2013/03/28

自己評価や相互評価を成績に加えるのはよいことか



自己評価や相互評価などを授業の一環としてさせることがある。
とくにグループ活動や、生徒が主体的に動き回る活動などの場合、それを教師がすべて見て回ることは難しいので、相互評価や自己評価を活用することになるケースが多いのではないか。
○○グランプリや○○コンクールも、広い意味での相互評価であるといえる。
わたしは、これらの相互評価は授業を活性化させるためには有効な方法の一つであると思うが、その結果を成績として加味するのは適切ではないと思っている。

相互評価の本質は「他者の視点を通して、自分の良さを引き出すためのコミュニケーション」であろう。
それ以上でもそれ以下でもない。
相互評価といっても、基本はコミュニケーションだ。
そしてそのコミュニケーションは、自分に向けられる価値付けを伴ったメッセージだ。
相互評価が「できたかどうかのチェック作業」であったり、「ケチのつけあい」であるなら、そんなコミュニケーションはまっぴらごめんだ。だれだって、人に否定的な評価なんてしたくない、されたくないはずだし、それを教師が無理に強いる必要もない。
ならば、どうすれば、そういう「良さを引き出し合う」相互評価ができるか、そういう理想的な相互評価の方法を設定することこそ教師の課題ではないのか。
(「評価」という方法ではなく、自分の課題を解決するためのアドバイスをしてもらう、というコミュニケーションならありうる。たとえば、プレゼンをしたときに、わかりやすかったかどうかを他の人に判断してもらうなどの場合だ。これは「評価」の要素が含まれるが、趣旨としては「アドバイス」という目的があり、その目的を、自分も、相手も納得しているからこそ成立するコミュニケーションである)

一方、自己評価のメリットは「学んだことの手応えを実感することと、自分の課題を発見するための内省」にある。
自分のことは、ある意味、自分が一番厳しく見ることができる。
その「自分と向き合った感」を、いかに自己評価という形で表出させることができるかが、自己評価の成否を分けるのだと思う。

相互評価は「他者に良さをひきだしてもらう」目的
自己評価は「自分の学びを実感し、課題を明確にする」目的
そう考えるとと、自己評価や相互評価を、成績をつけるという目的で教師が参考にするやり方には反対である。

成績は、評価基準という枠組みの中で、「できたか/できないか」を峻別する評価だ。
しかし、自己評価では「何ができたか/できないか」を問題にするのではなく、むしろ「何を、どう感じているか」が問題となる。客観的に見て「できて」いても、自己評価では「できていない」と感じることはありうる。
相互評価は「できないこと」をはっきりさせるために用いるべきではない。そのような評価が多用される教室では、学級の人間関係に深刻な影響を与えることになるだろう。相互評価によって「できていない」ことを浮き彫りにするのは「良さを引き出す」という相互評価本来の趣旨にはそぐわない。

2013/03/27

道徳の評価の難しさ(国語と比較して)


道徳がもし教科化された場合、避けて通れないのが評価を明確にすることだ。
ちなみに、現行の学習指導要領において「数値による評価は行わないものとする」という但し書きがあるだけで、道徳の評価そのものについては否定はしていない。(が、現状では指導要録や通知表で道徳の評価を出さないということに落ち着いている)
もし、「道徳」が教科化された場合、総合的な学習の時間の評価のように、記述による評価が指導要録や通知表に記載されることになるのだろうか。なるだろうな。

道徳の評価の難しさは、それがその人の人格や価値観を、特定のものさしで評価することにつながるということだ。
たとえば、「身の回りの整理整頓をする」という内容項目がある。
道徳の時間で、「これからは身の回りを整頓します!」と力強く語っていても、普段の生活でだらしなさが見られたらそれを評価できない。
「思いやり」にせよ「自然愛護」にせよ、「道徳の時間」の中で測定するのはとても困難だし、どう考えてもばかげている。
「道徳」は「道徳の時間」だけでなく全教育活動に渡るというが、だったらなおさら、だれが、どのようにそれを評価するのか。

国語の場合は、建前として、普段はいくら漢字を間違って書いていたとしても、ノートや定期テストでしっかりとした漢字が書けていればそれでよしとしている。
友達とやり合っている手紙が、いくら国語教師から見て目を覆うくらいのひどい文章を書いていても、授業でしっかりと整った作文を書いていれば、それを評価する。
「生活」と、「学習」とは一応別のものとして評価しているからだ。(指導と評価の一体化)
しかし、、道徳はどう考えても、それが不可能だ。
その人の生き方とか価値観の根幹に関わるからだ。

「飽きない」授業を目指して

1、「飽きっぽい」のは悪いこと?

ある本には、「関心・意欲・態度」について次のように説明されている。(『教育評価の原理』石田恒好)

「関心」とは、文字通り、対象〈刺激)に心が関わっている状態で、提示された課題、教材、教科書等を「見ている」、教師や友達の説明や話などを「聞いている」ということである。

「意欲」とは自分で(自主性)、進んで(積極性)、集中して(集中力)、終わるまで(持続力)学習に取り組んでいる状態である。

自分のことを引き合いに出すのも何だけど、私は非常に「あきっぽい」人間だ。
一つの課題に粘り強く取り組むことを苦手としている。
いろいろなことに「関心」がありすぎて、一つだけに集中するのがもったいないと感じてしまうのだ。
私のように、興味関心がないから「飽きっぽい」のではなく、興味関心が多方面にありすぎて「飽きっぽく」なる場合の人間もたくさんいるのではないか。

今の世の中では、web上で知りたいことが、すぐに知ることのできるようになっている。
好き勝手に興味のカーソルが向けられる現代は、余計なことまで「関心」を増長させる世の中でもある。「飽きっぽさ」を加速していると言える。
そういう意味で、現代の社会や教育は、ある面で「飽きっぽい」人間となるようにしむけているともいえる。
でも「飽きっぽいこと」はよくないことなのか?

2、「飽きっぽさ」の正体

「飽きる」と「飽きない」の差はどこにあるか?
「飽きる」とはどういう心的現象か?

角川の『類語新辞典』をひもといてみる
「飽きる」の対義語は?
没頭する
熱中する
凝る
浸る
耽溺する
執着する

飽きるの類義語は?
退屈
倦怠
三日坊主

「飽きる」の原義は?
白川静『字訓』に登場してもらおう
「あく」(飽・厭)
心にかなって十分満足することを言い、これが原義であった。
……(その後)十分すぎて厭うという語義の転化が見られるようになった。

なるほど、「飽食」という言葉があるように、飽きることは、満足しすぎてかえって不快に思ってしまう状態を言うのか!
、「飽きっぽい」のが真の問題ではないということだ。
問題は、教師が「満足」の先にある「満足」を、授業の中で提供していないということなのだ。

3、「飽きない」授業を目指して
飽きない授業をどのように創造すればいいのだろうか?

同じことの繰り返しの中に、新たな魅力や意味を見出すことができれば「飽きる」ことはない。
繰り返し自体が心地よい場合も「飽きる」ことはない。
はじめは退屈に見えるが、繰り返し、かみしめていくうちに味がにじみ出されていくものもある。

「飽きさせない」ためには、
飽きる前にやめる
常に新しいコンテンツを提供する
新たな視点や意味付けをする
心地よい繰り返しを体験させる
隠された魅力を根気よく引き出していく

「回転寿司」のように、飽きる前に多様な学習活動をたたみかけるやり方もある。
かみしめると味がにじみ出してくる「スルメ」のように、どこまでも魅力を突き詰めていくことのできる、奥行きのある活動を設定するやり方も考えられる。
「ご飯」や「みそしる」のように毎日食べても飽きないような、「定番」の味を提供し続けるという手もある。習慣化に持ち込むという手だ。

「飽きない」授業とは、「満足」の先の「満足」を提供することだ。
「回転寿司」のような多様さ。
「スルメ」のような奥行きのある豊かさ。
「ごはん」のような定番の持つ安定性。


2013/03/25

「勉強になった!」とはどういうことか?


ちょっとしたことでも「感動した!」って言っちゃうことは陳腐だなあと思いつつ、何でも「勉強になった!」って、我ながらつい言ってしまうのはなぜだろう?
この場合の「勉強になった!」とか「学んだ」っていうのは「共感した!」とか「いいね!」「納得!」というほどの意味なのだろう。今までの自分の価値観や知識体系を、それほど裏切らない程度に目新しい知識や知見を得られた,というほどの意味なのだ。
こういう場合の「学んだ!」は、「感動した!」というのと同じくらいの、自分の生きている姿を確認する「うっとり言葉」〈自己に陶酔する言葉)の一つだ。〈私の場合は)

学ぶことは変わること、だとすれば、人ってそんなに簡単に変わるものなのか?
「学び」とか成長って、時計の短針のようなもので、気がつくと変わってたっていうのがほんとうなのではないか。もちろん、気がつかないままに成長していたなんてこともたくさんあるだろう。
突き詰めて考えると「学ぶ」ということと、それを実感することの難しさを痛感する。
(けど、生徒には「何を学びましたか?」って安易に聞いてしまうわけだが……)

学んだ、とか勉強になった、とは(厳密に言えばこの2つは異なるが)、単純化すると「AがBになる」というふうにいうことができる。
お決まりですが、パターン化すると次のように分類できる。〈分類は思いつきです)

Ⅰ 知識・理解・技能
「~わかる」パターン
A 知らなかったことを知ることができた(知識の獲得)
B わからなかったことがわかるようになる(理解の促進)

「~できる」パターン
C できなかったことができるようになる(技能の習得)
D 下手だったものが上手くなった(技術の熟達)


Ⅱ 思考力
「考えが的確になる」パターン
E 考えもしなかったことが、考えられるようになった(概念の獲得)
F ばらばらに理解していたものが、すっきりと整理して理解できた(知識の精緻化・構造化)

「価値判断がスムーズになる」パターン
G 判断できなかったことが、的確に判断できるようになった(知識の実践化)
H いままで漫然とみていた現象を、的確に分析したり価値付けできるようになった。(知識の価値付け)

Ⅲ 関心・意欲・態度
「生き方の示唆を得た」パターン
I ……のように生きたいと思った
J ……へのあこがれを喚起させられた
K ……をもっと探求しようと思った。……に強い関心を持った。

もちろん、これらの「学び」は複合して生起することが多いのが普通だろう。
(認知心理学などでこれらの領域はかなり研究し尽くされているはずだ)

重要なのは「学び」を狭いもの、固定的なものとしてとらえないことだと思う。
知識「だけ」でもいけないし、技能「だけ」でもまずいし、態度的な面をおろそかにはできないし。
裏返せば、「学び」を生むための意図的な行為〈それを教育というわけだけど)を狭いもの、固定的なものにするのは、それほど適切ではないということにもつながる。
同じパターン、狭い教育観、変化に乏しい手法では、そこから生まれる「学び」も貧しい、やせたものになるのは容易に想像できる。
教科の特質を的確に抑えつつ、多様な学びが生まれてくるような授業を創造することが、私にとっての永遠の課題だ。
なんていう月並みな結論に落ち着いてしまった。 ちゃんちゃん。

研究は、言葉に対する感性を磨くことからはじまる。


大学院で研究する上で、まずはじめに叩き込まれるのは言葉の厳密な定義だ。
「遊び」という言葉も、発達心理学での定義と、社会学で使われる言葉のニュアンスは異なる。
学習指導要領でも、国語の「交流」と、特別支援の「交流」とは,全く意味が違う。
「主体的」という手垢にまみれた言葉も、あらためて「主体的って、誰が、どうすること?」と疑い、考え、答えを出していかないことには研究は進まない。

だから、一番まずいのが、安易に「主体的」とかの言葉を使ってしまうことだ。
そして耳障りのいいかっこいい言葉を無批判に使ったり、だれだれ教授の使っている言い回しを模倣したりしてしまうことだ。
「……力」という言葉もよほど慎重に使わないことには、本は売れるかもしれないけど、研究としては評価されない。(「老人力」とかいろいろあるけどね)

ある研究者や、特定の研究分野で頻出する言葉が実はある。
例)
教育における「単元」「スパイラル」(←本当にそんなのあるの?)
国語教育にもたくさんある。「一人一人」とか、「言葉の学び手」、「読みひたる」。
PISA型読解力における「熟考」とか「吟味」
『学び合い』における「折り合いをつける」。
カウンセリングなどで使われる「(教師の)在り方」など。

えらい先生の言っていることを模倣したり、文部科学省でいわれていることをそのまま転用したりする研究?では、言葉の意味をいちいち確認する手続きは必要ないかもしれない。
しかし、ある分野で慣用的に使われている言葉を、無批判に使ってしまうのではなく、別の言葉で(身内以外にも理解できる言葉で)再定義し、検討することは、研究的に実践を深めるためには不可欠の要素だ。
というより、そもそも、それらの言葉を、何となく「わかったつもり」にしないことが、研究のスタートなのだと思う。

ある分野で慣用的に使われている言葉を「理解する」ということは、たとえばこういうことなのだろう。
A「誰が最初に言い出したか?」(その言葉のルーツを知る)
B「どういう文章の流れでその言葉が発せられているか?否定的か、肯定的か?」(文脈を理解する。)
C「どういう学問分野、流派で使われているか」(背景となる学問ネットワークを知る)

A~Cのそれらを理解し、位置づけた上で、別の文脈でも理解できる形で「翻訳」することが(その分野の身内以外にも伝わる形で説明することが)研究には不可欠だ。
なぜか?
研究は、特定のコミュニティー内でのみに通用するものであってはならないからだ。
コミュニティー以外の人に対しても理解できる(批判し、再検討できる)ために開かれたものであるべきだからだ。

2013/03/15

「目的や意図に応じ」の「目的」とは何か?


教師の目的と生徒の目的は違う

学習指導要領では、話す・聞く.書く、読むのすべての領域、すべての学年の目標は、実は同じ言葉から始まっている。
………「目的に応じて」という言葉だ。

「話す聞く」だったら「目的や場面に応じて~」、
「書く」、「読む」だったら「目的や意図に応じて~」のように。
すべての言葉の学習は「目的」をもった活動として行われる。
言葉は「目的」を達するための手段、道具である。
それでは国語の学習の中の「目的」とはいったい何だろうか?

国語の授業の中で、ありがちな間違いは「教師の目的」と「子どもの目的」を混同してしまうことだ。
たとえば、「オツベルと象」の授業で、教師が「宮沢賢治独特の言葉遣いに気づかせたい」というめあてをもって単元を設定するとする。
そのときに、「賢治独特の言葉使いに気づこう!」という目的を持たせるとしたら全くナンセンスだ。それは教師の目的(指導事項)であって、子どもの目的とはいえないからだ。どこに向かって、何をすればいいかこの目的では見当が付かない。

たとえば「『オツベルと象』の謎を探ろう」という目的ではどうだろうか?
生徒達が気づいた疑問点について探求するという「目的」を子ども達自身が持った上で、「賢治独特の言葉遣いに着目する」学習を進めていくというわけだ。
別の例で説明する。
たとえば「オツベルと象」で段落構成を学ばせたいとする。(教師の目的)
そのときに「オツベルと象の絵本を作ろう」という「目的」のある言語活動を教師が設定する。
その上で、生徒は絵本を作るという「目的」を達成する過程で、段落に分けたり、構成を考えたりという学習が進められることになる。(この授業がいいか悪いかはおいといて)

教師の指導したいこと(教師の目的)と、子どもの学習活動の目当て(目的)とは必ずしも一致しない。
教師の指導目標が達成されるために、いかに子どもが意欲的に取り組め、言葉の力を伸ばす言語活動の目的を設定することができるかどうかが、国語の単元を作る際で教師が腐心するところでもある。

対話を拒絶する言葉

私がつい使ってしまう言葉がある。
「……の経験がないと、……は分からない。」
これは相手を沈黙させる最強の切り札だ。
男じゃなきゃ……のことはわからないんだよ。
教師じゃなきゃ……なんてわからない。
大人にならなきゃ……なんてことは絶対に理解できない。
など。
確かに世界はそのようにできているだろう。
経験しないと見えないことなど山ほどあるのだ。
だけど、よく考えると、これほど対話を拒絶している言葉はないのだろう。
「おまえにはわからないんだ。黙って言うとおりにしろ」と言っているようなものなのだから。

説得力があるかどうかということと、発言が他者に開かれているかどうかということは、どうやら違うベクトルらしい。
説得力があるんだけど、発言が他者に開かれていないなあと感じることがある。
発言が他者に開かれているようには聞こえるけど、説得力がそれほど感じないものもある。
その差は何だろうか。

、「やっぱり……だよね」という言い方も、人から言われるのはあまり好きではない。
これは相手とわかり合える(つもりになる)便利な言葉だ。

「国語教育の醍醐味ってやっぱり文学でしょ」
「子どもって、やっぱり外で走り回るのが好きだよね」
などなど。
ひねくれているわたしからしてみれば、「本当にそうなのか?」「みんながみんなそうじゃないだろう?」と「?」がいくつもいくつもわいて出てくる。
「やっぱり……でしょ」という言葉も、共感を押しつけ、反論を言いにくくするという意味で、対話を拒絶している言葉の一つに加えてもいいのではないか。

この対話を拒絶する言葉に共通することは何だろうか?
それは、「自分の考えについての反論を想像さえしていない」という知的怠慢から生まれる言葉という点ではないか。
どんな意見でも、その反対の考えはあり得る。
どんな常識も、地球の裏側では全く異なるかもしれない。
視野が狭いと、または、自分の知識や経験を絶対視すると、その知識や経験が劣っていると見なす相手に対しては、自分の見解を決めつけたり、押しつけたりしてしまうのではないだろうか。

そうそう、こういう言い方もあった。
〈自分ではよく言っているくせに)この表現を使っているのを聞くと、どうかなあと思ってしまう。

「…と言われている。」
「…ではこうなっている」

使用例
文科省では……となっている。
……大の◯○先生は……と言っている。


やはりこれも、対話を拒絶する言葉だ。
権威によって相手の考えを抑えようとしているのだ。
「お前は一体どう考えているの?」という批判を巧妙にかわす言葉の一つだ。
「虎の威を借る」言葉とか「黄門様の印籠」言葉とでも名付けてやろうか。


ここで問題にしているのは「正しいか、正しくないか」ということではない。
「開かれているか、開かれていないか」である。

どんな相手に対しても、謙虚に耳を傾け、学ぼうという姿勢さえあれば、上記のような言い方はおそらくしない。
この場合の謙虚さとは、モラルの問題ではない。異質な考えを受け止めつつも、根気強く考えを進める知的な謙虚さである。

2013/03/10

もらう・あげる・させる……教育頻出語尾の研究


いろいろな授業の様子や実践記録を読んでいて気になる言葉がある。
「もらう」・「あげる」・「させる」である。

1 下手に出すぎの「もらう」
「今日は皆さんに作文を書いて『もらい』ます」
「誰々さん、この段落を読んで『もらえ』ますか」
実習生の授業で、よくこの表現を見かける。
実習生の下手な授業によくぞついてきてもらって……という気持ちもまあ、わからなくはないが、私はその言い方をしたら必ず指導を入れる。
「授業で『してもらう』っていう言い方は、私はあんまり使わないかな。
教師が下手に出すぎているような気がする。
『○○さん、読んで! とか『作文を書きましょう』くらいの言い方で良いんじゃないの?
子どもと一緒に授業を進めているんだから。」

そうそう、授業中の指示で気になるのは「……ます」のような終止形で指示する形だ。
「今日は作文を書きます」
「ノートを開きます」
……なんか変じゃない?
他人に指示するなり、行動を起こして欲しいなら「…ます」ではなくて「……てください」とか「……ましょう」のような勧誘形になるのが普通の言い方ではないのかな?
どうして教室の中では、日常使わないような言葉使いが当たり前のように使われるのだろうか。
不思議で仕方がない。

2、偉そうな「あげる」
「……あげる」という言い方もたまに見られる。
これは上から目線のような気がして嫌だ。
「先生が読んであげましょう」
「これがチェックしてあげた作文です」
まあ、こんな言い方そう滅多にないか。
でももし無意識に使っているとしたら、ずいぶん偉そうな言い方だなあという気がする。
(わざと、恩を着せるようにふざけて言う場合はあると思うんですけどね。中学校だと)
それに、自分のことを「先生は」というような言い方を私はほとんどしない。
それでも中1相手では「先生は」ということは多いかもしれない。しかし中・高と進むにつれて、教師も少しずつ「先生」から「私」へと役割を変えていくべきだと思っているので、「私は」「俺は」という言い方が増えてくるようになる。
(非人間的な教師面をするのではなく、人間としての「私」の内面も少しずつ出していくという意味です)

3、「させる」は使っちゃいかん?
よく、子どもの主体性を尊重する教育という立場から、「~させる」という使役表現を使わないようにすべきだ。という主張がある。
 私は、かつて、ある公的な文書を作成するときに、文末の使役表現を全て子ども主体の表現に機械的に書き換える作業をさせられて辟易した経験がある。
言葉だけ変えて意味があるのか?と、そのとき大いにもやもやしたのだ。
「させる」という使役表現の言い回しを変えるように努力するのではなく、自然とそういう言い方をする割合が減るように、学習そのものを変えていけばいいのではないか。
そして、「使役」を使う際には、どの部分で「使役」を使い、どの部分では使わないか、そういう意識が教師である自分にあればいいのではないかと思う。
どんなに努力したところで、教師が生徒に勉強を「させて」いるという現実からは逃れられない。「使役」から逃れることはできないのだ。
だからこそ、「させる」部分と「自然とそうなる」部分とを、教師が意識的に組み立てることが必要なのではないだろうか。

2013/03/09

「知識基盤社会」において「知識」はどのように教えればよいか

よくこんな議論を耳にする。

高度情報化社会では、知識は簡単に手にはいるから、知識は必要ない。
知識の詰め込みよりも、学び方を学ぶことの方が重要だ。

これは「うさんくさい議論」のうちの「二項対立法」である。
実際は、知識も,学び方も、なのに。

高度情報化社会である現在の世界は、同時に「知識基盤社会」であるともいわれている。
さまざまな情報を「知識」として身につけ、使いこなしていくことが、これからの社会を生き抜く重要なカギとなるというのだ。

知識は必要ないなんて言って、子どもをだましてはいけない。
現実には、知識が簡単に手に入るのだから、それなりの知識を持ってないと太刀打ちできないよ、というのが本当なのだ。
ウィキペディアでも、Yahoo!知恵袋でも、SNSでも何でもいいから、ちょっと調べればたいていの(高校で学ぶくらいの)知識は得られるではないか。
ただ、問題なのは、その情報が、価値ある知識に、そして生きる知恵につながるかどうかなのだ。
それこそが教養(自己形成=ビルドゥングとしての)というものなのだろう。

だから、これからの学校では、教師は「知識」を次のような配慮で教えることが必要だと思う。

1、「知識」の優先順位を考えて与える。
いうまでもなく、情報には価値ある情報もあるし、そうでない些末な情報というのもある。
そのような価値付け、重みづけを知ることは、情報におぼれないためにも不可欠である。
情報の客観的な価値や意義を考慮し、取捨選択して子どもに提供することは必要なことだろう。
情報を与えすぎても消化不良になる。情報が少ないと物足りない。
必要なのは、情報を価値付けし、構造化して与えることだ。そしてその情報の価値まで伝えることだ。
例)「こういう人にとっては、この情報は価値がある。」「この知識をこう深めて、こんなを研究をしている人もいる。」「この情報は、受験では役に立つけど、……で、実はあまり価値はない。」など

2、「知識」の使い道を教える。
得ようとしている知識には、どんな使い道や広がりがあるのかを、たとえそのときは子どもに理解させることはできなくても、教師が伝えておくことは重要だろう。
大人になってその知識の大切さに気づくこともあり得るからだ。

3、「知識」の得方を手引きする。
「知識」は連鎖的に広がり、深まっていくものである。
興味を持った子供が、さらに深く知りたくなったときには、どのようにアクセスすればいいか、参考文献や調べ方などをさりげなく提示しておき、種まきをしておく配慮を忘れないようにしたい。

4、「知識」のインデックスを与える
どんな知識があるか、その全体像をインデックスやリストとして与え、参照させるといいだろう。
知識の内容までは教えられなくても、そのラベルだけは与えておくのである。
たとえば、私は高校時代、卒業する前に、国語の先生からおすすめのブックリストをいただいた。
このブックリストはなぜか捨てられずにいつまでも取っておいた。そしてリストにある本が本屋さんにあったら必ずページを開き、買って読むということがしばらく続いたのだ。
この高校時代の国語の先生は「知識」を与えたのではないだろう。
「知識」のインデックスを提示しただけだ。
しかし、そのインデックスに導かれて、さらに深い知識を得ようという気を起こさせという意味では、十分に「知識」を与えたことになるのだ。

うさんくさい研究の見分け方~魅力的な研究テーマの量産法~

さまざま研究テーマなり、本の背表紙をみたときに、本能的に「これはヤバイ」と感じてしまう研究テーマがある。
しかし、どうしたわけか、そういう「ヤバイ」研究テーマに多くの人が飛びつくのも現実だ。
そんな危険な(と言うと言い過ぎか)、うさんくさい研究テーマの立て方をいくつか分類してみた。
(まだあるかな? あったら教えてください)

郷愁法……過去に大事にされてきた方法を、現在に蘇らせる。
(例)
風邪を治すのはネギを首に巻くのが一番!
学力向上の切り札は、早寝早起き朝ご飯!
音読で学校を活性化する。

二項対立法……AかBかの図式に持ち込み、AさえあればBはいらないと主張する。
(例)
国語教育には文学はいらない。論理的思考力の育成だけで十分。
知識はいらない。学び方を教えるだけでいい。
系統的な学習はまやかし。体験的に学ばせるべき。
授業さえ面白ければ、生徒指導はいらない。

オカルト法……人間離れした不思議な「何か」があるかのように喧伝する。
(例)
魔法の学級経営テクニック
●●先生秘伝の説明文読解システム
タブレットは魔法の玉手箱

舶来法…横文字を並べてそれっぽく見せる。
(例)
「ファシリテーション」で国語の授業を蘇らせる
「コーチング」は生徒指導の切り札だ
「キー・コンピテンシー」で学校教育を変革する

まとめる。
なぜこれらの研究テーマがうさんくさく、危険と感じるか?
それは、タイトルに引きずられて、十分に研究が練られていない可能性が強く思われるからだ。
タイトルから「思考停止」の匂いがぷんぷんとするからだ。
(もちろん、タイトルが刺激的でも,なおかつ十分に練られている研究だったら評価に値する)
地に足がついた研究というものは、もっともっと地味で、ありきたりで、うだうだとしているものなのだ。
しかし、そんな研究内容では「いちげんさん」からは相手にされないから、ついインパクトのあるタイトルを付けたくなってしまう。
昨今の出版ラッシュの状況下で、軽薄短小なうさんくささを醸し出す本が加速度的に量産されているような気がする。
こんなことを感じるのは、わたしだけ?

2013/03/07

「学校教育チキンラーメン論」


チキンラーメンを食べながら、変なたとえを思いついた。
「学校教育はチキンラーメンに似ている」

チキンラーメンはインスタント食品である。
ラーメン屋さんで提供されているラーメンを家庭でも簡単に再現し、味わえるように考案された食品である。
しかし、その味は本物のラーメンとは似て非なるものである。
その証拠に、日本全国、いや、世界のどこのラーメン屋に行っても「チキンラーメン」みたいなラーメンは食べられない。
本物のラーメンからみれば「まがい物」の「インチキ(ン)ラーメン」に他ならない。
しかし、今ではすっかり「チキンラーメンのあの味」は定着してしまった。
多くの人が「ラーメン屋さんのラーメン」ではなく、「ラーメン屋さんでは決して売っていないチキンラーメン」を追い求めている。私もその一人だが。

さて、これがどう学校教育と結びつくのか。

学校教育とは、社会で生きていくために必要とされる力を養成するために作られた制度である。
社会で必要とされる力を、学校という場で、コンパクトに、インスタントに注入するために、「チキンラーメン」のように加工して子ども達に提供しているのである。
しかし、現在、学校教育で提供している学力が、必ずしも社会で必要とされる力ではななくなってきている。
学校教育で教えている学力が、社会からかけ離れたものになってしまっているのだ。
……それはだれでもうすうす感づいていることなのだが。
でも、学校で教える「まがい物のラーメンの味」のおいしさはすっかりと定着し、その味を多くの人が追い求めるようになってしまった。

先日、ネット上のある人から、こんな不思議な質問をいただいた。
「説明文を読み,段落ごとに番号をつけ,要約すること。
それに対して,説明文を読み,そこから根拠となるものを探して,自分の意見を述べる。
後者の場合,写真や図,グラフが説明文の中に含まれると,国語の授業ではないと批判されるかもしれない。」(原文ママ)

んん?
一瞬何を聞いているのだろうかと戸惑った。
それが「国語の授業」であろうとなかろうと、図表が含まれた説明文を読むことが「社会で必要とされている力」であれば、子どもに教えるのは当然のことじゃないの?
第一、社会に出たら、文字だけのテキストよりも、図や表、写真が含まれる文章を読む機会だってたくさんあるわけでしょ? 文字だけのテキストだけを読む方がずっと不自然なんだって! それに、段落ごとに番号をつけて要約するなんて……、社会に出てから誰がそんな方法で読んでいるの?

いや、この発言をした彼を責めるわけにはいかない。
彼が述べている「説明文の読解」は、学校教育で教える典型的な説明文の学習法なのだから。

学校教育で教える「国語学力」は、所詮「チキンラーメン」なのだ。
目指すべきは「本物のラーメンの味」だ。それを忘れてはいけない。
「本物のラーメンの味」を忘れてしまい、「チキンラーメンの味」にはまってしまう人を、よく見かける。

念のために……
学習指導要領では言語活動例の中に「文章と図表などとの関連を考えながら文章を読むこと」という記述がある。だから、公的にも立派な「国語の授業」なのだ。
言語生活の質を高める、実生活に生きて働く言語運用能力を高めるという国語科本来の目標に照らせば、子ども達が社会に出たときに、「文字だけの文書を読む力」だけではなく、「図や表などとの関連を考えて文章を読む力」を鍛えることの必要性は、自明のことだ。
国語を「教科書の読解」という狭い了見で考えるからそういうことになってしまうのだろう。
学習指導要領を踏まえるまでもなく、「説明的文章」の学習でつけたい力は、さまざま本や新聞、雑誌、ビジネスで交わされる文章を的確に読み取る力だ。教科書の文章だけを読ませていていいわけがない。

念のために、私は無類のチキンラーメン好きです。