと段を高くしていったり、
飛ぶときの姿勢や助走などについてポイントを示したり、
何度も練習させ、失敗から学ばせたり、
できるようになるまで励ましたり、
そういうふうに支援するものではないだろうか。

悪い授業とは……
教師が子どもを持ち上げて跳べるふりをさせている授業がある。
教師が跳んでいるだけの授業もある。
そもそも跳び箱がない授業もある。
跳び箱があっても低すぎる授業もある。
跳び箱を置いておいて、好きに跳んでいいよ、とほったらかしにしている授業もある。

授業をつくるときは
この授業での「跳び箱」は何か?
それを跳べるようにするにはどうすればいいか?
をシンプルに考えればよいのだろう。

2013/09/16

探求的学習を支えるSNSプログラム! 名付けて「生き字引くん」企画案

メンデレイという論文の作成を支援する画期的なソフトがある。
主に学生が論文を書く際のソフトなのだが、便利らしいけど英語だったりするのでいまいち使いこなせてない。

これ、将来的には小中学生でもつかえるようなソフトができてくれないだろうか。
もし私がメンデレイの小中学校版ソフトを開発するとしたら……
探求的学習を支えるSNSプログラム! 
名付けて「生き字引くん」でどうだ!

・調べ学習をする際に、読んだ本やサイトを即座にクラウド上でリスト化できる。
(インターネットのサイトはすぐに更新されるので、ネットを開いた時点でのページを保存できるような機能があるといいな。本も学校図書館のデータベースやカーリルなどとつながっているとなおよし)

・誰がどんなテーマを調べているかが共有できる。
→テーマとか、プロットとか。こういう情報がシェアできるとかなりいいモデルとなる。
もちろん上級生や卒業した先輩がとりくんだテーマやプロットなどが分かるのもいい。

・似たテーマを取り上げている人が、どんな本やサイトを見ているか共有できる。
→これがリアルな参考文献一覧になる。
参考文献ごとに役立った度などを★で示したり。
誰が、どんな分野の「生き字引」かが分かる。

・分からないことがあったら、その「生き字引」くんのところに行って聞く。
・または、研究内容についてコメントを書き込んだり、資料をシェアし合うこともできる。

これいいかも!
誰か作って!

2013/09/10

「読む」という言葉をなるべく使わない方が、「読むこと」の指導は精緻になる。

ある「読むこと」の学習指導案検討で感じたこと
今日は市内の国語科の先生方が集まって研修会が行われた。
10月に行われる研究授業の指導案の検討である。
今回の研究授業は、説明文の「詠むこと」の学習と言うことだ。
単元名は「必要な情報をまとめよう~暮らしと自然のつながりについて~」中1の授業である。
以下詳細。読むのは面倒な人は飛ばしてください。

単元の概要 
単元の目標
・関心意欲態度
他者の意見を参考にしながら、自分なりの表現を工夫しようとする。
・読むこと
目的に合った情報を集め、必要に応じた情報を読み取ることができる。
・伝統的な言語文化と言語の特質に関する事項
聞き手に分かりやすく説明するために語句を選び、表現を豊かにすることができる。

単元の指導計画
1時
教科書本文を通読し、感想を述べる。
2時
本文の構成を考え、内容の理解に役立てる。
本文を大きく二つにわけ、各段落に小見出しをつける。
3~6時
「自分たちの暮らしと自然とのつながり」について調べたいテーマを決定する。
決定したテーマについて本やインターネットを活用し情報を集める。
集めた情報をまとめ、構成や図表の書き方を考える。
7時(本時)
テーマに沿ってまとめた原稿をグループで読み合い、アドバイスや改善点を記入し、評価し合う。
話し合ってで高い全店やアドバイスを参考にし、まとめた原稿を清書する。
8時
自分の決めたテーマについて各自発表する。

この指導案を読んで何を感じたかというと、「読むこと」の指導はつくづく難しいなあと言うことだ。
「読むこと」は目には見えない。だから、力がついているかどうかはなかなか分からない。
そのため、さまざまな、書いたり、話したりという言語活動を通して読む力を高める授業が行われるのが一般的だ。(要約したり、レポートにまとめたり、教師の発問の答えたり)
特に、研究授業ともなれば、教師の一方的な発問やワークシートに読み取ったことを答えていくような授業はなかなか許されないだろうから、上記の指導案のように、レポートのようなものを書かせて、主体的な姿を見せて、「読むこと」を指導した「こと」にしてしまう。

上記の指導案にはいろいろな問題がある。
まず、問題点の一つ目は、教科書を「読む」活動と、レポートを「書く」活動がほとんど関連していないと言うことだ。
はっきり言って、最初の2時間をやらなくても授業として成立する。
さらに言えば、後半のレポートを書く学習を通して、教科書本文の読み込みが深くなるわけでもなさそうだ。つまり前半の内容を「読むこと」として生かされていない単元である。
「読むこと」の学習を何とか苦し紛れに研究授業にしようとでっちあげた魂胆が透けて見えてしまうのだ。
いっそのこと2時までで切り上げてシンプルな「読むこと」の授業にしてしまうか、3時以降から授業をしてレポートを「書くこと」の授業にしてしまった方がよっぽどましだ。

問題点の二つ目は、上記の指導案からは、どのような「読む力」が高まっているのか分からないという点だ。
この授業のどの場面で、どんな「読む力」が育っているのだろうか。その「読む能力」の押さえが、この展開からは分からない。読ませっぱなしの授業になってしまう危険性が感じられるのだ。

広がる「読む力」
そもそも「読む力」にはどのようなものがあるのだろうか。
自分が学習者として子ども時代教わってきた「読む力」とは、
・書かれていることを正確に理解すること であった。
また、文学的文章などでは、
・書いてあることをもとに想像すること も、読む力として育てられてきた。
この「文章理解としての読み取り力」が従来より「読解力」とされ、大切に指導されてきた。入試で問われる問題はこの種の読解力である。これは。だれも異論がないだろう。
この従来型の読む力は、今度とも「読むこと」のなかで大切にされなければいけない力であることは言うまでもないことだ。
しかし、「PISA型読解力」という新たな〈もはや古い?)「読解力」が登場し、従来の「読解力」に加えた要素も「読むこと」として指導されるようになってきた。
つまり、
・情報を正確に取り出して理解するだけではなく、
・情報をもとに、自分の頭で考えて、さまざまな文脈から解釈したり
・さらに、その情報をもとにして自分の考えを豊かにしていったり、
・自分の目的達成や、その表現のために、情報を活用するような読み方
も読む力として求められるようになってきたのである。
いわば、受動的な「読まされている」状態から、主体的に読んで,情報を生かすことへの転換である。
さらには、探求的学習やメディアリテラシーの視点から「情報活用としての読む力」も要請されるようになってきた。
自分の考えを構築するための「調べるスキル」も読むことの重要な指導内容である。
さらにさらに言えば、読書生活を豊かにするという視点での読書指導も、広義の「読む力」に入ることだろう。選書やレビューを読む力などである。

「読む」という言葉を使わないと……
何が言いたいかというと,「読む力」とひと言で言っても、上記のようにありとあらゆることが「読む力」として取り上げることができてしまうので、いっそのこと「読む」という言葉をなるべく使わないようにしたらどうかということなのだ。
「読む」という言葉を使わないで、よりぴったりした別の言葉に言い換えた方が、もっと「読むこと」の能力が具体化され、実効性のあるものとなるのではないかと言うことなのだ。

「読む」「調べる」のような曖昧な言葉をいったん封印して、より具体的な表現に言い換えてみる。
たとえば、次のように言い換えてみたらどうだろうか。

教科書本文を読む
→教科書の文章の大まかを理解し、文章からさらに調べたいことを書き出す。

本やインターネットを活用し、情報を集める
→これには、次のような学習活動、情報探索と活用の行動が含まれる。
テーマを決める、
テーマについてどんな情報が必要か考える
どんな情報収集手段(インターネット、図書館など)があるか検討する
情報収集手段に応じて、どんな情報が集められそうか見通しを立てる。
本の背表紙やインターネットのタイトルを見て、目的にかなった情報かどうか判断する。
調べる目的に沿って、情報を取り出す箇所を決める。
適切な量の情報を取り出し、出典などを明記してカードに書き出す。
集まったカードをもとに、レポートの構成を組み立てる。
集まった情報を適切に引用しつつレポートを書く。
レポートを書いたものをもとに、情報が適切に活用されているかどうかお互いに評価し合う。

上記にはどこにも「読む」とい言葉は使われていない。
しかしそのどれもが「読む力」につながる活動となっている。
「読む」「調べる」と、安易にひと言で言ってしまうから、焦点が曖昧になり、教師も視点がぼけ、読ませただけ、書かせただけの活動になってしまう。
この指導案の授業でいえば「読むこと」は、情報活用のプロセスを取り上げている。
だから、情報活用のプロセス一つ一つが「読む力」につながっていくのである。
たとえば、「情報収集手段を検討する」という学習も、(何も読んではいないけれど)、重要な「読む」(情報活用の)プロセスに位置づけられる学習内容なのである。

もちろん、「読む」という言葉を使うな、ということは説明文の学習だけにとどまらない。
文学でも、詩歌でも、なんでも全く同じだ。
※たとえば、以前、本ブログで短歌を「読む」ことについては以下のように分析している。

短歌の理解レベル(言葉として書かれていることを理解する)
1、短歌の意味の区切りを意識して音読できる
2、言葉の意味がわかる
3、文脈がとらえられる
4、短歌の言葉の韻律が味わえる
5、短歌の修辞の効果や約束事がわかる
6、その短歌が踏まえている歴史や伝統がわかる
短歌の想像レベル(言葉で書かれていない短歌の世界を想像する)
7、短歌がえがいている世界が理解できる
8、短歌がえがいている世界がイメージでき、さらにそれから発展してストーリーが想像できる
短歌の批評レベル(短歌の美醜などを判断できる)
9、(他の短歌などと比較して)この歌の価値を説明できる

「短歌を読みとる」とひと言で言ってしまうのではなく、「短歌の区切りが分かる」のように、具体的に「読む行為」を分析をするからこそ、学習が焦点化されるのだ。

「読む」学習の中に、生徒のどのような「読む行為」が含まれているのか、どんな「読む能力」や「情報活用能力」が含まれているのか、それを一つ一つ検討していくことは,目に見えにくい「読む力」を取り出して指導するためには不可欠な視点だと思う。
「読む」という言葉をなるべく使わない方が、「読むこと」の指導は精緻になる。
「読むこと」の学習をデザインする際には、この学習活動では「読む」ことを、どんな言い換えができるか考えてみるといいと思う。



2013/09/09

今の子供たちが理想と感じている社会が、いつかは現実になる。

私の父の世代(団塊の世代ね)は、東京オリンピック、1960年代、まさに青春の真っ盛りであった。オリンピックと聞けば、脳裏には高度成長時代のサクセスストーリーが即座によみがえってくるらしい。
新幹線
高速道路
三種の神器(テレビ、洗濯機、冷蔵庫)に代表される消費文化
などなど。
しかし、そんな成長神話など、もはや日本のどこにもない。
それどころか、震災、原発問題や少子高齢化問題、出口のない不況など、あらゆる分野が不透明であり、不確実なことだけは確実なところだ。
昭和東京オリンピックのような「勝ちパターン」を追い求める限り、日本の実情や世界の情勢とますます乖離した、まるで日テレの24時間テレビのような、うそうそしい空騒ぎになってしまうことだろう。

正直に言えば、私自身はオリンピックそのものには、それほどの思い入れはない。(もっと本音を言えば、5回連続立候補していたイスタンブールをちょっと応援さえしていた)
……そもそも、オリンピックというシステムそのものにも言いたいことはある。
子供の頃、疑問に思ったことがある。
それは、世界最速のリレー記録を計りたいのに、なぜチームが国単位なのか?ということだ。
一番早いアスリート同士でチームを作って、計ればいいじゃん!
と感じたのだ。
後にわかったことだけど、近代オリンピックの発祥は「国民国家」の成立と軌を一にしている。
だからこそ、「国家」間の戦争やいざこざがが一番激しい時代に、オリンピックが一番栄えているのだ。(だから、「国家」というくくりが難しい地域は別チームで出たりすることもある)
いつか、「国家」という枠組みそのものが問い直される時代が来たら、オリンピックそのものが消滅するか、また新たな形に変容することだろう。

…閑話休題…

オリンピックの是非はともかくとして、東京にオリンピックが招致され、2020年というゴールが設定されたことそのものは、日本にとって少なからぬインパクトとが与えられたことと思うし、これを一つのチャンスにして欲しいと思っている。

7年後、どのような世の中になっているだろうか。
今、私が目の前で教えている子供たちは、2020年には20歳、成人を迎える。
ということは、まさに、今教えている子供たちが理想と感じている社会が、七年後には日本の理想としてとらえられているということになる。

子供たちに、2020年、7年後をイメージしてもらった。
そうしたら、彼ら彼女らの多くが、将来、ボランティアをしてオリンピックに参加してみたいと言っていた。
また、多くの子供たちが、福島をはじめとする被災地を案じ、被災地のために何か力になりたいとも言っていた。
ほとんどの子供たちは、新幹線や、テレビや、高速道路を望んでいないことだけは確かだ。

私は、これから「7年後」に向けて、社会を生きるためには、さまざまな分野で、3つの条件が必要であると考えている。
・参加するということ(全員が傍観者にならず、コミットすると言うこと)
・つながりあうということ(ネットワークを広げて、世界を拡大していくと言うこと)
・分かち合うということ(コミュニティーの中で互いに生かされると言うこと)
そしてその3つの条件の前提となるのが、
・「個」が大切にされ、違いを認め合うこと
であると考えている。

オリンピックという舞台、それに向けて進む日本という社会が、その3つを生かすものであって欲しいなあと夢想している。

2013/09/07

「子どもを信じている」と軽々しく言えちゃう人は

「子どもを信じている」と軽々しく言えちゃう人は、往々にして「教師の思い通りになることを信じる」という前提に気づかない。
教師である自分自身を疑うことをしないで、どうして子どもを信じることができようか。
自分自身をどこまでも疑い、試行錯誤し、ドタバタし、それでも何とかしようとする人こそ、そう言ってもいい資格があるような気がする。

2013/09/05

「子どもを信じればいいんですよ」

まだ私が若かった頃、地域の研修会での出来事。
当時は自分の腕も未熟で、授業を成立させることもおぼつかないくらいの毎日だった。
それでも何とか良い授業を作りたいと思って試行錯誤していた。
そんな暗中模索、五里霧中の中で、少しでもヒントを得ようと思って参加したのがこの研修会だったのだ。

壇上に上がったのは四〇代くらいのベテランの先生。
その先生は、いかにも楽しそうな取り組みの授業を紹介していた
紙芝居、ペープサート、朗読劇、絵本づくり、など、それぞれの子どもたちが、各自で選んだ表現活動で、文学の作品世界を味わう実践である。
こんな大胆な授業をしている先生がいることが驚きだった。興奮してしまった。
そして、やむにやまれず、こんな失礼な質問をしてしまったのだ。
「先生の授業はとても楽しそうな授業だと思いました。
ですが、もし私がこの授業をしたら、子どもたちが遊んでしまうような気がします。
勝手なことをしだして授業にならないような気がするんです。
生徒が遊んでしまわないようにするためには、どうすればいいんでしょうか?」
わらをもつかむ思いでした質問だった。

壇上の先生、落ち着き払って、穏やかな表情で、実に明快に、ひと言、こう答えた。
「それは子どもを信じればいいんですよ」

私は、質問したことを恥じ、そして二の句もつげずに席に座った。
何かいいようのないもやもやした気持ちを持ったことは確かだった。
その研修会を終えたあと、私は心に誓った。
自分は、絶対に「子どもを信じればいいんですよ」とは言わない教師になろうと。

……それから十何年、私もそろそろベテランと呼ばれてもいい年齢の教師になりつつある。
もし、いま、若手の先生に、同じような質問をされたらどう答えるだろう。
きっと、こう答えるだろう。
「それだったらまず……という手を打つことかな。
……に配慮して、……するようにさせて、……を準備しておけばいいかもしれないね。
それでもだめだったら……してみたらどうだろうか。
いっそのこと……なんかは……」
あらゆる可能性を想定する。
できること、できないことを一つ一つつぶしていく。
考えなければいけないこと、準備しておくといいことをリストアップする。
そこまで考えに考え尽くして、はじめて言うだろう。
「あとは、子どもを信じればいいんですよ」と。

いまでは、あのときの研修会で出会った先生に感謝している。

2013/09/04

文法はひとつの体系に過ぎない。だから、体系とともに、実際の言語運用の姿もイメージさせるべきだ。

文法の授業では、はじめに学習用語を何度も復唱し、暗記させるようにしている。
主語述語修飾語接続語独立語。連体修飾語連用修飾語、体言と用言、などなど。
まず、前提として、学習用語に慣れていることが重要だ。
学習用語が入っていないと説明をしても理解できない。
まずは用語として頭に叩き込んで、しかるのちに体系を理解させるのだ。
一個一個、小出しに丁寧に教えるよりも、体系を提示してから各論に進んだ方が文法は理解しやすいと思う。

教科書に出ている文法は「法則、体系」である。
実際の日本語の振る舞いがイメージしやすくできているものとは限らない。
だから、「法則、体系」を教えるとともに、文法で習っていることが、実際の言語運用ではどのようになっているかを教師が伝えてあげることが重要だと思う。
たとえば、文の成分(主語・述語・修飾語・接続語・独立語)は、五つの用語として分類され、説明されている。
教科書でこの五つが取り上げられていると、どうしても、この五つが同じくらいの比率で出現するような錯覚を与えてしまう。しかし、実際は決してそんなことはない。
そこで、次のように、実際の言語運用の姿もあわせて伝えるのだ。
主語・述語・修飾語の三つの文の成分で、ほとんどの文節がカバーできてしまうこと。
日本語の会話文では、主語がない文さえ多いということ。
日本語の文章では、述語がほぼ99.9%文末にくること。
五つの文の成分で、修飾語が最も多く使われていること。
このような、実際の言語運用の様子を、法則と合わせてしっかりと伝えることが重要である。
これは子どもたちにとっても、文法を実際の言語運用に当てはめていくときの手引きにもなる。

やぶれかぶれ型実践研究

こんな研究方法はおおっぴらにオススメするものではないけれども、一つの方法としてご紹介したい。それは「やぶれかぶれ型実践研究」である。

私みたいな、がさつで飽きっぽく、移り気な人間にとって、実際の授業は、結構その時々の思いつきで行われることが多い。
もちろん、年間で教えるべき内容は決まっている。
トレーニングのステップもあるていどは押さえられている。
しかし、実際に授業をする段になれば、そのときどきで新しいことに取り組んでみたいという欲求が出てきたり、新たな課題が生まれたり、生徒の実態を見て変えていくことが余儀なくされるケースがほとんどだ。
だから、計画は計画として持っておきながら、授業内容は、時々の状況に応じて、かなりの幅や柔軟性を持たせて実践しているというのが実際のところだ。
そのへんが、他の教科にはあまりない、らせん状のカリキュラムとしての国語科のメリットでもあると思っている。

さて、「やぶれかぶれ型実践研究」である。
これは表現はあまりよろしくないが、実戦的な研究方法でもある。
それは、
1、研究仮設や研究計画などを立てずに
2,とりあえず実践してきたものをリストアップし
3,そのよかったところやまずかったところを分析し
4、いくつかの授業づくりの視点を提示する
(授業づくりの視点とは、たとえば、書くことの授業で大切にしていることとか、重点を置くポイント、陥りがちなミスなど、実際の授業づくりで活用できるコツやポイント、姿勢や心構えなどの指針も含む)
という方法である。
いわば、帰納的な方法で実践をふりかえり、それをまとめていく研究方法だ。
もっとも、こんなものを研究と名乗るだけおこがましいような気がするけれども、事前の準備がいらないので誰でも気軽に取り組めるメリットがある。それでいて上手く視点としてまとめることができれば、自分のためにもなる、お得な方法でもある。
計画性もなく、いい加減に取り組んだ実践なんかまとめられるのか?と思うかもしれないけど、「いいかげん」というところが実はキモだったりもする。
というのは、「いいかげん」に、無意識に集められ、まとめられた複数の実践群には、無意識のこだわりなり、課題意識が必ずどこかに共通してあるものなのだ。
複数の実践をとにかく並べてみる。そうすると「なにか」が浮かび上がってくる。それが、なかなかに面白い発見があったりするものなのだ。
実践内容をカードに書き出してもいいし、ワープロなどの文章に起こしてもいい。
リストアップしてそれをじっと眺めるだけで、両者の関係性が浮かび上がって見えてくる。
その成果や課題、反省点や到達点をくくりだし、次のステップにつなげていく。
それを続けていくことが自分の実践の糧になっていく。
カリスマ教師でない限り、平凡な教師ができる実践なんてたかが知れている。やれることも相当に偏りがあるのが実際のところだ。私の実践には、こだわり、思い、限界、そういうもろもろが絡み合って一つの授業が構成されている。「やぶれかぶれ型実践研究」では、その無意識の限界やこだわりをこそ大切にし、抽出することを目的にしている。
この研究は誰のためでもない、私自身の向上にとって必要な研究方法である。

2013/09/02

職場にもう紙はいらない

職場では、職員間で、さまざまな用件を連絡するさいに紙が飛び交う。
・卒業アルバムの写真撮影の時間。
・授業振り替えの連絡
・飲み会の会場
などなど
もちろん、毎週の予定(週報)や月行事予定、職員会議録なども紙媒体だ。

私は整理下手なので、いっそのこと全部電子データで配布してくれたらいいのにな……と思っている。
本校では職員にデスクトップのパソコンが貸与されている。
もちろん、校務文書はLANで共有できる仕組みになっている。
1人1人に職場からメールアドレスをもらい、メーリングリストで全職員に一斉連絡できる仕組みも揃っている。
だったら、大概の連絡文書はメールで十分ではないか?
校務文書はLANで共有すればいいではないか。
メールなどの電子データだったら、紙を紛失する心配はいらない。
検索すれば何十年も昔の文書もすぐによみがえる。
もちろん、自宅からだって文書を確認することが可能だ。
セキュリティーの心配のいらない書類はどんどん電子化すべきではないか。

ああ、予定表も本当はグーグルカレンダーとかにして欲しいんだけどなあ。