2014/07/30

夏の自由研究「また行きたくなる観光地の構造」〜期待と充実感のオーバーフロー理論〜

旅路から帰る妻と「また来たくなる観光地の法則」について協議した。
一度行くともうやみつきになって、また行きたい!と思わせる観光地がある。
その反対に、どんなに素晴らしい観光地でも「一度行けば、もういいかな」という観光地もある。その違いは何だろうか?
「もう一度行きたい観光地の法則」はなんなんだろうか。

私はそれを「期待と充実感のオーバーフロー理論」と勝手に名付けることにした。
簡単に言うと、それは、旅に行く前の期待感と、旅に行って得られる充実感との関数になる。
期待感が高ければ、失望も大きい。
期待を上回る価値が得られると、また行きたくなる。

「旅の期待感」を、さらに分析してみた。
旅の期待感には、次の要素が影響する。
A、物理的なコスト
・距離 遠ければ遠いほど期待感は高まる。
・経費 お金をかければかけるほど期待感は高まる。

B、情報量
・話題性 話題性が高いものは期待感は……以下同じ。
・予備知識 予備知識があると……。

C、自分のニーズ
・興味関心 自分の関心とのフィット感があると……。 
・タイミング ちょうど見たいときに見に行くと……。

このように、「旅の期待感」は 
A、物理的なコスト、
B、情報量、
C、自分のニーズとの3つの要素が複合的に関連し合って膨らんでいく。
あたかも、三角錐のように、底辺の三つの頂点の距離が開けば開くほど、期待感は大きくなっていく。
「旅の期待感」の三角錐

この三角錐を逆向きにして、コップのような形してみて欲しい。
これが「旅の期待感」のコップだ。
旅行とは、「旅の期待感」のコップに、「旅で得られる価値」をどくどくと注ぎ込んでいく行為だと思っていただいてよろしい。

一回目の旅行で、「旅で得られる価値」が「期待感」のコップにちょうど満たされた場合は「だいたい見尽くしたかな」という状態になる。
逆に「期待感」のコップよりも、「価値」の総量が少ない場合は「もう次は行かなくてもいいや」となってしまう。
さらにさらに、「期待感」よりも感じ取る「価値」がずっと少ない場合もある。そういう観光地は「がっかり名所」「がっかりスポット」と呼ばれて、逆に思い出深い旅行となるかも知れない。
旅で得られる価値が、行く前の期待以上に、コップにどぼどぼとあふれんばかりに注がれていくと、「こりゃあ、コップ一杯じゃ足らんぞ、もう一回行かないと!」ということになる。価値が期待のコップからあふれ出る(オーバーフローしちゃう)わけだ。

繰り返すが、旅の充実感は「期待感」と「得られる価値」の関数になる。
期待やコストが低ければ(安かったり近かったりすれば)「また行ってもいいかな」という気になる。
コストが高すぎると、「もう次はいけなそうだな」と断念してしまう。
期待感が高ければ高いだけ、「え、これだけ?」と残念ながらがっかりしちゃう可能性も高い。

面白いのは、この「価値」の総量は、時間の経過とともにいつまでも流れ、注がれ続けていることもあるということだ。

たとえば、スペインの「サグラダ・ファミリア」

「世界で最も有名な工事現場」と言われるこの教会は、時間がたつに従って「価値」を発し、増していく観光地の一つだ。
私もかつてここを訪れたことがあるが、「完成したらもう一度行きたい!」と固く誓ったのは言うまでもない。
観光地の価値は決して固定されていない。時間によって変わってくる。
廃れていく観光地もあれば、逆に「次に来るときは、もっと変わっているだろうなあ」と思わせる勢いのある観光地もある。
たとえば、インドなんて私にとっては「止めどない価値」を感じさせる魅力的な観光地だ。いつ行っても変化し続けているし、そして期待を裏切る刺激を与えてくれるだろうと予測させる。
こういう観光地は、こんこんと湧く泉のように、「観光地としての価値」をいつまでも発し続けているのだろう。

2014/07/29

APU(立命館アジア太平洋大学)と別府市

別府に帰省している。
別府市民の祖母&叔母さん夫婦の案内で一日別府観光を堪能した。
以前訪れたのは学生時代、失礼ながら、その時の街の様子はシャッター街という言葉がピッタリのさびれ方だった。
それが、なんということでしょう、今や、お客さんは増えているようだし、街の様々な施設がリニューアルしている。働いている人も若々しく、街全体に活気がある。

大分も中国や韓国の方が多い。大分は、観光客だけでなく、留学生の受け入れも積極的に行っているので有名、立命館アジア太平洋大(APU)だっけ?
九州は、日本というよりアジアだ。
同じ日本だけど、地域によって課題も全然異なるんだろう。だから軽々しく「日本の……」というざっくりした言い方をすることはできないなと思った。
近い将来移民の受け入れが始まったら、地方の風景が一気に変わってくるかも。
そんなことを、唐揚げを食べながら考えたのである。

聞くと、APUができてから、別府の街が蘇ったのだという。
高齢化が進み、別府の若者たちがどんどん都会に流出していくなか、APUの留学生たちが、街を盛り上げている。
彼らは街案内のボランティアをしたり、ホテルなどで働いている。真面目で一生懸命、なにより若々しい。海外の観光客への対応もバッチリ。留学生がそのまま別府に残って、海外の観光客向けのビジネスを起こす人もいる。
留学生にとっても、別府市にとっても、WinWinの関係を築いているのだという。
大学と地域の連携のあり方について考えさせられる事例であった。

2014/07/26

「話合い」の力は社交術ではなく課題解決能力。

話し合いのスキルを社交性のレベルで論じるのはもうそろそろ終わりにしてもいいのではないだろうか?
相手の目をみて話すとか、うなずきながら聞く、とか、確かにそういう能力が必要なのはわかる。最低限のマナーという意味で。
しかし、より本質的に重要なのは、話し合いは課題解決の方法であるということだ。
世の中に出てからは、ひとりで事をなすことよりも、他者と共同で(話し合いつつ)課題を解決することのほうがずっと多い。
クリエイティブな話し合いに発展させるような話し方や聞き方をこそ、しっかりと指導することが重要なのではないだろうか。

課題解決としての話し合いのスキルや姿勢を細分化し、下位目標として設定することが必要だろう。

2014/07/24

本を薦める教師になりたい

高校時代、大好きだった国語の先生に、
「君たちは死ぬまでに『源氏物語』と『史記』を読みなさい。現代語訳でもいいが、原文の方が圧倒的に面白い」と卒業間際に言われた。
そこまで迫力を込めて言われると、この歳になっても忘れないものだ。
私もそれくらいの気迫で、何かの一冊を生徒に薦められるだけの人間になりたい。
あっ、でも、その前に『源氏』も『史記』も読んでおかないと。死ぬまでには読みたいが。

……という話題をフェイスブックに投稿したら、さっそく友人からこんな本を紹介された。
史記列伝の韓非子や、項羽本記、
原文だったら『新釈漢文体系』
中島敦『李陵』
パールバック『大地』
スタインベック『怒りの葡萄』
曹雪芹の『紅楼夢』
ちなみに私が好きなのは、武田泰淳『司馬遷ー史記の世界』
いやあ、中国モノは熱い! 久しぶりに読んでみたくなった。

・・・・・・・・・・

四月当初、ヘッセを愛読していると言っていた生徒に『デミアン』を紹介したらすっかりはまってくれたらしく、会うたびに選書の相談をしてくれる。
今日は『ファウスト』か、『カラマーゾフ』か、どちらがいいか、迷ってるらしい。なんでも、夏休み開けのビブリオバトル文学決戦で、どちらかの本でエントリーしたいらしい。これもビブリオバトルの効果か?
しかし……デミアンからファウスト、カラマーゾフはいくらなんでもは飛びすぎだろう……まずは『罪と罰』読んだら?と紹介させていただいた。
げに、先達はあらまほしきことなり。
罪と罰も、ファウストも、何度も挫折して、やっと大学時代に通読したことを隠しているのは言うまでもない。

国語で古典と言うと、決まって源氏だ、枕だ、というのが不思議で仕方が無い。なぜ日本の古典に限定するのか?
そんな偏狭な「古典教育」で、世界の古典的作品に触れる機会がどれだけ生まれるのだろう?
それでも、知的関心が高い生徒は自分から古典の価値を見出し、読もうとしている。
もちろん彼らには、日本も世界もない。
ギリシャ神話、聖書、ドストエフスキーなど、そういう類の本を背伸びしても読みたくなる中高生が必ずいる。そんな彼らの意欲を後押しすることはできないだろうか?

本を、しかも、一生で何度も読み返し、味わうことのできる作品を薦められる教師になりたい。そして世代を超えて、一つの作品について語り合いたい。
そんなことのできる作品は、やはり、日本に限らず世界の古典的な作品しかないだろう。

2014/07/23

「夏の自由研究」に取り組んでいます。

富士山の下山明けで、まだ体力的にはへろへろだけど、8月上旬の研究大会に向けて、以前書いた実践レポートを全面的に書き直すことにした。
最初のバージョンでは、レポートの内容が「これだけ勉強しました!」的な「後づけ」が多く、そのため、論旨が盛り込みすぎ、ごちゃごちゃしすぎて分かりづらいものになってしまっていた。
で、書き直すポイントは、自分の試行錯誤や、取り組みの流れをそのままんまたどっていくということ。実際に授業をしてみて、子どもの姿をとらえ、気づいていったプロセスを素直に書き起こしてみようと思った。そのほうが、なんだかんだ言っていちばん筋が通っているし、読み手にも説得力を持って伝えられるのではないかと考えた。(それは、お茶大附属幼稚園の研究紀要の書きぶりがとても参考になっている)
余計な装飾や演出をしなくても、子どもの姿だけでも、十分におもしろい発見になっている。そんな教師としてのわくわくを読み手に伝えられればいいなあと思った。

2014/07/22

「他教科と国語科の違い」を考えることがなぜ難しいか

教師の夏、研修の夏である。
夏休み出勤一日目は、午前中は部活

正しい斜め読みの作法

正直に告白すると、持っている本の三分の一もまともには読んでいないだろう。
だが、ちょっとしたコツで読んだことにしてしまう秘策がある。
斜め読みという技である。
斜め読みなんて、何と無く、不真面目で手抜きかもしれないので、おおっぴらには言いづらいことだったけどが、先日、ある。超読書家の方も私と同じような読み方をしているときいて、これでよかったんだ!と安堵し、公開に踏み切ることを決断したのである。

正しい斜め読みの作法
1、本の紹介文、作者のプロフィールをじっくりよむ。時間があればWikipediaなどで調べる。Amazonやブクログなどのレビューも目を通す。(あてにならないことが多いが読者のリアクションとしての意味はある)

2、前書き、あとがきをじっくりよむ。
(その本のウリや、要約が書かれていることが多い)

3、目次に目を通して、だいたいの内容や全体のトーン、主張を類推する。索引や参考文献が紹介されていれば、それが文章のキーワードになるし、文章の根拠や系譜を知るために役立つ。

4、とりあえずページを始めから最後まで全めくりする。
(ここが斜め読みの核心。面倒だけど全てのページを見る。大変だけど、ものの10分でしよ。
こうすることで全体の構成が把握てきる。そして、どの辺が必要な情報か、どの辺が気合いを入れて書いているかがわかる。)

5、全体の中から優先順位の高い順にページを開き、読む。
最初からという順序を気にせず、いきなり核心から読む。必要があれば遡って読む。

富士登山いまむかし


実に25年ぶりの富士登山でした。前は小学生時代。家族で山中湖に旅行中、ふらっと富士山に登ろうと思い立ち、勢いで登頂してしまったという無謀極まりないものでした。もちろん登山グッズなど何もなし。半袖半ズボンが寒かったなあ。
そして四半世紀後。当たり前ですがいろいろな発見がありました。

富士山を登るときの景色は最高!
泊まった山小屋「富士一館」はとってもきれい。
山頂の神社は大賑わい。
見事なご来光を拝めることができました。
マストアイテム金剛杖に焼き印を!
下山道の様子。すぐに濃い霧に。

1、本格的な登山装備の人が増えた。
以前は私みたいにカジュアルに登ってしまえる山が富士山だった訳ですが、登山靴やトレッキングポールなどの、あたかも雪山を攻めようかという出で立ちで登る人が非常に多く、驚きました。山ガールみたいなファッションも流行ってる?
結果的に、二十年前はマストアイテムだった「金剛杖」の売り上げはおそらく激減のもよう。みんなストック持参だから。

2、海外の登山客が増えた
私が見た限りでは、とくに、中国、タイの人が目立ちました。フランス、アメリカなど欧米系ももちろんいます。
お土産屋さんにはタイ語の掲示が多くてびっくり。タイの王室もたびたび来ているようです。

3、ご来光は大渋滞
ほとんどの登山客が、七合目付近の山小屋で仮眠を取り、深夜に山頂を目指します。そのため、山頂付近ではヘッドライトの光で真昼のような明るさ、賑やかさになります。大晦日の神社みたいな光景。そして午前中には一気に下山して帰っていきます。

4、富士山全域はバリ3
富士山は基本どこでもケータイが使えます。山小屋ではWi-Fiも完備。大自然の中なんだけど、変な感じです。

5、山小屋がピッカピカ
世界文化遺産登録の影響からか、山小屋が建て替えられて小洒落た感じにリニューアルされています。(私が泊まったのは富士一。他にも東洋感など)
雑魚寝は相変わらずですが、女性でも気軽に泊まれちゃうくらいのキレイさです。

とりあえずこれくらいで筆を置きますが、登山初心者でも気軽に楽しめる富士登山の魅力に、多くの人が触れて欲しいなと思いました。(ただし小学生時代の私みたいに無謀な登山はダメ!事前の情報収集は抜かりなく。ガイド付きの登山ツアーがオススメです)
富士山は眺めるだけでもいいですが、登るとさらにその素晴らしさが体感できるはずです。ぜひ。

2014/07/21

得意分野、不得意分野の三法則

得意分野の三法則

第一法則
自分が「得意分野」であると感じることについて、他の人の実践や研究内容を見るときには、自分のそれとの「差異」に目が向きがちである。

第二法則
従って、「得意分野」に関する追究は、「得意分野」であると自覚すればするほど、ひたすら微細に、瑣末に、差異を強調したくなる傾向が認められる。

第三法則
さらに、その傾向が顕著になると、常人には理解し難いほどに「得意分野」への視野が狭くなり、独善に走る危険性が認められる。
それを克服するためには、「差異の中の共通点」の価値を積極的に認識することにある。

不得意分野の三法則
第一法則
自分が「不得意分野」であると感じることについて、他の人の実践や研究内容を見るときには、自分の既有知識や経験との「共通点」に目が向きがちである。

第二法則
従って、「不得意分野」に関する追究は、「不得意分野」であると自覚すればするほど、自分の知識や経験との共通点という指標からのみ、その価値を認めようとする傾向が認められる。

第三法則
さらに、その傾向が顕著になると、自分の狭い知識や経験という物差しでしか、他の不得意分野の価値や意味を学びとることができない危険性が認められる。
それを克服するためには、自分の文脈に置き換えて理解するだけでなく、その分野の持つ世界や、それが語られる文脈そのものを理解しようと努めることにある。

2014/07/19

授業プラン 「なぜ怖い??怪談の世界」(夏季限定)

怪談(怖い話)は子どもたちに大人気だ。
とくに宿泊行事などでは、夜になると「怖い話をして!」と必ずリクエストをしてくる。
先日2年生と一緒に行ってきた林間学校では、キャンプファイヤーのイベントの一つとしてクラスごとに車座になり怖い話を聞くという取り組みがあった。話をしたのはレク係のメンバー。レク係がしっかり練習をしてきたおかげか、怪談は大成功。夜の林に、ところどころ悲鳴が上がっていた。
それを聞きながらひらめいたのが「怪談」を授業で取り上げるということ。今回はタイミングを逃してしまったが、もし次に2年生を持つことになったら怪談の語りを授業で取り上げてみようと思う。
そこで、忘れないうちに授業の構想を書き留めておく。

単元名 
なぜ怖い??怪談の世界

単元の趣旨、概要
みんなで怪談を語る言語活動。
怪談を語ったり作ったりすることを通して、文学的文章の描写の特徴や音読の技術を学ぶ。

○怪談の語りの特徴
怪談の語りには様々な音読の技術が必要とされる。
顔色を作ったり
声のトーンをぐっとおとして声色を落としたり、
抑揚をつけたりつけなかったり
ゆっくりとしたテンポで話したり急に早口になったり、
突然「わあー!」っと叫んだり、「ごおーっ」という効果音を挿入したり、
そしてなにより、音読に不可欠な(それでいて学ぶことが難しい)「間」の大切さを実感することができる。
怪談の音読のいいところは、立て板に水の饒舌な人が必ずしもいいのではなくて、とつとつと話すような人のほうがむしろ怖さが増すというところだ。普段音読を苦手としている人こそ、この学習では生き生きと活躍するかもしれない。

○怪談のレトリックを学ぶ
一方、怪談「怖い話」には、怖くなるような書き方がなされている。
端的に言うとここぞとばかりにリアリティーを追求した描写をしつつも、ある場面では「身体感覚に訴えること」と「想像力をかきたてる余白」を書きこむことポイントになるだろう。
たとえば「突然、背筋にツーっと冷たいものが走った」とか
「背後に人影を感じた」などなど……、「五感」に訴える描写が怪談のレトリックの特徴だ。
そして、あえてあからさまに言わないところに、読者の想像力をかきたてる怖さがある。
「その後、女の子の姿は二度と現れませんでした」とか「後ろを振り返ると、さっきまで座っていた女性はいなくなってしまいました」など。
「お化けが出た」なんてべたなことを言わなくても、そうと感じさせる「余白」を配置することが特徴だったりする。(これは日本の怪談の特徴かもしれない)
これらの、「怪談の仕掛け」である表現の意図と効果を、作り手の立場から考えさせることが、怪談の学習から得られる学習内容となる。
(きっとこの学習が、怪談に限らず文学作品の描写の学習にも生きてくることだろう)

学習の流れ

A、音読をメインにした場合の授業
1、怪談を聞く
2、怪談の音読の特徴を分析する(
稲川淳二さんの怪談を聞く(たとえばこんな映像。こえ~)



こっちは伊集院光さん。これもこえ~
3、稲川淳二さんなどのネタで自分も怪談話をしてみる。
(ここまでが共通課題)
4、自作したり、インターネット等で調べた怖い話を再話する。
5、クラスで怪談発表会「2年○組百物語」を行う。

B、怪談のレトリックをメインにした場合の授業
4、上記の4の学習で、怪談がなぜ怖くなるか文章の工夫を分析する。
できれば文字起こしした資料があるといい。
日本の古典的な怪談や、世界の怖い話などを調べれば、ちょっとした比較文学の学習にもなる。

以下のサイトが参考になる。子どもたちに調べさせても、授業で提示してもいいだろう。
「怖い話の作り方」
どうすれば怖いホラーが書けるか

5、4で学習したことを参考に、怖い話を自作する。または、元々あった怖い話を、全く怖くない笑い話に作りかえる。(怖い話が苦手な人向け)

6、怖い話発表会を行う。






2014/07/18

ニコニコファーム関口さんの神の手

今日はお昼は恒例の飯盒炊爨。グループでカレー作りを行った。
カレーも飯ごうも、やってみると結構難しい。火加減、水の量、材料の調理時間など、様々な困難が待ち受け待ち受けている。そして、ある班は黒焦げのライスに、ある班はスープカレーならぬ、カレー色の液体が出来上がる。

……と、思いきや、ここのスタッフが、実に精妙なタイミングで火加減、水の量、ご飯の炊き上がりなどをチェックするのだ。いや、チェックというほど大げさなものでさえなく、通りがかりのおじさんが味見するくらいのさりげなさで、即座に水やルーを足したり、火から下ろしたり、やけどしないように鍋を遠ざけたりする。
そして、100%、全ての班が美味しいカレーライスを頬張ることができたのである。これってすごいことでしょ。
子供たちは口々につぶやく
「自分たちだけで、こんなに美味しいカレーライスが作れた!」
その真相を知っているのは、ニコニコファームの関口さんと私だけである。たぶん。

2014/07/14

読書メモ 教師必読!『子どもと創る授業 学びを見取る目、深める技』(奈須正裕著)

奈須正裕著『子どもと創る授業 学びを見とる目、深める技』 
なんともわくわくする本の題名。

奈須さんは教育心理学を研究している研究者。大学での研究の他に、かつては国立教育研究所などで教育政策の現場(総合的な学習の立ち上げなど)でもご活躍されていたことがある。現在、全国さまざまな学校を視察し、また校内研究のアドバイザーとして多くの学校の研修をサポートしてきた。
その奈須さんが、教師に向けて、歯に衣着せぬ、渾身のメッセージをプレゼントしてくれたのがこの一冊だ。
研究者にありがちな、上から目線で最新の理論を紹介するという形ではなく、一つ一つが、子どもや学校の事実に立脚して確かにつかみ取ったものだけを語っているので、私のような現場人から見ても大いに腑に落ちる内容であった。直球勝負で辛辣。かつ、痛いところを突いてくる。自分のみみっちい教育観を大きく揺さぶられる、そんな一冊だった。
多くの先生に是非読んで欲しい、そしてその感想を語り合いたい!と強く思った本だった。
ざっくりとだが、内容のさわりを紹介する。

目次
1 子どもは自分に引きつけて学ぼうとしている
  未だ知られざる教育
  自分に引きつけて学ぶ
  中身がぎゅっと詰まった知識の創出
  転んでもただでは起きない心がけ
  教育は「地のもの」
  存在の底へと潜りこんでいく学び
  身体でわかる
2 こんなにも難しく、そしてステキな出来事である授業
  教師としての仕事と授業技術
  授業のラインは誰が生み出すのか
  子どもは常に新たな自分を生きている
  教材は二つある
  だまされたと思ってついてこい
  共有かすべき情報をきちんと共有する授業
3 おいしい授業づくりの厨房拝見
  授業が元気な学校はここが違う
  正面突破の潔さは素直でまっとうな教育原理の証
  リッパ過ぎる研究からの脱却
  先を急ぐ前に考えたいこと
  学校改革をめぐる五つのウソ
4 「習得」と「活用」について心理学者の意見を聴いてみよう
  活用は習得の基礎でもある
  幼児教育が培う学力の芽
  リアルな学習とバーチャルなテスト
5 点数競争なんかやめにして、子どもの育ちで勝負したい
  教育を論じる言葉にもっと鋭敏になろう
  権威によりかからず、目の前の事実をしっかりまなざそう
  「学力」という名の呪縛
  ていねいな「育ち」
6 やっぱり最後は現場の力なんだ
 教育と社会の関係
  未来への希望であり、現在の存在理由でもある
  気分はオーセンティック・アバンギャルド
  最後は現場の力
内容の紹介
1 子どもは自分に引きつけて学ぼうとしている
この章では、主として子どもの側から、どのように学んでいくかという「学びの本質」が述べられている。
子どもたちは、白紙の状態から学んでいくのではなく、それまでの人生を背負って、全存在をかけて学んでいくということ、そして目の前の現象を、自分なりに意味づけていくことから学びが生まれることを、さまざまな事例を元に描き出している。(こんな言い方だととても抽象的で小難しくきこえるが、授業の風景を紹介した事例がめちゃめちゃ面白い)
たとえば、次のような記述が印象に残った。 
教科の学習は生き方の学習
教科の学習として純然たる教科内容がしっかり習得されていると同時に、その学びが直ちに自分自身を見つめること、生き方の探求になっている。さらに、教科としての学びが深まれば深まるほど、生き方としての学びもそれにつれて深まっている。それどころか、むしろ教科の学習であることが、生き方の探求を自己存在の核心に迫る深い水準で始動する必須の要件にすらなっている。 
子どもは本来、どんな教材でも自分に引きつけ、「自分事」として対象に肉薄しながら学ぼうとするのではないか。さらに、わかる・できるといった教科的な学びと、自分自身を見つめる生き方を深めていく学びを、渾然一体のものとして同時的に推し進めようとしているのではないか。
自由闊達に学ぶことが許容されている教室では、子どもは教材を自分に引きつけ、経験や知恵を総動員し、実に創造的に学ぼうとします。
子どもたちの、特に生活実感をも持ち込んだ具体的で特殊的で個別的な思考の経路を通過することにより、中身の詰まった、豊かな文脈を伴う、カラフルな知識となります。シンプルな提案でも知識は獲得されますが、空っぽで文脈のない、無色透明な質に留まるでしょう。そんな知識はおよそ「活用」が効かないし、「とりつく島」がない分、「習得」だけを考えても実に不安定で、したがって忘却も早い。
もちろん、今日の目当てや指導事項は大切です。でも、それを通して僕らは「教科」を教えている。そのことを忘れてはいけません。……今日の指導事項にとらわれることなく、広く「国語科」の学力を見渡せたからこそ生まれたのです。
「私の考えは○○です。そのわけは○○だからです」に代表される定型的な語りの強要と訓練とが、いかにこの定型に収まりきらない思考や感情へのアクセスを子どもたちに断念させているかを想像するだけでも空恐ろしくなるのは僕だけでしょうか。教師はより明晰な思考や端的な表現を訓練しているつもりでしょうが、実際には容易に明晰になる浅さでしか思考や感情を持てない子どもにしてしまっているのです。 
特に危惧されるのは、思考や感情を内面へと深く掘り下げる働きを阻止しかねないという点でしょう。定型化した語りの訓練は語りをもっぱら上へ、外へと向かわせます。堀川の語りは逆で、下へ、内へと向かう。だからこそ、語りが進行する中で真の自分と向き合うのです。
2 こんなにも難しく、そしてステキな出来事である授業
この章では、そのような学びを生み出す授業の心構えや技のようなものを説明している。ここでの記述も、現場の先生が語るようなテクニックとは一風違って、教育観の根底まで揺さぶる洞察にあふれたものだった。
子どもたちの心理は象徴的に、黒板の向こうに権威的な空間を常に見ています。
(黒板を背にして子どもに向き合う教師の姿)権威的な知の集積をその奥に持ち、その一つ一つが時々に顕れる場である黒板の前に立ちはだかって、それを意地悪く隠し、自分たちを試しているように子どもたちには映るのです。
(子どもと一緒の向きで黒板を見る教師)教師は子どもたちと同じ学ぶ側にいます。教師は自分たちとともに、今まさに知の洞窟の扉を開けようと、そのために必要な秘密の呪文を見つけ出そうと、一所懸命がんばっている心強い存在なのです。 
子どもは常に新たな自分を生きている 
子どもは時々刻々変化していて、一時たりとも同じ状態ではいません。それこそが発達や学習の本体であり、より教育的に価値的な方向でその変化を実現すべく、僕たちは日々の仕事に邁進しています。ところが、当の僕たち自身は、時折それを忘れてしまっている。そして、子どもたちに何日も前の自分を生きるように求めたりする。それが伸びよう、より納得のいく自分へと自己更新しようとがんばっている子どもたちを困惑させる。 
もしかするとその奥には、いつまでも子どもであって欲しいという多分にノスタルジックな願望が悪さをしているんじゃないかと、僕は考えています。僕たちの子離れ、自律が、こういった事態を乗り越え、子どもたちが自力でぐんぐん成長していける学校や教室の実現には、不可欠な気がするのです。 
僕たちは昨日の子どもの見取りでしか授業を構想できない。この深いディレンマに、僕たちはどのように立ち向かえばいいのでしょうか。一つのヒントは、いかに変化しているとはいえ、子どもの感情や思考は連続しており、何らかの一貫性、全体としての調和を保っているということです。学びが子どものものになっていればなおのこと、子どもの今日と昨日との緻密で構造的な結びつきの中に存在しています。変化すると言っても思いつきでころころ変わるわけではありません。 
「新たな自分を生きる子どもの今日と出会える。」 
現状ではナンセンスとしか思えない相手の思考の拠点に実感を持って立つことができるようになれば、自分の思考のあり方を、それも自分が一番得意とはしなかった新たな方面へと、大きく拡充できるに違いないからです。他者とともに学びを深めることの大きな意義が、ここにあります。自分ではおよそ思いつかないことを、至極当たり前のこととして考えてしまう他者の存在。その存在にまずは驚き、次に理解しようとする。考え自体が理解できたなら、次にはそんな考えを必然として要請する思考の拠点とはどんなものであるかを知り、それを自分の内面に取り込む。そうすることで私のものの見方や考え方は格段に幅と深さを増し、対象により多角的に肉薄できるようになるのです。 
3 おいしい授業づくりの厨房拝見
第三章は、学校を活性化させるための秘訣のようなもを語っている。奈須さんが様々な学校を渡り歩いた実践的な知恵とひらめきが随所に感じられる。私も研究校に所属しているが、耳の痛い言葉がたくさんあった。
「かけがえのない私」による自由で闊達な授業作り、その質と教師としての力量の向上が校内研究の目的のすべてであり、理論や仮説はそれを下支えする手段、道具、材料であってしかるべきだ。 
授業が元気な学校に共通する特質は、一人一人の教師の個性的成長と授業の質の向上が校内研究の目的のすべてであるとの認識を全教職員が抱いていること。それを成就するためにはどのような理論を校内で共有すれば「一番都合が良いか」という、いかにも理論的でははなさそうな問いを理論研究の中心に添え、日々理論的に精進していること。 
十数年前に共同研究に誘われた時に僕がお願いしたのは、どうしても曖昧さがつきまとう図〔バームクーヘン状の学力構造図や、矢印が螺旋を描いて立ち上がる研究構造図のたぐい)を研修冊子から原則廃すること。独自な造語は極力避け、伝統的な教育学や法令上の用語で語ること、理論的説明は毎日の授業づくりでどうしても必要なものだけに限定することの三つ。………理論編を大幅にダイエットしたことで、授業づくりと研究推進のよりどころは、実質的に目の前の子どもの事実と教師の願いの二つだけになった。ここで、二つを結びつける原理が必要になるが、これもオーソドックスにしてその妥当性が長年の実践を通して証明済みの、問題解決学習を基本とするようにお願いした。 
(研究のよりどころとする理論は)むしろ原理的にしっかりしたものでないと危なくて使えない。自前の怪しい理論もどきに依拠して授業を創るなんて危険なことは即刻やめた方が身のため、子どものためである。 
学校研究の進展とは、一人一人の授業者の個性的成長の総体と等価である。こう考えるとき、学校をあげて個々の教師を目的として支えることが研究の主軸となる。
どうですか?ここまで紹介したら、読まないというわけにはいかなくなってきませんか?
3章以降の後半は、学習心理学の紹介とか、いわるゆ「学力低下」論争などについての奈須さんの見解などが述べられています。

全般的に、奈須さんは理屈抜きに「現場の力」を強く信じ、その可能性を訴えているところがあり、まずそこに私は共感できました。現場に生きる身として、背筋の引き締まる思いを感じ、勇気づけられました。
また、教育心理学者らしく、子どもの学びや育ちを丁寧に、かつ温かく描き出し、かつそこから本質的な深みをのぞかせようとしているところがとても勉強になりました。
私も毎日の教室の中で、そのような豊かな意味を感じ取れるだけの教師になりたいと強く思った次第です。
ぜひ読んでみてください。

2014/07/13

質的研究「談話分析」に挑戦

研究の手法は大きく二つに対比される。質的研究と量的研究。

とてもざっくりと言ってしまえば、量的研究とは、現象を「数」で表し(数値化)し、統計などの手法を用いて、膨大なデータを処理し「仮説を検証」していく方法。
「テストで100点取りました!」っていうのはテストの点という「数字」で表現し、それを統計的に処理して量的に学力を評価したと言うことになる。

一方、質的研究とは、現象を「言葉」で表現して、少数のデータからでも希少な意味を見いだし「こんなことは言えませんか?」という「仮説を生み出していく」方法。
たとえば、「学力がめきめき上がる子は、どのように学んでいるか」というテーマを取り上げたとして、その学力が上がった子をインタビューして、その「語り」を対象にしたり、勉強の様子を「観察」したりして、意味を見いだしていく。
このように質的研究のメリットは、統計的な「平均値」でははかれない、希少な知見や、より現象をリアルに浮かび上がらせるためには有効な手法である。
……ほぼ100パーセント聞きかじり&知ったかぶりなので、質的研究について詳しくは、以下の入門書を読んでみて欲しい。どれも分かりやすかった。
質的研究の本質を初心者向けに分かりやすく語る。「実況中継」方式の入門書。



質的データの取り扱いについてとても丁寧に説明されていて分かりやすかった。
質的研究が独断に陥らないような「勘所」のようなところを、まさに「かゆいところに手が届く」までに説明をされている

こちらは主に教育研究に特化した質的研究の入門書。
教育現場で使われやすい事例と分析の実際が出ていて参考になる。
なお、著者のこのサイトが元になって出版されたそうなので、以下のサイトも参考にされると良いだろう。( http://web.cc.yamaguchi-u.ac.jp/~ysekigch/qualmtd.html )

で、今回取り組んだのが質的研究の手法のうち「談話分析」とよばれる分析だ。(質的研究にはインタビューや参与観察など「現象を言葉にする」ための多種多様な方法がある)
「談話分析」とは、話されている言葉を対象として、そこから新しい知見を引き出す研究法である。教育分野だけでなく、言語学や文化人類学等、様々な領域で使われている一般的な研究手法らしい。
授業におけるコミュニケーションを扱った一冊。「教室談話研究」にも触れられている。大学のテキストなので網羅的だが、参考文献なども紹介されているので一通りの入門的知識は得られる。(絶版)


談話分析は手間がかかるけど、本当に面白い。子どもがどのように言葉を交わし合い、学び合っているのかがよく分かる。(反対に、今まで自分はなにも分かっていなかったんだと思ってショックだった)「子どもから学ぶ」ことをこれほど実感できる研究法はないだろう。面倒だけどこれからも談話分析をして、子どもの学びの実際を知りたいと思った。

私が取り上げたのは「中学生はどのように古文を解釈しているか」という研究主題。
この主題を解明するために、古文をグループで話し合いながら解釈している様子を記録して分析を試みた。
「談話分析」をするためにはどのような手間がかかるか簡単に説明したいと思う。(もちろん、専門家から言わせれば手順が違う!とか突っ込まれるかもしれないが、一つの例として)

ボイスレコーダーと付箋が大活躍!

1、話し合いの様子を録音する。
学校にはグループの数だけボイスレコーダーがある。それを使って全グループのテーブル上にレコーダーを置き録音をした。
(もちろん、録音するだけでなく、授業の様子もしっかり観察して、気になることは忘れないうちにメモしておく)

2、話し合いの様子を文字起こしする。
この手間が非常にめんどくさい。が、ここさえ乗り越えてしまえば、あとは楽だから辛抱して欲しい。
・まずは一通りレコーダーを聞く。(倍速機能などがあれば便利)
・聞きながら、「なんか気になる!」と思うグループをチェックしておく。
・分析の対象とするグループを決定する。
(もちろん、なぜそのグループを選んだかという説明ができないといけない)
・分析の対象とするグループの録音をひたすら文字起こしする。
(パソコンの音声入力機能があれば便利。MacでもWindowsでもデフォルトで音声入力の機能は入っている)
・文字起こししたら、それをエクセルの表に整列させる。
(これはやってもやらなくてもいい。エクセルの表に入れ込むと、話している人物によって色分けしたり、ソートすることがやりやすくなる)

以上、ここまでが準備段階。
ここから分析を始める。私の分析の手法は、いわゆる「KJ法」ですね。

3、話し合いの文字起こしを解釈し意味を生み出す
この段階が最も面白い。談話からなにが分かるか、どんなことが言えそうか、どんな意味が立ち上がってくるかをひたすら追求していく。
・文字に起こされた会話をじーっと読み込み、そこからどんなことが考えられるか、とにかく気づいたことを片っ端から付箋に書き出し、会話文のところに貼る。
(あとで取捨選択すればいいので、まずは大量に書き出すことが重要。忘れないうちにどんどん書く。もちろんそのときに、研究テーマである「中学生はどのように古文を解釈していったか」という問いを意識しておく)
・書き出した付箋をいったんバラバラにする。(脱文脈化というらしい)
・バラバラにしたもの関連性などを考えてグループに整理する。
・グループを包括する見出しを考えたり、グループを関連づけて構造化したりする。(再文脈化という)
・それらの構造化されものから、研究主題に関する新たな意味や知見を引き出す。

最後がはしょりすぎて何のことを言っているのかわかりにくいと思う。
(実際自分でもまだよく分かっていない)
ここからは私見だけど、子どもたちの会話の様々な言葉からどう意味を引き出し、どう有効な知見とか価値を見いだしていくか、実践上の「観」のようなものを言語化するための方法として、談話分析や質的研究はとても有効な方法だと思う。
しかし、数字で語らせる量的研究よりは、質的研究は教育現場では認知度が低いし、少数のサンプルで語らせるこの方法は、よほどの説得力がないと信憑性を持って伝えることが難しいと言うことはある。多くの人に納得され、「使って」もらえる知見を提供するためには、数字で証明すること以上に「ごまかし」はきかない、「研究者」としての分析の力量が問われる方法だとは思う。
(ちなみに、こういうKJ法のような分析の手法についても、質的研究は百花繚乱、ありとあらゆる方法が開発されている。コンピュータを使った分析のようなものもあるらしい。KJ法はほんの一例だと言うことを申し添えておく)

ちなみに、今回の談話研究では、次のようなラベルをつけて分析をしてみた。
まだ未定稿なので全文は紹介できない。また、本当は発話の具体例が示されているのだが、ここでは割愛する。今後、ここからさらに分析を整え、論文を洗練させていきたいと思う。

実践研究レポート「中学生はどのように古文を解釈していったか」より
グループの話し合いの考察
 話し合いの様子から、共同で解釈を進めることを可能にした話し合いの要素として、A 共同解釈の進行についての発言と、B 文章の推論についての方略の二つの側面から考察をする。

A 共同解釈の進行についての発言
 「共同解釈の進行についての発言」とは、グループで助け合って解釈を進めていくために有効と思われる発言内容のことである。この学習活動では、個人が思い思いに古文を読み取っていくのではなく、チームワークで課題を解決することが求められる。対象としたグループでは、個人の能力を最大限に引き出し、協力して取り組むことができるような様々な発言が交わされていた。

① 連鎖・付け足し発言 
 共同で解釈しているプロセスがよく表れたのが「……で」「……で」という言葉でつないで、バトンタッチしながら解釈を進めていく発言である。あたかも一人の人間が読み進めていくかのように、グループのメンバーが、・・・・・(以下略)

②質問・突っ込み発言
 交流の中で、発言に対してすかさず疑問や突っ込みが飛び交う様子もよく見られた。①の連鎖、付け足し発言と同じく、お互いの言葉を聞きあい、関わり合って解釈を進めていく様子がよくわかる。とくにこのグループでは・・・・・・・・

③つぶやき発言
 ××さんの発言はとても興味深い。時折、話し合いの本筋とは関係ない感想やつぶやきが漏れることがあるが、このようなつぶやきを発言できることが、・・・・・・・・・・・

B 文章の推論をするための方略
 「文章の推論をするための方略」とは、意味がとりにくい古文を理解するときに、どのようなやりかたで解釈を進めていくかという方法を表している。
 グループの話し合いを分析すると、以下のような推論の傾向が見られることがわかった。

①細部棚上げ方略
 話し合いの傾向として見られたのは、とりあえずの読みを出し合い、それを共通の土台にして読み進めていくという方略である。具体的に、厳格に意味を詰めていくというよりも、細部はとりあえず棚上げし、・・・・・・・

②見なし・置き換え方略
 ××の発言で顕著に見られるのが、自分たちになじみのある人物やキャラクターに古文の登場人物を見なして理解しようと試みていることだ。・・・・・・「

③結末から類推する方略
この発言に見られるように、このグループの推論過程では、「落ち」が何であるかを考えながら解釈が進められていることがわかる。とくに話し合いの中盤で、・・・・・・・・・・・・・

2014/07/10

「文学」として読むことが許されない古典教育

古典教育に関する刺激的な本を読んだ。
田中貴子『検定絶対不合格教科書 古文』である。

もし、村上春樹でも、重松清でも、なんでも、小説などの文学作品を、すべての単語を品詞に分解し、助詞を識別し、わからない語句をしらみつぶしに辞書で調べ、意味を解釈していく授業をしたとしたら、どうだろう? 目を光らせて学ぶだろうか? するわきゃない。
しかし、古文の授業ではそれが当たり前に行われている。とくに高校では。
学校で教える古文が「古典文法の学習」に終始せざるを得ないのは、一つには「大人の事情」もあるのかもしれない。(田中貴子『検定絶対不合格教科書 古文』にはそれが慎重に論じられている)古典文学は、ちょっと深読みすると、その作品世界の根底には、性、宗教、差別などが広がっている。あらゆる社会的な禁忌に触れざるを得ない。(そしてそれこそが「文学」の本質でもある)
教科書に収録された古文が、タブーなるものから無味脱臭された、抜け殻のような作品のみを扱い、かつ「文学として読むこと」が許されない現状である限り「古文嫌い」はこれからも量産されるだろう。

2014/07/09

教科のタコツボにはまっていたら「教科固有の学力」なんて見えてこない。

次の学習指導要領で間違いなく問題になるのが、教科固有の学力と、教科を超えた学力の議論だ。
子どもの学力の総体を考えたときに、自分の教科がどの部分を担うことができるか、その精査が必要だ。
そのときに様々な教科の教師と語り合うことから得るものがとても大きいと思う。
そのやりとりを抜きに「教科の本質は……」とか、「教科固有の……」とのたまうのは、独断であり、独善であるとも思う。
大学院では様々な教科を専攻する学生でチームを作りディスカッションを行った。今の校内研でも、他教科をミックスしたグループで授業を見合う。そうしたやりとりをしていくと、必然的に「子どもにとって、国語科ってどんな意味があるんだ?」と内省せざるをえない。

文科省でも、学習指導要領や学力テストに様々な教科のスタッフを意識的に入れるべきではないだろうか。

2014/07/08

効果的な教え方が効果的な学び方につながるとは限らない

今日はiPadを使った国語の授業を行った。
あるソフトを使って、やや複雑な操作をしながら学んでいくのだが、その複雑な操作の説明を、私は、スクリーンの前で、生徒と同じ動きで実演して見せて説明をした。
授業後、授業を見ていた副校長先生が私のところに来て、コメントをしてくれた。(ちなみに副校長先生はICT教育について造詣が深く、私が尊敬している先生である)
「○○先生、子どもたちに操作のやり方を実演して見せたでしょ、確かに、操作を説明するのには、あれが一番伝わりやすいんだけど、あれだと次に子どもたちが自分で操作するときに覚えていないんだよね。私もいろんな授業でさんざん経験してきたんだけど、やはり、ああいう操作についてはマニュアルを作って、それを自分で読み取らせて操作をさせた方が、次に自分で使うときに覚えているものなんだよ。ちょっとした違いなんだけどね。」
効果的な教え方(効率的な伝え方というべきか?)が、生徒の身にならないこともあるというのを痛感した次第である。

ICTを活用した学習には「三段活用」が存在する。

ICTを活用した学習を評価するためには、以下の3段活用を意識されたし。

Aパターン ICTの効果の位相
・マイナスがプラスに……できなかったことがICTでできるようになる。
・ゼロがプラスに…………ICTで新たなことができるようになる
・プラスがプラスに………できていたことがICTでさらにできるようになる。

Bパターン ICT操作スキルの熟達と学力の相関
・教師がツールを使いこなせればICTの効果が上がる。
・生徒がツールを使いこなせればICTの効果が上がる。
・ツールの熟達が学習効果には影響しない。(熟達しようがしまいが効果は変わらない)

Cパターン ICTの三段活用
・ICTによって今までのテクノロジーが淘汰され、入れ替わる
・ICTによって今までのテクノロジーが相乗効果でさらに活性化する
・ICTによって今までのテクノロジーは影響を受けずに併存する

以上、一口にICT活用といってもさまざまな位相が存在する。
「ICTが入っても今までと同じ」とも「ICTが入るとバラ色!」という言葉も、どちらも極端な単純化に他ならない。
ある面では効果があるし、ある面では不必要だったりするのが当然なだけだ。
単にツールを使いこなせていないだけだったり、それともツールそのものに原因がある場合だってある。
どのレベルで効果があるのか、ないのかを、プロである我々アナログ派の教師が冷静に見極め、評価しなければいけないと思うのであります。

2014/07/05

言葉に絡め取られないように

教師がある教育思潮にどっぷりとつかると、その教師が属するコミュニティー(研究サークルなど)特有の言葉遣いに次第に浸食されてしまうようになる。
それはたとえば、「リフレクション」のような横文字とは限らない。「学びひたる」とか「在り方」とか「まなざしの交わり」とかいう「ポエム化」された言葉もある。「折り合いをつける」「~よりまし」という常套句もある。そういう言葉を使うと、何か、いわくありげなことを語っている心地よさを感じることができる。そしてそれを理解してくれる「仲間」の存在を背後に感じることができる。自分もしばしばその心地よさのワナに引っかかってしまうクチだから、気持ちはよーくわかる。 だって、そういう内輪の言葉を使う方が自分で考えなくていいからラクなんだもん。
いま、大学院で徹底的に学んでいるのは、そういう言葉にいかに絡め取られずに、実践をリアリティーをもって描き出せるかということだ。
だから、その研究コミュニティーが閉鎖的だったり、教条的でないかどうかを見分ける指標は、コミュニティーのメンバーが同じ言葉や、似たような語り方をしていないかどうかだと言うこともできる。
成長し続ける理想的な学び合うコミュニティーは、常に新しい言葉を探り、より適切な言葉を探り合っているようなコミュニティーでありたい。(流行に飛びつくという意味ではない)

「対話が大事!」っていっている人が、どこでだれに何を聞かれても、いつも同じようなことをリピートして語ってるのっておかしいでしょ。これが対話なんですか?って感じちゃう。(これは蛇足か)

2014/07/04

話し合いの達人になる「岡目八目法」

【岡目八目】(おかめはちもく)
〔人の碁をわきから見ていると、打っている人より八目も先まで手が読めるということから〕第三者は当事者よりも情勢が客観的によく判断できるということ。

先日同僚の先生が参観に行った、山形大附属中の授業の報告が興味深かった。(私は実際に見たわけではない)

あるテーマを巡って探索的な話し合いを進めていく。
話し合いのグループ4人でディスカッションしていくが、それに、もう4人が「観察者」として同じテーブルにつき、話し合いの様子をじっと見ている。
頃合いを見計らって、観察者の4人が、話し合いをモニタリングし、良い点、改善すべき点に気がついた状態でコメントを言う。

実はこの「観察者」は、前時で同じ話題について話し合いを行っている経験者でもある。だから、だいたいの話の進み方や落としどころのようなものを心得ている。どこで苦労するかも、つまずくか予想がつく。その仕掛けで、適切にモニタリングができ、助言ができるというわけだ。

・ここがこの話し合いのポイントだと思うから、司会者がしっかりと整理をしないと。
・この段階では、もう少し他の意見も出してから進めた方がいい。
・そのコメントでは話の筋からズレていると思うよ。
などなど、「経験者」の導きによって、どのように話し合いを進めていけばいいかをメタ認知しながら取り組むことができる。
言うまでのないことだが、この話し合いの学習は、話し合いをしている当事者よりも、観察者(モニタリングをしている人)になることのほうがずっとたくさんのことを学ぶことができる。話し合いをメタ認知し、話し合いを進める勘所を掴むのに有効な学習になるのではないかと思う。
ファシリテーションの「フィッシュボウル」法を、4人の小グループで、しかも同一の話題を話した経験者がモニタリングするというとこがこの話し合い活動のアレンジポイントだろうか。

ビブリオバトルを授業でやってみた

勤務校の中2のクラスで初ビブリオバトル。どうなることやらと不安もあったけど、何事も挑戦、やってみることにした。
「ビブリオバトル」について初耳の人はこちらへ→クリック

勤務校バージョンのビブリオのシステム
1、6人グループを作る
2、一人2〜3分プレゼンを行い、その後質疑応答などのディスカッション。(合計の持ち時間は4分)
3、グループごとに「チャンプ本」を一冊決定。
4、各グループの「チャンプ本」が集まり、頂上決戦。クラスのチャンプ本を決定する。
5、iPadで映像を撮影しておき、それを文化祭でパブリックビューイング!

正式なルールとの違い
・前もってブックガイドを作成し(課外)、それを製本して配った。
・ブックガイドを書いているため、話す内容に詰まる生徒はいなかったが、ノー原稿で話すのが難しい生徒もいた。
・発表時間を5分から3分へと短縮した。
・ディスカッションの時間が1・2分程度しかとれなかった。
・今回は「理科系の本」から紹介することとした。
だいぶ簡略版になってしまったが、それでも子どもたちはかなりノリノリで取り組んでくれたことと思う。
ビブリオバトル「公式ガイドブック!」(という名のブックガイド)

ブックガイドの紙面


やってみてどうだったか
放課後、学校司書のNさんとふり返りをした。
・普通の本紹介よりも時間や内容がぎゅっと凝縮されている気がする。
・ビブリオバトルの方が、本を売り込み、PRする要素が強くなるのでは?
・本の内容(理科系など)によっては、関心がない分野だと質疑応答が盛り上がらなかった。
・「バトル」という言葉の響きほど、争うという雰囲気はない。ゲーム感覚で意欲的に取り組ませる仕掛けとしては、これも有効なのではないか。
・継続して繰り返すことが重要。何回も繰り返すことで、今まで読んだお気に入りの本だけでなく、新たに本を読まざるを得なくなり、本を読むサイクルを加速させることができる。

それと、技術的なこともひと言。
今回は各グループ一台のiPadで生徒が撮影をした。
小グループで同時展開していたが、かなり明瞭に音声も撮れている。
プレゼンターの声が聞き取れないという心配はなかった。また、iCloudで共有すれば、自分持ちのMacBookにすぐに同期できるので、各グループの動画を簡単に収集することができることもわかった。
来週は他の3クラスでも行う予定。
時間がなくて子どもからのフィードバックをとることができなかったので、今度は生徒からの反応も探ってみたいと思う。

2014/07/02

本物の教師になれるかどうかを見分ける一つの指標

本物の教師になれるかどうかを見分ける一つの指標がある。
それは、つねに、まず、子どもを主語にして話す、考えるということだ、

「この授業では、きっと子どもたちは……のように感じるから……という手立てをとろう。」と考えるのが本物の教師になれる。
「この授業では、あの○○先生が……といっているから、……という手立てをとろう。」
「この授業では、(○○氏が提唱する)単元を貫く言語活動になっていないから……」
「この授業は、学習指導要領の指導事項では……となっているから……」
などなど、子どもを主語にする前に、子どもの論理の前に、他人(カリスマ教師??)の受け売りとか、教師の都合とか、定型的な授業スタイルとか、思想信条でのみ語ろうとする人は、きっと本物の教師には、なれない。
(=「本物の教師だ」とはいってはいない。本物の教師になるためにはここからスタートしてさらに研修を積んでいく必要があるのだろう)
そう思う。

「どうしたらネットでなく本を手にとって調べるようになりますか?」~「知の宝探し」のすすめ~

先日のメディアリテラシー研究会で、参加者の一人がプロのリサーチャー喜多あおいさんに投げかけた質問だ。喜多さんは少し考えて次のようなことをおっしゃった。
「やはり、必死になって本を探して、知りたいことが見つかったという嬉しさを感じることだと思うんですよね。一度そういう喜びを味わえば、また次も本を手にとって調べようという気になるのではないでしょうか? ですから、子どもにとっては調べたけどなかなか見つからないという経験も大切だと思うのです」

「知の宝探し」のような活動、知りたい情報めがけて必死になって本を手に取り、やっとの思いでその情報が書かれているページにたどり着く。そういう経験を数多く踏ませたい。
結局、遠回りのようだけど、これからの時代、情報を得るために本を手に取ることの意義や価値はそこからしか感じさせることができないような気がする。