2013/05/20

研究授業における「提案性」とは何か?

私の勤務する学校では,毎年、公開研究会が行われる。
私はすでに公開研究会で何回か提案授業をやってきたが、この提案授業のあり方について、毎年考えさせられることが多い。
一番本質的な疑問は、「提案授業で何を提案しているのか?」ということだ。


フツーの授業と提案授業の違いとは?
提案授業では「新しいこと、変わったこと」をやらなければいけない。
どんなに優れたよい授業でも、どこでもフツーにやられているようなありきたりの授業では「提案性がある」とは認められない。
ここが、日常の授業実践とは本質的に異なる部分なのだ。
日常的な授業実践であっても、研究授業であっても、目の前の子どもに対して質の高い授業を目指すことは当たり前のことだ。
日常的な授業実践では、提案性とかオリジナリティーは問題にならない。教科書通りにやった方が最善だと思えばそれをするし、どこかで学んだ授業法が最も適していると思えば、それを取り入れた授業をすればいいだけだ。
しかし、研究授業ではそうはいかない。従来の授業ではなしえなかった何かを問題提起し、それへの解決策を打ち出さなくてはいけないのだ。従来型の授業にはない、より「新しいく、変わったこと」をやらなければいけない。
「新しいこと、変わったこと」をやろうとするならば、フツーの授業よりもどこがいいのかを証明できなければいけない。でなければ、せっかくこちらが骨を折って準備しても、参観された方には「フツーの授業のほうがいいや」と思われてしまう。
フツーの授業には、やはり大勢の先生方が取り組んでみたくなるインセンティブ(動機付け)がある。(積極的にせよ、消極的にせよ)
それらをすべて受け止めた上で、それでもあえて一歩踏み出せると確信できた実践こそ「提案性がある」と呼ぶにふさわしい実践だろう。

研究授業の「提案性」とは何か?
たとえば、次のような要素があれば「提案性がある」と言っても良いのではと思う。
(これらがすべて含まれるわけではない、いくつか含まれていたり、いくつかは関連性を持ってつながっていたりするだろう)

A、問題・理念レベル
「何を問題にするか、なぜこれを問題にするか?」という問題そのものに対する提案
①いままでほとんど問題にされなかった点を提起している
②いままで気づかなかったメリットや欠点、構造を提起している
③時代の変化に伴って新たに生まれた問題を取り上げている
④従来の指導の常識を疑い、それを超えるための課題を提起している
⑤今まで無関係と思われてきた領域の知見を越境したり、関連づけたりしている

B、能力・学習内容レベル
「何を学ぶ/教えるか?」という教材や学習内容の提案
⑥学習指導要領や教科書には出ていない、新しい能力や学習内容、教材についての提案
⑦学習指導要領の趣旨に沿い、より適切、効果的な学習内容や教材の提案
⑧従来の学習内容や教材を、新たな枠組みや組み合わせ、順序づけをした提案

C、学習方法・ノウハウレベル
「どのように学ぶ/教えるか?」という学習(教授)方法の提案
⑨従来の学習方法を超える、より学力を効果的に向上させる学習方法の提案
⑩  同  、より簡便、効率的な学習方法の提案
⑪学習の質を高める、新たなテクノロジーや教育方法の開発

提案授業の一般性と特殊性の問題
提案授業を「だれでも参考にできるもの」にするべきか、それとも「誰にもできないような前人未踏のもの」にするべきかは難しい問題だ。
私が、研究授業を見に行く立場だったら「自分の教室で取り入れてみたい」と思えるような授業が良いに決まっているし、そうでない授業は無意味だとさえ思っただろう。
しかし、いざ研究授業を創る立場に立つと、それはなかなか難しい問題を秘めていることに気づかされるのだ。
まず、受け持っている子どもたちの実態が異なる(全国の学校の子どもの実態が一緒などということはそもそもあり得ない)
そして、教える先生のスタイルも千差万別だ。(たとえ同じ学校の同僚であっても、その人とそっくり同じ授業ができるだろうか?)
だから、これらの要因をすべて克服したうえでの「誰でもできる優れた授業」を提案することは、まるで両手を縛られた上で授業をするようなもので、なかなか簡単なことではないのだ。
「誰にもできる&提案性のある授業」を提案することは、私のようなフツーの教師にはほとんど絶望的な試みであるとも言える。
だから、これに関しては、私はかなり開き直っている。「自分にしかできない授業をやろう」と。その時の、自分の持てる力を精一杯出しきった実践を通して、メッセージを提案できればいいのだと。授業を見た方が「できるかどうか」は別として、問題意識やメッセージを共有し、「やってみようかな」と思っていただける程度の反響が得られれば万々歳だと思っている。