2013/11/26

「授業をみること」にまつわる三章

◆授業をみる1 授業に「つかる」
授業参観や研究授業などで他の先生の授業を見るとき、私は、授業を客観的に「見る」と言うよりは、正確には「授業(教室?)につかる」という感覚が近い。
お風呂のようにどっぷりと、その先生や子どもたちの教室の醸し出す空気に、肩まで「つかる」のだ。
もちろん、指導案も、教材も、授業のねらいも、事前にある程度は読み込んでおいてから参観するのだけれども、教室に入ったらどっぷりと「つかる」ようにその授業の世界にひたる。(首から上は残しつつ)
そうすると、いろいろなことが感じられるようになってくる。
先生と子どもとのちょっとしたやりとりの呼吸、子どもが頭をぐわんと働かせるときの音、授業が展開するときの潮のうねり、よどみ、満ち引き。
良い授業は心地よい「お風呂」のようなゆったり感がある。そして終わった後に心地よい疲れがある。よどみない流れがあり、動きがあり、一体感がある。
そんなふうに、液体のような感覚で、他の先生の授業と教室を見ていることがよくある。こんなこと感じるのって私だけ?

◆授業をみる2 「あいだを感じる」
授業を見ることは「あいだを感じる」ことだと思う。
まず、教師と生徒の「あいだ」、生徒と他の生徒との「あいだ」、そして生徒と学習内容(教材)との「あいだ」、さらには、過去と未来との「あいだ」、教室と社会との「あいだ」……etc.
これらのやりとり、相互作用を、千里眼のような透視能力を持って(持ったつもりになって)見ようとすることが、私にとっての「授業をみる」ということだ。
その「あいだ」が、うまくつながったかな? とか、いま、……が影響を与えているな? とか、あ、離れちゃった!とか、そんなことを感じながら授業をみていることがある。

◆授業をみる3 「コメントを言うつもりでみる」
新採のときから、地域の公開授業などで他の先生の授業を見た後は、必ず自分から発言をするようにしていた。(義務感でというよりは言わずにはいられなくなってしまう体質らしい)
いまの学校のように実習生を毎回大量に見るようになったらなおさら、他の人(実習生)の授業を見終わるたびに、何らかの気の利いたコメント(評価なり、助言なり)を言わなくちゃいけない機会が増える。
そうすると、「人の授業を見る=それについてコメントを言う」というサイクルが自動的にできあがるようになる。
実習生の指導案を見たら、即座にそれについてコメントを言わなければいけない。
実習生が授業をしたら、すぐに、それを見た講評を言わなければいけない。
(「まあ、よかったんじゃない」といういい加減なコメントとか、「板書がきれいだねえ」なんていう低レベルな台詞は、決して言うまいと自分に戒めている。同じ授業を見たどの先生よりも、授業の本質をとらえたコメントを言おう、うならせようと、毎回必死に考えている)
最初はとてもきつかった。しかし、これもある程度、経験というか、こつがあるらしいのだ。
それは、前もって「コメントを言うつもりで」、ネタを探しながら見るということだ。
他の人の授業を見ながら、授業(子どもが学ぶプロセス)の基本的な骨格とか考え方に関わる要素、「授業のツボ」のようなもの(として自分が考えてきたこと)とその授業とを参照しながら、自分の考えを述べるようにしているのだ。
そのコメントも、抽象的な理念を述べたててもわかりにくい、かといって、授業テクニックだけを開陳するのも浅はかだ。私の持っている力の範囲で、抽象的な理念のような部分と、それを支えるテクニックをサンドイッチのように併せて伝えるようにしている。
(実際は、そんな偉そうな、たいそうなものではないけど)
去年、私が実習生に言った内容が、今年は真っ向から反対することを言う場合もある。
たいていは、以前実習生に言った内容なんて思い出すだけでも恥ずかしいようなことばっかりだ。
……しかし、もっと問題なのは、実習生に伝える内容がマンネリ化してしまうことだ。
実習生にとってはいいかもしれないが、毎回代わり映えのしないコメントしかできないのも、うんざりするし、とても情けなく感じることがある。だから、なるべくより新しい角度で、コメントを言うことができるように心がけてはいる。
(このブログに書いている駄文も、読み返すとうんざりするものばかりだけど)
しかし、「コメントを言うつもりで見る」ことと、実際にコメントを言ってみることの繰り返しは、「授業をみる」力を高めていることは、どうやらあるらしい。(当社比)

2013/11/19

授業評価の指標としての身体感覚

授業評価の指標としての身体感覚
よく、時間が経つのを忘れるほど没頭したとか、あっという間に授業が終わったような気になる時がある。
反対に、なかなか時間が過ぎずに、何度も教室の時計をチラチラ、という授業もある。
どちらの方が、より学習効果が高いのだろうか?
一般的に、没頭してあっという間に授業が終わった方が意欲的に取り組めているから学習効果が高いとは言えそうだ、
しかし、それは逆に、ぼーっとして、思考していなかっただけとも言えなくもない。
学習者の身体感覚は、学習状況とどのような相関が見られるのだろうか?
時間があっという間にたつのがいいのか、それともその逆か?

仮説
実際の授業時間と、期待する授業時間のギャップが、授業時間感覚を形成するのではないか?

例えば、授業があまりにもつまらないので5分で即刻やめてほしいと願う。
しかし授業時間は50分だ。
このとき、授業時間感覚は10倍の遅さで進行するように感じられる。

反対に、授業が楽しいので100分間授業を受けたいと期待する。
しかし実際の授業時間は50分だ。
このとき、授業時間間隔は2倍の速さで進行するように感じられる。
なんか、もっともらしい法則が生まれちゃったぞ!

そこで、授業の評価を、学習者の身体感覚で測るのだ。
今日の授業は何分ぐらいに感じた?と。
生徒にとって、3時間くらいに感じたとすれば、苦行のような授業だったということがわかる。
10分くらいであっという間に終わっちゃった、と感じさせれば、相当生徒を熱中させたということがわかる。

校内研修の研究主題が「あっという間に終わっちゃったと感じられる授業を作る」なんてテーマだったら楽しいのになあ。

2013/11/13

質的なものの見方とは、「なぜ……ができないんだろう」という問いから、「なぜ……をしているんだろう」という問いへと転換させることから始まる。

「なぜ……をしているんだろう」と考えることから、教師としての成長が始まるのではないか?

子どもは往々にして、教師の思い通りになんかには動かない。
そんなときに、「なぜ……ができないんだろう」とぼやいてばかりの人がいる。
しかし、「なぜ……ができないんだろう」という問いの根底には「……ができて当たり前だ」という無意識の前提が潜んでいる。
そういう、教師である自分の中の無意識の思考フレームを克服しない限りは、教師の子供観、子どもを見る力は更新していかないのではないか。

「なぜ……ができないんだろう」と考えるよりも「なぜ……をしているんだろう」と考える方が有益だ。
「なぜ……をしているんだろう」と考え、無意識のフレームとか、先入観を極力排除して、目の前の出来事を見るように努めることで、よりリアルな現象に迫ることができる。
(さらに言えば、無意識のフレームとか、先入観を「どうして教師である自分が持ってしまうのか」と自らに問うように務めることで)
そういう一つ一つの現象への見取りを積み重ねていき、そこから考察していくまなざしこそ「質的なものの見方」なのではないか。

2013/11/11

現職教員が大学院で学び直すことの難しさ

現在、現職教員として大学院(M2 修士課程)で学んでいる。
基本的には夜間の授業。仕事を終えた後に大学院に向かう。
どんなに仕事が疲れたときも大学院の授業に出席すると仕事を忘れてリフレッシュできる。
普段の生活では考えもしないようなことが大学院の授業に出ることで学ぶことができるのでとても良い刺激になっている。
ちなみに現在とっている授業の内容は次の通りだ。

・教育社会学(主として社会科)
・言語環境について(国語教育)
・調理文化(家庭科)
・学級経営
・教育心理学
・教科教育についてのオムニバス授業(美術・理科・数学・社会など)
・情報メディア教育
これに、研究室で行われる研究指導が加わる。

大学院の授業に参加して、現職教員が、大学院で自分の専門について学ぶことの難しさを感じている。
現職教員が、ストレートマスターと混じって学ぶことの意義とか価値はもちろんあるだろう。
だけれども、こと、自分がいままでさんざん勉強してきた分野のものであると、大学院での学びがどうしても「物足りなさ」を感じてしまうのは否めない。
大学院の授業は講義というよりもどちらかというとディスカッション形式ものもがほとんどだ。
少人数で話し合う形態の授業は眠くならないし、盛り上がれば楽しい。
しかし、学生と話していて「物足りなさ」をどうしても感じてしまう。
その原因は何なのだろうか?どうすればよいのだろうか。

1、ストレートマスターにとっては、現職教員の実体験やスキルを聞くことに関心があるため、そもそもディスカッションにならない(Q&A形式になってしまう)

2、授業内容や、ディスカッションが、現職教員の実体験やスキルを上回ったり、クリティカルに捕らえなおすような視点までにはなかなかいかない。(お互い遠慮している?)

3、大学教員も、現職教員の知見をひっくり返すようなことよりは、むしろそれを顕彰していて、ストレートマスターに学ぶように仕向けている。

4、現職教員にとっては、自分の「成功談」をドヤ顔で話すカタルシスは得られるかも知れないけど、それ以上の学びがなかなか得られない。

現職教員である私の立場にしてみれば、そういう状況であっても、謙虚に、かつ貪欲にダイアローグして学び取るくらいの構えが必要なんだろう。
しかし、だからといって、どうやってこの現状を打破していければいいか、いまのところよくわかっていない。
ストレートマスターも、現職教員も、大学という学問の府であれば平等だ。(私はそういう感覚で参加している)こちらがドヤ顔で話すものいやだし、学生に「ごもっとも」と感心されるのも本意ではない。
もっともっと自分の現状を否定し、更新していきたいだけなのだ。

2013/11/08

「古典」の価値を見いだし、継承していく「人」を育てる視点としての古典教育のあり方

 中学校三年間の古典学習は、古典に触れ、それを楽しみ、そして親しむステップをたどる。
義務教育の古典学習のゴールは、学習者が、与えられた「古典」を、教師によって決められた解釈に沿って理解するのではなく、自らテキストの価値を見いだし、自分にとっての「古典」(価値あるテキスト)としていくような古典学習のプロセスをたどらせることができれば理想である。
 現在日本に残る「古典」は、何らかのきっかけで、そのテキストを価値あるものとして認めた「人」の存在があったからこそ、時代を超えて継承されてきたものなのである。「古典」の価値を見いだし、継承していく「人」を育てるという観点からも、自らの手でテキストを解釈し、自分なりの観点でその価値を引き出し、その価値を多くの人とともに分かち合うような力を養いたい。

 中学、義務教育で学ぶ古典学習のゴールをどこにおくか、やはり、生涯学習の視点は欠かすことができないできないだろう。 
 古典こそ長い人生で熟成させ、ちびちびと味わえるウィスキーのような存在なのだ。子どもにその味がわからなくても、大人になれば、きっとその味が理解できる時が来る。 だから、最低限、どんなお酒があって、どのような楽しみ方がある。どうすればそれにアクセスできるか、という理解をさせることは必要だろう。 さらには人生で長く味わっていける銘酒をおのおのに持たせることができれば理想的だ。 
 古典の種類、作品名、時代背景と時代の主潮、大まかな内容、古文の読み方(辞書、脚注、ネットなどを駆使し、何とか自力で読める方法を知る)、 心にとめておきたい名文を持ち、ときおりそれを愛でる……。

古典文法をちまちま学ぶことが古典嫌いを量産しているのなら、いっそのこと古典文法には一切触れないで現代語訳などを併用して古典に親しむほうがよっぽど日本人の教養教育としては意義があることだと思う。
ちなみに、これは古典ファンを育てて増やすための方策です。古典のプロを育てるための方策はまた別。



校内研修・校外研修のそれぞれのメリットととるべき視点

教師の力量を高める研修の本来的な矛盾
・誰かが取り組んだすばらしい実践を、この自分ができるわけがない。
(教師の身体性とかキャラクターとかスタイルの壁)
・他の学校(クラス)で通用したすばらしい実践が、この学校(クラス)でできるわけはない。
(生徒の実態が共有できないという壁)
この2つをどのように乗り越えていくかが、研修の課題である。

校内研修のメリット・デメリット
よくとられている方法
校内で教材研究したり、授業を見あったり、特定の生徒について事例研究をしたりする。

メリット
・「生徒の実態が共有できないという壁」がほとんどない。お互いに実態を理解し、共有しているため、同じ生徒を前にした自分の授業や実践に生かしやすい。
・同僚生が高まり、協働意識が生まれる。
デメリット
・すぐれた先生や意欲が高い先生ばかりではない
・同一の教科や専門の先生が少ない
・そのため、学校の実態に即した研修はできるが、視野が狭くなる危険性もある。

校内研修でとるべき視点
生徒の実態を共有しているという強みを最大限に活用すべきだ。
たとえば、私が教えているこの生徒たちを、他の先生はどんなアプローチで攻めるんだろうか?
という視点で学んだり、
私が日々接しているこの生徒たちを、他の先生はどう観察し、どんな良いところを見つけているのだろうか?
という視点で生徒理解を深めたり、生徒の見方を学んだりするのである。

校外研修のメリット・デメリット
よくとられている方法
・講義式で最新の理論や情報を知る伝達型の研修
・優れた実践者の取り組みを知る研修
・自分の実践を振り返ったり、お互いに交流し合う研修

メリット
・いろいろな理論や、すぐれた先生のノウハウを学ぶことができる
・同一の教科や問題意識を持った人と交流することができる
デメリット
・自分の勤務する生徒の実態や、自分が取り組みたい問題意識が、必ずしも他の人と共有されているわけではないから、「どうせうちじゃあ無理だな……」とか「これは今自分には必要ないな」となってしまう
・研修内容が他人事になってしまったり、文科省の伝達講習のような形式的なものになってしまい、リアリティーを欠いてしまう。

校外研修でとるべき視点
・伝達型の研修は必要だろう。しかし、それ以上に必要かつ有効なのは、それぞれの先生方が知恵を集めるワークショップ型の研修だ。
すごい先生のやり方がそのまま自分に通用するとは限らない。
むしろ、いろいろな経験やスタイルやスキルを持った先生方の、いろいろな攻め口を交流し合い、シェアしていくことの方が有益なのではないか。
微細な授業スキル、教育方法、教育理念、そして教育観などを交流し合う場を設定する。
多様なスタイル、手法を交流し合う場を設定できればその中のいくつかは自分にもヒットするだろう。
とともに、自分の実践を他者に言語で表現することを通して、日常の実践をリフレクションする機会が得られるだろう。

生徒の学ぶ意欲を高めている授業とは?

興味付けとか、動機付けとかのために、いろいろなネタを繰り出したり、おもしろおかしく興味を引く取り組みはもちろん大切だろう。それが得意な人はどんどんその持ち味を出していけば良い。
しかし、より本質的なのは、生徒の意欲がそれほどないときでも、そこそこ授業ができるような状態にすることではないのか?
(生徒がつねにベストコンディションなわけではない。誰かとケンカした後だったり、気分が優れなかったり、プールの授業の後だったり??していたら、どうして勉強をする気になるだろう?)
学習意欲を「火」にたとえるならば、常に燃料を補充し、空気を送ってやらないと燃えないような頼りない「火」ではなく、「炭火」のように、多少風が強くても、放っておいても、つねにじりじりと熾き(オキ)が燃え続けるような状態こそが「学ぶ意欲」が高い状態とは言えないだろうか。

教育実習生に見られがちな「個に応じた指導」のジレンマ~私の机間指導論~

個に応じた指導をするための基本は「見る」こと、そして「待つ」ことだ。
実習生に授業をしてもらうと、「見る」「待つ」ということがあまりできていない傾向がある。
自分のペースで、生徒の反応も見ずにがんがん進めてしまったり、課題の内容が生徒に十分伝わっていないのに、それに気づかない状態のこともある。

そんな実習生には、次のように助言をしている。
指示をした後、全員が作業に取りかかっているかどうかを、まずはその場を動かずに、黒板に張り付いて全体の反応を見ること。
全体へのアセスメントができてから個別の指導に入るようにすること。
個別指導は「トリアージ」のように必ず優先順位を考えてすべし。

個別の指導をするためには、まずは全体をよく見て、誰がどのレベルでつまずいているのかをチェックすることが大前提だ。
実習生にありがちなのが、課題を指示した後にすぐに机間指導をはじめてしまうこと。
全体に課題が「入って」いるかどうかを確認せずに、個に向かってしまう。
机間指導にも「トリアージ」のように「救出」する順番がある。
まずは、他の生徒を邪魔する生徒を押さえ、
何をやるか課題内容がよくわかっていない生徒に対して、やるべきことを伝える。
こうして、全員を学習のレールに乗せる。
そのあとで、ちょっとアドバイスすれば自分ですいすいできるような生徒を先に指導してしまい、
最後にかなり指導しないとできるようにならない生徒にたっぷりと支援をする。
能力が高い生徒で、課題をすぐに終わらせた生徒には、発展的な課題を用意しておく。
このように、個を指導する時も、つねに全体とのバランスを考えて行動をしなければいけないのだ。



2013/11/05

「理科離れ」対策のための取り組み試案

問題の所在
そもそも「理科離れ」ってどんな現象?
・大学の理系(理工学部)志望者の割合が減少している。
(大学全入時代だからなあ……中途半端な文系大学は山ほどありそう)

・「理科が好き」「理系の職業に就きたい」という意識が国際的に見て低い。
とくに、小学校段階では理科は楽しいといっている子どもたちも、中学、特に高校入試を控え、暗記中心の勉強になったとたんに嫌いになる生徒が増えるそうだ。(そのへんは何となく私にも実感あり)
各種調査から、この二つの減少は客観的に明らかになっている。

「理科離れ」の根底には、日本の産業構造の変化もある。
日本の高度成長を支えたものづくり、工業化社会から、サービス業や情報産業などのポスト工業化社会へ。(東南アジアなどに移行している)
理系の就職そのものが減ってきている。かつてほど、理系へのインセンティブがはたらかないという点を指摘している人もいる。
国際競争力をつけるために、高度経済成長時代のように、ものづくりで国づくり! 一位じゃなきゃダメなんです! という人たちが言い出したのが「理科離れ」の言説の正体なのだろう。

それでは、理科教育を改善するためにはどのような視点と取り組みが有効なのだろうか?

Ⅱ そのための対策のポイント
「理科離れ」が果たして本当にあるかどうかはおいといて、理科教育のターゲットを次の3つのフェーズでとらえたらどうだろう。
「理系のプロ選手」育成のための理科教育。
「理系のアマチュアプレイヤー」育成のための理科教育。
「理系のファン」育成のための理科教育。

野球で言えば
プロ野球選手と、草野球をしているおじさん、そして球場に行ったりテレビを見たりして野球を応援しいるファンと、この3つの層だ。
ファンやアマチュアの層がプロ選手を支える構造だ。
これは理科に限らず芸術などあらゆる分野で使える視点かもしれない。


理系に対するファン層を拡大しつつ、理系のエキスパート(エンジニア、研究者)を増やしていく取り組みが求められる。
そこで、学校教育段階ではどんな取り組みが可能だろうか?

取り組みⅠ 「科学者」に焦点を当てた「人物科学史」の授業
・科学を進展させた「人」のライフヒストリーと業績をドラマチックに描く。
・科学者の生き方に対するあこがれを喚起する。
・「科学者が目指したものを理解し、それに興味を持った上で、基礎的な科学知識を深めていく。
(「夢の扉」「情熱大陸」のようなドキュメンタリー仕立てで)
「科学者になってみたい!」「科学者ってカッコイイ!」と思ってもらう!

取り組みⅡ 「自然科学入門」
・理科の基礎、基本的な法則を楽しく学ぶことが目的
・科学的なものの見方や思考法を学ぶ。
・そのために、身近で手軽に取り組める実験が中心。
・煩雑な計算や用語の暗記などを極力使わない。
(「すいえんさー」のようなバラエティー仕立てで)

実験例    
  文房具を科学しよう……はさみ、万年筆やボールペンなどの仕組みを学ぶ。
  調理器具で学ぶScience……鍋ややかん、冷蔵庫などを使って楽しく物理実験!
  身近な機械を壊してみよう……時計やテレビ、自動車などを壊して戻す。
    
取り組みⅢ サイエンスSNS「生き字引くん」
・プロとアマチュアをつなぐ、理系「クックパッド」のようなSNS
・私はこれが研究テーマです。
 こんな文献を読んで調べています
 こんな実験結果がでました。などをネットアップし、シェアし合う。
・自分の研究テーマに近い人や、同じ文献を読んでいる研究者を知ることができる。
・たとえば、このSNSがあることで、
 「クワガタなら隣のクラスのあいつに聞け」とか、
 「その研究テーマだったらこんないい資料あるよ」とか、
 「それだったら、こういう実験手法をとるといいよ」というようなコミュニケーションが活性化されていく。(校内、校外に順次拡大していく)
・その研究ネットワークに、プロの研究者や、アマチュア研究家などが関わっていく。
(「Mendeley」のような研究プラットフォームのイメージ)
学校内、学校外で、興味のある人が、興味のあることをとことん追求できるSNSを作成するのだ。


追伸、
科学=自然科学とは限らないはずだ。自然科学、社会科学、人文科学などなど。
科学とは、問いを持って合理的に現象を理解する、という謂だと思う。
そう考えると、学校教育を通して養うべきことの一つは、さまざまな教科の学習を通して「科学的な精神」を身につけることであることは間違いない。(それが学校教育のすべてとまでは言わないが)

科学的な知識を身につけることをもちろん軽視してはいけないけれども、「科学」そのものを体感させるような学習こそ、科学教育の根幹に置くべきものなのだろう。

2013/11/01

理想の「研究授業」の4タイプ 論理・創造・批判・感性

教師の研修の機会として、研究授業を行うことは一般的によく行われていることである。
校内で授業研究をしたり、地域の研究組織で代表として授業をしたり、あるいは、熱心に研究に取り組む学校とか、研究指定などを受けた学校にいる場合は、学校全体が公開研究会を行って授業研究を行う場合もある。
「研究授業」を行うことは、教師にとってどんな意味を持つのだろうか。
日常の授業実践と、質的にどのような点が異なるのだろうか。
私の周りの狭い経験の中に過ぎないが、感じたことを記しておく。

多くの場合「研究授業」とは、学習指導案を精密に書くこととセットである。
研究授業といっても、ただ授業を見せて終わりというわけにはなかなかいかない。
授業を行う前に事前に学習指導案(指導案)をみっちりと検討することになる。
「研究授業=指導案づくり」といっても過言ではない。
指導案を書く前に、教科や学校ごとに研究主題を立てて、その主題を反映させた授業をすることが求められる。
もちろん、現行の学習指導要領や、地域など教育課題を踏まえることも重要なポイントとなる。
そのため、このタイプの研究授業では、次のような労力がそがれることとなる。
・学習指導要領の趣旨に沿った授業だろうか?
・最新の教育理論を反映させたものとなっているだろうか?
・研究主題との関連性はどうか?
・用語などで不明瞭なところはないだろうか? 飛躍や言い過ぎている表現はないだろうか?
・評価規準が曖昧ではないだろうか?
などなど。
このタイプの研究授業で必要な能力は「精密な指導案を書くこと」である。
やや過激な言い方をすれば、いい指導案さえ書ければ、当日の授業が多少ぐだぐだでも「実は指導案ではこうなっていたんです……」と言い逃れができる。
ここでのいい指導案とは、
ねらいとか、学習活動とかがすっきりと筋が通っている。
生徒の実態を的確につかみ、それを文章化している。
研究主題との整合性もぴったりだ。
などの要素を含むものである。

この、「指導案作成重視」の研究授業(あえてこう呼ぶが)の授業者にとってのメリットは、
授業の構造を明確に文章で説明するための論理的な表現力が身につくこと。
学習指導要領の趣旨の理解や、最新の教育課題について、一定の見識を身につけることができること。
などがあげられるだろう。
しかし、デメリットもある。それは、
つじつま合わせの作文能力だけが身について、指導案を実証するアリバイづくりのための授業に意識が向いてしまう。
指導案に縛られて、授業で最も重要な、子どもとの相互作用や、「勘」のようなものが犠牲になる危険性がある。
自由な発想よりも、学習指導要領などで要請されてる事柄に縛られてしまう。
そのため、研究授業の成果が、日常の授業にあまり生かされなくなってしまう。
このような、日常よく見られる研究授業を、A「論理型」研究授業と名付けよう。
感性や自由な発想よりも、指導案の「論理」が優先するという理由である。

わたしはかねてから「指導案検討重視の研究授業」で本当に良いのかという迷いがずっとある。
もっと実践的な授業力を伸ばす研究授業ができないものだろうかとあれこれ頭をひねっている。
そこで、指導案検討重視の研究授業を克服するための研究授業のプランを3つほど提案する。
創造型・批判型・感性型である。
下手な鉄砲も数打ちゃ当たるということばもあるし、3つも代案が出せれば十分だろう!?

B「創造型」研究授業
A「論理型」研究授業ではとらえられない、自由な発想を奨励するために、次のような「創造型」研究授業はどうだろうか?
・指導案は書かず(書いても書かなくても、重視しない)それぞれの自由な発想が発揮されることを奨励する。
・大まかなテーマを決め、それに対する多様なアプローチを模索する。
(たとえば「思考力」とか「読書活動」という大まかなキーワードだけ示し、それについて迫る授業を各自で考えて実践する)
・事前の指導案検討はしない。
・それぞれが授業をしてみて、それを見た参観者が、授業者のどのような発想が感じられたか、どんな気づきが得られたかを交流し合う。(唯一のアプローチを生み出すのではなく、多様な解決策の選択肢を増やすことをねらいとする)

C「批判型」研究授業
現行の学習指導要領や、最新の教育理論を批判的に検討するための研究手法。
次のような流れで行う。
まず、文科省や有名な実践家の授業実践などを校内研究で詳細に検討する。
それらの実践の良いところ、課題を挙げる。
その上で、それとは別のアプローチの授業案を各自で(またはチームで)考える。
批判的に検討するところまでは、校内でがっちりと行い、それへの代案については各自の裁量で取り組むことを求める。
Aの論理型の研究授業では、文科省や有名な実践家の実践をそのまま模倣するパターンが多いが、あえてその問題点を考究し、代案を考えるというスタンスで行う研究である。(相当頭を使うけど、きっといろんな発想が生まれて楽しいかも)

D「感性型」研究授業
授業行為における、論理以前の感性について検討するための研究手法。
やり方は簡単!
とにかく、授業を2人でやってもらうことにする。(同時間、同クラスの授業で)

2人でコラボして授業プランを考える。
指導案は書いても書かなくても良い。
漫才の掛け合いのように相互で役割を決めても決めなくても良い。
ともかく、2人で授業を行う。
T1とT2のようなどちらかが補助の形ではなく、なるべく対等の立場で授業に関われるようにする。
授業をしてみて、お互いが気づいたこと、子どもの見え方を述べ合う。
(2人の授業に対する構えや、見え方を交流するのである)
斎藤喜博の介入授業みたいな感覚?
ジャズのように即興的な対応ができればとても楽しい授業研究になるはずだ。
詳細な打ち合わせなしで行き当たりばったりでやったらいったいどうなるんだろう!
この手探り感、両者の感性や授業観をその場ですりあわせていくことこそが、このタイプの授業研究の趣旨である。