2013/12/31

2013年を振り返る


2013年の大晦日、とても美しい富士山を拝めることができた。
冬休みのゆったりとしたこの時間に、2013年の成果を振り返ってみたいと思う。

1、勤務校での研究成果をまとめ、地域の研修会で発表することができた。
数年間に及ぶ勤務校での研究成果を実践記録としてまとめて発表することができた。しかも、国語科スタッフ全員のレポート発表をすることができた。
勤務校が地域とどのように連携していくか、どのように良好な関係を築いていくかという問題は、大きな課題の一つである。
連携していくためには、まず、自らが地域の学校の実践から学ばなければいけない。また、自分たちの実践を積極的に発信していく必要がある。
そのために少なからず努力を続けてきた結果が、ようやく今年になって実ることができた。これは本当にうれしいことだ。今年は、市の中学校国語科研修会での発表と、県の高校でのパネルディスカッションに参加し、交流をした。また、小~高校までの授業を参観して学ぶことができた。公開研究会も、今年、はじめて図書室での授業公開をした。「図書室が見違えるように変わったねえ」といわれたのも、労が報われてうれしかった。
もう、勤務校でできることはやりきったかな。

2、大学院での学修から得られたことを環流させるようにした
大学院2年目となり、一気にペースを上げて学修に取り組んだ。
授業に参加しながら、教育課題としてどのようなイシューが取り上げられているか、それをどのように自分の実践や研究に反映させていくかを考えた。
具体的にいうと、他教科や領域と国語科教育との関連性の問題、国語科教育の過去の遺産をどのように現在に生かしていくかという視点、そして、現在、未来にわたって国語教育をどのように発展更新していくかという視点だ。また、これからの学級づくり、学校のあり方など考えていかなければならない問題も多い。それら一つ一つを、大学院を修了するころには答えを持っていたいと思う。
来年こそ、修論を書き上げないと!

3、今まで経験できなかったさまざまなことに取り組むチャンスを得ることができた
学校での仕事、そして大学院での勉強と、さらに、それ以外でさまざまに活動するチャンスを得ることができた。
・質的評価についての研究会のコーディネート
・学級経営についての原稿執筆
・新たなテクノロジーを活用した国語教育の開発
・国語学力の評価、分析と、それをもとにした授業実践の開発
昨年の今頃は知りもしなかった、出会うこともなかった世界に足を踏み入れ、活動することができたことは、大きく躍進することのできた要素の一つだ。
これらの一つ一つはまだ緒に就いたばかりである。その種子を芽吹かせ、根を張り、幹を茂らせていくことが今後の課題だ。

総じて、今年1年は、自分にとっても大きな意味のある1年であったと思う。
来年のさらなる変化を予感させる、きっかけや「芽」がさまざまなところで見られた1年だった。
その証拠に、昨年の今頃、今年の1年がこうであったことを想像することが全くできなかった。きっと来年の1年も、今考えているのとは全く違った、考えもしなかった未来が待っていることだろうと思う。
今できることを、一歩一歩謙虚に取り組んでいくことだなあ。

2013/12/20

Amazonのレビューはどこまで当てになるか?

現在プリンターの購入を考えている。
それで、Amazonとか価格ドットコムなどのレビューを見て検討している。
どうやら、買った人の手応えによってレビューにもずいぶんバイアスがかかってしまうような気がする。

有名メーカーの高級品の評価は高い。
「さすが……だ!」とか「所有欲を満たされる」なんていう訳のわからないレビューもちらほら。
……思い切って高い買い物しちゃったから、後悔したと感じたくないだけなんじゃないの??と邪推したくなる。

反対に、とってもお買い得な、弱小ブランドの、高機能、低価格品の評価は厳しい。
「やはり安物買いの銭失いだ!」「……がだめ。……のデザインがいまいち」など。
ブランドイメージも悪いだけに、見る目が厳しくなっているような気がしてならない。

レビューは決して公正、平等ではない。(そもそも比較するために複数購入する物好きはいないだろう)
コメントには買う人の主観ももちろん入る。
あの手のサイトのレビューを読むときには、レビューの書き手(購入者)の心理状況も加味して読み解くことが必要なのだろう。

一件公平に見せかけて、バイアスがかかりやすい文章だから、読み手が「事実と意見」を読み分けるためには最適のテキストかもしれない。

2013/12/17

国語教育の先行研究を効率的に探るには?

①国語教育関係の辞典をひもとく
日国をはじめ、さまざまな研究団体からでている。
作文教育や音声言語などの分野ごとの辞典もある。
古いものが多いが、それぞれの思潮の基本的な流れをつかむことができる。

②『国語科教育実践・研究必携』『国語科教育学研究の成果と展望 1、2』を読む。
それぞれの分野の研究課題や、巻末の参考文献が有益。

③ ①②をもとに、研究したい分野の『国語教育基本論文集成』などの基本文献にも目を通しておく。

④「博士論文書誌データベース」(国立国会図書館・国立情報学研究所)で関連しそうな博士論文をあさる。(そこにも先行研究のレビューがある)

⑤CiNii(論文のデータベースサイト)や、「明治図書教育記事データベース」などで関連する論文をひたすら探す。

⑥図書館にレファレンス依頼をし、関連しそうな本に目を通す。

こんな感じで研究を進めています。

自分で調べるものもちろん大切だけども、詳しそうな研究仲間や、大学の先生を頼って、どんどん研究の相談をしてしまうことも結構重要。

社会人大学生は、すきま時間を有効に使って、頭を使うよりも、体をとにかく動かすことが重要みたいです。

2013/12/15

発問の研究とは「いちばん最初に思ったこと」を思い出すことから

「大人になるということは、いちばん最初に思ったことを口にしないこと。」(みうらじゅん)という言葉に出会った。
ということは、こどもの発想に気づくためには、自分が「最初に思ったこと」を丁寧にすくいとることだ。

実習生の授業の発問などで、どうしてこんな小難しい投げ掛けをするのだろうかと首をかしげてしまうことがよくある。
「メロスにとって友情とは何なのだろうか?」
「……の意義を考えよう」など。
そういう「問い」の持ち方を、子どもはまずしないだろうなあと思うような言葉を、先生が平気で投げかけてしまう。そしてそういうカッコイイ言い回しをしていることで「授業らしく」見せかけているだけなのだ。とっても「大人」な配慮。「大人」な授業だ。

もっと、子どもが教材に初めて出会ったときのような「つぶやき」を教師がすくい取れないものだろうか?

たとえば、「メロスみたいな人は好き?」とか、「セリヌンティウスから見てメロスってどんな人なんだろうね」とか投げかけてみればいいのに・。
そういう問いを切り口に、根拠や解釈を出し合えば「メロスにとっての友情」などにつながっていくと思うんだけどなあ。

論文と意見文の違いは、そこに「問い」が立てられ、対話が成立しているかどうかだ。

論文の論文たる条件とは何か?
どんな論文がいい論文なのだろうか?

いろいろな文献を読んでいると、自分の思いが先走ってしまい、独りよがりの意見文(檄文?)となっている「残念な論文」に出会うことがままある。
本人の中で「答え」が決まっていて、その「答え」を、もったいぶって「論じて」いるように見せかけているだけなのだ。
だから、通じる人には通じる。通じない人には通じない、独善的な文章に見えてしまう。
・子どもの主体性を尊重すべきだ。
・単元学習(課題解決学習)は正しい。
・教え込みはいけない。
などなど。
意見文や決意表明だったらいいけど、これが論文だったりすると、読んでいる人はうんざりしてしまう。
教育系の論文には、特にこの「激情型」とか「感傷型」檄文が多いような気がする。
そのような論文には、おそらく価値中立的な「問い」がない。そして「問いを立て、根拠を示して論証する」という「対話的な展開」も弱いだろう。
・なぜ主体性を尊重しなければいけないのか?
・そんなに単元学習が良いといえるのか?
・なぜ教え込みはいけないというのか?
という、もやもやとした問いを認めた上で、それに対するデータなり事実なりが示され、そして読み手を説得するというのが「論文」として成立すべき条件だ。

一番初めの「読み手」は自分自身だろう。自分自身が、自分と違う前提、異なった立場、知識を持っている人になったつもりで説得することが重要なのだ。
自分のなかに「『物わかりの悪い』他者」をいかに持っているかが、対話としての「論文」が成立するためには大切なのだろう。

ということを感じて、論文の項立てをあらためて疑問文の形式で立て直すことにしてみた。
・……とはそもそも何なのか?
・……は必要なのか?
・……とはどんな力か?
・……を育てるためにどんな取り組みがされてきたか?
などのように。

2013/12/12

授業の編成は、「こと」から「かた」へ、そして「力」へ。

授業の編成は、「こと」から「かた」へ、そして「力」へ。

学習内容は「こと」と「かた」と「力」で作られる。
「こと」とは、学習活動。
小説を読むこと、
作文を書くこと、
自己紹介をすること、などなど。

その「こと」を学習するためには「かた」の要素を含む必要がある。
小説の読み「かた」
作文の書き「かた」
自己紹介のし「かた」などのように。
※実際には、上記の活動の中に、無数の「かた」が含まれ、要素やレベルに分節化することができるだろう。
「かた」は方(方略)であったり型(手続き的な知識)であったりするかもしれない。

さらには「かた」を教えることを通して「力」として結びつける必要がある。
小説を読む力、
作文を書く力
自己紹介をする力、のように。
※実際には、こんなざっくりとした言い方ではなく、その活動特有の、その方法固有の力というものまで突き止めることができるはずだ。
さらには、ここで育てるべき力とは、技術・技能だけでなく、姿勢であり、態度や習慣も含む幅をもつものである。

「こと」を通して「かた」を教え、そして「力」を育てる。
「こと」だけではダメだし、「かた」だけでは力が付かない。
「こと」と「かた」の両方を押さえつつ、「力」を定置することが必要だ。


国語科の学習でタブレットを用いることが効果的か?

国語科の学習でタブレットを用いることが効果的か?という議論とか、
タブレットは国語科の学習を促進させる、という議論はあまり意味がないように思う。
それよりも、タブレットを操作して表現したり理解したりすることに、どんな能力が必要とされるかを精査すべきだ。
その能力は、おそらく従来の国語科で取り上げていた読み書き話す聞く力だけでは定置できない能力が含まれるはずだ。
国語科が、タブレットを操作して表現する力や、理解したりする力の、それぞれの能力を具体的に位置づけ、しかも学習できるようなカリキュラムを作れなければ、国語科そのものが、「書き方{習字)」のような教養科目の道をたどるだろう。
……「書き方」が生まれた時代は、確かに、毛筆を使う書き方が社会で求められていた時代だった。しかし、現在は毛筆を使うことはそれほど社会では求められていない。むしろ、毛筆で書くことそのものが「書き方」の目的になっている。社会で直接役に立ちにくい教科は、実学ではなく「教養」的な位置づけとして落ち着くことになる。国語が「書き方」のような教養科目になっていいのだろうか?

2013/12/10

要素に分解する。要素の力点をずらす。

教授学習心理学の授業で「クレーの塗り絵」の実践レポートを読んだ。
クレーの絵の輪郭線だけをコピーしたものを与え、その枠に自分で選んだ色を塗っていくという学習。
この授業実践から、授業において「要素に分解すること」と「要素の力点をずらすこと」の重要性を考えた。

人は、絵を描くときどこに力点を置くだろうか?
輪郭線か、色彩か?
きっと輪郭である線をしっかりと描くことに重点を置くだろう。
しかし、輪郭にばっかり目を向けてしまうと、肝心の色彩のほうには目がいきにくくなる。
太陽だったら赤、顔だったら肌色と、何も考えずに色を選択してしまう。
そして、ペンキのようにべた塗りをしてしまう子もいる。
そもそも輪郭がうまくかけない生徒は、絵を描くことに苦手意識を持ってしまう。

そこで出てきた発想が「塗り絵」をするという活動だ。
絵の描くときの要素、「輪郭」と「色彩」を分解し、与えられた「輪郭」にどんな「色彩」を描いていくのかということに意識を集中させる。
取り上げた学習材はクレーの絵画。
クレーの絵は、たとえばこんな雰囲気のもの
クレーの絵は抽象的なモチーフのものが多い。
どんな色彩も入りそうな余地がある。そして、どんな色を入れてもそれっぽく見える。
また、単調な構図であるだけに、ひねりを入れたい、変化をつけたいという誘惑をさそう。
クレーの絵だったら、絵が上手な子はそのセンスを発揮し、絵が苦手な子もそれっぽく立派な作品に仕上がる。
(モナリザとか、モネの「睡蓮」ではこうはいかないだろう)
優れた授業実践からは、他の授業に応用できる多くの示唆が得られる。

2013/12/09

メディアリテラシーとは、誰しもがアンバランスなものの見方をしているということに気づくことだ。

テレビやラジオから垂れ流しで情報を受け取るのとは違って、本を読んだりネットを見たりするのは、好きなときに、望む情報を得られるから、より自由自在に情報が得られる。メディアからのコントロールを受けなくてすむ。
と言えそうな気がするが、好きなときに好きな情報に「しか」アクセスできない(できにくい)というリスクやデメリットもある。
自分にとって心地よい言葉、都合のいい情報「だけ」を検索、収集して悦に入り、ますます閉じていくなんて危険性も大いにあり得る、
自分にとって心地よくない情報や、理解できにくい情報を避けているばかりでは、新たな発見を引き出すものとの出会いは期待できない。
偶発性がある程度保障されなければ、自己を更新する「未知との遭遇」は、なかなか得られない。

誰しも、バランスを持った、ものの見方や考え方なんかをしてはいない。
好み、主義主張、価値観、感覚に、極端さやゆがみや偏りがみられるのが普通だ。
だから、「あいつ偏ってるなあ」という目で他を見たり、情報を受け取る前に、そう感じる自分自身の、ものの見方の極端さやゆがみや偏りに自覚的であることの方が、より有益だと思う。
自分が好むものは何なのか? 自分が選ぶものは何なのか? そして嫌悪するものは何なのか?

メディアリテラシーとは、誰しもがアンバランスなものの見方をしているということに気づくことだ。
だれもが、自分の関心に基づき、その関心という色眼鏡で世界をとらえている。
その自分の中の「アンバランス眼鏡」がどんな性能やゆがみを持っているか、自覚するということがそもそも何よりも重要なのだ。

2013/12/08

書く生活はどう変化したか? どう変化するか?

A、発信メディアの多様化、簡便化、大衆化
ブログ、Twitter、電子出版など、発信するメディアがかつてとは比較にならないほど簡便になった。
誰でも、気軽に発信できるようになった。

B、情報量の短縮化と大量化
Aと関連して、情報を気軽に発信できるようになったぶん、発信される情報はどんどん断片化している。(Twitterのつぶやきなど)
ブログやFacebookなどの記事の文体は、今までの書き言葉の文体と明らかに異なっている。
書籍など比べて文量は少なくなったり、改行が増えたりという傾向になっている。
(多いと読んでもらえない) 
しかし、発信の頻度は増大している。そのため、発信される情報量そのものは、日々増え続けている。

C、話し言葉と書き言葉、文字テキストと映像テキストの差異の融解
TwitterやLineなどの文体は限りなく話し言葉に近似している。
また、絵文字(スタンプ)を多用したり、写真を投稿したりというように、発信するときの、文字テキストと映像テキストの差異は融解しつつある。

D、「書く」から「打つ」、そして「口に出して書く」へ
ペンを取り、手書きで書くという生活はますます少なくだろう。
現状は、キーボードで打つという生活が一般的だが、そのうち、ウェアラブル端末などが一般化すれば、音声認識だけで文字テキストのやりとりが完結してしまうだろう。(音声認識よりも優れたシステムが開発されるかもしれない)

E、情報の受け手の変化
特定少数から不特定多数へ、そして特定多数、さらには「顔の見えない」特定多数へ

通信メディアの変化を考えて見よう。
1、特定少数
かつて、一市民が通信するための手段としてのメディアは手紙・電報が一般的だった。これは特定少数に向けてのメディアだ。

2、不特定多数
その後、ブログやインターネットサイトなど不特定多数に向けてのメディアが開発された。

3、特定多数
さらには、SNSのなかにTwitterやFacebookなどの特定多数に向けてのメディアが日常的に使われるようになった。

4、「顔の見えない」多数
近年はデジタルキュレーションの技術が発展し、自分が発信した情報が、それを必要とする人に、(第三者の手によって編集され)届くようになってきた。(例、Amazonのレビュー、グーグルの検索など)
2と異なるのは、2の場合、情報の受け手は、自分で検索などをして特定の情報にたどり着いていたのであるが、最近はそれが情報技術によって自動的にあてがわれるようになることが可能になった。(Amazonや楽天のオススメ機能など)

F、個人としての書く生活から、関係としての書く生活へ
Eと関連し、情報は一方向のみに流れていくのではなく、双方向にやりとりできることが可能になった。
個人か書いたことをもとにして、それに関係、関心のあるものが(特定、不特定にかかわらず)返事をしたり、共感を示したり、情報をシェアし共有していくようになる。
個人のつぶやきは、つぶやかれたとたんに共有のテキストとなる。
従来のメディアと比較して、より「関係の中での書くこと」に向き合わざるを得なくなる。

G、書き直し、更新と、情報の半永久性
ワープロの大きな特徴は書き直しなどが自在にできるということだ。
どこから書き始めてもいいし、間違ったらすぐに書き直すことができる。差し替えや更新も容易だ。
だから、ちょっとした思いつきでも,とりあえず書きとめておき、後でそれをつなぎ合わせたり、書き直していったりという編集操作が容易になる。
そのため、従来の書くこと指導のような、取材→選材→構想→記述→推敲のような、硬直したプロセスではなく、記述しつつ削除したり、推敲しつつ書き足すことが普通になる。
また、(矛盾するようだが)一度ネット上に発信した情報は、劣化せずに、いつまでも漂い続ける。
自分の過去のつぶやきが、消したつもりだったけど残っていたなんてこともある、「消せない情報」のデメリットについても考慮する必要がある。



2013/12/05

PISAが突きつけた「問」

OECD(経済協力開発機構)が実施している国際学力テストPISA(Programme for International Student Assessment)の結果が公表された。
日本は数学、科学、読解、三分野とも前回の順位を上回った。
このテストは知識の多寡ではなく、思考力や応用力を測ろうとしている。

最近、大学院の授業で「教育社会学」を学んでいる。
そこで取り上げた佐々木賢氏(元定時制高校教諭、教育評論家)も、ちょうどこのPISA調査を取り上げ論じている。

佐々木氏の見解は次の通りだ。
◆PISA調査の結果は、ちょうど「ゆとり教育」を受けてきた世代である。そもそも「ゆとり教育」の可否が検証されていないのにもかかわらず、今結果を取り上げて「脱ゆとり」と論じるのはおかしい。

◆「ゆとり教育」はいわば「自由教育」。貧困家庭の子にとって、有効とも思えない。貧困層の学力向上を図るには、貧困をもたらす環境のほうが大きく障碍となっているから、その対策こそが課題なのだ。学力底上げは社会問題なのだ。

◆「ゆとり教育」もPISA型学力も、上・中流層のみを対象にした教育である。OECDは経済団体であり、経済発展や開発を目指す材確保のためのテスト問題を作っている。

佐々木氏の論考には次のような問が含まれている。
◆教育政策の可否はどのように測定されるべきなのか?
◆学力底上げは社会問題だとするならば、教育現場の努力は無力なのか?
◆階層に応じた教育内容というものがあるのか?
あるとすればどのようなものなのか? 
PISAで測るような力(思考力)は、貧困層には不要なのか?

授業における課題の順序の研究~「どひゃあ型」と「じわじわ型」~

今日の大学院の授業、教授学習心理学では、課題を出す順番についての研究論文を読んでいった。
で、結論めいたことをいうと、次のようになる。

理科などで、ある概念なり法則を教える際に、実験などを複数続けて見せるとしたら、どの順序が一番効果的か?

課題を出す順番を、かりに「どひゃあ型」と「じわじわ型」に区別する。
「どひゃあ型」とは、自分の予想を裏切り、「どひゃあ」とたまげる結果になる課題から順に提示する順番。
「未知→既知」の構造だ。

「じわじわ型」とは、自分の予想どおりの結果になるものを先に提示し、徐々に予想が難しくなっていくものを見せる課題。
「既知→未知」の構造だ。

ちなみに、仮説実験授業は「どひゃあ型」の提示順序が多いそうだ。
さて、どちらがより効果があるか。

一見、「どひゃあ型」の方がインパクトがあって良さそうだが、間違った知識が定着してしまっている学習者、誤概念へのこだわりが強い学習者にとっては、そのときは驚くが、長期的にみると知識の定着は悪い結果を示すのだという。
つまり、その場だけはびっくりするが、後になると知識が間違った状態のまま残ってしまっていることが多いのだそうだ。

反対に、「どひゃあ型」が向いている学習者もいる。
それは、理科への興味関心が高かったり、ある程度知識があり、誤概念へのこだわりが低い人。びっくりした後に、どうして?とさらに追及できる姿勢のある学習者にとっては効果があるらしい。
自分の予想と異なる結果が示されたときに、驚くだけでなく、さらに深く考えられることができれば、知識の構造が変化する(知識が身につく)という訳なのだ。

「どひゃあ型」が向いていない学習者、誤概念へのこだわりが強かったり、基礎的な知識が不足している学習者にとっては、じわじわと既有の知識を元に積み上げて行くような課題の方が効果がある。
また、実験結果を予想させたり、なぜそうなったのかを話し合う活動も効果的だという。
ポイントは、情意面だけでなく理屈でも理解する状態にするということだ。

どひゃあ型の方が授業としては見栄えがするし、生徒の情意面に訴えやすいから効果があるはずと思い込んでいたんだけど、学習者によっては、かえって思考が働かないのだという。

私にはとって「どひゃあ」と言いたくなる研究結果だった。

「サンタの正体」

クラスでは帰りの会のときに毎回5分程度短作文を書いている。
ちなみに師走に入った今日のテーマは「サンタの正体」だった。
その作文のいくつかを紹介したい。

◆「私は毎年、サンタが来る前の日の夜は、窓のところで手を合わせて『きちんと届きますように』と願っていました。
でもある年、サンタに手紙を書いたら返事の手紙の最後の文に「サンタ、ママ、パパより」と書いてありました。ショック……」

◆「サンタクロースの正体はかなり前から知っていた気がします。私の家では空を見ながら手を組んで、ほしいものをいうとサンタさんに伝わるといわれていましたが、3・4歳あたりで『あっこれうそだな」と思っていたのを覚えています、

◆「サンタの正体は、去年母に父だと教えられました。それまでは信じるようにしていたけれど、ついに教えられたので少しショックでした。今年もクリスマスプレゼントはもらえるけど、少し悲しいです。」

◆「僕は町内会に入っていて、低学年ぐらいまではクリスマス近くになると、必ず町内会長が家に訪ねてきていました。だからきっと町内会長さんがサンタに扮してプレゼントをくれているんだろうなと勝手に想像していました。それを、プレゼントもらえなくなってきた5年生のころ、母に言ってみたところ大爆笑されました。高校生まで夢を持たせてくれた親に感謝です。

◆「いよいよクリスマスが近づいてきました。クリスマスの夜には、一人ひとりいろいろな思いがあると思います。たとえば夜に来るプレゼントをずっと待っていたが眠くなって寝てしまったとか、いろいろ……。
でも大人のサンタさんには、一年で(たぶん)一番大きなウソをつく日だと思います。子どもはサンタさんのふりをして、大人同士になると……子どもが喜んでくれるので……ですよね。」

◆「ある年のクリスマスのこと。
私の弟にオレンジ色のリュックがサンタさんから届きました。
それから何日かたった日曜日。家族で買い物へ出かけました。
バックの店の前を通ったとき、ふと、父が「あの色も良かったなあ」と言いました。
しかし、弟の背負っていたオレンジ色のリュックをポン、とたたくと「やっぱりこっちだよな」といい、母もうなずきました……。」

◆「サンタとは……ある人いいわく『サンタとは、人が人を幸せにする心であり、実在しなくとも人がプレゼントをしたときにその人はサンタになる』という。」

◆「さんたさんへ……今年もいい子にしていたのでぷれぜんとをください。」と書いてある手紙が、テレビ台の引き出しから発見された。それを見つけたのは小学校一年生くらいの時でした。
でもやっぱりなんか欲しいので、今でも信じているフリをしています。