2014/03/31

「自分のクラスが好き」と思える学級づくりを目指して

学級担任の取り組みは、究極的には、子どもたちが「自分のクラスが好き」と思えるようにすることだ。
なんだかんだ言っても、クラスという居場所や仲間を愛せるようになっていくことを、学級担任は1年間かけて(黒子に徹しつつも)やっていくのだろう。
そのために、学級担任は、どんな方策をとるべきだろうか?

A、自分にとっての「好きな場所」とはどんなところだろうか?
・自分が自分らしくいられ、その存在を受け入れてくれる他者が居る
・クラスでの生活が楽しい
・まとまる時はまとまる
・愛着がある、誇りがある
・秩序がある、嫌な思いをしない

B、そのために学級担任はどんなことをすべきだろうか?
・「自分らしさ」を引き出す
 担任は、あらゆる場面で生徒一人ひとりの個性を際立たせるように働きかける。
 「キャラが立つ」ようにする。
 日頃の言葉がけでも、授業でも、学級通信でも、他の人から「○○らしいなあ」という言葉が自然と行き交うような状態にする。
 どんな個性であっても「○○らしい」という言葉で受け入れることができれば、その集団は仲間を認めようとするまなざしになる。
 (とくに、その人の「らしさ」を見いだし、引き出す担任の受容的、好意的なまなざしが、他の生徒に決定的な影響を与える。担任の見るように、子どもたちも生徒を見るのだ)

・クラスでの生活を楽しむ
 ちょっとしたことでもいい。クラスに「遊び」の要素を入れると「楽しさ」を生むことができる。
 たとえば、クラス全員で楽しめるようなレクを行う。そのときに「全員で楽しむ」という雰囲気を大切にすることが重要だ。
 「遊び」や「ムダ」は「文化」にもなり得る。たとえば、クラスの「ゆるキャラ」を作ったり、ブームや流行語を意図的に引き出し、流行らせたりすることも、クラスでの生活を楽しくし、うるおいを生み、帰属意識を高める「文化」となる。

・まとまる時は誰よりも熱くなる
 運動会や文化祭などの行事には、どんな生徒よりも担任が熱くなっていたい。
 担任のクラスへの愛がクラスの生徒達を揺り動かすのだ。そして「クラスへの愛」という抽象的な思いが、クラス一人ひとりの絆やつながりを生み出す。
 担任は、自分のあふれる思いと持てる能力を最大限に傾注してクラス行事に取り組むべし。
「子どもに任せる」ことはもちろん大切だけど、任せすぎると、子どもはほっとかれているような気にもなる。子どもたちに任せながらも、クラスのどんな生徒よりも担任が行事で熱くなっていたい。

・愛着や誇りは、どれだけ他の人を認め合えるかによって生まれる。
 クラスへの愛着や誇りは、クラスの仲間への認め合うまなざしから生まれる。
 行事で頑張った人、影で努力している人、仲間のために優しく声をかけてくれている人、そういう他の生徒のよさを認め、褒め合える関わり合いを積み重ねていくことから生まれるだろう。
 そういう、他者を認めあえる関わりは、やはり担任が意図的に設定しないと自然には生まれてこない。
 行事や日常生活の中で、子どもたち同士が、他の生徒の良さに気づき、しかもそれを伝え合えるような関わりが生まれる取り組みを意図的に設定する配慮が必要だろう。
 たとえば、行事が終わった後に、頑張った人を紹介し合う、リーダーなどに感謝の手紙を書くなど、伝え合う形と場を設定するのだ。

・秩序を作る、嫌な思いをさせない
 これは最低限のルールやマナーのことだ。
 ルールやマナーについては、とくに1年生のうちは理念的に言ってもほとんど伝わらないことが多い。「他の人に思いやりを持って接しましょう」といっても、それがどういう行為を指しているのかわからない生徒も多いのだ。だから、初めのうちは、一つ一つ、噛んで含めるように確認していくことが必要だ。
 たとえば、「いじめはいけない」と言うだけではダメだ。「悪口は言わない」「人のものを勝手に持っていかない」のように、中学生であっても、誰でも理解できるレベルまで落として伝えるべきだ、そして一度確認したことを。あえて悪いと知っててやろうとしたら毅然として、しつこく指導を与える。
 ルールやマナーを確認していくのはタイミングも重要だ。決定的なダメージを与えるような言動については、前もって伝えておく。しかしいっぺんに伝えすぎても子どもたちは消化できない。トラブルやハプニングが起きた時に、それをチャンスとして全体に周知していくようにできれば理想的だ。
 しかし、こういうネガティブな指導だけではクラスの雰囲気も暗くなるので、ネガティブな面よりも、ポジティブで明るい取り組みが前面に出るように、常にバランスを意識することが必要だろう。

2014/03/30

授業参観の授業プラン「聞き方入門~コミュニケーションの達人を目指そう~」

授業参観の授業プラン「聞き方入門~コミュニケーションの達人を目指そう~」


1、漢字テスト
時間がなければ省略

2、3つのきくのちがいとは?→聞く・聴く・訊く

3、耳を澄ませば
30秒間、耳を澄まして何が聞こえてくるかをメモする。
できるだけ多く書き出す。
「カクテルパーティー効果」の説明
人は聞きたいものだけを聞き取っている。

4、お絵かき聞き取りクイズ
生徒を一人立たせて、図形を説明させる。
正確に聞き取ってかけているかをチェック。
説明の仕方のコツ(全体から細部へ)
オープンクエスチョンとクローズクエスチョンを上手に使いこなそう。
カウンセリング→オープンクエスチョン(相手の情報を引き出す)
尋問→クローズクエスチョン(自分の流れに載せる)
グループで説明する人を決めてやってみる。
3分間で説明、図形を描いてみる。

5、質問ゲーム「私は誰でしょう」
代表の生徒を一人立たせる。
ヒントは生き物
生徒一人にだけ答えを教え、それが何かをみんなで質問をして当てる。
文字数は?とか、最初の言葉は?などの、言葉に関する質問は×。
大きさは?などのように、内容を聞くようにする。
→「正解は『神様』」

グループで質問される人を決めてやってみる。
答え
キリン・カブトムシ・ドラえもん・タンポポ・パンダ・キュウリ・モグラ・ちびまる子ちゃん・マツコデラックス
 ・マグロ・ウニ

 6、せっかくなので、参観に来てくれたお父さん、お母さんにも聞いてみよう
授業参観に来てくれた親にインタビューする。
テーマは「子どもの頃の夢」
各班ごとに、親を一人ずつ引っ張って連れてくる。
親に質問して「子どもの頃の夢」が何だったかを当てる。
正解の発表&親にインタビューする。

7、授業のふりかえりをする

ボツになった指導案 ××中生のための防災マニュアル~効果的に伝わるマニュアルを作成するには~

3学年△組  国語科学習指導案

Ⅰ 単元名 ××中生のための防災マニュアル~効果的に伝わるマニュアルを作成するには~

Ⅱ 単元の考察
(1)本単元で行う言語活動
本単元では、中学生のための防災マニュアルを書く言語活動を行う。同じ学校に通う中学生を対象に、地震が起きたときの適切な対処の方法や避難の手順、必要な備えや心構えなどをさまざまな資料や自分たちの体験を元にグループで作成する。
マニュアル(manyual)は手引き書、取扱説明書とほぼ同義で用いられている。本単元で取り上げる防災マニュアルは手引き書や手順書として。災害に遭った際の流れを説明することを目的とする言語活動の表現様式である。
防災マニュアルの必要とされる要素は、内容面では、第一に正しい避難行動を指南する正確さが、そして第二には、いつ、どこで、どんな状況でも対処できる的確さが求められる。マニュアルの内容を考える際には、最適な避難行動を信頼ある情報源から集め、検討することとと、あらゆる状況をシミュレーションしてその対応を記述することとが求められる。続いて、表現上、求められる要素として、第一に、メッセージの正確な伝達が必要である。誰が読んでも誤解を招かないよう、平易な表現方法を追求しなければならない。第二には、情報のわかりやすさが求められる。複雑な内容をわかりやすく伝えるために、例えば概要を先に説明した後に詳細を述べたり、重要な情報とそうでない情報を区別して表現したり、具体的なモデルケースを取り上げて説明したり、時系列ごと、場所ごと、被害状況ごとなどに区別して説明したりするなどの表現上の工夫も必要であろう。第三には、情報の記憶しやすさも必要である。マニュアルを見ながら行動するのではなく、マニュアルを見なくてもそれを記憶していていつでも行動に移せる状態になることが理想である。そのためには語呂合わせや、ピクトグラム、イラストやマンガ、表などの非言語的な要素を、読み手の印象を深くするためには効果的な方法であろう。詳細な説明をつらつらと記述することよりも箇条書きにしたり、標語や見出しなどを活用して一目でわかるような工夫も検討させていきたい。
実際の学習活動では、効果的に伝わるわかりやすいマニュアルの条件を考える学習からスタートする。防災のマニュアルに限らず、身近にはさまざまなマニュアルが存在しているが、わかりやすいマニュアルにはどのような特徴や工夫がされているか、マニュアルの表現様式の分析をし、自分たちの表現に活かしていく。様々な地方公共団体などで実際に使われている防災マニュアルには、例えば防災マップを作成し、場所ごとの危険性を説明しているマニュアルや、火災や損壊などの被害状況ごとに説明しているマニュアル、緊急時の対応を時系列でまとめているマニュアルなどがあり、同じ防災マニュアルでも目的や意図によって様々な表現がされていることに気づくことができる。また、本校には教員が作成した防災に対する対応をまとめたもの(マニュアルではない)があるので、防災マニュアル作成に当たっては、これらのさまざまな機関が発行しているものを調べ、参考にしつつ、中学生の目線でオリジナルのマニュアルを作成していく。
マニュアルがまとまったら、それを批判的に検討する「逆演算」が必要である。「逆演算」とは失敗学の見地から危機管理を研究している畑村洋太郎の言葉で、明らかになった結果(事故・失敗)から見えていない原因を導き出す思考の方法をいう。結果から逆算し、あらゆるリスクを想定して批判的に思考し、再検討することをいう。マニュアルが真にリアリティあるものとして実用化されるためには、あらゆるリスクを洗い出し、検討し尽くすことが必要となる。マニュアルの一次案を多くの目から批判的に検討し、マニュアルの精度を上げていくプロセスが必要である。本単元ではそれを批判的交流の実の場として学習活動の一環として展開していきたい。


(2)本単元でつけたい力
防災マニュアルを書く活動を通して、目的や意図に沿って伝えたいメッセージを簡潔に分かりやすく表現するための方法を学ぶ。また、書かれたマニュアル批判的に検討し合う交流を通じて、マニュアルの内容や伝わりやすい表現の方法について学び、自分の表現に役立てていく。


(3)継続した学習
昨年は、新入生を対象とする学校紹介パンフレットを作成する活動を通して、分かりやすく説明する学習を行った。この学習では、学校の魅力を表現するための必要な要素を考え、表現するための材料の取り上げ方を学習した。本単元では、この学習の成果を引き継ぎ、目的や意図に応じて、的確な話題を取り上げつつ、それを効果的に読み手に伝えるためのさまざまな工夫を学ぶ。また、マニュアルの精度を上げるために書かれたものを批判的に検討し合う交流の方法についても学んでいく。


Ⅲ 単元の目標
(1)防災マニュアルを書くために様々な調査をしたり効果的に伝わる表現になるように工夫 を凝らし積極的に学習に取り組んでいる          (国語への関心・意欲・態度)
(2)防災について様々な資料や調査をもとに伝えたい内容を考えるとともに,文章の形態を  選択して適切な表現を工夫することができる。             (書く能力)
(3)書いた文章を互いに読み合い表現の仕方について検討するとともに、防災に対する自分  の意識を深めることができる。                    (書く能力)
  (4)相手や目的に応じて語や文章の形態や展開に違いがあることを理解することができる。
                                                        (言語についての知識・理解・技能)

Ⅴ 指導計画
第一次 防災マニュアルについて学ぶ(2時間)
○単元の概要を知る。
○マニュアルの表現の特徴や工夫について分析する。
○防災マニュアルをどのような内容にしたらよいか考える。
第2次 防災マニュアルの下書きをする。(3時間)
    ○防災マニュアルの内容について考える。
○内容を分かりやすく効果的に表現する。
第3次 検討し合い、仕上げる(3時間)
○下書きを批判的に検討する。                         (本時)
○検討したことをもとに手直しをし,仕上げる。

Ⅵ 本時

1.本時の目標
  ・下書きを読み合い、あらゆるリスクを想定した批判的な検討を行い、交流を通してマニュアルの質を高めることができる、
(書く能力)

失敗に備えつつ、失敗を期待する

新採2年目のとき、私は県の研究発表会で提案することになった。
テーマは「作文教育」。
作文教育といっても、新採二年目のぺーぺーに語れるだけのものがあるわけもない。
そこで私は「失敗から学ぶ作文指導」というテーマで、とにかく自分が失敗した作文指導の事例をたくさん集め、そこから学び取ったことをレポートした。
当然、提案は賛否両論。
「子どもにとってはその授業は一回きり。失敗したことを自慢げに取り上げるのはいかがなものか。」
「失敗した実践を紹介しても何のプラスにはならない。」
などなど。
いまでは、その提案の内容さえ覚えていない。
きっと提案自体は「失敗」だったはずだが、新卒当時から私は「失敗」というものに特別な思い入れを持って考えていたことは間違いない。

教師にとって重要なことは何を「失敗」と感じて行動するかだと思う。
子どもの前に立つ教師は、得てして失敗が見えにくい立場にある。
失敗しても誰も指摘する人はいない。
失敗しても子どものせいにできる。
そもそも失敗したかどうか評価できにくい。
そんな生ぬるい環境にいるのが教師という職業である。

しかし、毎日が仮説実験的に生活している教師にとって、「失敗」こそ、貴重な飛躍のヒントになる。
じつは、あまり声を大にして言わないことだが、教師にとってほんとうに必要な知識は「こうすればうまくいく」という知識よりも「こうしたら失敗する」という知識だったりする。多くの教師はそれを体験的に学んでいるので、授業や生徒指導の時にも慎重に失敗を避けつつ行動をしている。失敗をすると分かっていてみすみすそれを行う馬鹿はいない。
「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」という言葉がある、うまくいくことは、たまたまクラスが良かったとか、雰囲気が良かったとか,偶然の要素が大きいが、うまくいかない場合には必然的な理由がある。うまくいかない原因を正確につかんでいれば、それを上手に回避して、授業をすることはできる。
ただし、失敗を避けるだけの授業では、失敗は減るかもしれないが教師の学びとか成長はほとんど無い。
私も含めて、ほとんどの先生は、新卒の時はぐんぐんと成長する実感があるけど、5年もやっていればあるていどの授業力はついてしまうから、失敗も少ないけど成長も少ないのでは。
きっと必要なのは「失敗を期待する気持ち」と「何が失敗であるか」を感じ取る感性である。

近年、教師の成長に「省察」といわれる、「反省」や「振り返り」が欠かすことのできないものだという認識が広がってきている。
もとより、どんなに「失敗」を避けようとしても、うまくいかないのがほとんどなのが、教育という営みである。
避けられる失敗は避けつつ、なお「創造的な失敗」をすることが「反省的実践家」としての教師の成長につながってくる。

失敗学の創始者、畑村洋太郎は、失敗の原因を次のように整理している。
(失敗学のサイト http://www.sozogaku.com/hatamura/index.php  から転載。)


無知    ---世の中に既に知られているにも拘わらず,本人の不勉強
不注意  ---十分注意していれば問題がないのに,これを怠ったため
手順の不順守---決められた約束事を守らなかったため
誤判断  ---状況を正しく捉えなかったり,正しく捉えても判断を間違ったため
調査・検討の不足---判断する人が,当然知っているべき知識や情報を持っていなかったり,十分な検討をしないため
制約条件の変化---初めの制約条件が時間と共に変化したため
企画不良  ---企画ないし,計画そのものに問題があるため
価値観不良 ---自分ないし自分の組織の価値観が,周りと食い違っているため
組織運営不良---組織自体がきちんと物事をすすめる能力を有していないため
未知   ---世の中の誰もが,その現象とそれに至る原因を知らないため
失敗をしたときには、単なる無知ゆえだったのか価値観にずれがあったのかなど、様々な角度から検証することが必要であろう。
さらには、失敗原因にも階層性があるという。(http://www.asahi-net.or.jp/~pv3n-situ/sippi-2.html)

1、個々人に責任のある失敗
2、組織運営の不良
3、企業経営の不良
4、行政、政治の怠慢
5、社会システム不適合
6、未知への遭遇

畑村氏の失敗学で重要なのは、失敗は避けるべきものだが、失敗から学ぶことの方がずっと大切だ、という認識と、
失敗の中には「未知への遭遇」というような、新しい技術が飛躍的に進歩する「創造的な失敗」があるということである。

これを、授業に当てはめると次のようになろうか
1、一瞬の授業技術の失敗
2、1時間の授業計画の失敗
3、1単元の設定の失敗
4、1教科の運営の失敗
5、学級・学年・学校の不適合
6、教育観の不適合
7、未知への遭遇

たとえば、一つの失敗を多面的に捉えることで、貴重な知識となって教師の成長につながってくるだろう。
また、期待すべきは「未知への遭遇」となるような「なんだわからないけどうまくいかなかった失敗」ということになる。

若いうちはどんどん失敗した方がよい、というのは、教師として当たり前のように通過する失敗を早めに経験して、経験値をあげろということに他ならない。
だから、もし若い先生にアドバイスをするとしたら、
「失敗は恐れるのではなくて、備えるもの。避けられる失敗は避けよう。
だけど、そうはいっても絶対に失敗するから、失敗を通して生徒が自分に教えてくれたと思って、それを成長の糧にしよう」といいたい。

もちろん、このことは、若い先生だけでなく、自分自身でも常に自戒していることでもある。
毎日の授業の中で、いかに「未知への遭遇」となるような「創造的失敗」を積み重ねることができるかが自分の課題でもある。
そのためには、事前の計画段階では、防げる失敗は防ぎつつ、なおかつ、実際の授業では、子どもの動きを柔軟に捉えて授業をし、計画通りに行かないことをむしろ楽しみにして、その反省から多くを学ぶようにしていきたいと思っている。

「つぶやきノート」の取り組み

私の「つぶやきノート」の実践を紹介したい。
私にとっては、この「つぶやきノート」は学級作りにおいてなくてはならない道具の一つ。ぜひ関心を持っていただいた方にはご意見をいただけると幸いです。

1、「つぶやきノート」とは
全員にA5版のノートを配布します。
そのノートに毎日、教師が与えたテーマについての「つぶやき」を書いていきます。(テーマを自由にすることもありますし、テーマの通りに書かなくてもいいです。要は、何を書いてもOK)
文量は大体3~5行程度が多いですが、ひとことで終わる生徒もいますし、ノートいっぱいに書いてくれる生徒もいます。文量についても、あまりとやかく言いません。
帰りの会の前に配布し、記入していき、帰る前に回収します。

2、「つぶやきノート」の目的
生徒の振り返りを促す
教師と生徒とのコミュニケーションの場として
生徒が自分の思いを表現する場の設定
生徒同士の交流を活性化させること
……中学校では,生徒が担任と言葉を交わす機会はほとんどありません。
それに、どうしても教師は目立つ子、活発な子に目が向きがちです。目立たない子に対してや、問題を抱えているけどなかなか声をかけにくい場合などに「つぶやきノート」は効果を発揮します。

3、「つぶやきノート」をどう活かす
もちろん、次の日までに内容に目を通し、つぶやきに対するコメントを書きます。
その中で、みんなに紹介したい「つぶやき」は学級通信(週刊)で紹介していきます。
(内容によっては伏せ字にしたり,本人に了承を得るようにしています)
たとえば、今週学級通信で紹介した生徒の「つぶやき」は、こんな感じです。
あえて、学級通信で紹介した全文を載せます。なんとなくこのつぶやきの「空気感」が伝わってくると思うので。

(A君)関数って難しいなあ~

 (Bさん)掃除場所が一緒の子がすごくおもしろいです。技術科部のなんやかんやをきいたり。前部長がマジギレしたことがあるそうです。

 (Cさん)ジャージってかぶるものですね。

(Dさん)スパイゲームはとても楽しいです。中間テストで使うであろう集中力を養えます。やってみてください。

(E君)小学生の頃は中学になったら彼女くらいできるかななんて言ってたけどそううまくはいかないらしい…… 男はつらいよ。

 (Fくん)テスト、社会は記号(ア・イとか)で書くところを全部言葉で書いて-20点になった。悲しいなあ……。

(Gさん)理科が一番心配です。国語の平均点高すぎです。

(H君)最近、散歩に行きたい…… 家のまわりにいいコースがあるんですよね。たまにはリフレッシュ。

(Iさん)この間、家の前で紙風船を拾いました。その紙風船が実は・・・・小学校のイベントで飛ばされたもので……学校名と将来の夢と名前が書いてあったので小学校に連絡をとってみたら、お礼の手紙を頂きました。

(Jくん) Sくん曰く、彼にとって勉強は趣味らしい。逆に世界地図とか憲法とか趣味の域だから。

(K君)ベンキョーはやばいもんなんじゃよ。 誰も大丈夫だと思わないし、思えない。 それが大丈夫なしるしなのかもしれない。

 (L君) なんで寝る前に風呂に入るといいんだろうね~ 塾の先生は寝る前は「社会の暗記だ!!」って毎日のように言ってたw 寝る前は実はめっちゃ貴重な時間だったりしてね。

じつに無意味な内容のようにも思えるかもしれませんが、こういうつぶやきこそ、生徒同士のコミュニケーションを活性化させるのです。(大きな行事がある場合はそれについてのつぶやきでいっぱいになります)
誰がコメントを書いたか、というのも生徒にとっては大きな関心事だったりするので、原則、名前は出します。

3、「つぶやきノート」のポイント
ポイント1 テーマ設定
教師が、そのときどきで生徒の思いを最もよく引き出せそうなものをテーマとして例示します。(が、くりかえしますがテーマ通りに書かなくても別にいいのですが、ほとんどの生徒はテーマに沿って書いています)

たとえば
意欲喚起系
・定期テストをひかえて
・受験生と夏休み

ふり返り系
・部活と私
・今日の先生の話を聞いて(生徒指導があったときに……)

つながり系
・〈席替えをして)新しい席になって
・クラスで「ありがとう」と言いたい人

プライベート、その他系
・私のストレス解消法
・去りゆく秋と私


ポイント2 指導ではなくコミュニケーション
時折書かれている内容が不真面目だったり、まんがを書いてくる生徒もいます。
おもわず指導をしてしまいたくなることもありますが、そんなことをしたら「きれいごと」ばっかりの作文になってしまいます。それでは、自分の気持ちをのびのびと好きに書く「つぶやきノート」の良さはいかせません。
「つぶやき」を拾いたいわけですから、本来、どんなことをつぶやいてもとがめられる筋合いはないわけです。
「生活記録ノート」との違いは、「何を書いても受け止めてもらえる」という安心感ではないかなと思っています。
ただし、コメントする教師のスタンスは(これは非常に説明するのが難しいのですが)適度にゆるく、なおかつ節度を持ってと言う感じがちょうど良いようです。(『生協の白石さん』のようなコメントがベターです)

ポイント3 クラスの状況によってねらいを変化させる
クラスの立ち上げ段階では、なるべく不安感とかストレスをはき出させるようにします。
(最初のうちはまじめに課題に向き合って書いてくれるので、書かせやすいというのもあります)
一人一人の不安感などをある程度ださせ、前向きな気持ちにフォーカスさせていきます。

クラスが少しづつ形になってきたら、他の生徒に向けてのコメントを多く書かせて、クラスのつながりを促進していきます。
学級通信での紹介により「つぶやき」によるコミュニケーションをどんどん活発にしていきます。
他の生徒に向けてやクラスに向けてのコメントをたくさん書いてもらい一体感を醸成します。

「つぶやきノート」に慣れてきたら、テーマ設定もなるべく自由にしていき、好きに書かせていきます。

「学習指導案」をめぐるあれこれ

研究授業には「学習指導案」がつきものだ。
だが、この指導案、何のために書かれているのかいまいちよくわからないものが多い。
私は、指導案を書いているときにこんなことを考える。


  • 毎日の授業で、いちいちこんなの書いて授業するわけじゃないのにな
  • 実際授業が始まっちゃうと、指導案なんて一切見ないし、関係なくなっちゃうし
  • でもここまで考えました、っていうことをアピールするためには必要かも
  • 大学の先生は授業をろくに見なくても指導案の批判だけはねちねちとできる体質らしい。
  • 実際、こっちも、たいした中身はなくても意地になって文量を増やして書いているというのはあるかも。
  • 授業が失敗しても、「指導案上はこうなっているはずでした」って言い訳できる安心料みたいなもの?
  • 結局、いろいろな意味での「説明責任」とか「いいわけ」の材料になっている気がする。
  • 指導案を書くまでが授業準備になってしまって、書き上がったら安心して当日の授業なんかどうでもよくなっちゃうことも??
  • 指導案を考えた後の振り返りとか検証ってほとんどできていない。書いただけで満足してしまう。
  • そもそも「案」どおりにいく授業って「いい授業」なの?
  • ↑そう考えると「指導案」のような事前の構想の考え方そのものも検討しなければいけない。
  • うーん、いい授業を成立させるためには「指導案」の作成は不可欠なのか?それとも、いい授業を参観者にわかってもらうために必要なペーパーなんだろうか。本当にいい授業だったら、「指導案」なんて無くたって伝わる?やっぱり無いとだめなんだろうか?

指導案の立ち位置をもう一度考えたい。
1、教師が授業内容を研究するための指導案
2、追試されることを想定した指導案
3、授業の背景にある構想を理解してもらうための指導案 うーん、他にもありそうだ。

とりあえずこんなところです。新しい「指導案」のあり方についてせっかくの機会なので考えていきたいです。

2014/03/29

ブログを書こう。ホームページを作ろう。

確かに、大人になって本を読む人は多くはない。
しかし、ブログを書いたりHPを作る人はもっと少ない。
どんなにいいことをやっているつもりでも、書き留めて記録しないとそれは残らない。
逆に、記録をすることでそれらは蓄積され、レベルアップさせたり、ふりかえったりすることができる。なによりも、後で思い出すことができる。様々な人から有益なアドバイスを得ることもできる。
ブログやホームページは、記録をし、発信し、交流するための最も簡便なメディアの一つだ。
個人情報や守秘義務などにはもちろん配慮しつつ、愚痴や不平にならない程度に、自分の感じていること、考えていることを言葉に表現してみる。書き出すことで、自分がいかに考えていないか、いかに表現できていないかを痛感する。しかしそれが嘘偽りのない自分自身の姿なのだ。そこからはじめるしかない。しかし、一歩踏み出すだけで、1ミリだけでも前には進めることができる。

新天地で取り組みたい教育実践・研究

1.国語科における表現力の育成
 私は、国語教育の本質を見失うことなく、社会や、子どもたちの言語生活を見つめなおし、子どもたちの言語運用能力を向上させるためには何が必要なのか、どのような学習が有効なのか、シンプルに問い、そして探究を進めていきたいと考えています。
 現任校では特に「書くこと」に焦点を当てた研究を行ってきました。ジャンルに応じた文章表現の学習や、読むことと関連した書くことの学習、多様な情報を組み合わせて表現する「編集」の学習、そして文字メディアだけでなく映像や音声などさまざまなメディアの特性をつかんで発信するメディアリテラシーの育成などに取り組みました。それら表現力の育成は、今後も私の研究課題の一つです。
 ICT活用も含めた社会で求められている表現力や情報活用能力と、子どもたちの持っている力や関心などの接点に、学習材や学習活動を組織して単元を作り、社会に出てからも活用することのできる表現力を身につけていくための授業を実践していきたいです。
 魅力的な学習材の発掘、つけたい力を明確に見極めた言語活動の検討、生徒の自然な思考過程や情報処理過程に立脚した学習活動のデザインなどに配慮し、実践を開発していきたいです。

2、ICTを活用した国語教育の可能性の追求
 1と関連してICTを活用した教育の可能性を追求していきたいです。千葉大学大学院では指導教官である藤川大祐教授のもと、国語科におけるタブレット端末の活用について研究を進めました。また企業と連携してタブレット端末を活用した国語科学習のプログラムの開発にも協力しています。日々の授業のなかでも少しずつICTを取り入れた学習に取り組んでいるところです。
 タブレット端末に象徴されるICTは、従来の紙に向かっての読み書き学習とは全く違った発想の学びを生み出す可能性があります。時間や空間を超え、文字や動画というメディアの違いを超え、交流を活性化する学習環境として、今後さらに活用していくことが求められます。ツールを使うことが目的化してしまうようなICT活用教育ではなく、国語科としての本質を見極め、その力を効果的に高めていくような実践を開発していきたいと考えています。

3、学校図書館の機能を生かした読書教育、情報活用教育の推進
 現任校では、司書教諭として活動をする中で、学校図書館を活用した教育に大きな可能性があることに気づきました。学校図書館の活動が活性化することで、生徒の読書量は確実に向上していく手応えを得ることができました、それだけでなく、授業の中で学校図書館を積極的に利用していくことで、授業が変わり、探求的な学習が生まれる可能性があることを学びました。
 学校図書館の活動を活性化させて、子どもたちの読書活動をさらに推進するとともに、探求的な学習を支える情報活用能力を育成する取り組みを進めていきたいと考えています。
 具体的には、国語科の学習や自主学習の取り組みなどを通して、生徒が探求するプロセスにそった情報活用能力の指導をしていきます。また、図書資料だけにとどまらず、インターネットなどさまざまな情報を対象とした「メディアセンター」としての学校図書館の機能を向上させるための取り組みも進めていきたいです。大学図書館や地域の図書館、近隣の他附属の学校図書館など連携して取り組んでいくことで、さらにその可能性を広げていきたいと考えています

2014/03/26

授業にもっとランダム性を。

ある中学校の先生方との話し合いで、授業にももっとランダム性があった方がいいよね。という話になった。
たとえば指名。
挙手とか机間指導からの意図的な指名、という練りになった授業がよしとされるかも知れないが、ランダムに指名する(たとえば、エクセルのランダム関数などを使って)ことは悪いことなのだろうか? 教師の意図とか、配慮などを一切抜きにして「運命的に」指名されたならば仕方ないと思って発奮することはないだろうか?
たとえば席替えやグループ分け。
これも話し合いをさせたり、リーダーが班のメンバーを組織したりして練りに練ってグループ編成をしたりする方法論がある。このグループ分けも、いっそのことランダムにした方が、あきらめもついて何とか上手くやろうという気持ちにならないだろうか?
授業におけるランダム性が、教師や子どもたちの固定概念をくずし、活性化させる可能性があるのだとしたら、「意図的に、意図しない」というおおらかさがあってもいいのではないかと思う。
生徒が取り組む学習課題も、いっそのことランダムに押しつけちゃえば、という過激な意見もある。
幾つかの学習課題があったとする。
それをランダムに「あなたはこれやって」と有無を言わさず指定をするのだ。
もちろん、背伸びしてもできないような課題だといけないけれども、ランダム性は、ここではちょっとしたゲーム感覚にもなる。
何でも主体的に、何でも好きなように選びなさいというよりも、「運命」とか「押しつけ」から始まる主体性というのもあっていいのではとさえ思う。

2014/03/21

作文指導における、真似と剽窃の悩ましい関係

子供に作文をかかせると、気に入った言い回しとか、好きなことについて本などで調べたこと(例 電車など)を、そのまま自分の文章として書くことがよくある。もちろん出典や引用を明記せずにだ。
こういう場合、どこまで真似を認め、剽窃だと言い切ることは実際非常に難しい。
そもそも語彙や表現のバリエーションが乏しい学習者の場合、モデルなどを与えたり、他の表現を参考にさせたりして、ある程度は借り物の表現をさせることを奨励することもある。
いわゆる書き換えや、翻作などの、模倣させて学ぶやり方は、文体に馴染み、語彙や表現の方法を体得するためには非常に有効な方法であることは間違いない。しかし、どの段階で、模倣と独創を、意識的に区別して表現させるか、その見極めはなかなか難しい問題を孕んでいるのではないかと思う。
難しく考えすぎだろうか?

経験を単純化してしまう「わかりやすさ」の罠

人は経験を意味付けながら生きている。
それは脳が発達しすぎた動物の宿命のようなものだ。
こうした結果……となった。
これは……が原因だ。
こうなったのは……に違いない。
しかし、えてして、前向きであればあるほど、都合の良い解釈、「わかりやすい」結論、お気楽な物語に持っていきたがる。
基本的に超ポジティブ志向な私はこの落とし穴にはまりやすい。
「わかりやすさ」を追い求めるあまり、目を背けている部分はないだろうか?
まだ光の当たっていない部分はないだろうか?
わからないことに向き合う「めんどくささ」とじっくり付き合おうとしているか。
あまりにも楽観的すぎる自分は、少しでもバランスを取るために、そういうことを反動的に反省してみたくなる。

「あいつはめんどくさいやつだ」の「めんどくさい」の用法について

最近気になるのは、他人について使う「めんどくさい」という言葉だ。
たとえば、人の性格がちょっと変わっていたりすると、「あいつはめんどくさいやつだ」などと言ってみたりする。
これは、人を「わかりやすく」理解したいという欲求から生まれているのではないかと思われる。
他者を、ラベル付けしたり、区別したり、パターンわけすることによって、その人を「わかった」気になるものである。
とくに、不特定多数の人と「出会う」ことが可能になったインターネットの世界では、その人の「めんどくさい」ごちゃごちゃさよりも、「わかりやすい」ラベルや文脈を与えて理解したい気になってくることもあるのだろう。(もっとも、自分自身もそういう「わかりやすい」枠組みに従って、ポジショントークをして、自分自身を「わかりやすく」見せようとする傾向があるのかもしれない)
そういう状況や発想のよってきたるところに「めんどくさい」という言葉があるような気がするのだ。
そしてこの、「めんどくさい」人間を「わかりやすく」理解しようという試みは、ありとあらゆる領域で加速しつつあるような気がする。

2014/03/12

判断を留保する権利もある。

めまぐるしく降り注ぐ情報に、常に判断を迫られている(ような気になる)
道を歩いていると、「あなたは幸せですか?」と妖しい団体の方が、
休日家にいると「インターネットお安くしたくないですか?」と営業の電話が、
ネットのニュースを見ると「この問題あなたはどう思う??」と問いかけられる(ような気になる)
そんな「問いかけ」に、ついつい強迫的に脊髄反射しそうになってしまう。
が、判断をしないという判断を、もっと大切にしたいと思う。
他の人の、判断をしないという判断を尊重したいとも思う。

2014/03/11

話すように書く、書くように話す~音声認識ソフトを使った話し言葉トレーニングはいかが?~

大学時代、「書くように話せ」とよく先生に言われた。
学生たる者、「やばい」「すごい」「ちょーサイコー!」ばっかりの感動語中心の薄っぺらい言葉ではいけない。書き言葉に使われるような硬質な言葉も、大学のディスカッションでは話し言葉トとして使いこなせないといけないということだった。その方が「意味の含有量」が増えると言うことなのだ。

ただ、書き言葉と違って話し言葉の場合、論理的に整理して話すことは難しい。
最後まで言い終わったときに、何が言いたかったのか自分でもよくわからないことがある。話が途中で脇道にそれたり、本筋と離れた付け足し部分が余分だったりすることがある。

そこで、こんなのはどうだろうか?
音声入力ソフトを使って、話し言葉を瞬時に書き言葉に書き換えて、ふりかえるトレーニング。
きっと、短く整理された文章、文がねじれず,最後まで着地している文章、滑舌よくはっきりわかりやすく言葉が届けられていれば、音声認識もスムーズだろう。
そういう学習にはどんな相乗効果があるのだろうか?

2014/03/07

なぜ省察せずに言い訳ばかり言ってしまうか? ~「ふりかえり(省察)」と「いいわけ」の似て非なる関係~

「いいわけ」は「惰性」と「あきらめ」から生まれ、
「ふりかえり(省察)」は「工夫」と「チャレンジ」から生まれる。のではないかな?
イノベーションなきところ省察なし。省察なきところにイノベーションなし。

2014/03/06

スタイルを交差させる授業研究

よく、実践者の個性を生かすために、それぞれの先生が自由気ままに題材を決め、授業をして見合ったりする。それでもいいんだろうけど、先生方のスタイルを際立たせるためには、むしろまったく同じ授業プランを複数の先生でやってみる方がよっぽど勉強になると思う。
スタイルとは「モチーフに対する一貫した変形」と言われる。同じ山や林を描いても、ルノアールとゴッホではまったく異なる。対象の切り取り方が異なるのだ。
授業もそれに似ている。まったく同じ題材でも、授業者によって味付けが異なるものだ。それがとても勉強になる。他人から良いところを盗むだけでなく、自分が無意識に形成してきたスタイルやこだわりにも自覚的にならざるを得ないからだ。

2014/03/05

研究者と、現場の実践家の断絶を論ず~教育「研究」と教育「実践」が相容れな い理由~

教育現場でよく言われるのが「研究」と「実践」との断絶だ。
もっとわかりやすく言うと、
大学の研究者がやろうとしていることと、現場の教師が日々やっていることが、なんかズレているんだよね、と感じる感覚だ。
その「相容れなさ」の感覚はいったいどこから生まれるのだろうか?

ひと言で言ってしまうと
現場の教師は共通項をひたすら追い求め、
大学の研究者は、差異をひたすら追求する
という点にあるのではないか?
(一応断っておくが、大学の教員でも実践家はいるし、現場の教師にも研究者的なスタンスを取ることがあり得る。ようは立場ではなく機能の問題だ)

(私も含めて)現場の先生は、目の前の子どもを少しでも良くしようと、日々研修に励んでいる。
誰かが取り組んだ良い実践があればそれをまねしてみたり、
長年取り組んできた定番の実践や、得意な方法があればそれを(多少バージョンアップしつつも)何度も繰り返して取り組んでいく。
子どもを見る目も同様だ。自分の、過去のいろいろな子ども達と関わった経験を土台に、そこからある程度のパターンを導きだし、想定しつつ、目の前の子どもに向き合うことになる。
これらの「実践」の中心にあるのは「共通項」である。
うまくいった実践を同じように当てはめて、まねしたり、
過去の経験から、ある程度同じようなパターンになることを当てにして、子どもを見たり。
実践において「まねること」や、「くりかえすこと」は決して否定されない。それが子供にとってベストだと思えば、マネを恥じずに堂々と実践すれば良い。(それに、まねしようにも、その教師個人のキャラや子どもの実態が異なるので、全く同じようにすることは不可能だ)

「実践」を病気や怪我にたとえよう。
「実践」においては、怪我をした場合は長年使っている「赤チン」を塗ればいいわけだし、身体が冷えたら定番の「養命酒」を飲んでおけば良いのだ。
そうすればある程度は怪我も,体調も良くなっていく。
あえて「新薬」に手を出す必要なんて無い。そういうものだ。

一方、大学の研究者は、怪我や病気の時に「赤チン」や「養命酒」がベストだとは決して思わない。いや、思ってはいけない職業なのだ。「新薬」を生み出すためには。
常に現状を疑い、常に改善を目指し、常によりすぐれたもの、より新しいものを生み出そうというベクトルで「研究」は進められていく。現状肯定、追認は不可能だ。
それが、いわゆるひとつの「アカデミック」な世界というものなのだ。
だから、今まで取られてきたよい方法を、そのままなぞるようなものは「研究」の名に値しない。
ちょっとでも現状から「違い」を生み出し、少しでも「新奇性」をアピールすることが「研究者」たちの使命である。
「違い」や「新奇性」が「研究者」たちのコミュニティーでは幅をきかすようになる。
その研究のおかげで、教育が発展してきたことはある程度はあるだろう。
しかし、些末な差異を取り出し、新奇な流行を追い求める、およそ「実践者」の立場からみたら明後日の方向にいってしまっているマニアックな「研究」がそこにないとは言い切れない。

では「研究」と「実践」をつなぐためには、どんなことが必要なのだろうか?
とってもありきたりな結論だが、私は、「研究者」こそ、現場としっかりとつながり、「実践」から真摯に学ぶ姿勢が求められると思う。
優れた実践、優れた教師、優れた学校のもつ暗黙知を引き出し、それを多くの人が共有できる「理論」を導き出して欲しい。「研究者」の狭いコミュニティーで通用する理論ではなく、多くの「実践者」から評価され、受け入れられるようなものを生み出す必要があるのではないかと思う。
そして、実践家にも課題がある。前例踏襲ではなく、同じことの繰り返しばかりではなく、研究者や他の実践者からの方法や理論を積極的に学び、ある程度はリスクを取ってチャレンジしていく柔軟な姿勢は必要だろう。また、それ以上に、自分の身体を通して取り組まれる「実践」を、目の前の子ども達をとおして批判的に検証し、不断に更新していく姿勢を忘れないようにしたい。







2014/03/02

論文は「問題の所在」が八割。

論文には、ふつう「問題の所在」と呼ばれる序論部分が存在する。
なぜそれが問題なのか? 
それが今までどのように論じられてきたのか?
それらの先行研究と、自分が論じようとしていることの違いは何か?
など、問題にする意義、論じる価値を説明するのだ。
読み手と問題が共有され、共通の土台に立てられれば、その論文は半分以上は成功したものと言える。
が、論じるに足る問いを見出すこと、それをうまく組み立てて他者に説得することほど難しいことはない。

そもそも問題が曖昧なことがほとんどだ。
問題が存在しても、先行研究で、とっくに同じアプローチがなされている場合がある。
取り上げる問題が壮大すぎることに気づかず突進するドン・キホーテだったりすることもある。

そうして今日も私は悩まされるのである。

虚構との関わり方~人はなぜ「ものまね」に笑ってしまうか?~

人はなぜ「ものまね」とか「そっくり」なもの、フェイクに興味を持つのだろうか?
モノマネがなぜ笑いを生むのだろう?
完全な別物、オリジナルでは笑いは生まれない、そっくりに似せてある作り物を目の当たりにしたとき、そのギャップ、信じたくても信じられない、認知的不協和に耐えられなくなって笑ってしまうのだろう。
しかし、その「そっくり」も度を越せば不気味になる。「不気味の谷」はその認知的不協和の限界を示しているのだろう。

不気味の谷とは? 以下「デジタル大辞泉」より引用
ぶきみ‐の‐たに 【不気味の谷】
人型ロボットなどの様態があまりにも人間に近いときに、見る者に違和感や嫌悪感を抱かせるとされる現象。
◆ロボットの他、CG映像などについても用いられる。単純な機械に対しては抱かれない親近感が、人を模した単純なロボットなどに対しては高まるが、人に似すぎると違和感の方が勝るようになるというもの。さらに人と見分けがつかないほど似せることができれば、再び親近感が勝るという仮説に基づき、親近度のグラフにV字の谷が現れることからいう。

論文はタイトルが9割

・論文の内容やウリを端的に表すから
・タイトルの切れ味で、その論文の質がある程度規定されるから
・多くの人は、論文の内容を読んではくれないから
・研究業績に一生残るから(恥ずかしいタイトルの論文を書いちゃったらそれが一生残る)
など。
というわけで、自戒を込めて論文のタイトルに最も気を遣うべきだと思っております。
9割は言いすぎかな。こんなセンセーショナルなタイトルはつけるべきではない。